冬の鍵 裸の月

 我らのツーリングは、花水はなみず川を架け渡す高麗こま大橋を、真っすぐ駆け抜ける。今さっきの丁字路から、県道六百九号、公所くぞ大磯線に入っている。左手に、こんもりと小高い、翠蓋すいがいを碧空に翳しては伏せる高麗こま山の、北側の息吹きが急進的に展がる。だが、深呼吸を繋ぐように、長閑のどかな風景はのびゆき、てに霞む富士山のすみれ色の清涼が、空も、緑も、川の水も、じっ一絡ひとからげにして吸い寄せる。濃厚な自然への、畏怖の念こそ、安心なるものを、約束するのであった。

 私は、再び車上の人となった依津子さんに断りもなく、マナミさんと、再会を誓った。もちろん、姉の意を汲んでの事と、自信がある。如何なる経緯いきさつ別離わかれようと、今、ようやく初めて涙に融け出したふたりを、ゆきがかり上、放っては置けない。おそらく、私だけに課せられた使命であると、自分勝手な約束を、反故ほごにしたくなかった。愛するひとの役に立てそうな、献身の予感に、切る風は、冷たく感じない。空山一くうざんいちの如きへ分け入るかの、ふたり旅は、どこへゆく……。

 この道は、どこへ通じているのだろう?……。実の所、私の勘は、彼女を追い駆けるほどに、現実のものへと、形を露わにしてゆくのだった。……湘南の人なら、知らぬ者はいなかろう、相模湾を一眸いちぼうの下に置く丘陵、平塚市管理の都市計画公園「高麗こまやま公園」。大磯町に跨がる、誰しも来た事がある辺り一帯を「湘南だいら」と呼ぶ。そしてここは、恋人達が集う、聖地のような場所として、名を馳せている……。私達ふたりは、安心の中に、本気を見せなければならない緊張が、散見していったと、言い得る。一年の終わりでも、ある。更にそこから、サークル参加者だけに、やはり、並並ならぬ事情。鍵を解いたように明かされ……明かさななければならない、もうひとつの、直観intuite……新たな、約束……。この県道をゆくという事は、そういう事だろう。私は、かつて一度だけ訪れ、何もかも奪われてしまった、あの見晴らしが、彷彿としている。ただ「あゝ……」と言う他、ない、あの……。

 冬草の、硬めの緑のれ音が、二台の動力音をはやしたて、せつつあるやも知れぬ命脈を、なげうつようだ。見えない傷だらけの世界が、風を怖れ、されど、風を、離そうとはせず、乗りかかるばかりであった。たか交差点の信号が、迫っている。青地の案内表示板の白い矢印が左を指し、湘南だいらを告げている。併せる信号も青の、まま、傷口をさらすように。涙を乾かすべく、違う涙のへいしゅつの為に、想い出は、そのままに。依津子さんは速度を落とし、左折のしるしの灯を、点けた。彼女は、今、何を考えているのだろう? 全てが、海の、愛の証しのマウントポジションに見下ろされるかの、遥かなる世界の始まりを、見ているのだろうか?

 スムーズに、左へ入った。常磐ときわむせぶ郊外の間道を、緩やかなカーブのままに、巡る。自然界と文明社会の狭間で、自由にゆき交うを許されたかの、住宅の佇まいが、鎌倉によく似ている。のんびり間合いを取ったように居並び、それでもすぐ両脇から、道を覗く。緑との一体感が、優しい通行を促し、エンジン音をやり過ごす。彼女の前傾姿勢が、その境界へきり揉み、私を追従させて案内する。攻めるでもなく守るほどでもない、二台の車間距離が、さりげなく配置された、街づくりの想いにのっとり、徒らに速度を上げさせない。それもみな、懐かしさの所為せいだった。道の左手に建つ、「いらっしゃいませ、湘南だいら」……の、ウッディーな大看板が、見えて来た。私は、極楽寺の一本道……家々の軒先から、さんと煌めき顔を出す、稲村の海を……想い出さずにはいられず、あの旋律が……躍動の幕を切って下ろす……。依津子さんが、さっと左からふり返って、私を、けしかける。だいだい色のともしのような方向指示の明かりを、左側に翳しつつ、二台はゆっくり旋回して、丘陵の登り口へ進入する。頂上へ至る車両の経路は、この一本だけであり、北麓から回り込むヒルクライムの行程が始まった。

 だんだんと、木洩れ日の隙間を塗り潰してゆく、常緑の潤筆は滴り、私は、いつかの記憶が、彷彿と、アビリティーを主張し出す。短かい左カーブの終わりは一転して、右カーブへ……大きく切り返しては緩やかな登坂を繋き、片側一車線の、山道らしい、小さな半円を描くかのうちに、待ち構える勾配が、きつくなって来た。曲がり切ると、果たして……中盤の長い直線の険し坂、通称「パンダ坂」が、見えない頂上へのびている。野鳥のさえずりと木々のさやぎに、先ゆく依津子さんにしても、焦燥と憧憬の間を往き来する、日常的な疲弊を、今日の再会の、束の間の優しさだけでは、やはり……。見れば、数台の自転車が……腰を浮かせた立ちぎで、懸命に、自分に挑んでいる。あたか蟷螂とうろうの斧の如くであれ……汗を信じて……薄汗を、悲しい涙の卵にしたくない……届かぬ先などない……と、ばかりに……いつまでも追い駆けて来る何かを……ふり切るように……ただ、ひたすら……後ろを見ずに……。

 そして……たとえ、何度寂しさに敗れようと、夢からは、逃れまいと。嘘の証明なる、不幸を、踏み潰すように。このままの今を、目の前にあるものを、手離さなければ、不安は、消えない……と、私達を、牽引する。招かれざる客は、来る。来るべくして、来るべきものは、来る。クライマー達は、汗を絞れぬ、口先小手先その場しのぎの怠惰に、畳みかけるのだ。頂きの向こうに翼を展げる、海が、微笑むうちに。あの日の海を、忘れてしまわぬうちに。

 数百メートルの一直線の先ゆきは、一登いっとうりゅうもん、愛の、豊かなリテラシーが道を開くようだ。やがて展開しよう海原の、狷介けんかいこうな支配にあらぬ、マルチトラック的主義を見渡すかの頂きへは、本気の汗を見せなければ、辿り着けないはずであった。その横を、邪魔しないようにセンターラインをかすめ、追い抜く私達だった。聞こえて来そうな荒い呼吸が、乗り超えるべき何かは、きっと、共有出来る部分もあろうかと、言いたげに。さればこそ、あの、地球の丸さがわかる、望遠との出逢いの感動は、待っているのだ、と。依津子さんは、まるでペダルをぐように、ひた向きにクライマー然として、上を目指す誰彼みな、自らの、のびざかる視程の限りなきを、想い描いているだろう。海神わたつみの歌は、岸辺の自然、街、そこに憩う人々、諸共もろとも、それぞれの声を聞いてくれそうな、拒みのない、温雅なメロディーを、冬空の共振の下、風のように、あるがままに、それだけで……。春になれば、頂上より、道中の桜の方が見事だと、誰かの話を想い出す、私であった。

 右手に、高麗こま山公園、子供の森の出入口で迎える、この坂道の名の由来、パンダ像が見えて来た。可愛い像の辺りの左カーブから、次々と、適宜ブレーキを操るかの、両膝の上下動のないまま滑降する、縦一列の自転車の一団が現れ、彼女と私の直列ふたり連れは、一台ずつすれ違う。帰り道に、満足を落としていった彼等の笑顔を、是非とも拾い集めたく、ふと、空を仰ぎながらの、彼女の表情を想像するに、難くない私とて、応える正直さは、顔に、書いてあるだろう。もうじき手が届きそうな、自信めくものが、確かに、ある。彼女にしても、寒風を物ともしない、何かが。と……左へ曲がった。傾斜が緩まるも、まだ、頂上は見えない。登坂の終盤に入っている。

 難所とも言える場面を、労せずして通り過ぎた私達であった。彼女は、自然さえりょうせんとする、使い方次第では冷徹な、マシーン操作に余念がない。ふり返るべくもなく、樹間から仄見える湘南地方の、一幅にして圧倒される美しきことばに、頼り切りのオートマチックを、なだめられるようだ。


 ……不安なら、その矛盾を何もかも、忘れてしまいなさい……


 海は、隣りに来ている。すぐそばに、いる。一生懸命登らなくても、来るべきものは、来る。風のようなクライマー達が、依津子さんが……いつの間に、家族の声と重なり、歌う……。懐かしいあの頃、離れてしまった昔、ともすると、離してしまった故郷の夢を、語っている、教えてくれている。夢叶わずとも、間違っても、けがれなきを望んではいる。それよりむしろ、叶うまで挑み続けるに、遅過ぎる事は、なきを。長男として、関係を損ねたかの実家、その分厚い扉を……ノックする……。空さえ晴れがましい、でも、言うほどでもない家族のように、なだらかに登り、たまさか体を預けては、想わず内傾しつつカーブし、九十九つづら折れ、ほぼ頂上、高麗こま山公園大駐車場へ到着した。大型車は、ここまでである。半分ぐらいは、まだいている。

 中ほどへ進み、依津子さんは停まった。私は、すぐ後ろについた。彼女はふり向き、大きな声で、

「上、見て来るね、待ってて!」

 あまりの元気さに、私はビクッと違いに気づく。さっきのひとは、うにどこか彼方へ?……それにしても……。ここからも見えそうな、更に狭まるすぐ終点、レストハウス付近の、小さな頂上駐車場へ、ひとり、再びバイクを走らせて行った。少し登り、背中が、見えなくなった。人気の最上部は小スペースであり、満車の場合が少なくない。様子を見に行ったものと、納得した。

 ……やれやれ……とうとうここまで来たか……でも……依津子さんは本当に……。てん蒼生そうせいたる海のてが、現実の目に迫り来る訳ではなく、草、未だ燃え、私を隔てる。にもかかわらず、実にしばらくぶりの、湘南だいらの全方位のパノラミックビューが、や、はち切れんばかりにちらついて耀かがよう。胡蝶之夢の如く、ひらひらと風をはらみ、軽々と舞い上がる。無為自然の夢語りか、物我一体の越境か、全く以て不定形の、企まざる美質の、相互mutual意識awarenessの世界観が飛翔してゆく。じきに、彼女は私の想った通り、跳ね返るように戻った。

「ハァ……。あと三台入れる」

「でも、ここでいいよ。夜景ウォッチャーのみんなの為に」

「うん、そうだね」

「いやあ……流石さすがに、風があるなあ……」

「私は、もう平気よ……。さっきはごめんね」

 ヘルメットのシールドの奥のまなしが、ほっと息をいた。

「ぅ、うん」

「じゃあ、バイクは上だから、レストハウスの前で待ってるね」

「うん」

 私達は、ようやく、ともな会話を成立させたようだ。彼女は回れ右して、再び頂上駐車場へ向かった。自動二輪専用の駐輪スペースは、最上部にある。私は、この大駐車場の空き車室へ、前向きで駐車した。すぐさま、依津子さんをフォローし、私は歩いて、同じルートを少し登って行った。

 ……展けゆく……全角度オールフリー、360°の視界と共に、一歩ずつ、体が釘づけられるような、言うまでもない私……へばかりではないアピールが、湘南丸ごと使って畳みかけ、人々の肉眼を呑みに呑む。えんの音は風になる。人体の細胞を洗いたてる。見下ろすマクロの視点から、しゅんを掴んで突き抜ける、インプレッションの波動囂々ごうごう。始まりし、リプライ。生まれし、幾つものフラグメント。積み重なる経験値の相似形が記憶をほだし、忽ちにして、疾風に勁草けいそうを知るが如く、新たなる生命体は息吹いた。ゆくほどに、強かな風はこうまみれ、煌めき架け流れ、殷賑いんしんのど真ん中で、私は不意に、蘇る、ある想念に憑かれていった。


 永い間……自分の真実に向き合わず、留守をするうちに、いつか……そんな私がいる家にさえ、向き合ってくれなくなってしまった、海が……あの日の海が……私の方から手離したのに、忘れようとしていたのに……。


 今しもあれ、時を超え、こんなにも、美醜調和に治める。光同塵こうどうじんたる海神わたつみは現れたかの、流れを筆海ひっかいを開かんとするような、その化身に見えて来る、日まりのひとは……待っていた。大広角の遥遠の境に、ぽつり、ばんりょく一紅いっこうおやは、想い出のこう澡浴そうよくに、ひたすらそぼつ。雨過うか天晴てんせいの笑み、曖昧色の寒空に、それでもさんと滴り、我れ知らず再再溺れるは今度こそ、恵風けいふうちょうの気、きよき。ヘルメットを脱ぎ、風になびく髪から口のへ、私の目を探らせ、連なる言葉の飛び出すを想わせて、いささかも枝垂しだれず。精一杯の背のびをした、小高いおかの外れから、蒼蒼朧朧そうそうろうろうたる、際涯なき宙返り、夢見鳥どもの海渡りは、度重なるフライングにもくじけず、しんに、風と共に浮上した。それでもまだ、寂しくて救われないなら、このテイクオフは、全てを、ふり出しに戻すだろう。自分の喜びをひとり占めせず、次代へ回すべき、家なる概念、生き遺る為のランディングの翼は、どこへともなく……ただ……消えがての、まま……。



 このままでは……という不安に支配されている時……寂しさに敗れそうで……そして……わかっているはずだ……。目的とモチベーションは霞む。だから……グレーの自分に、強くあれ!……そうそう、上手くゆくはずがないのだ……。決して懐疑主義ではなく、漫然たる不安に、負けるな! 誰でも普通に出来る、一番大切な、自分を難しくしない事、窮屈にしない事が出来ないなら、その、違和感に。たとえば、こんなふうに、時々、海を眺めたりして……。「あれもイヤ、これもイヤ」を、嫌がらぬ他人ひとが、どこにいる? ……永き道ゆきを、後ろ向きの、クレームの旅にしては、いけない!……元気よく、手をふって、上を向いて歩こう。こうして、上を向いて……。



 さて、どうにかこうにか、やっと、ばったり行き合った。ニコニコ弾けつ、私を迎えつ、

「ねえ、展望台へ行こう!」

「うん」

 早速やっぱり、彼女の賑わいだって、そこからだ。理解するに、余りあり過ぎる笑顔が、眩しい。ふゆなたより光はるとも、また、る。本当に、大丈夫かな?

