第3話 禍石 -黒-(完)


「何かあったのかな?」


コンビニで夜食を買った帰り道、ふと通りがかったアパートの敷地内に、複数のパトカーや警官が集まっている。

黄色いテープで封鎖された庭では、タクシーの運転手のような男性が、半泣きで警官に何かを話している。


青年は、特に関心を示そうともせず、その前を通り過ぎた。


「あれ?」


ふと、歩みが止まる。


青年は、電柱の街灯に照らされて輝いている、艶のある不思議な石を見つけた。


「へぇ、何だろうこれ。綺麗な石だなぁ」


それは真っ黒な球体で、中心部に金色の輝きが覗く、とても美しい石だった。


その不思議な美しさに魅入られ、青年は、石を上着のポケットに放り込んだ。



青年の名前は「凪(なぎ)」。

ペンネームでもなければHNでもない、れっきとした本名だが、本人はあまり好きではない。


しかし彼にとって、もはや名前など、どうでもいい事だった。

何故なら、もうすぐこんな名前とも、おさらばなのだから――



一人暮らしのアパートに戻った青年・凪は、袋の中から夜食のおにぎりとカップ麺を取り出し、お湯を沸かし始める。

待っている間に、六畳間の端に置かれた小さな机に向かい、使い古しのデスクトップパソコンを立ち上げる。

お湯が沸く頃には、起動も安定しているだろう……と、そのくらいスペックの低い機体なのだ。

凪は、脱いだ上着のポケットから零れ落ちた黒い石を取り上げ、机の端にそっと置いた。


「おっ、意外と安定するんだな」


まるで接着剤で固定したかのように、ちょこんと止まった石を見つめ、凪は思わず笑顔を浮かべた。


カップ麺とおにぎりを適当に食みながら、凪は、特に目的もなくインターネット閲覧を行う。

匿名掲示板、ツイッター、SNS、まとめサイトなど、一箇所に留まることなく、無気力に、次々とページを切り替える。


(こんなどうでもいい時間を過ごすのも、あと僅かなんだなぁ)



凪は、余命いくばくもない身体だった。


所謂、末期症状に至ってしまった治療不可能な病気で、残された時間はあと三ヶ月しかない。

自身の死を目前に控え、凪は、もはやあらゆる物事に対する気力を失っていた。


天涯孤独な凪は、自分の余命が判明した後、仕事を辞めて貯金を全て下ろし、残された日々をだらだらと平穏に過ごすことに決めた。

何故なら、それが自分の長年の願いでもあったからだ。


誰にも看取られることはなく、また、誰にも悲しまれることはない。

かなり住み良い会社の寮を出た後、あえて築年数の古い安アパートに移り住んだのも、自分が孤独死した時にさぞお似合いだろうという、自虐的な気持ちから来た判断だった。

大家と不動産屋にとっては迷惑この上ない話だが、死に行く運命の者にとって、そんなことはもはやどうでも良かった。


それまで、人生の時間の殆どを仕事に費やし、自分のための時間など全くなかった凪にとって、こんな無意味な生活でも、充分な喜びに通じていた。


時折訪れる発作さえ乗り切れば、通常の生活に特に支障がないのも救いだった。

特にやりたいことはない。

ただなんとなく、静かで自由な生活を、一人だけで堪能したい。


それだけが、凪の望みだった。



適当にネット閲覧を済ませ、何となく眠くなったら、敷きっ放しの布団に潜り込み、好きな時間までぐっすり眠る。

それが、凪の日常。


午前三時を回った頃、凪は、おおきな欠伸をした。



その晩凪は、夢を見た。


それは、昔の記憶の再現。


数年前、唯一の家族だった妹「藍(らん)」を失った時の想い出だった。


藍も、凪と同じ病気を患い、彼よりも短い余命宣告を受け、静かに散った。


凪が、自分の余命宣告を妙に平静な気持ちで受け止められたのには、藍の死因が深く関わっていた。



そうか、俺は、あいつと同じ病気で死ぬんだ。


じゃあひょっとしたら、あの世であいつに、また逢えるかもしれないな――



病院のベッドの脇に立ち、心電図が一本の線を示した瞬間を見た時の、絶望的な気持ち。

どんどん血の気が引いていき、青白くなっていく妹の肌に気付いた瞬間の、たとえようもない喪失感。

まるで、世界が消えうせる瞬間に立ち会ったかのような、あまりにも辛すぎる現実。


もう何度も夢で見た筈なのに、気付くと、また枕を涙で濡らしている。

その朝も、凪は、自身の頬に滴る雫の冷たさで目覚めた。


「藍……会いたいな」


涙の痕を掌で拭いながら、静かに呟いた。





その日、絶好の晴天に誘われ、凪は散歩に出かけることにした。


季節の割にはとても暖かく、日差しも丁度良いくらいで、空気すら新鮮に感じられる。

まだアパート周辺の環境に慣れていない凪は、この機会に、辺りを散策してみることにした。

今までそんな気持ちになったことなど全くなかったこともあり、凪はとても不思議な気持ちに包まれていた。


一時間ほど無目的に歩き回り、新しい公園、新しい喫茶店、面白そうな古書店を発見した凪は、初めて入るコンビニで昼食の弁当と飲み物を購入すると、アパートに戻る事にした。


だが――


「困ったな、帰り道……どっちだったっけ?」


完全に、迷ってしまった。


凪は、携帯もスマホも持っていない。

否、正しくは、引越しの機会に全て解約したのだ。

かつて多忙を極めていた彼の携帯には、仕事関係の連絡が四六時中かかって来た。

退職後も、かつての同僚や後輩から問合せや確認の連絡が容赦なく飛び込んで来ていた程だ。

一人で自由気ままな生活を楽しむため、通信ツールは自宅のネットのみ、と決めた凪だったが、さすがに今回は後悔せざるをえなかった。


「参ったなぁ……マップ確認出来ないのが、こんなに不便だとは」


更に一時間ほど彷徨い、空腹に負け、やむなく適当な公園で買った弁当を食べることにする。

公園の敷地の端にあるベンチに座り、弁当の蓋を開けた時、どこからかピアノの音が流れて来る事に気づいた。


(ああ、綺麗な音色だなぁ。

 ――そういや、ピアノなんてじっくり聴いたことなかったな)


弁当をゆっくり食べながら、凪は、ピアノの音色に耳を傾ける。

ピアノの技量の高低など知る由もないが、凪にとって、そのピアノは何よりも優れた美麗な楽曲のように感じられた。


(まさか、よそ様の家から聞こえるピアノで、感動を覚えるなんてなぁ。

 どんな人が弾いてるんだろう?)


