冬の別離れ

 二月下旬ともなれば、街人まちびとも、旅人も、馥郁ふくいくたる梅の香に誘い出されるのであった。去りゆく冬の滅びも、あと僅かの口説かれようを呈してはばからない、色気にびょう倒されたかの率直な気風が、潔いものであった。うちに秘めた想いの丈が、誰の顔にも形を成すほどに、みな一様に、微々たるねぎらいを無言に託せる。一瞥にして、知らぬ間に交わし合う。幼春の挨拶は、仄かな花の香と共に、あった。小さな笑顔と共に、息をしていた。季節の彩りの中で、生きていた。愛の盲目が、光を見つけたように、静かに、閃いていた。人も、動物も、街も、森も、海も、アニミズムのエチュードみたいな、そうきゅうの傘の下、大道坦然に集うばかりだった。人外の境涯に打ちひしがれし、何者とて、誰かのまなしが、手が、そっと寄り添わずには置かない、陰徳陽報の時つ風も、たおやかに。ひとまず重い荷を下ろし、ゆっくりとくつろげそうな、話せそうな、そして、聞いてくれそうな。

 珍しく、GEORGE HAMPTONの若大将、正樹君から、数日前に直電が入り、平日の夕方の今日、私は仕事帰りの依津子さんと相前後して、店を訪れていた。由比ガ浜の絵里子さんも、来るとの事だった。その時の、受話器の向こうの彼の、いつにない、らしくない、どこかこう、口の中で堅焼きせんべいを持てあますような、そのまんまの顔が、あった。やはり依津子さんも、こうして今、自分の目でそれを確かめた次第の、何げないんなじ心構えが、営業中のホールに伝播していた。なかなか噛み砕けない、口の中にかどが当たる痛さを隠す、正樹君の表情は、無論、依津子さんしか知らない、私という男の顔であった。絵里子さんの影を千切ちぎらんとする、怖れじりの片肺飛行を決め込んだ、いん早々たる空港の、出発ロビーで搭乗を待つかの観が、ある。榎本おやは、どう想っていようか。まだ、サークルのメンバーは、全員揃っていなかった。他に、三人グループの客のみになっていた。


「絵里子姫は、相変わらず御用繁多のようだな」

 私達のテーブルに仲間入りして席を埋めるマスターが、窓の外を見やりながら、ディナータイムにもせよの、たまさかの閑に、合いの手を入れた。

「フフフッ……」

 そばのバーチェアに腰を委ねる正樹君が牽引する、一同の小笑いは、干渉とは、違う。

「やっぱり、小田原の事が心配みたい」

 依津子さんの言葉にも、友へのそれが窺える。

「何か、言ってた?」

 父親が、父親のひとり言を、誰へとはなしにつぶやいた。

「ぅ、うん。少し」

「ふうぅん」

 マスターと娘のやり取りは分け入らない。そして、親の慈愛のまなしが、私を、覗き込む。

「陽彦君」

「はい」

「何か、言いたそうだな……」

「はああ」

「俺も、そんなふうに見えるよ。今日は、特に」

「正樹君こそ、今日は何かあるんじゃない? 直電くれたりして」

「ああ、まあ……」

「ハハハ」

 マスターと依津子さんの、抜けるような笑いが、空気を逸らした。久々の全員集合は、遠慮がちな大人の、優しい物見のひと幕に、あった。他者の本気をわらうプライドの、どこを探しても価値などあり得ない、説得力のある薄笑顔が並んでいる。本物を笑い飛ばせるのは、贋物にせものの証しと、言わんばかりの。愛も、時間も、みんなで分かち合う為の、目安なのだ。泣かせたなら、泣く事になる、当たり前の。自分が壊した愛の形が遺した、忘れられるはずはない本物の声を、人知れず噛みしめるふうの、安定志向、その歴史をとうとぶ心も、据え直しているだろうか。抵抗の痕は隠せないものだ。届かぬ本気を学んでこそ、次も本気を捧げなければ、何も創れないという事を。かかる至高を踏まずして、創り出せるものに、真実の涙はいつか、応えざるはない。違う方向へ傾けば、感謝と許しが足りない、文句を垂れ流すばかりの、敗れそうなサインに苦心するであろう事も。他者の言葉を素直に聞き容れない生き方が、どれほど、ゆくべき方角と可能性を、閉ざしてしまうだろう。どこにでもいる適材適所の、立候補に名乗りを上げる手を、幾度いくたび、諦めさせるだろう。

 やはり……本気を学んでから、いずれ誰しも訪れる、喪失を受け容れるべきなのだ。失くしてしまった事のみに囚われるのは、ただ頑なに、自分しか信じられない、排他なる辺涯へ流され、生み出す事さえ断たんとするかの証し、それでも……ゆかねばならない。かかるジレンマとは?……。初めて、真摯に受け容れざるを得ないものが、喪失感という事が……どんなに、心を……蝕むか。他者の主体性を受け容れずして、如何いかなる価値が、アイデンティティーが、創れるのか。本気の汗を知らずにいるうちに、初めて出逢う事になる本気は、冷たい涙に……変わってしまう……。汗というものは、未来を語るに、時として残酷なまでに、真実へのロイヤリティーを注ぐ。それを信じずに、人は、最後に何を、信じればいいのだろうか? たとえ届かなかったとしても、裏切られたようでも、それこそ、大切な事を、教えている。たとえば……


 

 あるよろいを身に纏うだけで、過ちが許されるなら……

 何の為に、愛はある? 涙は、ある?

 分かち合ううちに、分かち合える本物は、育つ。

 誤解して、分かち合わぬうちに、分かち合えぬ本物もまた、育つのだ。

 時は、いつか必ず、真実を見せる。

 プライドとエゴ、対して、恥。

 双極を天秤にかけ、想い知らせる。

 八十年を、一回切りの、そのうちに。

 報われぬ想いが、感謝を越えた時に。

 人を喜ばせるより、人に背を向けさせるあいだに。

 自分以外の、何かの所為せいにしている隙に。

 心に決めた道ゆきに、ただいちに取り組めば、真実こそが通じ、許される事を、深く、知る。

 しあわせ創りの、細部に宿るものを。

 自己不全と感佩かんぱいは、常ながら、均衡の風に揺らめく。

 素直さの原点、

 ありがとう。ごめんなさい。

 それは、恥を知る証しである。

 自らを恥じるような言動を回避する、

 真の、誇りである。

 それを、畜生、この野郎、が、りょうしてはいけない。

 守るべき何かを、守れるよすがさえ、消してしまう。

 たとえば……小さな日まりを。

 感情よりも、停滞よりも、

 思考、そして、創造。

 先へゆくべくを選択する、

 愛という理論を超える何かが、一体、

 どこにあろうか?

 人ひとりの能力など、

 微々たるものであればこその、

 リソースに不安だらけであればこその、

 創意工夫、経験、熟練。

 であるなら、人には……

 一難去ってまた一難、故の、

 真っすぐに立ち、ゆかんとする、

 心が、あるじゃないか。

 時に、置き忘れたかのようであっても、

 探せば……

 見つかるはずじゃないのか?


 

 壁かけ時計の針が見下ろす壁面を、なめりがわ交差点辺りから西方を望む、稲村ヶ崎の特大風景写真パネルが、いつものように制している。私は、なぜかしら、ふと、時間の概念が、その上をゆこうとする感覚が起った。上手く説明出来ないが、静かに流れるBGMの水面下で、まるで幾つかの時間軸が並び立つかのような、ポテンシャルを感じるのだ。そして、誰の顔を見ても、同じものを見ている顔をしていた。言うまでもないけれど、仲間意識という、やつだった。


 ……そんな中……エントランスのドアが、いた。

 街のざわめきを乗せた光が、さっと、ホールに射し込んだ。突と明るむ空間の入りぎわに、かすかな風を纏い、ようやく、待ち人はずかしそうに現れた。ん?……。

「ごめんなさぁい! 遅くなりました」

 しばらくぶりの絵里子さんが、屈託のない笑顔で、こちらへ。ん?……もうひとり続く、同年代の女性に、依津子さんと私は、少々驚いていると、

「こ、こんにちは……」

 と、そのひとは、小声で挨拶をして、一礼を供した。

「お久しぶりです……」

 私達は、半ば慌てて、不揃いの返礼を執る。

「やあ、来たね!」

「は、はい」

 埋め合わせるようなマスターと、一瞬にして、うべい合っているとさえ、見える。ふたりは、そろりそろりと、こちらへ。

「みなさん……ご無沙汰しております……」

 私達のテーブルの前で、肩をすぼめながら、再び頭を下げた。全員同じように、現代風のこうとうの礼で、迎えた。

「今ね、店の前でばったりお逢いしたの」

 絵里子さんの説明に、かのひとは小さくうなずいた。教育者の如き優しい瞳が、さやかに微動していた。光を集めるまなしは、やや紅潮をきたすも、うちなる記憶像に救われるほどに、穏やかに自信めいている。さればじらいを求めれば、落ち着けるのだろうと、私は、感じた。かえって依津子さんの方が小々波さざなんでいると、見える。

「まあ、どうぞ」

 マスターは同席を勧め、

「失礼致します」

 の、かのひとの社交辞令と共に、ふたりは目の前に座った。

「何か……榎本さんおやは、あまり驚かないね。久しぶりでしょう?」

「ぅ、うん……」

 絵里子さんの言葉に、オーナーたる大のふたりの男は、柄にもなく口籠もっている。連れの女性を、如何いかにも直視しづらそうである。そのひと……サークルの始まり、忘れ難き、鎌倉こころのパートナー……お世話頂いた、カウンセラー……聡明にして慎しみ深い、さくらなおさんを……。

「私、ホットで」

「私も……」

 絵里子さんに釣られ、桜井さんも追いつかんとする。正樹君に返事はなく、無言で奥へ入っていった。私には、正面にいる彼女のプライベートが、まるでこれから初めて対峙しようと……いうふうに見えて来るのだ。マスターの「来たね!」が、そうさせて仕方がない。それは依津子さんとて同じ感じであった。一堂に会するそれぞれの、先ゆきを案じていよう目線の移ろいを、果たして、それぞれの気格にしまい込む時間が、全員一致の凪へ……如何いかにも流れたいと……。