 レストハウス館内に入り、エレベーターを待つ間、私は、トイレへ行った。すぐ戻ると、依津子さんは、熱を冷ますように、辺りを流覧している。ここの空気は、オーシャンテイストに包まれた、手づくりの清涼感が、この土地っぽい。ならではの割り切り方が、あちこちから匂いたち、隣りに並んだ私とて、想い出すべくして、想い出すもの全てが、たまらなく懐かしい。……扉がひらき、ひと組のカップルが降り、私達ふたりは乗り込んだ。ふたりだけだ。また閉じ吊られ、三階へ昇ってゆく……

「私、本当っ、久しぶり」

「二回目だよ」

「へえぇ、来た事あるんだぁ」

「まあね。蘇って来るよ」


「フフ……」


 何か、やけにニヤニヤしている。どういう意味? ハァ? そして三階に到着し、開かれた扉から……押され乗り移るは屋外の、南へ惹かれ、歩き出したふたり連れ……


 たった今の「フフ……」という、一枚のことばが、やかましいほどに、かい蜃楼しんろうのプロセスをおだて上げ、私達ふたりの、風をはらんだ瞳の帆を上げ、胸一杯その気にさせるべく、襲いかかって来た。風光ふうこうぜつたる西せいしょうの、汀渚蒼氓ていしょそうぼうの空撮画景に、私達の、とどめようのない溜め息は、疲弊と怖れを退しりぞけた。海を眺める人のまなしは、みな満帆。順風だけを、待つ。鎌倉からやって来た冬の翼どもは、この瞬間の安堵を、今だけでは足りないと、声にならない声にまで、感動を引きのばす。風は張り上がり、弾ける手前で声になる。吠えるように、歌になる。海の歌声だった。海の寝息かも知れなかった。熟眠と薄眠の真ん中で、稲村のとお眼鏡めがねでは敵わない、見果てぬ海の、蒼狼そうろうのバラードの如くを、ふたりして聞いているのだ。夢見鳥の翼は、両肩をてんきゅうに浸そうものなら、一遍いっぺんに翳してばたいた。生きる為に、生きるべくしてかいしょうことばを掻き集めた。瞳は煌めきを見つけ、拾い上げれば気息を通じ、波を作っては人の瞳へさかのぼる。こぼつ光に風吹けば、海のおもて十重とえ二十はたに新しい。止まぬなら、止むまでの間中あいだじゅう、次々旅立ち現れることばの端くれは、また違う。またしても、やはり、違う。されば抑揚は旋律を編み、こだまするが早いか、懐かしいあの日の、あの人の顔が、風船のように、海のへ帰るように、抜け出して来たばかりなのに……私達を後にして、風と光と波に消えてゆく。その軌跡を追う翼は、涙模様の奇蹟の中で、きっと、愛の境涯へ、辿り着いたのだ。生きる為にゆくなら、生きのびるべく、降りたのだ。汗すれば、汗を収める時は、必ず、来る。それは、汗を拭い切れぬほど汗した時に、訪れるだろう。夢見鳥は、まだ、夢の中に、いる。

 依津子さんの横顔を、風任せの髪のアジテーションが、時折ふうっと止まったように諦め、煌めきのシェルターへ閉じ込める。切ないしなづくりは、私をときめかせる。刹那に生まれし、たまさかのせきりょうに、その、しなれた正直者どもの情けの陰なら、彼女の涙は、最初はいやでもいた。いつ戻って来るかわからない、我が家の安寧の如きは、またたくうちにさらわれ、光もまた、決心がつかぬそばから引きずられ……。わがままな風の態度は、それにしても、強い。

 ……抽斗ひきだしの、ぐうへ弾かれ掃き遺る、追憶の欠片も忘れ物。薄汗ついでの浅き眠りに、「創るは自分、使うも自分」の、うろ覚えの譫言うわごと命短いのちみじかし。覚めやらぬべくもなし。されど今、いつかの遺り、融けほぐれ落つ、涙の雫ひとすじの辿り痕は、虚しくぼうの雨打ちぎわに呑まれていった。私も、泣いている。ふたり、静かな涙だった。本物の、それら、本気の汗は、深き眠りを約束するかたわら、まさしく夢見し「創るは自分、使うは誰か」の為なれば、かの夢、発露を免れない。彼女も、私も、強かな風に、想いの全てを預け、寒そうで、寒がらない。寒いけれど、さらでだに、数え切れぬ、無限大のことばが燃えていた。想い出が、燃えるように泣いていた。マナミさんも、崖下のお父さんお母さんも、そして、私の、市川の父と母、家族みんな……。夢遥か、天翔あまがけるほど、感動が馳せ、のびさかるうち、忘れ得ぬことばだけで、今の想いをつづれるのであった。


 フフ……


 あっ、そう。


 どうして?


 それで?


 それから?


 だけど……


 だから、


 それなのに……


 やっぱり、


 嘘でしょう?


 それでもいい……


 嘘でもいい、嘘であって欲しかった。涙なんか、大切にしている言葉を、奪うだけだから……。まるで嘘のように、美しい海だった。今、「愛してる」と「ありがとう」の陰で、そのひと言が言えなかった「ごめんね……」が、泣いているから、この海を、「美しい……」と言えぬほど、私達は胸をふるわせていた。誰かの愛と、誰かの感謝に、誰かの後悔は、涙の中で、救われようとしている。神の如き仁愛の海を前に、言葉など、必要ないかも知れない。ジョーカーを切るような、罪深き、逃げ腰紛れの棄てゼリフ……「フリ」や「トボケ」なんて……。海の真意に、人たらしめるプロセスもまた、ある。悲しみも、寂しさも、笑顔なら韜晦とうかいし得る、許されよう、それら、みな……。私は、どうしても……おばあちゃんの、最期の生きざまが、忘れられない。全てが、万感の、



 ありがとう……



 その、交換であった、と。

 そして、宙を彷徨い、途方に暮れる、



 だって……



 最後の想いは、風になる。とても繊細だけど、つよく、暖かな、無数の弦を爪弾き、奏でられたメロディーに乗って、どこへともなく。自分自身と、もしかしたら、いや、間違いなく、目の前にいる、誰か。目の前にいるように、連れて来る、誰か。目に浮かぶ、誰か。忘れようとしても、忘れられない、人……。人ひとりの代わり身、同じような、同じと想いたくなる存在は、有形無形を超え、記憶と現実をも超えたとしても、愛だけは、超えない、超えられない。坂道の家から望む、稲村の海の続きを、その先を、ここ湘南だいらなら、眺められる。辿り着きたくて流離さすらえど、見えなかったものが、風にがれ、風になれば、今、見えている。ようやくラストに辿り着いたのだ。最早、これ以上は何も超えられないとわかったのだ。こんなにも目の前で溢れ返って塞ぐもの、それが……もう迷わない、真実の愛なら。最強の一枚のカードを……信じたい、信じるべきなのだ。そう想える人が、この海のように、この地球上に、一体どれだけいるだろう? どんなに輝いているだろう? この星は、ただ、美しく、ただただ、素晴らしい! 言葉を失う、これほどまでに。風と共に帰って来た、想い出をちりばめ、涙を集めた煌めきの揺籃ようらんみたいに、あの日の海が、微笑んでいる。返事は、要らない。



 あの人の声が、聞こえるかい?



 それは、誰?



 元気?



 どこにいるの?



 今、何してる?



 今すぐ、



 逢いたい……



 逢いに行くよ。



 待っててね。



 私達は、いつだって、待っているよ……



 涙のあたたかさを、教えてくれた人。



 自分を守る為のプライドが、涙になる事も。

 


 天高く、

 あの人へ、届け!

 どこまでも、飛んでゆけ!

 逢いたい人を、愛する人を、連れて来い!

 


 君の「フフ……」の意味が、私の中で、確信にすり寄りたがって困っているのを、当の君は、わかるかい? この、一抹の不安をし挟んだ、嬉しい悲鳴を。まだまだ寂しい。まだまだ喜べない。そんなふたりは、風の中で、耳を澄ませるだけだった。れない涙は、冷えた体を火照ほてらそうとして、退こうとも、しない。



 真っすぐ口に出して、言える。

 最後の想いは風になり、涙になって帰って来るのだから。

 


 ……天秤。片や、自分のプライド。此方こなた他人ひとの大切にしているもの……。時の悪戯いたずらは、壊れそうなシーソーゲーム。「創るは自分、使うは誰か」の為に、平衡を失いがちの、うぬばかりを新しくする約束は、たとえ過去に泣こうが、笑顔を現実へ送り返し、大人となって帰還する。錆つきを知らせる「フリ」と「トボケ」は、真っすぐな「愛してる」「ありがとう」そして「ごめんね」に弱かろう。冷めた涙を呑む前に、もう二度と、軋みは見逃すまい。江ノ電が、街をゆく夢を見ているのかも知れない、依津子さんの頬は、まだ、小々波さざなんでいる。洗いたての顔が破れ、喜びが、小川のようにささささやと伝ってゆく。涙さえ、色を変えていた。いつもより綺麗な女の人は、新しい。昔を、乗り越えたのだろう。私も、そう、ありたい。あれから……黄昏たそがれの窓辺に置かれた、釣り合い人形のように、いつも寂しかった、虚ろな、私。誰かを笑顔に出来なかった時間は、戻らない……。大切な人で、さえ、



 だって……。



 折しも、じんは火に触れる。風、未だ黙らず、煽り止まず、蹴散らしまかり通ればひゃくせつとうは鳴り響く。並びし我ら冬影に、ぶつかろうものなら、人の想いは顧みる。心燃え、心そばだち、真っすぐにあり続けんが為、誰かの為、それからの自分の為、威風凜然たらしめるべく、かの誇り、かの意地、つむじ曲がらず。


 その声が聞こえる。


 その声が泣いている。


 マジョリティーを気取り、逃げ腰のよろいの重さに舌打ちする、悲しい宿しゅく


 コンプライアンスの弱体化を危惧して置きながら、他人ひと瑕疵かしあげつらう、被害者の仮面。


 いつも犯人を探している。


 自分を疑わない。


 錆びが喚ぶもの……おのむなもりの優しさに……。


 光にほだされ、猛り、時に乾き、季節の風はまた、輝いた。されど時雨しぐれに濡れ、ふとうつむけど、くじけど、いずれまた、そのうちまた、すぐにまた、潰えてしまいそうな魂は、隙間を忽ち埋め尽くし、ほむらの如くその身をこす。何度うなれようが、どれほど泣こうが、何度でも、何度でも、すり切れんばかりに、人心へ叩きつけた。

 ……真っすぐな、風。ゆけば、山は、ある。挫折は、来る。立ち止まらず、向き合わず、けるようにそのままゆこうものなら、曲がる。ゆくほどに、また、そのまま曲がってしまえば、誰だって、道はわからなくなる。ここはどこだろう? どこにいるのだろう? どうして……ここまで来てしまったのだろう?……。先の為の汗は、いずれ今を楽しくする。今の為だけに限られた汗は、もう頑張れなくも、なる。何の為に、誰の為に、汗は流す必要があるのか? そして、自分自身というっぽけな存在とは、一体……私は、誰なんだ?!……。

 真っすぐな風は、風任せのようで、どこも風任せではない。それが、想いやる風の真意なのだ。誰かの為に、誰かの悲しみの為に、逃げ込んで来る、やり場のない虚しさの為に、癒しながら満たすべく、ゆく先を翳すべく。そして尚の事、逃げ続け、くたれし傷深く、破れた心の、ひだに手をかけ包んで待つ。とがめも拒みもせず、一瞬の手さばきにもせよ、不意に、風はひと息、ふた息……のばして黙り込む。まるで自らの役目を終え、見届けたように、しかし気まぐれ顔で、そよともしない凪まりに、私達を落とした。

