冬と春の余白

 ……それでも、ドアがゆけばし入る絵里子さんの姿は、淡紅ほんのり含羞はにかみをはらみこそすれ最早、引き締める時期を通り過ぎた、もうその必要のない余得の如くあった。


「こんにちは……、連絡もなしに、急にごめんね」

「ぃやあ、こんにちは。上が、る?」

「ぅん、少し、ぃぃ?」

「どうぞ」

 大人の女性のあるく白い艶光つやびかりのかさを纏い、似て非なる、いつかの誰かのぼんぼりの如くあった。私達の、引けない態度の大人の嘘が、たとえ無言になろうとも。もうひとつあった忘れ物の想い出を、見ているような彼女だった。

「久しぶりに、お邪魔します……」

 招き入れ背中を向けた私の、リビングへもぐり込もうとする後ろを、絵里子さんは追って来た。まるで紙一重の、ともすると逆転のスパイラルのような空気が、表裏一体の運動に塗り替わっていった。

「はい」

 彼女はソファーに座ると、持っていた、温かいであろう緑茶のペットボトルをふたつ、テーブルに置いた。

「ありがとう」

 私は来客の訪問の不馴れを詫びつつ、対座した。旅路の反応は、機を見るに敏ではなかった。俄かに蹌踉よろめき、凪いでいられない。四季が移ろうような待ちびとの耳は、黙ってしまった絵里子さんが、触れたばかりの喚び鈴から導かれる。ばたかんとしている翼の、仮のすみの、心の扉の中の声を聞きたがっている。ふたりの眠らぬ表象、地下の情炎、そしておこりつつある表現のままの、折り重なる意識世界を。形を成した大切な既存と、それを成したプロセスは、これから成そうとしている事の、まだ決め切れぬその声だけは、聞くべきではなかっただろう。

「ハァ……」

 共に喉を真っ先に潤し、期待する所を呑み込むように鎮まった。私はただ、こちら岸ではないプロセスを、当然ながら強く望んでいた。聞きたかった。

「最近、どう?」

「うん、あのね……」

「……」

「……きっと戻ると想えるから、互いに離れていったのかな?……正樹さん達、ふたり……」

 やはり、最終ジャッジメントの相互理解を、どうしても聞きたい。かつて、悲しくてならなかった自分の手が、少しでも、また悲しくなりそうな自分の手を、そちらへ引いてしまっている。その余波なごりは、徒然つれづれなるままの不都合さえ、それぞれが至り、秘めたる結論が座視するようだ。持ち寄りし、すり合わせんと試す今の時、ひとりの男とひとりの女の、あれから、と、これから、を。過ぎ去る冬の風は、言い訳だとしても、ゆくのであるから。誰彼構わず人という名の下に、もう、いい……とさえ、自分から言う事も許され、そこから始まってもいい……かも知れない。向かい風は何を想っているだろう? すれ違うも外れぬ宿命さだめ、「創る経験」は揺らめくようで、そうではない。ふと……、逞しく感じられる風向きがいざなう、そんな心地がみ兆す。彫像のような凜々しさが、見え隠れして来た。

「いっちゃんが……」

 絵里子さんの切り出す言葉に私はハッと、すぐさま寄ってたかり、うちなる探り手どもは刮目かつもくした。それを彼女の待つ目が、見込み通りのじょうへ引き入れた。みひらかれた代わりの話は、語るだけであった。

「私にこのあいだ、電話で言ってたんだけど……」

「ぅん」

 そう言えば崖下から、最近あまり連絡がなかった。

「『いずれ、みんなにも知らせる』って。何でも……、妹さんと仲直りしたそう……」

「本当?!……」

「ぅん」

 私は反応を抑え難い。そうなって欲しかった現実がやって来た。込み上げるもの、ばなを挫かれ照れ隠したくても、嬉しさからみ出してゆく。内心、疑うまでもない波状に呑まれつつある。彼女は、そのつまずまがいのじらいを、理解してくれたような微笑みを際立たせた。不意の客人は、僅かに聞き取れる息をほどけば、緩やかな祝福を捧げられるのであった。互いに求める、言わずもがな同士のまなしは果たして、自らの現実を重ねている。絵里子さんは、それに応えたはずの私の目に映り込む、優しくなれそうな自分、なれる自分を見ながら、自信とプライドの灯が点るを、正直な表情に賭けているようだ。私達は自分を探し回っている。そして寂しさを知るほどに、最初からわかっていた、決められていたプロセスがある。信じる事、それを主張する根本なるものは、既成という巨大な情熱からの出発であった。もしそこに空白がし込み、パラドックスが想わせぶるなら、ジェラシーは隠せなくなる。愛されている今を創ってゆけば伴われる、安堵と寛容が、まだ見ぬものなら怖れ、空欄の回答のまま越えたがるのだろう。無言を選んだ彼女のまなじりを結んでいたのは、自分へ射す光を諦めず、集める為に、塞がぬ為に、言葉の樹々 を間伐するような心であった。土壌を譲らず細流をえらばず、海の富饒は成るような。