 桜井さんの溜めているものが、表面張力の限界に達しそうで、その境界にある窓辺は、踏みこたえる。まなしは微動し、口のは早速、つぐんでしまった。率直なその態度を、みな、敏感に察し、来たばかりの絵里子さんにしろ、天気雨に遭遇したかの、一抹の寂しさが滲んでいた。カウンセラーたる彼女の、押し展げたい翼の、その初陣さながらの姿を、集いし誰もがかたを呑んで信じ、期待せざるはなかった。ここは一対一のカウンセリングルームではなく、どこまでも自由に、ばたけるのだ。それにしても、正樹君の様子が、いつもとはだいぶ、違う。私は、ふと、悪くない胸騒ぎを覚えるのだった。美味しいと評判の料理を待つかの心地が、だんだん入りじって来た。出逢った頃の桜井さんの、あの、爽やかに婀娜あだめくを、救われるように想い出していた。そうせずには、いられないのだ。つまり……やはり。

 ……少し経って……若大将が、コーヒーをふたつ、運んで来た。黙って、置いた。

「ありがとう」

 の絵里子さんと、

「ありがとうございます……」

 の、注目を一身に浴びているひとの言葉が、煌煌きらきらと重なった。先にいた三人もそうであった、同じ香りの、作りたてのほうけむりが、再び、やって来た。そのままバーチェアに戻った正樹君に、あたかも内燃するかのものが、薫然くんぜんとしている。一同、拒む事なくまみれ、ただ、咽ぶばかりだった。来るべきものと去るべきものが、揃って宙に浮き、みんなを見ているようだ。そんな事は言わずもがなの、同じ顔が、同じ一線に並んでいた。まだ、どちらが先か? 沈黙のうちに思案していた。しかと認識する事と、手離す事を。その代わりに、代わりがあるという事を。とある終わりと、とある始まりの、トランジットを告げる時計の針が、忠実にして音に乱れはない。馴染み深い一定速度のリズムに乗せ、その矢印のきっさきを使い、優しく引っ掻くように奏でて空間を眺めていた。噂のひと、次第で、どのようにも変わるのだ。かの、うつむき加減の双眸そうぼうの色合いを、テーブル越しに読み合うひと時が、麗しく、しずかに、流れてゆく。ここまで来たら、もちろん彼女も、知らぬ存ぜぬは通らない事は、わかっているから、逃げ場のない、そして誰もがさないはずの覚悟が、表情にちらついている。さりとて、温柔無比なる人となりのままの、今日の目的意識もまた、そのおもてのすぐ下で泳ぎ回っていた。透かし見えていようとも、今はひたすら、彼女自身も、相対しているメンバー達も、知って知らずの礼節を約束するのであった。人生という、正直な表情が反応するブーメランを、見つめているように。

 その、泳ぐ想いは、周囲をつつかない訳がなかった。回遊するかのようであれ、されば、姿は定かではなかった。期せずして、みな、こうして誘われ、寄りつき、そして……自らを読み上げる一歩手前で、順番を待っていた。それぞれの無言が、一様に、逃げ腰を、現実から離れようとする事を、見逃してはくれそうに、ない。沈黙に込めた饒舌は祈りに近く、表白に少々遠かった。


 ……これから、もしかしたら……極楽寺の私達ふたりと同じく、サークル以上に通じ合う話が?……。まさか? 今、何とか見て見ぬふりをするかの、つまり……やはり……私と、そのひと、私と絵里子さんの一件が!……。


 その隣りにいるひとなのだ。私の視界は、彼女を中央に置く事を避け続け、かすめる程度に過ぎない。最近、全く音信もない、由比ガ浜のひとと、どうにも、目を合わせづらい。彼女も、私へ向ける目に、他人ひと目にはそれとわからぬほどの、影を滲ませている。暮れゆく冬、とある一日、時ならぬ……ぎりのそのままが、コーヒーの香にほだされたかに見える、湯気立つくゆりの、ただ中に佇んでいる。めっきり見かけなくなったおもしが、わだかまっている。


 黙っているのは、やはり……桜井さんの存在? 傷口を、展げたくないから?……。誰の?……自分の?……。


 私は、そう探るほどに、水を打ったように静まり返る、着いて間もないふたり……。桜井さんの、出なければいけない、出たがっている想いと、そして、絵里子さんの、出てはいけない、出たがらない想いの、背を向け合うそれぞれの、目に見えないフレームなるものを、感じざるはなかった。であるならそれは無論、集いし他へ投げる何かと、喚ばれし他の受け取る器もまた、十二分に信用たらしめる地点を、既に確認済みの方向へと、揃って……。それも悪くはないので、あったろうか。



 ん?……。



 考えてみれば……桜井さんと、正樹君の、この、態度……。

 まるで、同病相憐れむふたりが、何かの宣告を待つかの……ジャッジメントを目前にした者の、心を研ぎ澄ましているかの……いざ、謦咳けいがいに接さんとしている、畏敬の念の如くをこらえるような……。



 まさか?



 私は、けたたましく想い出していた。

 

 過日、この近所でも、そして……下馬げば四ツ角の辺りでも……そう、そうだ!

 依津子さん、ほら、あの、僕達ふたりして、初めて平塚へツーリングに行った時、信号待ちで、ほら、君も見たでしょう?!……そうだよね!……。あの時は、人気者の彼の事だから「忙しい人だなぁ」ぐらいにしか想っていなかったけれど……こうしてふたり揃って目の前にいると……このふたりは、きっと……。今日という日は、まさか? だらけの、何という日なんだ……お世話になった、桜井なおさんが、メンバーの中心的存在たる、正樹君の……もしかして、何と言ったらいいか……。どういう事なんだろうか?……早く、聞かせて欲しい……そして……僕も……僕だって……。


 みな違う、ひとつひとつの想いに、その人がざわめき、彷徨うろつく、寄生の自家どうちゃくが、沈黙を選択しない訳が、ないだろう。しかし、何事にも、限界というものが、退ぎわというものがある。今ぞまさしく満を辞すべき、その時の到来が……大き過ぎて……ホールは躊躇逡巡しゅんじゅんに塞がれていた。見えなくなりそうな真ん中の不安は、無言を求めざるを得ない事もまた、致し方ないと、言えるのだが。頑張れなかった自分と、他へ嫉妬を投げがちだった自分を、束の間、しまったはずの古い天秤に均衡を預けるみたいな。かつての、その時の無言と、今ここにある無言の違いを。自分を大きく見せようとする、若き日の風と、巡りし、満足と自信のそれの、ありようを。この、一気に集められるものではない、積み重ねるしかない謙虚な、誇りが見え隠れしていた。それぞれに、視野きょうさくを嫌ってはいた。

 そんな私の心の声が届いたかのように、依津子さんにしても、想い出す時にはべらせたがる、いや、それ以上のものを想い出す時の、必要に迫られた、したたかなそれを、前面に手繰たぐり寄せるばかりであった。揺れ移ろい、揺蕩たゆたうまま、風に微動するに任せるふうの、無抵抗めく、決まり事じみて。俄かに、そう見えて来る。彼女らしからぬ、影響され易くセンシティヴな、一抹の怖れを乗せたまなしは、うつむき加減だった。スタートラインを、息を凝らし、静かに見つめるように。ままならぬ、やり切れなさを理由に、人へ嘲言を向けんとする対岸から、遠ざかるように。ここから後戻りしようものなら、理解され難い、コンプレックスとの境界線というテーマの下、一堂に会する今日のテーブルを、の当たりに。何かにつけて文句を並べ過ぎる生き方が、ありとあらゆる場面に即応し兼ねる、説得力不足に敗れたかのような無言が、いやになった私である。さりながら、自由な発言が何でも容認されがちの、過剰……。まるで初めから、逃げ道を、エクスキューズを用意するかのやり方が、もっといやだった。

 ……自分ばかりが一番か? 優先順位は、いつも。言葉で自由を主張するなら、それより先に、信を得る行動を示して置かねばならない、当たり前の前提がある。とはいえ、無言という、ややもすると態度の嘘で、それを満たせない場合だって、ある。その時、言い訳の言葉ほど、態度なる行動を越えとするに無力なものは、ないのだ。言葉は、行動を、超えられない。真ん中をかわす事に馴れているあいだに、そりゃそうだ、何だって逃げてゆく。稼げる時こそ貯めて置くべき金さえ、後先を考えない物欲に走るように、逃げてゆく。それが取り返しのつかぬ、命取りになるかも知れないのに、後になって本物を求めた所で、何ものが、応えてくれるだろう?……。真ん中は、遺っているだろうか?……。主張拡張はやすく、纏め、なだらかに仕上げるという事が、創造なのだ。でなければ、最後に、しまえなくなってしまう怖れがある。

 私は、依津子さんと出逢ってから、ようやく突き動かされる、圧倒的なものの存在意識に、敗れざるを得ないままでいる。最近になって想い知った昔の、その同量、それは言うまでもなく、過不足であった。であるなら、生まれ変わったように埋め戻している、この心持ちは、待ち望んでいた、自ら買って出た嬉しい敗北感に支配されていた。適材適所なるものの立候補に、初めてこの手を挙げた、感動という、愛と、感謝だった。正に、敗者復活戦で、あった。若き日の土台作り、先の為の、投機なる意味合いの籠もった、有形無形のものは、時の流れと共に、いずれ姿を変えて蓄えられてゆく。ベテランのベテランたる、自助という強さ、まだ終わってはいないという想いは、内部留保にかかっている。それが物を言う、ときの声の幻が、その時を告げるような、この、テーブル……。



 それは、

 悲しみに敗れ去る前に。

 寂しさに敗れそうな、そのあいだに。

 海が微笑むうちに。

 あの日の海を、忘れてしまわぬように。

 


 本気は、隠せない。目に映るものが、何の為のそれであるか? そこから考えれば、無言など、虚しい。誰にでも、見える。世に言う「顔に書いてある」の意味が、わかる。併せて、失われつつある、ナチュラリズム、そして、自由であれ、という事の説得力を、今更のように、知る。現実という存在は悉くを語るに、それだけで充分である。そんな空間識に包まれていた、久しぶりに全員揃ったサークルであった。それぞれが、それぞれを、わかって、いる。ただ、言わずにいるだけに、過ぎない。当たり前の優しさに、過ぎない。言う必要は、なかった。もっとも、それに甘えられ、調子に乗られ、あれこれ中傷されては、私自身の優しさに、困るのだが。心の自由を、泥棒されるのだが。

 学生の頃、あまりよくわからなかった事が、今、涙が出るほど、わかるような時間である。目的の、想いの違いという基本的な当然が、安易な非難の対象になり得るオートマチックに、我慢がならない。歯止めをかけるか? 相手にせぬか? どちらかで、ある。甘え甘やかす事では、ない。そのようなもの、優しさでは、ない。

