嘘、悲劇

三津凛

第1話

もしも嘘がなかったら。

そんなことを考える人間は大抵どこかで大嘘をついている。


「アマデウス」が無音で流れている。

私がそれを知らせてやると、泉美いずみは頭上を見上げた。今時見なくなった重たげなブラウン管に、真っ白なカツラを被ったモーツァルトがちょっと不鮮明に映っている。

それを嬉しそうに泉美が眺める。

「音がないのが残念」

「そうだね」

私も頷く。

「モーツァルトはね、オーボエ協奏曲がとても素敵なの。花が咲いたみたい」

私よりも6つ上なのに、泉美は若々しくて可愛い。私は目を細めて頷く。柔らかく頰にかかった幾筋かの髪を撫でたい衝動に駆られる。

「モーツァルトだと、ピアノ協奏曲しか知らない」

泉美が笑う。

「何番が好きなの?」

「20番。第1楽章が好きなの」

ひとくちハイボールを飲んでから、泉美は横目で私を一瞥して呟く。

「陰気なのね」

歳下の妹にちょっと意地悪を言うように、泉美は軽く肘で私を突く。

2つ隣のカウンターで飲んでいる2人組の若い女の子達がちらちらとこちらを見てくる。

生々しい、とでも言いたげな露骨な視線を感じる。

「2人でゆっくり外で飲めるなんて、久し振りね」

泉美は屈託なく笑う。心から嬉しそうに、長い指で私の頰を撫でる。

これが嘘だなんて信じられない。

私は背筋を伸ばして、泉美に向き直る。

「最近ヘルダーリンを読んだの」

「へぇ、何か面白いこと書いてた?」

私はとっておきの秘密を打ち明けるように、少しためらってから泉美の耳元で囁く。

「友達を忘れるのも、芸術家を嘲って、深い精神を卑小なるものと考えるのも、神は許してくれる、ただ決して

愛し合うものたちの平和を乱すな」

私は泉美の薄い口元を真っ直ぐ見つめる。

泉美は共犯者じみた笑みを浮かべた。

「愛し合うものたち、ね」

「いいでしょ」

私は少しどきどきしながら泉美の横顔を眺めた。この横顔を自分の手で壊してしまうことなんてないのに。

私は一体何をしたいのだろう。

「それで、誰が平和を乱すの?」

「それは…」

私が言いかけると、泉美は掌で私の唇を押さえた。

「続きは帰ってやりましょう」

上から下までなぞるように見つめられる。


女が女を狩っている。

こうやって、口説くの。口説いたの。


続きはもう言えない。

私は泉美の毒を浴びて、亡霊のように後についていくことしかできなかった。


女の身体は大地に似ている。

泉美の身体はこんなにも細くたおやかなのに、どこまでも深く肥沃に私を包んでくれる。

だから、ぬかるみに足跡が刻まれるように他人の残した跡が綺麗に刻まれる。じりじりと焼け付くような恨みが泉美と相手の女に向かう。

「泉美」

「…なぁに」

欠伸をするように、泉美が応える。

「私のこと好き?」

「急にどうしたの」

ため息混じりに泉美が呟く。途中で消えた快感を呼び戻すように、私の頭を撫でる。

「ねぇ、他の誰かと好きな気持ちを分けたりしてないよね」

「何が言いたいの」

泉美は億劫そうに裸体を起こす。私の表情を一瞬だけ無機質な色で眺める。

呆れているのか、怒っているのか私には分からない。

「浮気してるって言いたいの?馬鹿ね」

泉美は何がおかしいのか、身体をくの字に折って笑う。

そしてひどく優しい顔になって私を抱きしめる。

「そんなことするわけないじゃない。私が好きなのはあなただけ」

どこまでも優しい声色がまるで慈雨のように私に降り注ぐ。

疑念を持ちながら自分を抱く女が憐れなのだ。

泉美は嘘をついている。


ねぇ、私知ってるの。研究室の女の子としてるでしょ。泉美ってほんと、歳下の子が好きよね。一体いくつよ相手の女こ。私じゃ物足りないの、応えてみなさいよ。嘘つかないでよ、泉美。


私と泉美は見つめ合う。泉美は誤魔化せた気でいるのか、微かに笑みさえ浮かべている。あくまで嘘を突き通すつもりなのか。

愛しさが憎しみに変わらない内に私も嘘をつく。まだ私は救われたい。

「そうね、変なこと言ってごめんね」

「そんなモテるわけないでしょ、私今年40よ」

「泉美は何歳になったて、女には困らないよ。そういう人って、本当にいるんだから」

泉美は何か言いかけて、また笑った。

「そういうとこ、可愛い」

蛇のように脚を絡ませて、泉美は私の首筋を吸った。


私は何も言えなくなる。

「ねぇ、本当に可愛いわ」

泉美は笑う鬼だ。私は多分赦すしかなくなってしまう。

それでも懐刀のように想いがせり上がってくる。


もうこんな風に愛さないで。些細な愛撫一つ一つが嫉妬に変わっていく。このまま私は私の嫉妬で死んでしまう。

お願いだから、他の女を満たした指で私を満たさないで。


「女同士って、時々近親相姦しているみたいで不思議にならない?」

全てが終わった後で、泉美が呟く。

「そんな風に思ったことなかった」

「どこからどこまでが、自分の身体か分からなくなる時があるの」

私は黙って泉美の首元に顔を埋める。

一瞬だけ、泉美の浮気も相手の女のこともどうでもよくなった。

泉美がその気なら、私だって一生離してはやるまいと思った。

嘘の代償は同じように嘘で報いてやらなければならない。

「好きよ」

泉美が囁く。虚ろな独り言のようだ。

「ねぇ、和漢朗詠集って知ってる?」

ちょっとむず痒そうに泉美は身動きする。

「さぁ」

私はそっと泉美の首筋を撫でる。

「いつはりの無き世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし」

「どういう意味?」

私は応えなかった。


嘘や偽りがない世の中なら、どんなにか人からかけられる言葉は嬉しいものであろうに。現実には、人の言葉は信じられない場合が多いことだ。


本当は意味を知っていたのか泉美は呑気に呟く。

「嘘なんて、なければいいのにね」

「そうね」

私も頷いた。


もしも嘘がなかったら。

そんなことを考える人間は大抵どこかで大嘘をついている。






引用


「ヘルダーリン全集」より

許しがたいこと

友達を忘れるのも、芸術家を嘲って、

深い精神を卑小なるものと考えるのも、

神は許してくれる、ただ決して

愛し合うものたちの平和を乱すな。

フランクフルト1796-1798


「和漢朗詠集」

いつはりの無き世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし

訳:嘘や偽りがない世の中なら、どんなにか人からかけられる言葉は嬉しいものであろうに。現実には、人の言葉は信じられない場合が多いことだ。


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