 ……しんとしている。嘘ではなかった。風の嘘が聞こえなかった。人ひとりを鞠育きくいくする為に、音に聞こえぬ、姿に見えぬ、必要欠くべからざる慈愛のこころが、日陰の如く、今は何も言わず、しずかに身を退いたのだろうか。出過ぎず、遠慮深い清かな余情が馴染んでゆく。潔く、音も姿も消した時、風は、もう、いない。風、なのだ。見せかけの優しさではない、見せかけの風任せは、再び他の誰かの為ならば、そのぽっかり空いた夢の跡に、新たなる何かの予感さえ……。依津子さんも、目に見えぬ空白を満満と詰め込まれ、畳みかけられてはいたのだが、風ならば空のように、何もかもが許せそうな、そんな顔をしている。風が通り過ぎた後の、街の余白は、綺麗になった抽斗ひきだしの奥のように、持ってゆき場所がない、誰にも言えない感情を、受け容れられる。風だけが、だから、それが出来る。曖昧は曖昧を喚ぶ。それだっていいじゃないか。泣き疲れて、ふと、こぼれた、彼女の笑み……。私、も。


 やり切れない想いの為に、再応の、風立ちぬ。自分にじない器へ、自分を丸く治めるに、この上なく、自然を感じる。不自然な偽りと矛盾が、どこかへゆきたがっている。プライドに相応しい道を探す、青春。沿える根拠を見つけた時、出逢いを求める。こうして、果てしない海を眺めていると、何かに眺められている気がする。途轍もなく、大きな。そして、隣りに、君がいる。君のそばには、いつも私が、いるべきだろう。いてくれる人同士が見つめるものは、こんな、海の如き以外に、何があろう。風さえ輝いて見えるのは、ふたりの証しであった。君が、眩しそうだ。私が、君を見るように。それしか見えない、その大きさは、抽斗ひきだしの奥に入るかな? 大切にしまって置かないと、時の風にさらわれる。勝手なもので、正直、これでいいとは想っていない。トラウマだろうか? 気を使い過ぎて、考えなくなってしまう。汗は、諦念と小さな喜びのいざないに敗れ易いものの、プロセスに用意するエクスキューズは守り、いずれにせよ、涙脆い。本来の目的に緘黙かんもくをちらつかせる、甘い雫、時雨しぐれ、放ったらかせば錆びを喚ぶ。愛と頭を使い、考えなければ……。時の風も、自分次第だ。

 今ようやく、器を綺麗にしてくれた、光る風に、素直に照れるばかりの私達だった。



「好き……」



 彼女は、私を見つめていた。風で隙だらけのそれぞれの抽斗ひきだしに、その言葉はしまわれ、合鍵をかけた。「好き」と「隙」が埋め尽くす施錠であった。もし嫌いになれば、隙間なく、閉ざされてしまうのかも知れない。再び世界が、描き切れないコンプレックスに。……ミラーの境涯に切り取られた、マナミさんの枝垂しだれ姿が、私の筆に成る、よう窕淑ちょうしゅくじょの気韻を纏う。依津子さんもふり返るほどの、最前の佇まいは、きっと私達の、視線をぎ込まれてはだけてしまった、不図はからず。エプロンのよろいの裏の、しゅう閉月へいげつであったろう。ありあまる最後は、ゆき詰まっては、いない。ありあまる……無言と、制服を脱いでこそ、眠っていた、最後にありあまる、本当が……。エプロンを外した、マナミさんがいる。再び、そんな彼女に逢いたいのは、依津子さんも、同じようだった。遠い目を、している。



 好き? 誰を?……。



 私も、君が、君達が、好きだ。






 依津子さんと私は、二階の、展望レストランに来ていた。

 こちらも、地の食材を豊富に使ったメニューが評判の、湘南だいらを訪れる誰もが立ち寄る人気店である。年末にもせよ、ハイカー達の姿も多く、家族連れやカップルで盛況だった。巨大平面レンズの望遠鏡を覗くように、懐深き相模湾を一眸いちぼう千里。それぞれのこうさんしょうと共に、食べつ語らえば、今日の寛ぎは、永く心に遺るは必定、来た甲斐を裏切らない。リピーターは増える一方であろう。生真面目な海が、カジュアルに迎えてくれる、それは、束の間、風を暖かくやり過ごす、明る過ぎるノスタルジアであった。私は、前回同様、サンルームの居心地に、ひと息はひもとかれ、くゆり出している。硝子が隔てるきわの席で、依津子さんとて、透き通るゆき止まりにわだかまり、荷をいたように、安堵して椅子に身を預け、薄笑顔がねぎらう。軽い食事を済ませ、ふたつの、アイスコーヒーのタンブラーになかだちされ、互いの無拘束を、まだ、取りたてて言うほどでもない会話の中で、うべない合っていた。夕方まで、少し、早い。


 私は、人目、場所柄にかかわらず、想い切って、聞いてみる事にした。隣りは空席、声のトーンを控えめに。

「あの……」

「うん」

「マナミさん……妹さんでしょう?」

「ぅ、ぅん……」

「何があったの? 話せないなら、それでもいい」

「……」

 しばし、ふたりの沈黙が流れるも、咄嗟の予約の、即座の履行に過ぎない。来るな? と、来たな! の完成による。真面目と真面目による。されど目は、私の正視と、彼女の、ふし

 だが、依津子さんのまなしは、決心に彩られ、しんを成すような想いが、込み上げる。

「あのは、駆け落ちしたの……」

「……」

 彼女の目のサインは、正確だったとはいえ、それ以上の衝撃はカバーし切れなかった。致し方のない私は、つまずく。先刻の再会の、その処し難い重さに。私の就職の件どころでは、ない。遺された者の悲しみが、再び、せきを切ったように……市川の家族の顔までも……。ふたりは、長考の見晴らし台へ投げ出され、絶景を前に、観想低語の徒と化した。

「ごめん……無理に言わせて……」

「ううん、いいの、このままで、いい」

「ぅ、ぅん」

「もう……十年ぐらい、前の、話。当時、姉妹で、あの駅ナカの店に勤めていて、私は店長のしたで、主任として、切り盛り一切の勉強中だった。商品の安全管理。売り上げ傾向と在庫とのバランス管理。本社への発注。そして、スタッフさん達のシフト作成、ケア、教育。その他、本社への連絡義務はもちろん、私、新商品開発ミーティングにも、よく、同席させて頂いてたのね」

「ううん」

「仕事仕事で、精一杯だった」

「うん」

「マナミも、頑張っていた。いつも、サポートしてくれた。でも……」

「……」

「力及ばずというか、個人成績はかんばしくなかった。店舗の売り上げ自体は、決して悪くはない。ただ、目標設定が、高過ぎたのかも知れない。やっぱりどうしても、私もマナミも、家業を守る為に、常に自分の殻を破りながらも、古さに期待する部分は遺してゆかないと……」

 自身のうなずきから、間投詞を奪われた私を、さっきの彼女の先触れのままの目は、まるで確かめるように熱を帯びている。悲しげな、光が宿っていた。

「そのうち……売り上げが落ち込んで来たの。立地は申し分なく、事実、夏場は飛躍するけど、季節のばらつきがないにも、かかわらず」

「……んん」

「あの頃が、一番大変だった。あのも……」

「……」

 話のゆくえが、仄見えていた。依津子さんは私を慮るかの、大きな句点を打ちつけるように、寸時、間合いを取った。私の、鼻から抜ける息が、静かにそれを読んでいる。互いに微動する瞳の、すがりついては重なる一瞬が、逃れられない時のいざないをうべない合っていた。すぐにでも逸らしてしまえど、また戻ってたしかめる。離れても、追わずとも、真っすぐな目は、そこにある。そこに、帰るのだから。

「そんな中……ある日、マナミは家へ帰って来なかった」

「ぅぅん」

「当時、あのは、おつき合いしている彼がいて、家へも連れて来て、両親と私へも紹介していた。でもね……」

「ん、ん」

「お父さんお母さんも、私も、あまり……いい顔はしなかったの」

「反対、なさっていた?」

「う、うん……言いにくいけど……」

「そう」

「マナミが言うには、ふたりは、将来を約束していて、彼の実家の仕事を、一緒にやりたいって」

「ぁぁ、まだ正式に、彼から話はないんだ」

「うん、そう。私達は、やっぱり、家業を継いでくれとは言わないまでも、このまま一緒にやってゆくものとばかり想っていたから……」

「ううん、それは、難しい事に……」

「『鎌倉からは離れない!』って、言っていたのに……」


 それを、深く残念に想ってしまった後悔が、このひとの、スティグマ……。


 私は、そう考えざるを得なかった。やはり、青春のてつは、可及的速やかに消化するに限る。探しあぐねるベテランの彼女を、想像したくない、引きずって欲しくない。私によく似た、それを。

「急な事だったから、当然、家族だけでなく、社内でも問題になった。私は、片腕をがれたような……。父と母は憔悴し、本家からは心配よりも、やがて不信の目が向けられていったの。私達家族は、もちろんマナミを必死にかばった。私の、自慢の妹だったから……」

「うん」

「世間様への手前、警察の力こそ借りなかったけど、仕事しながら方々探して回った。信じ切っていた大切なものが、一気に崩れてゆくようで……でも、泣いてはいられなくて……」

「……何て言っていいか……」

「そんな生活がしばらく続いて、私、疲れ果ててしまった。あのが出て行ったのも、何か、私の所為せいみたいに想えて、自責の念というか、駆られるように……。目標に向かっていちであるという、私の信念さえ、過ちであったと……。ただ『頑張れ!』と励ますばかり、願うばかりで、妹の心の声に、想いを致していなかった。もっと……話を聞いてあげるべきだった、と……。更に不運は重なって、こんな時に、父の病気が……」

「ええっ?!」

「早期の、大腸がん……」

「ああぁ……」

「不幸中の幸いというか、たまたま、会社の健康診断の内視鏡検査で、疑わしい病変が見つかって、後日、切除して頂いて、組織検査の結果でも、やはり……」

「あっ、そう! 予後は?」

「食事や運動はもちろん、ストレスを溜めないように気をつけて、お酒も止めた。頻繁に検査しているけど、今の所、一度も」

「ううん、よかったね」

「ぅん、ありがとう。でも、本社勤務の役員だったんだけど、早期退職して、仕事は引退したの。やはり、心労による衰えには、勝てない、って理由で」

「う、うん」

 崖上からは、とてもそういうふうには見えない、私であった。高見家の抱える事情が、勝手な想像をけしかけて来る。

「お母様は?」

「ぅん、ひと回り小さくなった気がする」

「ぅぅん、皆さん、大変だったね」

「ぅん」

「それで、カウンセリングに?」

「うん。何かを掴みたくて、色んな事を試して来た」

「そうだったんだ」

「私は、善かれとして、何も悪い事をしていないのに、悪者になってしまったような、罪の意識が芽生えた。そして、その私の罪の陰で、マナミの、家を放り出した罪が、見過ごされている、と、どうしても抑えられない。消しても消しても消えないの。消えてくれないの! あのを……許せなくなっていった……」

「……」

「こんなに頑張っているのに、なぜ、上手くゆかない? 報われない? 後始末はいつも私ばっかり。誰も、私をわかってくれない。みんな、自分勝手! って。本当は、私だって、私だって……」

「誰にも、言えなかった?」

「ぅん……。さっきも、一度手離して、この十年、途切れたままの、マナミの価値観……あれからのゆくえが、怖くて、居たたまれなくて、飛び出してしまった……ごめんなさい……」

 依津子さんの敗れし悲しみは、窓の外を駆け巡る蒼海そうかいを引きめ、ふり返る小々さざなみが、ほんのり、目の岸辺へ寄せていった。海の如く深く、想い出せば今でも、ささやきは一韻到底にして蘇る。同質同等の私達の傷痕を、図らずも見つけたように出逢ったなら、遮るものは、悉くが、虚しい。

「僕も、家族との関係に悩んでいるから……辛いよね……。わかる……」

「……」

「でも、今にして想うんだ。時間の経過って、あながち、そればかりでは、ない、って……」

「ぅん」

「サークルのお陰で、やっぱり……依津子さん! 君の存在が、どんなにか、僕に、勇気をくれたか……」

「ぇっ……」


「君が、好きだ」


「……」


「こんな男じゃ、しょうがないと想うけど、力になりたい。今度こそ、頑張れそうな気がするんだ。本当に……」

「ぅん」

「僕も、実家との関係を修復する。必ず、する。だから……君も……」

「うん、ありがとう……」

「僕の方こそ、どうもありがとう!」

「フフ……」

 私の、人生初の、告白であった。あまり切れないペーパーナイフのような、響きかも知れないにせよ、本気のそれに、彼女のおもしには、仄明かりが灯ってゆく。格好悪い格好よさを褒める少女と、得意がれない少年の、似た者同士のじらいが、海の観覧席を爽やかに包み込んだ。少女の抽斗ひきだしの出し入れが、自然な笑顔を咲かせようとすると共に、ある。真っすぐたるべく、いつもの真っすぐが戻りつつ、ある。目と口の端っこにも、光は、おもむろに及ばざるはなかった。花は、花であり続けるはずのプロセスを想い出すまで、そう時間はかからなかった。そして、マナミさんより、他ならぬ依津子さんのゆくえこそが、この問題を、決めると、私は、想う。