 私もかつてそうであった、隠さなければいけないのに、他を否定するばかりの……。創り方を知らなかった、守り方も知らなかった、壊し方だけを、知っていた……かの残滓ざんさいが、らしている。比較ぐせを取っぱらえば……いものはいし、悪いものは悪いと……ただ、それだけの事であったと……わかったかのような顔が、並んでいた。

 但し、もちろんマスターひとり、そんな事は、っくの昔にわかっている、自信を優しさで包み込む、いつもの顔を見せていた。その、誰かの宿しゅくを……海を眺めるように、見ているのだろうか。


 自分の中の、自分の為だけの最上級という、罠にまろうものなら、誰かの役にも立たない、比較級の空費に、泣く事に、なるよ……と。

 無言でいるのも、程がある。論点のすり替えと……言われちゃうよ……と。

 わかっているくせに……ズルいよ……。

 ネジは、いちに真っすぐ立ち、歩き、その役目は回す事で、自身のしあわせの用を成す。拒まず、撥ねつけず、曲がり歪まず、途中、何度も手を休めても、今更のようであっても、受け容れるという作業が、回すその手を想い出してくれる。再び、繋がり続けたがるんだよ……。わかるだろう?……と。


 そして、私は、それが緩んだまま、一旦、諦めてしまった経験を持つ。全てが、いつの間に。……故に、で、あろうか?……

 込み上げるものを認めざるを得ぬ、急遽一瞬を押しとどめられなくなってゆく。何と言葉が、予想外にまず、呆れさせるほどまず以て、意志を象嵌ぞうがんして満を辞さんと、踏ん張っている。言えずにいた想いは、言う事が出来る、私なるフレームの中でしかと……見え、纏まりあとは、吐き出す最早……響き渡るそれのみだった。空っぽというこだま一杯だった。無抵抗をうべなう岸に守られた、蒼き海原へ注ぐ流れを感じている。漕ぎでしものを見つめている。少しドキドキするような喜ばしき焦燥が、モチベーションを喚び覚ます。蘇る、心が、微動しているのだ。不安は、ほぼ、ないと言って、いい。蹴散らしたのだ。


「……人って、身勝手だ……」

「……」

 衆目の一致する所の、言葉の無回答。しかし、私は、

「かつて、お世話になっていた、支えて貰っていた自分さえ、忘れてしまうんだから」

「ぅ、うん」

 みんなの意見。続けたい私であった。

「そうしてくれていた大きな存在に対し、それは違うと想う。言葉は悪いけど、うぬれに見えるようで……。せめて、ずかしくない礼節の無言じゃないかなあ。それが、否定に回ったものだとしたら……悲しい」

「……」

 当てなく歩く距離の長さが、化身したらしい沈黙を許し、果たして圧倒されまくる、面々。ほとんど新米に近い鎌倉人は、尚、極楽寺の街角たらしめるかの、夢を、はばからない。自信が、兆す。もう、胚胎はいたいどころの話では、ない。依津子さんの双眸そうぼうの、黒々と放つ光にまつされ、こればかりは私の方から、かたわらに妥協のていを差し出し、言葉を継ぐだげだった。

「その存在だって、頑張っていない訳なんか、ない。たとえ今、本気じゃないにせよ、それを、ああだの、こうだの、言ってしまえば……自分が虚しいものになってしまう。自分がけた過去の恩と、一定の満足、自信を携えてこそこしらえた、想い出を遠ざけない、シンプルで平和的な世界観を、壊してゆく……。そんな事をして、何でもかんでもナーバスにっついて、何になる?……。不確かな、グレーの空を想わずして、ささやかな愛を信じずして……自分は、どこに立てばいいのか? どこへゆけばいいのか?……わからなくなる……。小さな明かりを消したら、自分が自分を追い詰める。何も、見えない……。どうすれば、いいんだろう?」

 私は、長く息をほどきながら、うつむいた。目線のやり場を、探せなかった。誰しもが、本来、じ開けられたくない無言は、如何いかにも揃えるしかないのだ。その理由を知ったかぶる仮面に、最も、手がかかっていそうな他者はと言えば、それとなく見回す限り、つづまる所、マスターであった。隙間を押し展げられたくないなら、突っ込まれても仕方がない、自らの言動の、危険予知が働くだろう?……と、目が物を言っている。心のデトックスに、それは相応しいのかい?……と、言っている。口火を切ったつもりでいる、この私でさえ、二の矢の主を、そんな父へ譲りたくなっている。それを流石さすがに察してくれた、優しい口元が、今にも、動かんと……。途轍もなく強く、果てしなく柔和で、途方もなく、面白い、憧れの人がいた。こんな男になりたい、誇れる、父がいた。そうして、そういう父は……身を少し乗り出し……


「上げ潮の時ほど……その汗の結晶を、大切にとどめて置く事だよ……。いずれ、必ず、無言は……物語る時がやって来る。どっちにしろ……本物は、黙ってはいないものだ……。いつか、物を言う。そう簡単に誘いに乗っからないで、寂しさに負けない事が……如何いかに難しいものか……。そりゃあ、軽々しく口に出来ないよ。だって、失ってしまった事を我慢する頑張りは、やっぱり、昔、それを作っていた時に必要としたはずの、同じぐらいの大きさを求めたがるんだ。自身の才能を磨く為の、準備期間の汗に始まり、それをふるう生き方の、折り重なる涙にもよる。その人にとって、それがどちら側に傾いているか? 過去と現在とのあいだに、どれだけのタイムラグがあるか? これからどんな時間を追い駆けるのか? という作業の中で、翼が傷ついた老鳥は、それでも……心を叩きつけるようにばたこうとするんだ……。静かに見守るしかないじゃないか。少なくとも、俺は、いつもそう想っているよ」


「その為の抽斗ひきだし?」

 依津子という名の娘の、優しい条件反射。

「そうそう。自分のページをめくるようにね……。過去に、みつくばかりではいけない。見つけたような許しは、束の間のものとするなら、きっと、再び歩いてゆける。率先垂範、常におのれにあり、さ……」

 この、父の徒然つれづれなるままの言い方も、咄嗟はみ出さない安堵で包み込む。そんな愛が、空間を、ゆく。見えない空気が、暖かい。想い出の風なら、暖かい。過ぎ去った風なら、次の風を待ちながら。そのあいだずっと、想いはとどまり続けていてさえも。誰であっても、そのように。待つと見せ、エピゴーネンの顔をしていても、それでよかった。みんなの真ん中にあるものに、風と光が届くから、幾ら波が立とうが、私も歩いてゆけそうだった。あの一本道は、守られていた。あの岬は、私という静謐せいひつを約束する限り、街にも、森にも、海においても、ひらきたい視程の悉くを遮らせないだろう。見たいものが透かし見えて来たと、そう想えては、いる。近頃よくある事なのだが、今は、特に。特別のように。


「あの……」


「ん?」


 正樹君の始まりに、一同の期待し得るありっ丈が、方々から、それでも小さく射込まれた。やっとの想いがはだけゆく矢の的は、彼と、そして、それを逸らさせるべく揺れているみたいな、桜井さんの朱をおもしに他ならない。無論、わかっている……ふたりにしてみても。たしかに、彼女の反応は声にならなかった。誰か自身の、アビリティーを超んとするプライドの、真実の姿を見ているのだろうか? 黙ったままという、そういう事は。「このままではいけない」を「頑張って来たのに……」にすり替えられる心の声は、出せないような。

 創造性によらぬ、気づかいが過ぎる、悲しみに敗れそうなサインを置き去りにしようほどに、忘れようとするほどに、汗を、誰のものでも汗なるものを、見限り誤解してしまう。たとえ、自分自身の汗であろうと、まるで。普通という概念、むしろ不足していたという概念まで、その人の資質的なストレス反応は、人を拡大解釈したがるのだし。普通であると想っていたものが、その人にとっては過剰であったり、逆に過少であったり、真実は仮面を被る。

 ……私は、見る角度によっては、そんなふうにも見えていた。それぞれがちりばめて来た想いが、嘘を弾き飛ばすように輻輳ふくそうしていた。「教える」と呼びせる、それを学んでくれるまで待ち続ける、愛、故に。そのものズバリを言って聞かせるより、そう考えるに至るプロセスに、期待するなら。「笑顔が素敵なら、きっと全てが」。ただ、それだけの事に過ぎないのだ。何が余計か? 簡単にわかるのだ。歩くに歩けぬ……目的もなく、当てなく……であるに連れ、その時間の永さに見合う、言葉の不自然は纏わりつく。自分の事は言えないのに、なぜ、他人ひとの事が言えるのか? という、しし食った報いの如きことわりの、伏流滔々とうとうたるが。そんな無言をメンバー達は、切り離していそうな、近づけないふうの、静かな抵抗の登壇がおを辛うじて嵌め込んでいた。しかし、流石さすがはマスターだけは、就中なかんずくの異彩を放つ。知り尽くした者は、さも美しく、かすかに、誇らしい。

 経験なるものは、誰にも嘘をかせないのだから。知らぬものは悉く拒否、ではないのだから。対峙するものを見下す事で誇りを保ち、満たせるなら、汗の目的を、闘う理由を、根元から見失いはしまいか? 無念の悲しみを、結局、最後にそこへ持ち寄ったところで、先を望めるのだろうか? 自分で決めた事だったはずだ。言い出しっぺが戦線離脱するなんて……。

 私は、ただ、失くしてしまった心が、あるいは、まだ見定めていない心が、こだわりを持たぬ事こそにこだわるかの姿勢を、他に押しつけるような、それを言ってはならない、本来、言えないはずの不自然さに、穏やかではいられないのだ。自他共に、敵愾てきがい心を煽るだけだろうに、そのあと始末まで放り出そうとするニュアンスを、鼻にかけた言い方が、傷つけているとも知らずに。

 そして、その加害者から被害者へ、てのひら返しですり替わり、頑張って来た善人顔の「フリ」を決め込む「しめしめ……」の無言に、言われた方は言われぞん、最後はいつもそれにやられてばかりでは。どんな理由であれ、無言は、常に見守られている。それをいい事に、他者の安心あんじん立命りゅうみょうを壊さんとすれば、そうしてはならない言葉、行動のエゴイズムは、跳ね返る必然を免れない。言った者勝ちが、やった者勝ちを制するが如き、今更、自分の言葉を見棄て裏切る、ズルい無言の手が、そこへのびてゆこうものなら、現実とプライドのずれ過ぎはきわ立つ。この両者は、普段は仲が良い。されど時に、その領域に分け入ろうとする、看過出来ないものはある。当然の防御本能は、かさず、平衡を辞したプライドが、現実を許さぬ盾を取り、目の色を変える。それは、迷い込んだだけで悪意などない、旅人にすれば、正に青天の霹靂へきれき、好戦的な、こちらも異をてざるを得ないものに映る。不自然と不自然の対峙、暴き暴かれの不毛境涯は、成立を拒めなくさせてゆく一方、「自分が一番である」という意地っ張りの、舐めた態度を、寛容な世界観で包み、甘やかす。