ふと湧いた好奇心に煽られ、凪は、食べかけの弁当をベンチに置いたまま、ピアノの聞こえて来る方向に歩いてみた。

公園からそんなに離れていない所のようで、敷地から出ることもなく、その家はあっさりと特定出来た。

だが、窓は開いてはいるものの、中の様子までは窺えない。


(まぁ、そりゃあそうか)


凪はふっと鼻で笑い、ベンチに戻ろうとする。

その時、ピアノの音が止まった。


あれ? と思い振り返った凪の視界に、一人の少女の姿が映る。

それはまさに、先ほど探り当てた窓。

綺麗な長い黒髪をたなびかせた少女が、窓を閉めようとしたのか、こちらに顔を向けた。


その顔を見た途端、凪は、思わず声を上げた。


「ら、藍?!」


「えっ?」


「――って、え、あ! いや……」


「……?」


凪と少女の目が合う。

その少女は、あまりにも、亡き妹・藍にそっくりだった。

否、そっくりなどというレベルではない。

凪の記憶の中に生きている、あの元気だった時の藍そのものが、見知らぬ家の窓の向こうに居る。

ありえない事だとわかってはいるものの、さすがの凪も、動揺を隠すことが出来なかった。


「し、失礼しました! 知り合いにすごく似ていたもので、つい」


「そうなんですか? びっくりしましたよ、いきなり呼ばれたから」


「ほ、本当にすみません! あ、あと、ピアノ、お上手ですね!」


「え? あ、やだ、聴いてらしたんですか?」


「はい、さっきからずっと」


懸命に平静を装おうとするが、自分でもありえないくらい、動揺が表出する。

その少女は、姿だけでなく、仕草、声までもが、藍と寸分違わない。

まさに、妹が生き返ったようにしか思えないくらいだ。

こんな奇跡的な出会いが、果たしてありうるのだろうか?! と、凪は何度も脳内で自問自答を繰り返した。


「ピアノ、まだ練習中なんですよ。コンクールが近くて」


「そ、そうなんですか! 充分凄いと思うけどな~」


「ありがとうございます……

 こんなもので良ければ、もう少し弾きますけど……」


「ああ、それは是非! 聴いてみたいです!!」


「ありがとうございます! なんか、練習に気合入りそうです!」


そう言うと、少女は可愛らしい笑顔を浮かべ、ペコリと会釈すると部屋の奥に戻って行った。

窓は閉められなかったため、またすぐ、あのピアノの美しい旋律が聴こえて来る。


凪は、弁当のことも忘れ、ただその場に立ち尽くし、全身全霊を以ってピアノの音色に耳を傾けた。




ピアノの練習は、その後三十分ほども続いた。

恥ずかしそうに窓から顔を覗かせた少女に、凪は、心からの拍手を贈った。


「凄いよ、とっても上手だった! 聞き惚れてたよ!」


「ず、ずっとそこで、聴いてくださっていたんですか?」


「う、うん! ……ごめんね、なんか変だね俺」


「い、いえ、そんなことは――」


「すごく気合を感じたよ。本気で頑張ってるんだね」


「ええ、とても難しいコンクールなんです。

 昔、お姉ちゃんが入賞出来なかったんで、私が代わりにって思って」


「そうなんだ、なんだか、仇討ちみたいだね」


そこまで会話をしていて、凪は、重要なことを思い出した。


「あ、あの! ところで!!」


「はい? なんでしょうか」


「実は俺、道に迷ってしまって。

 すみませんが、道を、教えてもらえませんか?」


恥ずかしそうに頭を掻きながら尋ねる凪の姿に、少女は吹き出した。




少女はとても気さくな人柄で、すぐに公園まで出て来てくれると、自分のスマホで地図を参照させてくれた。


「なぁんだ! ほんの目と鼻の先だったのか!!」


「もしかして、引っ越してこられたばかりなんですか?」


「そうなんですよ、天気がいいからちょっと散歩を……と思ったらこれだよって」


「わかります! 私も、今日はいいお天気だからって窓を開けてて」


「ああ、それでピアノが聴けたわけか! じゃあ、迷って大正解だった」


「ウフフ、帰り道もわかったことだし、本当にそうかもしれませんね」


「ありがとう。とても助かったよ」


「良かったら、今度は迷わないで、この公園に来てくださいね?」


「え?」


「もし良かったら、また……聴いてください」


「いいの?! やった、それは嬉しい!」


「ウフフ♪ 聴いてくれる方がいると、練習にも実が入るんです」


「そういうことなら喜んで! 俺、ニートだから毎日でも来れるよ」


「え、そうなんですか?」


「あはは、仕事クビになっちゃってね」


「そうなんですか? 大変なんですね……」


クビというのは、勿論嘘だ。

まさか自分の病気のことを、初対面後まだ一時間も経ってない相手に語る必要もない。

そう考えられる程度の冷静さは、取り戻しつつあった。


「じゃあ、また来ます。本当にありがとう!」


「いいえ、お役に立てて何よりです」


「うん、それもあるけど、素敵なピアノを聴かせてくれたこともね」


「……(照)」


互いに深々と頭を下げ、それぞれの帰路に着く。

凪は、何年ぶりかに味わう清々しい気持ちに満たされ、いつしか足取りも軽やかになっていた。

あっさりと自分のアパートに戻れた凪は、玄関に入った途端、猛烈な空腹感に苛まれた。


「あ! 弁当……」


その直後、猛ダッシュで公園に駆け戻る青年の姿があった。





その日の晩になるまで、凪は、あの少女のことを幾度も思い返していた。

藍そっくりの少女……表情や仕草、声、その全てが凪の心を潤す。

まるで、愛する彼女が蘇ってくれたかのようだ。


(他人の空似なんてレベルじゃないよな、あれ。

 はは、死に際に、神様が願い事を叶えてくれたのかな)