「私ね、風の便りで、マナミが平塚ひらつかで、カフェを営んで暮らしていると、知らされた時、そして、その店の名前の、しゅんじゅうん……初めて聞く言葉の意味を、知った時……胸に刺さっていた氷が融けてゆくような、救われたような……とても、嬉しかった……。私達と同じ想いだったんだ、また、以前のように、許し合えるかも知れない……って……」

「ぅ、ぅん」

「家族なんだから、たったひとりの、可愛い妹なんだから、忘れようなんて、そんな事……永遠に、無理……」

「……」

「妹は、想いを遂げたかっただけ。当時の私には出来やしない、自分で見つけた愛を、貫いた……。私は、目的に縛られるばかりで、忙しさにかまけて、あのの真意をすくい取ってあげられなかった。その上、面従腹背の裏切り者のように、恨みもした……。大した事も出来ないくせに、全部、マナミの所為せいにしてしまった、自分が、悔しくて、虚しくて……。追い詰めたのは、私……。マナミも、そして、自分さえも……。みんなを守れなかった、私が、悪いの。本当は……あなたは悪くない、何もしてやれなかった、お姉ちゃんが、悪いんだよ……って、抱きしめてあげたかった……。お姉ちゃんより早く、愛する人と一緒になったんだから、あなたは、偉い、って……言ってあげたかった……。許してくれなくても、いい。ごめんね……って、ひと言、謝りたかった……」

「マナミさん……。ほどけるように……綺麗なひとだね……」

「あれから……はぐらかされてばかりだと諦めていた、あのの回答が、こんなにも……色んな想いを集めた上での、通り過ぎてこその、この今の輝きが……眩しくて……」

「うん」

「私に、過去の全てを再び吸い込ませる、あの目の弾力に……敵わない……」

「……」

「泣きじゃくっていたけど、私に、見せようとしているの……私には、わかる……。涙の陰で、自身の本質に気づいている、過ちを理解している。花のような笑顔のはかなさ、さればこその、謙虚な感謝、誰しもが、持ってこの世に生まれて来る、小さな聖域サンクチュアリ……。たとえ他人ひとのそれであろうと、血の繋がる家族であろうと、そして、自分自身なら尚の事、頑なに、大切なものは、守る、という事を。はなばなれになってしまった、今だから……もう動かしようがない、今だけど……せめて、せめて……過去の自分に、そう言い聞かせながら、生きて来た……。あの目が、私の目を掴むように見て、言うの……。『幾ら本物のふりをしても、集めた悲しみは、騙せない……逃げられなかった……。どんなにおこられても、何回挫けても、その度に泣こうとも、夢を諦めなければ、辛抱出来る。ひとつしかない、ひとつしか見えない、頑張りを……。世の中の所為せいじゃない。私という時代も、気まぐれな波風の覆轍ふくてつを踏んでしまった。時のてつ悪戯いたずらなら、風の功罪のように……だから……その最後にあった、笑顔に、辿り着いたんだよ、お姉ちゃん……』って、瞳が、言っている。嘘も、いさかいも、憎しみさえ、全ては、誤解……治らなくてもいい、甘く見逃せる、ほんの、ささくれ……。ねえ、陽彦さん。私達は……どうしてそんな事に、こだわっていたんだろう? どうして、素直になれなかったんだろう? そんな、ボタンのかけ違いぐらいの事、なぜ、許せない?……家族なのに……そんな事、どうでもよかったのに……そんな事……どうでも……」

「ぅん」

「遺りものなんかじゃない。遺るべくして遺った、真っすぐに流れる涙で……」

「正しくて、真面目なら、やっぱりどうしたって、強い……。信じる、と、いう事が」

「……」

 窓辺の席を、ふたりの無言がさらう。依津子さんは、おそらく、先刻、バイクのミラーに飛び込まれた、そんなマナミさんの、あたかみょう稽首けいしゅの如きを、想い浮かべていようか。私と一視同仁のそれは、ほんのりそぼつ目の小々波さざなむ、甘美な夢をいざなわずには置かず、愛惜の雫を知るほどに、私達の眺望はしずかに霞んだ。遂げられず、見失っていた、岬への坂道の上にある、家。そこへ至る、道。忘れようとしていた、昔。それでも忘れられなかった、昔。変わってしまえば、忘れられただろう。苦しまずに済んだだろう。移ろう時と共に、変われるものと変わらぬものが、あるだろう。変わりようのない想いの周りで、目に見える、変われる形ばかりが、慌ただしく変遷を繰り返し、ふるい落とされる。想えば、あの風が流れるように、悠久の鎌倉の街の横顔が、いつも洗われたように、水々しい懐かしさを伴って語りかける。ストローをついばむ、彼女の唇を、氷が融けるように、髪の幾すじが散らばり落ち、口めをする。風の歌を聞かせる為に、アイスコーヒーと共に、時は、言葉さえ、呑ませにかかる。

 いつかの海が、西倒にしだおれの銀光に疲れたのか、ベッドへ身を放り投げたように、平らかな黄昏れをし始めていた。見渡す限りの煌めきの点描は、今日もあともうひと息の、汗の含羞に、朱を仄めかしてゆくだけである。雲流れの擦筆さっぴつは気まぐれ、せきしょの如く、しゅんじゅうんの寂寥をしたため、遠く、いななく。込み上げ沁み出る、冬の駆歩は早く、繰っては繰っては暮れるべくして、日は、年のゆき止まりに至らざるは、ない。如何いかんせんの日は、そう想うほど、きたるべき日を、年跨ぎで用意するかのようであった。ここまで来れば、最早、急ぐ必要はない、誰も捕まらない海が、見える。誰もいない海が、見える。眼下を架け渡す、緩緩ゆるゆると胸を張って前を向く、誇らしげな西湘の四衢しく八街はちがいには、もう、誰も……


「それを誇れるぐらいなら、それは、感謝すべき事よね……」

 時に、依津子さんの瞳は、閃く。

「うん、そう……そうなんだ。感謝出来るんだ。僕は、言葉は悪いけど、畜生! この野郎! ばかりだった。そうじゃないんだ。それは違う。拡大解釈のよろいで、自分を守れるか? 真実を欺けるか? その燃え遺りの怖さを、わかっているくせに、このままでは……いけない、という不安を、甘く見ていた。行動出来なかったんだ。プライドの先にあるものを、遮った。その先にある、後になってやっとわかった、ありがとうと、ごめんなさいしか、ない事を……」

 海の返事は、光だった。

 寒空に洗われ、何者とて恨まない、光だった。

 黄昏れて、あしは早い。もう往っていいかい? と、遠慮がちにつぶやいた。

 くれないの光だけが、届き、遺る。

 情熱にしか、見えないように。

 自分に正直であれば、

 決断も行動も、

 早いように。

 余計な言葉など、

 はさむ余地もないように。

 ただ、ひたすら、日は、ゆく。

 ゆける所までゆくはずの、日が、ゆく。

 それまで、日は、沈まない。

 永遠の日が、ゆく。

 ゆくと決めたら、日は、死なない。

 ふたつの海が、見えている。

 小さな喜びを、ぽつりぽつりと集めた海が、遠いてで、輝いている。

 今だけの喜びを、急いで掻き集めた海が、岸辺で、過去をわらっている。

 先の為にある汗のように、小さな喜びが輝いている。

 今に獅噛しがみつくように、その場限りの喜びが泣いている。

 共に、喜ばしいはずのものだったのに、どうして、違う?

 我慢するから小さいものと、我慢出来ずに走ったものは、先のサイズが違うのだ。

 頑張ったのか?

 そう言えるのか?

 集めて来たものが、中身を変えてはいまいか?

 今、この時……


 縛られてはいまいか?

 自由で、あるか?

 誇れるものに、

 心からの、

 ありがとうを……贈れるか?……。


 

 

 寂しさに負けなかった海が、胸を張り、優しく微笑んでいる。誇るだけならプライドにあらぬような、柔らかな光が、あかねしては海の背にのびてゆく。




「大切にされなかった私って、大切にしないからよ……ね。不幸って、みんな、そう……嘘つき……」




 君といると、しあわせ過ぎて、私も、そう、想う。過去の自分が、よくわかる。悲しみの涙の、すみが。そんな家は、どんな家、だったろうか。想い出すのが、辛くなる。喜びの涙と、同じ、その、家、を。今のこの涙の味を、忘れてはいけない。色んな味がする涙から、風は、吹くのだから、忘れては、いけない。これから、大切にすればいい……今度こそ、大切に。世の中に存在する……酒と、涙と、恨みと、嫉妬が……簡単に結びつかない事を、願うばかりである。嘘さえ、なければ。小さな光さえ、あれば。喜びは、少しずつ積み上げるもの、無理をして、慌てて喚び集めるものではなく、走らせるべきではない。消えないように、急ぐのではなく、消えてしまうから、いつも心に、ほんの、日まりを、灯したい。

 ……恨み心や無力な心は、人間の免疫抵抗、健全な精神と肉体を裏切ろうとする。自分をだませるプライドは、生命力を、奪うだけである。悔しさにも限度があり、明らかにゆき過ぎであり、バネの曲解もはなはだしい。怠惰と併せ、しあわせになる為に、あってはならない、要らない。挫折から雪崩れ込んだ、恨みと、絶望。人を憎むより、明日を棄てるより……笑いたくもないのに、無理をして笑おうとする方が、どれほど……人を救うだろう。人間らしいだろう。人を愛する事の意味を、人の存在価値を、そして、人間の生命、ひとりひとりの尊さを、どんなに……教えるだろう。いては、地球上に宿る、生きとし生けるもの、悉くを、慈しめるだろう。棄てるものが違う。諦めるものが違う。失くすべきとわかっているものが、どうしても失くせないなら、それが、ラストなのだ。その山を超えてくれ。その山から逃げないでくれ。私は、経験上、偉そうな事は言えないが、それでも、言わせて欲しい。悔し涙や虚し涙で見つめる方向を、誤らないで欲しい。悔しさに手を焼いているなら、虚しさを拭えないなら、そのあり方に、気づいて欲しい。心から、そう、願う。たとえバカと言われても、格好悪くても、少しぐらいみ出しても、作り笑いでも、涙が止まらなくても……寂しさに負けず、どうしてもそうしたかった、深い想いを果たすべく、本気の汗や、切ない我慢を、捧げ続けた自分の歴史を、忘れないで……無駄にしないで……。今の自分の汗が、涙が、夢を追い駆ける為のもので、あるなら……本気以外に、何も、見えないなら……。

 私達ふたりは、夢への最短距離に、いる。真っすぐな、道である。海の真ん中に、のびている。せいぜい考え、愉しんだあかつきに、塞がれず、のびゆく道に。愛されたいと願うあまり、時に、人は……愛し方さえ……。自分の汗によって、しあわせを創っているという誇りは、だませない。たとえば家族のそれなら、家族を。自分なら、自分を。






 私達は、何年かぶりに、背筋を叩かれるようにあごを上げ、遠走る落陽にいだかれていた。窓辺の長居を辞し、再び三階の展望台にて、風頼みの、近朱必赤きんしゅひっせきの洗礼を浴びている。世界は、一日の進退きわまり、むち打たれた雲流れは、痛みの曲想を練り上げているのか。さらでだに寂しい時の下、一入ひとしお逃げるは遥かなるうちらに、一睡の夢の喜びが仄めいていた。侘しいほどに、安心を求めさるはなかった。依津子さんのしずかな半面像が、私のかたわらに、ある。その、細身の輪郭が、暮れ合いに照り映えている。しなやかで美しい身ごなしの漂流を、見届けた風は、しゃの如く、同じ形に似た下弦の月を、早まろうとする東の闇空に翳し、かけていた。全てが黄昏れ、翼を休め、風だけが、命脈を繋いでいる。風にさえ自由にさせて置けば、生命のさんぎょうを我が物にする事が出来る。知らん顔をしていながら知らしめた、たとえばこの、今日という一日の中で、別離わかれと出逢いがすれ違うかの、二度とない、目も綾に翻る時間を、ふたりして、ただ、眺めていた。ひとつが終わり、区切りにある。その安堵に、またひとつが始まる、いや、胚胎しているからこそ、はずかしくて、言葉が、出遅れていたのだろう。彼女の髪が、絶えず私の目の前をかすめ、触れそうなほどの躊躇ためらいが、それぞれに用意した言葉さえ、くらましてよかったのかも、知れない。

