冬の容喙

 年が明け、湘南地方は、新春の候に慶賀の至りを捧げ尽くして、寛いでいた。こうして自室の窓から眺める、さきがけの春にしろ、けだし目覚めの時、稲村の海は端っこ。想いを馳せれば、鎌倉の中心街は、常に変わらぬ古都の佇まいであれ、ゆっくり煮込んで味が染みた、冬の根菜の煮物のようだ。しかし、どことなくひと味香る、上品な口当たりが、やはり普段より鎌倉らしいだろうか。極楽寺上空のトンビの架ける輪も、大らかに描くは酔余の平滑流暢。遠き啼声ていせい嚠喨りゅうりょうとして冴えど、冬空の、霞がかった青い玻璃はり質は、割れるまでもない。吸い込んでは響かせ、正月の静寧を保つゆとりの風は流るる。西の借景たる、富士のたかは見えずとも、げん近くしてむね遠しの如く。誰のうちにも、初春であるだけに壮麗なるその態度を、彷彿とさせていようか。正に、これぞ日本の、美しくもなたらかな、一年の始まりであった。誰ぞ、何ぞ今更時雨しぐれようが、立ち去りしばかりの先年に背負わせ、何事もなかったかのように、きたるべき喜びこそ仄めかしては、早々に招き入れる。時節の風をやんわりと醸しつつ、門出を創るのであった。

 高見姉妹の関係に、真摯な干渉をし挟みたい私であった。しゅんじゅうんを訪れて以来、馴れっこのひとり生活に、いつに変わらぬ空想癖が寄りつく隙間へ、殊更な主張でを立て、じ込むものを否めない。あの日、私達の家への険し坂のあがり口に、消えようとしている私の後ろ姿を、見送っていたかの、マナミさん……。そんな彼女も、私をふり切るように登っていったであろう、あの時を、覚えているはずだ……。崖の上の、懐かしい隣人の男の子が、大人になろうものなら、今の私の顔は面影を遺すとばかりの、予期せぬ、約二十年の空白を超えた再会を果たして置きながら、やり過ごした……あの時を……。

 少女の目が少年を見ていた、そのままの目で、一瞬ですれ違ったのだ。重なる事もなく、重ねようともせず、あえなく通り過ぎた。彼女は、極楽寺の街の風景の中へ融け、久々の帰宅の、本来の安堵さえ韜晦とうかいせざるを得ない、険し坂の回想に、それ所ではなかっただろう、と、想えるのだ。もうひと踏ん張りの緊張、やれやれの日常であったろう想いは、谷合いに寄せ集まるがいごと引きずるような、ひと通りではない、天秤の均衡の苦心があるはずだった。各々の家の事情を忖度そんたくするに、しんしゃくしんじょうこうが優しく畳みかけて来よう。人生の巡礼行の如き坂道をゆけば、いと険しき、されば永き、さるにても仄々ほのぼのと、しかるのち、柔甘やわあまい灯は当たり前にして点るほどに、何の為に、泣こうか……。

 先日、あの店で、訴えるように私を見つめていた、あの強かな目であったものを、誰憚らず、忽ち悲涙でうずめた再会の場面が、今日に至り、私に、そう、頑ななまでに想わせるのだ。

 どうしても、マナミさんの真情が気にかかり、落ち着かない。想いの丈を知りたい、確かめたい。それがまた、私の本音であり、依津子さんとの約束を履行する前に、やりたい事とは、まさしくそれであった。声涙倶せいるいともくだった、姉妹の再会に臨場した以上、これ以上、自分を偽りたくない。その為に、最後の嘘の必要が、私を駆り立てて止まない。依津子さんに対する、男のこんな背信の申し訳なさを、マナミさんへ向ける事で、調子のいい弁解かも知れないが、嘘から出たまことを添え、ふたりだけでなく、高見家の未来を応援したいのだ。鎌倉の街に、みんなの「ありがとう」を込めたいのだ。生んでくれた、そして育くんでくれた、この、潮騒と山の声のほとりに触れ合い、憩う街へ、心からの感謝を捧げたいのであった。姉の、裏切り裏切られた、深い無念がもたらした後悔を、妹へ届けるべきだと、私の全てが、ふるえている。マナミさんにも、再び、辛い想いをさせてしまう事は明白であった。

 っぽけな男の記憶の世界において、今も生きているあの少女が、私をけしかけて煽動の手で掴む、揺する。私を黙らせる、ひと頻りの言葉で、まず手初めに、他でもない私から試すように、あまりにやすく、しかも鮮やかに、成りゆきを想像させて詰め寄って来る。このままではいけないとわかっている、その想いの結末を予感させるに、至微至しびしみょうであった。罪などじんも感じさせない、澄み切った瞳のままの、あどけない顔をして、私の様子を覗き込む。何を見ているのだろうか……。

 私には、痛いほど、けがれを知らない視線が刺さっている。こんな小さな子にもわかる、極めてプリミティヴな概念を、私の中に探し回るように。お父さんお母さんや学校の先生、周りの大人達から教えられて芽生えた、人として人たらしめるに一番大切な、その概念を。実に肯綮こうけいあたる、剴切がいせつな無垢の瞳の輝きは、無論、依津子さんへも、マナミさんへも、さっと、傷ついたその心に届くだろう。それは……


 

 行動出来なかった姉の後悔を、行動した妹の満足へ、伝えるべく。

 依津子さんが綴る想いを、私の言葉の手紙で、マナミさんへ。

 自身の愛が守るべきもの、夢……。

 その距離を隔て、現実逃避は拡大解釈を生み、何ものとて寄せつけぬ陰で、

 最も身近な、一番大切にしなければならない繋がりは、あざむけない。

 憧れのままで立ち止まり、

 盾に取っても、

 許されようとしても、

 その先にある、

 本気を逃してしまった過ちは、

 隠し切れない。

 憧れを語るより、

 本気を語るべきなのに、

 どうする事も出来ない涙が、

 全てを語ってしまう……。

 その想いを、今こそ、私が、あの人へ。



 ところで……


 

 私は、今、車で出かける準備に、少し、忙しい。着替えも済ませ、小ざっぱりとしたつもりでいる。これから訪れたい、その場所へは、もちろん……ひとりでゆく。誰にも告げてはいない。汗したなりの結果が、遺るものだ。頑張れない弱さで、それを騙そうとする弱さを、喚びにゆくのではない。騙そうとする弱さと、頑張れない弱さを、繋げるものではない。いずれ役に立つ時が、必ずやって来る、頑張った、何か……。過去の喚び声の悉くは、余す所なく現実に喚ばれ、報われる。それが救われるものであるなら、汗と涙が、幾重にも折り重なり、強く、今に繋がっていたと、更に、まだ見ぬその先へ、のびゆくと言えるだろう。

 憧れのままで、歩いてゆく事が出来なかった、昔……。憧れへ、歩いていった、昔……。歩けない悲しみも、歩いてゆく苦心も、往ってしまった昔を慕う、懐かしさに鷲掴みされる。今にして、その後ろ影を追いすがりこそすれ、ふり向きもしないほど、どんどんゆくばかりの面影は、幻を見せる。その人の顔は……


 笑っているかい?


 どんな笑顔?


 怒りや虚しさを、他者や社会へ向けてしまったのは、誰?


 その誰かが、もし、歩かなかったとしても、あるいは、その誰かが、もし、歩いていったとして、その甲斐の成否はどうあろうとも、自分自身が見ている誰かの表情を、見せられていると感じるなら、それが笑顔であっても、冷たいものにも映るだろう。真っすぐに、見ていない。素直に、受け取っていない。そんな目で、何が見える? 本当は寂しく笑っているのかも知れない、芯の温かさ、ともすれば、何もかも許し合える事を学んだ、ありのままの心を、見て貰いたいと、わかって欲しいと……。他者を見る側それ次第で、その目に映る人なんか移り変わるのだ。自分だって、そう見られているではないか?……。たとえば、歩いていった誰かが泣いている時、目標に向かっていちになれない「逃げ」と「フリ」と「トボケ」の嫉視を浴びせようものなら、いさかいは生まれてしまう。その目をして見ている、その人の問題であると想えて、私も反省頻り、非常に残念でならないのだ。

 

 ……そんな今日は、一月半ば過ぎの、とある土曜日、款冬華ふきのはなさく、大寒の初候である。心のアイドリングは、あの日から、ずっと……。






 車を走らせ、私は再び、平塚のしゅんじゅうんの前へ来ていた。ランチタイムも終わりかけている西湘地方の、新春の気韻覚めやらぬかの、午後の緩慢を深呼吸するに、あれからひと月、経っていない。私に珍しく、即断即決の部類に入る。正月さえ間にはさまなければ、もっと早くに、こうしていたと言える。逸る緊張を抑えるのに、店舗前の駐車場の空きスペースは、逆らわずに待っている。バックでゆっくり進入するうちに、妙にほぐれて来るのがわかった。馴れではない馴れに近いものが、やはりえにしを感じさせる。ずっと回っていた歯車のアクセルに、今だけ束の間のブレーキをかけるように、静かに停まった。無論、乗り換える為に。そうして車を降り、やや大股で出入口のドアへ歩くと、冬は戯れ、日和をきたす周り、西から、枯れぬ常磐ときわの、高麗こま山の背が見下ろしている。蘇るもの、善は急がずとも回らずとも、目の前に来てしまった。OPENの札が、黙って眺めている。

 ……最終的にある、大切なものにこだわるように、ドアを開けた。その手前の何ものとて意に介さない。些細な事はどうでもいい。一見して……閑暇が目に飛び込んで来た。咄嗟の戸惑いもまた、自由であった。しゅんをとらえる、こんなしゅんを味わい、ついこの間の店内の空気は、新年の静謐せいひつを未だとどめた、時を読むかのような凪の佇まいに入れ替わっていた。

 客もスタッフもいない。「いらっしゃいませ」の声もない。土曜の昼下がりなのだが、この殺風景は、たまさかを印象づける。奥の厨房の方を見やりながら、先日と同じテーブル席、同じ椅子に座った。程よい暖房に、上着を脱いで背もたれへかけた。前回も、BGMが流れていなかったような気がしている。私の靴音さえ、届いていないのだろうか? かすかに、食器同士が触れ合う音が聞こえて来る。

 様々なしがらみを越え、またやって来たつもりでいると、街ゆく人達と同じような、客の感覚でいられるのだが、どこか、こう……自分の声が誰にも聞こえていない、存在に気づいてくれない疎外感を、想い出す。少し不安が、小さな溜め息になる。であるから今日の目的意識を、諦める訳にはゆかず、ほんのり、顔が火照り始めた。

 心のフットワークの重さを、口に任せて軽くあしらう、内容のない芝居に、客は入らない。無人の客席を埋め尽くすべく、見えない火を翳せば、幕は自ずと上がる。依津子さんの手紙を、私というプロンプターが色をつければ、この場面の台詞は成り立ってくれるだろう……そればかり祈るほどに、相半ばしてゆく落ち着きが、嬉しい。マジョリティーに参加しているような権利概念に、社会性なる説得力もまた、仄見えている。

 のび悩む回答と自信の代わりにもたらした、砂上の楼閣の殷賑いんしんが、消えたような名残り惜しさだろうか……漂っている。涙を酒で薄めても、汗は埋まらぬ虚しさの欠片が、マナミさんの心の抽斗ひきだしに掃き遺るかの、ありのままを、この空間はかたどっていると、見える。そして時の風は、草莽崛そうもうくっの末に建つ本物の城郭さえ、もっと大きな風に呑み込ませて流れゆくのだ。今更じたばたしても、始まらない。ここまで、また逢いに来てしまったのだから。

 巻き戻す時間の帰る場所は、今よりもっと先にしか、ない。時は、過去から今を超えようとする、その前の静けさを溜め込み、じっと待っていた。飛びたくなくて、意味を失くしていたような鳥達が、さえずろうとしている。いや、違う、意味なんか求めていない。ただ飛びたいから、飛ぶ。その意志が、本能が、汗になる、目的になる、覚悟になる、想い切り、飛べる……それが、愛だ。

 その愛で誰かを支えて来た者は、いつかきっと、主役の自由を得るだろう。大切なものにこだわれば、どうでもいいものは見えなくなる。奥ゆきを見れば、目の前の事など、さして気にしない。最終目的地を見据える時、最短距離は、見える。寄り道、回り道は、そうではないと、わかっている事。見据えなくても、そうではないと、わかっている事。嫌いなものが一杯なら、信念と情熱が、好きなもので一杯に変えたのではないか? それもわかっただろう? ならば、交じり合える。そうしなければ、いけない。

 

