冬と春の余白
……それでも、ドアがゆけば
「こんにちは……、連絡もなしに、急にごめんね」
「ぃやあ、こんにちは。上が、る?」
「ぅん、少し、ぃぃ?」
「どうぞ」
大人の女性の
「久しぶりに、お邪魔します……」
招き入れ背中を向けた私の、リビングへ
「はい」
彼女はソファーに座ると、持っていた、温かいであろう緑茶のペットボトルをふたつ、テーブルに置いた。
「ありがとう」
私は来客の訪問の不馴れを詫びつつ、対座した。旅路の反応は、機を見るに敏ではなかった。俄かに
「ハァ……」
共に喉を真っ先に潤し、期待する所を呑み込むように鎮まった。私はただ、こちら岸ではないプロセスを、当然ながら強く望んでいた。聞きたかった。
「最近、どう?」
「うん、あのね……」
「……」
「……きっと戻ると想えるから、互いに離れていったのかな?……正樹さん達、ふたり……」
やはり、最終ジャッジメントの相互理解を、どうしても聞きたい。かつて、悲しくてならなかった自分の手が、少しでも、また悲しくなりそうな自分の手を、そちらへ引いてしまっている。その
「いっちゃんが……」
絵里子さんの切り出す言葉に私はハッと、すぐ
「私にこの
「ぅん」
そう言えば崖下から、最近あまり連絡がなかった。
「『
「本当?!……」
「ぅん」
私は反応を抑え難い。そうなって欲しかった現実がやって来た。込み上げるもの、
わがまま怠けた涙と、安定を求めし汗との、アプローチの時間に至っているかのような、私達ふたりであったろう。冷熱の肉薄、悲喜のシンパシーが、あの……、ひと夏の過ちから……何かを……抜き去ろうとしている。それはたぶん、いや、
「いっちゃんも、活動していたんだね……」
「ぅ、うん」
その
「僕も、何か、こう……ねっ?」
「ぅ、うん」
「絵里子さんは?」
「……やっぱり……そうするしかないと想う。言えないけど……」
そうなのだ。それぞれが見つめているのは、自身のやるべき事……。わかり切っているのだ。その願いを、稲村の窓眺一渡りまでもが、まるで
「私達も、それぞれに解決しないと、ねっ……」
「んっ」
彼女は、私の安堵を確認したかの納得顔を滲ませ、相好を崩していった。さにあらぬ、互いの歯
そして、
『依津子さん、真波さん……、みなさん、良かったね……』
その、崖下から吹き上げる硝子越しの風は、私の
……黙ったまま、そうしている私の中に……、こ、これは一体?!……。割って入って来た。飛び込んで来た。
見下ろせば……私のあの時の、一回だけの西湘の
静寂の崖下が、俄かに舞台のセリを上げ、音は聞こえぬ
そうして目印にした私の姿が、ファインダーに傾注している様子を、そこからでは見えないはずだ。にもせよ冬に負けない、自分に負けない役どころの演者勢揃いは、風の中の顔見世舞台の観劇の席へと、写し手を招待する。一望千里の同志として相通じる客席に、有無を言わさず、ただ、あるべき姿へのぶっ返りを見せる。唐突という時間は、気づかぬほど早いと言う他ない展開と、折り重なっていた。気づかせなかったのだ。今にしてそう知らされた私の、気づかぬ迂闊を感じさせないまでの、優しい
『みなさん、願いが叶いましたね……、おめでとうございます。凪ちゃん、良かったね……』
本心ならば、すり抜けさせてくれるだろう硝子は、ただ真っすぐに忽ち、私の喜びの涙目を映していた。想い届けたいカメラを構えていたのは、私は元より、冬の日射しも同じであった。私の中を通り過ぎていった想い出に、光が重なれば、険し坂のひとつ下、念願の一家団欒の見晴らしは、窓辺を希望の涙の海に満たしてゆく。私が何度もシャッターを切る度に、日射しは応え、想いを汲み取る涙も溢れずにはいられない。透明な窓の鏡の世界に佇み、柔らかな冬の光のフラッシュに泣く、私の顔の波立ちは高くなってゆく。もう、抑止力を諦めようものなら、
「ねえ、どうしたの?……」
絵里子さんに、伝わらないまでもなかった。
「何があったの?」
彼女はゆっくり私へ歩み寄った。が、時
「ええっ?!……」
隠し切れぬのも、無理もなかった。私の代わりの声の一視同仁であったろう。冬の時を惜しんで止まない、薄輝く白日の下、夢を通り過ぎた証しに実る事実に触れ、その秘めたる
高見依津子……の文字が、小さく平らな海域を滑るように、躍っていた。
……その納得は、落ち着かせてくれない。やはり、こちらを見上げ、待つばかりの依津子さんに、反応した崖上の、束の間の忘我一線どもとて、探している、待っていたものを見つめているのだった。来るべきものに違いない、永く
