冬の日溜まり

 私達は、そのまま、ひたすら真っすぐ、西へと駆け抜けた。国道百三十四号を、藤沢市からさき市の、海岸線を引き合わせたのち、相模さがみがわを架け渡す、トラスコ湘南大橋を過ぎ、平塚ひらつか市内へ入っていた。中心街を走っている。もう、海は見えない。

 前をゆく、依津子さんの目の先も、東から南へ回り込んでひとまたぎの、丹沢たんざわから足柄あしがら、そしてはこの山並みをとらえていようか。師走しわすの日曜日の、御用繁多の街の呼吸を、久しぶりの私には流暢りゅうちょうに、彼女には、熟々つくづくと、遠望は語りかけて来る。ヘルメットが、盛んに左右を確かめてふれる。目的地が近い、慎重な走行を見せている女性ライダーは、最早、弾丸のうろこを脱ぎ去っていた。私に、それを殊更に触れて欲しくないような、少し寂しそうな日が、黒尽くめの肢体と車体を、優しく引き締めている。

 そして、今、北へ走っていた。ジェイアール東海道線のガードをくぐり、急ぎ足の市民達の表情を、横へ逸らしながら、バイクと車の一枚は、街のおもてを薄く剥がして、刷り込んでいった。二輪の重低音の辛抱に、さしたる反響もなく、湘南に似合いのスケッチに過ぎない。よくある話に、耳を傾けるべくもない、平穏にしてほうな、休日の午後である。寒いにせよ、海洋性気候の、丸みを帯びた空気が、微弱な光を、つぶりに大きく膨らませる。拒む理由のない態度が、きたるべき新年へ、そっとフライングしそうな、それでも許せそうな、そんな風が、流れていた。街なかでも、かすれた海の匂いがする。夏には夏の、冬には冬のそれは、それぞれに、飢餓感に近く、虚無感には隔たる。人の人たる、持って生まれた直観intuiteの領域へ、限りない接近を、さりげなく仕向けるような風が、そよいでいる……こうして、今……。形あるもの悉くの影法師が、希薄な冬日影の下、その存在を長くのばしている。海岸線の疾走一過の、依津子さんにしても、影を踏み、また、影を透かすふうの、静かなライディングに徹していた。

 国道一号、東海道へ、左に曲がった。センターライン沿いの車線を、ゆく。大は小を兼ねる、希望。新年は、もうすぐである。小は大を兼ねるはずもない、今年が、暮れつつあった。遥かなる翠蓋すいがいに、引き込まれそうになりがちの、私達という、風の一葉は、東海道の流れのままに、再び、西行きに乗っかった。主要国道の脈動が、一年を締めくくるかの、冬を物ともしない逞しさを見せつける。それを肌で感じざるはない、っぽけな行客でしかない、ふたり連れ。依津子さんは、どこまで行こうとしているのだろうか。シルバーブルーの空を架ける、雲流れの黙黙もくもくたるが、それぞれの想いを知るように、連連れんれんなび擦筆さっぴつふるい、語り尽くせぬ大切なものを、それらしく想わせる。容易な事ではないと、想えてならない。否応なしに私の目を導く稜線を、吊り上げる空に走る、雲の端の枯れは、千切ちぎれそうで千切ちぎれず、繋がろうとしている。彼女へこそ、その枯れめた声が、届いていようか。私は、そんな気がするのだ。

 春日かすが神社北側の信号は、赤。私達も、おもむろに吸収されてゆき、彼女は、更に中央分離帯寄りに生まれた、右折レーンへ進入を果たした。それにならう私も、右のウインカー点灯を忘れてはいない。真正面で、僅かに顔を覗かせる、富士山の写実画の一枚に、西行きの途は、ひと先ず止められた。やはり鎌倉よりも、近くに感じられる山容は、しわ立つも在在ありあり貴貴あてあてし山塊の胎動を想起させ、たゆまぬいっの熱情、しずかなる衝動のそれは、侘しく、そして、寂しく、照り映えていた。永いひと息の静寂に、包まれていた。青いぐらい聡明な、三角錐さんかくすいの鏡面体は、光をも透過する、はかなげな完成形にあった。神々しいまでの輝きは、あたかも自己完結を期する、受容の反照に満ち、いつもそこに遺って、あるのだ。

 ここを曲がれば、市内北部、公所くぞ方面へ至る。花水川はなみずがわの土手道の、春、花の頃、富士山を背景に、桜が見事に咲き誇る美しさは、時を忘れて見惚みとれてしまうほどで、自然豊かな季節の息づかいが、身も心も洗って、爽やかに乾かしてくれる。かつて、車で偶然通りかかった私に、桜は、永い冬の解放と、春の助走を告げる、風のような、季節のなかだちであった。桜のひとひらは、一枚の、風……一年ぶりの出逢いの感動を、偶然の陰に置こうとする、さるにてもけなで、さも、はかない、必然の抵抗が、こんなにも、優しく、ふと、虚しいのだ……。隠し切れない必然の涙が、花びらを透かす光となって、こぼれ落ちる。慰めの風は濡れて、現実とのあいだを取り持つよすがのように……吹いてゆく……桜の粒、立ちふる舞う、暖かな風が……時を、乾かしてゆく……。急々せかせかと埋め、密々こそこそかばて風は遠ざかり、鷹揚磊落おうようらいらくな風が、春の里山にさえずれば、暖翠だんすいを知るが如く、匂い立つ柔風やわかぜは、憩い、煌めく。

 わかっている事が出来ない、時間の長さが、音もなく、影のように、時に、風のように、ネガティヴな言動の裏で、必然の不幸……その生産を始めている。他人ひとを傷つけられるなら、それを証明している。必然の針を、プラスとマイナスの真ん中で揺らす、そういう、風……。

 神奈川県央の大自然に、また、巡り逢えそうな予感がしている。見渡す限りの晩翠ばんすいのただ中を彷徨さまよう、長閑のどかな年の瀬が、待っていようか? 往く一年を、何とか納得のうちに、来る年の希望的観測を込めて、ふり返れるだろうか? それとも……。依津子さんの背中は、微動だに、しなかった。

 先ゆく車が流れ出し、後続のまま、あまのエンジン音は再生されていった。右折可の、青矢印信号に送られ、普段着の平塚の生活圏へ進入する、ふたりであった。地方都市を訪ね歩く、街道筋に寄り添う、きょうあいなノスタルジーが、先行するバイクのテールランプに群がり始めた。ゆけば寥寥りょうりょう、ゆくも仄仄ほのぼのとした趣きを、風渡りの蓬蓬ほうほうたるは、頭上から撫で下ろす。やがてり落ちる、夜のとばりを掃き散らかす、対向車の前照閃光にゆくえをくらます、道にじゅ繋ぎの、赤い灯火の縦一列が、尾をひきそうに見え、浮かび来る。いんを絞り込む先に辿り着いた光は、心血を注いでわだかまる、鮮紅……。しかし、今はまだ、白日光に労を委ね、時を読みふけるように眠っていた。消す事が出来ない、消せない痕跡の如き、一点の赤い光は、それぞれのうちで、守られていようか。後に続く者の為に、消してはいけない、証しの灯を、私は、彼女のテールに見つけ、追い駆けていた。そして私のそれも、きっと、誰かの、何かの、その為に……先ゆくべく……しるべの責を果たさざるは、ない。この先に、花水川はなみずがわを架け渡す、高麗こま大橋がある。私は、それにしても、だいぶ早い、里山の桜の、春の夢を、見ていたのだろうか。光は、饒舌じょうぜつな無言である。故に、暖かい。それだけで、いいのだ。

 ……左側の広大な公園へ、私の視程は彷徨うろつきがちになる……のだが……確か……桜ヶ丘公園と言ったはずだ……が、この通りを隔てた真北に建つ、とある一軒の、洒々落々しゃしゃらくらくとした二階建て家屋の、敷地の前部に設けらた駐車場へ、バイクは、センターラインをまたいで入っていった。私は少しゆき過ぎ、バックで隣りの空き車室に駐めた。まだ、普通車一台分の空きがある。パワーウインドーを一杯に上げ、外へ出ようとすると、依津子さんは、ヘルメット姿のまま、愛車のそばに立っていた。ご無沙汰の平塚の地を、踏みしめる私がいた。


「ここで休憩?」

「……ぅぅん……ここが、終点……」

 ヘルメットはうつむき、シールドの奥を覗かせてくれなかった。反射光の回答は、突と、離離かれがれの風の音を奏で、寂しげに映る。稜稜りょうりょうたる寒風に憂う、辿り着いた今が、震えていた。俄かに寒さにまごつく、らしくない彼女の緊張が、伝わって来る。いつものストレートは封印され、すぐに、わかる。ようやく、グローブを外した。が、脱げない、ヘルメット。見れない、この家。そして私は、それとなく流覧すると、看板がかかっている。どうやら、カフェのようであった。