 私は、こういった想念を巡らせながら、南向きの窓の外を眺めていた。目に集う光は、迎春花の微笑みのようであれ、まなこを引き留めて諦めさせない。内燃体の心のエントランスは、盾となってなだめるだけに、気負いはほぐれ、目に映るものみな、ぼんやりとしている。気づかれぬに、気づけなくなってしまいそうだ。何げなく流覧するうち、どうしてもこの空間の奥、厨房の前、もうひとつの玄関先へ導かれる。ふと外してもいずれまた、次はすぐにでも、さして急がずとも、再びが再びを喚んで重なりゆけば、光は眩暈めまいを覚えるのだった。忘れそうな時の波と、見つけられない時の波のに、浮かぶ瀬もありとこそ聞かせるように、影が教える、はだけてみせる、何かをさせようとする。言いたかったであろう言葉の、ひとつひとつが、いつしか現れた呱呱ここの声の波紋を創って置きながら、今だけでなく、全ての無力と一切合財、忽ち脱皮するかのように、ようやく私に、はたと、途が拓ける真ん中を心づかせた。マナミさんは立っていた。私の感知とほぼ同時に、すうわりうつむき、小弛おだんだ小股を踏んで来る。刻む度、模様見ては申し訳なさげに、気持ち、うなずいて、優しく歩み寄る。彼女の双眸そうぼうの灯に、これから、ひとひらひとひら剥がし剥がされる、寂しい言葉の気配が見える。私が気づかぬうちに、驚きをしまった平静は描けても、瞳の奥の光は、消せない。

「いらっしゃいませ……すみません、気づかなくて……」

「いえ……温かい、ミルクティーを」

「かしこまりました」

 彼女は、静かに水を供して帰っていった。こちらへ背を向けた時、一瞬、外光を遮る端からみ出した光暈こううんが、たまらず漏らした言葉のように、砕け散った。はかない匂いが、一気に部屋中へ滑っていった。互いに気づかぬふりではない、束の間の抵抗の、それが。

 再び、時は流れるままに、静寂にすがった。黙読は、言の葉の数を数えていった。隠しことばは、見当たらない。あるとすれば、優しさのたとえだろうか。自分さえ知らぬ間に、誰かを傷つけ、人知れず、誰かが傷つけられている。被害者意識の拡大解釈が、誰ひとり望んでいやしない、善からぬ場所へ導きたがる。個人の品性、それ次第。自尊を守る為に、愛を使ったか? 誰かを愛したか? ……本気で人を愛せば、虚しさは騙せる。そんな嘘なら、嘘ではなくなる、許される。闃寂げきせきたる地平への、片道切符を渡される前に。恨み辛みのリテラシー志向を、常態正当化する前に。門前じゃくを張るが如し、かの地において守れるものなど、何ひとつ、ないのだから。

 ……姉の分身が、紅茶を運んで来た。蓄えられた想いがはだけるような、くちの澄み色がつぶやく、渋く酸い湯気にまみれ、先日にもまして、婀娜あだなるを香に乗せて放っている。打とうものなら響き渡りそうな、寂びるほどに艶艶しく美しいおもせが息をしている。錆びて尚、遠走る、江ノ電の軋み声を聞いているのだろうか?……。殷鑑いんかん遠からぬ、その声を、私にも聞かせたいような……


「お待たせしました」


 それは、ちょうど間に合わせて嵌まり、仕事を済ませた。私は間髪入れず、がさない。

「あの……」

「は、はい」

 引き留め引き留められ、次に私は、彼女の足を釘づけたい。

「覚えています? 僕の事」

「……はい」

 かすかな声で答え、うなれた。畳みかけられそうでも、あの日の再会に、うずめられてしまっているとおぼしき寂しさが、優しさを喚ばないはずがなかった。怖れてはいないのは、彼女の予感通りの証し。翻るように、それを目に見えてちりばめ始める。建て前の平静は剥がれ、足下へ落ちて動きを制し、立ち尽くす妹をさらしていった。気配を満足させたい裸心と裸心が、見つめ合った。

「吉村陽彦と申します。あなたに、お願いがあるのですが……」

「は、はい」

一見いちげんの客が、突然で失礼なのは重々承知しています」

「……」

「あなたに、大切な話があります」

「ぇっ」

「勝手を言って申し訳ありません、お願いします、是非、聞いて頂きたい……」

 彼女の覚悟もまた、全身にみなぎっていったのだ。時を掴み、最早、隠せない、とらえようのない偶像の世界のありのままを、今こそ話すべきと……双眸そうぼうの窓はなげうたれた。極楽寺の家と家、窓辺と窓辺、互いにわかっていよう心と心が眺め合うは、あの、海……。これから稲村ヶ崎へ、海を見にゆく日常の颯爽を、想い出しているふうの顔に、変わった。

「僕は、こちらへお邪魔するのは、二回目なのですが、それ以前に……鎌倉の極楽寺で、お逢いしていますよね」

「……」

「すれ違っただけですが、想い出したので、今日もこうして、来てしまいました」

 彼女の目が、一瞬、左の上の方へすり寄り微動したのを、私は、見逃さない。そして、さればの無言と共に口角は隙間を空け、白い歯の輝きが、アイデンティティーを守るように、ちらついた。

「やっぱり……」

 マナミさんは、やっと荷をひもとき出した。

「あの」

 続けざまに。

「私、覚えています。それよりも随分以前にも、何度もお逢いしていますよね」

「は、はい」

「お見かけしたというか」

「やっぱり……」

 畳みかけ畳みかけられ、妹は、分身の面目躍如たるものがあった。姉の如く真っすぐな成りゆきが、初めての会話を照らし、導かんとする先に、握手を明るく想像させるのは、けだし、私だけの本望では、ない。再び逢いに来た甲斐がある、話し甲斐がある妹はどうして、美しい? 美しい話が、どうしてもしたくなるのだ。私という少年が、あの、高見と言うふたりの少女を知っているように、あの姉妹の妹は、吉村と言う少年を知っていたのだ。もう、隠す理由など、ない。

「お久しぶりです。崖上の、吉村です」

「初めまして、高見マナミです」

 たしかに、永い永い旅路のての、初めての挨拶であった。

「吉村さんは、夏休みにご家族でいらしてましたよね。ハルヒコさんって、どう書くんですか?」

「太陽の〝陽〟です。マナミさんは?」

「真実の波で、なみ……」

 

 姉の、姿なきなかだちわざたるや、絶大と言わざるを得ない。


 ……稲村の浜辺にて、ひとりぼっちの私の、問わず語りを落としたしょうようであったろう。誰とはない、みぎわの行客に拾われた、その、落とし物……。行客ではない。その旅人は、街の人、街の人のような行客であった。そして私は、街の人ではなかった。そう見えている、そういう幻を見ているような、旅人……どこへ往っても、何者でもない、一見いちげんの、行客……。


 真波さんが拾い上げた、その、私の言葉の落とし物から始まった、時の彽徊ていかい。期待通り、彼女は最初の反応から、素早く波立ったようだ。滑り出しを乗り越え、尚々展げて流れゆく初交換と……は、いかない。波が急に立ちはだかった。ふり切る体側を翳しては蹴破り去ってゆく。しかし身をじるもかわし切れない。落とし物を引きずったままの急ぎ波は、静かにエントランスへ滑り込もうとしている。何か想い立ったかの行動に私は声を奪われた。見守るだけの視線を保守的にさせた。真波さんはドアを開け、すうっと、無言で店の外へ消えてしまった……。どうした事か? 私は、何か、とんでもない事を言ってしまったのか? 怒らせてしまったのか?……。容喙ようかいの小舟は、早々に、はかなくも座礁してしまったと感じた。

 それが忽ち、彼女はふり返るように帰って来た。何があったのだろう?……。私の俄かな不安は、一瞬の、冬の気まぐれ雨であったのか? 一陣の海風の如くゆくも、跳ね戻って来たのだ。私は、これも姉の仕業の所為せいと、想像を更に逞しくする。


 ……鎌倉こころのパートナーで出逢い、そのまま、ふたりして材木座の浜辺をそぞろ歩いた、あの頃……。


 湧きづるその想いは、たしかに、私が鎌倉に越して来た、海辺の街との新たな出逢いの頃のもの。いつかのあの、街のまなしのゆくえさえ、まだ、よくわからぬ目覚めにも似た、不馴れな時期。崖下の家の庭先で傘を差し、雨にいだかれ遠い海を眺めているひとがいた。極楽寺駅ときりどおしを背に引き連れるように、一本道を北から南へと歩き、尚もこちらの険し坂を目指すかのように、やって来るひともいた。であるから今、言えるのだ。往ったばかりの年の暮れに見た、姉妹の涙の真に言わんとする事を。


 

 姉は、妹の帰りを願い、いつも海を見ていた、と。

 そして、妹は……姉達家族みんなを想うほどに、家へ、帰りたいのだ、と……。



「今日は、店を CLOSE にしました」

 真波さんは、ほだされながら、こう言った。それだから私は、依津子さんのように風になり、再び、ここへ来たのだ。やっと再会を果たしたのに、真波さんを抱きしめてあげる事が出来ず、飛び出してしまった彼女の姿が、そして、裸を見せたあの月のように、闇の波状を透過走破して、むしろ無雑な色に勝る、果てしない鏡の心が、私に容喙ようかいを決意させたのだ。本気で生きようとするほど、不純物のない、しあわせという鏡になる。創造性なる、地面から足が離れたような宇宙空間の時間は、誰にでもある。桜を愛で月を愛でるふうの、形而上世界を愛する伝統墨守の心は、美しい。ただ、あの別離わかれ方が、あと一歩が、どうしても気にかかる。彼女の方から、もうこれ以上、そんな……。形を超えた時間の旅は終わり、必ず、現実というてに帰る。そこに見えるものが、しあわせか、否か、そんな……。



 ふたり共、私に、心の声を届けたのだ。

 やはり、今度は私が、途切れないように、

 依津子さんの心の手紙を、

 私の声で……届けなければ……。



 真波さんは、私のテーブルの、目の前に着座した。

「……真波さん」

「はい」

「正直に言います」

「……はい」

「お姉さんから、あなたの事、そして今、あなたをどう想っているか、話を聞きました」

「……」

「本当の所をおっしゃって頂きたい。あなたの心の流れを聞かせて欲しい。しつけな、余計なお節介である事はよくわかっています、謝ります。どうか、お願いします」

「……吉村さん」

「はい」

「姉を……愛していますね……」

「はい……本気で、真剣に」

「ぅ、ぅん」

 彼女の瞳から、悄悄と、孤灯一穂いっすいの身を知る雨は、裸の顔をうずめていった。私にも、満を辞する必ずが、すぐそばにいると、知っている。

「昨年の暮れ、依津子さんがどうしても言えなかった言葉を、今日、あなたへ伝えに来ました」

「……」

「あなたも、わかってらっしゃるでしょう?」

「……」

「依津子さんだって、やっと逢えたのに、そのままにしたくないはずです」

「うっうっ」

 紫吹しぶくべき吼噦こんかいげ始め、紫吹しぶかぬ理屈などない、うちなるうねりが見えている。

「でも、彼女は、あなたもご存知のように、優し過ぎる人だから、大切なひと言を躊躇ためらって、折角のきっかけが、途切れてしまいそうな気がするんです」

「ううぅぅ……うう……」

 それはお節介男の無言の声でもある。私のそばにいるものも今、自らの双眸そうぼうから顔を出して流れている。

「私は、裏切ってしまったんです。裏切られたと誤解して、あのひとの元へ走った。これでいいと想っていました。入籍も済ませて、夫婦になった。確かに満たされたし、しあわせだった……。そして、女の子を産みました」

「そうだったんですか」

 まみれる彼女の涙は、最早、貼りつき、溢れ上書く言葉を騙せるはずがない。後悔が深淵に至りし過去の回想を、もう幾度、見て来た事だろう。私は必死にえつを抑えるのが、辛い。その分、流れるもの、抑えられない。

「はい。生涯最高の、感動と喜びでした……。とても可愛いくて、字が示すような女性に成長して欲しい、そんな願いを込めて〝なぎ〟という名前をつけました……私達の宝物になったんです」

「うん」

「主人の仕事も順調で、穏やかな日々が続いた。それがどんなにか、愛おしかったか……」

「……」

「でもね……」

「ぅん」

「ふぅぅ……永くは続かなかった……うっううう……」

「ふううぅぅ……」

「……産休が明けて……私が会社に復帰して……仕事と、小さな子供の育児に忙しい、家庭とのバランスに、当たり前の事ですが、全てを捧げました。でも、出産から子育てという、初めての出来事の戸惑いばかりが、尾を引くようで、娘と主人には申し訳ないけれど、自信とか、充実とか、望んでいるものが、どうしても育ってくれない。些細な事でさえ主人に突っかかり、揉めるようになった。その時は、ふたりで反省して、出来る限りの軌道修正というか、凪の元へ歩み寄るんです。それも、ちぐはぐ……。お互いのイライラが乗り移ったみたいに、空回って、虚しくて、吐き出したいものを、いつもいつも、吐き出し切れない。三人一緒の輪の中から、だんだんと、私か主人のどちらかが、欠けてゆく感覚ばかり膨らんでゆく。凪の為にも、世間の子育て家族と同じように、生活丸ごと信じなければいけないのに、それを持っていられない。主人も握力が弱ったかのように、同じように見えた。何かが崩れていったんです、わかるんです。そしてその何かを離れ、崩れてゆく衝撃に呑み込まれている自分もわかる。でも、どうにも出来ない……。主人の実家のみなさんの協力も、ありがたいものから、やがて、痛みへ……。お互いに、自身の無力感を立て直したくても……」