 わがまま怠けた涙と、安定を求めし汗との、アプローチの時間に至っているかのような、私達ふたりであったろう。冷熱の肉薄、悲喜のシンパシーが、あの……、ひと夏の過ちから……何かを……抜き去ろうとしている。それはたぶん、いや、たしかに……罪の意識であると想う。共に、過去から未来へと通り過ぎようものなら、この現実という、微細な一点を見つけてしまっている。であるからこその取り引きに際会していた。自身の双眸そうぼうに味方し、幾重かの空気層の印象を創る同士は、それぞれの後悔を見せ合うのだ。い交ぜ呑み込み呑ませ合うのだ。小さな愛を供し、ともしを贈り合えば、冷たい忘却さえ、置き忘れていた全てに迎えられ、温かな想い出として蘇る。恨み辛みの冬にふるい落とされ、自分を追い詰め、寒林は立ち枯れそうでも、名残り涙も潺々涔々せんせんしんしんと仄明るんでいった。教えとして生き返り、傷ついてばかりではなかった。いずれ学べる心であろう。いつとはなく、どこでとはなく、誰とはなく、そして何となく、言葉が聞こえる風のように、歌うかのように。口笛は、細小いささがわなびく、こだま……。

「いっちゃんも、活動していたんだね……」

「ぅ、うん」

 そのなかだちをしたのは、私であろうか。言うまでもなく、それを言えるまでもない。

「僕も、何か、こう……ねっ?」

「ぅ、うん」

「絵里子さんは?」

「……やっぱり……そうするしかないと想う。言えないけど……」

 そうなのだ。それぞれが見つめているのは、自身の……。わかり切っているのだ。その願いを、稲村の窓眺一渡りまでもが、まるで山造海ざんぞうかいの如くにして沈黙するに、任せたようだった。鳥のさえずりが、あちこちから、ちらほら、極楽寺の街にっては止み、またっては止む。とどまる事を知らぬ寂しさだけが、寒声かんせいの忘れ形見のそのままに、佇まう。薄墨うすずみの、空と海の一擲いってきわだかまる谷合いに、ある。江ノ電の語り口が、息継ぐような錆声さびごえを連ね、去りゆく。それを見せては見せられるだけと、言いたそうに、自らへ言い聞かせ噛みしめる、軋み込む。待ちぼうけの春隣りは喚ぼうとも、そして届こうが届くまいが、この街ならしずけさのうちに、いつの間に、忘れられるだろうか。それが、自身の見苦しい対応の所為せいで、感謝の想念を消してしまっていた、罪であろうと。今の私なら、そんな自分をさえ、もう、悔みはしないだろう。絵里子さんにしても、ふと嬉しいようで、ずかしいようでさえある。旅人が迷い込んだ、たまさかの行き止まりではない、この場所に来たくて立ち止まっている、鎌倉女性の風情をささやかに醸していた。

「私達も、それぞれに解決しないと、ねっ……」

「んっ」

 彼女は、私の安堵を確認したかの納得顔を滲ませ、相好を崩していった。さにあらぬ、互いの歯がゆさが壊れていった。目の前の、取りあえずの不安がなくなれば、私は、つと、根ッ子ごと引っこ抜くように立ち上がれた。ばたくうちに視線の的を転じ、窓辺へゆくほど、その中に偏って見下ろす、崖下の家の趣きが膨らんでついて来る。背中に、絵里子さんの目と、身ごなしのうろ覚えが当たっている。窓を開け放とうものなら、彼女も味わって来た今日の日射しの、語るまでもない晩冬のとげ立ち鈍るを、知るだろう。終わりを告げし残像のままに曳かれ、次なる先達もおぼろに濡れ、それさえわからないと言わしめる、時つ風を。

 そして、


『依津子さん、真波さん……、みなさん、良かったね……』


 その、崖下から吹き上げる硝子越しの風は、私のうちなる自問自答を更に煽る。遠い水平線が微睡まどろむように見ていた。空と海が相携え雲隠れたかの、冬霞む適応は自然に逆らわない。何かが遮ろうと、頭上にいんが通り過ぎるを待とうと、私は素直になれる、なったのだ。祝福の言葉を用意し、唱えていた昧爽の如き日まりを、淡く射し込む光を、絵里子さんだって、きっと……。微笑みをわかち合う束の間が、流れてゆく。