「私の湘南だいらの夕暮れは、いつも素晴らしく、寂しいな……。しばらく見ていなかったけど、やっぱり……このまま、自分が消えてしまいそうな気がするの……」

「うん、僕もだよ。でも、今日は、月が引きめているみたいだ」

「フフ」

「そう想わない?」

「そうだね」

「これから、また、何かが起こりそうと言うか」

「うん」

 彼女の横顔の向こう、暮れなずむ全円光源は、奥床しくしゅうれんされ、夕空のキャンバスに、消えがての篆刻てんこくを押しつける。遠い夕日のキスに浴するような寂想が、涔々しんしんと、黒光りの革の、痩身曲線を際立たせ、まばゆほそおもてひとは、胸一杯に、深く息をしている。絞り出したまま錆びついたような、悲しい色を知ればこそ、昏天黒こんてんこくの闇を超えられる。ての暁光に辿り着けるだろうと、遥かなまなしを、ふうっと、馳せていた。逃げる必要に迫られていた、私。故郷を語れず、帰れなかった、私。スティグマに、自分を追い詰めていた、岬への坂道の、あの、家……。今、何を語れ、どこに、帰れるだろう……この夕日のゆく手、彼方に、風の饒舌が浮かび、こだまが、途切れない。想い出す度に辛かった、誰かの笑顔が、さっきより、昨日より、昔より……優しいのは、風の、所為せい?……。

「ねえ、陽彦さん」

「ん?」

「今日は、本当に、ごめんね……」

「いやぁ、いいんだ。お互い、よく似ているなって、わかったから」

「うん」

「もう、大丈夫?」

「うん。それでね……」

 依津子さんは、くるりと、私に背を向け、胸のジッパーを開けて、中をまさぐっているようだった。すぐに、満面の笑みを連れ、こちらへ向き直りながらも、後ろ手に、何かを隠しているぐさを、私は、見逃さなかった。可愛らしい身ぶりに、笑顔は盾ともなれば、その企みは、私を、甘い罠にかける。小さな意地悪が、ふたりの間を近づけるはずの、小さな期待に、私達の回答は、ぴったりの黙笑を、いつにする事……以外に、ない。

 彼女は、左手を前に回して、ずかしそうに、

「これ……」

 ひらいて、見せた。私は、

「ああぁ……」

 ほぼ、言葉を、放棄せざるを、得ず、忽ち火照り出す顔を、悪戯いたずらっ子のまなしが、覗き込んで待っていた。若かりし頃の憧れが、現実のものになりつつあると、黄昏れにいだかれ、ふと、ふたりのシルエットは、ゆうっくり、心が、折り重なってゆく。その、掌に収まる、真っ赤なハート型の南京錠は、オレンジの光波に撫でられ、U字にかける銀の曲線が、もう耐え難い想いの満を辞すように、染み過ぎた深い光の色彩を、反射していた。かの、有名な、それ……

「さっき、買ったの」

「ぅ、ぅん」

 ここ湘南だいらは「愛の南京錠」発祥の地と言われており、カップルの聖地として、実に名高い。私は、込み上げる喜びにせ返った。その反応を見つめる、依津子さんの瞳の灯と、南京錠の、銀の円柱の曲がりに引っかかるかの、不揃いの放射光が、なぜか、不意に私の中で、螺旋状の反影を落とした。喜べば、少し、心配になる。少しだけ、悲しいのだ……。辺りを見やると、沈みゆく日に入れ替わり、架け渡り奥まるばかりの夜のとばりに誘われ、あちこちでさえずり合う、男と女の一対いっついは、どれも等しく、隣りとの間隔を保っていた。なるほど、いつの間に、恋人だらけになっていた。すぐ東側にそびえ立つ、紅白に塗り分けられた、鉄のテレビ塔の脇にも、展望台がある。まばらな街灯の下、時は、黄昏れを一枚、剥がすほどに、いんの手並みをも、含蓄に富む、種々の遠回しの光に濡らす。その身は着膨れ、押し迫っては包容し、東西に横長よこながの丘の頂上は、すいしょく冷光れいこうの、幽暗の眠りに落ちるのが、早い。

 依津子さんと私を、沈黙が包み込む、この時間、行客の目は移ろい、ひとつひとつの家が、我が家の夢を見ているような、やはり広く知られる、西湘地方のなだらかな夜景にあった。夢巡りの嬉し涙が、大地のベッドに、遠く、懐かしく、静かな寝息の明滅をちりばめ、にもせよ、消えはしない。宵のうちからまたたき出した星映えの、落屑らくせつあま打ちぎわは夢語り。ひらいてつたなき、てんを幕としようものなら、地の席たる輝きこそ、さやかにして可憐、そして、慎ましい。夢の語り部の謦咳けいがいに接する時は、束の間、師のこと泡沫うたかた、塗られ洗われちりあくたを脱ぎ去り、生まれたての彗星すいせいの子らは、今はそっと、地にっては静まり返る。その機を、待っている。その機を……。それは、もしかしたら、大切な人のかな時雨しぐれかも知れない。私には、そう、見える。もう大丈夫な依津子さんが、こんなに近くに居てくれてさえ、私の怪しさが、彼女に仄明かりを灯し、微笑みとて、かすかに妖しい。牴牾もどかしく見つめ合う、私達ふたりの陰で、黄昏れは暮れ、残照の時が訪れていた。日は黙ったまま姿を消すも、雄弁な遺産たる、夜はしとどに濡れてゆく。濃くなろうはなに、ある。街の煌めきは、天馬くうをゆくが如く玉響たまゆらの、ロマネスクな眠りに就いていた。何か、価値あるものの涙に、ともすれば大きくなりそうな、不安を覚えているのだろうか?……。

 まだ、私達の言葉は、喚ばれるまでもなく、風、いよいよ以て寒走かんばしり、暗さだけを知らせる、海のおもてに沁み入るが早いか、共鳴り、誰かを喚ぶ声になる。久しぶりに、この場所を訪れていた、冬の翼は、敢えなく、先を越されてしまった。郷にっては郷に従い切れず、その、言葉にならない、歌にもならない、されどきっとどこかで……聞いた事がある、声の主が、遠々しい記憶に触れて来る。見えずとも、輝いていた。何度耳を疑おうとも、聞こえる。


 ……ひとつ、ふたつ、三っつ……。


 指折り数えて日を繰るうち、幼なき兄弟姉妹はただたわむれ、それでも小さな心と体で、一生懸命に何かを見ていた。何かを知りたくて、何かを知ろうとして、そして何かになりたくて、早く大人になりたくて……背のびをした。時々、鏡を見ながら、こう、つぶやくのだった。


 僕という、私という存在は、一体、誰なんだろう?……。


 見えない海が見たかった。暗い海でも見たかった。大人の真似をして、美味しいものを美味しいと言った。いけないものをいけないと言った。怒られても笑っていたけれど、笑ってばかりでも怒られたけれど……大人になり、今、こうして、我が一眸いちぼうが、溢れ返るほど満たされる、無数の小さな輝きの息づかい、消えてしまうかも知れない、その、ひとつひとつさえ、あの日のように感じられるだろう。待ち遠しい一日一日の中、


 明日は、どんな一日になるんだろう?……。


 かつての自分を、今も大切に出来るなら、期待と希望の誕生を、鮮やかに想い出せるだろう。小粒でも、美しいものは美しく、さんと輝く。たとえそれが、棄ててしまった何かの、価値あるものの涙で、あったとしても、あまつさえ、社会的信用のそれで、あったとしても、プリミティヴな始まりの光は、時に迷いこそすれ、永遠に途切れない。終わらない夜はなく、日の光はありがたく、幻のようで幻ではなく、心の中で生き続けている。それを受容するに、象徴的な機縁に、今こそ際会しているに他ならない。焔々渺々えんえんびょうびょうたる燎原を焼く、小さな星どもの宵の仕業の夜景が、目から心を撫でさすって、離れない。夜の光の匂いが、足下から這い上がって来るより早く、下弦の冬月とうげつもまた、侘びしくっては息をく。畳みかけられぬ身の程と釣り合う、星の投降に教えられ、あるいは漆黒の中天にとどまり、あるいははかない抵抗の落屑らくせつなぞらえ、けだし、か細きしゅうの片割れともなり、三日月を描きととのえて見下ろす。自ら失いし分身の如き、地上の輝きを、中宙なかぞらにかかる星映えと共に、遠く、黙って見つめている。あの時、なぜ、棄ててしまったのだろう? その光は、今、どこでどうしているのだろう? そして、古い絆の順風は、いつ、吹くのだろう?……。今を大切にしているなら、わかる。誰かを本気で愛しているなら……いつか、きっと、わかる……。

 小さな喜びにこだわり続けると引き換えに、自らの社会参加の説得力は、寂しく泣く。風向きは変わり、集め過ぎた心模様の色合いも移ろい易く、怖れ、背中を見せ、風当たりとて……冷たい。

 ……いつしか、

 まばらになっていた雲流れが、ゆく手にある。この夜が、やがて訪れよう、早暁に呑まれようとも、時のふう雲湧うんゆうに耐え、いっそ連れ添い、どうせ星は待たず、せめて月もまた、見えない心の日に跨がれ、ゆく……


 風向きを変えてしまった後悔に、心の鏡は正直だった。自分で風を起こすんだ。その風が、順風に変わる時を待つんだ。その機を待て。その機をとらえろ。その機を、のがすな!!


 私は、想わず、

「三日月って、衣を脱いだみたいに、しなやかだね」

「じゃあ、この夜景は、天から降って来た、衣の名残りかも……」

 当意即妙の問答に、間合いは無用であった。私は、

「この夜景を眺めていると……光は、家から始まるんだなあって……」

「うん」

「古い話だけど、亡くなったおばあちゃんが、昔から、よく『唇に歌を……』って、口癖のように言っていて、いつも鼻歌交じりだった。即興で、おもしろい歌を歌っていたよ」

「ハハハ、へえぇ」

 ふたり共、グラスの水が溢れるように、声を出して笑いを注いだ。彼女のまなしとて、咄嗟の追従にあらがえず、楽しさを瞳の光で支持している。私は正直な口で、更に手引きしたくなった。

「その心が、今、よくわかるんだ」

「うん。やっぱり……」

「……」

「その光は、家に帰るんだよね……」

「……」

 ふたり重ねた無言は、わかり切っている、迷えるかつてのクローズのサインだった。無言以上の心が、ざわめく瞳を伏せがちに合わせれば、しっとりと、折り重なっていった。

「私は、その手前で迷っている。帰りたくても、帰れない、そんな……」

「僕だって、そうだよ」

「……」

「でもね、迷うからこそ、その手前で、光を見つけられるんじゃないかな?」

「ぅん」

「どんなに小さくても、光がやっぱり光なら、始まりが途切れていない事、最初から、繋がっている事、ふと、忘れてしまっただけで、小さいだけで、ずっと、んなじだったんだ……という事が、わかる。諦めた訳じゃない。負けた訳じゃない。失くしてしまった訳じゃない。家で生まれ、今そこにある、同じ小さな光を、ただ、誰だって育てたいはずだと想う。古いものが大きくなれば、それらは全て、新しい。新しいようで、中身は変わらない。始まりは、変わらないんだよ……。必ず帰れる。きっと、戻れる。光は戻って来る。少し見失っていたのは、ほんの小さな影の所為せいなんだ……本当の迷子なんかじゃない……君はさっき言ったよね……自分自身が見つけた、小さな光があるじゃないか……」

「ぅ、ぅん……」

 依津子さんの白皙はくせきおもしが、清淡せいたんよくな月露の如く、しなに濡れていた。包むにえない黒革の分別が、探しあぐねてラインをカーブさせている。その背中に手を回した風は通り過ぎ、私は、そういうメッセージにけしかけられるも、まだ、無反応だった。彼女を、また、泣かせた。

「僕達は、今日、小さな光を確かめ合った。ほら、今だって、こんなに……本気で集めたから、夜景は涙のように、どうにもならなくて、美しく見えるんだよ」

「ぅん」

「……ごめんね……言いたい事、言っちゃって……」

「ううん、その通りだと、想う」

「暗くて見えないけれど、海は、一杯の、グラスの水からだよ。君が微笑む時、光が射して、果てしない海になる。同じ、水だから……」

「ぅん」

「ならば、帰って来るさ……君のように、光は、風と共に、海を連れて……。ねえ、覚えてる?」

「ぇっ?」

「今更……」

「ぅん」

「もちろん、後出しジャンケンみたいなものでもない。本気なら、常に、新しい。いつも、始まり。みな、それぞれの中で微笑んでいる、あの日と、んなじ」

「う、うん……」

「汗と涙も、んなじもの。汗の色で、わかる。涙の色で、わかる。自分の取って来た行動の意味が、次の世代を見た時に、すぐに、そう、なる。こんな事、言える立場じゃないけど、ごめん……家って、そういうものだと想うんだ……今……」

「……」


「悲しい歴史を、繰り返さないで欲しい……。君のお陰で、僕は、自分の光に真っすぐでありたいと、想えるようになったんだ。だから……。僕も、必ず、期待に応える。約束する……」


 暗い海が、月光の下、私を奏でる。

 好き?……そういう自分が、やっぱり君が、好き。

 嫌い?……そういう自分が、嫌い。そういう君を、私は、嫌いになれるかな?

