第2話『ブラックラックメール』

 私は神様になんてなりたくなかった。


 暗い部屋。

 ひとつきりのパイプ椅子。

 畳じきの和室。

 薄く日に焼けた畳と角のさび付いたパイプ椅子が、部屋にたった年月を思わせた。

 椅子の脚ですり切れた畳を横目に、襖を開く。

 上下二段の押し入れ。

 照明に照らし出されたのはスクロールの山だった。

 和紙で書かれた無数のスクロール。

 その一つを、私は手に取った。

 封じたひもを解いてみれば、書かれていたのはこんな内容だった。


 ――あなたに以下の能力を授けます。

 ――【不幸の手(ブラックラックメール)】

 ――あなたが不幸だと感じたとき、その感情と境遇を他人に押しつけることができます。


 これを書いたのは私だ。

 私こそが責任者だ。

 ゆえに、顛末を語る義務がある。


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 クドウ エイリ。三十二歳。

 広くも狭くも無いマンションに暮らす女性だ。

 アルバイトを転々とし、付き合う男を転々とし、最後には関東のはずれにある小さな部屋へと戻ってゆく。

 彼女の自慢は不幸なことであった。

「幸せ自慢ってあるじゃない? 私、あれってイライラするのよね。

 せめて他人にさらけ出すのは自重して欲しいって、そう思わない?」

 幾度となく、他人に不幸の自慢を求めた。

 最後には自分がより不幸であることを説明して、僅かな優越感を得る。それこそがライフワークであった。

 それを咎める者もいた。慰めようとする者もいた。共感する者もいて、おぼれる者もいた。そしてその全てが通り過ぎ、過去のものとなった。

 まるで草をはむ山羊のように、次へその次へと移ろい、彼女は不幸自慢を続けてゆく。

 やがてはその人生すらも自慢にして、彼女は誇らしく不幸を満喫していた。

 そんなある日のこと。

 唐突に彼女を軽トラックがはねた。

 雨の降る夜のこと。

 空を飛ぶ一瞬に思い描いた走馬燈のめまぐるしさに心を奪われている間に、彼女は、この世界から意識を消したのだった。


 目を開いて彼女が最初に感じたのはめまいと動揺であったという。

 車にはねられ浮遊感の中でスローモーションにひたる四次元のたゆたいが、ある時点からパイプ椅子に座るだけの時間へと変わっていたのだから、無理からぬ。

 暗闇。

 パイプ椅子。

 どこかよどんだ空気の中に、ぼんやりと人影が現われた。

 人影……私のことだ。

 私は、スクロールを広げて見せた。

「クドウ エイリさん。あなたは死にました」

 どこかたどたどしい声であったと、後に彼女は語った。

 銀行員が金額を述べる際の口調に似ていたとも、語ったように思う。

 私と学業豊かで理知的な銀行員ではあまりに似付かわしくないではないか。

「つきましては、あなたをよみがえらせ、チート能力を授け、異世界へ送り出して差し上げましょう」

 人生の多くを不幸自慢と暇つぶしと気分転換にかたむけてきた彼女にとって、理解の及ばぬ話ではなかったらしい。

 めまいが冷めると同時に、状況を悟って背筋を伸ばした。

 光と共に浮き上がるスクロール。

 輝く文字が、彼女のなかへと吸い込まれていった。


 ――あなたに以下の能力を授けます。

 ――【不幸の手(ブラックラックメール)】

 ――あなたが不幸だと感じたとき、その感情と境遇を他人に押しつけることができます。


 この後、二度目のめまいを経験することになる。

 彼女が瞬きをした次の時、馬車の走る市場に立っていたのだから。


 彼女はその後、奴隷商につかまり、言葉にできぬ待遇を受けたのちに貴族階級の人間に売られ、常人が目を覆うような日常を過ごしたという。

 それに留まるかとおもいきや、あるとき屋敷に火を放ち持ち主を無一文にした。

 自由を勝ち取ったかに見えた彼女はどういうわけか奴隷商人に再び身を寄せ、より安い価格で売り飛ばされ、より劣悪な環境に沈み、泥におぼれる鼠のごとく暮らしたという。

 驚くべきは、授けたチート能力を一度たりとも使わなかったということだ。

 彼女は想像するかぎりの不幸の中で、誰にも看取られること無く惨めに死んだ。


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 窓を開くと、夜闇が広がっていた。

 星もなく月もない、ただ部屋からの明かりだけが足下とベランダの柵を照らしている。

 ゆっくりと歩み出ると、どこからか風がふいた。

「風は嫌いだわ」

 声。

 ベランダの間を阻むように張られたトタンのついたてより向こうから、煙と共にこちらへと流れてきた、声。

 安い煙草のにおいが鼻について、私は強く鼻息をふいた。

「お喋りも嫌い。煙草をけむたがる人も嫌いだし、私と同じタイミングでベランダに出る人間も嫌い」

「そうですか」

 私は会話を終えるつもりで、続けて『じゃあ』と言おうとした……のだが。

 隣の声は私が息をはく間に言葉を続けてきた。

「なにか腑に落ちないって顔じゃない。嫌いだわ、そういう顔」

 見えもしないのになぜわかるのか。

 そう問おうとしてやめた。おっくうなことだ。また隣に住む正体不明の誰かが嫌うもののリストが増えるだけだ。

「話なさいよ」

「なぜです」

「隠されるのは嫌いなのよ」

「聞きたいのですか」

「話されるのも嫌いだけど」

「どちらなのです」

「どっちも嫌いだから、せめて仕事をしたいのよ」

 煙草の煙を吐き出す音。

 風にのって、またあのにおいがした。

 なぜだかチョコレートのように甘い香りの、煙であった。

 私はクドウ エイリの顛末を語って聞かせた。

 生来より人との付き合いを苦手としてきた私の説明はひどいもので、彼女はたびたび舌打ちのように煙を吐いては私の話を遮って補足を求めたが、しばらくもだもだと話すうちに、一通りが伝わった次第である。

「彼女は、なぜ能力を使わなかったのでしょう」

 聞き終わった彼女は煙をいまいちど吐いた。

「自分が一番不幸でいたかったんでしょう」

 嫌いだわ、そういう人。

 彼女はそうとだけ言い残して、ベランダを後にした。

 甘い煙だけが、闇のなかに残っている。

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短編転生IF @higrai

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