第2話 禍石 -赤-

女は、先ほど公園で拾った不思議な石を取り出し、街灯に向けて掲げてみる。

それは真っ赤な球体で、中心部に黒い輝きが覗く、とても美しい石だった。



女――三十二歳独身の彼女は、“真姫”と名乗っている。

もっともそれは、所謂HN(ハンドルネーム)で、ネット上でのみ通じるものだが。


大学を出てからというもの、就職・退職を幾度も繰り返し、今ではスーパーのパートでぎりぎりの生活を営む身。

それでも、自分磨きだけは忘れることはなく、年齢の割に若く見られることが、ささやかな自慢だった。


十分以上も早く待ち合わせ場所に着いてしまった真姫は、拾い物の赤い石をマジマジと眺め、時間を潰す。

いつも待ち合わせに早く来過ぎる癖があるのだが、変に几帳面な気概のある真姫にとって、遅れて来るという選択肢はありえなかった。


(それにしても、この石、不思議だなあ?

 どこから見ても、真ん中の黒い部分が見えるなんて。

 どういう構造なのかなあ?)


“待ち合わせている相手”なら、何か知ってるかもしれないと考え、真姫は石をハンドバッグにしまいこんだ。


やがて、待ち人がやってくる。

歩道脇に停められた白いスポーツカーの助手席に、真姫は素早く乗り込んだ。



「こんばんは、白石さん?」


「うん、初めまして!」


「時間ピッタリですね!」


「そりゃあそうだよ、真姫ちゃんと逢えるのを、楽しみにしていたんだから」


「あは♪ 嬉しいこと言ってくれますね!

 早速、ポイント稼ぎですかぁ?」


「ハハハ……それより、ちょっと良い店を知ってるんだけど。

 良かったら、これから――」


「ああ、ゴメンなさい、そういうのはちょっと」


「駄目なの?」


「うん。時間もないし」


真姫の、少し色っぽい言い回しに、運転手の男はゴクリと喉を鳴らす。


「じ、じゃあ、いきなり……? い、いいの?」


「うん、元々そのつもりだから。行きましょう」


二人の会話は、そこで止まる。

車は大通りを走り抜け、やがて郊外に通じるルートへと進行した。




ここは、ホテルの一室。


熱い一時を終え、シャワーで身を清めた真姫は、バスタオルに身を包むとベッドルームへと戻った。

激しく乱れたシーツの波が、二人の時間を物語る。


だらしなく全裸で横たわっている男に、真姫は赤い石を見せた。


「これ、どういうものかわかります?」


「へぇ、綺麗だけど変わった石だね。ちょっと見せて?」


真姫から石を受け取った男は、蛍光灯に翳してしげしげと眺めていたが、首を傾げるだけだ。


「俺あまり工芸品に詳しくないけど、物理的にありえないような構造じゃない?」


「うん私もそう思う。けど綺麗でしょコレ?」


「売ったら意外と高値がつくかもね?」


「それはないよー。だってこの石のおかげで、素敵な白石さんと逢えたって、

 私信じてるんですから」


「うほ、嬉しいなあ! そんな事言ってもらえるなんて!」


白石と呼ばれた男は、はしゃぎながら肩に手をかけようとする。

それをスルリとかわすと、真姫は窓際の椅子にかけていた下着を身に付け始めた。


「え、え? もう終わっちゃうの?」


「ごめんなさい。三枚だと、二時間が限度なの」


「そ、それならもっと払うからさ! 良かったら泊まりでも――」


「それもごめんなさい、この後、予定があるので……」


真姫は、余所行きの服を着直し、乱れた髪を手早く整えながら、うなだれる白石を鏡越しに見つめた。


(何が泊まりよ!

 顔が良いからこっちもその気になったのに、ただのマグロじゃんコイツ!

 あ~、アゴが疲れたぁ!!)



その後、白石の車で最初の待ち合わせ場所まで送ってもらった真姫は、早速スマホを取り出し、何者かにメールを送った。



 マキでーす!