 好き、という感情を超え、たとえ嫌いになってしまったとしても、離れられないもの、それが、人生を大きく占める、家族、なるものである。離そうにも、離れるはずも、ない。離すだけ、無意味である。今、心に、誰が、いる? 真っすぐで、いよう。真っすぐで……。最大の自由、平和は、愛に始まり、好きも嫌いも、風のように、超えてゆく。海が微笑むように、煌めく。地球は、かくも美しい。永遠なれ……心よ……ありがとう……愛よ……もう、離さない……。憎しみが、憎い。愛が、愛しい。愛を持っているのに、なぜ?……あの時……。

 ストレス。恨み辛みのそれは、仕事のそれをひと呑みにする。険し坂を越え、今のその山以上の、裏にで、引き返せない。片道切符を書き替えるも、棄てるも、持っている、わかっている、愛、次第。越えられぬ山を、越えてしまった時にこそ、最強の一枚が、あるじゃないか……失くしがちの、それ……。出来るだけ、持っていた方が、いい。他者へストレスを投げ過ぎない時、懺悔の証左ともなり、存在理由は、本物の意義を、真っすぐに取り戻すだろう。

 そして今、ふたりのこの至近距離に、手をかけようとしている冬の翼は、必然の勇気を見つけたのかも知れなかった。日まりはうになくとも、月が何かを仄めかし、育みゆくただ中に、欠け崩し落つ汗のように、ささら明かりは、吐息交じりで煌らかだった。月が、幻冬の閑暇をこそ射んと欲すれば、一も二もなく、まず彼女を以て緩やかにうねらせる。我が身の裸心をさらすが如く、月は弓を引くほどに、真白き流跡をとどめし黒衣のひとは、柔らかな体側をかがめつのばしつ、月影巻き込む端からはぐれて浮かび上がる。り抜かれた夜のとばりは、しなれた人形ひとがたかたどる鍵穴。依津子さんの存在価値は、私の中で、下弦の三日月の生けるけんと化した。その鍵の穴から天を覗くと、彼女の掌にある、冬をも繋ぎめるような赤い南京錠が、月の微光には敗れそうになって、薄靄うすもやがかかるを許しては、痩せ我慢をしている。見つけた勇気を知らせる赤が、寂しげに濡れ、息をしていた。きっと、今ここに誓うべき決心が、棄て難き昔の影に、最後の別離わかれを惜しんでいるのだろう、と、私は想いたかった。さればこそ、その鍵は、二度と壊れない、く事が出来ない宿命さだめに戸惑い、泣き濡れ、私達の涙を、許したのだろうか。その鍵をかけるのは、生きている鍵たる、彼女の仕事だった。月にほだされ、限りなく架け流れるいんさえ閉じ込めよう、冬の約束は、やはりのしあわせの涙を待ち、偶然なんかには負けはしまい、狭からぬ、強い自分を夢見ているに、違いない。冬の鍵は、裸の月の、その形のままに、眺めの限りのロマネスクを夜空へ架け、星どもさえ、ゆく手の露を払わんとして、かえって残屑ざんせつ象嵌ぞうがんに及んでいる。風に光は涸れ、匂やかな渇愛もまた、かすれてこそ密かに、美しき夜のセレナーデだけ、底に溢れて流れのままに。許し過ぎるものと、許されざるもの。月の満ち欠け見下ろすは、人の想いの丈を映す天響の鏡の如く。けだし、弓張りの弦月は、愛に泣こうか泣くまいか、しずかな気息に身の置き場所を見つけていた。

「マナミさんと、和解して欲しい」

「……」

「僕も、君の会社に、お世話になりたい」

「ぅ、ぅん……」

 白皙はくせきの露わな弧月は、しかと孤月の風韻を踏むに相応しかったものの、耐え難きはせきを呑み、瞳だけが、私にすがる。しかし、柔らかく包み隠そうとするそばで、その時を得たかのように、そう見える悲しみは、心を移す。月は欠ければ涙一滴、最早、甘露な雫にして冴え、蕾の喜びはおもむろに立ち込め、つづまる所、ふたりはや、酔う。わかりわからせるまでの刹那に、まだまだ、てらいをす。それは、私にしてみれば、たった今、時を併せて閃くものが、あったから。言えるまでも、なかった。新たな、決意であった。今度こそ、かつて数え切れぬほど、そうして来た、言葉ばかりの徒爾とじに、決して終わらせはしまいと、固く、月に、誓う。弓形の月暈げつうんこそ宙に舞うなら、おぼろな想いもまた、白紗はくしゃを纏ったおやいだく、月下美人の花影の如く妖妖。神々しいまでに白暈しらぼかした光の中で、黒尽くめの彼女は、ミニマムな笑いを咲かせながら、ようやく眠りから覚めゆく。

 

 ……目覚めては、誰がいる? 誰に起こされた? その少女は、寝惚ねぼまなこの君のかたわらで見守っていた。寝起きの愚図りを心配するのは、お姉ちゃん! あなたの役目でしょう? お姉ちゃんなんだから……。


 君とんなじ顔をした、年下の少女が、笑いながらおこっていた。おこっていても笑っていた。よくケンカはするけれど、すぐに仲直りが出来るのは、いつもそばにいるから。いつもそばにいるから、鬱陶しくて、すぐにケンカをする。あれほどおこったのに、言いたい事を言ったのに、いつの間に笑っている。いえじゅうみんなで笑っている。昭和四十年代で言うなら、テレビを点ければ、バカボンと仮面ライダーとドリフターズの時代、笑うな! と言うには、相当な無理がある。西からおひさま昇るもんか! 東に沈んでどこ行くの? 子供にとって初めての、ナンセンスとの出逢いは衝撃的、一生忘れられない。そんなふうに、いつも笑っているのが、当たり前だと想うしか、なかっただろう? そして大人になった今、バカボンのパパはもちろん、ママの偉大さが、心を掴んで離さないだろう? 虚栄は嘘の母なのだ。


 誰だって、喜びは、しあわせは、いつも隣りにいるんだよ。笑わせてくれるんだよ。いつまでも、想い出に遺るんだよ。大人になっても、ずっと笑っていたいと、何事も、頑張れるんだよ。だから本気で、人を、愛せるんだよ。


 もし今、笑えないなら、その小さな始まりを、想い出せばいい。出来る事なら君のそばに、連れて来ればいい。それが難しいなら、また君が逢いにゆけばいい。その始まりは、人の形をした、涙であったと、きっと今日より、わかる。人は元々、心の生きもので、あったと、昔のように、深く……。

 

 涙が涙である為に、誰がどれほど悲しんだろう。悲しみが悲しみである為に、誰がどれだけ泣いただろう。悲しみは、誰の為に泣いたのだろう。悲しみは、誰の為にあったのだろう……誰の為に……。誰の為でもない。誰の為でもない。もう、悲しまなくていい。もう、悲しませなくていい。悲しみが、どこにある? 誰が、泣いている? ほら、笑っているじゃないか。笑えるじゃないか。やれば出来るじゃないか。もっと笑って。もう一度、笑ってみせて。たとえどんなに悲しくたって、笑っていられるじゃないか。やれば出来るんだよ、出来るんだよ。ならば、そこから始めればいい。自分の可能性を信じる事から始めなければ、しあわせとは、巡り逢えない。誰だって、いつでも笑顔を忘れなければ、きっとしあわせは訪れる。自分から微笑みかけるんだよ。君が、招くんだよ。そして……さあ! いやな事は忘れて、これからゆっくり、話をしよう。君の話が聞きたいんだ、聞かせて欲しい。しあわせに相応しい話で、もてなしてくれるよね。でなければ、幕は、上がらない。みんな、帰ってしまうよ。


 喜びが、喜びである為に、笑顔は、あるんだよ。涙だって、あるんだよ。素直にもてなして、誰かを、しあわせにしてあげよう。それは誰? どこにいるの? その人が、きっと、君を、しあわせにしてくれる。みんな、寂しいんだ。待っていたよ、って、迎えてくれる。喜びは、素直に。でもね、悲しみは、控えめに。それが、笑顔だろう? 自分を守ってくれる、最も身近だから温かく、柔らかな、目に見えない、本物の、よろい。現実逃避は、何も守れない、紛い物に過ぎない。逃げるより、心から、笑え。逃げるなら、本気で、笑え。

 そう、想うんだ。本気で笑おうとするあまり、涙が流れてしまうのは、君の本心、君の真実、君の信頼、君の希望、君の、愛……。君の最も身近にある本物で、埋め尽くして欲しい。人生は、本気を育てる坂道。君は、よく、知っているよね。一度、本気になったものを、簡単に、諦められるかい? そこだよ、それなんだよ。正に熱中、まさしく情熱、これぞ継続、好きなものより、いいもの。今のままで、いいのかい? 家の玄関を開ければ、その道筋が、目の前に、あるじゃないか。登ればいい、揺蕩たゆたうように登ってゆけば、いい。大切な想い出と共に。愛する人と、共に。光は微笑み、風が背中を、押してくれるだろう。あの海へ、向かって。

 依津子さんの、瞳を灯す月光の涙それこそ、ぬるむ季節を先取らん、幼なき春疾はるはやに倒されそう。白々と、溢れて呑んで揺らぎは止まらない。されど光の巡りは先刻以来、承知、されば感情の内海うちうみは凪にあるようだ。そのたけなわの証しが口元を浸し、表情はまず口角から、忘れかけていたしあわせを、まなしへ届けるべく想い出していた。もう、悲しい涙ではない。しおれ泣いてばかりはいられない。泣き笑いはおもむろに、清々しい気韻を醸していった。冬乙女のたおやかな下弦の月は、まだ降り止まぬ、日向雨にそぼ濡れ洋々と、夜空の原へ遊びづる。その光は、率直な喜びが出来上がりつつあり、私のそれを知るように併せ、むしろ、私に裏切らせない涙ながらの本気を、真っすぐに射しかける。積年の悔しい長雨が、上がりつつ、ある。道づれの、このままでは……の憂い雨が、終生、降り頻り、風向きが変わり、今更……本気の汗など通用しないと、嘆かせないように。言うまでもない、互いの真剣な目を見つけ、寸分たがわず重ね合わせるまで、そう、時間はかからなかった。余裕の間合いさえはさみ、ふと、落ち着くふたりであった。何かを数えている、彼女が、いる。

「私も……約束する。ごめんなさい、心配かけて……」

「それは気にしないで。それでね、あとひとつ、頼みがあるんだ」

「うん」

「どうしても、その前に、やりたい事がある。もう少し、時間を下さい」

「わかった。どんな事?」

いずれ近いうちに、話すよ」

「う、うん」

「お願いします」

「……」

 いや、依津子さんは、数えているのではない、読んでいる。このままでは……の憂いのサインを、もしかしたら、かばえるかも知れないと……。予感と闘っているのか? 緊張と闘っているのか? 本当の事を言わないと、大変な事になりそうな、そう、本気という、予断を許さない手強さと……。愛する事が、怖そうに見える。裏切りを、案じているように見える。本気故のはかなさが、許されぬ寂しさと、満たされぬ悲しみを用意して、大きな事に比肩する、大きな憂いだけはかばえると……小降りの雨声あまごえは語り、大きな涙を自由にはさせない。その素直な表現は、快速球にあらぬ、謙虚なストレートで打ち易く、けなな球筋に、私は、騙されてもよかった。嘘泣きでも逃げているのでもなく、今は知らん顔をして、内心、騙し騙しなだめていようか。風前のともしが、企まれた凪に、ひと息の安堵を込めていた。そうするうち、時間を数え始めたようだった。

 突と、はだけるように再びおこり……衝動の炎上、一文字の素朴な燃焼が、彼女の瞳をめてゆく。中宙なかぞらの月こそいよいよ、躍起になって諭しにかかって鍵と化す。火色の涙のふるえ、小刻みては揺れ尽くし、旅心をいざなう、綾成す遠眼鏡を覗かせたいのか、私へ、一歩、枝垂しだれて踏み込んで来た。白くなだらかなおもての山並みは、風にあずかるまでもなく、涙の匂いをいただき、ふゆがすみともなろうほどに、時ならぬ、時を読み終えた再びの、強かな空の幸、手応えの目のさやを切って降り出した。共にあと一歩の空間に、深々と、し挟まりつつなかだちの、月光のしおりさえ、最早、数えるしか、術が、ない。



「私、気づいた。最後の大きな自由、本当のしあわせは、本気をこよなく愛する事に……。初めの、小さな自由ばかりにこだわっていると、大きな愛の体力は奪われる、逃げてゆく……。人を傷つけた分だけ、風向きは変わるように、人を、ありっ丈の大きな愛で包んだ歴史もまた、同じ事を、繰り返す……」

「……何かを想い立っても、支えに成長してくれるものが、永く存在しない想いや、大切な何かを失くしてしまった想い、その空っぽな心に、ひと摘みでも、愛があるなら、救われる。受容という地平に、静かに着地する。運命も、過ちも、ブーメランも、人だから、人を、許せる……」



