第21話 竜樹の祝福

 シルファラとユルグがいる場所は犇めく木々が身を引いたように開けた広場で、周囲を高々と巨木の群れが囲う。見渡す限りに生え立つ堂々たる佇まいは、いずれも広大な森の中にあっても錚々たる巨木であり、およそ霊木と呼んで差し支えない齢を感じさせる巨木達は天を突くように高く高く立ち生え、隆々と伸ばす枝葉に茂る深緑で天蓋を成している。

 だというのに、緑の屋根の下に陰るはずの地面一面には低木と柔草が敷き詰められ、むしろ淡く透き通るような碧緑に煌く。光満ちる空間では、そこかしこで空気が踊り、シルファラをして数多の精霊の存在を知れるほどだった。

 何故、という疑問は一瞬で晴れる。無知と言われたシルファラですら、本能で理解するほど、自分とは次元の違う、圧倒的で絶対的な存在がそこにはあった。

 一本の巨樹、と言ってしまえば、確かにそうだろう。けれど、あまりにもスケールが違った。空が落ちるのを支えていると言われても、今なら疑うことなく信じてしまえるほど。座り込んでいるとはいえ、見上げたシルファラの視界の殆どがただの一本の木で埋め尽くされるのだから。

「凄い………」

 素直な感嘆が口を衝いて零れる。ふと、思い浮かぶのはつい先ほどせせらぎの傍で割れた緑の淵に望んだ峰の連なり。シルファラはその元にいると知れた。

 陶然とする横で、ユルグがいまだ何事かを口にして、神妙な顔をしている。しかし、眼前には、超大な巨樹の根のうねりしかない。それとも、シルファラの目に見えない精霊のような存在がいるのだろうか?

「あの、ユルグ様………?誰とお話をされているのですか?」

 しばらく様子を見て、ユルグの口が止まったのを見て問う。

「黙れ、今伺いを立てている。ただでさえ無力で危険極まりないおぬしを外に放ろうというのだ。先行き構わず捨て置くならまだしも、不本意ながら可能性を見出したる器なれば無下にもできぬ」

 求めた返答は得られず、視線を振り目を眇めて気配を探ろうと耳を澄ませてみる。しかし、シルファラには清澄な空気と森の木々が微風に揺れるささめきしか聞こえない。それに、聞き流しかけたものの意味深なユルグの返答を思い返せば首をかしげるほかなかった。

「ふん、これだから無知で無能だというのだ。自分と異なる存在を認めることを知らぬ。目がなくては視れぬか?耳がなくては聴けぬか?頭がなければ識ることがないと思うてか?動けずとも彼方へ至る術があるといったとて、理解などできはしまい」

 困惑しきりの様子のシルファラに、嘲りの声が浴びせられる。不満を覚えるものの、確かに何もわかっていない以上、反論もできない。鼻先で笑っているのがわかる、と、唐突にユルグが目を見開いた。

「おぬし、枝はどうした!竜樹より授かりし、おぬしには過ぎたものぞ!」

「りゅ、じゅ………え?」

 枝と言われて、思いつくのは目覚めてから手にしていた杖のこと。ユルグに乗るまでは確かに手にしていたと思うものの、しがみついて振り落とされないようにするのに必死で、体が跳ねた拍子にでも落ちてしまったようだった。つまり、いつ落としたのかまるで分らない。恐らくは、早々に。

「………シルファラよ、おぬしというやつは、なんと………よもやそこまで戯けた輩であるとは思わなんだわ。わざわざ器に合わせて作り出されたというに………」

 ユルグが瞠目し、嘆息する。杖を落としてしまい、落胆させてしまっていることについては申し訳なさを覚えないでもないが、これはシルファラが一方的に悪いのだろうか、と思わないでもない。杖を保持する程の余裕を持たせなかったのはユルグであるし、シルファラにとっては目覚めた時に手近に転がっていた変わった形の木の杖以上の認識はなかった。何かあるのであれば、補足説明ぐらいはあってもよかったのではないかと思う。