 今、待ち合わせ場所に着きましたー☆



ものの数分もしないうちに、今度は赤いセダンが、歩道脇に停車した。


「――真姫ちゃん? 画像で見るよりずっと可愛いね♪」


髭の濃い壮年の男性は、サングラス越しにいやらしい目線を投げかけて来た。




翌朝早く帰宅した真姫は、疲労しきった身体をシャワーで温め、早々にパジャマに着替えた。


(あのオヤジぃ、一晩中嘗め回しやがってぇ~!! あぁ~気色ワルイっ!)



真姫は、ここ一、二年ほど、ネット上で知り合った男性に身体を売って稼いでいた。

SNSやツイッター、出会い系掲示板など、規制が強まったとはいえ、まだまだ客との出会いは沢山ある。

真姫は、自分の年齢を24歳と大きく偽り、誘いに乗ってきた客はどんな相手でも拒まず受け入れた。


しかし、それにパートの収入を含めても、ようやくギリギリの生活状況。


真姫は、売春を続けるために、化粧品代や衣服代、アクセサリー代などに、これまで以上に大きな出費をせざるをえなくなったが、それが次第に生活を圧迫させる要因になって来ている事に、気付いていない。


一晩に二人、多くても三人。

泊まり希望の者も多いので、必ずしもその限りではない。

幸い、真姫はかなり目を惹く美人でスタイルも良く、また男受けするタイプなので、客に困ることはない。

しかし、時が経つにつれ、このままでいいのだろうかという焦燥感に苛まれる時もあった。


万年床ベッドに潜り込んだ真姫は、ふと、夕べ拾った赤い石を手に取ってみる。


(この石のおかげで、素敵な男に逢えた……か。

 本当にそうなればいいんだけどな~)


真姫は、石を両手で包み、胸の上に重ねて目を閉じた。


(石さん、赤い石さん?

 もし、貴方が本当に出会いのお守りなら、私に素敵な男性を紹介して♪)


「――な~んてね、バッカみたい」


口に出して、自分に突っ込む。

石を枕元に放り出すと、真姫はゆっくり目を閉じる。

今日は休み……昼過ぎまで、ぐっすり眠ろうと考えた。


真姫が目を閉じ、眠りについてからしばらく後。

赤い石が、ひっそりと輝きを放ち始めた――




その日の夜、いつものように、出会い掲示板にサポ募集の書き込みをした真姫の下へ、メールが届いた。


「はいはい、ヤリたい盛りの少年? それとも奥さんに飽きたオッサン?」


メールを開き、内容を確認すると――


「え、えっ……?!」


メールに添付された男の顔写真を見て、真姫は目を剥いた。


「え、た、たっくん? ……じゃないよね? でも、コレ……」


たっくんとは、かつてとある大手企業に就職していた頃、憧れていた青年だった。

とても仲良くしていたのだが――


「ほ、本当に……たっくんなの?」


真姫にとって、たっくんはいまだに特別な存在だ。

いつもなら最低でも十数通はメールが届くのに、この晩は何故かそれ以外、全く届かなかった。


真姫は自分の素性には触れず、探りを入れるつもりで返信を送る。

すると、驚くことに、返事はものの十数分で届いた。

更に返信を送ると、またも短時間で返事が来る。

長文メールではないものの、たったの一時間程度の時間で、二人は六往復も連絡を取り合ってしまった。


(ちょ……これ、マジでたっくんなんじゃない?

 私の知ってるたっくん情報と、合致すること多すぎなんだけど)




二日後、真姫は仕事を休んで、入念な支度をしていた。

服やアクセサリーは、手持ちの物では納得が出来ず、新たに買い求めた。

化粧品も新調し、使い古しではなく流行色のものに切り替えた。

下着にも注意を払い、出来る限り完璧な……否、これまでの基準では完璧以上の状態に仕上がったつもりだった。


あの晩、平日にも関わらず深夜三時まで続いたメールのやりとりで、真姫は確信を得ていた。


たっくん――本名:達也との待ち合わせ交渉は、実にスムーズに進んだ。

しかし、掲示板は自画像は貼れないシステムのため、向こうは真姫の顔を知らない。

彼女にとって、唯一の気がかりはそこにあった。


(どうしようかな。たっくん、もし私に気付いたら……

 余計なことは言わないで、気付かれないままのがいいのかな、それとも――)


