中編

濁った人間は、雑音を投げかける人でもあるのだろうか。

沙都子はそっと目の前の御影さんを眺める。彼女の話は他愛もなく、オチもない。その他の同僚や、社会人になってからは疎遠になってしまった女友達の話とそう大差はないはずなのに、嫌な気持ちはしなかった。夜眠れずに小さな音で流したままにするテレビの騒めきのように、沙都子には心地よかった。

こういう人が、誰かの特別になれるのだろうと沙都子は哀しく思った。ふと視線を感じると、御影さんがじっとこちらを見ていた。

「あの、なにか……」

「別になにも。見てちゃいけない?」

沙都子は困って目を逸らす。気のせいか、御影さんの視線にはどこか男が女を眺める時のような熱が込められているように感じる。

なにかよからぬものが二人の間で発酵していきそうで、沙都子は怖くなる。

気まずさを上手く誤魔化すこともできずに、視線を無数に並ぶワインボトルに転じる。

意味の分からない外国語の羅列が、不思議と気持ちを凪いだものにさせていく。すると、御影さんが笑った。

「ねぇ、せっかくだしお酒飲もうか」

「ええっ」

「いいじゃない」

沙都子の反応を待たずに、御影さんは注文をする。この人には敵わない、と沙都子は思う。

綺麗に整った横顔を眺めていると、自己嫌悪がじくじくと疼き出す。

「…御影さんは、どうして私を誘ったんですか?私、そんなに楽しい人間じゃないと思うんですけど」

御影さんは穏やかな顔になって、こちらに手を伸ばす。さっき話していた近所の通い猫をあやすように、頰の辺りを撫でられる。

「ずっと、狙ってたから」

「…どういう意味なんです?」

「ふふ、そのままの意味なんだけど」

御影さんはほんの少し目を逸らした。可愛い人だな、と沙都子は思った。

なにを狙ってたのだろうと、ますます不思議な心地になる。

「…ねぇ、サトちゃんは今付き合ってる人とかいるの?」

いきなり斬り込むように言われて、沙都子は俯く。

「一昨日、振られたばかりですよ」

「ふふ、よかった」

御影さんは露骨に喜ぶ。沙都子は少しだけ眉根を寄せた。自分が死ぬほど思い悩んでいることを、簡単に裁断されることに暗い怒りを覚えた。

「それはどういう…」

「ねぇ、サトちゃんが人を好きになるポイントってなんなの?」

御影さんは遮って聞いてくる。その瞳が、かつて自分を口説いてきた男たちのものと同じように煌めいているのに気が付いた。

沙都子は目を泳がせて、逃げ道はないか頭をめぐらせる。ちょうどワインが来てほんの少し、救われた気になる。

「ねぇ、どんな人が好きなの?」

御影さんはしつこく聞いてくる。沙都子はワインを舐めてから、回らない頭でなんとか答えを捻りだす。

「…私のことを好きになってくれる人、かな」

我ながら貧相な答えだと思った。こんなんだから、きっと最後には哀しい三拍子を叩きつけられて終わるのだろう。

御影さんはじっとこちらを見て口を開く。

「じゃあ、私があなたのことを好きだって言ったら、付き合ってくれるの?」

「ええっ…それは」

「付き合ってくれて、セックスもしてくれるの?」

攻めるような色合いはあまりなかったけれど、御影さんの顔は見れなかった。

「…サトちゃんはもっと自分に自信持っていいんじゃないの?」

妹を諭すように、御影さんは言う。沙都子は顔を上げた。

酔っているのか、艶のある林檎のように頰が紅い。

綺麗な人だなぁと沙都子は改めて思う。ワインのせいか、強固な自我が一緒に解けて無くなっていくようだった。

「…私、いつも付き合ってる人につまらないって言われるんです」

上目遣いに御影さんを見てみる。ほんのり口元だけ笑って、御影さんは観察するようにこちらを見返す。

「今日はサトちゃんの話し、とことん聞くわ」

優しいですね、と沙都子は呟いた。御影さんは聞こえなかったのか何も言わない。

気がつくと空のグラスが幾つもできている。電車の時間を気にする切迫感も、どこかに忘れている。

御影さんの唇がこちらに開かれて、何か言った。

横にぴったりと座られて、綺麗な顔が目の前にある。茶色がかった色素の薄い瞳が真っ直ぐ沙都子を見ている。

このシチュエーション、男女だったら間違いなくキスするだろうなと沙都子は他人事のように思う。

「まだ気づかないの?」

不意に御影さんの暗い声が響く。

沙都子は訳が分からず、曖昧に笑ってみせた。

「私、ちょっと酔ったみたい」

「…大丈夫ですか?…私もちょっとやばいかもです」

御影さんは何度か指で私の頰を撫でた。すべすべね、と呟かれる。

「ねぇ、いいホテル知ってるから今日そこに泊まろうか」

肩に手を置かれて言われる。

沙都子は不思議と愉快な気分になってくる。

元の濁りの、田沼恋しき。

真面目なだけの人間は多分こんなこと当たり前のように言えない。同性相手にも、妖艶に言ってのけるのだ。

「御影さんって、素敵な女性ですね」

驚いたように見つめ返される。

「私が男だったら、好きになっちゃいますよ」

「…別に今のままでも、好きになってくれていいのに」

御影さんはわざと沙都子の耳元で言う。沙都子は聞こえない振りをすることもできず、目を逸らした。

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