 ……人だもの、愛してくれた人、お世話になった人へ、何ひとつ恩返しをしていない涙は、罪になる。隠れたい気持ちも、わかるのだが。なぜなら……あの岬も、あの海も……私にとり……それを埋める為に、つまり、隠す為に……あったのだ。そして、このままではいけない事が、今、私……だけではなく……。ずっとそうであった、本気になりたかったもので創れる事が、「自分が一番ではない」という、一番に来る。でなければ、あまりにも多くが、嘘に、なる。

 いつの時代も、広範多岐にわたる、その道なりの自由、信頼とニーズの追随者は現れる。目の前の事実と、うちなる真実とのギャップに、苦悩する時もある。とは言え日本人である以上、以和わをもって為貴とうとしとなす、用和の伝統墨守ぼくしゅたる魂を忘れてはならない。私は、頭の中では……素直に、そう想えてならない。「教える」という何かを「学び取る」、そんな心の、風のような自然さを。そんな頑張りで生きてゆけば、いつの日か、誰かの為に、なる。見せなければならぬ時に、出来るだけ見せないようにする事は、やはり見せてはいけない、これほどまでに難しい事であろうとも。「恥」と「誇り」の真ん中を架け渡し、繋ぐべく旅路が。うちなる真実は、目に見える現実を求めるほどに、限りなく事実に近い何かを、遺すのであるから。勝つというより「負けるな」「諦めるな」……。

 みんな、強くそう想っているに違いなかった。私は、そう、想う。依津子さん、君も……。

 争いの火種も、嘘も要らない、愛して欲しい。ただそれだけであるものまで、風に弱かった、弱いものだった。あまつさえ、反面教師の慣行であっても、無自覚など、例外もなく。昔から吹いていた風は、ともすると……ふり翳してしまいがちのような、嫉妬……とて入りじっていた……と想い出すに連れ、はっきりと冷たく斬り去り、冬は身に応え心にみる。

 人はいつか、生きてゆく事を終える。創りかけのそれなら、愛の現実に怯える。創り上げて来ても、消えゆく宿命さだめは動かない。心の片隅から離れない、愛を失ってしまうかも知れない……という想いは、喪失なる非情の手による、早過ぎる、始まり?……優しさ故の、準備?……。その、大きなひとつが、ジェラシー……愛の生命いのちを遺さんが為の、それを教える為の精神行動の、ジェラシー……。情熱と創造性が、技術を、腕を磨く。それらを想い出しながらの言葉で、紡げないざんは抵抗を示し、「逃げ」て「フリ」して「トボケ」るに、棄てゼリフの嘲言は、忘れる事なく打ちつけたがる。そんな、まだ叶っていない、しかし、叶わなかった心……非道ひどい表現ばかり連ねるが、満たされぬ、同じベクトルの手に成る心も、いずれ失くしてしまうのだ。その瞬間にこそ込めていたであろう、本気という姿は、時を超え、今に極まる。時、あたかも、ようやく辿り着いた大きさしか、見えるものはない。ずかしい……など、退しりぞけるにやすく、ジェラシーにも無防備なるままに紛れさせ、自ずと選択肢のうちに。気づかいが過ぎ、疲れ、頭を使っていると誤解するプライドは、残念ではあるが、創造?……。

 無論、頭の中で考える理想は、そこから、心という名の下の、つまり、愛ある故の、嫉視のまなしの透過を経て、当たり前を踏襲して、初めて、顕現するに至る。で、ある、が、私は、嘘であっても贋物にせものであっても、礼を尽くす事から、本物の平和は生まれると、困難にくじけず、信じるだけ……そして、言った言われたの、他者と他者の関係に、間違いはなくなってゆく、だけ。ただ、無言の陰に自分を隠したいなら、あざけるセリフもしまってくれなくては、言葉としての嘘の方が、中途半端に吐き出していようと、秘めたる部分が、まだ、……とは想う。駄々だだ破れのキミコムシは、野暮だ。

 人を恨むものではない。さいぼうに乗らず、争う悲しみは悲しみのままで、迷子にするべきはずなどない。恨みと争いが相ちたがる、ベクトルの共謀じょうらんを許した時、かかる伏流は声高に、いずれの「渇き」を教えよう。しあわせな美しい海は、両者の距離感に負けない、信念と情熱を以て、豊かな森を創る事で約束される。かの地を遥かなる故郷に持つ、川の流れがそれを証明する。今にして、かつてそこにあったプライドは、途轍もなく真摯に物語り、既に途方もないほどではある。「に居て乱を忘れず」……が、たとえ虚しかろうと、「人」から「争い」という概念を、切り離そうとするかの、まるで、絵空事のストーリーのモノローグのような、嘘の方が、どんなに笑いをくれるか。

 ……人を馬鹿にするセリフのない、寡黙なピエロ……ヒューマニズムまでをも引き出し、彼の笑い顔の端っこにぶら下がる、小さな涙が。全力疾走が短か過ぎたなら、核はあるにはあるものの、心もとないグレーの空と海へのエスケープは……待っていた……ソフトランディングをやり取り出来る、世界観である、だけに……。

 誰のものでも、悲しみや寂しさを想いやる前に、第三者のしあわせへ嫉妬を向けてしまえば、とうとまなしは風にさらわれる。優しさをくらまそうとする、抑え難くこぼつ、小さなひと粒は、未だ私自身のそれでさえある。答えを出せぬ、自信のなさが逃げ込み易い、そういう無言もまかり通る環境に甘んじて来た。優先順位の間違いの、馴れ合い時間をかくまうかの如く。周りの笑顔や冗談を持てはやしつつ、反対の手で、そのじんを助けてしまう時も、たしかに、一再にとどまらないのだけれど。ピエロだって、内側では?……きっと、今でも……。決して、言い返さない……そんな無言、こそ、の。言い返されても、永きにわたり、プライドを守る為に費やした、多くの犠牲に応えなければならぬ想いは、忽ちのりょうのはずだ。虚勢に走った要らないものは、置き去りにされた迷子の悲しみに変わり、っとけない心配顔で、ジェラシーの雫に、頬を差し出して見つめる。言う事、為す事、報われぬ、恥を棄てざるを得ぬ逆様さかさまは、無言でぼかすを待つまでもなく。ぼかさなくてもよさそうなものさえぼかし、ぼかすべきものはぼかさない、言葉を見ている。無言の安心あんじん立命りゅうみょうが要る時、周囲も同じ想いでぼかさせなければ、無言に込められし心は、えっつみの涙に、余白どもさえ、併せ泣く。

 を、教わる事を、を、学ぶ事を拒まず、そうさせて頂く、時に教えを乞う、謙虚たり得る姿勢が、永く語れる想い出の、寡量にあらぬ、誇りを支える。虚勢とは、害にこそなれ、益にはならない。余計なものも、考えなければならない事が多いのは、とかく、若さに限り許されがちである。『人は、ただ目的もなく歩いてゆけるほど、強くはない』。

 失いし理由は、生まれ変わる為。

 明日にこそ、輝くべく。

 再び巡る、日づる愛を以て。

 いざ、君。


「俺さ、実は……」


 若大将は、自身の表面抗張力の限界を知り、うちなる浸透圧は外から吸い出され、奔逸の時を迎えた。みな、涔々しんしんとしている。彼は、応えるべく半開きの口で息をのばす。ふと、永いものになってしまった、さっきの自分の「あの……」を一旦、言い切り、止めた。


「ギタリストとしての武者修行をする為に……カリフォルニアへ渡る事を……決めたんだ」

「ええぇっ?!……」


 私も依津子さんも絵里子さんも、絶句した。もちろん彼とて矢継ぎばやの、なぜか慢心に近い気息の漏洩が……。

 それはマスター以外、当然をしゅんでとらえた一同の驚きであった。白地あからさま自恃じじの心が、時間と空間を叩き始める。ばたかん翼は地を蹴り、最早、滑空の夢、エトスを離れパトスの境涯へ移ろっている。父のまなしを見れば、如実に証明していた。如何いかにもこの親子に似合う、父ひとり子ひとりの、控え目な誇らしさを見るにつけ、飾らない感謝と敬愛に洗われていった、子供達……。他人ひとに言えないこらえしが、待ち望んでいたしゅんぷうの和気藹藹あいあいいだかれ、忘れられるような気がしている、鎌倉の……。未だ迷えるパラダイムシフトであっても……。今日は立て続けに新しい自分が、自分の扉をノックして、もうひとりの自分を、引っ張り出さずには置かない。にもせよ怖れはない、ずかしくもない、今は冬、真っただ中なのに、全然、冷たくない……むしろ、やっぱり、私達は……。正樹君と桜井さんにしろ、先走り熱ばみ、体温の上昇は風合いどころではなく、飛び込まない訳もなく、追い詰められた訳では、決してなく。微温ぬるい熱風は、ひとつ所へ吹きまりゆく。

 情熱波になり切れず焦がれるギター弾きの、遠く旅立たん宣言の一投に併せるかの、若い者どもの咄嗟の昂揚は隠せなかった。士気は極まるばかり、正に私達の賞嘆は、同時に賛辞さえ奪われていた。それぞれに、秘せる何ものかは時となく、風を噴く。故に形なきは言葉にするのが難しくなるのだ。それとなく見回すものの、うちなる激しさを抑えるに、かなりの無理をしていた。マスターは父たる顔で、全体を読んでいるような風情に、佇まう。正樹君へ、何か、言いたそうに。そして、彼、だけでは、なく。


「この桜井さんは……」


 息子はその女性を前にして、煮こぼれるすんでの所の火加減を、調ととのえ巡りゆく道程に、想いを馳せていそうだ。そのおもむろは、消えがての何たるかを、今もそこにある、遺したままの忘れ物を、拾って真ん中へ置き直す、旅路。江ノ島方向へ走り去る、古びた電車が軋ませる懐かしいかすれ声に、優しいこだまは、大切な人の喚びかけ声……。蒼勁そうけいの如く、たんの境の限りへ、往かん。中途半端なる、まだ終わってはいないフレームの暮らしは、かくも侘びしかれ寂しかれど、てて加えて始まりつつある、ゆとりの余白はページを繰らせ、