「ご実家は、どちら?」

「熱海です」

「そう……静岡のかた……」

「それで……」

「それで?」

「もう、お互いの心と心が……何もかも言い訳でしかないけど……」

「……」

「離れる方向へ雪崩れてしまった……ううぅぅぅ……」

「疲れていたんですね……」



「……うっぅっ」

「……ぅ」



 真波さんも、私も、寄り添ってくれるなら、誰でもよかったのかも知れない。ひとりでもよかったのに、彼女は夫が、私は依津子さんが、落として来た言の葉を拾い上げてくれたのだ。そして今、傷つき教えられた者同士が、今度は与える立場に恩を返すように、互いに相手の落し物を探し合っていた。言葉なる概念は片っ端から、落とし物。そんな、忘れ物。時の風が決める。言ってしまえば落とし、すぐに拾わなければ風が忘れさせる。拾えば、気づきにもなる。それが落とした本人なら、尚の事。言ってしまった事、やってしまった事の、責任の大きさに気づいたなら、後悔ばかりではない事も。その先に見えた、大切なものを、私達は語ろうとしている。


「離婚しました……四年前に」

「……」


 ……しずかに、密かに、涙の声を聞いているようで、匂いが立ち込めるようで、ふたりのきょが響いている。声のかすれに時もやつれ、痩せたこだまの息づかいは悲しく、されど抵抗せぬ空間は見逃す事なく、むしろ吸着する。ふたりの世界観はミニマライズされ、きょうあい抽斗ひきだしの中へ限られてゆき、さっきから落とし込まれたものどもが蓄えられ、ひしめき合う。それぞれ持ち寄る中身の圧迫感は、過去の悉くであるを、このに及んで疑えなくなっていた私達であった。プロセスとプロセスが、一視同仁の小箱の、夢語りの言葉選びに余念がない。

 そして、それを拾うも忘れさせるも、この小さな世界の全ては、愛の傀儡かいらいの手によるのだと、信じるしかなかった。誰であれ、人に纏わる物であれ、その涙の声を聞く為にしまい込まれたなら、優しい言葉には、そっとすくい上げるだろう。非道ひどい言葉にしろ、かばうように拾い上げるだろう。知るはずもないにせよ、まるで知っていたかのような顔をして、さりげなくそうするだろう。ただ……この世界には、時の風というものがある。悲しみを拾い拾われたなら、忘れてしまうほどの愛の風に揺蕩たゆたい、海を望むように、待つしか、ないのだ。それがいては落とし主に、言葉と行動の心を、気づかせるだろう……。自分が与えた喜びを分かち合う事を、しあわせと言う。分かち合えぬなら、与えていない。分かち合えるまでには時間がかかり、容易ではない。時の風は、その人次第で如何いかようにも、吹く。


「娘の凪は、もちろん、手離しませんでした。とってもいい子……。四月から、小学校新三年生なんですよ。母親として、至らない所ばかりの私を、心配してくれる。あのだって、辛い事もあるだろうに『お母さんがいるから、毎日っごく楽しい。私、平気だよ』って……」

「ぅん、ぅん」

「それで、家で仕事がしたいと考えるようになって、カフェの独立開業を目指し、東京の専門学校へ通ったんです。やはり、鎌倉で接客の仕事をしていたので」

「はあぁ」

「会社が終わってから通える夜間と、土曜日の履修コースが設定されていて、そこに決めた。通学は大変だったけど……二年間……凪には、寂しい想いをさせてしまって……あのには、ただ、ふたりでもっと楽しく暮らせるように、お仕事頑張っているから、帰りが遅くなるんだよ、って……いつも抱きしめていました……ごめんね、って……。私は、泣いてはいけないと想いながら、我慢していた。そんな私を見つめるあのも、必死に我慢しているんです……まだ、こんなに小さいのに……ぅぅぅっぅぅ……」

「……凪ちゃんは、夜、どうしていたんですか?」

「あの……ここで、預かって頂きました」

「はあぁぁ……」

「この店ね、元々、ぐちさんという女性がオーナーの美容室なんです。二階がご自宅で、会社員のご主人とふたり。お子さん達は、既に独立なさったそうなんです」

「そうなんですかぁ」

「凪の初めてのカットも、ここ。おやでお世話になっていて、まだ通学を始める前に娘と来店した時、その話をしたら『私でよかったら、預ってあげる。夜遅くまで預かってくれる保育園よりも、いいでしょ?』と、おっしゃって……」

「へええ、いいかた……」

「本当っ、その通りで、私、もう吃驚びっくりと、正直、嬉しさと、でも甘えてはいけないという想いがこんがらがって泣き出すと、当時、四歳半だった娘も……」

「うんうん」

「保育園のお迎えまで、買って出てくれたんですよ。ただ……たまに来るぐらいの母と娘の客なのに……何から何まで、私達おやの面倒を見てあげようと……。家へ持ち帰って、ふたりで話し合いました。凪はもうすっかり馴れていて、行く度に『おばさん大好き!』と言っていましたし、心から申し訳なく想いましたが、お願いする事にしたんです。命の恩人です……ね、一生感謝しても、足りない」

「そこまで出来ませんよね」

「……その、樋口さんご夫妻は、今……アメリカにいらっしゃる……」

「えっ?!」

「ご主人が、日系のアメリカのかたなんです。樋口という名前も、カタカナ。母国の本社へ帰還が決まって」

「うぅぅん、てっきり日本のかただと……」

 彼女の涙交じりの双眸そうぼうに、私のともなみだを諭す遥かな視程が込み上げ、馳せてゆく。春帆の船脚、速からず遅からず、滑るべくして求められた涙海に、忘れ物を想い出したかの焦点はまだいささか、ぼやけている。

「一年半前に、帰国が決まって、それで、この家をお借りする事になりました」

「うん」

「店舗の改造も、ご了解して頂いたんです。学校では、全般的に学びましたが、何しろ、実際に現場の経験がない。どこかのお店で修行すべきなのですが、そこが、大きな不安でした。でも、ヒグチさんご夫妻が『大丈夫、成功だけを信じて、今、立つべき、先へ進んで欲しい、今までの努力を無駄にしないで』と、強く励まして下さる……」

「ううん」

「『神様の導きで、ふたつの家が、同時に旅立つんだよ!』と……」

「……」

 私がふるえているのは心ばかりか、少し、身じろいだ。身の丈の声の仕業であった。

「そして、ご夫妻が離日なさってから、近くのマンションに住んでいたんですけど、ここの二階へ越して来ました。会社も退職し、計画していた工事も始まり、保育園時代や小学校のママ友たちの協力を仰いで、何とか開業出来ました」

「この数年で、色んな事があったんですね……」

「はい……。馴れて来たつもりでも、まごついてしまう事ばかり。そんな中、お陰様で、りはなかなか順調なんですよ。今、考えると、その甲斐があったかな、と……。幸運な巡り合わせが、味方してくれたんだ、と……」

「ご自身が、だいぶ変わりました?」

「そう、ですね」

「本当によかったですねぇ、凪ちゃんも、おしあわせだ」

「ありがとうございます」

「……そうですか……羨ましい。やっぱり、僕も変わらなくちゃ」

「えっ?」

「あの、それで」

「はい」

「実はね……」

「……」

「お姉さんの事なんですが」

「は、はい」

 打って変わって、咄嗟に空気さえ、居場所をくらます。そんな入口が、見えている。

「……依津子さんも、あなたを裏切ってしまったと、言っていました」

「ぇっ?」

「『裏切られたと想っていたけど、実は、私が何もしてあげられなかったから、妹は、出ていってしまった』と……」

「……」

「裏切られたと想っていたのは、あなたが去ったあと、治まりをつけるのに、大変だったと、聞きました」

「責められたんですか?」

「多少なりとも……あったらしい」

「……」

「そこで、被害者になった。私の罪の陰で、言いにくいですが、妹の罪が、見過ごされていると……」

「そう、想っていたんだ……」

「残念ながら」

「ぅぅぅっ」

「でもね」

「……」

「僕、想うんです」

「ん、んっ」

「言葉にしろ、行動にしろ、それを落とすも拾うも、そして……忘れさせるも、愛が決める、大切なものを気づかせるんじゃないか、って。そこに、依津子さんは、教えと学びの原点を見たと想います。落とし物から始まろうものなら、たとえ、忘れ物になってしまっていても、いつか、想い出し物に変わる。すぐに拾って置けば、忘れ物にしてしまわずに済んだのに……このままではいけないと、わかっていながら……人の心というものは、忘れ物にしてしまう……。くらましていたのは、真波さん、あなただけではない。あなたの陰に、依津子さんだって、自身の本心を隠して来たんです。このままなら、何も変えようとしないなら、いつまでも、裏切りだけが遺る。そうじゃありませんか? ごめんなさい……嘘という逃げ腰のままで、いいんですか? 最後に、背中を向け合ったままの、嘘を、忘れ物にして……」



「ううううぅぅ……」



「辛い想いも、たくさん経験して来た事でしょう。しかし、今、それを乗り超えるべく、あの、稲村ヶ崎の海が、煌めきの中で翼を展げるように、昔と変わらない、穏やかな暮らしを夢見ている。この店の名前の、しゅんじゅうんの、そのまなしで、原点……つまり……あなたという、存在を……」



「ああぁぁ……あぁ……私、も……姉と同じなんですうぅぅ……もう、恨んでなんか、いないぃぃっ!……ご、ごめんなさい……ああぁぁ……」


 

 真波さんの中で、けたたましく、音がする。私には、よく聞こえる。動き、巡り、循環している慟哭どうこくのただ中に、彼女の本心は、あった。それは言うまでもなく、全てを超えさせる為の、命の気配であった。その生命力の燃焼は、最早、今日の涙を喚び戻すかの、清泉せいせんの如きへいしゅつを待たず、私の耳目に飛び込むにつけ、盛んな説得力を以て制した。打てば響かんとする、されば届かんとする心が、ある。二度と繰り返してはいけない、悲しい躍動が、私達を壟断ろうだんしてゆく。寄せる波の狭間に揺れていた。今にして、応えぬあまの面影に馳せている。孤独から見た、こんなにもわかり易い孤独の後悔が、どれほど、隣り合っている事か……。

 気化し切れぬ湿った空気に、飽和した時間のゆくえは、限られていった。時は、引き波の非情、自らのざんを教え、身につまされるばかりの男の矜持は、くうじゃくなみだがわに頬を奪われ、被支配の観念に溺れそうになっていた。それでも私達ふたりは、生きてゆこうとしているのだった。それはまさしく、懐かしさという、不意の来客に突と店を閉め、ともすれば、招かれざる客であったろう私が、時の遡行の随伴を許された、こちらから望んでいた、ふたりだけの、秘密の埋没の旅の始まりであった。その生きざまは、取りも直さず、寂しい。であるから、涙は海になる、海を喚ぶ、そして……風は立ち、光さえ、こだまのように玲瓏れいろうと照り返すのだ……。私はあの……由比ガ浜の絵里子さんとも似ていると、どうしても、よぎってしまう。

 その時……エントランスのドアがき、私は真波さんへ向けていた語勢に相応しい、視線を走らせた。その目に映っていたのは……蕭条しょうじょうじんの域に孑然けつぜんたる如く現れたひとりの……あの、私の世界に生き続けている、あの少女……疑いようもなく、まさしくその人であった!