 ……黙ったまま、そうしている私の中に……、こ、これは一体?!……。割って入って来た。飛び込んで来た。

 見下ろせば……私のあの時の、一回だけの西湘の容喙ようかいに向けた、回答の視線だ!……と、わかった。

 静寂の崖下が、俄かに舞台のセリを上げ、音は聞こえぬ殷賑いんしんたる庭先の場面へと、変わってゆく。様々な真実に愛おしく鳴動し形作られた、風光明媚な事実の顕現だった。絵に描いたように隅々まで結ぶ、しあわせな像の出来栄えだった。真実は疑いなく自然にこぼれ、色づかいも美しく私の言葉を奪った。たった今、捧げたばかりの祝いごとの人知れずを、一瞬で進化させ、また違う驚きの無言に塗り替えてしまった。さっきから、違う無言、また違う無言と、まるで、白紙のページを呑み込むかのように卒読させる。あまりに早過ぎる律儀なお礼を、信じ難い私だった。羨ましくて仕方がない。教えられる余計ではないものが、学ぶべき余白で塞ぐ。人の言いたい事の全ては、それを使えば無言さえ創る。途切れはしない目に見えぬ何かが、最早、この時間を支配していたのだろう。積み上がっていた時間の更新は、そのまま可及的速やかに、しずかに通してあげてしかるべく。なぜなら、空白をもたらすほどの、その事実という証明の、潤むように煌めくばたきの一叢ひとむらが、幾つも現れたのだ。そして、かさ高く積もりし根雪をも融かしたのであろう、その早春譜は、と、肩寄せ詰め合い横一列になり、崖上へ和やかに逆さ雪崩れて来る。声は届かねど、うたいがかりの暖風を架け流し、仄々ほのぼの明けを愛でるように、静かに祈るように。再び家族の一線上から、許し遠眺める全ては始まっていた。あるいは初めて出逢って触れ、一員の仲間入りを果たした嬉しさごと、柔らかく抱擁すれば、その温もりは喜びの顔をこちらへ……。険し坂のひとつ上、我が家の締め切られた南向きの大窓の方へ……たとえ窓越しであっても。ゆく冬に、ともしの如くささやかに点る、一家の御家芸の復活は、この窓を、それを写すカメラの望遠レンズに見立てたのであろうか、微笑みかけて観客を掴まえたがる。

 そうして目印にした私の姿が、ファインダーに傾注している様子を、そこからでは見えないはずだ。にもせよ冬に負けない、自分に負けない役どころの演者勢揃いは、風の中の顔見世舞台の観劇の席へと、写し手を招待する。一望千里の同志として相通じる客席に、有無を言わさず、ただ、あるべき姿へのぶっ返りを見せる。唐突という時間は、気づかぬほど早いと言う他ない展開と、折り重なっていた。気づかせなかったのだ。今にしてそう知らされた私の、気づかぬ迂闊を感じさせないまでの、優しいまなしが、みんな一緒に見上げていた。高見姉妹のあいだに、ひとりの、小学生の女の子、そして隣りに、父と言うより、おじいちゃん、母と言うより、おばあちゃん……。居並び、静かに生きる花の如くある。姪っ子は、可愛い孫娘になった。それはきっと、そのもいつか……息を呑むほど、言葉さえ失いそうになるであろう、生涯忘れ得ぬ、成人式の晴れ着姿や、いずれ嫁いでゆく日の、花嫁姿を……家族で囲めばみな、想像していようか……。幼ないその子と共に、みんなして、や併せ掴まえているようであった。



『みなさん、願いが叶いましたね……、おめでとうございます。凪ちゃん、良かったね……』



 本心ならば、すり抜けさせてくれるだろう硝子は、ただ真っすぐに忽ち、私の喜びの涙目を映していた。想い届けたいカメラを構えていたのは、私は元より、冬の日射しも同じであった。私の中を通り過ぎていった想い出に、光が重なれば、険し坂のひとつ下、念願の一家団欒の見晴らしは、窓辺を希望の涙の海に満たしてゆく。私が何度もシャッターを切る度に、日射しは応え、想いを汲み取る涙も溢れずにはいられない。透明な窓の鏡の世界に佇み、柔らかな冬の光のフラッシュに泣く、私の顔の波立ちは高くなってゆく。もう、抑止力を諦めようものなら、えつは漏れ出し硝子に跳ねられ、それでも説得するように、背後の空間へ歩いていった。高見家の、冬枯れた芝生にはしゃぐ凪ちゃんが、お転婆娘の人懐こい笑い顔をして、依津子伯母さんの腰に絡みついた。今日からおじいちゃん、おばあちゃんになった、早くも可愛いくて仕方がない笑顔が咲く。小さな素直さのプレゼントを贈られた私は、いよいよ我慢が出来ない。微笑ましさに壊れゆく声も尚、かすれ上がり、ずかしげもなく笑い泣いた。初めてのような、久しぶりのような、暖かい故郷の風が煌めいて、見える。メロディーが見える。極楽寺の街にる。それに連れて来られた江ノ電が、また、誰かを乗せて連れてゆく。「帰って来い……」と、今だけは連れてゆく。今という時と、そしてあの時の別離れの寂しさを、ただそれだけの事と。去ってしまえばいつも、あの時、その時だけの、一抹の事に過ぎなかったのだと、大人しく誰にでもわかるように。どこにも行かない鎌倉が、だからここに居るように。居るのだ、と。海が、見つめている。いつまで、そうしているのだろう。