私達が呼応し、眺めを引きのばすほど、崖下から仰ぎ見ている真実と尚も出逢った。それは疑いなく自然に
絵里子さんは、そのままの目で、私を見た。
「いっちゃんの家って……お隣りだったの?……」
「……ぅん。ごめん……どうしても、言えなかった……」
彼女は、本当に知らなかったようだった。依津子さんの家の話題にあまり触れぬのは、老舗の事情への遠慮深さからであろう、と想われ、そんな共通概念の陰で静観を届けていたのだ。それにしても、私は今まで、こういう謝りたい感情を、どれだけ口にして来た事だろう。説得力に自信がなかったのだ。でも、
いっちゃんの話を聞きなさい……
という絵里子さんの、入れ込み
「陽彦さん。やっぱり……、あなた達ふたりは……」
「……」
旅立っていった
伝わるものが、人をそうしたのではない。それ以前に、そうした自分自身にあった決断は、語らざるも、ない。その選択肢は、反応せざるを得ない。それは、この時、みなが見つめている、街ぐるみで守って久しい歴史に、
私は、息をゆっくりのばしつつ……
「もしもし……」
「あぁ、やっと出た。私です」
「ぁぁ……、やあ!」
確かにやっと、私は言葉を返していた。呑み込んだ人と、呑み込んでいる最中の人は違った。私の、わかったつもりにさせていたそれは、
「ねえ……、部屋にいるんでしょう?」
「うん」
電話から、二の句は尚、
「あの……、外へ出て、
私は、スマホの底部のメインマイクを、手で塞いだ。
「君がいる事、言ってもいいかな?」
隣りの彼女は、花も仄かに綻び、小さく、うなずいた。そして、私が再び話し出そうとするその、電話の手を奪い……笑顔の口元を
「いっちゃん! 私もいるよ」
「じゃあ、絵里子さんも一緒に見て」
「うん」
……渡り歩いたかの、舵取りの移り変わりに、私の場違い
「一緒でもいいよ。いつかの……勇気に応えたいの。私も、同じようにして……」
依津子さんは朗らかに即答した。
「わかった」
その了解は、誰の生返事を
……先日、私も……同じように、自分がここにいる姿を、見せたっけ。
……玄関にて、さほど外の寒さを感じないにせよ、絵里子さんの溜め息交じりの指先は多少、
私が歩を進めるより、少し退がり
……にもせよ、私の視界の切れ目に留まり、崖下から誘引するそれは?……。さっきと似るも更に浮上する、それは?……
まだ端っこで大人しくしているに過ぎない、怖いぐらいの
依津子さんの願いが、風となればこそ、
我が眼下を見下ろす、
「私……、素直に信じられない自分を、それでも信じるしかない自分と、サヨナラしなくちゃ……」
静かに、遠眺める隣りの
「……」
そこはかとない風の微笑なら、この今を包み切れていた。その手渡しは、いつかの、そして
全ては微笑みからだった。その為に、人は必要とされている。今、ここに居る。生まれて来ている。私は、そう想った。人には、創る目的がある。愛を守れる
……かつての無言の真実、大切な人であろうと誰であろうと、他者を泣かせた辛さを想い出している。私が泣くから……巻き添えにしてしまう……、人と見ればその目の中に、臆面もなく飛び込む。私はジェラシーに息が詰まりそうで、他者も閉塞されて……。絵里子さんさえ、そのように見えて来る。
そして今だから、強く想う。引き剥がそうとする風を信じ、悉くを載せてしまえ。それを優しく包み
高見家は、きっと、そんな手続きを経て、静かに見守れる無言に生まれ変わっていた。
小さな喜びは、主張しがちな何かを剥がす事で、一歩退がる事で、控えめに満たされていた。それらしい、この家の形が見える。それはたぶん、どんな涙も、他者から学ぶ為に流して来たのだろう。ひとりで生きて来たなら、生きてゆくなら……涙なんか要らなかった……これからも、要らない、はず……。この険し坂の下から、大人達は、通り過ぎただけの孤独と枯渇であったと……そう言える自分を見つけたと……こちらへ語りかけて来る。崖上の、取ってつけたかの無言風を剥がすようで、柔らかく搔い
透けて見える想い出は
愛という名の下に、帰って来いと……誰かの声が聞こえる。岬への坂道の家が、二軒……ただ、見つめられるばかりは、
いずくにか、和解すべき
言えなかった事、言えない真実の
割愛を叱ってくれる誰かの影を、慕う。
二月を
……ただ、私は……
脇見をせず、車の運転に集中していた。
隣りに依津子さん、そして、運転席の真後ろの後部座席には……絵里子さんを乗せている。
岬への坂道の家 小乃木慶紀 @keikionogi
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