「お母さん……どうして泣いているの?」



「な、凪ぃぃっ!……」



 真波さんは、一瞬で母の愛慕を漲らせ、椅子を弾いて我が子へ駆け寄った。あの少女は凪ちゃんであった。凪という名前で、たしかに、元気に生きていた。幻は、夢ではなかった。母は、夢を叶えた現実の、林林総総りんりんそうそうたる本気の想いを集めたかの、小さな少女の体を抱きしめ、おやは、ひとつになった。少し窮屈そうな凪ちゃんは、突然の抱擁に驚きと心配を隠せず、一生懸命にばたく可愛い窓辺を、天使のような無垢の涙が包んでいった。ふたりはこくに籠もった。幼な心にまる記憶の欠片を、彼女なりに、拙い指先で綾取りをするように編んでいると、見える。その出来たての言葉を、子供ながらに選んでいるとも、見える。母の胸にいだかれるまま、何も言わず、それでも応えようとする純情可憐な心に、真波さんと、そして私は、このまま、涸れ果ててしまうのではないかと想えるほど、涙を絞って、泣いた。この子にそっくりな母は、我が子への慈愛と、この子と同じ頃のままの自分を見つめ、泣いていた。同じ頃の少女を、遠くから眺めるだけであった、少年の私も、あの頃の自分を見つめ、泣いていた。小弛おだんだかの少女の佇まいが、あまりに健気で、大人ふたりの憂来ゆうらいほうは居たたまれない。涙が奪う、虚しさを突きつける。この上、何を望んでいるのか? 礼節を忘れた、刀を持った狼藉者の如き、どうにも出来やしない、懐かしさとの惜別が、喉元に翳されている。悲しき人のさがに畳みかけられ、尚、涙腺の回答は正直さをいや増した。

 本気を知れば、知ろうとするなら、自ずと説得力は備わる。身の程を弁え、少なくとも人を傷つけはしまい。それは涙を、美しくするのだ。かつて悉くを取り逃がし、むしろ取り上げられたと拡大解釈していた、形ばかりの被害者の、きょうの懺悔、さえ。本気という説得力は、全てを美しくする。それがたとえ、悲しい別離わかれで、あったとしても。乗り超えるとは、そういう事ではないだろうか? 風の歩みは弱くても、全力で吹いているから、極楽寺の街も山々も、揺蕩たゆたうように通り抜け、あの、稲村ヶ崎の海へ、届く。そして、輝く。本気を注入しても、成し遂げられない事は、ある。ならば、その気になりもせず、何が出来るのだろうか? 本気で汗して、その程度の成果だったとしても、なぜ、そこで諦められる? それは慎重さという美名に隠れた、逃げ腰の言い訳に他ならない。夢の為の、半ば犠牲的な献身が、正統に評価されて欲しい。他者を傷つけるに至った心は、教えと学びの原点に、気づいて欲しい。……私は、窓を開け放ち、風の愛を見ていたのだろう。三人集う涙は、風の匂いがしている。


「お母さん、もう泣かないで……」

「ぅんぅん」

「凪も、悲しくなっちゃう」

「……ごめんね……」


 ふたりは密着している顔を離し、涙眸るいぼうを見合わせた。その目に映る互いの涙に、それも、自分の所為せい……と、言っているような優しさが、泣き顔を放っては置かなかった。目に見えぬ、幾つものその言葉が、部屋中に漂ってゆこうものなら、おやの頬を伝うぼうすじは、証しの煌めきとて、さも、温かい。


「このおじさんに、いじめられたの?」

「ううん、違うの」

「嘘っ!」


 小さな咄嗟の抵抗が、出来る限りのその理由を集め、訴えた。キッとした目が、私へ、はかなくもいちな針を、向ける。


「おじさん! お母さんをいじめないで!」

「んん……」


 何もかも一気にき、目の幼吠ようぼうが私に掴みかかる。ついと言葉がつかえた大人達は、せるにとどまった。てて加えて私は尚、居場所にさえ心もとない。母はこちらへ視線を任せ、頭を下げた。


「吉村さん、ごめんなさい」

「ぃぇぃぇ」


 母は想い入れ一杯に、語気をとがらせるまなむすめを正面に置き直し、しっかりと、見つめ合う。


「……凪。この人はね、お母さんが、昔、よく知っていた、吉村さんっていう人。いじめられていたんじゃないの」

「本当?」


 母と私を見比べる目が、首ごと往ったり来たりしている。


「本当だよ。昔の想い出を話していたの。楽しかった事を想い出しているうちに、吉村さんもお母さんも、自然に……涙が出ちゃったの……。凪も、わかるでしょう?」

「ふうぅん……」


 凪ちゃんは、束の間をはさんで小さな理解にあたっていった。


「わかった!」

「ねっ、そうでしょう?」

あんだ、そうだったんだ。吉村さん……」


 もう、まぐるしく、あっちもこっちも首かしげるは止み、やっと私を見定めた、あどけない涙涙るいるいまなしを連れた幼な顔に、小ぶりの光が射してゆく。それにしても、母の中の想い出に、少しでも近づこうとする、こんなにも小さく、それなのに温かく結んで纏め上げた、花の露の可憐いじらしさが……。まるで、本気という、心のスタミナの大切さを、母の為に、しあわせの為に、理解しようと……。けがれと疲れを知らない、綻んで間もない蕾の遺り香のような、あまりの初々しさが、シンプルさが、痛いほど……そして、こんな大人の私達で、申し訳ないほど……。奇をてらわぬ少女が、大人達も昔そうであったろう、少年少女の一心全力を、教えている。


「ごめんなさい。間違えちゃった」

「ぅん……」


 私は、そう答えるのが精一杯だった。母もたまらず、袖を絞る時雨しぐれを揃え、共に濡れるがまま、気の済むままに、正直な目は言い立てる。身を知る雨は素直に暴き、雨曝あまざらしの想念のひと塊まりは、最早これで最後のように、融け出して露見するべく、ある。とある言葉の端くれどもが、自ら、輝き始める。



 いいんだよ。いいんだよ……。



 ……それは真波さんと、私の、声にするまでもない、心のひと言で、あったろう。数限りなく、この空間に散らばっていった。重なり合えば、嬉しい。舞うほどに、麗しい。少女よ、君は、あなたという存在こそは、かけ替えのない多くを通わせる為の、正真正銘の証しなのだ。あなたの声に、私達の心は動く。あなたの微笑みに、私達はしあわせを感じる。あなたの愛に、私達は、あなたへ応えたくなる、応える責任がある、本気を捧げるだけの、価値がある。私達にそうさせる為に、あなたという人は、ここに、いる。だから……ほんの間違いなんて、許せる、譲れる、受け容れられる。わかってくれたのだから、わかってくれるのだから、過ちが過ちではなくなる事を、あなたは、教えてくれたのだ。それを何という? それが何に見える? 小さくても、愛は、愛なのだ。以上でも以下でもない、それしかない、愛なのだ。



 そうだよね、凪ちゃん。そうだよね、私の中の、少女よ。世界中、どれだけいるかわからない、たくさんの、大人になった少年少女達よ……。



 凪ちゃんと出逢った瞬間から、私の中で響き渡っていた、彼女の言葉、



 どうして泣いているの?



 小さな彼女は、たまさか遭遇してしまった、母の落涙に寄り添い、そして、その母と、ともすれば、自分達のささやかなしあわせに、異を立てんとしているかの、私に対しても、合わせるように、最初からわかっていたように、大人ふたり分の慰めを、それぞれへ贈ったのだ。悲しいまでにありがたく、それを受け取った、真波さんと私の、過去。小さな愛は、知っている。小さな愛は、見ていた。その時、三人の理解の胎動は始まった。少女は、少女なりに、自分の想い出を重ね合わせ、大人達は、少女が生まれる前の、遥か昔の子供時代の出来事へと、馳せていった。少女は知的欲求のままに、大人は、少女さえ知らない、知る由もない、大人達のクロニクルの世界へ、赴いた。共に悲喜交々こもごもの人間模様を、少女は、いずれ経験するかも知れない将来の波風へ、小さな愛のエンパシーを込め、大人になったふたりは、内省遡行が彷彿とせざるを得ず、幼な心への懐古と慰謝を、エンパシーに委ねない選択肢はない。両者は、人の人たる所以ゆえん宿命さだめ、企まずして、肯綮こうけいあた剴切がいせつな共通理解を求めずには置かないのだ。そうして、そこにある過去の忘れ物を、見つけないはずがない。共感という、一体感という、人と人のえにしは、誰彼の別なく、それが芽生えたばかりの子供であれ、たとえ初対面の人であれ、その場に居合わせた人であれ、通りすがりの人であれ……現実の世界へ飛んで帰るように、待っていたかのように、人と人を結ぶのだ。必ず……想い出す! それが、人である。考えるという本質を持つ、人である。

 少女の、もうひとつの実際の言葉としての、


 

 もう泣かないで……。


 

 小さな回答は、その証し。どれほど、しゅんじゅうんを駆け巡っている事だろう……。そして、それで……



『いいんだよ』



『そうだよね』


 

 みんな、わかっている。息をもかせぬ、うちなるへいしゅつを。

 それは、あるいは、愛されたいと願う以上に、更に一歩踏み出し、愛される為に、誰でも為し得る汗と涙を信じ、しゃしようとする、子供のようにシンプルな心であった。そんなふうに変われる勇気を知り、教える心であった。誰かを愛した事、誰かに愛された事、その記憶の流れから、やがて、愛さなければ愛されないという、現実の摂理を学び、至って自然に無いもの強請ねだりを気づかせる。途切れている、不足しているものを気づかせる。たとえば……根拠もなく、いきってみよ。贋物にせもののプライドをふり翳してみよ。愛される為の、のある有意義な方向へと傾倒してゆくはずだ。変わる事を、怖れてはいけない。変われる心が、裸の王様を救い出す。幸災楽こうさいらくの不毛をも……。凪ちゃんも、いずれ、シンプルがシンプルを喚ぶように、帰るように、大切なものが、わかる。諦めのない、いつでも拓ける、本気を。人類にとり、本能的な至高の宝を。

 私の中に潜むあのは、今日の私を、予見していたのだ。そして、今もこうして生きている以上、まるでタイムラグをなくすように、私のあずかり知らぬうちに、生まれ変わり? そうではないとしたら分身を生み? その魂は、凪ちゃんの口を使って告げたのだ、と……どうにも他に考えられなくなっている。えつまみれの沈黙が流れる中、小さな次なる発言もまた、真波さんの次と等しく、気にかかる。大人達は、あと数年でベテランの年齢に達し、ベテランにはベテランの充実というものがある。何かをかばう無言は、もう結構、そんな、態度の嘘なら要らない。私は、この静寂が、怖い。かつての加害者をかくまう被害者が、このに及んでまだ、同一人物であると、逆戻りさせるから、やっぱり、辛い。それは、後悔を隠すもの。いつの間にすり替わったもの。無理を承知の自己弁護が、冷たい涙に、怯えたもの……。拡大解釈という、後悔の証し……酒でも無言でも埋まらない。言い訳の必要がない原像を、今を凝らして改めて始めれば、いいのに。変えれば、いいのに。


「凪。凪はいい子。わかったでしょう?」

「うん!」

「うん。じゃあ、二階へ上がりなさい」

「はあ……い。吉村さん、さようなら!」

「はい、ありがとう、さようなら……」


 流石さすがに、湘南の風は真冬でも、洗濯物を乾かすのが、早い。子供のものなら一番に、どの道、大人のものでも、気づくと、爽やかでふうわりとした香りを、乗せてくれる。洗いたてのままの心地が、空間に浮かび上がっていた。凪ちゃんはほどかれた母の腕から散り、小走りにエントランスへ向かい、こちらへくるりと返ってドアの前で、右手を、ふる。そして、


「バイバイ!」

「バイバイ、ィ……」


 私の右手の、ありがとう、は、きっと、特別な事ではないような意味合いに、凪ちゃんには映っているだろう。小さな純白の綿帽子の笑顔は、ひらきゆくドアの隙間が展がるほどに、午後の外光のさやかなるへ、明度を合わせる。それは、とあるささやかな一日と、大いなる一日のあいだの、当たり前に折り合う束の間であった。ふと、また泣きたくなっている、私……。光の中に咲き綻んだ、拙なき春を知らせる先駆けの桜の如くは、いたいな掌も揺ら揺らと、ぽかりと浮揚して、半透明に輝く向こう、そばから雲流るるうちばなしの、何かをこそ引き連れ……



 バタ、ン……と、ドアの向こうへ、消えた。冬の清爽な光の匂いが、立ち込めていた。



「……」



 真波さんと私の、それであったろう。それであったはずだった。間違いないはずだった。さればのはかない「さようなら」が……されど、の言い訳を探しあぐねる私達の、報われぬ、まだ乾き切らぬ芯の、見た目ではわからないぐらいの悲しみを、置き去りにしていった。



 さようならじゃない。さよならなんてもういやだ。さよならだけは、したくない……したくはないのに……。凪ちゃん、本当はそうじゃないんだよ……さよならさせて、ごめんね……。



 大人の本当なんて、どうでもいい。気がかりなままの私と佇み、怖れを秘めた待ちびととなったふたりだった。凪ちゃんは帰っていった。遺した涙涙るいるいまなしは、真実を知るかの風雨を衝く、子供のひと言の本当を訴え、核心に触れようとする。真波さんと私を、叱っていた。大人の身勝手が、どれほど、人の心を傷つけるものに過ぎないか、わかりたくない弱さを、わからなければいけない事だけが、ただ唯一、忘れ物になっていた。わかっている、けれど引き取りにゆけない、一番大切なものであった。今日、ずっと泣いていたのも、この、生乾きの頬も、それぞれにとり、もう言い逃れる事は出来ない、それで、ある。

 依津子さんの顔が、凪ちゃんに喚ばれ、宙に彷徨っている。姉妹は図らずも揃い、同じ顔で待っていた。待ちびと同士の三者三様もまた、救い救われなければならなかった。やはり、私の番であった。時間の微動は既に永く、それは胸の鼓動だった。今、それに気づいた。窓の柔甘やわあまい光の、穏着沈黙に任せようものなら、必ず、拓ける。怖さも、その、今さっきドアから吸い込み添えたばかりの、新たにこうする所を、や、語り出しているようだ。正直なものだらけであれば、形などにはこだわらないものが出来上がっている。それは忽ちにして、たしかに、風だった。鎌倉の街と森と海の、風だった。そして鎌倉の、人だった。