そんな嬉しい出会いも、所詮はまもなく死に行く自分の運命を掛け合わせて考えると、大した意味を感じなくなる。


公園の彼女のことを充分に思い返した凪は、日課のネット閲覧をしようとして、卓上に起きている奇妙な変化に気付いた。


「あれ? これ、なんだ?」


変化は、先日拾ってきた不思議な光沢の黒い石に起きていた。


全体が真っ黒で、中心部に僅かな金色が覗いているデザインだった。

しかし今の石は、金の体積が増している。

二周りは大きくなった金の輝きは、これまでとはまた違った美しさを感じさせる。


(なんだろう? もしかして気温とかで色が変わるのかな?)


興味を持った凪は、ネットで該当しそうな商品を検索してみたが、それらしいものは全く見つからない。

デジカメで石を撮影し、それを画像検索にアップロードしてみても、似たような画像も引っかからない。

凪は、これはもしかしてとても希少なシロモノなのではないだろうか? と考え始め、少しでも手がかりになりそうな情報を求め始めた。


(そういや、こんなに一生懸命ネット検索するなんて、久々だなぁ)


気がついたら、日付が変わりそうな時刻まで検索を続けていた。

様々なキーワードで色々なページを調べ当て、内容を熟読したが、やはり情報は見当たらなかった。


そろそろPCの電源を落とそうと思い始めた頃、とあるブログの記事を探り当てた。



それは、五年前から更新が止まっている、とある女性の個人ブログだった。


その女性は、どこかで拾ったという「キレーな球」なるものの画像を上げていて、その特徴を細かく述べていた。

その「球」は、直径10センチほどの球体で、全体が赤色。

だがその中心部分だけは黒色になっていて、どの角度からでも黒い部分が見えるという特異な構造だという。

色こそ違えど、その特徴は、凪の目の前にある石と非常に良く似ていた。


読み進めて行くと、その石にまつわる日記が、いくつか発見された。

その女性は、仕事関係で悩みを抱えていたらしく、ある時期からその悩みについて半ば愚痴ともいえる表記が連発している。

だがある日、突然その悩みの原因が解消されたとのことで、物凄く喜んでいる内容の日記が目に止まった。


詳しいことはわからないが、仕事の障害になっていた取引先の担当者が急死したため、交渉事がやりやすくなったらしい。

その前の日記にも、その担当者と思われる人物に対する罵詈雑言が赤裸々に書き立てられていたため、凪は酷く驚いた。


しかしその後、その女性は仕事場で何か致命的なことをしでかしたらしく、自主退社させられる羽目に陥ったようだ。


ブログ主の女性は、しばらく無職生活を続けていたようで、その間もまたヘイトが溜まるような愚痴日記が続いている。

さすがの凪も、これ以上「石」に関する情報はなさそうだ……と思い始めた矢先、こんな日記に辿り着いた。



“この球、黒い部分が大きくなってることに気付いた。


 前は、こんなじゃなかったのに……なんだろう、ちょっと怖い!


 でも、これがあると、願い事が叶う気がするんだよね♪


 ジャジャーン! 実は私、この度再就職が決定しました★


 これもきっと、この球のご加護だよね♪”



日記に貼られた写真は、女性の右手に乗せられた「赤い球」。

だがそれは、もはや黒球と呼んでもおかしくない。

それほどまでに、赤い部分が少なくなっていたのだ。


それから数日後、女性の日記は、また内容が様変わりする。

新しい就業先で早速人間関係のトラブルに巻き込まれたようで、同僚に対する不満や悪口が羅列されている。

そして、最後には……


“あんな奴、死んじまえばいいんだ!!”


という一文と共に、またあの“限りなく黒に近い赤い球”の写真が貼られていた。



最後の日記は、同僚の突然死に対する内容だった。



“どうしよ、私、なんてことをしてしまったんだろう……


 願い事、本当に、どんどん叶って行っちゃうよ!


 でも、だからって、まさか本当に、こんな事になっちゃうなんて!”



ブログの更新は、ここで終了している。

最後の日記に貼られた画像は、携帯で液晶モニタを撮影したらしいもので、恐らくだが何かのニュース記事が表示されているようだ。


残念ながらその詳細はわからないが、それよりも目を引いたのは、その脇に置かれている――完全に黒へと変色した「球」だった。


「……」


凪は、机の上に置かれている石を、まじまじと見つめた。




その晩、凪は、凄まじい激痛に全身を苛まれ、激しく苦しんだ。

かつてから、時たまこういう発作が起きるのだが、今回のは特に強烈だった。

声も出せず、身体も動かせず、内部から耐え難いほどの痛みが止め処なく湧き上がってくる。

それは、凪に明確な「死」を感じさせるほどの、恐ろしい感覚だった。


明け方近くになり、ようやく痛みから解放された凪は、汗だくになった身体を起こすと、血走った眼で窓を眺めた。


青白い朝の光が、まるで天国からの招光のように思えた。


(これが、死の痛みなのか……? 俺、やっぱり、死ぬのか……)


今更ながら、凪の胸中に、死の恐怖というものが芽生え始めた。








翌朝目覚めた後も、凪は、迫り来る死の恐怖に怯えていた。


夜中の激痛はもうなかったが、その時に思い知らされた「死」のイメージが、それまで自分の考えていたものとあまりに違っていた。

そのギャップが、彼にとてつもない恐れを抱かせる。


今まで向き合う事を避けてきた事柄に直面させられた衝撃は、彼から全ての平静を奪い去って尚余りあるものがあった。


朝食も喉を通らず、晴天に恵まれた暖かな気候も、凪の心を癒すには力不足だ。

ネットで死にまつわる情報を貪るように検索し、頭にこびりついた恐怖心を少しでも払拭する手がかりを探してみるが、逆に、死のビジョンがより明確化するだけだった。


(――俺、このまま、一人で死んでいくのか?!