「ねえ、どうしたの?……」

 絵里子さんに、伝わらないまでもなかった。

「何があったの?」

 彼女はゆっくり私へ歩み寄った。が、時あたかも合わせるかのように、依津子さんが……スマホでどこかへ電話をかけ始めた。私は、このきょうあいな袋小路にわだかまり、刹那の迷子となった。すると忽ち、窓辺の都合を知って知らぬふりをして、私のスウェットパンツのポケットの、スマホさえ震え出す。喚び出しを告げる直観intuiteの、鐘きに入らざるを得ない私だった。一瞬でしばられこわ張るばかりの人形は火照ほてった。囚われの身の口をつぐんだ。揺さぶって来る、目には見えないものが、形を成して絵里子さんと重なり導いたのか? そしてその私の、熱に浮かされた涙眸るいぼうぼかし見ている、険し坂のひとつ下の民家の方を見つけ……彼女の視程とて飛び込み……なぞるもすぐさま、突き当たる。勢い、涙眼となって弾ける。縁取る濡れまつの先から散る……。明らかに、いつかとは違う、裸の、されど満月の如くは……。みひらかんばかりの驚きに招かれる顔へは、早かった。目のページをめくるは、短かくはかないにも程がある、と。眩し過ぎる次であった。無論、表情の悉くが。そういう美しさに臨んでいるはずなのだ。

「ええっ?!……」

 隠し切れぬのも、無理もなかった。私の代わりの声の一視同仁であったろう。冬の時を惜しんで止まない、薄輝く白日の下、夢を通り過ぎた証しに実る事実に触れ、その秘めたる燦爛さんらんに搏たれている。私の想いを併せるように、並んで立ちすくんでいた。気づいた彼女の動揺が、きっと電話をもうならせているから、不意の客とて観劇の人となった。席上にあるが故に、言いたい全てを呑み込んでいたふたりだった。隣り合う同士でひとつという存在を、しゅんでとらえ、じょうする。私達の真下に展がる、俄かには信じ難い一景に釘づけられていた。私は、ようやく待ち受け画面を見た。絵里子さんのまなしが、きっとあの人しかいない、もう他にはいないその人を訪ねるように、こちらへ枝垂しだれ来る。


 高見依津子……の文字が、小さく平らな海域を滑るように、躍っていた。


 ……その納得は、落ち着かせてくれない。やはり、こちらを見上げ、待つばかりの依津子さんに、反応した崖上の、束の間の忘我一線どもとて、探している、待っていたものを見つめているのだった。来るべきものに違いない、永くこいねがっていたものに違いない。自分の過去と未来が正直に喚び合う。それは、想い知らされた現実の、私達ふたりのタイムラグを、埋める作業でもあったろう。先を行っていた私は、絵里子さんの手を引くに及ばす、横顔で彼女の今を掴んだ。谷合いの街の目をしていた。行くも戻るもついて来るだろう。その、潤み蓄えゆく双眸そうぼうは、絵に描いたように隅々まで結んだ、しあわせな出来栄えの像を映す以外の、何ものでもなく……。

 私達が呼応し、眺めを引きのばすほど、崖下から仰ぎ見ている真実と尚も出逢った。それは疑いなく自然にこぼれ、坂道を馳せ登った。ふり動かす色づけも美しく、最早、ほとんどの言葉を置き忘れさせるままの、揺曳であった。その際限なく打ち寄す波状は、確実に、見まがえぬ余地をさらった。いよいよ客席は感極まったのだ。私と絵里子さんの、であるからひとつ下の隣家に住まう人々の、無抵抗な自分を露わにしない事への意識が、こんなにもこだわりなく融かされてゆく。高見家が乗り越えて差し出す、温柔恒心たる姿を前に、もう、庭先への目もはるに、声も壊そうものなら、スマホの振動音をも包み込めるのであった。ふたりして、いずこからさえ数多の想いが寄り集い、そして織り連ねるかの慈雨の如くにただ、濡れそぼり、潺湲せんかんむせび泣いた。これ以上、ぼかせない心の光を、二度と消してはならぬ、早く電話に出なければならぬ、と。わからないけれど、そうじゃない事は、わかっている、それなのだ、目を背けてはならぬ、と。