これから逢う達也は、真姫が書き込んだ所謂「サポ募集」に釣られて来た存在に過ぎない。

そこも、真姫にとって気になる点だった。

あれから一体、どのような経緯があって、彼は自分を買うに至ったのか――

メールではどうしても聞けなかった事を、聞いてみたいという願望が渦巻く。

頭の中で様々な思いをグルグル巡らせたまま、真姫は、達也との待ち合わせの場所に向かう。



駅近くの大きな公園の噴水前で、真姫はじっと達也の到来を待つ。

やがて、近くで車が停まる音がして、こちらに近づく足音も聞こえてきた。


(た、たっくんだ! やっぱり、たっくんだ!!)


「こんばんは。真姫……さんで、間違いないですよね?」


「は、はいっ!!」


姿を現したのは、明らかに達也本人だった。

あれから約八年、昔より大人びたものの、印象は昔のままだ。

懐かしい笑顔、声、大好きだったまなざし――

真姫の心は、一瞬にして、あの頃に自分に戻っていた。


「凄い可愛いね。良かった、こんな美人さんと会えるなんて運がいいや」


「わ、私も……そ、その、すごく、嬉しいです!」


「向こうに車を停めてるんだけど、良かったら」


「はい! よ、喜んで!!」


まるで憧れのアイドルに対面したかのように、真姫は、感激と緊張を同時に味わっていた。

それはすなわち、今まで築いて来た「真姫」というキャラクターを喪失する行為に等しかったが、今の彼女にそんな事を意識する余裕はない。


「ところでさ、前に、一度会ってな――」


「い、いえいえいえいえええええ!

 は、初めてですよ?! そう、初対面ですって!!」


「そうなの? まぁいいか♪」


(うおぉぉぉ~、ギリギリセぇ~フっ!!)


二人はそのまま、夜の街へと消えていった――




達也を受け入れた真姫にとって、その晩はかつてない程に熱い夜となった。


心の中で、ずっと慕い続けていた相手に抱かれる幸福……

それは、彼女が遠い昔に捨て去ったつもりの感覚だった。

何度も彼の名を呼び、彼の動きに声を上げ、彼の肉体のぬくもりを全身で感じ取る。

意識がとろけ、もうこのまま死んでもいいとすら思わされるほどの快楽と、感激。

それは、翌朝帰宅した後も……否、それから二日間に渡って、真姫の中で残留し続けた。


(ああ……♪ たっくん、最高♪♪

 もう大好き! また逢いたい! どうしても逢いたいよぉ!!)


それからというもの、真姫はパートの仕事にも身が入らず、作業では凡ミスを連発し、帰宅後は、何度も無意味にメーラーをチェックし続けた。

いつものような“サポ依頼”をする気には、どうしてもなれなかった。


(どうしよ、こっちからまたメールを出したら、嫌がられるかな?

 それとも、私のこと、気付いちゃったのかな?

 う~ん……たっくん、メール……してよぉ)


真姫は、PCを点けたままでんぐり返り、天井を眺める。

あの晩、真姫は達也から金を受け取らなかった。

彼は支払おうとしたのだが、どうしてもその気になれなかったのだ。


達也と逢うための準備費用はかなりかさみ、それまでの蓄えらしきものも、ごっそり使い切っている。

真姫の生活パターンとしては、今月は今まで以上に稼がなければやばいにも関わらず。

達也に抱かれた肉体を、他の男に触れさせたくないという感情が、彼女の中に芽生え始めていた。


ふと、枕元の棚に置かれている、例の赤い石を思い出す。

手にとって蛍光灯に晒した時、真姫は、石の変化にようやく気付いた。


(あれ? 黒い部分が、前より大きくなってる?)