「凪ちゃんは、私事で恐縮ですが……」

「……」

「僕が昔、崖上の家から見た、高見さんの家の、小さな女の子……そのものなんです」

「……」


 真波さんの身を斬る時雨しぐれは、上がったとみせて置いて、今をまた、ふるい出す。


「僕の中に、今も生きている。そういう人が、実はもうひとりいて……ごめんなさい、僕の亡くなった祖母と、同じようで……かけえのない、大切な存在なんです」

「んんっ……ん」

「祖母の時は、悲しいままだった。でも、今日、あの少女のような凪ちゃんと出逢えて、はっきり、わかった。こんなにも、愛してくれていたんだ……って」

「ううう……」

「僕も、同じぐらい、愛していたんですね……」

「……」

「凪ちゃんは、あなたに、涙を超えさせる為に……生まれて来たんです」

「うっうっうう」

「僕の中の少女と共に、生き続ける以上、ほら……見て下さい。超えてみせている、笑ってみせている、悲しみを、笑顔に変えてみせている……いつか、いや、今度こそ、今こそ、超えなさい、笑いなさい、変えてみなさいと……涙が、教えている……」

「……」

「一生分泣いた涙だって、しょうさんしょうも泣いたっていいんです。必ず、温かいものに、変えるなら……」

「は、は、ぃ……」

「自分の過ちの所為せいで、人を愛する事を、守る事を、塞がないで……。過ちなんかより、遥かに、重い。そこに本気を捧げる事を、しあわせと、言うんじゃないでしょうか? どうか、今一度、お姉さんを真剣に想って下さい。乗り超えるという事を、乗り超えられるという事を。姉妹じゃありませんか、家族じゃありませんか、愛していなかった、という事で、終わらせないで下さい。そんな悲しい、嘘、もう……かないで……」

「ぅううぅぅっぅっ……」

「後悔以前の愛、そして、後悔を得て、あなたが学んだ事を……。あなたの心の叫びに、置き換えてみれば、よく、わかるんじゃないでしょうか……すみません、キツイ事ばかり申し上げて……」

「ぅぅんぅぅん」


 頻りに首を横にふって、応えてくれる。


「どうか、和解の花束を、真波さんから……」

「ぅんぅん」


 うなずくほどに、私の涙も真面目に応える。


「僕はかつて、正直に言いますと、畜生、この野郎と、酒で出来上がった心で、大したものは創れませんでした。一瞬にして、自分であろうと他人ひとであろうと、その笑顔を消してしまう、消しゴムを持っていたようなもの。僕も実家と疎遠なんです。しかし……これで終わりでは……ないという事を……依津子さんから、学ばせて貰った。ですから、妹である、あなたも……」

「んんっ、うっうっ」



「んん、凪ちゃんの為にも、再び、家族を……」



「……」



「棄てられないものを、棄てようとするぐらいなら……その、あなたの……本当を……」



 鎌倉が、泣いている。帰って来いと、早く帰って来いと、泣いている。あの街が、あの森が、あの海が、あの……懐かしい、柔らかい、温かい、人の心が……形を創らずには置かない。素直な顔だった。寂しい顔だった。人知れず、一生懸命に絞り上げるままに成した、言葉かずも少なの、消え入りそうな笑顔だった。季節の所為せいではなく、時代の所為せいでもなく、意に染まぬ、片道切符の旅を強いられ彷徨うほどに、心ならずも巡り逢った、足りなかった、どこかで求めていた、知っていたくせに、知らないふりを決め込んでいた渇愛の、その、表情が……。邂逅かいこうの喜びさえ、プライドをなだめ諭すかの無情が、閉じ込めようとしているみたいだ。そして、その、目の前で繰り展げられて来た、歴史の残酷に負けない、悲しみを踏みつけんばかりの、りんたる気風が、この海辺の街のそこかしこに、あの人にも、この人にも、密やかに透かし見えるのだ。

 どれほど、理解されなかった事だろう。どんなに、理解を求めていた事だろう。永年の艱難辛苦を乗り超えんとして、ただいちに、ただ一も二もなく、ひた向きに、その方向感覚を守り抜くしかなかっただろう。ひとりぼっちの直線が、寂しい一本道が、曲げさせようとそそのかし、迷わせようといざない、かな時雨しぐれに濡れそぼって来たのだ。しかし、限りなく本能的にして、果てしなく、形而上世界からの脱出を試みるイシューは、研ぎ澄まされ、自ずと創られていた。秘めたるものが、言葉と行動に命じ、最早、発露を待たない、免れる所には、ない。

 嘘のない旅路のてに、愛は、ある。その、たったひとつしかないものに、支えられて来た説得力は、ある。なんじを、玉にす。誇るも威張らぬ、目線の角度も抑えた、親和に輝く微笑みが、きっと、誰彼の別なく、ひとりひとりの内面世界に畏敬の念をいだき、抱擁せずにはいられないだろう。その姿を見ているだけで、さめの苦労の程を、充分に察せられるだけに、みな、報われたような、この上ないしあわせを共有出来るのだ。素晴らしいじゃないか……頑張って来た甲斐が、あったね……と……喜びを分かち合える。

 謙虚な汗こそが、ただそれだけが、人を、美しく、する。……他の何ものよりも……許されし、瑕疵きずだらけの珠玉である。痛みを知る、優しさの……永遠なる系譜は万世一系……。それは無言さえ許される、見守れる、真摯なる態度そのもの。いじめるな、と言う事はやすく、真の解決にはならない。それより、いじめられぬ為に相応しい、まさしくそれに、平和たり得る自由の鍵が、見え隠れしているではないか? 追い込まれたしょうばくを癒す事が出来るのは、果たして、原像再現という道以外に、ない。挑戦する事を躊躇ためらっているうちに、あっと言う間に年を取ってしまった、後悔の為に。望んではいない世界観に、妥協迎合している自分に、堪え難いなら。本気を捧げられる何ものかに、挑戦し続けて来た人の、本物のストーリー、その、黙らせてしまうほどの説得力、無言であっても備わる、強いインパクトに、勝てはしない自分の弱さを、知ったなら。自分の痛みに対する過剰な反応が、他人ひとのしあわせさえ、分かち合おうとしないような、そういう。



 私は、尚も、ぶちけたい。真波さんの涙が、それさえ、許しているようにしか、見えなかった。



「自分の痛みにだけ、敏感で……何が……期待出来るのでしょう? この広い世界で、痛みを持たない人が、どこにいるのでしょう?……形こそ違えど、痛みは、痛み……みな、同じです。依津子さんも、お父さん、お母さんも……。今、あなたの中にある、全てを……どうか、信じて下さい、どうか、伝えて下さい、わかってあげて下さい……必ず……必ず……わかってくれる……はずです……お願い、します……」



 愛する誰かが、心の痛みに涙する度、いつかの、誰かのその涙を想い出す度、自分が贈っていた愛のプライオリティーは、ともすれば、他ならぬ、腰高な自分自身がひとり占めしていたと、わかる時がある。自分は、被対象者であるべきではなかったと、わかる時がある。

 私の、率直な意見である。


 良い汗を、気持ちの良い汗を、もっと知りたい、知って欲しい。

 それは、言葉を連ねるほどに生まれるタイムラグの、時に嘘のような、あるいはすり替えるような、不確かなものではない。素晴らしい音楽が、旋律が、一瞬にして聞く人の心を掴んで離さない、与える印象が本物を想起させ得るふうの、異口同音と言える。本当だけがしゅんをとらえ、感動は生まれる。誤魔化す余地のない言葉を繋げるなら、難しいにせよ、それが出来る。創造物に宿る、真性の問題であり、それを語り、見せている、聞かせている、その人次第のクオリティーなのだ。説得力とは、そういうものだと想うのだが。絆とは、そういうものだと想うのだが。集中と夢中とは、その証明行動、贋物にせものの代用など、何をか言わんや。きょうまさる不毛は、ないのだから。そして、たとえ創りものであっても、その中に、そっとやり過ごせる約束事を、忍ばせてくれるなら、社会は、優しく応えるだろう。他者を優先させる事が出来る、そんな約束、言葉を換えれば、信頼というものを、感じさせてくれるなら。たい。目的を持たない「逃げ」「フリ」「トボケ」。本気になれない、後先あとさき考えられない、全ての原因が、そこに、ある。


 本気。悉くを可能にする、愛。

 それを求める事。

 しあわせ、という、重畳ちょうじょうたる喜びの、事。

 本気の汗を、全力を捧げ尽くしても、叶わない事は、ある。ならば、失敗を怖れる逃げ腰で、覚悟を決めない態度で、何が期待出来ようか。挑戦する心に、意見出来ようか。もう一度、今度こその、出し切らんとする、負けまいとする姿勢に……。たとえば、贋物にせものを突きつけられ、その上、あざけられる場面に遭遇したとする。しかし、それでも黙っているほど、人は愚かな生き物ではない。心ない言動が許され、優しくされる事への依存は、危険。受け取る心のプロセスを切り離す。される以前にする心を、消そうとしがちだ。本気には、なれない。受け取れなく、なってしまう。するもされるも、信じられなくなってしまう。


 真波さんの、心の窓辺に宿る雫が、まなしから、日まりを結んでいるように、見えている。私という風に、揺れている。もしかしたら、私のそれも……彼女という風に、そして、これから……凪ぐように……。本物で、勝負しなければならないのだ。挑戦してこそ、日本人である。明治以降の近代史が、物語っている。悪い所ばかりをあげつらう、偏狭な精神的土壌に、倫理も融和も、育たない。


 そうして私は、今日の目的は果たしたと、考えていた。真波さんは、わがまま勝手な事ばかり並べ立てられて、だいぶ消耗している。実に、申し訳なかった。もうそろそろ、おいとましようか。









 いんしゅん二月に入っていた。その、最初の週末、土曜日の昼前である。

 私は、ただ、ぼんやりと自室の窓辺に立ち、善くも悪しくも問題にせず、稲村の海を押し撫でるように眺めていた。とは言え、どうしてもせっかちになってしまう、視程の届く限り、快晴の日和にこそあれ、なかなかのびてはくれない。幼春を手繰たぐり寄せんとするかすみぞらが、寝まなこの如きに映ろうものなら、私はやはり、愚図りつつあった。きたるべき春の喜びが、今年もれったさを持てあましていた。いつでも、何度そうしても同じそれは、また、これからも毎年の事に過ぎず、であるから尚、込み上げるものは、嬉しさの中にかすかな痛みを伴っていた。なだらかになだめられてゆく心地が、歳時記に春を探すに早くはない、何でもない生活の真ん中に息づいていた。

 そして、今の私なら……次に……窓をけられる。想いっ切り、なげうつように窓をけた。かなぐり棄てた躊躇ためらいは、流れ込んだ海風に蹴散らされる先から、一瞬、微温ぬるい光を放つ。次々に、無限に光暈こううんが折り重なってゆく気がした。漫然と日が昇るように見える幻のタイムラグに、淡い期待をいだかざるはなかった。そんな、冬と春のはさにある、鎌倉極楽寺の一景にうずめられてゆく。自己肯定を我がうちに求める事が出来、そとに求めず、紳士淑女のフリをせず、多様性を見ようとしない臆病風は、消えゆく。最後は決まって強きの味方につくような、つまらぬプライドは、放棄したのだ。創造のその風は、どこへゆく?……。

 あまり寒くはなかった。私は、いつものダウンジャケットを羽織り、そして、玄関を出た。外気はなげうつまでもない。岬の突端のような、崖の汀線ていせんに至った。スマホの連絡先名簿から、一番よく使う項目の先頭を飾る、ある名前を、迷わず選択し、そのスマホへ直電をかけた。呼出リングバックトーンが刻む、規則正しい肩叩きの連続の如くが、心拍の焦りを諭し、むしろ頼もしく聞こえて来る。今この時、それを自ら招いているのだった、決めたのだった、春を知らせる日輪の喚び声を聞いているのだった。少し、待っている。玄関スペースにてサンダルを履くあいだ、一旦途切れた目が入れ込み、そのまま私は、待っている。



 ……永く、どこかへいってしまっていた、その目で……。



「はい! 私です」


 彼女が、応答した。私はかさず、


「やあ、こんにちは」

「こんにちはっ! 今、どこにいるの?」

「家……」

「ふうぅん、私もよ。ねえ、何してるの?」

「うん……」

「うん……」


 私は、はだけなければいけなかった。さっき叩かれたばかりの肩が、張り上がるように、されど落ち着けて……


「あの……」

「うん」

「庭に出てくれないかな?……」

「えっ?」

「スマホを持ったまま、話しながら……」

「う、うん……」


 彼女の怪訝そうな顔が、私の脳裏をよぎる中、咄嗟の対応らしい生活音が、応えさせている男の耳に届いている。案の定、家人の在宅も耳打ちするように届いている。彼女と共に喚び出しをかけていた、招かれざる客に、私は背中を見せる訳にはいかなかった。しかし、そのやましさとずかしさの両名に、早くも告白者の肩はポンと叩かれている。その男は、まだ彼女からは見えない、にもせよ、よく知る私という人間であった。見えなくても、よく知っている同士だった。もっとも私は、見えないフリをしているだけなのだが……。それはけだし、きょうと言う他に、ないのだが……。彼女と私を最後に隔てている、それを、これから一気に、壊すのだ。庭に出て、そして……後ろをふり仰いで貰って、それから……そうしてから、つまり、言うまでもなく、私は彼女に、ただ、謝りたい!……。