 いや、でもそれは、自分が望んだことじゃないか!

 とはいっても、でも、しかし……っ!!)


自分で自分をどうしたいのか、全くわからない。

気がつくと、凪はふらふらと、アパートの外に出ていた。



宛てもなく周辺をうろつき回っていると、昨日訪れた公園に辿り着く。

ふと耳を澄ますと、またあのピアノの音が聴こえて来た。

まるで、自分が来るのを待っていたかのような、そんなタイミングで鳴り出すピアノ。


凪は、まるで助けを求めるかのように、例の少女の家の窓を見つめた。

やがてピアノが止み、少女が顔を出す。

笑顔で手を振り、公園へ駆け足でやって来た。

その姿に、恐怖心が薄らいでいく。


「こんにちは! またお会いしましたね」


明るく微笑む少女は、凪の顔を見るなり、表情を曇らせた。


「あの……どうしたんですか? すごく、やつれてるような」


「え? ああ、これはその……

 き、今日も、ピアノの練習をしてたんだね?」


「はい、もしかしたら、お兄さんが聴きに来てくれるかなーって」


「あ、ああ……」


いつもなら、多少は気の効いた対応をするのだが、どうしても普段通りに振舞えない。

やがて凪は、ボロボロと、大きな涙を零し始めた。


「ど、どうしたんですか? 大丈夫?!」


「あ、ああ……だ、大丈夫……なんでも……うあぁぁ」


「ち、ちょっと、しっかりしてください! お兄さん?!」


少女の顔が涙で歪み、凪はへたへたとその場に崩れ落ちてしまった。

気がつくと、自分は昼間の公園のど真ん中で、大声を上げて泣き出していた。


周りには、誰も居ない――あの少女も、いつの間にか姿を消していた。

公園の脇を通り過ぎる人々が、気味悪いものを見るような目つきで、足早に通り過ぎていく。

それでも、凪は嗚咽を止めることが出来なかった。


どれほど泣きじゃくっただろうか。

跪いた地面が、涙で大きな染みを作った頃、何者かの手が凪の肩に触れた。


「落ち着きましたか? お兄さん」


「……?」


それは、あのピアノの少女だった。

彼女は、綺麗なハンカチを差し出し、優しい笑顔を浮かべていた。

二人は、近くのベンチに移動し、揃って腰掛けた。


「もう、せっかくのお顔がぐしょぐしょですよ?」


「あ、ああ、ごめん……」


「何かあったんですか? 私で良かったら、聞きますよ?」


「あ、いや、これは――でも」


「お兄さんがここでずっと泣いてたら、私、気になって練習できないですからね!」


「あ……! そ、そうか、ごめん!!」


「ウフ♪ いいんですよ、冗談ですから」


そう言うと、少女は懐かしさを覚える微笑を浮かべる。

ハンカチを受け取ったまま呆然としている凪は、彼女は本当に藍なんじゃないか、と思えてならなかった。

慌てて頭を振ると、ハンカチで涙を拭う。


「ごめん、実は……いや、やっぱりなんでもない」


「私、こう見えても、学校の皆の悩み事聞いたり

 相談に乗ったりするんですよ?