「……」



「人は、憎しみの中で生きてはいけない。僕は、最期に、折り鶴を拵えるように、愛する家族へ感謝しながら……生涯を終えたい……」



「何かにつけ、そんな事、やれば誰だって出来るんでしょう? 自分はそういう事はしない、やっても意味がない、やる気がない……それじゃあ、何も動かない。それじゃあ、今の自分に何が出来るの? 何をすればいいの?……わかっているくせに、ズルイよね、私」



 小さな事など気にしない、最後の自由を本気で集めているような、いつもの彼女が、いた。

「今日の話は、他の誰かに、言った事はない?」

 私だけのシナリオが、男の翼の表面に、驚きを映させない。一から十まで、このひとは……。男の筋書きが、降って湧いたように、早々に輪郭を描き出していた。納得をちりばめていた。が、大切なワンピースが不十分、まだ足りないものが、大きな壁に突き当たった。それは秘密裏に……棄てようと今、正にもがいている、嘘……最後の、これでも私の精一杯の、優しい嘘であった。怖れと申し訳なさもまた、ラストに居たたまれない。私にしか出来ないだろうという想いが、嘘の必要を迫って詰め寄り、私の今日の再三の涙は、泣き過ぎて、あと遺り僅かの今を、それでも切り離して尚、紫吹しぶく。今ならたしかに言える、もう幾度もの本気の色を、また、知ったのだ。見えない色を、知ったのだ。その色は温かいと言うより、悲しいほど熱く歪んでいた。玉石混淆のプリズム光は歪み色、掴み所なき濃淡に、私は不安でしかなく、錆だらけのうちなる矛盾さえ、煽られずにはいられず、語ろうものならどうにもならなかった。信じるだけだった。それを遺してしまった。……涙が、一面を埋め尽くしていった。本気の回答で、あった。

「うん」

「そう……」

 美しい小々さざなみが、私の目を、人肌の温情で塞ぎにかかる。最後のワンピースが、やはりの確認と共に嵌まり、シナリオの構想の完成は早かった。まだ私しか知らない、私だけのもの、今日に限った自分勝手な納得を、集め切ったからには、南京錠の赤い輪のようなアウトラインが、彼女と共に、私のラストを喜びで包みおおせた。臆病な虫を中に閉じ込め、男の涙は再び待てない。彼女と同じ、視覚の不規則な歪みに溺れようが、遅れじとばかりに、忘れられそうなもうひとつの同質同等、ふたりの間をなかだちしている、月影寂寂さびさびと降りる、波の煌めきのしおりは、あまりに小さな限界であった。ふたりだけのはかない秘密のしおりの如くを、依津子さんも憐れみ、泣いていた。気づいているから、泣いていた。駄目かも知れないとわかっていても、そうするしかないとわかっていても、愛の後ろ影が、私達ふたりに見せている、最後の選択たらしめる以上、今、それぞれの心の中にある全てを、どれほど小さく、どれほどひとつに、纏め上げなければならないだろう。ひとつという、真っすぐという、これで終わりという、想像を超えた大きさを、どうすれば、掌に乗るような、抽斗ひきだしの中に収まるようなものに、創り替える事が出来るだろう。必携のふたりぼっちの旅のゆくえに、これから大きくばたかんとする以下を排した時、目的は成る。ふたりの理解とコンセンサスの程を、小さく閉じ込めたかの、その鍵が、依津子さんの指と、かすかな月光に薙ぎ倒されていた。南京錠が、何枚かのメモ書きの綴じ紐を、今か今かと待ち焦がれているように、光って見える。私だけの秘せるひとり旅が、壮途に就いた。無事、早く帰れる事を、祈った。


 妹は、どう想っているのだろう?

 そして、

 今、見つめ合う、君が……。

 もう、辺り構ってはいられない、重ね合うしずかなえつを、そばから剥がすように、何もかも乗り超えてゆく。何もかも美しく、言葉さえ奪い去り、忘却の彼方へ……。様々な、許して下さい……が、嘘も矛盾も憎しみをもひと呑みに、支え与えし包み込むは、天網恢恢かいかいの如く、あった。たったひとひらの喜びの為に、どれだけの汗が流されて来た事か、それだけは頑なにひとつ遺らず、繊細に柔らかく守る、温かな母の手であった。

 私達ふたりのに纏わりつく、悉くの誤解が、ひとひら、また、ひとひら……見届けこぼつ涙とてなぞらえようほどに、なよ竹のとおよる如く、心と心は、一歩、足を送り合う。しおりにしても、引き退さがらざるを得ず、釣られ引き離す涙暈るいうんの、ひとひらの度、忘れようとする、またひとひらは連なり、いつかの後ろ影が、それを引きずって現れる。今、ふたり一緒に、あの日の、傷つけし過ちが、消えがてであった。剥がされた裸の月が、寂しく見ている。かすれた風が、悲しく喚んでいる。鍵が、赤い顔をして、消えてしまえ……と、泣いていた。許してくれ……と、尚、ひとひらの涙に託していた。それぞれの真ん中、こんな近くに、鍵さえ、ある。固く閉じ込めるようにかけ、ふたりして、誓うべき時に、ある。ひとひらを、消す為に。忘れ難き挫折を、消す為に。そして、小さな喜びを、もっと集める為に。今度こそ、微笑みのひとひら、を。依津子さんは、その鍵を見てうつむいている。私は、ただ、想っていた。彼女の瞳に満つる、下向きの償いの寂しさをこうするままに、それを知るだけに、涔々しんしんと積もりゆくもので、命題の意識が、待つまでもなかった。彼女が涙をこぼすなら、私は、この鍵のように濡れようと、必ず、輝やかなければならないと、ひとり、誓った。

「ねえ」

「う、うん」

 彼女が切り出すを、待ちあぐねている訳ではない、私の躊躇ためらいは、果たして、彼女の想い通りであったろう。戸惑いなら、もう、要らないのに。それでも、まなしはまなしを持ち上げ、これが最後とばかりに、真正面にて涙眸るいぼうどもは巡り逢った。言わずとも重なり、知らずとも集まり、気づかぬふりして気づかい合えば、不意にでも、一致しないものはなかったはずだった。そんな鍵が、どうしても真ん中に、ある。であるから、優しい嘘の中の本物を見るような目で、見つめ合えた。本気を遠ざければ逃げになる。フリとトボケからは、もう、逃げられない。

「マナミとの約束を祈って、私達の鍵、かけよう?」

「うん」

 彼女が、赤い南京錠を開けようとするより早く、ひとめくりの風は、その手をけしかけ、ついでに私達の足下まで、汲み取らんと耳打ちをする。言われなくてもわかっている、空耳は調べのようで、誰かの声が、今年の暮れの月夜に雲流れをきたす。おぼおぼろに、口説き文句を並べてゆく。狂言かたくろを想わせる依津子さんの、でんが、かげの段に、嫋嫋じょうじょうたる湘南人形の如く、自ら、私の直前で舞い始めた。彼女にしても、ふり返れば懐かしさに包まれている、誰かの気配、その人の、声のこだまのままに教えられた顔をして、私へ、最後の涙を込め、早暁を創ろうとしている姿を、贈っていた。見つめ合う、同じ顔であった、同じ心であった。ならば、いつも手が届く場所にいてくれた人、もっと近くに来てくれた人、そして今しもあれ、こんなに近くで息をしている、その人も……その人を、塞がれてしまうぐらい、周りが見えなくなってしまうぐらい、それでもいいぐらい、ありのままに感じるしか、ない。差し出された剥き出しの回答を、逸らす理由などない。時と共に絡みつく功罪の清算、なくなりつつあるしがらみが大きいほど、うちに溢れ返るものもまた、大きかった。その顔と顔が、ただ、近いだけであった。過去から滲み出し、来るべきものの予感をい交ぜた涙の匂いが、途切れない。彼女の匂いが、風になる。風は月の微光にほだされ、星屑に持てはやされ、人形まいは、しなやかに香るサーチライトと連れ立つ。自らが反転の兆しの光となり、闇夜に舞い、ただ中にて揺蕩たゆたい、踊りしな作っては私に戯れかけ、いざなう。いつも自分の近くにいてくれた人達から発せられた、言葉の数々が、暗く深まる限りのてに消えた、水平線を探しにゆくが如き旅情を焚きつけられた、赤いハート型のそれを映し出し、そっと、一時解錠した。ふたりの涙が、想い出は騙せない事を教える為に、また、こぼれた。ふと、こぼしてしまった。少ししょっぱかったのは、口が正直な所為せいだろうか。寂しき月影さえ、永かった夜の未練をこぼすように、それは涙のように、また、しょっぱい。それは涙のように、ともすれば不覚のしおりすように悲しい、私の部屋のあの常夜灯veilleuseによく似ている、裸の月、なのだから。

 銀のループの手すり二本を立て、等間隔に並べ置いた、鉄道の車輪のような鍵かけモニュメントが、恋人達を待ちながら煌めいている。尚も喜びの銀盃に見立てるに、無数にかかる鍵は、波々とがれた酒ともなれば、さかずきを傾け、出色の満悦に酔いれていた。この世界の傘の下、私も最初から気になっていた、もちろん彼女もそうであったはずの、セレモニアルな空間識の領域へと、私達ふたりも、あまりに自然な成りゆきのまま、時間移動していった。行客それぞれの、研ぎ澄まされた感覚が、イマジネーションの思考が、深い部分を見つめている。自分には無理な事が、隣りにいる人には、日常的な事に過ぎなかったりする。普通と普通が波のようにひしめき、その中心に、今日のラストを象徴する光輪が、いんに潜らずさんと抜きん出て放ち、銀の太陽は差し昇る。違う個性をうべなうかの、月の雫はささやかなる祝福、けるさかずきに友は集い、今宵の宴のたけなわ大詰おおづめを迎え、くんを帯びし一堂に会する目と目を合わさずとも、促し促される。風、煽らずとも、動かし動かされる。そして鎌倉のふたり連れ、尚も瞳の中に想い出を探り合い、かばい合えば、あと一歩が、涙雲るいうんを踏破し、前へ、出た。辺りを包まずには置かない空気は、いつでも誰でも、そうせずにはいられない、言うまでもない、許し許しされるべき心のやり取りであった。マナミさんも、あの日のように、姉の依津子さんと、姉妹の時間を語り合う場面を、今日のように渇望して欲しい。私は、そんな事も、併せて考えていた。依津子さんが、愛は愛を喚び、喚び戻しもするような目で私を見ている。信じられる目であった。もっと信じたい目であった。もっと信じて欲しい目と目が待ち侘びているものは、もう限られていた。涙と共に剥がされていったふたりの躊躇ためらいは、ひとつ遺らず今宵の月が、愛の引力で引き戻してしまったのだ。裸の我が身を憐れむように、依津子さんという存在までも、連れ去ってゆくように、月が微笑んでいた。ふたり共、マナミさんが差し出す救いの手を手繰たぐる、風になろうとしている。されば、私達の間をなかだちする、寂しき月光は愛おしく、マナミさんが差しのべる温かい手を夢見て、みんなのゆくえを保証する、大らかな鍵とも、なった。

 赤い鍵が、彼女の掌の中、冬の月色の仕業でしおりのように揺れている。誰もいない暗い海に臨み、永々たる航海の船出を知らせている。燃え出しそうな心の色が、月の翳りを仄めかされるなら、私は、たとえ寂しさに敗れた過去を、まだ拭い切れない身の上であろうと、誰に何を言われようと、彼女の為に、本気を捧げる事が出来る。唯一、彼女の真実を知る者として、しかるべき使命の概念もまた、同色の火をおこしていた。様々な揺らぎ模様を、依津子さんもお互いの中に見ている故に、移ろいは止まない。であるから私が見せるそれで、守られ、与えられ、寄り添えるはずだった。心も、夢も、そして、そういう今に……。

 ふたり並んでモニュメントへ歩み寄り、彼女は、曳航えいこうされるがままのもやい綱を、断ち切るように鍵をかけた。引き抜いたその証しを、私は、

「それ、貸して」

 と貰い受け、想いっ切り、南の方角の暗夜目がけて投げつけた。銀の粒の閃きは何度か翻りながら、冥漠めいばくとした谷合いへ落ち、消えていった。小さな喜びの響きが、いつまでも遺り、尾を引くようだった。そればかり集め過ぎてしまっていたなら、馴れ合いと言うより、他にない。それをどうする事も出来なかったのであれば、怠惰になる、最も怖れるべき理由になる。人生八十年に一度の早暁を、逃してはならない。火となり、翼を赤いうちに打ち、はがねに鍛えてこそ、いざばたかんが為の助走に耐え得る。

 動輪の如きが回り始めていた。助走に嘘があってはならない。もう、そんなものは要らない。見えなくなってもいいんだ! 何かを、誰かを、本気で愛するが故の盲目だけが、それだけが、求められ、選ばれし翼となるんだ!……。

 準備を怠れば創りようがない。それをそのままにして来たから、飛べなかったんだよ、悲しいんだよ。そのひとつひとつが、今こうして、翳らせていたんだよ……。

 不作を続けた無念と、いずれ訪れよう別離わかれは、共にての喪失へと辿り着こうが、そこに一滴の愛さえ、生き永らえてさえいれば、ひと雫の悲しみから、喜びの蕾はまた、咲こうとするだろう。光を、誰かを、喚ぶだろう。耳を澄ませば、愛が、その声を聞かせてくれる。


 想像して欲しい。そんな世界が、どんなに素晴らしいか。

 今ここで、ふたり一緒なら、わかるだろう?