 どうにも言えずにいるうちに、こんなにも膨らませてしまう経験を、繰り返しているのに、そこから学んでいなかったのだ。その甘さと弱さを放置しようものなら、いずれ譲らぬ様々な怖れが、この、崖の上と下の、近くて遠い道のりの如く……。ここまで遮り、ここまで遥かに来てしまうであろう事を、最初からわかっていたくせに、騙し続けて来た今更の後悔は、最早、喪失なるてが、仄見えているのだった。彼女という存在と、自分の本当の心という両翼……天秤……生きてゆく為に、かけえのない、安定均衡のおもりを、事ここに至り、たいに晒すに及んでいる。故に、最後に遺してしまったそれを、取っぱらわなければ救われない!……。

 もう幾度いくたび、ここまで自分を追い込んでしまった事だろう?……もう、これしか、ない。諸々の事情が、引っ繰り返る幸運を祈りつつ、その自信のどころに、蓋をしている自分が、自分らしいと言えば自分らしかった。唯一、見逃して欲しい部分であった。そういう、賭けだった。

 やはり……今頃になって、悉くの不安材料が、噴出する。大体において、私が安易にいてしまった嘘が……重くのしかかって来る、畳みかけて来る……。悪い癖の報いが、膝を詰め寄る、その、余人を以ては代え難き麗人は、誰あろう?……。

 私という男は、そのひとをよく知っているくせに、未だ、他人顔のままでいる。共に、この街に暮らし、本当は、もっと近くで話がしたいのに……もっと知りたい、知って欲しいのに……その為のプロセスの順序を、誤ったままでいる。そんな事はわかっている、十二分にわかってはいる。私達ふたりは、ごく普通の、街の住人同士として、少々親しげに、挨拶を交わす程度の間柄の領域から、逸脱するべくもない、くつろぎ顔に映っているはずだった。でも、中身は違う。私は、他人ひとの事が気になって仕方がなかったのだ、安心しているフリをしていただけなのだ、そう見せているだけの事に過ぎなかったのだ。

 その中身は……どうしてもあがない切れない、少し前の事……あの夏の日々の、過ち……そのひとを裏切ってしまった、罪の意識……。

 消し難い記憶が、りにってこんな時に現れ、ほぼ忘れかけていたエゴイズムの暗部へ、再び、陥れられる残像が、仄見えるのだ。そして、かつて経験して来た、苦い記憶の数々までも突っつき、誘い出そうとするのだ。果たして、現下最大の矛盾の使者は、挫折を忘れてさせては、くれない。曖昧さ放置の、無覚悟の意趣返し、来るべきものは、来る。防ぎようもなく、来る。

 けれど……けれども……たしかに、遅かった気づき、まだ、心もとない学びに頼るなら、それしか生きる道がないなら、私はそれでも、自分を見つめよう。自分のそとに矛盾の目線を投げるばかりでは、自分の中が空っぽになりそうな気がする。自分の創造を放棄する事になる。そこからがさず、遺るものは何か? そこから生まれるもの、始まるものは何か?……。全ての教えと学びの原点が、そこには、ある。愛も、優しさも、平和も、自由も、そして、しあわせも……。

 冷たい言葉、態度、それらを他人ひとへ、社会へ、投げかけてはいけない、そうするべきではない。自分自身を見つめていない不備を、主張する証しになってしまう。愛が欲しいなら、自分の中で創るしか、ないではないか? 違うか? 愛する事からではないか?……。

 遅過ぎたなら、さぞ、辛かろう。どうせ……と、自暴自棄にもなろう。その気持ちに、いやと言うほど蝕まれて来たのだ。であるだけに、それを破壊し、最早そうではない自分の中に、愛が蓄えられるまで、もう一度……再び、人を愛せるようになるまで……自分を見つめようじゃないか! 誰にでも出来る事じゃないか!……負けないでくれ……。

 私は、そう、自身の自家じかどうちゃくに語りかけていた。人を恨む事をしとし、幸災楽こうさいらくを排除しない心がある以上、この地球上から、争いの火種は、消えない。せめて、他人ひとに賛辞を贈れずして、何のプライドか? どんなアイデンティティーか? 結論を言えば、私は、自分を難しく見せる必要があるような、そういう嘘のような生き方が、もういやだから……こんなふうに、いっそ……。



 最後の回答。



 Welcome? or No, thank you?



 誰の事を?



 自分自身も?



 ……なるほど!



 そして、そう想うほどに、私という男が佇んでいる。眼下に、かの麗人は姿を現した。私という名のダムは、右の顳顬こめかみからは恥が、左からは言い訳が、はたと締まった減らず口には目もくれず、最後の抵抗の放水を始める。全身の壁が湯を沸かすようで、卵の心は茹でられ、即、固まっていった。かのひとは期待にたがわず、方々流覧しながら、崖側へ体が向いた。と……立ち塞がれ、流れ着いては上昇するしかない風の表情の、そのまなしに灯る光とて砕ける。忽ち燃え出す理由を見つけたなら、それは一も二もなく、私という事になったはずの、強い感情露わに見上げ、架け渡す顔だった。驚き以上の何かを、予感せざるを得ないものがある。待っている顔がある。散らばるものを必死に集めている顔がある。されど、咄嗟には嵌め込み切れてはいなかった。私達ふたりに纏わる数少ない想い出をしまった、私が大好きな、大切な抽斗ひきだしのように。それはあまりに正直にして、かくも美しい。言うまでもなかった。言わずして、仄仄ほのぼのとした賛成と理解から、かんを尽くせそうなコンセンサスの気風がち上がったかの……。もし、そうだとしたら、そのように見えて来る私の中で、許されし、乗り超えしものの証しこそ、待たれ、うしおの満つる時は訪れるだろうか?

 その時……彼女の、空を見つけるもしゅん、仰ぎ泣くもしゅんたる顔を、その両手で覆ううつむきが奪った。


 ……しばらく、そうしていた。肩の辺りが、かすかに揺れている。それだけで……想い出は、風よりも小さくささやこうとして、過ちと苦い記憶は、海よりも清く透き通ろうと、する。その、ささやかであり続けたい故の、ありのまま、私のよく知る彼女の、それだけで……届けようとしているものは、優しさと交じり合う。たしかに伝わりゆくものに姿を変えようものなら、私は……それが、どれほど受け取り易く、この上なく愛おしく、ありがたいものに沈み込む心持ちに、如何いかに陶然としていただろう。我がうち枝垂しだれ、その早咲きの桜の化身の如きは季節を超え、過去を巡るうち、満面の笑みもたわわな青春を知る。いつかは来る、いつの間に、懐かしさとの惜別というものは、最早愕然と迎えるであろう時間を、知る由もない。ひたすら無抵抗な促迫と頻回にまみれ、誰に習った訳でもないのに、学べるものでもないのに、かかる精神行動がとうとしとすればこそ、愛すれば尚、それは果たして、双眸そうぼううしおになって応える事以外に、何が、ある?



 だって……君が頑張って……小さく手を上げて……何度も、うなずいてくれるから……。私の中で、罪の意識とやましさとずかしさが、ごめんなさい、と、ありがとう……に引きずられ、薄青の空に吸い込まれてゆく。湯上がりの爽やかさの如くを、心地よい火照りに遺して……。

 


 誰の中にも、とうとさは、ある。それをひしと感じているなら、それが本物、それが本気、それがこの時、今の真ん中にあるもの、誰もが求め続けていたものなのだ。ならば、その、今の自分の中にある全てを信じずして、人は、何を信じて生きてゆけばいいのか? 自身の過ちが、人を傷つけてしまった申し訳なさが、これ以上の何かを求めようとするなら、それは一体、どういうものなのか? 人類は、ここまで来ているのだ。それがまさしく、人である限り誰であれ、生まれながらに備わる、生命活動の尊厳に他ならない。人の中にあるミニマライズされた本物が、平等なのだ。まるで、美しく咲くであろう花の、種のように。お母さんのお腹の中という、故郷から聞こえて来る、まだ見ぬ赤ちゃんの、逞しい胎動のように。見過ごしてしまいそうな小さいもの、目に見えないものにこそ、心を致す事から、悉くの価値観は始まってゆくのだ。

 


 ……私は、そんな夢を見たかったのだろうか……ただ、君に……ありがとう……そして、ごめんなさい……。ふと、君の言葉のようにも、あの唇が、声は届けぬ口笛を歌い、だから……風は応えて背に乗せ、優しく、揺蕩たゆたう……。君は、心しか、微笑んでいるのかい? 既に切り取られ、浮かび出す。その、涙の口笛と翳した手で、極楽寺の街の何もかもが、美しく、映える。それは、どっちがどっちかわからないほどの、鎌倉の佇まいと人々が織り成す、その時どきのモノローグ、日本のアニミズムの、日常的な一景に過ぎないのだろうか?……。通りすがりの旅人のような、それは……それだけに……そういう意味の、私達の涙だったろうか? 私も、何も言えず、見つけた君を見つめている。誰かを待っていた者同士、こうして見つめ合っている束の間を、偶然と言ってしまえば、また、嘘を重ねる事になる。私は、そんな事を考えていた……。

 


 よって、大人になった高見依津子と吉村陽彦は、初めて隣人同士として、出逢った。うしおというなかだちが、ふたりの目頭で、温かく、賛辞を煌めかせていた。私の経験からして、目先の自由を集めるほどに、畜生! この野郎! をさかなの、深酒がたたったりもし、汗は嘘を欲しがる。悲しみに敗れそうでも、落とし物を引き取れずにいるような自分を、曖昧にするうちに、大切な抽斗ひきだしの存在さえ、忘れてしまう。親にそうされようものなら、その迷子の子供らの涙たるや、如何いかばかりか。涙が、冷たさの代弁者であっただけに、依津子さんが翳した手に、私は、最後にして最高の涙を、贈らずにはいられなかった。たった一度しかない人生、しあわせになる為に絶対に欠かせない、本気を、忘れ物にしてはいけない、という。真実を嫌う迷子になって、彷徨ってはいけない、という。ベース固めの前に、突っ走ってはいけない、という。



 でも……やっと、見つけたんだね……見つめているんだね……僕も、嬉しい……っごく、嬉しいんだ……。さあ? 早く! ここまで登っておいで……自慢のバイクを走らせるように……駆けておいで……ずうっと待ってた、夢だった……。君を……この……岬への坂道の家に、招く事を……。さあ、早く……早く、駆けて来い! 待っているよ、こうして……そして、いつまでだって……君を……待っているよ……。



 もう一度、いや、何度でも、ただ、君に……ありがとう、って……言わせて欲しい……。本当なら、僕が迎えに行かなければいけないのに……お願いだよ……。許して欲しい……とは、言えない。僕に、その資格はない。……ごめんね……。

 現在時間、のびている。そんなのびしろが僕に耳打ちするのは、同じのびしろ。軽い気持ちでいてしまった嘘と、かばうような無言が……こんなにも……真実の心を、辛くさせるなんて……もう、これ以上……我慢出来ない!!……。

 肝心な事が、大して考えられず、言えず、出来ない代わりに、どうでもいい余計な事が、すらすら考えられる、平気で言える、いつも出来るようになってしまった自分を、世間は、見ていたんだ……。自分の人生を虚しくし、他人ひとの心の平和を奪って置きながら、被害者の仮面に隠れるなんて、やはり、どう考えても……。他人ひとは、笑顔にしてあげるもの。悲しみの裏返しが生んだものの苦悩が、再び引っ繰り返って学んだんだ……。何が見える? 何が聞こえる? 何を想う?……。それが溢れるように、ぽっかり空いたままの傷痕を、しらみ潰しに、かくも温かく埋め戻してゆくからには、まさしく、その本気を、君に……。


 

 そして君は、門をけて険し坂を登り始める。僕は、居心地が落ち着いていられる訳がない。人心地にやや難がある。ここから更に上を通るに、その顔は初めて見る、されど僕がよく知るそのひとが、どうしたのだろう?……不意にやっぱりどうしても、崖上を急かすように、市川の実家の、家族の誰かに見えて来る。