 きっと、話したらすっきりしますよ」


「でも――」


「安心してください、誰にも喋ったりしませんから」


少女は、殆ど初対面の自分に、何故ここまで優しく接してくれるのか。

凪は混乱を覚えながら、ボソリボソリと、自分のことを話し始めた。


あと三ヶ月の命であること、仕事も生活も棄てて一人暮らしを始めたこと、このまま静かに孤独に死んで行こうと思ったこと。

そして、今更ながら感じた「死の恐怖」のこと――


話をするうちに、少女の顔が強張っていくのが、手に取るようにわかる。


「あ、あの……凄く、重いお話だったん……ですね」


「ごめん、やっぱり、人に話すようなことじゃないよね」


「い、いいえ! そ、そんなことは……」


懸命に取り繕おうとしてはいるが、明らかに少女は、凪の話に退いている。

その態度が、今日ばかりはとても辛く感じられた。

だが、まだ会って二日目の、ろくに何も知らない人間に、いきなりこんなことを話せば、当然の反応だとも理解出来る。

そんな考えが、かえって凪に冷静さを呼び戻してくれた。

否、そんな気がしただけ、というのが正しいのだろうが。


「もう、ここまで話したんならヤケだ。

 俺には、同じ病気で死んだ妹がいてね――」


凪は、空を見上げながら、死んだ妹の「藍」のことも語った。

どれだけ仲が良い兄妹だったか、それだけ悲しい死別だったか。

その妹が、少女に良く似ていることも。


少女は、これ以上ないほど不審そうな表情を浮かべていた。


「あの――作り話でしょ? さすがに」


「いや、本当だよ。

 ちょっと待って」


凪は、財布の中にいつも入れているソフトカードケースを取り出した。

そこには、まだ妹が生きている時の写真が入っている。

暖かな笑顔を浮かべた、藍――思わず、また目頭が熱くなる。


だがその途端、少女は、まるで恐ろしいものでも見たような顔で、ベンチから立ち上がった。


「れ、練習に戻らなきゃ!」


「え? あ、ああ……」


少女は、さよならの挨拶もなく、逃げるように走り去っていった。

写真入りのカードケースを手にしたまま、状況に付いていけてない凪だけが、ポツンと取り残される。


少女が残して行ったハンカチを見つめ、凪は、洗濯して返さなきゃと考えていた。




その日の晩、寝るのが怖くてずっと起きていた凪は、睡魔に負けて、明け方近くに机で眠ってしまった。

幸いにも、あの発作は起きず、昼過ぎに目覚めるまで何の苦痛も感じなかった。

また、昨日のようなどんよりとした気分もない。

凪は、夕べのうちに洗っておいた少女のハンカチが乾いているのを確認すると、それを丁寧に畳んだ。



再びあの公園に向かったものの、今日はピアノの音は聞こえてこない。

それどころか、少女の部屋の窓は、固く閉ざされたままだ。


「……」


あれから色々考えたが、やはり藍の話をしたのは軽率だったと、凪は今更ながら後悔した。

彼女からすれば、あれは自分の隠し撮り写真を見せられたようなものじゃないか、と今更ながら気付く。


凪は、彼女の家の門まで行くと、ビニール袋に入れたハンカチを、そっと郵便受けに入れた。


(まあ、藍の顔を見れたと考えれば、それだけで充分か)


そう自分を無理矢理納得させると、凪は、とぼとぼとアパートへ帰っていった。





「――に、二ヶ月?! なんで、そんな突然?!」


凪は、顔面蒼白になって、主治医に掴みかかった。


その翌日、健診のために病院に行った凪は、自分の症状の進行状況を聞き、愕然とした。

あまりの衝撃に、詳しい話は頭に入らない。

だが、発作により病巣の侵攻が更に進んでおり、以前よりも明らかに死に近づいているという事実だけは理解出来た。


覚悟した筈の死が、こんなに急に接近してくるとなると、さすがの凪でも動揺は隠せない。

身体的に自覚が全くない状態というのも、かえって恐怖心を煽っていた。


主治医の言う発作に該当するものは、あの晩の凄まじい激痛の時だけだ。


もし、またあの発作が来たら――

再び、凪の心を「死の恐怖」が支配し始めた。



アパートに戻った凪の胸中には、これまでとは違った虚無感が訪れていた。


死への恐怖に打ち勝つためには、もはや自身の感情を麻痺させるしかない。

無意識にそう考えたのか、凪は、無感情に時を過ごす。

またPCの前に座り、明るいうちからインターネットを巡る。

なんとなく買った、慣れない酒の味が、苦く辛い。

しかし、酒に弱い凪の身体は、ほんの少量で程好く酔いが回り、若干ながら恐怖心が薄らいで来たようにも思えた。


昼食も、夕食も摂らず、ただひたすらネットに興じる。

そんな時、ふと、机の上に置きっぱなしになっている、金色の石を見止めた。


多少埃を被ってはいるものの、相変わらず、黒と金の美しい輝きを放っている。

それを眺めているうちに、ふと、以前に見た女性のブログのことを思い出した。


(もしかしたら、あの女性は、ツイッターか何かやっていたかもしれない。

 そっちに、何か書かれてたら――)


自分が持っているものと良く似た「球」を持っていた女性。

ブログは、五年前で停止している。

ブログの記事を再確認すると、ツイッターのアカウントについて触れている日記が見つかった。


凪は、相当前から放置している自分のアカウントにログインし、早速彼女のツイートを確認してみることにした。



しかし、そのツイートを辿ったことを、凪はすぐに後悔する羽目になった――



ツイートは、やはり五年前で止まったままになっている。

最後の方のツイートの内容は、ブログにもあった同僚の突然死に関するものだった。


だが、内容が若干違っている。

女性は憎い同僚の死を願ったところ、それがダイレクトに叶ってしまい、激しく狼狽しているようだった。

やがて女性は、願い事が叶った理由についても、言及を始めている。

しかし、その仮説は、にわかには信じ難いものだった。


“この「球」は、願い事を叶えてくれる。

 その代わり、願った主に不幸を与える――”


女性がツイッター上で述べている内容は、そんなものだった。


凪はふと、女性のブログの内容を再度読み返し、条件を当てはめてみた。


最初に叶った願い事は、嫌な取引先の担当者の死。

その後、「球」の中央にあった黒い部分が肥大化した。

そして女性は、退職する羽目に陥った。


次に願って叶ったのは、再就職。

その後、「球」の黒い部分は、更に肥大化していた。

そして女性は、新しい就業先で人間関係のトラブルに巻き込まれた。


最後の願いは、同僚の死。

その後、「球」は、ほぼ黒一色に変わっていた。

そして女性のブログは、そこで止まったまま。



一番最後のツイートは、その女性ではなく、家族による書き込みのようだった。


『突然ですが、姉の○○は、先日急死いたしました。

 フォローしてくださっていた方々には、心より感謝いたします。

 このツイートは、○○の妹が、亡き姉に代わり書き込んでおります』


「え……うそ、死んだのかよ?!」


まさかの内容に、凪は愕然とする。

そして、女性の挙げた仮説を、もう一度読み返してみた。


(この女性、まさか……最後の願い事の代償に、死んだ?

 んで、もしかして俺……もう願い事を、叶えてしまったのか?!)


凪は、あの少女との奇跡的な出会いを思い出した。


その晩訪れた、死の恐怖をも感じさせるほどの凄まじい発作。

それは、自分の残り少ない寿命を、更に縮めるくらいに強烈なもの。

黒かった球は、中央の金色部分が、当初よりも明らかに肥大化している。


(まさかこの石、持ち主の寿命を食って、願いを叶えるってのか?!)


