真面目なサトコさん
三津凛
前編
元の濁りの、田沼恋しき。
本当のこと言われるの、結構傷つくんだけどなあ、と沙都子は思う。
刺激がない、つまらない、物足りない。
一昨日、別れた彼氏にくどくどとしつこく言われたことを要約すれば哀しい三拍子が出来上がる。キーボードを無表情に叩きながら、ずっと言われたことが頭をループする。
そんなこと自分が一番よく分かっている。私が一番、私に倦んでいるのにと沙都子は思う。
水清ければ魚棲まず。
元の濁りの、田沼恋しき。
一点の曇りも濁りもない人間はただの良い人で終わる。人は薄汚れていても、濁った誰かの方を求める。
沙都子は知らず知らずの内に唇を歪める。パソコンの液晶画面に映った自分は、取り換えのきく人間のお手本のような顔をしている。
特徴がなく、野暮ったい。真面目だけが取り柄の人間だ。
だから、自分は捨てられてしまったのだろうか。思えば去っていった男たちはみんな同じようなことを言い残していった気がする。
刺激がない、つまらない、物足りない、哀しい三拍子だ。
沙都子は不意に泣きそうになる。
真面目なサトコさん。
社内でそんなあだ名をつけられていることも知っている。
学生時代は真面目であることで評価もされてきたけれど、就活の時は吐くほど苦労させられたことを思い出す。真面目なだけの人間はいらない。暗にそう面罵されているようで、落ち込んだものだった。
見ないようにしてきた傷口をまたえぐり返された気分だった。
元の濁りの、田沼恋しき。
どんなに折り目正しくしていても、好きになった人はみんな自分とは逆の人の元へ戻っていく。
沙都子がため息をつくと、隣の枡田さんがからかうように声をかけてくる。
「真面目なサトコさんがため息なんて、珍しい」
「…私だって、ため息くらいつきますよ」
悪気のない瞳を見返して、沙都子は無理やり笑った。
淡々とルーティーンをこなす。遅刻や欠勤はしない、前もって必ず伝える。コンビニや社食で食べるものはいつも決まっている、新味よりも慣れ親しんだ味を選ぶ。ご飯や飲みの誘いにも顔を出すけれど、必ず電車のある内に帰る。
沙都子にとって当たり前の断片を、目ざとく掘り出す人たちがあだ名をつける。
真面目なサトコさん。
そんなに、真面目でもないんだけどなぁと沙都子は枡田さんに冷やかされない程度に息を吐く。それでも、一度貼られた「真面目なサトコさん」を越えることはできそうにない。
「サトコさん、これもお願いしてもいい?」
枡田さんや他の社員は要領がいい。適当に理由をつけて、そして申し訳程度にすまなそうな顔を引っ付けて「サトコさん」にお願いにやって来る。
「大丈夫ですよ、気にしないでください」
沙都子も気を遣わせない笑顔を引っ付けて、応える。
沙都子は結局独りきりになる。
空っぽになった自分の周りのデスクを見渡して、思い切り椅子に背を預ける。ここだけ、陸の孤島みたいだった。
こういう所から抜け出せないから、自分はつまらないままなのだろうか。
沙都子は頬杖をついて、置き去りにされた資料の山を眺めた。
「あら、サトちゃんじゃない。まだ残ってるの?」
沙都子のことを、こんな風に気安く呼ぶ人は同僚にいない。沙都子は怯えて振り返る。
「なあに、そんなびっくりしなくてもいいじゃない」
御影みかげさんは枡田さんの席に当たり前のように、座る。
本社の方から異動してきた御影さんは沙都子と三つしか違わないが、明らかに仕事の質が違う。
「残業たまにしてるけど、それ自分の仕事なの?」
「え、いや……」
御影さんは資料の山を冷めた瞳で見下ろす。沙都子はなんと反応していいか分からず、黙ってキーボードの上に指を置いた。
必要以上に目の前の液晶画面に食いついている振りをする。それは沙都子なりのポーズだった。臆病な野良猫が精一杯自分のテリトリーを主張するのと同じものだ。必要以上にこちらを見ないでほしい。
「ねぇ、ご飯食べ行かない?」
でも、御影さんにはそんな小手先のポーズは通用しないようだった。沙都子は困って、早口で伝えてみる。
「でも、まだ仕事があるんです」
「他人の仕事でしょ?」
こともなげに言い放たれると、沙都子は二の句が継げない。
「いいじゃない、別に自分の仕事じゃないなら。自分のことは自分でしてもらいましょ」
立ち上がると、御影さんは資料の束を確認しながら、それぞれ当人たちのデスクの上に置いていく。
沙都子は唖然としてその様子を見守った。
「サトちゃんって、お人好しよね」
「……そうですかね」
ふと、どうしてこの人はサトコさん、ではなくてサトちゃんと呼ぶのだろうと思った。
「あの、ありがとうございました」
沙都子はどきどきしながら言う。自分もこんな風に思ったことをできたら、哀しい三拍子から脱けだすことができるのだろうか。
「早くご飯食べ行こ」
御影さんは気にした風もなく言い放つ。強引に手を握られて引っ張られる。
うわあ、これ相手が男ならどう思っただろうかと沙都子は一瞬考え込む。
御影さんの細い背中は行動とは裏腹に、どこか繊細だった。
沙都子の視線を感じ取ったのか、御影さんは振り返って付け加える。
「今夜はサトちゃんの奢りね」
「ええっ、それはちょっと…困ります」
沙都子が思わず抗議すると、御影さんはなぜかとても嬉しそうな顔をした。
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