 絵里子さんは、そのままの目で、私を見た。

「いっちゃんの家って……お隣りだったの?……」

「……ぅん。ごめん……どうしても、言えなかった……」

 彼女は、本当に知らなかったようだった。依津子さんの家の話題にあまり触れぬのは、老舗の事情への遠慮深さからであろう、と想われ、そんな共通概念の陰で静観を届けていたのだ。それにしても、私は今まで、こういう謝りたい感情を、どれだけ口にして来た事だろう。説得力に自信がなかったのだ。でも、うに違う、明らかに違う。素直に謝るべき心で、誰に対しても気持ちを込めて言葉に出来る。出発出来る。想いやりにかかわらず、そこに見送ってくれる誰かがいるのである。きちんと挨拶出来る。それは他ならぬ、ありがとう……で、あった。そして絵里子さんと目が合った。しかし私の手の中でこちらを向いたままの、光の揺籃ようらん画面へ、彼女の瞳は流れ、別離わかれた。それでも、想わせぶらない刹那のうちに、優しく私へ取って返すや否や、薄っすらと笑みは綻んで応えたのだ。待ち合わせを遂げて安堵するかのように、ふわりとうなずいてくれた。しなやかな風が、吹いてゆく。想いがけない想いをとどめたがらずに、飽くまでもさり気ない。この街に、響き合うものが横溢おういつしているのは、空である。時間である。消えがての、何ものかである。ならば、ゆき交うもまばらな人影の、そのひとつであってさえ、誰もがこいねがわくは。


 いっちゃんの話を聞きなさい……


 という絵里子さんの、入れ込みもたげるまなしを、信じさせる……。


「陽彦さん。やっぱり……、あなた達ふたりは……」


「……」


 旅立っていった泡沫うたかたは、けだし、抗わぬ言葉の無回答へ馴れ寄った。しかも、その主さえ誰のものでもない、安らぎを求めるかすかな溜め息になる。涙のまま、人の気配もない、春隣りの終わりの浜辺に、気まぐれに、戯れに、憧れに。

 伝わるものが、人をそうしたのではない。それ以前に、そうした自分自身にあった決断は、語らざるも、ない。その選択肢は、反応せざるを得ない。それは、この時、みなが見つめている、街ぐるみで守って久しい歴史に、なぞらえるものであって欲しい。たとえ、今に始まった事でも。そして私は内心、謝意に包まれた、抑えるという感情から成る壁の、きわに佇んでいたのである。……今更ながら絵里子さんに、ただ、恥をかかせたくない無言を、はばからない壁を。かよわ陽炎かげろうの、去り難い過ちの記憶を、言ってしまおうものなら、その上……。彼女を騙しているようで、そうではない。この現実をりょう不能の、っぽけな自分を偽れない行き止まりにいる。されど座視出来ないのだ。されば理想だけがたかぶるように、罪を重ねる事の嫌悪と、跳ね返りそれに泣く涙であったろう。それでもせめて、見えない毀誉きよ褒貶ほうへんの畳みかけにとどめてくれた、申し訳なさを、改めて痛感している私であった。


 私は、息をゆっくりのばしつつ……

「もしもし……」

「あぁ、やっと出た。私です」

「ぁぁ……、やあ!」

 確かにやっと、私は言葉を返していた。呑み込んだ人と、呑み込んでいる最中の人は違った。私の、わかったつもりにさせていたそれは、残滓ざんさいかも知れない。依津子さんの胸の内は、空くが早いか、むしろきょうけんと響き、その、窓硝子の器からこぼれたかのような声が、絵里子さんにも漏れ、届いている。彼女も、谷合いの気の自然な容喙ようかいごと、聞いている。当たり前の、いつもの韻律を踏みしめてゆきそうな予感の、ベクトルを重ねざるを得ないまなしがあった。されど依津子さんとて、それを知る由もないからには、いや、ないからこそ、言葉の空費を排したのだろうか。ここにある、生きとし生けるもの悉くが、躍動をまだ、しずかに。大人しい臨場を自らに言い含めてさえ、ある。数えられない、無限にこだわりのない瞳が、遅き冬の光に焦がれ、淡く降り注ぐ。束の間の見つめ合いの如く、さやさやと棚引く。そして折れようもない、歪む訳でもない、時計の針に吸い寄せられていった。

