第1話『バックトゥーザホープ』

 雨粒がはねている。

 眼前五センチの水たまり。

 転がった片方だけの靴。

 傾いたビニール傘。

 水たまりが赤黒く色づいていく。

 それが自分の血だと認識した二秒後、意識はどこかへ消えた。

 椅子と、暗闇と、スポットライトの部屋へ。


 デジタル時計の表示は五月二十日五時五十五分。

 一人用の冷蔵庫が大きく見えた。

 開放の音とオレンジ色のライトに照らされたのはいつ手に入れたかも覚えていない乾燥剤。

 他には何も無い。

 振り返ると大量に積み上げられた感想パスタ。

 二歩進めば玄関につくような狭苦しいキッチン兼通路に立って、ひとくちガスコンロに火をいれる。

 鍋の水を湧かし、一握りの乾燥パスタとひとつまみの塩を更に並べた。

 どれだけ時間が過ぎたろう。ふつふつと鍋が鳴り始めた頃、全てが嫌になって火を消した。

 ドアノブをひねって外へ出る。茜色の空が自分の黒いジャージを照らしている。

 ジャージなのは着やすいからだ。

 黒いのは汚れが目立たないからだ。

 他に服は持っていない。持っていた気はするが、押し入れの奥でカビにまみれたのを昨年末に見たきりだ。

 ため息も出ない。

 穴あきサンダルをつっかけて外へ歩き出した。

 長いこと歩いていないせいか、マンションの外へと出ただけで既に膝がぱきぱきと鳴った。

 声の出し方も忘れたのか、独り言すら出てこない。鼻の下にある部位は呼吸の補助パーツだ。

 いつだか前のことを思い出す。

 フォロワー零人のSNSクローズドアカウントの書き込みだ。

 『土の中で暮らしたかったわけじゃない』


 土の中で暮らしたかったわけじゃない。

 日の光に晒されれば死ぬからだ。

 土の上に出る力がないからだ。

 小学校でのあだ名は『問題児』だった。気に入らないことがあると近くにあるものを投げる癖があったせいで、教師が両足を掴んで空き教室へ放り込むのが日課だったからだ。

 小学校の木目タイルを両手で掴もうともがくさまを、ホコリが口や鼻にはいる感覚を、いつも鮮明に思い出す。

 それすら許されなかった中学校では登校そのものをやめ、高校には通うこと無く、はじき出されるようにねじ込まれた商店でのアルバイトは長続きせず、両親が昔暮らしていたアパートの一室を占拠し、ごく僅かな仕送りと生活保護で細々と暮らす日々。一日の食費を200円に抑える日々。

 生きていく力などなかった。

 明日を目指す体力などなかった。

 ぽつぽつと降り始める雨に、傘を差す気にもならなかった。


 夕日が見えなくなる頃、人通りの多い道を歩いていた。

 まわりは傘をさしている。

 さしていないのは自分だけだ。

 それを物珍しそうに眺める人や、隠れてスマートホンで撮影する人もいる。だから、どうしたというのか。

 自分に行き先などない。

 自分に目標などない。

 ただ生きているだけの生物だ。虫よりももっと下等な何かだ。

 エンジン音が近づいてくる。

 ついさっき自分をスマートホンで撮影した女子高生が、画面をみてくすくす笑っている。

 道路の上で。

 傘を差して。

 きっと家に帰るのだろう。

 未来ある家に。そしてゆくゆくは大学生か会社員になって、結婚をして子供を産んで、年老いていくのだろう。目標のある生物が。

 トラックに撥ねられていく。

 ああ。

 ああ。

 私はなんて。


 目を覚ました。

 デジタル時計の表示は五月二十日五時五十五分。

 スプリングの死んだベッドから起き上がり、あたまをかく。

 何日も入浴をさぼった頭からはふけばかりが落ちる。

 悪臭にも慣れた。むしろ自分のような生き物が悪臭を放つのは当然のことだと、しっくりきているくらいだ。

 だって昨日。

 自分は人が死ぬ様をただ見過ごしたのだ。

「…………」

 見過ごしたのか?

 あれから自分は、どうしたのだったか。

 冷蔵庫を開ける。

 オレンジ色の光が乾燥剤だけを照らす。乾燥パスタと塩だけのキッチン。

 居心地の悪さを感じて外へ出た。

 夕焼け。黒いジャージの自分。

 歩いているうちに雨は降り、いつしか人通りの多い道を歩いていた。

 スマートホンの撮影音がした。

 自分を撮影したのだろう。まるで気づかれていないと思っている女子高生がこちらから目を背け、画面をみてくすくす笑っている。

 道路の真ん中で、傘を差して。

 トラックが速度をあげている。

 いけない。

 飛び出そうとした自分の足から、突如としてがくんと力が抜けた。

 女子高生があらぬ方向へへし折れていく。

 ああ。

 ああ。

 自分はなんて……。


 目を覚ました。

 デジタル時計の表示は五月二十日五時五十五分。

 飛び起きた。

 勘違いなどもうしない。時間が、日にちが、繰り返されている。

 着の身着のまま――といっても着替えなどここ何十日としていないが――家を飛び出した。

 町を走る。

 人通りの多い道へ。

 息が切れるのが早い。まっすぐな道を少し走っただけでめまいがした。

 運動もせず乾燥パスタと塩だけで暮らした生物の限界だ。

 よろめくように歩き、あの場所へとやってきた。

 スマートホンの撮影音。

 トラックの近づく音。

 道の真ん中には、彼女がいた。

 ああ。

 ああ。

 いけない。

 よろめくように道路に飛び出し、手を広げた。

 虫の死に方など、このくらいが丁度いい。

 目を閉じる。

 横からの衝撃。

 予想していない柔らかい衝撃。

 目を開くと、両手で自分を突き飛ばした女子高生が見えた。

 女子高生の側頭部と肩がトラックに破壊されるさまが、見えた。

 ああ。

 ああ。

 私はなんて! なんて! なんて……!






「日暮 今日屋さん。あなたは死にました。

 つきましては、あなたを死ぬ前の姿のまま異世界へ送り出して差し上げましょう。

 それだけではありません。願いを叶えてさしあげます。

 なにを望みますか?」

 椅子。暗闇。スポットライト。

 雨に濡れたジャージと手。

 労働を知らぬ手。

 この手で、なにをしようというのか。

 いかにどんな力を手に入れたところで、なにが出来るというのだろうか。

 大体、私は持っていたはずだ。

 無限の未来。

 大勢の希望。

 生まれたその日は両親が泣いて喜び、初めて口にした言葉に周囲が歓喜したはずだ。

 自分は総理大臣にだって名医にだってハリウッドスターにだってなれたはずだ。

 自分は。

 怠けたのだ。

 生きることを怠けたのだ。

 そんな自分が、どこへ行ってなにを手に入れたとて……!

「自分の願いは一つだけです」

 声は、不思議とすらすらと喉から出た。

「昨日に戻してください」

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