第32話 会合

 人力で動かすのは到底不可能な物体が動いている。じゃあ、なぜ動いているのか、それが全く分からない。だが動いている。生き物でないことは見ればわかるが、じゃないとすればどうして動かないはずのものが動くのか、動くとすればなぜ動けるのだ。動くというのは動けるから動くのだが、動かないものは動けないから動かないはずだ。では動くのはなぜだ。動けるからか? 動けるはずがないのに。

 と、このように清河の脳はぐっちゃぐちゃになった。

「攘夷なんて無理だ、出来るワケがない!」

 と、大きな声では言えない清河だった。なんでって、そりゃ国のお偉いさんの何人かは、部下の情報をまるっきり信じてるから、自分で黒船を見に行ったりしないし、それを客観的に考えたりもしない。だからこの期に及んで「攘夷は可能である」と信じて疑わないんだ。ちょっと賢い常識人が黒船を実際に見物すれば、誰だってこう云う結論に至って意見を持つ。だからもしかして、私が黒船に出会えなかったのは、なんというか、神様みたいな超自然的存在が「お前はそれに気づくべきではない」と仰ったのかもしれないね。でも、黒船見ても何も思えない人だっている。私はそっち側。なんたって頭悪いんだもん。

 そしてこの日から、奴は清河八郎となる。清河八郎としての人生のレールが用意され、それをなぞることになるんだ。清河の物語は、ここから始まった、てわけ。とはいえ、この男が新選組の前身となる「浪士組」を創立するのはまだだいぶ後。ちょっと駆け足で、彼のその生涯を語っていきたいと思う。語れる範囲でね。

 ちなみに、清河八郎を清河八郎にした中年の開国論者教師の情報は、知らない。清河も名前を忘れてしまったようだし、そもそもこの時代に幕府直轄の塾で「開国っすよ」なんて、思いっきり幕政批判つって処刑の対象になるはずだけど……ま、人の記憶なんてあてにならんわね。

清河が黒船を目の当たりにして、しばらく後の事。山南はというと、まだ玄武館で剣を習っていた。いつまで経っても道場に顔を出さない清河のことを心配しながら日々を過ごしていた。一方清河はというと、とうとう自分で塾を建てて、オーナーになっていた。この塾はなんとも画期的なものだった。トレーニングジムと塾が合体したような授業形態を持っていて、剣術と学問の両方が学べるというものだったわけだ。

 江戸広しと云えど、文武両道を体現した塾は清河塾しかない。すぐに門人は増え、収入も物凄くアップした。私も試衛館道場で暮らしているが、それは全て剣術の稽古のためであることを忘れちゃダメ。なんで剣術をやりはじめたかと言やあ、剣術やってどうにか就職先を見つけたかったから。

 しかしこの時代、別に剣術だけに拘らなくても、読み書き算盤を身につければ出世できるケースもあった。となれば、この塾が繁盛するのは時間の問題だということは、誰でもわかることだろう。収入はグングンアップしたし、尊王攘夷という同じ志を持つ仲間も着々と増えて行った。これはそういう時期の清河と会った山南から聞いた話だ。いつ頃これを山南から聞いたのか、細かい日時は当然覚えていないけど、私が清河に興味を持っているということは、まあ浪士組発足してすぐくらいだろう。

 山南が早朝、清河道場を訪れた時は、既に弟子が数十人いる規模になっていた。山南は物陰で「こんにちは。八郎君の友人です。先生にお取り次ぎ願いたいのですが」と何度か復唱し、すう、はあ、とやって掃き掃除をやっていた下人に声をかけた。この時は噛まずに言えたって、本人は言ってるけど、どうだかね。下人は慣れた口ぶりで「先生でしたら、今は国勢の講義の最中ですので、暫くお待ちください」と微笑んだ。こういう客は多いようである。そして自分を門前払いにした下人に対し、山南は大人しく従った。戦国武将の森長可なんて人は、同じ状況で相手を斬り殺してるからね。ま、こいつがそう言われて「入れてよ」って駄々をこねるような大人じゃないことは、もうわかってるでしょ?  

昔から我慢するのも慣れている。と山南は炎天下でずうっと立っていた。しばらくしたら、ショウリョウバッタが一匹刀の柄にピョンと飛び乗った。それがちょっとだけ面白かったんだ、と彼は言ってたよ。

 伝聞体ばっかだねって、しょうがないじゃん。伝聞なんだもん。

 さて、日が高く昇った。益々暑くなってくる。掃き掃除をやっていた下人は屋敷に入ったきり出てこない。すると道場から、すらっと背の高い色白男が門弟っぽい風格の男と出て来たではないか。その男はほっそりとして、目は杏葉のようにツンとつり上がっていた。口元は小さく微笑んでいて、如何にも教養人といった容貌だった。対して、身につけていたのは麻でできた黄蘗のチェック小袖。その上に、つぎはぎが数カ所見える苔色の羽織をしていた。

 あ、清河じゃないよこいつ。言っとくけど。

「こんにちは。八郎君の友人です。彼にお取り次ぎ願いたいのですが」

「友人? ……清河君のかい」

 冷水のような声だった。男は如何にも「信じられない」といった顔をして、山南の容姿を上から下まで凝視した。鼻で笑った後、彼は清河のことを想い浮かべ、また鼻で笑った。

「彼の友人ということは、幕府のお方かな? そうは見えないが」

「ええ、仙台藩の山南敬助と申します」

「ふむ。ならば君は尊王攘夷活動家、そうだろう? 彼が友人に選びそうな人間はすぐにわかるさ」

「いえ、私は主だった活動はしておりません」

「おや……」

 男は奇怪な眼を山南に向けた。それは山南も同じだった。二人は取りあえず会釈し、別れた。

「……無礼な人だ。八郎君を全て解ったような顔をして」

 一方男の方は、というと。

「さっきの人」

「先生、さっきの人とは……。ああ、清河の友人とかいう」

「あの人……」

「奇妙な男でしたね。清河の友人にしては、金や権力を持っているようには見えないし、思想や大志があるようにも見えない」

「……」

「ひょっとしたら、幕府の手先かもしれませんね。友人と偽って、清河を調べているのかも」

「加納君、私思うんだけどね」

「はい」

「あそこまでダサい服を着れる子に、悪い人はいないと思うのよ」

「はい?」

「ダサかったじゃない、彼」

「さっきの人の金魚模様ですよね? まあ暑いですし、涼しげで良いんじゃないですかね」

「そら、金魚が疎らだったらね? 波紋とかもあったら涼しげに見えるかもしれないわよ? ただもうあれ、そういうレベルじゃなかったじゃない。漁網で捕ったの? ってぐらいビッシリだったじゃない」

「自分は集合体恐怖症なんで、若干怖かったっす」

「あらあら可哀想に。なんにせよただ者じゃないわね、あの男……」

「そうでしょうかね。あと先生、喋り方に素が出ちゃってます」

「あら、いけない。……なんにせよ、ただ者ではないことは確かのようだね、加納君」

「そうですね、伊東先生」

 伊東大蔵。後に新選組の頭脳となる男。本当に怖い男なの、あいつ。でもま、今は後回しだね。

「さ、道場に戻りましょ、加納君」

「そうですね、伊東先生」

 こうして、二人は去っていった。

「あ! あの櫛可愛い!」

「あちらの黒い物の方が先生に似合いますよ」

「あら、そうかしら? つけてつけて」

「はいどうぞ」

「きゃっ! 似合ってる?」

「似合ってる似合ってる」

「もーやだー!」

 さっさと帰れ。キモいんだよ。

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明道独言 備成幸 @bizen-okayama

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