「ねえ……、部屋にいるんでしょう?」

「うん」

 電話から、二の句は尚、こぼつ声なるを以て継がざるもなく。私も、絵里子さんも、落涙それは最早、こうせしめる。共にただ、眩しがった。

「あの……、外へ出て、うちを見下ろしてよ」

 私は、スマホの底部のメインマイクを、手で塞いだ。

「君がいる事、言ってもいいかな?」

 隣りの彼女は、花も仄かに綻び、小さく、うなずいた。そして、私が再び話し出そうとするその、電話の手を奪い……笑顔の口元をし込んで来た。まるでついばむように……

「いっちゃん! 私もいるよ」

 かばい手さえ退かされっ放しの私は、またたくもくう、咄嗟に気配をむさぼった。わだかまるような絶句にすがった。取り遺されたはかなき小島だった。我が身のもだごとを翳し、そらんじ、浮いつ沈みつした。気息ほだしにあえいだ。ただじっとして立て直すべく……。その、女同士の連係に流されたであろうかいの、その、放してしまった手を、正に同舟のもうひとりの目は、果たして待ちあぐね、引き受けようとしている。目配りはささやかな自信に馳せ、道づれの友の喚ばれざるもなく。

「じゃあ、絵里子さんも一緒に見て」

「うん」

 ……渡り歩いたかの、舵取りの移り変わりに、私の場違いみたきっきょうは、なかった事に、するだけなのであった。不本意は霞み、素早いやり取りの傍観者に過ぎなかった。我れこそはと差しのべる、誰によらぬ手でぎ、正にかくしゅうたらしめそうな、鮮やかな温かい回答だった。私はもう、火中の栗ならぬ、奔流の重石おもいしを拾わないような、身を慰める居場所を選択している。それにしても、男が何も出来ずに……今更泣く奴が、あるか! 絵里子さんの、涙に透かせば映るものが、私と同じで、あるように。その、しゃくるもかすかな彼女も、言いた気な。

「一緒でもいいよ。いつかの……勇気に応えたいの。私も、同じようにして……」

 依津子さんは朗らかに即答した。

「わかった」

 その了解は、誰の生返事をさらい、ふたり同時に打っただろう? 漂いし沖つかいさえ、いつの間に、見つけていたのだろう?


 ……先日、私も……同じように、自分がここにいる姿を、見せたっけ。


 ……玄関にて、さほど外の寒さを感じないにせよ、絵里子さんの溜め息交じりの指先は多少、牴牾もどかしい。着靴のかがみに耐えるは、かたわらの私の両足を、ゆっくりとサンダルへ滑らせる。という、という、依津子さんと私との関係の、経験値を想像させるひと言が、あるいは彼女の背中に、直前の戸惑いを載せたのだろう。実はさっきから、家族の証明行動を眺めていた事さえ、崖下はまだ、知らぬうちに。知らずに知らせていた、ままに。現実はただ空虚な、追憶は飽くまでも豊かな、埋め尽くすべく夾鐘きょうしょうにある。居ても寂しき、居ないならつぶさに、暖かき。敗れてすさばぬ、むしろ強くなる、創造基盤の。

 きょうしゅ傍観のドアを押し開け、私達は玄関ポーチへ出た。微温ぬるく尖るしゅう冬風とうふうが、西に対座するむかえやまから頭上を架け渡る。待ちぼうける者同士の約束事を、ずっと忘れていなかった、真面目な肌触りに、街を迷わせない自然さが溢れている。そこかしこに何かが芽ぐみ、信じるに足る息吹きが、繋がろうとしている。

 私が歩を進めるより、少し退がりはすに逸れ、伴われるを請け合う絵里子さん。……誰の怒りであったろう、嫉視であったろう。その憂色の後ろ影と重なる立ち位置を、引き受けてくれたような……。私はそう感じていた。出逢ったばかりの依津子さんが、人知れず材木座の浜辺で海を眺めながら、私に言っていた〝今更〟はまさしくそれである、と。みなが望んでいない向こう岸の方角にふれた、羅針盤の針である、と。高見家への私の容喙ようかいを知らぬはずの、由比ガ浜の客人にしろ、急ぎ過ぎた道半ばを、最早隠さぬ由もないように、静静しずしずと歩は地を撫で前に出る。追われるを覚える私の背中は、ただ心奥までも届かんとする手に這い上がられ、戸惑いの彼女と同じ重さが伝わってゆく。その端からページをめくるように、声なき詫び言を唱え添え、束の間の道づれにふり向いた。「何度も、同じ想いをさせてしまって……」。ねぎらいのつもりの、花だった。