「……」

「……」



「俺の、別居中の女房なんだ」


「ぇっ、あっ?! あぁぁ……そう、ぅん……」


 いきなり、本当は夫婦であったふたりとはの、あまりの現実を突きつけられ、幼なき翼の肉叢ししむらどもは漏れどころではない。故意の散漫は止まらない。言葉を罪の如く失ってゆく。あまりの不足を想い知り、自ら向こう岸へ飛び出したのだ。驚きという生きざまにも、されど即座に折り返すべく、その真実を確かめられる、これまでの既成事実を掻き集める自信が、大きく味方する。無論、違いこそあれ、生き方を問われているようだった。理解が欲しいだけである。いつもおぼろげに描く、これだけは……は、っくにぶっ壊れていた。少なくとも守りたいもの、守りたかったものが、満たされたがる。その大きさを追い駆ける分と、細大漏らさぬ同量を契りし何ものかは、ロイヤリティーは、向こう岸からぐいと引っ張る。ゆき過ぎの寝惚ねぼまなこさえ叩き起こし、はたと目覚めさせるのだ。あたかも転写の手に成る均衡を保とうとする。よってこうして、人の想いというものは、予断を許さぬようにも……映るに至る。大志大義はそれだけに、行ったり来たり左右のふり幅が、これまでの過不足を埋め補う以上に。ゆけばゆく強さは、乗り越える為に果たすべき、大きな跳躍の強さ。その時、着地して踏ん張る足は、どこに立っている? どこを見ている? そのままの勢いで、倒れ込んでしまうかも知れない自分を、立たせてくれる場所とは?……。いつかきっと、そこへ帰る強さ、帰らなければならない、愛の強さ。それだけで立てるのだ。波風が襲おうが、しっかりと体勢は守れるのだ。誰にでも出来る。頑張って立っているではないか。突然であっても安住の地を想い出すに、迷いはないではないか……。その強い足で立てる、その場所こそ……。れた証しの風向き次第の、自然落果を受け止め……にも似た。私はそうとしか、想えない。

 であればこそ、それは押しては引くストロークの真ん中にあった。高く翔んでは遠く隔たり降り立った、その距離と時間の永さの真ん中であった。たしかに、時計のふり子のように九十九つづら折れる坂道のて、遥かに望む稲村の、見えない岬をいだいにしえたる、蒼龍さえ眠り、うつに生ける、わたの原……。見えずとも物言わずとも、鴻大炯然こうだいけいぜんたるをこうする所の、夥しき筋立てを感じる。奇蹟に相応しい昧爽まいそうという名の場所へ辿たどり着き、とどまっている。私は、そんな今を得て初めて、馴れっこのはずの当たり前のジグザグが、ただ真っすぐな一本道であったと、想えて来る……。鎌倉はまさしく今、私の心内論争を助けて来た、その献身の終わりを教えるように、霞み中庸たる雲流れの英英えいえいいただき、静かに生きているのだ。如何いかにすれば、ひとつひとつの傷痕は消えがてであれ、そこまで風雪にえてこそ……出来るのだろうか? 自らをじず、自らは恥をかかせず他人ひとを愛する……生き方が……。

 今にしてマスターの態度物腰に、みなの納得が抜きん出ている。依津子さん絵里子さんの、目の輝きに宿るものに、もう疑う余地は、ない。流れる雲は、たとえ悲しくとも、信じるに足る心の余白へと、ほのかな喜びへと変わり、そしてさやかなる、ふたりのげつの姿さえ見せる。まなこの窓辺を小高く眺めては、一一いちいち、道半ばの結界がかたどられてゆく。若手はみんなよく似ている。きっと私も。柔甘やわあま微温ぬるく、海辺の街にいつも遺っている、動かしづらい、それでいて許せ、気にせぬ、匂い。閑たる時にこだわり過ぎれば、余計な事を考えられる宿しゅくとて、黙ってはいない。善かれしよりも、悪しきをどうにかする方が、引き算が一番と、喚ばんばかりではある。取り戻したように遺っている慎ましい誇りは、御し難い力にまさる、愛と平和を誓う、第一条である。私は、悪い事さえ取り除けば、特段、頑張らなくても、普通でいられると想うのであった。甘いだろうか?

 ……つづまる所、高見、斎藤、それに私、吉村の三氏は、榎本親子二代、父と息子夫婦三人との対座、膝詰め談判の際立ちに怯え、敗れそうになっていたのだ。マスターの悠悠舒舒じょじょたるに救いを求めるように、申し訳ないように、自らの物足りなさを埋める作業に余念がない。「桜井」なる姓も、もしや、少し前の私がそう考えていた、ハンドルネーム?……。という事に、なる。仲間意識と処置反感が、前出の者どもの両天秤をかけていた。ターニング・テーブルと化した今日なのかも知れない。人は、不安や は謙譲に許されるものと、世に習っている。その正直な表白の一番手は、あっちか? こっちか?……。とにもかくにも夫婦の態度……ずかしさがみ出し放題の、記憶像はこの時の全体像へ乗り継いだ、本物の説得力……。もう、嘘は一切、ない方へ。


「……ごめんなさい。桜井って言う私の姓も、実は……。色々な意味で、旧姓を使うより他に……。言ってはいけない、言えない事ばかりで、許して下さい……」

「……」

 真っすぐなものを、早速、引き取ってくれたのは、妻たる「なお」さんの勇気だった。対する様々な無言は凪の如く、海へ寄り添い遡りつつ、遥かなる営為を賛えるが、如く。〝鎌倉こころのパートナー〟に大変お世話になり、そこで知り合い、集いしサークルの、この店の贔屓ひいき筋たる私達三人であった。それぞれのメタフィジカルな世界像は、桜井さんを想いやるべく、ひたとなだらかに小々波さざなむ。されどその下で、彼女の情熱をそのままに踏襲し、待ったなしとなっている。言葉の感性が衝動に持ちこたえられず、そうとしか見えない。私は桜井さんへ、素直にお礼を言わなければならなかった。


「桜井さん……、僕は、あなたの真摯なカウンセリングに、心から感謝しています。遅くなってしまいましたが、厚く御礼申し上げます。本当に、になったんですよ……。筋書きばかりを追い駆けない事が、その人らしいドラマになると……。あなたは、鎌倉を、故郷を、深く愛しているんですね……。言わせて下さい。決して……悪い事をしている訳ではない。ごく自然な事です。とても真面目な方でらっしゃるから、それを失いそうな不安もまた、当たり前のように、よくご存知でしょうけれど、ご自身を責めてしまってはいませんか? もし、そうだとしたら、自分から罪を背負う事は、止めるべきです。人へ夢を与える事がとうといなら、人から夢を奪ってしまう事が罪というものだと、僕は想う。ですから、人から奪わなければ、その、あの……、失礼ではありますが、余計なものがなければ、普通でいられるじゃないですか。その人が、自分であれ。向上心なる夢は、誰にでも、ある。未来を求める自由が、ある。失くしていたかも知れない、大切な人にも、それはきっと……ある。ただ……、いつか必ず受け容れられる時の、わかり合える時の、忘れ難き人が待ち焦がれていた喜びだけは……僕は……裏切ってはいけないと……今、想います。永い旅路のてにこそ、夢は、いつまでも生きている。だからこそ……、人は、その小さな明かりさえあれば……それを頼りに、生きてゆける。終わってしまったのではない。続いているんです……。僕は近頃……、自分から終わりを告げてはいけないと……そう語る、もうひとりの自分の存在を、強く感じているんです。やはり、鎌倉で出逢った方々のお陰だと、想ってます」


「陽彦君……」


 正樹君の……私を見る目に抵抗の痕もない、涙膜耀耀はこぼち、膠漆こうしつまじわりたるりょうの頬にっていった。口の、小刻むは歪みであり、うごめきであり、心界の泣き腫らすを知る人ぞ、私だけではない。マスターさえ、薄っすら、潤んでいる。桜井さんとて……言うまでもなく、しかも、溢れ、溢れ、止まらず、かすれ、かすれる声は、言葉を作りようもなく、過去像は滲みゆくを、見ている。一堂に会した誰で、あれ。夢だけが翔んでいた、みんな。それは風の如く、忽ち彼へ伝わらざるは、なく。優しさを鷲掴んだはやは駆けた、やり取りであった。


「ありがとう……、いつもいつも、ありがとう……。今まで言えなくて、本当に、ごめん……みんな、ごめんね……。俺達、話し合って、夫婦ふたりで……向こうへ旅立つ事になりました……」


「おめでとう! おめでとうございます!」


 だから花は、また咲く。であるから再び、あちこちで花は、咲く。しゅんいだいてじょうは綻び、時と人を選ばず。あたかも、貝殻の内なるにせよとて光の層の如き、この時間識を射し込む決心があった。大切にすべきを大切にする、だけの事であった。風を風のように扱わない、ただ、それだけの事であった。難しい事ではなかった。親子がそれを見せてくれるなら、真珠の輝きに負けない、悉くの心は切り出され、空間に舞った。かの受け取りし美質は無自覚に、受け渡したい想いが涔々しんしんの、でん細工の如く、なってゆく。至微至妙のとうといものに、なってゆく。感極まる、家族三人……。誰からともなく、拍手が湧き、真冬に時ならぬ、いくりゅう叢雲むらぐもの祝福は立ち、喚んでいた。真ん中にあった。消えてしまった、あの音の無い滝さえ、花火のように鮮やかに、引き連れて来た幻であったろうか。それはともすれば、誰かに頼るばかりではない、されど……の想いであったろうか。見えるまま、聞こえるまま、触れるまま、という感覚だけに命じられる訳ではない、誇りがあるはずだった。記憶nostalgia直観intuiteの世界は、謙虚な思考の方へゆこうとするだろう。みな、わかっているように見ているだろう。他人ひとを泣かせまいとする、昔のわがままな心像に対する矛盾が、かえって今日のこのテーブルを、泣かせてしまう……。


