第20話 森で・5
気づけば、シルファラはいつの間にかしりもちをついて正面から巨狼に見下ろされている形になっていた。眼前に迫る前脚を前に意識が遠のき、何かを口走った気がしたけれど、まるで覚えていない。
邪霊に体を奪われたのかと思ったものの、露骨なまでに敵対心を露にするユルグを前に五体は無事だった。しかし、ここ数日顔を合わせていた灰狼は渋い表情を浮かべ、暗澹とした空気を纏って思案しているようだった。全てを見下ろす不敵な姿以外、初めて見る様相に知らず失言をしてしまったのではないか、と身をこわばらせていると、
「………乗れ」
唐突にユルグが脚を畳んで地に伏せた。
「確かに万全でない邪霊を下したとて、留飲を下せまい。いずれ互いが万全の折、全霊をもって砕き潰すとしよう」
ぶっきらぼうに、そっぽを向いてユルグが言い捨てる。突然の豹変に全く理解が追い付かずに目を白黒させていると、
「乗れと言っておろう!咥えて運んでもよいのだぞ!」
「は、はひ!」
激昂し鋭い牙をむく巨狼に従って、恐れ多くもよじ登る。機を得れば勇んで飛び交ってくる強大な捕食者の歯牙に誰が好き好んで身を掛ける選択をするというのか。
シルファラが背に乗ったとみるや、ユルグがすっくと立ちあがり、そのまま四肢を駆って駆け出した。一陣の灰風が突き出す枝葉を潜り、低木を跨ぎ、流水を飛び越えて、木々を揺らして緑を穿ち行く。怒涛の勢いで緑が流れていくが、シルファラは周りを見渡す余裕など微塵もなかった。
乗る前から察してはいたものの、欠片も気遣いの感じられないユルグの疾走に、それこそ命懸けでしがみついていたのだ。地を蹴る度、毛皮の下で躍動する筋骨が、シルファラの身体を衝撃で浮かせ、うっかり掴んだ二房の毛から手が離れれば、天地なく目まぐるしく流れる緑に転げ落ちるとなれば、微塵も生きた心地がしない。
しかも、てっきり例の洞窟に向かい早々の到着を想定していたというのに、ユルグはしばらく走っても勢いを落とす様子が感じられなかった。
「あ、あの!うぐっ、ど、どこへ!?落ち、落ち、む!」
それこそ死に物狂いで、問いを投げかける。
「黙るがいい」
すげない返答に、絶望を覚える。けれど、必死の呼びかけのおかげか、ユルグ自身の言うところの脆弱な存在であることを思い出してくれたのか、僅かに勢いだけは落としてくれたようだった。一瞬たりとも気の抜けないことには、変わりなかったが。
やがてユルグが足を止め、「降りろ」と言い放ったとき、初めて気持ちが通じ合った気がした。これ以上背中に乗せていたくないユルグと、早く地面におりたいシルファラとで。命ぜられるまま、感覚を失って震える両手をほどき、存分に堪能した毛皮を伝ってずり落ちる。待望の流れない緑は、無様に転げ落ちた身体を優しく受け止めてくれた。
頭上で、嘲りの鼻息が聞こえたが、今はそんなことはどうでもいい。足長の柔草が頬を柔らかく撫で、地に伏せり転がりながら、改めて生を実感する。
―――あぁ、生きてるって、地面って素晴らしい………
そんなシルファラをよそに、ユルグが数歩足を進め、何事かを語らうのを聞いた。険の取れた口調から、明らかにシルファラに向けられたものではないことをぼんやりと感じ取りつつ、僅かな時間惚け………勢いよく跳ね起きた。
いったい誰と話をしているのか。
上体を起こしたシルファラの肩ほどまでに茂る柔草の揺れる向こうに、灰狼が座しているのが見えた。目線はやはりこちらに向かうことなく、やや上方に向けられている。目線を追って顔を上に向けた時、一帯に光があふれていることに気付いた。
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