 しゅんじゅうん……と、ある。とても、いい名前だと、想った。



 依津子さんは、想い切ったように、ヘルメットを脱ぎながら、公園の常磐ときわへ、遥かな視線を走らせた。隔たりそうなふたりのあいだを、その針を、その時……しあわせの方へ喚び戻すかの、一枚の光が、風が……シルバーブルーの天蓋てんがいから、通り越しのグリーンの海から、ややともすると、ライダースーツが背を向けたままの、店の扉からも……さっと、し込んで来た。暖かくなりたい、ただそれだけの想いが、目前で躊躇ためらう、私達にり注いでいる。ここまで、来たのだ。さにあらぬ、無理してこさえた平気顔の彼女は、しどけなく、ほぐれていった。日まりを、知ったのだ。それは、まだまだ微温ぬるく、けれど、融けるに不足はない、吐息交じりの慰藉のやわであった。ここまで、来たのだから……やっと、辿り着いたのだから……。



「私、初めて来た……」



 いい名前のぬしは、誰を……想うのだろう……。



 私から、入店した。続く彼女を……忽ち、二名の若い女性スタッフの眼差しが貪り、小さな笑い声さえ、すぐさま嚥下えんげした。うちのひとりの、静かな、

「……いらっしゃいませ……」

 に、添えられた、掌がいざなう方の窓辺の席へ、ライダーブーツの、フローリングの破壊音まがいのきょういつを、潜めるような一歩を置いてゆく、言葉を奪いし罪なひととふたり、見つけた椅子の木目に、背を託して沈んだ。ヘルメットを、そっと、足下に片づけ、さっき、公園を望んだ長い目線は、一瞬、私の瞳へ触れただけで、互いに、彷徨さまよっている。想う故の、すれ違いを、許さざるを得ない、牴牾もどかしい空気が、客の疎らな、狭からず広からずの空間一杯に、ゆき渡りつつあった。逃れる方向を、探り合うしかなかった。窓の外と、手描きのメニュー……意見が分かれた、依津子さんと、私。……私……私が、そばに、いる。こうして、そばに、いる。消えそうになっている、大切なものを、私は、今すぐ、喚びめなければ、ならないのだ。掴まえなければ、ならないのだ。わかっている事が、窓の外で揺れているから、彼女は、その手で、掴まえようとしているのだろう。

 ……サークル内の話の中で、マスターを除く、何れのメンバーにおいても、家族、加えて、故郷と向き合う立場を、積極的に語ろうとはしない。かかる暗黙の了解事項の上に、関係の成立をうべなっているものと、認識している私である。絵里子さんと私のように、個々の繋がりを想えば、この、今という、時間の限界で、プライバシーの懊悩おうのう禁忌タブーに触れんばかりのおそれは、その壁のシェープを始めたのかも知れない。壊すべき、畳みかけるべき、予期せぬ危険を察知しているかの、窓辺のひとは、翳りつつあった。

「いっちゃん……」

「ぅん?……」

「大丈夫?」

「ぅん」

 彼女がふり向けば、瞳は、触れ合う。ホールからは見えない、奥の厨房が、少し、ざわついている。スタッフさん達の交錯が、のび悩んでいるように感じられる。そうは言っても、そういう誰がしは、が為に、柔らかな水は響くと……控えめな笑顔で、グラスの水を、ふたつ、運んで来た。言葉はなく、一礼を付して、戻った。

 私は、アットホームなメニューを、依津子さんの方へ向け、文字を逆様さかさまに読みながら、

ったかいもの、食べたいな」

「私も、お腹がいて来た」

 可愛らしいメニュー POP は、女性のナチュラルな目線を、横罫よこけいに添わせるままの、ほっとひと息ける風合いが、綴じ込まれていた。私は、ほっかほかの、手作りレモネードを、依津子さんへ提案したい。メニューのおすすめの縁取りを、彼女の目はなぞっていた。小刻みな移ろいが……離れない。離れようとしない、離れたくない、あえての意味を見つけたように、程なく……瞳の波動は、立ち止まった。埋められない、塞がらない穴を、かばい、補わんとするあまりの今が、大切さに歩み寄ってゆくかの、空白を煮詰めた、濃厚な時を知る、彼女という……柔風やわかぜ……。そして、私という弱風よわかぜで、あったろうか。

 ……駆けて来たひとの、目のふちが、おもむろに……光っていった。滲んで、小々波さざなんでいった。正直な瞳は、限界を超えようと、それでも、満をこらえようと、迷っている。固く閉ざした貝の口の端はけ、歪み……波を打つかに伝わるも早く、歯並はなみの真珠光、かすかに漏らす。息の極まりは、その間隙かんげきを見逃さず落ちのび、かんぐ日射しの窓辺を頼る。この小部屋をほだし、時ならぬ、時雨しぐれつどっては映えながら、霞みゆく時へしまい込もうと、和順なこわにして、この場限りのメロディーを、私達ふたりの懐へ、届けて来る。真っすぐな、ふたりが、いる。微温ぬるい光の中で、彼女に去来するものは、懐かしい涙という、大切なものに、違いない……。



「私……この、牡蠣かき雑炊ぞうすいが食べたい……」



「じゃあ、僕も。ったかいレモネードも、どう?」

「ぅん」

 依津子さんの目頭にはべる、白いハンカチのゆくえを、私の目は、逸らしていった。初めて訪れた、この店の雰囲気が、たまらなく好きになっている私であった。集まるまでもない、周囲の視線が、優しくて……。気にならないと言えば、嘘になる。それさえ、許してくれているようで……嬉しくなってしまう……。一抹の申し訳なさも、また、誰彼なしに贈る、依津子さんの謝辞を、涙にすり替えていたのだろう。

 が為に……風は濡れよう……いずくにか……映えぬ地平やあろう。されば、さればこそ、人肌の温もりの如く、冬なりとも、幾許いくばくの利の花は……咲く。日まりは、何れ……微笑む。ほんのりと、至る所で……綻ぶ。たか依津子いつこという、はかな一葉いちようは、風に乗り、そして、今、小さな光を見つけ、静かに、舞い降りていた。吉村陽彦よしむらはるひこという、弱虫の私を、連れて。まだ、気づいたばかりの芽であった。ばたけば、いつの日か、限りなく事実へと育つ、ささやかなまことの魂であった。どんなに小さかろうと、気にならないと言ってしまえば、嘘に、なる。幾つかの本当の想いを、真実を、たったひとつの現実に育て上げた時、あるいは……これから育て上げようと……夢見る時……日まりは、どれほど……暖かいだろう……ありがたいだろう……日の当たる必然は、優しい事実を、微笑みに包んでくれる……。

 彼女と、私。いつもその場所に遺り、ふたりして、いよう。笑いながら、いよう。真実が微笑むなら、私達ふたりは……確かに……しあわせなのだ……そばに、隣りに、それぞれがいるだけで、歩いてゆける……あの坂道も、登ってゆける……遥かなる海へと続く、あの、坂道も……。それぞれの、様々な過去が……融けていった……ゆくほどに……融けていった……はたと、煌めくのは……涙にそぼ濡れた……一枚の、風……逃れゆく、風……だったのだろうか……。目を閉じれば、シルバーブルーの輝きが……喋り出す……。

 なかなか堕ちてゆかない、女の強さは、ともすると堕ち易い、男の弱さを、見つめている。さりとて……一度、深く嵌り込んでしまえば、抜け切れない、女の弱さは、たとえ、どん底に堕ちようと蘇る、男の強さに……賭けているのかも……知れない。

 恋愛の延長線上にある、結婚。やはりの、しあわせ。それが、普通だ。恋愛と結婚は、別物。それもいい。結婚ばかりが、しあわせじゃない。それだって、いい。しあわせのデザインは、フリーハンドだ。さはいえ、その方向性を打ち出せない、及び腰の賭けは、どこまでも自由に駆け巡る風を、窒息させてしまう。風が、風ではなくなってしまう。自由とは、決意なのだ。自由は自由でも、本気しか、許さないだろう。であるから、たとえば、風は、一枚という本気の、自由の形である。本気であれば、一枚だって……砂のひと粒だって……そんな事、どうだっていいじゃないか。本気になれない事が、問題なのだ。そこに、矛盾の根源かあるのだ。

 私の、満たされざるメンタリティーは、あの時……あの、夏の夜……絵里子さんの乱気流に、触れてしまった時……創造の主人公という、肯定の波濤に、身を投じた。いわんや、波の反転、しゅんを衝き、退しりぞく袖の、裾の翻るは、夢の如くひらめこうものなら……それなら、なぜなら……追憶の光が、牧歌を朗誦していたのだ。波の一過は、不安でさえ好き好んでみ砕かんばかりの、自己弁護のよろい、その、強引な魅力を翳しながら、逃避迷走の痕跡を、私に、刻みつけていった。そして、そうして……そこに遺りしもの、遺る限り、そうではない、わかってはいた灯は点り、ならばの今、だからの今、わかった……やっとわかったアナザーストーリーが、動き出そうとしているのだ。本気の息吹きが、聞こえる……


 風に、

 臆病風など、ない。

 男も女も、老いも若きも、ない。

 いわれなき犯人を、見る間に仕立て上げ、

 被害者になり済ます睡眼の如きでは、

 どうにもならない。

 どこまでも、自由に、ゆけ! 駆けて、ゆけ!