「みなさん……、ありがとう……どうも、ありがとうございます……」


 妻、故の、時を得た為の、打ち寄すかくまい波は泣き笑った。真実を言えなかったのに、他人ひとを見くだしてしまった、訳ではないのだ。遺りし、真っすぐな何ものか? だけは、隠さなくても罪にはならないだろうが、それは当事者たる彼女にとり、言いたくても言ってはいけない、大切な事に違いない。昨日と明日のあいだに、休息を求めようとも、涙、揺ら揺ら映るばかりだったろう。ほどけそうな帯を、さっと締め直すにも、そして歩いてゆこうにも。が、しかし、最後の仕上がりを、目指していればこそのように、私には見えた。その度に移り変わる、小さな目的意識の空想は夢見心地、おもしもだんだんと、笑顔へ、ゆく。未来へ、繋がりゆく。夫婦の愛をり合わせた翼は、時つ風をとらえ、正樹君と共に、たとえ曇りがちの空であろうと、きんぎんの海を渡り、ただ果てしなく、ゆく。それでよかった。それでいいのだ。私達クライエントは、そんな彼女の生き方に、感動を禁じ得ない。その腐心の程は、想像に難くない。カウンセリングにあずかりし、幼なき翼の面々は、本当の事を言えない、我が想いと折り重なり、居たたまれない。

 確実に、桜井さんにしても我らと等しく、いや、違う、それより高く踏み超え、先刻から我が身を差し出した、この場この時に在るだけで、頑張りなるものであった。様子の作り物っぽいと、想われたくはない。ひたすら、収まったかの汗を失くさないように、怖れてはいけないように、そんな自分のバックグラウンドに馴染んでいった。故郷への誇りをしまい込んだ、一番の大切であったろう。静かなる頑張りの、凪ぐ、わたの原の……見晴らせる叙情詩景の朗々は近く、よくある話の、正に安心あんじん立命りゅうみょうを紡ぎたいしあわせに、あった。退しりぞいた言葉の小々さざなみは、怠業世界の言行不一致など及ばない、ベテランのベテランたるトータライズされた、真の、新しい誇りを創るべく、戻っていったのだった。嬉しさに、ホールは透き通るむせびに、ある。学びに、ある。

 

 ……依津子さん……。

 君は、何を想う? 私は、君を、見ている。見ているんだ。心の出し入れは、コンパスがなぞり描く円弧は、行ったり来たりは許されよう、忙中に閑ありの、ささささやの、愛の愛の、教えを。ただ、正直という饒舌への、全力の静寂と、本気の牧歌がある姿のままを、君は見せている。打ち明けてくれたふたりと、父の、心模様に触れ、その姿を見ているだけで。何度、引き返しても、人は。遺された者の誇りは、隣りにある、大切なものを遺した人の美しさで、どこか遠くへ過ぎ去ってしまうほどに。その理由が、そこまで届けとばかりに、愛を展げのばし、わからなくなってしまうほどに。嘘でそれがわかるぐらいなら、泣いているのは、誰だろう?……。沈黙とは、何だったのだろう?……と、強かに、君は。

 生きてゆく意味は、益をもたらす邪魔をする、同じ無言を以てすれば、一本道から逸れ、忘却の雨に打たれたがりもするだろう。人の一生の一度切りは、八十年で去ってしまうから、涙も笑いもある。フラストレーションを罪なき外部へぶつけ、その中の、とある人に懺悔しているなら、謝る人が、違う。美しき、優しき……想い出たちだと……君も感じているみたいだ。そしてそれは、過ぎ去っていった先で同じように、虚勢のプライドが、身にり教えてくれる火の粉を踏み消し、何ものとて自由を奪い、食われた過去のジレンマを、見つめざるを得ない、と。今に至り、さにあらず、その統合意識が象徴する、喚び合う喜びさえまた、姉妹相携え、待ち焦がれているかも知れない……とも、感じている。始まりは、本物の誇りしかない。君はそこに、自分の全てを捧げるだけの価値があるものなんだ、と、まなじりを決していた。すぐ失くしてしまう本気を、早く物にして、そこへ想いを尽くす事を……知らせていた。

 依津子さんは、形ある自立音の遮断の下で、つぶやき続ける。また黙ったまま、今度は、温かな涙を創ればいいんだよね、と。無言の誇りがあるなら、追っ払うかの余計な事を吐き、中途半端にせず、最後まで、貫け、と。折り合えぬ無言から、その経験の学びが、その渦中にあるを、しゃする無言へ、と。私も、そう想う。男、なら。誰かの心の平和を奪うばかりなのに、自分の為には、すぐ被害者の辞書を持ち出す癖の……何が、男か。育めぬ、嫉視という非生産、愛の文化を下げる、その、どこが。

 故郷の謦咳けいがいに接するがいい。……ここは日本。いずれの岸もない、大海の御心を創りし、我が、生まれ育った国である。心の体幹なるもの命ずるまま、強さの下、愛は、成る。いたわりは妨げず、いたわりを躊躇させず。今度はこちらが、苦心して誇りを創ってくれた故郷に、深く想いを込め、恩返しをする番が巡り来ている。『故郷の家族や、大切な人をしあわせにしてこそ、男である』。いつかのあの辞書に書いてあった場面は、どこにも、見当たらない。


 生まれて来た事に、生きている事に感謝をする行動こそが、大詰おおづめを彩るに相応しい……。


 彼女の根ッ子は、「大切なものを守る」「それを宝物にする」「頑張れば何でも出来るようになる」。この三つを持つと想像させるに、私との短かいプロセスさえ、疑うまでもない。もし、それを感謝出来ないなら……、もしかして、出来ないから、考えさせる事を見せている、教えている何ものとて、見せつける無理強いの犯人に仕立て上げる、構造的問題ありと、私も、誰でもいいから言いたくなって来る。しかし、去るものは追わずと言うように、逃げるものを追ってはいけないと、私の内省遡行世界へにじり寄る。発散ではなく、拡大解釈の火に油を注ぐ酒が、見えているのだろうか。てもなく、いつとはなく、要らぬものばかりを集める幻が、表出してしまえば、元も子もない不心得が、揺れている。不味まずくても頑張れば飲める、「泥水どろみず」なる銘の酒なら、のちに甘露にみたはずの。そして待ち伏せるは、自己完結を手離したような、間のびした時の永さに他ならない。生きる為に、ビジネスは出来る。更に展げれば、派生的とも言える、ネガティヴな想念は、後ろゆびされそうな予感さえ塗り潰してしまう。苦難の汗さえ、糧たらしめる道から逸らし、その処置反発は消し難いだろう。されど、本心まで到達するを許されるのは、時のはざし挟めるのは……。やはり、まだくすぶっている、願いの不完全燃焼が大きくなる前の、そのうちに、強かに気づくしかないだろうと……。君は無言で、誰かの心に語りかける。


 ……風が、吹き去っていった。なぜ、去っていったの?……私は、なぜ、風を去らせたの?……。心って……誰かの目線に飛び込んで、その誰かの目線を飛び込ませたい、風に過ぎないの?……。みと汗顔を知らしめる、無意味の如く、余白の如く。


『さあ! 行こう!! 出来ると考える地点から、人の全ては歩き出す。人を変える。出来ないと想っていた事が始まる。しあわせか? 不幸か? 人はシンプルな場所に群れ集いたがる。人の里の大小、街か? 都市か? 理論は、ただの寂しがり屋……だから、矛盾もまた……。時に、善意に甘え過ぎる、壊すような風さえ、許してしまいがちの自分が、虚しくなる。風はわかっているのに、尚も畳みかけたがる。そして危うきの予感はズルい。心を預かるプリンシプルの、吹き流れて膨らんだ、あからさまな今が、悲しみを黙らせはしないのに。かくの如く、俄か作りのんまり壁は、モラリストを守る。自分の中だけの事であろうと、他者との関係であろうと、相互意識の建設の難しさに……私は、何遍なんべん、心折れた事か。幾度、ぎりぎりで持ちこたえ、守るべく切り替え、腹をくくり直した事か。ありとあらゆるものを、犠牲にして来た。しかし、たとえ、どんなに、傷つけられても、ならば今、さればこそ今……改まった態度の、自分の中の統一が、やけに晴れがましい。献身たる証左の誇りというものが……。謙虚に自分の不備を知り、誰であろうと、何物であろうと尊重して、受け容れる生き方たり得る、根ッ子こそ……。それがなければ夢と幻は、限りなく、イコール……。真っすぐである事は、変わらない。何も、変わらない。昔から……』


 私は、考える。

 故郷と、この街と、家族の存在が、私を、

 男にするのだ、と。

 心から笑えるけれど、心から泣ける。

 だから、素晴らしい。

 泣いたり笑ったりは、ごく普通。

 威張らない。隠す必要もない。

 答えられないという、答えがないという、グレーの境涯の夜更けへとゆく時間が、始まりつつあった。わからない何ものかに畳みかけられるように、記憶は消え入るも、さりとて暖かい風が吹いている。そして突然の一風、決まり事の、そしての想いを見せていた。連絡を取れなかった心が、あった。それは私の方なのだった。冬の食卓越しに微笑む祖母が……もう……あまり、喋れないのに……一生懸命に、私へ、言う……喚ぶように、言う……。ただ黙り込むより、何でもいいから微笑ませてくれる方が、どれほど救いになるだろう、と……。


うちに、帰りたい……』


 けれど祖母は、それさえ忘れてしまっただろう。私は、忘却が憎い。記憶を消すのが怖い。であるから、想い出を擁護する立場を崩したくない。そうして祖母の生きざまを見れば、消せぬ忘却ではなく、消えがてのネガティヴな想いに、私の優しさを導いていると、鎌倉と共に感じさせるのだ。悲しみから逃れるべく、頑張っている人に対し、これ以上、何を望むのか?……。! ばかりでは、虚しい。それでもいつか向かざるはない、前が、限りなく不確かに、それだけではなくなっていったのだ。私が飛び込んだ人の、真ん中にしまわれていたものが、双眸そうぼうから溢れるままに。あれからむしろ、その人を飛び込ませる所、海の光さえ、うろ覚えの歌に映えるかの、同じベクトル以外に、出逢いはないように。まるで、これから、その人に起こり得る事への、日頃からの柔軟な理解による、共同体質の程を、告げるように。自分のわがままと尽くし尽くされとの、なみだばかりで……あったろうか。勝手と自由は、明らかに違うのだ。馬鹿だのコケだの言わぬ、祖母が、変わらず私の右肩に、いる。梢よりあだに落ちけり蝉の殻……の如く、戒めの余波が漏らしがちの言葉を、見ている。悲涙を与え、喜びを奪っているかも知れない、言葉を。されど自虐の風をも、優しく呑むかの風向きに、変わるような、変わりつつある、変わる、時は刻んでゆく。