 ……にもせよ、私の視界の切れ目に留まり、崖下から誘引するそれは?……。さっきと似るも更に浮上する、それは?……


 まだ端っこで大人しくしているに過ぎない、怖いぐらいの剴切がいせつを感じさせていた。が、それと同じようにしなければならない、形式的な空気は遠心、真ん中は丸みを帯びた収束を匂わせる。上目づかいの笑顔を添えて、こちらへ漂わせて来る。もちろん絵里子さんとて、ただちに中心に懐柔されざるを得ない反応を極め、無抵抗を翳す目線は、強かな微睡まどろみで返すのがやっとのようだ。時として険し坂は、天地の優しい綱引きの通り道に、席を譲っていたのだ。かの境界線へと落とし込まれ、むしろその一線を手繰たぐり寄せるかのように、私達ふたりは断崖に臨むも、あまりに無防備であった。事実からは逃れられぬまなこの全てを、なげうつ瞬間に先回りしている浮揚を隠せない。何という、家族のなだらかな結論であったろう。傍観のジャッジメントであったろう。張り詰めた糸が奏でる、甘美な旋律にまみれていただろう。家族こぞってあるく撫でるぐさは、宵待ちの日の色を招こうものなら、大団円を形づくり、夕照を二重映し、見晴らしの崖上のフレームをよそ見させない。最早、それにさらわれている絵里子さんと私は、足下に展がるその世界を、正視しない理由の、皆無を知るのだった。

 依津子さんの願いが、風となればこそ、はなばなれだった家族はほだされ、応え、身を寄せ合い、たしかに、温もりを創り直す端緒にある。今まで、どれほどの空白があったろう。無言をちりばめて来ただろう。当人達しかわからぬ、目には見えない血縁にて結ばれし、実体感の熱量が、何もなかったかのような場所から、新たに生まれていた。あまりに自然で、それにしても優しく、当たり前の息吹きが匂い立つ。清澄な空気は色もなく、代替わりの如く空っぽの土地に立ち込めていた。今となっては怒りでは守り切れない、来るべきものが来ていた。それは人の本心に、真実に、寸分たがわずフィットする。であるから、たとえば私の歴史にしても、絵里子さんにしても、共感を呈する一礼を執るに静まり返る。そしてそれは、いつかの私の容喙ようかいを喚んだ、秘したる涙のキスのように……。

 我が眼下を見下ろす、あやかりたい、そうせねばならない、せい事不じふせつの風流れは長閑のどかに。ひっきょうたる、ほんの悪戯いたずら風は、終冬に心寂うらさびしく。絵里子さんの、自らの足下に枝垂れる、そのまなしは、私の真横をすり抜け、ついこのあいだ、私が見せていたっけ……あの、同じ、いや、それ以上の形を……見ていた。互いに既にわかっていた、けれども真っすぐに見られない形に、鷲掴まれ釘づけられ、それは十重とえ二十はたにもぐるりと、層を成して舞い上って来るのだった。ぐるりとじょうして、まるですくい取るかのように、私達の心象風景を総浚いする。人々の形をした、寄せては返すたわわな喜びの波の、たけなわにあるをも想わせる。

「私……、素直に信じられない自分を、それでも信じるしかない自分と、サヨナラしなくちゃ……」

 静かに、遠眺める隣りのひとつぶやいた。

「……」


 そこはかとない風の微笑なら、この今を包み切れていた。その手渡しは、いつかの、そしてきたるべき破顔一笑を、迎え容れられる用意を、小走りに。比較級も息を呑むほどの泡沫うたかたは切なく、こんじょうの沸点も誇らしく、蒼く、このきょうあいな自分の器の、頂きの如くからながむに、かくも美しく。個のリバーシブルな風流れは、他とシンクロしていた。人は他人ひとのままに、泣き笑う。故にそのストーリーに、汗も、涙も、なかだちはばからない。自分と同じ、風と名のつく生き方であった。……かの人が、世の中に、どれほどいるだろう?

 全ては微笑みからだった。その為に、人は必要とされている。今、ここに居る。生まれて来ている。私は、そう想った。人には、創る目的がある。愛を守れるわざに、本気をかけるべきなのだ。何事も外堀からというプロフェッショナルに、なりたかった。忘れずあきらめず、信頼されればよかった。わざに憧れるなら、またもう一度、この素晴らしい景色が見たいなら、何度でも坂道を登ってゆける。汗に嘘はない、晦隠かいいんもない。そこに当てつけをはさもうとするなら……せめて、よそのお宅のエンジェル達に、そんな悲しい事は……と、はかりは揺れ始める。もしかして、心もとない挑戦のしるしであろうか。

 ……かつての無言の真実、大切な人であろうと誰であろうと、他者を泣かせた辛さを想い出している。私が泣くから……巻き添えにしてしまう……、人と見ればその目の中に、臆面もなく飛び込む。私はジェラシーに息が詰まりそうで、他者も閉塞されて……。絵里子さんさえ、そのように見えて来る。