 ネガティヴの、ネガティヴたる所以ゆえんの、一言一行いちげんいっこう

 モラルハザードの壁さえ突き破り、

 一段、上へ。そしてまた、上へ。

 風の真実を、微笑ませて欲しい。

 私も、そうしよう。

 彼女に、そうしてあげたい。

 私に、出来る事なら、

 本気で。


 のんびりとしているようで、ちょっとぎこちない、人の形をした符号が……その合い紋を包んで、私達のテーブルへやって来た。優しい人熱ひといきれが、この小空間をととのえつつある。にこやかな交歓は、どこへもゆかない。

「お決まりですか……」

 私は、

牡蠣かき雑炊ぞうすいと、温かいレモネード、ふたつずつ……同時でいいよね?」

「ぅん」

 依津子さんの返事は、まだ、少し、湿っぽい。

「かしこまりました」

 爽やかな笑顔を書き遺して、戻っていった。しかし……

 それにしても、私の考え過ぎかも知れないが、さっきから、ホールの様子を見計らう、スタッフさん達の気配が、なぜか……依津子さんから、離れてゆかないように感じられるのだ。その目線は、それとなく、方々へ流れてはいるものの、彼女の元で、悉く句点を打っている。ひと頻りの流れは、私の目の前に佇まう渦流に、せき止められ、堤防から溢れそうな、自らの目的の最期を見定めた所為せいかして、横へ逃げる水みたいに、目のゆくえは逸れてゆく。この、なだらかな、休日の午後の時間……その頂きに、無防備の隙を衝いて、さっと駆け上がった彼女が、鳴り響いて存在しているように想えて来る。ひと時の、忙中の閑は、厨房と、そして、私達ふたりを、有閑無閑の空間識なる、最大公約数がなかだちして、や、告げつ告げられつ、ふり仰ぐ先に、同じ空が、展がりゆこうか。

 ……依津子さんを、知っている……。

 私は、大切なものが、ただ、そつな風に煽られ、りょうげんの火と化していった。一見いちげんの客なのに、彼女は涙し、そんな客への、怖々おずおず隠せぬ対応ぶりも、一見いちげんさんへのものではない。わからない私だけが、取り遺されそうになってゆく。脆弱な男の仮説ばかりが、逞しくなってゆく。飢餓の不安を、一気に満たさざるは、ない、束の間の孤独が兆していた。


『依津子さんは、何を読み取り、泣いていたのだろう……』


 想い出は、夢とイコールで繋がれば、しあわせという、饒舌。陰に隠れるなら、悔悟という、無言。針は、どちらに、ふれていようか……。真っすぐであり続けようとする、彼女の事だ。何れにせよ、語ってくれるものと、信じて疑わない、私であった。

 ……窓から射し込む薄ら日の中で、依津子さんが、ふと……なぜか、どこか、まだ、悲しくなってしまうように、映えている。彼女も自慢の、大きな肉厚の耳から、両の撫で肩の裾展すそひろがる、黒革の光沢が、窓辺の日まりと結んだかに融け、肌の白さを奪い合って見せ、白姫しらひめの輪郭は、透き通っている。されど、芯の白さのきわだちは、はかなわだかまる、影絵のようにかたどられて、触れられない、届かない、遠ざかる美しい想い出を乗せた、風を、感じさせるのだ。そんな彼女に、一抹の、近寄り難さを覚えるのは、おそれで、あったろうか。触れてはいけないと……想ってしまう、私だった。私だけの、小さな錯覚だった。風は、往ってしまうのに、まだ、何も出来ない私が、少し、悔しかった。わかっているのに、それが、出来ない。それでもいいと、やり過ごしてしまう、かすかな後悔は、しあわせなのかも、知れない。今は、彼女を見ているだけで、よかった。そのままで、よかった。祈るより、頑張る人を味方する、必然という神のように、美しいままでいて、欲しかった。うす玻璃はりに似せて拵えた体に、微弱な光が潤み、匂いたつだけで、私は、自分の手を、のばせない。無力な、この掌を、黙って見ている。それは……故郷に錦を飾る、夢……で……あったろうか……。

 他人ひとの見ていない所で、手を抜いて来た、昔の頑張りは、最早、被害者の優越へと、逃げ込まざるを得ない夢に、癒されていた、私。柔風やわかぜの、逃げゆく素ぶりにいざなわれ、心揺れ、駆けこそすれ、馳せこそすれ、逃げてはいない、そうではあるまい、違う姿に変わっていた。その道ゆきに、道標があった。見れば……逃避ではなく、追い込み……と、ある。今、こうして見ている、自分の手によって、自分を、追い込んでいたと、知らせるような……微温ぬるかぜ……。赴くほどに、創造への転換を喚び起こし、過剰な個人主義に偏らない、暖簾のれんに腕押さない、風……。窓の外に、風は、吹いている。肉体の矛盾は、腕が、決める。金の非合理は、知識に準じる。しあわせへとなびく、この掌にもある、風を見ている、私。そして、依津子さんだって、きっと……。それぞれの中に、確かに、あるのだ。為すべき事は、ひとつしか、ない。

 ……働く、若いふたりの女性マティエールの、そっと窓辺に寄り添い、外に駐めたバイクを眺める場面の頻回が、この店の風景画に浮き出し、彷徨える人影のように、空気を描いてまた、流れていった。

 家族連れとおぼしき、三人の男女が会計を済ませ、店を出ていった。客は、単行本を片手の中年男性と、スマホと格闘中の、若い女性、そして私達の、四人になった。窓枠の顔をしてる日は、ますます笑みをたたえ、一年の終わりは、客脚こそ退けど、バルキーな暖かさが横溢おういつするばかりであった。その、一枚を担う、珈琲の香りと丸まるかの、海鮮の匂いが、依津子さんの表情を窺い出してゆく。一枚にあらぬ、幾重かの波状のように、もちろん私も、二名の先客さえ、つづまる一枚のうちに、招き入れていた。何でもない、飲食店のナチュラルプロセスは、ごく一部の期待をいだき、急がず、立ち止まるまでもなく、仄かに、時と空気を、変えつつあった。うす玻璃はりは、壊れそうで、にもせよ満を蓄えている。日に透ける心のままの、髪のほつれが、匂やかに、流れる今に漂い、浮かぶ瀬を待ち侘びて、小さく、溜め息をいた。

 そういえば、お腹がいていたのだ。貝類の芳醇な味わいは、海に面する地域の日々の食卓を、手軽に、豊かに彩る。私も、魚ばかり食べている。少年時代は、それも楽しみのひとつとして鎌倉を訪れ、店側のメニュー設定も、彼女のオーダーも、高次の日常という、忘れがちの満足が、彷彿とするやり取りであろうかと、推察出来る。双方の、忖度そんたくしんしゃくの狭間で揺曳する想いが、見えるのだ。そう、仮説を立てれば……しゅんじゅうんと……涙の意味は……見つめ合って……。

 依津子さんも、私も、うつむき加減で、静かに食事を待っていた。

 ……不意に……

 銀のトレーに料理を載せた、ひとりの女性のスカート姿が、目の端にかかった。

 想い切ったようだった。さりながら……

 こっちへにじる爪先、えつ鳬楚ふそいつらしい覚悟を奏で、コツ、コツ、コツ……と、薄紙を剥ぐかに重ね上げる。きたりし冬構えの夢枕は、海の香を濃々こまごまと連れ、湯煙の湧きたつにむせぶ、その裾は揺らぎ、近づく。私達は、顔を向けた。しゅんを掴む、瞠目。そしてまた、瞠目。それでも掴めない、無情な目だった。それでも衆目の算を集め、一致する所がある。忽ちにして、一同諸共もろとも、雲流れの如く掻きたてられてゆく。かのただ中へ、もがくまでもなく、取りつく島もなく、一直線に沈んでゆく。見える景色に、絞り出て来る何かをこらえ、辿り着いた先の、絶句であった。


 一見いっけんが虚しい。

 一見いっけんが眩しい。

 信じられない……

 何という、

 何という……

 この、

 リピートの、

 美しき、誤解だろう……

 きょうがくの、裏切りだろう……。


 現れたひとの、疑いようもない、信じ難い事実と遭遇している。この時間、この場所が、一撃で壊れていった。散々に胸をたれ、砕かれ、スパイラルな風をもたげ、辺り一面を巻き込んだ。先客の男女の、優しげな態度も、満場一致をりょうせんとばかりの、知っていたかの、もしや……からの納得を携え、にもせよまだまだ、まさか……の領域にて、時の嵐になぶられている。正に一網打尽、たしかに一挙相殺そうさいを企てる、それは、一堂に会するを釘づけ、息をも塞がんとし、悉くの針を、止めた。身じろぎひとつしない、重たい滞流よどみは、かのひとの急接近に、凪めの柔風やわかぜいざなわれ、双方向からの風となってぶつかり、上昇の気流を拵え、去りつつあったはずの寒雲を喚び戻す。寂しい、しずかな雲流れであった。静謐せいひつという、ある種の混沌。懐古という、ある日の逸出。無理解という、ある人の、理解……。し入って来たさびしおりは、やはり……の涙に洗われた目も、伏せがちに、倒れてしまいそうなほどの、控えた身ごなしをしならせる。されど、せめて、同じ色の涙は、煌めかずには、やる瀬ない。無理も、ない。依津子さんの言う、大切なものと、しゅんじゆうんは、最早、重ならざるは、ない。