 風は、教えてあげようと吹く。ならば、教えてくれていると……応えたい。

 そんな風が、一番近くで融け、どうしようもなく融けてしまう理由わけは、やはりTV やら何やら以前に、家族や故郷への「ありがとう……」と共に、誇りと共に知る。人生を深く味わう話がしたい、ベテランなら尚、一層。人の想いを、科学や学問で、先例で割り切られてたまるか! と……風は愛、故に。乾坤一擲けんこんいってきと潔し。奔騰ほんとうと咲く。りんと立つ。ストイックなまでの強い意志があれば、人間に、出来ない事はない。少なくとも風は……今の出来を教えている。誰しも吹いていたはずだ。永いあいだ、嘘をかない。消化不良さえ正直に。キャピタリズムは揺るぎない。その目的を満足させる約束の、汗を。さざれいしを、いわおとせんとす。さもあらん、苔のすまで。

 本気の想い。誰かを代表するものである。最後にではなく始まりから、支えが絶大である。何ものとてかなわない。如何いかなるプロセスであれ、感謝と敬意を捧げるほどに、「誇り」なるものをくれる。であるから、全力、本気を、早く覚える事……、それを、永遠のしあわせと、言う。それを言わない無言は、言い返さない無言になる。そして、言い返せない無言に、かくも、そっと。穏やかなりと、風の如く。そう……、言えなくなってしまう前に、忘れてしまわぬように、揺蕩たゆたう。滅びゆく喜びと悲しみの、言ってはいけない、未解決のはざにて。たとえ傷つけ……傷つけられていた……としても、誇れるものを言えない自己矛盾と、誰の汗であれ、それを覗かれるような事は、未だ……言えない。言えないのだ。

 たしかに、沈黙を守り続ける作業は、自らを強いて卑下していると想え、悔しい。嫉妬もする。しかし、それ以上に……かかる困難が、愛と友情を教えて交わすように、トータルのしあわせの代償を求めるように、見つめてくれているなら、見守ってくれているなら、誰かが笑顔でいてくれるならら私は、喜んで無言を差し出そう。その為に何でもしよう。他人ひとに向け、その人自身の古疵ふるきずいざなうよりも、気の弱さに引け目を感じる、傍観者の私としては、その方が救われる事、如何いかばかりか。

 もし、悲しみに敗れそうでも、わかっている自家どうちゃくの無念啾啾しゅうしゅうを、個人的な恨みやジェラシーを晴らすが如く、他人ひとへ過剰に投げつけてはいけない。得意と失意、名誉と不名誉の双曲線の座標が、寡黙である時、誇れる汗との約束こそが、たぎる魂の存在を感じる真実が、間違いなく事実を手渡し、癒すと共に、支えになってくれよう。頭を使い、心で創り、だから……、体で感じる、本物が。泣かされるような事はしない、それさえぼかさないかの。袖ふり合うもしょうの縁の、隣人のぼかしさえ、許すかの。


「正樹……」


 マスターが、永い沈黙をき、晴れ間から顔を覗かせた。一同の泣き疲れた目を集めるのだが、みな、自身が問いかけられたように、目線のゆく先は、躊躇へとすがっている。その耳元をかすめて欲しい、次なるを待っていた。マスターは、見届けている顔のままで微笑んでいる。そして席を離れた。大写真の方へ歩いていった。そばに立てかけ置いてある、アコースティックギターを手にすると、一瞬の沈みは忽ち浮き上がる。くだりは巻き上がる。海嶺のままに坂を降り、またじ登れば父の面影はわたの原から……一輪の花を添えて差し出した。手応えをわざと抑え、やってみせるような自然光が、まなしという窓辺に灯っている。涙では、なかった。


「お前、歌えよ、あの曲をさ……」


 そう言いながらバーチェアを引き寄せ、腰を預けた。私達は蛇口をひねり開けるように、固かった視線をようやく緩められる安堵へ任せ、初恋の人と出逢ったように、正樹君を見つける事が、出来たのであった。夫婦は照れ臭そうで、言葉の代わりにちらちら促す目を送り、たまさかの一致に導かれようものなら、再会の含羞は、弾けるを大人の自身が抑え合う。とても微笑ましい、初々しいカップルが出来上がっていた。みなそれぞれの「個」の主張の成否は、「群れ」に吸収される様子を見るにつけ、そこが、生きて来た道、自分が選んだ道であると、わかったようだった。そこにいる隣人が、今の自分を創っていたと、知れるなら……愛は、放っては置かないだろう、と。呑みつ呑まれつする迎合と互換の双つ波をくぐり、安心あんじん立命りゅうみょうなる海へと、泳いでいた。

 ……西かしぎの光、叢雲むらぐもの借景を得てこそ、淡くるばかりでは、想いの翼はこのまま寒さを斬り、飛行はのびぬ。巡り至れぬ。口説き文句を濁すかの仄かな朱紅しゅこうりょうきんしゅうたるが翻るを待てず、食前酒アペリティフほろうが如く、玄冬の、早き夕映えを相模湾に滴らせ始めている。薄い鴇色ときいろに漏れ小々波さざなんでゆく、満天の点描座景を敷き詰め煌めき、誰かの瞳を見つけては宿り、ぼんやりと時間を使っている。ささやかな息づかいに暮れゆく、見渡す限りの匂いは途切れずも、もうとがめようがない花火のじんは遠ざかり、尚も朦朧もうろうと逃げ去ってゆく。これから何を歌うのだろう? 何を語りかけるのだろう? 犯人探しをする訳でもない、そこに畳みかけもしない、言えない、癒えない話ならお互い様の消えがてが、さりげない平和を奏でる海の思念を彷彿と……。

 されば涙は、しまえるのであろうか。それも夢で、あろうか。ページをひとめくり、また、ひとめくりするうちに、時となくその手が彷徨い、み出してしまっても、人という一冊のストーリーは、終わるのであるから。諦めではない完結で、あるのだから。自分のトータルを照らして、目を向ける事が出来るなら、微笑みを以て句点を打てる、はず……。

 想い出す事も出来ない、ずっと昔から、君を、待っていたのだ。人知れず身を焼くほどに、愛するが故に。かつて尽くし切れず、今尚、うちなる決心を果たすべくじょうらんほむら、燃えさかるほどに。夕景の序段の柔風やわかぜにさえほだされ、あの日の少年少女の影の微粒子は、馥郁ふくいくたればいっその事、もう待てない。遥かに霞む霹靂へきれきでさえ、せめて喚ばれたがるかの如く、耳を澄ます。全ての願いが散らばり分かち合う、美しい、海だった。まぶたに浮かぶ江ノ島の〝影〟とて、言うまでもなく。西湘の浜辺、とて。出逢いのハプニングが、待っていても来ないなら、それは待ちびとたり得る目的が違うという事……。

 風の子供らは、何もかもぼかすようで、真に内的瞠目どうもくし、や出発ロビーにその全面で臨場し、佇み漂うが如く。昔の待ちびとを辞めた時、そこにある目的は偶然ではないと、内心の異口同音は歌い出している。また違う、新しい待ちびとが一堂に会する機縁への、早過ぎる惜別の、歌だろう。もう、そう簡単に、正樹君となおさんには逢えないだろうから……。鎌倉は、折れない悲しみや散らない喜びの真ん中で、いつも微笑んでいるから。

 このままでは敗れるとわかっていた、時の永さに併せる、愛という名の下のしあわせを見つけたいだろう。大切だけれども、大変なものを望んではいない。が、たとえどんなに厳しく、辛くとも、その坂道を選んだのは君である。風にさらわれそうであればこそ、気づき根づき冬に立ち向かう、一本の桜木の、春を待つ寂しさを見るがいい。痩せたようで枯れたようで、独立生命体たる自らを映す、曇りなき鏡の心に、やがて膨らむ蕾の美しさあり、寄り添い射し込む光、あり。次なるは風よ、超えてゆけ。君のしあわせが海のてにあるなら、見えるなら、どこまでも、渡ってゆけ。

 君の使った本気が間違いではないなら、いつかきっと、しあわせの方から君の笑顔を創ってくれる。君が来た道ゆく道に、いつまでもどこへでも、正直者のしあわせはついて来る。涙が見えなくなるまで、クスッと笑ってくれるまで。それ以上の何を、しあわせは求めると言うのだろう? であるから、君の笑顔は自分が創ったのではないと、充分にしあわせだと、想えるだろう。そんなに頑張ったなら、その上、何を?


 そして正樹君は、爪弾く用意で待ち合わせている父の、隣りを見つけて追った。稲村ヶ崎を背負い、風の子供らの海眺めのフレームに映り込み、立位礼拝を踏みしめ噛みしめる息づかいが、若きソリストの旅立ちを、真っすぐ静かに調ととのえる。ゆく風は、連れ添う風を、送り出す私達の風の中に遺した。束の間の、すれ違いを想うが故にふたつはむしろ、漏れ上ずり共に昇る。ゆくべくと見守るべくとの、やってみせるべくと、やらせてみるべくとの、言って聞かせ合うターニング・テーブルであった。であるなら、追う風は先ゆく風に届き、再び、惹かれ合うかの如く。この部屋の何もかもが、切なく流れ架け渡し、翻り、甘い螺旋らせんは閉鎖と含羞にふり分けたがれば回り、翳す。微細な空気が時間の呼吸に魔法をかけている。音の無い滝の、静かな水のほとりに、誰かが、幾人かが、いる。夕暮れの幻をも、待ちながら。



 If I……should stay……

 I would only be in your way…….



 歌い出した。その男声だんせい、やや高い、かすかな吐息の風を孕むも透き通り、ギターは遠回りして近寄れず、まだ立ち入らない。



 So I’ll go but I know……

 I’ll think of you every step of the way…….



 マスターの右指はそっと、順にらけ始め、風の糸は優しく音を上げて泣き出すそば……



 And I will always love you.

 I will always love you.


 子供らが精一杯、背のびをしている学生時代、いや、もっと前に? 聞いた、名曲であった。


 You my darling you hmmm……

 Bittersweet memories,

 That is all I’m taking with me.

 So goodbye, please don’t cry.

 We both know

 I’m not what you, you need.


 みな吸気が少し大きい。


 And I will always love you.

 I will always love you.


 間奏はかすれるように絞り弾ける。青春の影が風なら、押し潰されはしまい。


 I hope life treats you kind.

 And I hope you have all you dreamed of

 And I wish you joy and happiness.

 But above all this, I wish you love.


 順風満帆、胸を張る。海の背を登れば望むらくはてにある。岬への坂道の家にとどまる事さえ忘却の、視程は彼方へ逃げ去るままに。



 And I will always love you.

 I will always love you.

 I will always love you.

 I will always love you.

 I will always love you.

 I, I will always love you…….



 坂をなだらかに下れば、新しい待ちびとが小さく生きていた。古い待ち合わせは、約束を忘れはしなかった。


 You, darling I love you.