 目の前の霊獣はとことんシルファラに対して、不親切で理不尽を貫いている。霊獣様とはいえ、あんまりの態度ではないだろうか。ユルグが先に言った通り、愚鈍なヒトの娘に過ぎないのだというのに。

「そんなこと言われましても………」

 諸々の想いが、思わず口を衝いて出てしまう。

 次の瞬間、たくさんのことが起きた。

 ユルグが激昂して身体を沈めた。猛るユルグを察してシルファラは身をこわばらせ、同時に内なる邪霊とやらが表層に出て荒事に備えようとした。ようやく追いついた大蜘蛛は拾ってきた杖を二人の眼前に放つと同時に樹上への離脱を図った。精霊姫は内と外の脅威に、慌てて口を出そうとし、風精を含むその他多くは、ユルグの激昂を察して退避やらなにやら行動を取ろうとし、出来ないものは、その場で固唾をのんだ。

 さらに次の瞬間、すべては動きを止める。一帯を揺るがしたのは、声ならぬ声の一喝。

 ユルグは居住まいを正して首を垂れ、大蜘蛛はその場に着地して脚を畳み、精霊姫は口を噤み内へと隠れ、精霊たちは静かに控え、シルファラは委縮し、そして、邪霊は光を見た。

 本当に光を放ち輝いてはいなかったろう。けれど、光とは必ず目で見るものでもなかった。眩しく、温かく、全てを照らし出す存在がそこにはあったのだから。

 ユルグたちが竜樹と呼ぶ大樹が、場の全てを支配し、そして見通していた。

 照らし出された邪霊の存在を、シルファラは初めて明確な意識の下に認識した。ユルグも邪霊が表層であらわになったことに気付いているようで、首を垂ながら、横目に凄まじい敵意をこめて睨みつけている。

 周囲の全てが傅く中、何故かシルファラと邪霊だけが柔らかく照らし出され、動くことを許されていた。

 いつの間にかシルファラの前には竜樹の枝が現れ、手を差し伸べれば届く距離で静かに浮き立っていた。

 目をしばたたかせていると、眼前で、杖が捩るようにゆらりと揺れて催促する。

 シルファラの身体を借りて邪霊が恐る恐る手を伸ばし、竜樹の枝を掴む。瞬間、光が収束した。緑翼の傘下に竜樹の杖は温もりを帯び、手にすればあたかも失われていた半身を得たかのような充足感が胸を満たす。同時に、流れ込むのは、言葉を紡ぐことない語り掛け。

【哀れな只ビトよ、異邦の来訪者よ。森外より来りて去る、混迷の一柱に望みをかけよう。

 汝らに授けるは一条の導、災いを払う一枝、我が分け身。

 共に今一度天地を渡り、影を払い巡りて、世界の果てへ、また果てへ】

 語り映し出されるのは、一面真っ青な空と海。黄昏に染まる尾根。地平へ融ける平原。どれも見たことのない、未踏の風景。今や届かない、果ての景色。何れも絶景。しかし、どこか陰り、色あせて、滲んで霞んでいた。

 羨望と切望が胸に沸き立つが、覚えのない感情に理由がつけられない。誰とも判別がつかない、ヒト一人の胸に収まりきらない感情の波濤に打たれ、しばし陶然とする。

 光と共に手中に杖が収まると、余韻に浸るシルファラの目を覚ますように、ざざざざざざざ、とざわめきの渦が起こり、一帯の霊樹、巨木が幹を揺らした。

 まるで森が一体の巨獣となり身を揺すったかのよう。けれど、風もなく揺れ続ける草木の音は決して不快ではなく、威圧的でもなかった。

 森の中で異端であるはずの、邪霊を宿したヒトを受け入れ、更には旅立ちの祝福を願う超大な意志にいつの間にか頬を伝うのは、涙だった。

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LOS 猪熊狐狗狸 @silver-candle

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