 

 再出発を宣し、誓う一投であった。違う風に委ね、違う時間識に乗り換え、新しいタームが始まったのだ。ふたりの前段のレジームが、革命的に打倒され、一新が兆しつつ、ある。過去帳にしるすべき出来事、そのひとつひとつが涙雲るいうんきたすは無理からぬ事、純粋な証左は目の岸辺に宿る。依津子さんと私は、いっそ、さり気なく手を繋いでいた。そして体と体を立てかけ合い、せめて肩と肩は触れ合い、彼女の髪が私をくすぐり出す。ふたりの息づかいを、風のさやぎが聞きつけてなだめれば、静かなじらいで済んだ。えつも上手に抑えてくれた。咄嗟に温かく、微睡まどろみ、それは契りの鍵の所為せいだけではない、涙の為だけにあるのではない、過去を言い訳にしたくはない。結局、疲れさえ選択せしめる自由を、行使したのかも知れない。早々に自由を謳歌し、陶然と、うに寒くないのは、幼なき春の足音を、自ら招き寄せているからであった。しあわせは本気を好み、ぶっきらぼうなそれでも、見れば微笑んでくれる。逃げる風を喚び返すように、黒くなったものを洗い終えたように、いずれ、夜は、明ける。

「私……今日、来てよかった」

「ああ」

 闇は、正直な平和を塗抹する。夜は大人しく、その声を聞き容れてさえいれば、何ら問題はない。繋がる掌は熱く、汗さえ湿らせ、私へ転じた体温は、拒絶なき驚きを以て、既に喜びがい上がって巡っている。信じたいなら信じられ、最早、信じるしかないふたりのまなしが、そこにはあった。そこにだけあるとわかった彼女がいる、私がいる。んなじ目が、限られたゆくえを見ていた。熱を煮こぼした涙という一滴から、光ともなれば、その世界で生きてゆけると想えた。願いはミニマライズされ、故に風、故の独立の気運が胎動するかのような、少し寂しい清涼感に満たされていった。彼女の温もりを、私はただ愛するほどに、そしていつの間に、彼女が私の片腕を両手で抱え込むそばから、つと、前触れもなく、永遠なる概念が奇蹟のように生まれていったのだ。ごく自然に、お互いに見せていると、顔と顔がそう信じるという、乗り超えられるという、同じしあわせを揃えていた。寒いから火照り、一年の終わりにこそ燃えるのは、信じるという、それ以前を断ち切る行為の無情、それに対する懺悔であった。悩める夜を煮詰め、ありきたりな大人の恋が、夜からみ出しそうになっている。どこへゆこうとしているのか……。過去へのしょくざいを、しあわせにて、どうか、許して欲しい。


 選ばれてしまった宿命さだめなら

 求められた極楽寺の街外れから

 飛び出した君の翼が

 雨になる

 君の想いが

 誰かの元へ馳せる時

 僕の空は

 あの日と同じ色で降り出す

 僕だけじゃなく

 同じ想いが

 無限に続いて来た歴史が

 鎌倉を

 ふと

 寂しくしている

 

 あの坂道を

 もっと登れば

 僕の家は

 悲しくなる

 遠くに霞むあの海に

 君と同じ顔をした少女が

 現れる



『どうして泣いているの?』



 冬の悪戯いたずら

 意地悪

 僕から

 嘘の言い訳と

 本当の言葉を

 奪ってしまった

 

 お節介な季節が

 嫌いになりそうだ

 僕も

 ちょっかいを出したくなる

 そうすれば

 許されるような気がする


 ……依津子さんの本当の心を知った、その責任が、私を、妨げない。夜は、奥まるばかりである。朝が来るまで、どうにもならない。朝を引き連れる事が、私に、出来るだろうか? かたわらの、リングの鍵かけモニュメントがささやき、ささやかな光が尖がらない。ナチュラルな輝きだった。いいものをいいと言えず、悪者に仕立て上げてしまう、素直にさせない被害者の仮面は、もう、放棄したのだから。諦めと破壊の宿しゅくの本性、嫉妬さえ……。我慢がならぬ諦めと言うより、気が短かいと言うより、美点を見い出せなかった事に気づいた、しるしのようにはかなく、またたいている……。

 一日の終わりへ、時がもたれかかっていた。押すまでもなく、引かれる理由もなく、決してそれを感じさせない、時の懐の深さが、夜の色合いと優しさをい交ぜ、時の旋律を歌うように、世界観を知らせている。逃げてゆくのではない、敗北ではない、自然な終わり方が、風の中にも散らばっていた。あるがままの疲れでもいい、まだ余力を遺していてもいい、そんな、ひと通りにあらぬ顔が、見え隠れしている風だった。しかし、逆らう所のない従順な態度で、全てを受け容れている姿を、私達に見せている。怖れてはいけない、棄ててはいけない何かを使えば、見えるものがあると言っている、超えられると言っている。今という時が、きたるべき新しい日の価値に、気づき始めていた。それだから、次へ委ね、譲らねばならない事、しがらみほどく事、忘却もまた、創造という事……。そして希望、未来、されば愛、もっと微笑み、しかと、絆……。

 今から連なるもの悉くを内包している、予感させる、壮大な夜のとばりのキャパシティーは、黎明だけを待っている。時は流れ、日一日と刻んでは送り、大人になった今日の自分がいる。とある心をどうにも出来ずに、埋め尽くして溢れるままに、それがもし、それでも尚、忘れ難き面影に泣きたいなら、もう、泣きたくないなんて、そんな事、自分に命じなくていい。泣けばいいじゃないか。泣いたっていいじゃないか。笑いたいなら、笑えばいいじゃないか。その人に逢いたいなら、逢いにゆけばいいじゃないか。抱きしめたいなら、抱きしめればいいじゃないか。泣く事で笑えるなら、忘れ去るように乗り超えられるなら、涙に理由なんか探すな! 格好つけるな! 難しくするな! 理屈じゃないんだ。プライドでもないんだ。見えているものが、そう言っているだろう? 愛を自分ばかりの為に使ってしまった事を、もう欺けないと、辛いと……。

 何かをしたい本気を誤魔化そうとするから、大切な何かが遠ざかる代わりに、しがらみがやって来る。去るものが大きければ大きいほど、来るべきものも果たして大きく、けだし、冷たい。もしかしたら、そのてに、悪しき予感が甘やかし……。散々泣いて来たんだろう? それがいやと言うぐらいわかったんだろう? ならば、あとは笑うだけじゃないか。笑えばいいじゃないか。本気でそうすればいいじゃないか!!

 私は、今、激しく、そう想う。依津子さんを見て、そう想う。心のままに憎み、泣いて来たなら、同じように心のままに許し、また愛し、涙涸れるまで、もう離すまいと、泣けばいい……出来るはずだ……。


 

 笑うんだよ。

 僕も笑うから、

 それだけ、考えて欲しい。

 涙次第で、純度が上がる事を、君が教えてくれたんだから。

 その為に流した涙を、忘れないで。

 想い出が辛いだなんて、そんな事……。

 やれば誰だって出来る。

 想いっ切り泣く事ぐらい、

 本気で笑う事ぐらい、

 もちろん、君にも。

 そのひと言が言えなかった、自分の背中が追い駆ける姿を、去っていった誰かの後ろ影と共に、想い描くなら。

 今でも、

 塞がれているなら。

 何かを言いたそうな、その顔を、その、瞳を。

 それが……

 涙なんだよ。

 たとえそれが見えなかったとしても、

 見せなかった心に、今こそ、


 

 花束を。


 

 家族であるが故に始まった悲劇を、そのまま終わらせてよいはずなど、どこにも、ない。

 君の心の目が、今、鷲掴みしているものを、根こそぎ語れ。

 故郷の家という、本気の原点を語れ。

 それを離してはいけないと言う事は、

 そういう事だと、

 強く、想う。

 


 自分の事を棚に上げて、きつい事を言うようだが、他者へ向ける受容尊重、いては敬意の不足を招くものは、つづまる所、まんである。その根拠の何を以てプライドたらしめるのか? たとえばジェンダーバイアスにしても、そこに端を発する。考えてもみるべきだと、想う。寂しさに敗れても、頼れない何かに頼らざるを得ない道へ、迷い込ませようとする甘い顔には、抵抗しなければいけないのではないか? 辛い自分が為すべきは、諦める事ではない。出来る事は、忘れる事ではない。辛い自分の為に、笑顔になれるまで、じっと待ち続けるんだ。辛いから、笑顔になれる、しあわせを感じられる。心の純度を高めるプロセスを、自ら断たないで欲しい。拡大解釈という、不実。その寂しさの赴くままに、恋をしようものなら、ゆくえもまた、彩りは寂しがる。恋をする前に、正直でありたい、本気と出逢いたい。他人ひとに同意を求める前に、微笑みで包める人でありたい。求めるより、誰かの求めに応えて、必要を満たそうと汗する存在でありたい。恋が、それを教えてくれたなら、そう変われる自分に、いつの日か……。わがままという、応えてはくれないプライドを求め続ける、時の空費から、喜びは、逃げる。まんさえ、その弱みにつけ込もうとする。脆弱な自尊さえ、うぬれの涙に、変わってゆくのだろう。真の誇りの、変わらぬ強さを前に。変わらぬ為に変われる、ひょうかんなまでの魂が、私も、欲しい。坂道を登る為に、本気で走れる若い時代は、そう永くはない。その機をとらえ得る、唯一のその気から始めよう。それさえ我が物にすれば、いず揺蕩たゆたうように歩いて、この坂を降りられる。自分が変われば、周りの景色も変わる、歩き易くも、なるのではないか? 幾らノックしても応答がなかった扉が、ひらくだろう。

 依津子さんの瞳が、ある。



 君は、何の為に、泣いていたのですか?

 

 君は、笑顔の為に、泣いていますか?

 

 君は、誰を、想っているのですか?

 

 そこに、嘘は、ありませんか?


 本気は、挫折の悔しさを曲げようとしない。


 その気次第で、笑顔を見せる。

 

 その人の心が、見えますか?


 坂道を、一生懸命、汗して登って、緩やかに、降りていますか?






 しあわせですか?






 君とふたりなら、僕は……。






 共感を超えた、理解。同情を超えた、理性。それは、この坂の彼方の澎湃ほうはいたる海の如く、遥か遠い記憶の如く、うつし世を跳躍し、向こうに霞むかくり世に到達せんとする。かの自由往来の通行手形たらしめるは、愛、次第。人は人を愛さなければならない、義務と責任を帯びている。人それぞれ、様々な向こう岸との矛盾、反目を抱えている。どちらと言えばこちらより、あちらそちらは対象にこそなれ、敵にはならない。主体を先方に託せるもの、自分から変われるもの、それは一も二もなく、エンパシーという愛のポテンシャルの演繹えをえき的な仕事である。

 私は、



「本気を見せ合おう?」

「……」


 

 依津子さんの、たしかなうなずきのそばから、笑顔は、残涙ざんるいを乾かす〝約束〟をしていた。人を傷つけ過ぎた旅路に、神は微笑まないと想っているのは、ふたりの共通理解であろう。怠惰という排他の父と、慢心という学ばない母の間に生まれた、敗北感なる道標の悲哀を、想い知っている。しかし、であるが故、微笑みに包まれているなら、この新しい認識の事実は、超えるべくして訪れた、しあわせの始まりであると、信じさせるに充分、間に合うものであった。

 必要と淘汰の天秤は、質量の均衡を休まず、正比例の関係に秩序立てる。理解すべき、主張すべきそれであるなら、同時に、不適な思考や言葉もまた、大きさを等しくする。よって、たとえば……とある愛の成就の為に、嘘を必要とするからには、言ってはいけない言葉が、生まれてしまう事……それは本来、使ってはいけない、取り去らねばならない事……たから、悲しくなってしまう事……想い出さえ、周りの大人達の所為せいに……。良心のしゃくに苦しめられ、涙という証しが、自分自身なる存在の隅々にまで、ゆき渡る事……。自身も含め、人を傷つけてしまえば、嘘は生まれる。人をしあわせに出来ずに、無言さえ、はべらせる。しかしそれでも、最後に来てようやく、降り積もる初雪のように、清らかな残滓ざんさいを、我がうちに遺すだろう。心が、舞い戻るだろう。よろいみたいな虚構の拵え事は、優しい嘘と、言わぬが花の美しい無言に、彩りを変える。誰かをしあわせしたいなら、その為の今が、ある。早いも今更もない、それ以外にない、今のこの時に、まれ。

 ちなみに、

 この、平塚市、みどり公園・水辺課管理のモニュメントを、

〝AINOWA〟

 と、言う。














 


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