 たか依津子いつこが、ふたり、いる?!……。

 もしかしたら、あの……いつかの……?……

 彼女の、話にもあった、あの……



「お待たせ、致しました……」


「どうも、ありがと、ぅぅ……」


 私は、謝辞を空白にしてしまい、黙礼にあがなわせるだけの精一杯をも、ふたりの涙は、想いやるように、言の葉のひとひらずつ、そっと、剥がした。やって来た同じ顔の、同じ肌の湿感しつかんが、出来たての、香る心の暖気に包まれ、白天鵞絨ビロードの如く、赤っぽい目のひび割れた雫を、可憐いじらしく、頬に誘い込んでいる。料理をもてなす、献身のその細い腕のゆくえを追えば、依津子さんも、私も、ただ黙って、牴牾もどかしい慈悲と憐憫れんびんを読んでいた。雑炊ぞうすいに目がとどまるのをけるかの、一見いちげんの女性客と、何もかもが泳ぐ、店の女性であった。視線の集中は、あまりに、涙に近過ぎると、嘆くように。

 瓜ふたつのふたりを、私はどうしても、瞬時ちらと、見比べてしまう。どうにも出来ず、どうにかなった時間の永さが、みなの前で、涙模様のじらいをとどめたまま、合わせ鏡の心を、展げて見せるのだ。目を、合わせられずに、いる。言葉など、もう、交わせずに、いる。それ以上の何かは、それ以下の何かを怖れ、踏み込めぬ、すれ違い、かわかわされる一線を引いて、そこに籠り、それぞれの、岸辺のひとしゅうひらけぬ、時ならぬ、冬の時雨しぐれわだかまっては濡れそぼる。今さっきから、的を射抜いて絞られる、ある想念との会話を、まるで、昔から好きな音楽を、ひとり、聞くように、自分自身へ投影するように、耳を澄ませて、出来る限りの寡言が、相応しい。美しく触発され、もっといい夢を、見せて欲しくて……寄せ集まりし、限りなく平等たる時間は、かたを呑んで見守っている。風の音が、かすかに聞こえる。タッチの優しさが、ノックを真似て、さりげない。枯れ葉のひとひらであれ、何であれ、窓で、あれ。射し入る微光が、遅れて来た申し訳なさにのび悩み、一喜一憂のほつれに戸惑う。

 言葉数少なでも、無言のままでも、よかったのだ。その想念の、夥しいまでのプロットが、しずかに、揺蕩たゆたう。あの窓辺から、望むなら……ここから、逃れてゆきたいような、愛が、見えていた。……姿なき面影イマージュを慕う、声なき、声……。直観intuiteと現実の狭間を架け渡す、まなこなる天秤から、ひと度、双涙そうるい生んではこぼれようものなら、一再、手離してしまえば……ずっと待っていた懐かしさと、別離わかれられない予感の攻め手は、掴めそうで掴めない、届かぬ手の無情なる、風のシルエットのようななかだちの声に、気づく。揺籃こもりうたが、聞こえる……そっと……さやかに聞こえて来る調べに、ややともすると……浮かぶ瀬もあり、浮かぶ人影も、あろう。いや、ある。はっきりと……見えて来る……浮かびたい人と、見ようとする人は……出逢う。もう、眠れない。眠っては、いられない。さはいえ、溺れる涙の痕跡さえ、消されそうな出逢いに翳り、泡沫うたかたの夢、如何にも、いつ如何なる時も、はかなく、流離さすらおう。ただ、偽りのかばいだてではない、保身の手だてではない、優しさの一枚だけでも、それぞれの本気の、上達への道のりが、本物の心を知り得たから、言葉にも、変われる。黙り込んだままでも、いいのだ。本物を育てた痕は、愛の形にこだわらない。育たずこだわる嘘であれ、許しもしよう。繋がろうと、しよう。

 ……忘れられない、忘れたくない、そして、忘れないでいて欲しい、いつかの、約束。見失っていた、約束。……ようやく……目覚めたように、今のこの時を見つけ、遠く、遠く、鳴り響いては拾い、こだましては授け合い、とどまっている。辿り着いたてに立ち、ただ、ひたすら、何かを待っている。いつまでも、寂しげに待っている。のばしたくても、のばし切れない待ち人の手に、気づいて欲しくて……誰かの温かい手を、待ち侘びている……。問わず語りの、言わずもがなの、忘れてはいけなかった、手離しては……いけなかった……証しの約束は、ここに、蘇った。終わりなき、玉響たまゆらの旅路。ひっそりと、生きていた、真っすぐに、生きていた……知らなかった、知らなかった……知ろうともしなかった……こんなに、こんなにも……涙を掴んで離さない、青春の光と影が、えつを絞って浮かび、蹇蹇けんけんとして、鳴り止みそうに、ない。焔焔えんえんに滅せずんば炎炎えんえん如何いかんせん。歓迎すべき、美しき災禍である。



 風の案内人メッセンジャーが、窓辺から、いざなう……

 ここまで来いと……喚んでいる。

 ふたりの声が、届けとばかりに。

 天高く、届けとばかりに……届いた声は、

 お互いの懐を、まさぐり合う。

 かけ離れていた、それぞれは……

 ぽっかりいた、けれども、まだ小さな隙間に、んなじ色の、んなじ匂いの、さびしおりし挟み、んなじ涙を、呑んでいた。倒れ、溺れるも、途切れ途切れの記憶が、ふたりの命脈を繋ぎ、救わんとしている。想い出したくない過去もあろうに、一線上に並べれば、過ぎ去りし時間は、涙しか、教えてはくれない。他人同士の今、その、ささやかなしあわせを、それを導いた不幸を、どうのこうの言う資格が、一体、誰にある? 他人ひとそれぞれの喜び、同じく悲しみを、誰が、なぜ……批判出来る? それこそ、不条理というものに過ぎない。どうして? 心が反り返るように、分かち合えないのか……。

 今の私なら、断じて、そこには、触れない。たとえ逃げ出しても、砂上の楼閣には、触れたくは、ない。しあわせは、不幸をかばい、不幸は、しあわせを恨まない。触れない優しさから、始めたい。人のゆく先に待ち受ける何かを、想像すれば、わかる。先はどうなるか、わからない。集約を迎える時は、否応なく訪れ、みな、同じなのだ。必然の一本道に、帰らぬ人は、いない。かの道が坂道だから、幸不幸は、生まれる。どうする事も、出来やしない。相互理解が、全てである。生まれた者同士ではないか……。

 人と人は、誠実なるなかだちでしか、繋がらない。やたらと被害者になりたがるのは、如何なものか? 消せない違いを、愛そう。人はみな、坂道に生まれる。坂道を、愛そう。一点ではなく、人生そのものを、丸ごと、抱え切れないぐらい、それでもいいから、愛そう。そうしなければ、生まれて来た甲斐かいが、ないではないか。自分の歳の年数分の愛を、今こそ……今こそ……全てを……。

 私の、悪い癖。閉じ込めたい、悪い癖。今は、風のおりに、そうしたくなっている。と……依津子さんの瞳のまん中が、目の前の、もうひとりの自分の半面像へ、交わせぬままに集まり、沈み込んでいった。

 浮かんでいる同じひとが、気づいて逃れるように、さればこそ、そそくさと仕事を終え、一礼を付した、その時……なのに……薄ら日はかさを増して、涙へ雪崩れ、尚も寒雲は融け、微温ぬるむ日まりながらも、さんと煌めいて展けた。さも、重なりし花影の如き双輪、おもむろに回り出し、くずおれる何ものかが、時の針に手をかけようとしている。ふたりは、怯えていた。浮かび来て、刹那に出逢ったより早く、ふりほどかんとするひとひらは、再びの心が、いたたまれず浮き立った。現れたひとは、浮かびたかった……蒼き辛抱の同じ影を、引こうものなら、優婉閑ゆうえんかんたえなるは、大人になった双美人の、分身の宿命さだめを、慰め合える。働き蜂は、涙に萎れる可憐な花を見つけ、そっと、寄りつきなだめる、寸陰の勤めを惜しむかのように、邂逅かいこうの蜜の味を想い知らされ、揺曳をとどめ始める。甘く、切なく、そして、苦い……青春の残像が、一気に紫吹しぶいて匂い立ち、風がおこった。お互い、わかっていた、待ち望んでいた、企まざる偶然であった。やっと手に入れた、現実なる、ささやかな自由さえ、奪い奪われつつある予感しか、毛頭、ない。今以っての辛抱は、愛なき、昔の証しを、雄弁に物語ろうとしている。声なき声が、耳の奥で、こだましている。そんな、癒しの風、立ちぬ。交じり合わぬ、外しっ放しのそれぞれの視線に、見えて来た想念、巨大なひと塊まりの波濤が、何もかも、埋め尽くしていったのだ。優しさの手前で、砕け散るように。優しさを、知りながら。優しくなれなかった、お互いが、涙に暮れていた。

