恋は苦い味

三津凛

第1話

本を取り出すことは、かえって異質なことに思える。でもそれ故に、言葉を交わせない私と彼女を細い糸で僅かに結びつけてくれるような気がする。

それは私の一方的な片想いに過ぎないのだけれど、何か一つでもいいから彼女と私の世界が重なるところが欲しかった。


私は頭上の時計を見上げる。部活のせいでいつも電車に乗る時間よりも遅れてしまった。私は半分諦めながら、真新しい文庫本を取り出してめくる。

まっさらなページは手を切りそうなほど綺麗だ。

オスカー・ワイルドの「サロメ」なんて、彼女が読んでいなかったら多分一生手に取らなかったと思う。



こよいはなんと美しいことだ、サロメ王女は!


お月さまをご覧なさいまし!なんと不思議なお月さまをですこと!お墓から抜け出してきた女みたい。死んだ女みたい。まるで屍しかばねを漁り歩く女みたい。



凄絶ともいえる美しさは時として、不幸の前触れのようにも思える。不吉な予感に、すぐ文庫本を閉じる。私は冷たい風をホームに押し込んでくる電車を哀しく見やった。今日は多分会えない、あの人に。

いつもの場所で扉が開くのを待つ。ホームにも電車の中も疲れた顔がいくつも浮かぶ。押し込まれるようにして、電車に乗り込むと自然と彼女を探してしまう。

やっぱりいないよな。

口のなかで呟きながら、まだ握ったままの文庫本を鞄に押し込もうと俯く。

電車が億劫そうに線路を滑りだす。

頭のてっぺんにチクリとした痛みを一瞬感じる。

「あ、ごめんなさい」

驚いて顔を上げると、すぐ目の前に滑らかな首筋があった。

女の人にしては背の高いシルエットに私は息を呑む。彼女だった。

長い指が文庫本を大切そうに包んでいる。背表紙をのぞく。

オスカー・ワイルドの「サロメ」。

私はぎこちなく会釈して目を逸らす。

冷え切った頭に熱がこもっていくのが分かる。彼女はちょっと窮屈そうに身動きして、「サロメ」を読みだした。そっと目を上げるともう半分ほどページが進んでいる。私は追いつけそうにない。そもそも「サロメ」を知ったのだって、彼女が昨日読み始めたからだった。結局私は、虚ろな影のように彼女の真似をひっそりとするしかない。

半分読まれたページの厚みが、私の片想いが決して実ることがないことの固い意思表示のようで、不意に泣きたくなった。

分かっている、分かっているのだけれど、何かが必死で喚いている。

頰が熱くなるのを感じながら、私は再び文庫本を広げる。彼女に表紙を見せないように、彼女が辿っただろう文字を同じように辿っていく。



王女はなんと蒼いお顔をしておられることか!あんなに蒼いお顔をしていられるのはついぞ見たこともない。銀の鏡に映る白いバラの影みたいだ。


若いシリア人はサロメに恋している。多分サロメは、彼を一顧だにしない。私は苦しい想いで、すぐ前でめくられ続けるページの音を聞く。

追いつきたい、でも私は永遠に追いつけない。私が追いかけていることだって、知ることもない。



そなたの唇にくちづけするよ、ヨカナーン。そなたの唇にくちづけするよ。



憐れなサロメ、馬鹿な若いシリア人。不幸の腐臭が文字から漂ってくるようで、私は文庫本を閉じた。

彼女はすらすらとページをめくっていく。物語はもう終わりに近付いているようだ。

私はまだまだ終わりには程遠い。電車が彼女の降りる駅で止まる。

もどかしくて私はズルをする。彼女と同じ最後のページまで翔んでみる。

サロメの声しか聞こえない。



ああ!おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン、お前の口にくちづけしたよ。おまえの唇は苦い味がした。あれは血の味だったのか?……いいえ、ことによると恋の味かもしれぬ……恋は苦い味がするとか……でも、それがなんだというの?それがなんだというの?あたしはおまえの口にくちづけしたのだよ、ヨカナーン。



彼女は私を振り返りもせずに降りていく。

その背中を締め付けられる想いで見送った。また会えるように、いるかいないか分からない神さまに祈ってみる。


もう一度、「サロメ」を開いてみる。


恋は苦い味がする。

あたしはおまえの口にくちづけしたのだよ、ヨカナーン。


こんなことはできそうもない。

彼女が降りた駅にがゆっくりゆっくり遠ざかる。私は永遠に追いつけない。

そんな私の存在を、彼女は知ることもない。

無意識のうちに、唇を噛む。

血の味がする。

恋は苦い味がする。




引用

オスカー・ワイルド 西村孝次訳「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」新潮文庫


作中引用は順に 9p 11p 28p 70p

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