確かに、石は赤色の部分が、以前よりも減っていた。

黒い部分は、蛍光灯の光を完全に遮断しており、まるで漆黒の闇が閉じ込められているようですらある。

些か怖い感じがしたが、真姫は、前にこれにお祈りしたら達也に逢えたことを思い返した。


その時、PCが軽快な音を鳴らした。

メール着信を伝えるアラームだ。


がばっと起き上がり、PCに飛びつく。

届いた最新のメールは――この前、真姫を抱いた……否、一晩中性的な奉仕ばかり要求した、白石からだった。

『また逢って、素敵な夜を過ごしたい』という、あからさまなお誘いメール。

しかし、今の真姫にとって、それは害悪以外の何物でもない。


(き、期待させといてコレかぁ~っ!! 二度と会うかボケぇ~っ!!)


てっきり達也からのメールだとばかり思っていた真姫は、何度も舌打ちをしながら、受信拒否設定とメール削除をぶちかました。


治まらない怒りを抱いたまま、再び寝転がり、赤い石を手に取る。

両手で包み、真姫は、愛しい者に語るように、声に出して呼びかけた。


「お願い、石さん。私のお願いを、叶えて?

 もう一度、たっくんに逢わせて!

 そしたら私、今度こそ、たっくんに――」


そう呟いた途端、手の中の石が、輝きを放ち始めた。


「え? えっ? えええっ?!」


赤い石は、内側から激しい光を一瞬放つと、まるで逃げるように真姫の手から零れ落ちた。

シーツの上に落ちた石は、先ほどよりも黒い部分が増え、赤い部分はもうあまり残っていない。

その変化に、真姫はしばし呆然とした。


(ちょ、ちょちょ、ちょっと、今の何?! な、ナニ?!

 これ、一体なんなの?! え? え? 超怖いんですけどぉ~?!)


ほぼ黒一色に変化した元・赤い石に怯える真姫の耳に、先ほどと同じアラーム音が飛び込む。

逃げるようにPCに飛びついた真姫は、新規メールの差出人名義を見て、思わず声を漏らした。


「た、たっくん!!」


それは、達也からの『また逢いたい』というメールだった。

内容は、この前の晩のことがどうしても忘れられなくて……という、いつもなら軽く一蹴するような陳腐なものだ。

しかし、今の真姫にとって、それは過去最高の幸福招来メールだった。


「やったぁ!! キタアァァァ!!」


深夜にも関わらず、ついつい大声を上げてしまう。

先ほどの恐怖など完全に忘れ、真姫は大急ぎで返事を送った。

それから、またも短時間でのメール往復、そしてチャットへの移行……

あっという間に、次に逢う約束が確定してしまった。


(いやったぁぁぁ!! ひゃっほぉ! なんてツイてるのあたし!)


ついつい祝杯のビールを開けてしまった真姫は、ふと、ベッドの上に置き去りにされている石を思い出した。

恐る恐る、手にとって眺めてみる。


「ねえあんた、もしかして、本当に願い事を叶えてくれたの……?」


赤い石は……否、もはや「黒い石」と呼ぶべき状態になったそれは、先ほどまでとは違った美しい輝きを放っていた。








達也との再会は、更に二日後の晩となった。

真姫は再びおめかしに力を注ぎ、待ち合わせの時間が来るのを待った。


待ち合わせは、前回と同じ公園。

前よりも多少若作りな格好で、真姫は落ち着きなくそこら中に目線を飛ばしまくっていた。

ふと、十数メートル先の入り口を通りがかった人物が、こちらを凝視する。

影の形から、男性ではなく、女性――

その人物は、まっすぐこちらに向かって歩み寄って来た。


「あれ? もしかして和子?」


「え?」


「やだ、やっぱりそうじゃない! ひっさしぶりぃ~♪

 どうしたのよ、その格好?!」


「……あの」


「あれ~? もしかして、私のこと忘れちゃった?