 厨房へ逃れゆく分身の、白い横顔を追いすがる、潤みの波頭は、ばたきを緩め、ひたと、時の車輪を引き留める。この空間に、虚しく切り離され、浮遊する端から、掴めない目の無情は、せきを切り、饒舌の酔余に倒れる、ゆめうつつの行客の旅語りを、その上、追い駆ける。眠れなかった焦燥、眠ってはいられない悔悟は、風任せのようで、その限りではない風を待っていた。こいねがう所を見棄てない、胎動を、閃きを、テレパシーを信じるなら……去りつつある分身の後ろ姿は、超越的な浪漫らしい、微光の輪がかかるように、見える。肩をすぼめ、震えている。立ち止まりたい光と、立ち止まらせたい、立ち止まって欲しい光は、それぞれに、離れ難き一念の、現実のうしおの底流する、今のこの時を、必死に、闘っていた。互いに被せ合い、最大公約数の絆を、音のない、ふたりだけの世界にて、確かめ合っている。蒼き時代の、そのままの、目……。悔しさを自分へ向け切れず、頑張り切れず……他人や社会へ向けてしまっていたであろう、ざんの、目……。今更の如く、逃れの中で、はたと、何かに気づき、何かを見つけ、喜び勇むの当たりに、必然の海へと注がん、本流こそ横たわり、こうからの現状回帰なる、密やかな合流を、もくんでいよう。それは、オウンゴールの終焉を、意味している。形而上世界メタフィジックスは、マテリアルな現実に、帰りたがっている。飢餓が知る、知的生産。それが見るであろう、達成。形という証しが、欲しいのだ。

 ……やっと……再び巡り逢えたのに……なぜ? どうして?……目もくれずに通り過ぎて往くのか。……風のように、流れ去って往くの?……。見ようとするひとの、蒼き辛抱が、待ちに待った、ようやく見つけた、路傍に、そっと立ち止まる、小さな花の笑顔のような、日まり……ささやかな喜び……美点……仄かな満足……それは、しおらしい、達成の夢……。

 後ろ髪を引かれる、もうひとりの悲しみは、ふり向いては、くれない……。楚々と隠れゆく、その背中を、もうひとりとて、最早、目で、追えない……。虚しく切れた目の交信の本気が、満たされぬ空間に彷徨う。双葉を愛で、抽斗ひきだししまい、無理でも、笑顔を嵌め込めば、自ずとこぼれよう、端くれどもは、しあわせを求める、本当の言葉、今という時の真実であると、知っている。先が見えぬまま、歩いて来たが故に、昔と変わらない、今……。今にして欲するなら、それは、欲張りだろうか? それとも、未だに……。ならば、その先を、見ようとすれば、いいじゃないか……一段上がれば、もっと上がれば、見えるじゃないか……坂の上から、海は、よく、見える。私は、泣きたくなかった。泣くまいと、している。

 人知れず、追いつ追われつする、双方向の流通は、うに、この場の周知の、即興ダイアローグ、心のパントマイムを、手に取るように見せている。……早く、拾い上げたい……波間を揺蕩たゆたう迷いのひとひらを……枯れかけて、潤いを探しあぐねる一葉いちようを……拾い上げなければ……いけないのだ! 去りゆく後ろ姿に、触れんばかりに、今度はこちらから……遅かりし、遅かりしこそ……偽りのない想いに辿り着いた、切ない、その目を! ……掴もうとしている……たった今の、目を!……。ありとあらゆるしゅんじゅうんの目が、後押しするかのように、されるかのように、散らばっていった。気づいて気づかぬ体裁の、棄て置いたふる舞いのざんが、薄らぎの光に映える。煙る光輪は、まだ、破顔一笑とばたけず、孟冬もうとうの海のへ、束の間の優越止まりの証しをとどめて、女のしおりは、はためく。物柔らかな結界は、想い出の海神わたつみ……逆巻くて、揉みしだかれる木の葉の小舟の運命の如く、はかなく、壊れたのだ。とはいえ破片は、気配に化身して生き抜かんと、遺すべくを遺し、愛なき、蒼き辛抱とのはざなる、馴れ親しんだ自分だけの現実界へ、ひとまず、逃避を決め込んでいた。そのひとつの、厨房というふなまりであった。片割れは、静かに、小さな自分の港へ、やつし事を憚りながら、消えていった。


 あの坂道を駆け登れば……窓辺に立ち、窓をけたかのように……いつかの、いつもの海は……微笑んでいるだろうか?……待っていて、くれるだろうか?……。

 人が天秤なら、信頼されたい想いと、自分を守りたい想いを、いつも同時に載せる。

 そして、

 人が風なら……そのはかりは、いつも、揺れる。

 蒼き辛抱の心は、揺さぶられ、何れ、芯を固めよう。揺れるほど、強い芯に、なる。

 今日こんにちの自分があるを、想う時、

 そばにあって、いつも支えてくれた人のお陰と、知ろう。

 継続なる力を、与えてくれた優しさに、心から……ありがとう……

 それしか、ない。

 こんな自分を、いたわってくれた、その心を、

 涙は、決して、忘れない。

 夢の中でも、忘れない。


「僕ね、牡蠣かき、大好きなんだ。美味そうだぁ。まず……んん……フウゥ……」

 レモネードの甘ったるい酸味が、私の中へ熱々に差された微量の、喉から鼻へ抜ける顛末てんまつである。

「……ん……フゥゥ……」

 涙交じりの、やや甘じょっばいであろう、依津子さんの一段落であった。早朝の静寂のような、清爽の喜びが、彼女に胚胎したかの顔であった。このまま、日中の燃焼、更に夕刻の充足と収束……明日へと、歩んでいって貰いたい。たった今だけは、連れなく背中を向け合ったかの、分身達であった。さはいえ、この場所に、このテーブルの上に、竦黙すくだまる懐かしさが、誰かの本当が、ほくほくと、恰幅のいい湯気をまくしたて、届けられていた。それは、まだ、しかと語り出した訳ではない。寡黙な顔に、多くが込められていよう。出来たての孤独を、辛抱していよう。手をのばしのばされたい、本当が、見え隠れしていた。まず、こちらから、そうしなくては……と、依津子さんの表情が、煮詰まっていった。涙に遮られていた視線の集中が、沈黙を破りつつあった。

「いただきます……」

 合図の呼応は、お決まりの、私の後攻である。無言を辞するより早く、彼女の右手は、出し抜けずにいる。いつも退がりがちの私には、わかる。レディーファーストが、辛そうで……。言葉だけでも、がしたかの……。

 みなが、ここに集う今、それにしてもカラフルな、愛の色合いに、息が詰まりそうで……しゅんじゅうんは、言葉を失ったのだろう。暖かなその風を押し返すかの、先客のふたりの満悦が、すぐ隣りから、見守っている。充分、お腹一杯といった眼差しを、感じる、私。五感の全てが、激しくつつかれ、研ぎ澄まされた傷心は、私達を含め、疲れの色とも取れる、静謐せいひつのひと時へ閉じ込めた。海の香のヴェールは揺らぎ、くゆりたつ想いの影法師と化しては、冬の窓辺へ逃れゆこうとする。誰しもが、そうしたい……それをわかっている、心の手のゆくえを……早く……と、自分へも、言い聞かせていよう。依津子さんの佇まいに、それぞれの心が投影され、彼女というぞうを創り上げ、魂のありに灯を点すは、彼女任せの自由をうべない、親和輝くおもゆさを溜めたまま、かたを呑んだ、そのままで、心の目は、あまりにも優しく、さりげなく、刺さるようだ。

 さあ……冷めないうちに、早く……あのひとんなじ心は……変わらない、あの日のままの自分は……変わらないでいてくれた……あの日のふたりは……もう……どこへも往かない……目の前に、あるでしょう?……温かく、微笑んでいるでしょう?……待っている……君のその、温もりを、息づかいを……美味しい! の、ひと言を……。どんなにか、待ち焦がれていた事か……どんなにか、逢いたかったか……ただ、その為に、ひたすら、それだけで、生きて来た事か……生きられたものか……。その一杯が、君を温めたいと、言っている。熱い熱い顔をして、泣きじゃくりながら言っている。わかるだろう?……。さあ!……どこへも往かない、何も変わらない、あの日へ、あの、海へ……。一杯の風が、君を、喚んでいる……。

