後編
動いた途端に酔いがまわる。沙都子はこの苦しい瞬間があまり好きではなかった。だからいつも、飲み過ぎないようにしている。
できるだけ傷つきたくない、苦しい思いはしたくない。そのための積み重ねが、結果として「真面目なサトコさん」を形作っていく。
これが、皮肉でなくて、なんなのだろうと沙都子はぼんやり思う。御影さんはしっかりとした足取りで、沙都子を引っ張っていく。
「御影さん、なんか男の人みたいですね…あはは、好きになっちゃいそう」
「だから好きになってもいいのにって、さっきから言ってるじゃない」
御影さんは振り返らずに言い放つ。この人は夜風のように、心地よい人だと沙都子は心から思った。
「本当に、好きになっちゃいそう」
沙都子は半分上の空で呟いた。
御影さんは呆れたのか、怒っているのか、手首を少しだけ強く握り返しただけで何も言わない。
今までどんな人のことを好きになってきたのだろうと、沙都子は御影さんの背中を眺めて思う。過去の中の誰もが遠くに霞んで、どうでもよくなってくる。
「ねぇ、飲み過ぎちゃった?」
赤ん坊を撫でるように、御影さんは沙都子のでこをさする。
ホテルのベッドは乾いた感触であまり優しくない。
無言で頷くと今度は頰を撫でられて、遠慮がちに耳元で囁かれる。
「ごめんね」
「…全然気にしないでください。動いたから酔いが回っただけですよ」
シーツは水のように冷たかった。それがほんの少しだけ、酔いの辛さを緩和してくれる。
御影さんはずっと沙都子を覗き込んでいる。少し戸惑って、沙都子は唇を開きかけた。
「…私はサトちゃんのこと、好きよ」
御影さんはそう言ってキスをした。
あっさり唇を割られて、舌を吸われる。
「ワインの味がする」
面白そうに笑われて、御影さんは自分の唇を舐めた。
沙都子は目を見開いて御影さんを見つめる。今湧き上がる熱は酔いだけではない。
「…御影さん」
「ごめんね、我慢できない」
乱暴にシーツをめくられて、御影さんは沙都子を抱きしめる。体の勢いとは裏腹に、御影さんの指はどこまでも優しかった。
暖かい吐息を首元に感じながら、男性とは全く違う重みが乗せられる。沙都子は陶酔感で半分瞳を閉じかけた。
「…御影さん」
沙都子はふと思いたって、熱っぽい腕に力を込める。
御影さんは素直に身体を起こして、押し戻されるままにしてくれた。
「私、よく分からないです…」
本当は女同士でも、こんな時は何も言わずに抱かれるままにする方がスマートなのかもしれない。
沙都子は微かに残って腕を使わせた自我を憎む。御影さんは沙都子の瞳を覗き込む。
「…私のことが嫌?それとも、女が嫌?」
「…どっちも、嫌じゃありません。御影さんのことは好きです」
「うん」
沙都子はふと泣きそうになる。
「私、すごくつまらない女なんですよ。御影さんも知ってますよね、真面目なサトコさんってあだ名」
一時だけの温もりの後に、またあの哀しい三拍子を突きつけられたくなかった。
刺激がない、つまらない、物足りない。真面目だけが取り柄の、真面目なサトコさん。
「多分、私のどこにも好きになってもらう所なんてないんです。刺激がない、つまらない、物足りないって言われて終わりなんですよ。もう哀しい思いしたくないんです」
沙都子はそこまで言うと、不意に苦しくなって身体を丸めた。無様なダンゴムシのような姿の自分を見て、御影さんも興が醒めただろうか。
「ふふ、私は結構好きだけどなあ、そういうバカ真面目なところ」
背中を優しく撫でられて、沙都子は少しだけ泣いた。
「優しいですね…」
「別に、優しくはないわ」
御影さんが笑う。
「サトちゃんみたいに、すぐに抱かせてくれない頑固な女ってぞくぞくしちゃう」
「えぇっ」
驚いて顔を上げると、待ち構えていたように抱きしめられる。
「馬鹿ね、刺激がないなんて言われてずっと気にしてたの?」
「毎回、同じこと言われてたら傷つきますよ。本当のことだし」
御影さんは否定も肯定もせずに笑う。
「…だったら刺激的な女になるように、料理すればいいだけじゃない。つまらない男とばかり付き合ってきたのね」
痺れるようなことを言われて、沙都子は「真面目なサトコさん」が遠くに追いやられていく気がした。
「私がちゃんと女にしてあげる」
御影さんは生真面目に言い放って、そっと沙都子の脚に指を伸ばした。
沙都子は相変わらず、「真面目なサトコさん」と揶揄されている。
淡々とルーティーンをこなし、遅刻や欠勤はしない。コンビニや社食でも慣れ親しんだものしか食べない。
元の濁りの、田沼恋しき。
澄み切った濁りのない人間よりも、薄汚れた誰かの方を、求めてしまうのは本能なのだろうか。
あの日の夜、思っていたことを御影さんにぶつけたら冷静な声で返された。
「川とかでも、綺麗すぎるとプランクトンがいないから魚は寄り付かないんだってよ」
そして御影さんは意地悪く言い放った。
「…でも、私みたいなのに目をつけられてるから、"真面目なサトコさん"も結構薄汚れてるのよ。ふふ」
沙都子はそれがなぜかとても嬉しかった。
「ねぇ、サトコさん。またで悪いんだけどこれ、お願いできない?」
枡田さんも相変わらず平気で仕事を押し付けてくる。その傍を御影さんが行きかけて立ち止まる。
沙都子はその視線を捕まえて、ちょっとだけ勇気を出してみることにした。
「ごめんなさい、今日は予定があるの」
「えぇー、なんとかできない?私もデートなの。…真面目なサトコさんも、もしかしてデート、とかないよね?」
枡田さんも一筋縄ではいかない。
御影さんがじっとこちらを見つめている。沙都子は一瞬だけ目の前の枡田さんに視線を移した。
「…私もデートなんです。今日は大切な日だからどうしてもできないんです。…それに」
枡田さんは沙都子のきっぱりした口調に驚いて目を見開く。
「自分のことは自分でしてくださいね」
それだけ言って、枡田さんから視線を外す。御影さんは立ったまま沙都子を見つめている。
「うん、…ごめんね」
枡田さんはそれ以上何も言わず、むっつりした顔でパソコンに向かった。
真面目なサトコさん。
御影さんは唇だけでそう呟いて、どこかへ行ってしまった。
沙都子は不思議と凪いだ心地で、キーボードを叩く。いつもと同じ音と景色なのに、ワントーン明るくなったように感じる。
しばらくして、背中を叩かれた。振り返る間もなく黄色のポストイットがデスクに貼られる。背中を叩いた主は知らん顔して、仕事に戻っていく。
サトちゃん、デートどこ行く?
真面目なだけのサトコさん、はもういない。
真面目なサトコさん 三津凛 @mitsurin12
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