 ほら、郁美だよ! ○×商会本社の営業二課で同期だった!」


「!!」


親しげに呼びかける女には、確かに覚えがある。

否、覚えがあるなどというレベルではない。

真姫の心の中に、赤い炎がメラメラと燃え上がっていく。


その女性は、日高郁美。

同期入社で一番の親友であり、かつては最も信頼していた身近な人物だった。

自分の事をいつも気にかけ、何かあるとすぐにフォローしてくれた。

借りも恩義も、返し尽くせない程沢山ある相手。


――しかし、今彼女に返したいのは「憎悪」だ。


(なんで! なんでよりによって!!

 このタイミングで、この場所で!! コイツに遭わなきゃならないのよっ!!)


真姫は……否、本名の「和子」で呼ばれた彼女は、慌てて周囲を見回した。

約束の時間まで、あとほんの一分。

この状況で、ここに達也が来るのは、最高にまずい。


何故なら、郁美は――


「ねぇ、もしかして、誰かと待ち合わせだったりする?」


「えっと、あの……」


「でもホント久しぶりだよね~、八年ぶり?

 あんたがいきなり辞めちゃってからさ、淋しい思いしたんだぞぉ!」


「う、うん」


「ね、ね、良かったら今度さ、飲みにいかない?

 LINEを――」


「ご、ごめん!」


真姫は、思わずその場を駆け出した。

途中、視界の端に達也らしき人物の影が見え、声をかけられる。

しかし、それで足を止めることは出来なかった。


背後で、郁美が誰かと話す声が微かに聞こえる。

真姫は、いつしか涙を流しながら、全速力で夜の街を走っていた。





「何よ、何なのよぉ! アイツはぁっ!!

 また私の邪魔をする気なのっ?!」


結局、達也との約束を果たせなかった真姫は、怒り心頭状態で自宅に帰還した。

着替えもせず、メイクも落とさないままで、ベッドに飛び込み枕に八つ当たりする。


(許せない! 許せない!!

 私とたっくんの間に、いつもいつも割り込んできて!!

 しかも、今度は八年越しの嫌がらせ?!

 ふざけんな! もう、絶対に許せないっっっ!!

 殺してやりたいくらい、憎いっ!!)


枕とベッドのスプリングが、何度もせつない悲鳴を上げた。


日高郁美は、達也の彼女である。

だが、その情報は八年前の古いものだ。

もしかしたら、既に結婚しているのかもしれないし、別れているかもしれない。

どのみち、あの場で三人が顔を合わせるのは、最悪の展開以外の何物でもない。


郁美は、横から達也を奪い取って行ったのだ。

二年間想いを募らせ、日常の会話で友好度を高め、ここぞという告白のタイミングで、和子は郁美に先を越された。

その時のショックが抜け切れず、和子は会社を辞めたのだ。


(やっぱりこの石は、願いを叶えてくれる訳じゃないのかな)


黒く変色した石を、指に挟んで天井に翳す。

散々怒りを吐き出した和子は、深呼吸して、いつもの“真姫”に戻ろうとした。


(そういえばコレ、まだ微妙に、赤い部分が残ってる。

 私が願い事をしたら、赤い部分が少なくなったんだよね。

 じゃあ、まだあと一回くらいは――)


そんな事を考えていると、電源を切り忘れていたPCから、メール着信のアラームが鳴った。

乱れまくった髪を振りながら、ベッドを飛び出し、ノートPCを開く。


メールの送信者は――達也だった!


「えっ、ウソ」


メールの内容は、約束を放り出した真姫への文句ではなかった。

“急に都合が悪くなって逢えなくなったから、約束を延期してもらえないか”という打診だった。


まだ、彼との縁は切れていない!

真姫の心は、再び躍った。


(うはぁ♪ やっぱりこの石、願い事を叶えてくれる魔法の石なんだわ!)