 溜まり易く、その一方の、どうにも出来なかった、悪しき時の永さが、天秤に……無理矢理、手をかけて、泣きすがる。のばした手は、さびしおりを携え、引き算なりし日陰の木に、粘れない無鉄砲を詫び、ひたすら祈り、深く考える、善業ぜんごうの覚醒を捧げている。鉄は、熱いうちに、若いうちに打つ。打てば響く、はがねになる。冷めた、草臥くたびれた鉄を打とうものなら、鈍く響く、心と体を引き離す悲鳴は、跳ね返ろうか。善きものどもは、ビタミンと同じく、はかない。しずかに影をはべらせる、懺悔の涙は受け容れられ……仄かな喜びという、日まりとの出逢いを施された。真摯一途な想いは、海神わたつみこころに届いたのかも、知れない。自分に、負けたくなかった。こんな自分に負けるのが、許せなかった。すぐに通り過ぎてしまう愛の素顔を、求め続けなければ、いけなかった。海のおもての静臥たる目が、黙って、見ている。謦咳けいがいに接しているのは、端くれどもか? それとも、海、そのもの?……。鳴り止まない声が、運命をあわれむように、悲しく、脆弱なはかりを、揺らす。亀ののろい歩みは、日輪昇るが如く。にもせよ、何れだっの如く。かの、向こうから現れようとしている、しあわせの風に、想いの悉くは、揺曳する。傷つける人。いつか、傷だらけで舞い戻る。いと、傷つき易し。

 ……聞き届けた依津子さんの右手が……注ぐかのように、木製の散蓮華レンゲふくしていった。やや前へのめり、熱帯の海のえんに遊ぶかの、かくしゅう顔の女ひとりに立ち帰った。名状し難い想い出の、様々な粒子の力は絶大。先程来、会する悉くを、限界まで誘い込んでいたのだ。そのみぎわ、横一列に、総員の目は、あった。それぞれの懐かしい海を眺めては、心で、泣いていた。語っていた。れていた。素直になって!……と、叫んでいた。喚んでいた……。私は、あの、波にさらわれし黒砂の、稲村の浜辺に立っている。そして彼女は、見た事のない、見てみたい、失われし音無おとなしの滝を、の当たりにしていようか。時を超え、報われの一線に、臨んでいる。空と海の境界が、涙で曇った、グレーの世界の曖昧に、再びの今ぞ、立つ。

 彼女の……ひとすくいに切り取った、薄白うずじろのスープの波紋、方円の器に露と滴り……込み上げる啾啾しゅうしゅう湯烟ゆげは、泣きっつらを隠した。はぐれた米粒どもの嘆息、うつつに消えし小さな滝壺の如く、刹那、宙に怯えつつ……焦がれのひと口と求め合い、相身互い、差し出しつ、けつ結び、ただ、待つ。


「……ん……スゥッ……」


 と、柔らかく出逢った。

 融けるかの、落ちるかの、無くなるかの……ほぐれの想念が、依津子さんを満たしてゆく。少年少女達が、はしゃいで壊した欠片が、冬空を架け渡して来た、冷えた体に吸い込まれてゆく。その、ひと口が、先駆け届くより早く、しっとりと触れようとする、誰かの手が、私には、彼女の瞳の中に、見える。……さにあらず、親に悪さをたしなめられるように、掴まれ、造作なく砕かれてしまった、岩塊の如き昔年が、優しい風味を噛みしめる再会をしょうがんし、懐かしい面影のお代わりどきへと、いざなう。冬の強情は脆くもくずおれ、夢見心地のしゅんあいの満悦が、暖流に浸る喉越しに連れ、早咲きの花のしとやかささえ、彼女の表情を横取りしていった。愛ある故の、小言を聞いている。愛される故の、逃れ難さを覚えている。それは、愛する故の、何よりの証しだった。言うまでもなく、溢れんばかりの断片フラグメントは咲き乱れ、季節外れの、年越し目前の、自ら飛び込んだ不意打ちに遭い、ただ、渇望の人となって佇み、描き始めていた。先走るほどに、誰彼憚らぬほどに、今となっては一切合財、棄て置けぬ、想いつく限りの全てが、窒息させる。はんなりとした花に憧れ、手繰たぐっては繋がる何かが、正直な、その先に見えているのだろう。更なる、度重なる、愛の色合いを……もう、押しとどめられない、押し潰そうとする、こんなにも無情な……涙という、回答を……。



「……同じ……んなじ……我が家の味……」



「……」



「もう……あまり、口にする事がなくなってしまったけど……」



 私は、ついに敗れ、まなじりの抵抗解除を、暖流のそれで、知った。同じそれが、懐から溢れ出している。グレーの沈黙が、何もかも塞ぐようで、遡るようで、それでも届いた何かを、その潤みは、一点の微光となって包み込んでいた。移ろう色合いだった。依津子さんの色が、さびしおりが……店内の悉くの優しい隙間に、静かに待っていた心の隙間に……符合のフリーパスのようにちりばめられ、し入れられ、埋め尽くしていった。みな、暖かな喜びが、目の光に満を持している。

 愛の色合いは、気まぐれ。人は人を、家族を、故郷の土地を、そして家を、想う。そこに、手離せぬ宿命さだめはあるを、知る。責任なる、軽んじざる、生得の営為たるを。人を愛さば、同じ環境のそれらを求め、創らんと欲す。他者へ向ける最低限の礼節、その世界観はばたき、昧爽まいそうへといざなう。たまさか、この世に生まれ落ち、蒼き辛抱を、必然の海へ、風の如く乗せ、馳せんとしようが、光……届かず……こうの客となったのだ。ここまで来たのに……虚しく、引き返した。されど……この場所に今……風は、日まりを見つけ、憩い、再び……暖かな優越の光を求め、駆け巡る……。やっと、やっと……本物に逢えたのだ!

 しゅんじゅうんの合い席の行客達の、渋い喜びは、蒼き辛抱を照れ笑うかのようである。そういう、素直な心を忘れない、大人でありたいと……。申し訳ない言い方だが、人受けする、纏め役のいい子が、自分の隙間をうべない、許していた。自分とたぶるそれを、排除出来ないのだ。だから……わかる……痛いほど、よく……わかる……。正直な心が、自由なる、暖かな隙間を、創るという事を……。

 汗の色を、眺めていた。私達の辛抱は、頑張り切れず、人生に価値を与え切れず、時間を虚しくしてしまった、その事実の代償であるのは、言を待たない。しかしながら、時間なる物柄ものがらは、達成を目指す、創造のプロセスに費やされた、辛抱の時間であろうが、それが報われた、充足の時間であろうが、止まらぬ針は、否応なく、惜しみなく悉くを奪う。失われた時は、遅かれ早かれ、誰にでもやって来る。時間の価値観のパラダイムシフトは、何れ、足並みを揃えるのだ。終わりはいつも……消えがての、暮れなずむ喪失と、いう……。

 薄汗の煽るは……逃避という、邂逅かいこう。迷走という、追究。過小評価という、拡大。過去という、忘却、未知……。そして、未知という……求め続けていた、現実のゆく先……。昔の自分が、今という時間に、帰って来たのだ。……かつて……幻の合格点を、ふり翳そうものなら、殊と同性からの反感を買うと同時に、他者を見下しがちの中に胚胎する、孤独の選択は迫り来るのだ。ただ、風のように、自由な隙間を探しても……想い知るべくもない正直さは、オウンゴールを告げるばかりで……。その、書き換え手続きに、外せない必須条件があった。その種子を見つけ、の当たりにしているのであった。愛という名の、初めて知る、優越の感情であった。手応えであった。そうではないと……わかっている、心……。それを偽る事に、馴れの天秤は、汗の色をはからざるはなかった。小さくても、見えなくても、たしかに、きっとどこかで、生きていたのだ。生きていたのだ。今も生きているのだ。これからも……生きてゆくのだ……。

 あの坂道を駆け登れば、達成の頂きに続くかの、分水嶺に揺れる、巨大なその天秤のように……九十九つづら折れ……想う所、移ろい……汗の色とてなぞらえる。険し坂の踏襲、その一歩の度、ひび割れ、ひと息の度、こうなる倒壊劇へ迷い込む。坂の途中に、はかりの番人がいる。旅人が携える、汗の色の通行手形をはかる、分かれ道を守っている。本気の汗なら……尚も登り、完結へと詰め寄り、たける汗の焦がれるて、現実との合流点、返り咲く好機を、視程に収められよう山道の方へ、案内する。一方、このままの不安を、わかっていながらこまねく汗なら……登るようで、そうではない……登っていない、登れない、往けども往けども辿り着かない、未踏の頂きへ続くが如き、不都合な回り道の方へ、手引きしよう。何れの行客とも、時間の騰落の狭間のやつかたたるにつけ、憂う自由あり、その手形を棄てる自由とて、ある。実行期日が迫り来るばかりの、不都合手形にとり、その敵の敵は、味方ともなる。ネガティヴな発露のよろいを纏えば、不都合は、好都合ともなる。さはいえ、それは、手形のジャンプのようなもの。虚しい一時しのぎに過ぎない。社会的信用を致命的に損ね、嘘も、恨みも、悲しみさえ、がっちり掴んで離せなくなる。道を、誤る。……違う? 明らかに違うだろう? こんなはずじゃないだろう? 危険水域に達してしまうのだ。