 そして今だから、強く想う。引き剥がそうとする風を信じ、悉くを載せてしまえ。それを優しく包みおおせ、微笑む風と共に、ゆける。そう願わずにはいられなかった。待ち焦がれていた喜びがあるのだから、消してはいけないのだから。ただ逃れてゆきたい風は、時に逆らう。エゴの欲するまま、それを追い駆けるほど、その気まぐれを許そうとする、他の風流れの優しさに、折り紙は、つく。であるから、ネガティヴな感情は無くならない。しかしその辺りで、偏見や差別は止めにするべきなのだ。逃れの風の当たり前は、単に、消えゆく風の当たり前になりたいのだ。

 高見家は、きっと、そんな手続きを経て、静かに見守れる無言に生まれ変わっていた。

 小さな喜びは、主張しがちな何かを剥がす事で、一歩退がる事で、控えめに満たされていた。それらしい、この家の形が見える。それはたぶん、どんな涙も、他者から学ぶ為に流して来たのだろう。ひとりで生きて来たなら、生きてゆくなら……涙なんか要らなかった……これからも、要らない、はず……。この険し坂の下から、大人達は、通り過ぎただけの孤独と枯渇であったと……そう言える自分を見つけたと……こちらへ語りかけて来る。崖上の、取ってつけたかの無言風を剥がすようで、柔らかく搔いいだく。人は、されるも受けるも、過ぎし日の自らの行動に穏やかならぬ。その痛みが、涙が、今こうして……ありがとう……に、変わったのだ。



 透けて見える想い出はかすれこそすれ、煌めきの粒りまで失わない。終冬の谷合いに、日まりはあった。「ふっ」とひと息、ほどいても、消えない蝋燭ろうそくの火のように細々と、しゅんじゅうんは灯っている。その一列は、ついぞ見た事もない色に言う、月白を重ねんが如く光さえ、早々に喚び、とある庭先に、大小居並ぶ。懐かしい江ノ電の車輪の、真ん丸が、時つ風の歌に、およそあやしきたえなりけり。人々は、それぞれ両手を天に翳し、頭上で掌を合わせ、輪を創っている。ふんわりのばした手の内側に、全てを覗かせたいゆうの日輪が、眠れる森の戴冠式の世界へといざなう。しずかな街の黙礼のまなしをまとい、月影と結ばれるべく待ち侘びていたかの、昔のままの形をとどめている。絵里子さんも、そして私も、故郷に遺して来た家族を、想わざるはない。大切にしまっていた心の風は、私を、あの……湘南平の頂きへ導き、そうあるべき形の、微笑みの輪を……この身にかけた。この街の人なら、みな、いつもその輪を首飾りにしてげていたのだ。依津子さん達がそれを外して高々と、余白のような夢を、見せてくれているのだろうか。

 愛という名の下に、帰って来いと……誰かの声が聞こえる。岬への坂道の家が、二軒……ただ、見つめられるばかりは、ひたと、見つめ返すだけである。終着と旅立ちの、トランジットの時間識に泣いている。実現力の意味を「持つ」と「いまだ」とが、如何いかに息をしているのかさえ、わからない、わかりたくない、かすかな涙模様の、架け渡る風の…… AINOWA が。



 いずくにか、和解すべきて、故郷や、ある。

 言えなかった事、言えない真実のむらちは、いつの日か、喜びのほむらの如く。

 五月蝿うるさく感じさせないストイシズムが、多くを研ぎ澄ます。

 割愛を叱ってくれる誰かの影を、慕う。









 二月をりょうし、本年度最終の一ヶ月は、や空気を宥め始めていた。列島を西からゆっくりと風が転がせば、日本は薄いり硝子のような天蓋てんがいの下にしまわれていた。春は、まだかよわく、さればこそ人の目に含羞はにかみ、粉っぽい手触りで訪れを告げている。春荒れの南風さえ、交じわり切れぬ、あともう少しの円やかさに許しを乞う。しゅじょうの求める所、満つるべく温かみに籠もっていた。それを待つばかりである。自然空間に御座おわ八百やおよろずの神々は、人の心象風景に微温ぬるこうしからしめ、冷たい時をやり過ごし、げんの風を流して止まない。どこか近寄り難く、それにしても鷹揚おうような隙間に、何となく、打たれ甘やかされを繰り返して来たクロニクルが、ほの見える。九死に一生の奇蹟が、十死にれいしょうの絶望から蘇ったかの如く、うやうやしくお辞儀をしている。たとえば、時には必要な完全休養の日に、こんな季節を想う時、間のびしたまま移り変わろうとも、世界はいずれ、だいさえしょうしゅうれんされるように救われるだろう。無力に行き着くを、承知している。何も無くたって、それでいいのだ、と……。


 ……ただ、私は……


 脇見をせず、車の運転に集中していた。

 隣りに依津子さん、そして、運転席の真後ろの後部座席には……絵里子さんを乗せている。

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岬への坂道の家 小乃木慶紀 @keikionogi

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