すぐにメールの返信をして、二日後に約束を取り付ける。

先ほどまでの煮えたぎるような怒りは消え失せ、郁美のことも、あっさりと脳裏から薄れ始めた。




その日の晩、真姫は、奇妙な夢を見た。


見知らぬ若い男が、横断歩道を走っている。

それを追いかけてきた店員のような格好の男が、車に轢かれてしまった。


次に男は、大金の入手を願った。

すると、自分の父親が死亡し、その保険金が舞い込んで来た。


しかし、その金をギャンブルで使い切ってしまった男は、多額の借金を抱えてしまい、路頭に迷っていた。


男は、願い事を唱える。


『もう一生、金に困らないようにしてくれよ!』


そして男は、車に轢かれて、死んだ。


彼の手の中には、金色に輝く石があった。

だがそれは、徐々に赤くなっていき――


「――ひっ?!」


朝、全身汗だくで目覚めた真姫は、慌てて枕元の石を手に取った。


(今の夢、いったい何?!

 あの男が持っていた石って、まさか……これ?)


夢の中の男が持っていた石とは色が異なるが、金色から赤になったのに対し、現実の石は、赤から黒になりつつある。


真姫は、今まで石にした「お願い」が、既に二つだということを意識する。


(どうしよう、もしこの石が、あの夢に出てきたのと同じものなら……

 もしかして、あと一回願い事をしちゃったら――)


真姫は、黒い石を握ると、アパートのドアを開き、遠くへ放り投げた。

投げた先の状況など、気にする余裕はない。

とにかく、石がとてつもなく不吉なものに思えて仕方なかったのだ。


(と、とにかく……願い事が二つ目で終わってるなら、大丈夫なんだよね?)


真姫は、もうそれ以上深く考えるのを止め、仕事に行く準備をすることにした。




約束の日がやって来た。

真姫は、再び入念な準備を整え、達也との待ち合わせの場所に向かった。


しかし、その心中は穏やかではない。

長期間売春を休んでいるため、生活費が底を尽き、本当にやばい状況に陥りかけていたのだ。


有り金をつぎ込んで、達也と逢うために御洒落をする。

それほどまでに、真姫――和子は、達也との出会いに賭けていた。


この望みが叶えば、自分は今度こそ!



だがその願いは、粉々に打ち砕かれることとなった。



待ち合わせの場所に、人が立っている。

それは――日高郁美だった。


「和子!」


「……!! ……っっっ!!!」


真姫の胸中に、再び凄まじい憎悪が渦巻く。

達也の姿は、まだない。

もはや、感情を隠すことすら不可能なほど、郁美への怒りは頂点に達していた。



「良かった。ここで待ってれば、また和子に会えると思って」


「あんた……いい加減にしてよ!

 どこまで私の邪魔をすんのよ!」


「邪魔って……じゃあやっぱり、あんたが待ち合わせしてたのって」


「白々しいのよ! それが判ってて待ち伏せしてたんでしょ?!

 最低……あんたなんかと逢うんじゃなかった!!」


「和子、それどういう意味?!」


「あんたは、あたしの何もかもブチ壊しにして!

 あたしをどれだけ追い詰めれば、気が済むってのよっ!!

 許さない、絶対に! あんただけは絶対に! 許せないっ!!」


「落ち着いて、和子!

 私の話を聞いてよ」


「あんたに、あたしの気持ちがわかるわけないじゃない!!

 もうダメ……もう、限界。

 あんたを、必ず地獄の底に叩き落してやる!」


「ねえ、和子! 落ち着いてったら!

 私がここに来たのはね――」


「聞きたくないっ!! 死ね!」


真姫は、郁美の足下に唾を吐き捨て、その場から走り去る。

背後から、郁美が駆け寄ってくる気配が感じられたが、全力で振り切った。


(こうなったら、使ってやるわよ!

 最後の一回? は! 上等じゃない!

 あのクソ女をぶち殺せるなら、あたしの命を引き換えにしたっていいわよ!!)


大通りでタクシーを拾った真姫は、大急ぎで自宅に戻り、タクシーを待たせた。

代金を家に取りに行くから……と告げて。

しかし、その足は、自宅のアパートには向いていなかった。


(どこ?! 何処に行ったの?! ねぇ、出て来て!!

 お願い! あたしの恨みを、晴らさせてよぉ!!)