 一段上がって……そんな、要らない手形を棄ててしまえば、虚構をぶっ壊してしまえば……いつでも復帰流は招き、拒まないのだ……。私達は、裏目逆目に翻りがちの汗を偲び、まだ愁眉をひらき切れぬ身の上に耐え、辿り着くべき先、その頂きの向こう側に展がる……岬の海原の燦爛さんらんたるしあわせ、平和を、大義であると、志している。嘘偽りのない、生半可ではない、本気を捧げている。その時こそ、海神わたつみの天秤は平衡を取り戻し、グレーの世界を一掃する風を要求し、真実の暁光たるは、射し恵むであろう……と、して。


 ……私達は、私達のして来た事は……間違ってはいない……。

 

 女になり切れない女と、男になり切れない男の嫉妬が、風に洗われ、もっと、もっと、風に、化身してゆく。時の価値観をじっひとからげにして、勘違いの熱狂にさらした、青春の至り。意趣返しの偏見の苦悩にやつれた、孤独。自らの責任における問題を、安直に、他人ひとへ投げつけがちであった。種を、ばらいてしまった。放置されたそれらは、所在のなさに、しかるべき泣き濡れの坂道へ、迷子の涙をうずめるしかなく……そして、今、風のように、消えゆく何かを、無言の語りは、見送っていた。丸裸で遺りしものが、生まれたての赤ん坊のように、震えていた。母の乳房を探し当てよう、逞しき生命活動は、まだ小粒の、いたいな涙のままに、その手をのばしている。同じ夢を見ながら求め合うなら、出逢わぬ理由が、消えつつあった。いつかのマスターの言葉は、やはり、本物だった。自由を奪い合えば、失う。自由を分かち合えば、遺る。わがままな恋から、深い愛へと移ろうような、薄汗ではない、本気の消えない涙であったろう。誰かの為に、一途に心を砕けば、その中のひとつ以上は、分ける事が出来る。信じる事だけが、遺っているのだから。遺るべくして、遺ったのだから。余計なものは、淘汰されるのだから。それはまた、泉の如く湧きづる、分身の誕生であったろうか。

 的を射抜いてシンプルな、届けとばかりのき声が、この空間をい回り、喚んでいる。応えてはくれない過去の残像をも、塗り潰す、新しい悲しみは、どうせ、悲しみを上書きするだけの、影と影が重なり合うかのような、いっそ空虚な、せめて最後の、言の葉のわがままな独白であったのか。手離した、離れていった魂を、喚び戻したかろうに。心模様が、ただ、悲しい。ありとあらゆる建設とて、遥か彼方に見え隠れする、喪失へと、つづまりゆく。創って来たしあわせな時は、あます所なく、失われた時に受け容れられる。愛し愛される為に、生まれて来たのだ。喜びが仄めく今なら、それを信じられるなら、失われた時が、どんなにか、愛おしい……。失くした大切な色が、こんなにも、いたわしい……。

 愛されたいと願うより先に、愛していなければ、始まらない。自らの抑止力を、ゆるがせには、出来ない。ネガティヴな真情の発露にこそ、本気になれない、力不足の証しが見える。

 依津子さんは、自分自身を、沁沁しみじみと味わっている。漸漸ぜんぜんと懐へ流れ込む、音の無い滝のゆくえを、ぼうの涙は引き留める。さぞ、切なかろう。定めし、痛かろう。どれほど……語り尽くしていよう……。ざんの多くに、その所を変える事を願い、揺るぎない心の座りに至った、本当の姿が、今だけは、手離した過去の薄情でありながら、遺りし愛の隙間を探り当て、門前にて、立ちすくんでいる。時は、こんなにも立派な、想い出がぎっしり詰まった家を建てていた。坂際さかぎわに佇む、日当たり良好な、あの、暖かな我が家のような、そっくりの家を……。そして、風は、ノックする。扉を、叩いている。彼女になり代わった風流れは、優しい目をして、そっと、分身の心の扉をノックしていた。届きそうな手が、たとえ届かなくても、それでも届いて欲しくて、聞いて欲しくて、何か答えて欲しくて……また、ひとすくいの知らせは、口元からノックするのだった。懐かしい口笛のような味で、あったろうか。家族みんな大好きな、お母さんの味で、あったろうか。もうこれ以上、失くしたもので、責めないで!……と……。

 風の歌が聞こえる……風の声が鳴り響く……子供の頃から馴れ親しんだ、生活の匂いを連れて、戻って来た。……声が聞きたい。語って欲しい。語り尽くせなくてもいい。語り尽くすまで、夜通しでもつき合って、聞いていたい……。それは、みな、同じ。誰しも、尽きる事のない想い、願いは、誰かの笑顔と共に、風のサインのようなノックと共に、溢れ出す。その一気呵成をおもんばかり、海神わたつみは、みなそれぞれに、平等……なる、優しさの芽をたもうたのだ。そこに、甘えていた、甘え過ぎていた、私達の旅は、今こそ、合流の回帰線の風をとらえ、学び、風に吹かれて、尚……。再び、流れゆくだろう。必ずしも言葉ではなく、形ではなく、目に見える汗でもなく、ただ、そこにある、熱感。小さくても、息づかい。影のような、透明のヴェールの移ろい。見ようとすれば見えて来るはず、応えてくれるはずの、互いによく知る、んなじ気配であった。であるから、信じられるのであった。同じような格好をして、幾層にも折り重なり、積もっていたのだ。少しばかり剥がれようと、消えてしまおうと、人ひとりの歴史は、現実に獅噛しがみつく魂は、そうは問屋が卸さない。自己否定とは、なま微温ぬるい本気では、用を成さない。

 私は、寂しさを拭えぬうちに……小学生時代の少年に、喚び戻されていた。耳の奥で、寡黙な父の言葉が、こだましている。ありがとう……と、共に。


 男は、悲しい涙は流すな。

 大変だった事を、達成した時に、

 嬉しくて、泣け。

 笑って、笑いながら、堂々と、泣け。

 悲しい涙を、人前で見せるな。

 ひとり静かに、涙を殺して、心で泣け……。


 私の、座右の銘だったのだ。未だ果たしていない、親不孝な息子の約束だったのだ。いつも、泣いていた。ひとりで、泣いていた。まだ何も出来ていないけれど、ひとりぼっちの涙なら、私にも……。彼女も、そうだったのでは、なかろうか……。もう、ひとりは、いやだ。いやなのだ。いやに決まっているじゃないか。こんなにつまらない事はない。これ以上、残酷な話はないのだ。ひとり以上、平和と隔たる、何がある? 何がある?……。何もない。んにもない。ある訳がない。そうだろう?



「……美味し、ぃ……」



 ふり返り、またふり返りながら涙雨こぼる、訪れしひとの雲間から、みな、今か今かと待っていた、ひと言の日が、射した。辺りの安堵が、なだらかに窺える。私達ふたりは、ようやく、どこにでも居そうなカップルと、言えそうだ。その言葉を引き継ぐように、私も、やっとひと口……


「ん……美味しい、んん……」


 健康に良いものは、美味しく感じられるものだ。依津子さんも、自分の抽斗ひきだしの中から、それに馴れ切っていた、あまりにもありふれたワンシーンを、ひと手繰たぐり……また、ひとすくい……して、体に流し込む。想い出だらけの反芻はんすう体質へと、まるで、もうひとりの自分の為に、失った自分の為に、新しい何かを創るかのようだ。いつもの、あの笑顔、彼女らしさの理由を語りつつ、美味しそうに食べている。舌は、愛を覚えている。愛を知っている。創り方まで知っている。自分の不都合の類い、何でもかんでもストレスの所為せいにしたがる、ネガティヴな発露がずかしかろう、元気の源を証言していた。健康もまた、引き算だ。ストレスを、引けようか? 自分の自由意思で加えられよう、必然的な不都合を引く事から、健康というしあわせは始まる。ここでも、そうではないと、わかっている事から……そして、出来る事から、なのである。色づけし易い、ストレス? 運? 偶然?……これらを、汗を裏切る不実なものとして、達成のクロニクルに登場させるべきでは、ない。黒いものを、乱暴に白く塗り替える為の、肯綮こうけいあたる、剴切がいせつな友軍のよろいに過ぎない。薄い汗色を、もっといい色に変えるには、誠しか、ない。諦めなど、あり得ない。それにしても、カオスなグレーの世界が、かくも懐に沁みるのは、確かに、その証明の道ゆきに至ったのだと、更に前のめりになる私であった。