そんな結論に達した凪は、石を掴み、思わず窓の外から投げ捨てようとした。

だが――振り被った時点で、動きを止める。


凪は、手の中の石をまじまじと見つめた後、何を思ったのか、再び机の上に戻してしまった。




それから数日後。

凪は、久々に公園を訪れていた。


少女の家の窓を見上げると、奇遇にも、顔を出した少女と目が合った。


「あ!」


だが少女は、すぐ部屋に引っ込んでしまった。

そしてしばらく後……


「お兄さん! ご無沙汰ですっ!!」


「やぁ、こんにちは」


「聞いてください! 私、ピアノのコンクールで、最優秀賞を取ったんです!!」


「ああ、それはおめでとう……良かったね」


「はい、一生懸命練習した甲斐がありました!!

 これで、お姉ちゃんに顔向けが出来ます!」


よほど嬉しかったのか、少女は溢れんばかりの笑顔で、凪に親しげに語りかける。

コンクール会場での様子や緊張感、実際に演奏すると、まるで魔法にかかったようにスムーズに弾けたことなどを、事細かに一方的にまくし立てる。

先日のドン退きの態度がまるで嘘のように、少女は懸命に喜びを伝えようとした。

凪は、そんな少女の様子に、力なく微笑む。


「あの、どうなさったんですか? なんだか、とっても元気がないみたい……」


「ああ、気にしないで。大丈夫だから」


「もしかして、あの、この前お話されていた病気の――」


「そんな事より、一つ聞いてもいいかな?」


「な、なんですか?」


「君が今、どうしても叶えたい願い事って、何?」


「え? それって、どういう意味ですか?」


少女の表情が、少し曇る。

だが凪は、慌てて手を振った。


「いや、ただの世間話だよ。

 ほら、ピアノコンクールで賞を貰った以外に、まだ夢とかあるのかなって」


「ああ、そういうことですか!

 そうですね~……」


少女は、顎に指を当てて考え込む。

その仕草が、亡き妹のそれにそっくりで、ふと目頭が熱くなる。


少女は、しばし愛らしい表情で考えていたが、一瞬だけ、険しい表情を浮かべた――ような気がした。


「あ、あの……言ってもいいですか?」


「うん、何?」


「お兄さんに、元気になって欲しい」


「え? お、俺?」


予想もしなかった答えに、凪はうろたえる。


「そうですよ。だって今のお兄さん、まるでゾンビみたいなんだもん」


「ゾンビは酷いなぁ」


「あ、ご、ごめんなさい……あの、じょ、冗談だから」


「はは、いいよ、気にしてないから」


凪の寿命が残り少ないという話を覚えていたのか、少女は心底申し訳なさそうな顔で謝る。

凪は力ない笑顔で軽く返しながらも、心中は困惑していた。


(おいおい、俺の寿命を使って願いを叶えようっていうのに、

 それじゃあ本末転倒じゃないか)


「他に、君の為になるような願い事はないの?」


「なんですか、お兄さん?

 まるで、本当に願い事を叶えてくれるみたいな口ぶりですね」


「そうだよ」


「えっ?」


不思議そうな顔をする少女に、凪は笑顔を返す。


「信じてはくれないだろうけど、僕にはあと一回だけ、

 願い事を叶えることが出来るんだ」


「……!」


少女が、沈黙する。

それはこの前のような、微妙に退いているリアクションのように思える。

だが凪は、どうしても自分の思いを伝えたかった。


「まあ、信じられないなら、それでもいいさ。

 けどせっかくだし、君の本当の願い事を、聞かせてくれない?」


「お兄さん? その話、本気で言ってるんですか?」


「え、あ、ああ。――本気、だよ」


少女が、急に真顔になって凪に迫る。

その迫力に、凪は少し気圧された。


「だったら、さっきのお願い事を……。

 私、本気でお願いしたいです」


「さっきのって、俺の?」


「はい、そうです! もし、お兄さんが本当に私の願い事を

 叶えてくださるなら、それを是非!」


「あ、ああ……うん」


それっきり、二人の会話は止まってしまった。




アパートに戻ると、凪は、ほぼ金色に染まりつつある石を見つめた。


「おい、じきにもう一回頼み事をするからな。

 その時はよろしく頼むよ」


そう呟いて、石のてっぺんを指で軽くつつく。



二度目の激しい発作を乗り越え、凪は、今度こそ自らの死を達観出来る領域に至っていた。

否、そう感じられるようになっていたと言うべきか。

既に二回の願い事を行い、自身の命が削り取られていく事を実感した彼は、残り一回の願い事も、少女の為に使おうと考えたのだ。


少女の願いは、凪自身の健康回復。

しかも、何故かとても真剣な面持ちで。

凪は、自分の事を思って願い事を言ってくれた、彼女の反応がとても嬉しかった。


(自分の命を削って、自分の健康を願う……か。

 物凄い矛盾だけど、どうなっちゃうのかな?)