真姫は、昼間投げ捨てた「黒い石」を探していた。

おおまかな方向を、スマホのライトで照らしながら、懸命に探る。

離れた場所から、タクシーのクラクションが響いたが、真姫の耳には届かない。


小一時間ほど経ち、両手が雑草の葉でぼろぼろに傷ついた頃、隣の家のブロック塀の根元で、やっと黒い石を発見した。


それは、うすぼんやりとした光を放ち、まるで真姫の迎えを待っていたかのようだった。


薄笑いを浮かべると、真姫は、その石を掴み取った。


石を天高く掲げて、大きな声で唱える。


「石よ、お願い! 私の――」


「ちょっとあんた! 何してるんだ?!」


いきなり、背後から肩を掴まれる。

それは、さっき乗ってきたタクシーの運転手だった。


「えっ?!」


「えっ、じゃないよ! 無賃乗車か?!

 とっとと代金払ってくれよ!」


「な、なんで、大事な時に、いつもいつも!!」


「何言ってんだあんた! こっちも困るんだよ!

 いいから早く、タクシー代1,640円くれよ!!

 さもないと、警察に連れてくぞ?!」


「ちょ……やめ、やめてよ!

  今、超大事なところなんだからぁ!」


「ふざけんなこのアマ! 警察に来い!」


運転手は、強い力で、真姫の腕を掴み上げた。


「ああああ! 離してってばぁ!! お願いだから、離せぇっ!」


――次の瞬間、真姫の手の中から、激しい光が放たれた。


光に驚いた運転手は、思わず真姫を離してしまう。


「うわっ?!」


「きゃあっ!?」


運転手に急に手を離され、バランスを崩した真姫は、ブロック塀に向かって倒れていく。



 ――ゴキャッ!!



何かが割れるような、鈍い音が響く。

真姫は、声を上げる事もなく、ズルズルと倒れ込んだ。


「お、おい? ど、どうしたんだあんた?!

 おいってば?!」


真姫の異常に気付いた運転手が、介抱しようとする。

だがその手に、生温い液体がべっとりとまとわりついた。


「――ひ、ひいぃぃぃ?! し、死んでるぅ?!?!」



真姫の手から零れ落ちた石は、全体が真っ黒に変色している。

そしてその中心部には、金色の輝きが宿っていた。





「あんた、あの子が和子だって、気付いてたんでしょ?」


「ああ、一目でわかったよ。

 嬉しかったよ、昔な、あの子も狙ってたんだよ俺」


「……」


「お前ももう、昔のことなんざ、どうでも良いだろ。

 俺はね、ヤラせてくれるなら、誰だってOKさね」


「あんた、私をあんなに酷い目に遭わせておいて……

 まだ女漁りを続けてたの?!」


「知るかよ! おめぇの方から、勝手に俺にくっついて来たんだろうがよ!」


「だから、それは、和子があんたに……っ!!」


「おめぇ、いったい何年根に持ってんだよ?!

 そんなに俺に貢いだ金が惜しいってんか?! あ?

 フーゾク行ったのも、おめぇが自分で決めたんだろうがよ!」


「……もういいわよ、私のことは!

 それより、お願いだから、もう和子には近寄らないで!

 あの子まで、私みたいな目に遭わせないでっ!!」


「そんなの、知らねぇよ!

 それよりお前、あの店干されたってマジかよ?!

 まあ、もうそのボロボロなザマじゃあ、客もろくに付かねぇもんなぁ~」


夜の公園に、頬を叩く音が、一発鳴り響いた。




「何かあったのかな?」


コンビニで夜食を買った帰り道、ふと通りがかったアパートの敷地内に、複数のパトカーや警官が集まっている。

黄色いテープで封鎖された庭では、タクシーの運転手のような男性が、半泣きで警官に何かを話している。


青年は、特に関心を示そうともせず、その前を通り過ぎた。


「あれ?」


ふと、歩みが止まる。


青年は、電柱の街灯に照らされて輝いている、艶のある不思議な石を見つけた。


「へぇ、何だろうこれ。綺麗な石だなぁ」


それは真っ黒な球体で、中心部に金色の輝きが覗く、とても美しい石だった。






  禍石 黒 へ続く

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