 登って来る。本気と集中、若さのベネフィット、一生という限られた時間軸で、僕を見定めた小さな笑顔が、だんだん大きくなってしまう。受け取り易いものだった。受け取って貰えるような空気に包まれていた。そこに、もう翳した手は見えない、うなずきさえ、ない。それなら、小さかった姿は当たり前に、意気込んで息を切らしているのがわかる、伝わって来る。君が与えてくれるものの大きさと同じぐらいのものを、僕は……僕こそが、今のこの時、しかと返さなければいけない段へ、来たと言うべきに決まっている。正に今まで出来なかった事が迫り来る。与え与えられる、返し返される、そうし易い心が、最早、微笑みを要求しない理由など……どこを探してもなかった。九十九折つづらおれては翻りざまさっとふり仰ぎざま……起き抜けの小粒の光は先登者せんとうしゃの志も浅浅あそそに、去りゆく冬の葱々そうそういつをしたためる。その温容、かの瞳、あの……少女のままの、平塚の凪ちゃんそのものの風姿に、いたく悉く、少年の僕は正直者になろうとするのだ。新しい何かに憧れ、求めるうちに知る所となった、失いし真実の悲しみは、先に手離した者への教えとなった。この高見依津子というひとりの女性と僕を、どこまで登らせるのだろう? もっと何を受け取らせるのだろう? 君はあとひと息、僕だってやはり、あとひと息。何を言えばいい? 何をすればいい? どんな顔を見せれば?……。

 僕は密かに手繰たぐって待ち、君は登り、若さのラストスパートをかけようものなら、信じられないぐらいに応えるフットワークで、一段、二段、三段……飛び跳ねる如く駆け上がる。互いに辿り着こうとしているその場所、その目前で息吹く、人の形をしたふたつの生命体は、確実に……引き取りに行けなかった、忘れようとしても忘れられなかった、抽斗ひきだしの奥に大切にしまわれていたはずの、一番の宝物が求めていた存在と言える。最後に遺りし、遅かれど諦めぬ出逢いの花は、今ぞ、せめてもの、さやかに咲きこぼれつつ真実を、出来る限りひもとこうとしていた。


 終わりの数歩。心を使うやり切れなさが、険し坂につき添う最後の数歩。

 やっとの事で言うまでもなく、それを使う楽しさが、決定権を握った初めの一歩を迎えようとしていた。

 ふたりしかいない互いの……目前の笑顔、君は見つめる。僕ははだける。寸前のぐさ、君は花に。僕は寄りつく。歓待の歩、ひとつ、ふたつ、三っつ……。見えない手と手を翳し、招き合う。引いて引かれようものなら、その心は押し損ねない。崖上の、我が家の玄関先にひそと咲く、名も知らぬ白い忘れ花に見守られ、立ち止まるを揃えし今ぞ、花客のふたりは巡り逢った。

 ……互いに、子供の頃によく見かけた、稲村の海から浜へ上がるサーファーのように、清々しい消耗を纏っている。君の濡れた睫毛が、うしおに痛む涙眸るいぼういだき、かばぐさばたきを導くほど、僕はそっと遮られてしまう。この場所にまだ言葉はない。抱擁されるかの涙を、見た事のある客同士、忘れていたのではなかった。ようやく見つけたばんのたまさかが、初花はつはなの喜びに変わるなら。逃れ続けた日々が、要らぬ言葉を探さないなら。そして悲しみが、最早、いさかいを求めないなら……。

 僕達は、きっと、それに勝つか負けるかで決まる、しあわせの天秤を見つめていたのだろう。そのカードが、君の双眸そうぼうで上げ潮に乗る。息を弾ませ、大きく光る。涙一枚の時の波立ちが、今更ながらの出逢いを祝福したければ、清新さが、嬉しい沈黙で応えさせる。息づかいに、僕は気づかう。潮目なき、ふたつに分かつ潮流のもうひとすじ。僕も沿わせるまなしのひとすじ。カードははざにあって揺蕩たゆたわず、如月きさらぎの花粉じりの風はかすかだった。今し方、上から見下ろしてなぞり、登りゆく小さかった光は、今、僕の真ん中で、君の窓辺の花の雫をさやかにこぼしていた。

 ふり返れば、極楽寺の街が、懐をくつろげている。君は、息づかう上げ下げの大きさにじらいを見せない。僕にはそれが、まるで師弟の挨拶に見えている。この坂道に、もう、どれほど……溜め息のような、何かに焦がれるような、ねじりのばしたままの本心を、落として来た人がいただろう?……。登る度に、一歩一歩、それを引き取りに行けない自分を想い出し、されど……下りる歩みのひとつの度に、降り積もった散り花は蹴散らされ、び空に紛れ失せていっただろう?……。

 往き来するうちに、やがてその心は、忘れ去られるように九十九折つづらおれた。故の救いを求めて涙するほどに、聞き届けた森の恵みは急坂となったのだ。遅いかも知れない、でも共に忘れてはいなかった、師弟関係の証しに見えて来る。ずっと待ち望んでいた心と心に塞がれ、僕達はむせんだ。久しぶりに再会したように泣いていた。自ずと縄はほどけ、助けられたかの涙が、我慢が、今、目の前で、同じように傷つき、疲れ、それでも抵抗を決めた温もりを求め合うに、ほんの小さな手をのばし合い……共に掴まえた。

 触れ合いに馴れない同士の、やや、ぶっきらぼうな右手と右手は、永き旅路のてに、ようやくその時をとらえたような、初めての出逢いのように、後ろ影を消すように、泣いた。それぞれのおもての海に小々波さざなむ、生まれたての痛みと名残惜しさが、静かな喜びに変わるまで、泣いた。この鎌倉は、内外を問わず人と見れば、どれだけ、その奇跡のような輝きを、うずめさせて来た事だろう?……。

 ともすれば、解体とさんしょく、かの転嫁の迷妄さえ、知って知らぬ素ぶりでその仮面を脱がせ、そして彼方に展がりゆく、わたの原の愛を見せ、風で抱擁し、人をただひたすら、旅立たせて来たのだ、と……僕は想えて仕方がない。君も、わかるだろうか? そうあって欲しい。

 険し坂は、急ぎ坂。その汗は、きっと忘れ得ぬ人生の糧となり、創り坂に姿を変え、いつの日か、喜びの花の雫を綴るだろう。桜の笑顔のように、いつまでも。涙なくして、君なくして、語れまい。


 僕は最早、身も蓋もなく、さらすのみだった。目の前の存在がもたらした当然を、見せるだけだった。


「ごめんなさい……」


 様々に、目からも吹き出そうものなら、それはどうかして、消えてゆくような澱みのなさを禁じ得ない。


「……やっと……言ってくれた……」


「えっ?!」


 忽ちつまずいてしまった、つかえてしまった。


「崖上の人だ、って……知っていたよ……」


「……」


 僕は言葉がない。砕ける。穴があったら入りたい。ずかしい罪と申し訳なさの大波が塞ごうとも……泣こうとも……。春めく風に透かし見ている、見えていたひとの、美しい涙が語っていた。蓄えたものを、一文字に引きしめた表現の扉の口唇が、揺籃ようらんの地の如く、されど森閑とあらわしている。

 通り過ぎて来たあらゆるものの中の、そのうちひとつとまた出逢い、想い出しながら眺めているおもしがあった。僕はただ、黙るしかなかった。用意していたかの、立てたばかりの謝罪の言葉が、君の告白に敗れ去る。もう何も言えない懺悔になってしまった。告白者は告白者に裁かれ、その道筋なりの本当の言葉以外に、今、求められていないのだ。でも、僕には、君のこの手……さっきは翳し、こうして握手をしてくれた、手……。

 こんな事を言ってはいけないのだけれど、それに甘えて沸き立ち、茹でられた、半熟卵のような心しか、ないんだ。それが言い訳になる、わかっている。遺っているものを見せるより他に、何もなかった。罪悪感と自責の念に畳みかけられ、古い洗濯機の脱水槽に絞られるかの後悔は、有乎無乎なけなしの新しい涙をはたいた。俄かに駆け巡り、咄嗟にしゅうれんされて出来たひと言が、先頭を切って尚、直走ひたはしる。

 今まで、数え切れないぐらい刷り直し、その度に忘れ物にしていた言葉を、今、ここに至り、もうわからないほどの新しさで、蘇らせたい……そこからであった。何も、かも。


「ごめんなさい……ごめ、ん……」


「……陽彦さん」


「……ぅぅ」


「……もう、いいの……」


「……」


「いいんだよ。……こうして、我が家の上に、あなたがいてくれるだけで……元気な姿を、見せてくれるだけで……昔のように……真波のように……。みんな、帰って来てくれるんだね……嬉しい……」


 春の足音のように、君は花の雫をしたためた。遥かな約束の風が流れ、どこかへ赴かんとする早暁の如き、聡明な残英は微笑する。僕と自身を守る為の、ささやかな慰藉を隠さなかった。遠くて見えない稲村の海の波が、その証しのように、君の悲しみと僕の罪を、さらってゆく。永かった冬の、空怖ろしいひだるさに、不味まずかったかも知れない、僕の心咎めは救われる。握りしめたままの手に、ごめんなさい、を幾重にもそらんじながら、自然についの手は添えられた。君の左手も遅れない。

 僕の涙眸るいぼうに映えるまだら模様の、光彩陸離たるひとだった。最早、感傷を分かたんに、心寂うらさびしき冬の影が玄関前に長々と、倒れ込んだままのふたりを引きめる。駆けるバイクと共に心逸ろうとも、もしかしたら、実体が見えなかったであろう日々に、殊の外の礼状を、最後に綴じ合わせるようなかたじけなみだが、玉を結んで頬を撫で下ろす。

 想い出すそばから、誰かの笑顔は声援になる。誰かの声は、去っていったあの日、別離わかれたあの日の、悲しげな顔になる。今も忘れられない言葉がある。今だから想い出す言葉がある。たとえ目の前からいなくなってしまったとしても、記憶像から消そうとしても、失ってしまったという想いは、その真実を消えがてにするのだ。最後に辿り着いた本当は、万丈の高嶺の残雪の如く、ある。融けは、しない。

 励まされるもの、熱くなるもの、癒されるもの、口ずさんでしまうもの、そして、ずっと欲しかったもの、今でもそう想い続けているものが、ある。そして、それを頭の中で諦めようとも、心が、それを許すはずがないではないか? また、なぜか、想い出すではないか? そうだろう? それが、忘れられないという、求めているという、大切な想い出なんだ。形はなくなってしまっても、今は違う形でも、大切なものである事に変わりはない。それがないと言い切れる極端さは、失くした大切な形を、けがす。そうあるべきでは、ない。無茶に、映る。

 そういう僕の真の心の声は、君の生き方に、ありがとう……に、限る。「許して下さい」と、言える資格のない僕を見つめる目が、その声に触れたように、優しく潤んでいた。

 その、肩をすぼめて愛おしげな形の窓辺は、まだ、僕が吐き出し切れずにいるものを、見ているのだろうか? 発散放出したつもりでも、体内に遺りへばりついている、動脈内部のプラークのような、心の錆のような、わかっているのにそれを棄てられない、そうする事が出来ないものを……。いつか君が言った、今更……が、僕の中へ潜り込んでゆく。どうせ、ではなく、せめて、いっそ、へと……いざなう。泣きながらにもせよ、いつものように、いつでも創れる事を、忘れずに主張して来る。変わる事、変われる事への怖れにはべる、古びたプライドに贈る名残惜しさを、懐かしむかのふたりだった。君の真の心の声が、僕のそれをもっと引き出すように、しおりし入れるように、見つめ合い綴り合う隙間に、静かにこだまする。



 新しさは、新しさじゃない。

 新しいように見えるもの。

 誰にでも創れるもの。

 あなたにも……。



「依津子さん……」

「……」

「こんな僕の、言い訳に過ぎない話を……どうか、聞いて欲しい……」

「……」

「僕は……自分の無言が、辛かった。それがなくても、辛いから……無言の陰に、隠れていた。それを貫いて来た、そういう人生だった。自分の手で壊し、失ったものが、あまりにも大きかった。無言でいても、告白しても、どう転んでも、現実は、変わらない。そう、想っていた。自分から手離してしまう、いつもの悪い癖から……鎌倉へ……逃げて来た。ジレンマから、逃れる為に……」

「……」

「そして……君と、出逢った。僕は、子供の頃の君を、よく、覚えている。でも、初めは、君が、高見さんのお姉ちゃんだと、わからなかったんだ。やがて、記憶は繋がって、十数年ぶりの、大人になった君との再会の嬉しさは、今でも、忘れられないんだ」

「……ぅぅっ」

「失くしてしまった、大切なものを、やっと、見つけたような気が、した」

「ぅん」

「でもね」

「……」

「ふとした事から、カウンセリングに通い、君を、サークルを通して知るほどに……僕と、んなじ心の匂いが、した」

「……」

「喪失感と、闘っているんだ、って……」

「ぅぅぅ……」

「それでも、僕とは、違う。君は、それから、どんどん行動していったよね?」

「ぅん」

「アクティヴだなあ、って、最初は、少し、心配だったけど、それがだんだん、僕を勇気づけてくれるんだ。まるで、寝たフリをしている僕を、揺すり起こすみたいに」

「フフッ」

「たくさんの事を、学ばせて貰った。でも……」

「……」

「そんな君にさえ、僕は……嘘を重ねてしまった……。冴え渡ろうとしている、稲村の海に、僕は、墨汁のような後ろめたい罪を……垂れ流してしまった……。この街に、逃げ込んで来てまで……」