多少自暴自棄になっていることもあり、真剣に考える気になれない。

凪は、その日は自身の身の回りの整理と、やりたいことを行うために費やすと決めた。

そして、名も知らぬ少女のために願い事を唱えるのは、深夜に行おうと考えた。



好きな物を沢山食べ、ゆっくりと風呂に入りリラックスして、慣れない酒を嗜みながら、閑散とした室内に引き篭もる。

部屋の真ん中に敷かれた白い布団が、凪の最期の瞬間を向かえる場だ。


凪は、眠くなるまでいつものように過ごし、寝床に入ったら石に願い事を伝えて、そのまま息絶えようと考えていた。


自分のような、つまらない人間の命でも、誰かの喜びを育むことに使えるなら、それでいいじゃないか。

たとえ、それが一瞬の喜びだとしても……


死と直面した凪の出した結論は、そんなものだった。




夜になり、周囲もすっかり静かになった頃。

凪は、妹の藍を思い出していた。


藍は、たった一人の妹にして、唯一の家族だった。

両親を事故で失ってから、凪は必死になって妹を育てて来た。

そして藍も、父親のような存在の兄を慕い、愛した。


年の離れた妹のことを優先させるあまり、自身の進学を諦め、十代のうちから働きに出て、収入を上げるために必死でスキルを磨き、より良い条件の転職を重ねた。

その結果、妹を大学に入学させられる程の収入を得られるようになった。

愛する妹のために、全てをかなぐり捨ててがむしゃらに頑張った凪に届けられたのは、妹を蝕む不治の病の知らせだった。


妹の進学と、二人の今後の生活の為にと貯めた貯蓄は、高額な治療費に消えた。

それでも、妹の命を僅かでも引き伸ばす為に、凪は更に仕事に励まなければならなかった。


そして与えられた、余命宣告――


両親を失った時をも遥かに上回る悲しみと絶望、悲哀は、凪の心を激しく蝕んだ。

だがそれでも、凪は最後まで、藍の最愛の兄を演じなければならなかった。



懸命な闘病生活にも関わらず、藍は、蝋燭の灯火が消えるように、ひっそりと息絶えた。


それから後の記憶は、定かではない。

気がつくと、それから数年の月日が経っており、凪は、激務に追いやられる会社の歯車として働いていた。


そんな彼にも訪れた、妹と同じ病。


その時の彼にとって、自分の余命宣告は、むしろ救いのようにも思えた。



ふと、涙が頬を濡らしていることに気付く。

もうまもなく日付が変わろうとする頃、アルコールが回ったこともあり、眠気が訪れ始めた。


「よし、じゃあ……そろそろ行こうか」


ほぼ金色に染まった黒い石を握ると、凪は明かりを消し、ゆっくりと布団に潜り込んだ。

天井が、窓から差し込む淡い光に照らされ、ぼんやりと輪郭を浮かばせる。

暗闇の中、凪は、目を見開いて、それを見つめていた。


ふと、あの名も知らぬ少女の姿が、薄暗がりに浮かび上がる。

藍と生き写しの少女……彼女には、せめて幸せになって欲しい。

それが、凪自身の本当の願いだった。


しかし、だとすると、あの願い事をそのまま唱えるのは、気が引ける。


もうまもなく、日付が変わろうとしているという頃。

凪は、決心を固めた。


「石よ、俺の三つ目の願いを、叶えてくれ。

 俺の、最期の願いは――」










――翌日。




(ん……)




カーテンの隙間から漏れる朝日が、僅かに顔を照らしている。

眩しさに目が覚め、布団の中で思い切り伸びをしてみた。


しばらくの沈黙の後……凪は、物凄い勢いで起き上がった。


「えっ?! な、なんで?!」


凪は、生きていた。

否、それどころか、今まで感じられていたどんよりとした感覚が、全くない。

とても、爽快な目覚めだ。


胸中に渦巻く大きな疑問さえなければ、凪は今にも飛び上がってしまいそうなくらい、元気と健康に溢れていた。


「どういうことなんだ、これは?

 俺は……願い事をちゃんと言った筈なのに!!」


凪は、布団の中を探り、握りこんでいた石を探す。

指先に、コツンとした硬い感触を覚える。

恐る恐る指で摘み上げたそれを、窓からの明かりで確認してみた。


石は――全体が金色になり、中央には、僅かな赤い色が浮かんでいる。


黒い部分は、全くない。

それはつまり、凪の最期の願い事は、完遂されたという証拠だ。

にも関わらず、凪は死ぬどころか、自分でもおかしいと思うくらいに真逆の状態にある。


(いったい、何が起きたんだ?)



凪は、公園に向かってみた。

何故か、あの少女に会いたくて仕方なかったのだ。


足取りが軽い、身体の重さを感じない。

しかも、生きている充実感が全身に充ちている。

どうやら、幽霊になってしまったわけでもないらしい。


公園に辿り着き、少女の家の窓を見る。

まだ早朝だから、寝ているのかも……と思い返した矢先、カラカラと軽快な音を立て、窓が開いた。


「あ、お兄さん!」


「あ! お、おはよう!!」


「おはようございます! あの、ちょっと待っててもらえますか?」


「え? う、うん」


少女は、ペコリと会釈をすると、窓とカーテンを閉めた。

だいたい十分ほど後、白いワンピースを羽織った少女が、やや慌て気味に駆け寄って来た。

その笑顔は、なんだかとても嬉しそうだった。


「良かった! ばっちり健康そうですね」


「あの、ちょっと聞いてもいい?」


「はい、私も、お伝えしようと思ったことがあるんです」


「あ、じゃあそちらからどうぞ」


「はい、それじゃあ。

 お兄さんの言う通り、私の願い事、叶いましたよ!」


「それ、それだよ!

 君、いったい、どんな願い事を考えたの?」


夕べ、凪が唱えた最後の願い事は、こういうものだった。



『あの娘が心の底から願っている事を、叶えてあげて欲しい』



「私の願い事は、昨日言った通りですよ?」


「それって、俺に元気になって欲しいっていう奴?」


「そうです。でも、本当はちょっとだけ違くて」


「?」


「お兄さんの病気が完全に治って、この先もずっと元気で長生きしていけますように、って。

 そうお願いしたんです」


「えっ……」


少女の心遣いがとても嬉しかったが、凪は同時に、奇妙な違和感も覚えた。


その願い事は、まるであの石が凪の寿命を削り取って願いを叶えているという理屈を、はじめから知っていたかのようではないか、と。

そうでなければ、こんな予防線を張ったような願い事など、考えられる筈もない。


凪は、不思議そうな顔で、少女の顔を見つめた。


「お兄さん、もしかして……いえ、絶対に、アレを持ってるんでしょ?」


「アレ?」


「願い事を叶える度に、色が変わる石」


「?!」


少女の言葉に、凪は心臓が止まるような衝撃を受けた。


「な、何故それを?!」


「お兄さん、ピアノのコンクールで、私が入賞しますように、とか。

 そんなお願いをしませんでした?」


「……」


「したんですね、やっぱり。

 それで、もしかしてと思ったんです」


「なんで、そんな事に気付けたの?!」


「実は私、コンクールで致命的な演奏ミスをしちゃたんです。

 しかも、私よりも明らかに上手な娘が沢山居たのに……入賞だなんて。

 どう考えても不自然で、何かおかしいと思ったんです」


「え、あ……それは」


「その後、お兄さんがゾンビみたいな顔色でやって来たから、もしかして……って」


「ちょっと待って!