 Ooh I’ll always, I’ll always love you……



 小さなサークルの大きな拍手が見送る。風の歌への臨場は、泡沫うたかた邂逅かいこうであったろうか。熱きものをはばからない仲間達がいた。目の窓辺は紫吹しぶかれ降られ、指でかわす雨宿りの一景に奪われてゆく。ひとひらの、小さな光をてがえばかばい始める。しゅうは懐柔されてゆく。小々さざなみのモザイクを想い出すように、煌めきは散らばっていった。そのひとりのひとつがあるだけで、悉くを抱擁する感動に参加していた。祈りに近い真摯なものを見ている、聞いている。知るほどに壊れゆく、敗れし想いは、満たされざるを我慢出来ない、涙の理由を見つめている。子供らの内省遡行世界はばたかんとするから、幼なきくちばしも翼を欲しがってさえずり合う。想い出を繋げるしかなかった。一番小さな充足が、そばにいてくれた誰かの風を連れて来る。それを守れるなら、今までの自分のわがままだけが壊れ、風に託して手離せるだろう。怒りと憎しみがしゃり歪むもの、しまい切れない小さな笑顔を、放ったらかす時間が早かった。そして永過ぎたのだった。このままではいけない、ミーイズムを優先した。その名残りをとどめ許す今のこの時が、愛する人はこんな自分から、どこにも行かないという事を……、風に託して告げていた。

〝風〟と〝出逢い〟は、玉響たまゆらなるなかだちを求め、結ばれる。愛とは、自分からも愛される存在であった。嫉妬とは、自分からも愛されたいあまりの存在であった。故にいずれも燃え尽きない。だから汗とは、それらを消し止める存在であった。しかし、それでは足りない、何かが足りない。本気の汗の想いを聞き届けた風は……旅の道づれに、過去の恥を、つけて寄越よこすのだ。そして当たり前のように涙を見せる。行きたい場所、行きたかった場所を見せるのだ。なぜなら、そこには誇りがある事を知らぬ人は、いない。背後に連なり支えてくれた人の、惜しみない紆余曲折の涙は、いずにか、しゃされ立つべく所やある。

 見たくなかったものは、見なければならないものだった。人を傷つけるという行為が、自分にとどまりたいかも知れぬ、その誰かに言寄せ、うちなる自分の、同じ去り難さを隠している。他人ひとの優しさと、自分の本気の涙を裏切る。みんな生き遺りたい。必死である。「頑張って……」と、安易に人前で励まそうものなら、ともすると誰かを泣かせ、恥をかかせてしまうかも知れない。ゆく鳥の、映り込ませたい際会は揉まれる。善意と寛容の、もしかしたら見定めの、その目の中でじっと耐え、甘えと含羞に値踏みされているのかも知れない。本物になりたい、なるかも知れない涙を、真っすぐに見なければならなかったのだ。隠すほどの無言は、隠すほどでもない無言になりたかったのだ。それを軽くなすはのちあだと成す。故にさっと立ち去り、突と新しさは来る。ゆくは帰る、愛の輪なるものは、儚い。忘れ得ぬ恥も所以ゆえんの、真の優しさのやり取りは、余人の目の届かぬ場所を……探し求めてゆく。信じ合うという、しあわせの天秤に間に合い、釣り合うようであった。自由が平和である為に、過去の傷痕、煩労の一切さえ平等な風流れは、そくじょくの境涯へと馳せる。いつに、早いか? 遅いか? 来るべきものは誰でも来る、に過ぎないように……蓄えれば絞る出るものが、見えているのだろうか?……。


 光は夕暮れ前へ急ぎ、されど金色こんじきてにある。やがて夜の真珠に帰る事が、叶うのであれば。音の無い滝の、うつに露を結ぶが如く寂静じゃくじょうは、矛盾を唱える。されば海の混沌はならされ、凪ぐ。時つ波は、見てくれ優しき空言くうげんさえ、妬ましく裏返り、自らへと空言むなごとの如く、差し向けられようとも。何かに褒められたくて、頑張って来たのだろうか。その何かが、折に触れて願っていたかの言葉はこだまするようで……。「頼むよ……」と、喚ぶ声に創られ、初めから決まっていた場所に創られた海であった。波は、想いを込めててがえば煌めいていた。押しあぐねるも、忽ちのうちに払い去りこそすれ、創られぬ海は、もう、見えない。遠くまで、来ているようだ。あんなに凄いのに、こんなに話し易い、そんな海だった。やりたくなかった事さえ、やりたい事に、そして、やるべき事かも知れない、やらなければならない海は、ゆく。波は端から、おもてくずおれるを絶え間なく、なだめ歌い来た証しに光っていた。水天彷彿のはざを、風はどこまでも。

 何かを果たすべき目的を持ち、生まれて来る。生きてゆく。そこに光しかなく、雨さえ風を照らせば、いずれ乾きもし、やがて日まりは戻る。穏やかなるを結ぶだろう。初めから決まったいた道へ、帰るだけの事に過ぎない。しあわせは、かくも、さり気ない。消えてしまいそうなその術は、難しくはないのだ。愛は風だった。全て風だった。尽きなかった。無くならなかった。汗の証しと目的のしるしは、翳し合うけれど、どこへなりとも吹いてゆくのだから、気にするな。いたずらに人を腐すを、塞ぐを、優に、人を愛するが超えるように、シニカルな前提を隔てるように、それだけは笑顔が切り離すべく。どこまで行けば、しあわせになれるのだろう? 行けば行くほど、行くという行動体験そのものに、それは生きていた。……風は、真っすぐに吹いてゆきたい。殊更に壁を立てては、それだけは……。とても強いけれど、とても優しい。とても優しいけれど、とても強い。心の礼は、目に見える、笑顔の答礼に変わるような目的もなく、歩けない。

 悲しみに敗れそうなサインを去らせた、やって来るであろう、期待からも引き剥がした、自分に負ければ、他人ひとに勝とうとする自分が、勝たせて頂いている自分に泣く。他人ひとを泣かせるという……ただそれだけが、ささやかな自由であるように。本物が喚ぶ幻さえ、にもせよつむじ曲がり押し吹かば、仲を引き離すのであるから。そんな完結は、騙せない。エゴをし入れ過ぎ、プロ意識にすり替えたがり、公私の分け隔てもグレーであれ……自分が笑うなら、笑顔を差し出す事から……いずれの花は咲く、道ゆきなのだ。

 気づきたい……。誰かの善意を待つだけで、真実がやって来るなら。そういう頑張りは、時に遊びも必要だが、そうする前に外せない事の、遊び半分では及ばない何かを、もっと早く、気づきたい。欲張る中途半端ではなく、まなしは真っすぐ見つめている。シンプルであるから漂う。柔らかな風になる。ここに集いし旅人はみな、知っている。刻み込み、沁みて、知っている。ジェラシーに負けないように頑張れば、それでいいじゃないか。他人ひと所為せいではないじゃないか。愛でしか創れない、守れない大切な、それらを超える風はゆく。「想い」「目的」「言葉」のタイムラグを、埋めてかばって超えてゆく。うちに気高き、場面緘黙かんもくの海はおそれ蒼く、こう……喚んでいた。


『自由と平和を守る為、愛を駆使してネガティヴと闘え! 隣人の、声にならない声を正直に聞くんだ。君が来た道の続きを、今そこにいる場所を、そして未来を描こう……。本気は、君の中にある。誰かを抑える為ではなく、自分に勝つ為に闘え! 自分を恨み切れない。自分の目を信じていたんだろう? 溢れるそれを、わかっていたんだろう?……』


 ……人はみな、風になりたい……風になれば……ゆきこそすれ……戻れなくは、ない。


 旅立たん好一対こういっついを見るにつけ、私は、そう想う。そう願う。依津子さんは、平塚の真波さんおやを想い出していよう。そう、見える。絵里子さんは、小田原のご実家に遺した息子さん?……。マスターは言うまでもなく、亡くなられた奥様……、このふたりの、お母さん……榎本家の、どこにも行かない、太陽……。

 そして私は、鎌倉へ転居する折、市川の家族に置いて来た自分の言葉に、音もなくと洗濯されていた。


『帰って来るよ……』


 それは、向こうで落ち着いたら、という意味だった。若いうちに、どこまで自分を裏返れぬか?……。今だから教える涙で、あったろうか。



 許しの足りない心にこそ、許しを。

 特別ではない、自分自身へも。

 今は亡きホイットニーが微笑む、風のように。








 それから、そう日も経っていない、とある休日である。

 私は普段通り、日当たりの良さと眺望が約束された、特等席たる自宅の窓辺のソファーにて、その恩恵に浴していた。無為徒食の晦隠かいいんさえ忘却にあずかれる、いつものひと時は変わらない。遺り僅かの冬の香が、窓をノックするかに聞こえるような、午後一番の微光であった。私は何をするでもなく、手持ち無沙汰でもない。ただ、旅立とうとする無言を想っていた。されば西からの光は、姿なき長い影法師と重なり、枝垂しだれる。時間は、ゆっくりと自らに抵抗をみせていった。正樹君と直さんの無言は、深く理解されていったのだろう……。近頃、そんな日々が続き、寒さをも満たされた気分にある。使うべきであった無言の代償が、嘲言に身をやつそうと、今という時の風は共有の無言を載せ、空白を埋めかばうような。一服の趣きを見つけ、ふと、立ち止まりそうになる。見逃した時を、今ならやり過ごせる……安心あんじん立命りゅうみょうにあった。


 その時、突如、

「ピ……、ンポーン……」


 抑え難き一声いっせい、来るとは想っていないインターホンが古めかしく、鳴いた。


 誰だろう?


 宅配さんの到着予定もない。玄関へ急ぎ、そして、

「どちら様でしょう?」

「……斎藤です」

「えっ? あぁ……」

 私のあっに取られたしゅんの声の騰落に、戸惑いを交わさざるを得ない。向こう岸にいる、彼女の待ち顔を引き出したであろうドアを、私は、ゆうっくり……押しける。逃げ惑う、たぶん言い訳……、有っても無きに等しかった信号の、黄色の点滅の主張が立ちはだかってゆく。やめて欲しい嘆き顔と、やめさせて欲しい泣き顔は、実に久しぶりの邂逅かいこうを果たそうと、黙り込むしかなかった。蹌踉よろめき凪いではいられぬ、断り切れぬ波に立ち尽くし、先を語ろうとしていたにせよ。その存在すら忘れかけいた、片隅に追いやった自分の、しあわせという名の。





















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