「……」

「ごめんなさい……ぅっぅっ……」

「……陽彦さん?」

 着替えたばかりのような、折り目正しい君が、涙の雲上に、立っていた。

「私ね……絵里子さんとの事で、何かあるような?……そんな気がしていた」

「……」

 ……その事も、君は……君という人は……。

 カタストロフの一陣の風、翻る。僕は、二方向から押し迫られ、一気に崖っ縁に追い込まれた。

「すぐに……それと、わかった。……私……ふたりの事……知っていたんだよ……」

「フッフッ、ぅぅ……」

 万事、休すだった。もう、何も言えない、合わせる顔がない、君の顔も、見れない。自業自得の引導を渡され、カルマのきっさきは容赦なく、完全に、僕は堕ちた。

「でも……」

「……」

「あなたは……抵抗して来たの。永い間、抵抗して来たの!」

「……」

「最後に、喪失感と出逢ったんでしょう? 今までの全ての悲しみは、そうでしょう?……そして、その人、正直者だったでしょう?……。創るのよ、今からでも遅くない、創れるのよ!」

「……ぅっぅっ」

「私も、同じ、同じなの! 私だって、偽りの生活だった。あなただって、私を、導いてくれたの。その気にさせてくれたの。本気を見せ合おう、って、陽彦さん、言ったよね? 言ったよね?! 私達は、教え合い学び合って、大切なものを見つけたのよ! そして、あなたが言うように、それを、真波にも……」

「ご、ごめん……」

「……ありがとう……陽彦さん……そして、ごめんね……もう、いいの……私の中で、過ぎ去った事なの……強い風じゃないの……」

「ぁぁ、ありがと、ぅ……」



 僕の、重いなんていうものじゃない、心の圧が、幻を見せるように、体の中心圧にもたれかかる。あま微温ぬる涙泉るいせんの窓辺は、我ががくに眠り、雫さえ落ちようとも、我が胸は、立ち所に拭える。何という、復活。何という、玲瓏れいろうたる慈愛。豁如かつじょたる、君か?……。

 僕の、許し難く消し難い、ふたつの真実を洞察していただけでなく、その上をゆく、雄大無比なる寛容さえ蔵するも、控えめにして華奢きゃしゃな君が、知らぬ間に、僕の腕の中に飛び込んでいた。風の匂いが、途切れない。目の前が湿って、展けない。すすり泣く両肩の、ふるえに紛れんとする裾広がりの頂き、僕の笠雲の下にくらます。告白のざん時雨しぐれ、風の便りを聞いているかの、なだらかな稜線はしずかに佇む。悲しみに敗れそうな、目先の小さな自由に走りそうな、誰にでもありそうな、そのサインは、隙を作っては見せるような、やらかす事に馴れ過ぎている、証しになろうするもの。既に青春の影となったその想い出に、君は鷲掴みされていた。ふけっては泣かされ、拭う事を忘れていた、心の錆がもたらした、受け容れられざる、恨み、嫉妬、嘲言をやり過ごし、今ここに、あるのだ、と。

 僕の為に泣いてくれる君がいれば、ただそれだけで、僕は、もう、立ち止まらない。僕達は、抵抗の汗を、惜しまない。君も、そう、考えているのかい? 僕達は、もう、真に、ひとりぼっちじゃ、ない。さればこそ、僕は……容喙ようかいを、成立させなければならなかった。



「あの、僕ね……」

「ぅん」

「平塚へ、行って来たんだ」

「ぇっ?」


 いだかれたままのかおせの、丸く尖ったあごの矢印が上向き、僕の頬に刺さった。しかし、それを乗り越えられない、驚きを抱き合わせたまなしが、萎んでゆくのが、わかる。再び、なずみの中へ、吸い込まれた。その場所なら、安易な選択ではない、最終的な目的は守られるかの、許される埋没のように、専心のように。


「……ごめんね。他人が、余計なお節介と知りつつ……話が、聞けたんだ」

「……」


「あの……、真波さん」

「……」


「もう……全て、洗われて、気づいて、自分の過ちにも、後悔して、反省して、心を……戻して、もう、誰も恨んでなんか、いない……わだかまりなんて、消えた……」


「ぅぅぅ……」


「君と、和解して欲しい、って、伝えた」


「フッフッ、うっぅっぅぅ」


「回答はなかったけど……最早、今となっては……君と、お父さんお母さんとも……想いは……同じなんじゃないかな?……」


「……」


「それで」


「ぅっぅっ」


「真波さん……四月から小学校三年生の、凪ちゃん、っていう、可愛いひとり娘がいるんだ」


「ぇっ?」


 やはり、音信も風聞さえないようだ。しゅんじゆうんの存在を知っているのは、落ち葉を拾うように、自分で集めたのだろう。


「凪ちゃん。ほら、風の、凪、と書いて」


「……」


「本当っ、渚で生まれ育った女の子、そのまま……」


「うううぅぅぅ……」



 そのままの、小さな小さな、優しく息をする涙だった。



「依津子さん……。僕は、真波さんの話を聞くうちに、彼女の想いが、僕を今まで泣かせ続けて来たそれと、まるで自分の影のように、ぴったり、重なっていったんだ。それは……あの、率直に言えば……何もしてくれなかった悲しみが、友の助けを借りるように……何もしてあげられなかった悲しみを、喚んでしまったんだ、って、そう想った。自分の涙が、自分の涙を、何倍にも大きくしていたんだ。君も、真波さんも、やっと見つけたんだよ。人生は一回しかない。その深い悲しみが、本気の証しが、涙を作る。そこから始まるんだ。それを無駄にしないで。自分を裏切らないで。もう……手離さないで! 掴まえていて! これ以上、君の悲しむ顔は見たくない。一番大切な人を、悲しませないで! お願いだよ、君の本物に、本気に……正直になって欲しい……」



「あの時、もう、いいんだよ、帰っておいで、って……もっと、抱きしめてあげたかったあぁぁぁ!!……」



 ありのままの、大きな大きな、愛おしく噛み砕いた涙が、痛い。さぞ、そうしてあげたかっただろう。そして言ってあげたかっただろう。その君の腕の中で、そっと折り畳まれていた、待ち続けていた愛が、泣いていた。叶わぬ想いに、崩れ落ちて泣いていた。何もしてくれないまま、去っていったあの日のように、君の腕をふりほどき、その隙間をすり抜け、泣きながら、無理解に敗れし愛の風は逃げ惑う。啾啾しゅうしゅうたる哭声なきごえは、僕の腕の中で螺旋を描き、君に巻きつく。反芻はんすうするかのような悲嘆を、てんきゅうさえ、はぐらかさんばかりの一風が吹きつけた。はたと、君は掴まえ髪をなげうつ。その風は、巡り回って通ったばかりの未練風。僕にいだかれた君の腕の中で、最早、胸騒ぎを離れ、奇跡を待ち設けるそのただ中に、無彩色の憂える手は、しあわせの絵筆を求めて彷徨い出す。

 ……時代の波に揉まれるほどに、世風に晒されるうちに……他人ひとの協力がなければ何も出来ない、実力不足を痛感する自分がいただろう。何もしてあげられない自分と出逢ったのだ。しかし、何もしてくれない、わかってくれない想いとは、当然、相容れない。見た目よく取り繕う癖に、歯止めが利かず、悲しくて、立ち止まった。痩せ我慢の作り笑いが寂しくて、ふり返った。歩んで来た道に、足痕をつけて来た道に……何がある? 何が見える? そして、誰がいる?!……。白と黒を混ぜ合わせ、グレーにしたがっているのは、誰だろう? いや、白と赤を持ち寄って、ピンク色にしたいのは、誰だろう? そしてそれが、薔薇色に見えるのは、誰だろうか? その為に、涙を流している人は? 届かぬ想いを、風に託している人は、一体?……。

 誰かの無理解を意地でも越えようとすれば、自分の理解をおとしめてしまう事が、どれほど切ないものか。あまり他者を顧みないようなわがままに裏打ちされた、想いやりを欠く言動の数々に、子供だった自分を、どんなにか、責めざるを得なかったか……。嘲言とは、いずれ自身に弓引く侮辱に過ぎず、青春の良心を蔑ろにしていた証左が、逃げ腰の無言を以て泣かせるのだ。その痛みが、リベラルの美名に惹かれ、過剰に反応しようものなら、ともすると、レイシズムにさえ同化するかの宿しゅくのような……。反省を失った時、ゆく先は、遮断されてしまう。覚悟は、誰の目にも見え、感じられるものなのだ。それなのに、悔しさをバネに出来なかった、言い訳なんて……。

 もう、大切なものが、わかるでしょう? 愛するという事が、見えるでしょう? 守るべき、愛するべき、大切な人が、いるでしょう?……。その人が泣いているなら……自分と同じでしょう? そうでしょう? もう、自分に嘘をかないで。自分の心に正直になって。さあ、駆けてゆけばいい、その、彷徨える手を繋げばいい……逢いたかった、帰っておいで、って……その、その手に本物の愛を込めて、抱きしめてあげて……。何もわかってくれなかった、その人だって、何もわかってあげられなかった人、なのだから……君と、同じなのだから……みんな、そうなんだから……。

 君は、悲しみのてに、小さな喜びを掴んでいる。無念の残映に佇むような、愛するべき人を、見ていた。どうせ、折った筆。今更、折れた筆。それでも、せっかく、生まれ変わったように、違う筆を執ったのだから、せめて、昔の香る、ささやかな新しい笑顔の潤筆を、君なら、きっと、再び……。誰かの笑顔の為に……。

 泡沫うたかたの迷いに酔いれるほど、流したとおぼしき、忘れられた日陰の花屑は、吹きまる。記憶はほだされ、自らが及ばぬ深淵にて、無自覚なる資質は培われる。想いという、言葉という、行動という、形を成して押し出そうものなら、それは、誰にも言えないような、言ってはならないプロセスでしか、なかった、昔。そうして、時と共に過ぎ去っていった、あの人……。愛している、と、今にして気づかせてくれた、あの人……。どんなに謝辞を飾っても足りない、大切な、手離してはいけなかった、自分がよく知る、自分をよく知る、懐かしい、いつも身近にいてくれた……人。

 鎌倉が、悲しい。鎌倉に、寂しく、笑って欲しい。誰もいない、誰も見ていない。しかし、僕達だけ、孤独なしあわせを夢見ているのだろうか? その心はたしかに、しゅんじゆうんで、あった。みんな、同じ夢を見ている。同じ、旅人である。旅人は、風のように、ゆく。風のように……。



 何もしてくれないその人は、

 何もしてあげられない君と、同じ。

 君なら、どうする?

 その人は、何を想うだろう?

 わかってあげられない度に、

 わかってくれなくなってゆく。

 わかろうとする前に、

 わからせようとするから。

 知る前に、知らせるから。

 学びかなければ、

 何も教えてはくれない。

 重ねた年月が、熟してくれなくては困る。

 腐ってもまた、困る。

 土台を軽んじれば、特化した理屈は、当然、

 脆い。

 自分を、騙し続ける事は、出来ない。

 空白は、余白に見せられるものでは、ない。

 内なる火を、穏やかさに変換出来る事、

 それを知ろうとする優しさに、心の花は、

 ふと……自然に。

 人と、いうのならば。



 ……私達ふたりは、坂道の上で、ただ、風のように揺らめいていた。堂々巡りの罪悪感を超え、卑屈と頽廃に流されない、強かな自由の風に。その偶然を、謙虚に感謝出来るなら、差しのべる手は、放っては置かないような。

 きっと、依津子さんは、死ぬより辛い想いをして来たのだ。一番大切にしなければいけない人、あまりに巨大な存在を失い、泣き続けて来たと想う。裏切るという罪悪感は、そのままの形で自分の身を斬り、心が潰れるような、重苦しい荷を背負わざるを得なかったはずなのだ。その上、今日こんにちに至っても尚、謝る事が、出来ずにいる心中を察するに、如何いかばかりか。守るべきものと、自らをじる心は、いつもプライドの天秤上に、ある。平衡を失う事を、許さない。「やれば誰でも出来るんだろう?」なる、いやみさえ引っ込み、ポジティヴから「やれば出来る!」は自然に出る。

 生きてゆく資格さえ、虚しさに流されるかの悪しき夢なら、しかし、だからこそ、君は……君であるだけに……。他者への許しが、そのまま、その形なりに、自らがゆくべき道の選択肢の展がりへ、導いてくれそうな、そんな気がしているような、君の瞳は、何かを静かに読んでいた。他人ひとに厳しく自分に甘い、きょう者の時雨しぐれ声は、もう、聞こえないだろう。本気の汗で創れなかった、人生の悲しみが、もう遅い、本物の涙に、変わらないはずだった。




 






























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