 君は知ってるのか?! あの石のことを?」


「はい。私のお姉ちゃんが――

 その石のせいで……死んでしまいましたから」


「え……」


少女の話は、こういうものだった。


彼女の姉は、どこかで拾ってきた「石」があまりに珍しく綺麗で、色々な所で話題に出していた。

妹である少女にも、当然その話が伝わってくる。

同時に、それが願い事を叶える効果を持ち、かつ同時に、持ち主に不幸をもたらす物であることも、徐々に判って来た。

だが、それに気付いた少女の助言を聞くより先に、姉は最後の願い事を唱えてしまったのだ。


「お姉ちゃんは、急な心臓発作で……」


「あの、もしかして君のお姉さん、ブログでそのことを――」


「! ご覧になったんですか? お姉ちゃんのブログとか」


「うん、ツイッターも読んだよ。

 五年前に……って、それで合ってる?」


少女はコクリと頷き、その瞬間、全てが氷解する。

彼女は、姉の死と石の因果関係を理解していたのだ。

だから、凪がその石を持っている場合に備えて、裏をかくような願い事が出来たのだ。


凪は、上着のポケットから金色の石を取り出して、少女に見せた。


「これが――例の?」


「そうだよ。

 これがもし、この後誰かの手に渡ったら、もっと不幸を広めてしまうだろうね。

 だから俺、これからこいつを棄てようと思うんだ」


「! ――す、棄てちゃうんですか?!」


少女は、目を剥いて驚いた。


「ああ、そうしなきゃならない気がするんだ」


「そ、そうですね……確かに、その方が、いいと思います」


金色の石は、忌まわしい力を秘めているとは思えないほどに美しく、太陽の光を受けてまばゆく輝いている。

凪は、しばらくそれを空にかざして眺めていたが、溜息を一つ吐き、再びポケットに戻した。


「ありがとう、君――ええっと、そういえば、名前……」


「私は、“らん”と言います。“蘭の花”のランです」


「嘘みたいだな、名前まで妹と同じ読みだなんて!」


蘭「そうなんですか? でも嘘じゃないですよ!

 なんなら、生徒手帳を見せましょうか?」


ふくれっ面でプリプリする少女・蘭に、凪は心の底からの笑顔を向ける。


その瞬間、長い間纏わり付いていた重苦しい柵が、全て消えうせていくような感覚に捉われた。


「蘭ちゃん、本当にありがとう。

 君のおかげだよ、心から感謝しているよ」


蘭「そんな! 私、前にあんな失礼な態度取っちゃったのに……」


「そんな事、もうどうでもいいよ。

 もう一度言わせて欲しい、本当にありがとう!」


凪の、心からの感謝の気持ちに、蘭は満面の笑みを浮かべた。

その笑顔の明るさと微笑ましさ、朗らかさ、そして優しさに、心の中に長年巣食った「藍」の幻影が、綺麗に洗い流されていくのを、凪は実感した。



  藍……


  どうやら俺は、まだ生きていけるようだ


  もう過去を振り返らないで、俺なりに生きてみようと思う


  だから、今、改めて言うよ


  さようなら、藍――



その後、凪の手によって、石は近くの河川に投げ捨てられた。

蘭も同行し、その様子を、目を細めて眺めていた。




それから、幾日か後――


凪は、アパートを引き払い、新しい仕事を始めるために、別な土地に移り住む事を決め、蘭に別れを告げた。

新しい人生を歩むため、自ら、妹の面影をも引き離す事にしたのだ。

生まれ変わる為に、そうしなければならないという、確固たる意志が、凪の中に芽生え始めていたのだ。


蘭は、そんな凪を祝福し、新しい未来への門出を祈ってくれた。



――もうすぐ、夏がやってくる。


新しい季節の予感に、凪は、思い切り深呼吸をしてみた。

















「どこ……」



「何処よ、どこに行ったの?!」



河川敷を歩いていた飲み会帰りの男性は、ふと、奇妙なものを見かけた。


男「おーい、あんた、そんなとこで何してるんだ?

 危ないぞ――っ」



大きな声で呼びかけるが、返事はない。

河の辺りでユラユラと揺れる懐中電灯のような明かりと、それを持つ朧な影を見止め、声をかけたのだが。


男「ちぇ、声届かねぇのか……」


再度呼びかけても無駄だろうと考え、男は、明かりを無視して帰路を急いだ。





河の浅瀬に膝まで浸かり、髪と衣服をびしょ濡れにしながら、LEDライトの光を当てる。


「ちゃんと試したんだから!

 絶対、上手く行く筈なんだから!!

 お願い、出てきてよぉ!!!」


その時、川底で、何かが光を反射した。


「あった! これだわ!!」


川底から拾い上げたそれは、金色の輝きを放つ、丸い綺麗な「球」だった。

だが手に取った途端、石の中心部分の大半が、瞬時に赤色に染まった。


「やった! やっと、やっと見つけたわ!

 これで、これで願いが叶う!!」



その影は、岸に上がろうともせずに、石を両手で握り締めた。

その場で天を仰ぐと、声高に叫び声を上げた。




「石よ! 私のお願いを、聞いて!

 私のお姉ちゃんを、今すぐ生き返らせて!!」




禍石  完

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禍石~まがいし~ 敷金 @shikikin

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