 自らの悔悟で、そうなってしまったと、真正面から受け止められなかった、グレー。殻の中で窒息していた貝は、食べられない。成長が滞ったかの、季節外れの、未踏の雲の峰をゆくが如き旅路に、救世主メシアの光明は、細々と生き永らえていた。海神わたつみの恵みは息を盛んにし、火がおこり、見え隠れするも、蝋燭ろうそくの灯は、まだ、小さい。風流れに、その火芯の傾きは、時を量る針の役目を、五月雨さみだれる涙、揺ら揺ら、鬱陶うっとおしがりもしない。届けたくて、届いて欲しい一念を、徒爾とじに終わらせては、いけない。私の部屋の常夜灯veilleuseをも、一堂の心の目と共に引き寄せられ、待ったままである。優しい味の牡蠣かきのスープが、嬉しくて、美味しくて、みんなにも食べて欲しい。色んな我が家の味が、飛び交っている。きっと、きっと……

 ……届くだろう。わかるだろう。風は、連れて来るだろう……信じているなら、愛しているなら、それしか信じられないなら、こんなに愛していたと気づいたなら……きっと、帰って、来る。帰らなければ、いけない……と、して……人と、して……。大切なものの寸前で、自分が守り通して来た限界で、双方の岸辺を架け渡す、懐かしい伝達物質の交信が、互いに、涙の雨打ち際の旋律に乗せて、声にならないコールを重ね続ける。果たして、慎ましく譲り合っていた。人を人たらしめる、心のミニマムアクセス……家族、あるいは、故郷に贈る、誇り……なるものを。影が、風を演じ切ってこそ、輝ける汗を。であるから、その姿はなびきもしよう、日まりと、なったのだ。

 かと想えば……それ所ではない、ぎょうかんを読んだかのような、柔甘やわあまつんざく光波を纏った、無言のモノローグが、再び奥の厨房から……聞き届けてみ出し、応えて瞳のままに時雨しぐれ、にもまして、せめて最も静静しずしずと、表のドアにかしずくレジへ、


 コツ、コツ、コツ……


 と返り咲き、流れていった。爽やかな匂いが、した。ち切れぬもやを諦めた訳ではない。頂きの向こう側へ、先にがした滝雲たきぐもの海の隙間から、しょうりょうたるこがらしにも耐え、冬籠もりの踏破の証しかの、磨かれたかの、時期尚早の春待ち顔の風情が、通り過ぎていった。一瞬の出来事の気配が、一瞬ではない時をのばしてちりばめ、移ろうは現実として、レジ横に立ち止まった。向き直り、こちらを見ている。見て、いる。美しく潤んだ目が、永く、永く、手繰たぐっている。巻き戻すうちに、自然に想い出している。頂きの超越の助走路に乗り移らんと、我が身を瞬時に掴んで果たし、さても滑らかなランディングからの、気韻を損ねぬテイクオフへと繋げるべく、語っていた。新たなる旅立ちを、求めていた。それを可能にしてくれた、もうひとりの声の主を、遥かな瞳で、見つめている。音無おとなしのダイアローグとなった、愛おしい目が、そこにある。初めての目が、そこにある。初めてではない愛は、初めて見る愛と変わらない、感動との出逢いを、正直な目が、そのまま受け容れたのだ。救世主メシアの分身が、いた。数多の現実を呑み込み、そして吐き出し、どれほどの代謝、どれほどの取捨選択を繰り返し、愛する故の細胞分裂なる、生命活動を、受け継いで来たのだろう。瓜ふたつの、女と女。共に、自分と分身を透過して、自分と分身を見つめていよう。ふたりの演者は、同じ誰かを表現して、麗しく募り、限りなくひとつになりつつあった。帰りつつあった。優しい目を、している。たとえ読み疲れていようと、冷めていようと、そのストーリーと、そのスープは、ふたりを、あまりに優しくさせる。そういう、目をしていた。髪のひとすじばたきひとつ、漏れ息ひと、だから、だけど……言の葉のひとひらを待とうものなら……いっそ……。こんなにも近い待ちぼうけを、私は、見た事がない。こんなにも近いすれ違いを、みな、見た事がないだろう。待ち遠しさだけが。うずたかく積もっていった。れては、いけなかった。淡い光に隠れた、少し危険な、やはり見逃せない痛みに、嬉しさの鎮痛薬は、かかるニアミスのなかだちに、力を尽くすばかりである。

 喪失へのプロセスが、彷彿として、輻輳ふくそうするばかりだった。本気を知る汗と、やり過ごした汗。喜びを手に入れた涙と、悲しみを選んだ涙。守るべきものを掴んだ色と、奪い続ける色。時に、種々雑多の異体、あるいは、あべこべの変移体は、持ち寄るとも散らばり、つかず離れず、夏の夜の、夢のまた夢の如き、過ぎ去りし日の、音無おとなし細小川いささがわの蛍合戦にそうして、泣く。達成に厚く、悔悟に薄い、ありがとうに、泣く。薄汗に巣食い、本気の汗に消える、ネガティヴの発露を、嘆く。見果てぬ横恋慕は花開き、かの、盛夏の宵を彩る、鎌倉花火をも引き合いに出さんとするしなこそ、作ってみせ、飛翔体の生命いのちは咲き乱れる。誇らしく悲しい涙を、見ている。それでも、今にして、間違いではなかった……プライドとプライドが、見つめ合っていた。目を見なくても、わかっていた……。この場にまたたく、目という目、口ほどに物を言う、想いという想いの丈が、二体の分身に注がれ、されば、わかり合いつつ、あったろうか……。自己犠牲なる救いの手に、そっと……わがままなよろいを脱がされた、双美人の本物の息吹きが、見えない人は、もう、いない。嘘と誤魔化しが通用するような、薄汗の世界から、眠っていた本当の許しが、受容が、蘇ろうとしている。今を分かち合う一同は、みな、濡れそぼるふたりに悉くを預け、尚も注ぐほどに、溢れて紫吹しぶかん時の歌を、けたたましく駆け登る時を、もう、誰も抑え切れそうに、ない。

 泣きながら、汀の日まりに佇む、ふたりの女性のひとつの影が……忘れ得ぬ想い出のワンシーンから、立ち現れたかの表情に、つき従うように……依津子さんは、初めて、顔を上げ……レジの方へ向いた。……目が合った……。逸らしようのない近さで、さっきまでの全てを、途方もなく永い時間を、一視同仁の力を借り、覆さんとする激動の早鐘はやがねは鳴り響く。しかし……互いにたまらず奔出する証しが……ない……まだ……ない……。満を引いたままの弓のしなるは、それぞれに、向け合うはんの側線曲流を張り、壁を成し、その一線上の頂点にわだかまる涙顔を、辛うじて足下から支持している。互いに主張する自由が、互いに尊重し合う自由への、和平交渉のシナリオの叩き台を、自分の抽斗ひきだしから引っ張り出して見せ合っている。最早、隠すまでもない、無言でかばい切れるものではない、真実の声が、弥栄いやさかの時へ塗り替えようとしていた。これ以上の悲しい涙を我慢するふたりは、それ以上の喜びの涙にすがろうものなら、時の女神は、海神わたつみと結びもしようか。なだらかな自由息づく、美しい海辺の一景を、過去と未来のこの隙間に、さぞ喚び戻したかろう。古さの中に眠りし未知に触れ、新たなる道をゆけば、何れ誰しも訪れる、全ての時間の喪失なる、別離わかれの悲しみの始まりで……あったとしても、旅の終わりに辿り着くまでに、無知であった過去を詫びるように、未知を愛せば、新しさは色褪せず、古き良き細小川いささがわは守られるだろう……。


「あの……」

 一見いちげんひとは、迎えたひとに語りかけた。

「はい……」

「この雑炊ぞうすい……我が家のものと、よく似てる。味も、んなじなんです……とても美味しい……」

「ぁりがとうございます……うっぅっぅ……」

 立ったまま、艶の乗った白く透けるような顔が、涙の奔出に持ちこたえられない。半透明のかすみいろに埋め尽くされるかのまま、肩をふるわせてうなれた。短かいセンテンスから始まった、贈り贈られる奔出が許したのは、枯れない涙だけだった。悲しみに奪われた、しあわせな時間の、拭い切れない寂しさだった。うねり逆巻く冷たい海に投げ出され、なぶられ沈んで溺れるだけの、落ちるだけの、無抵抗の我が身に、無救済の現実に、一点の救いの光明は見損なわず、見棄てず、射し込む光は正直な言の葉に託してこそ、真っすぐ届いて引き上げたのだった。救い出したのだった。てば応える、心と心が、ようやく、ストレートな形で響き合い始めた。その流れが見渡せる方へ、やがての安堵は、手繰たぐり寄せる手をのばして、招いていようか。みな一様に、優しく自然な納得へ、導かれつつある。先客のふたりも感極まり、融け出した道づれのともなみだとて、一杯のスープのように、温かく見守っていた。


 ……自分の汗の色を、自ら吹かせる風だけではなく……他者という、社会という、現実という……コントラストが鮮明な風になびかせ……天秤を揺らせば……しあわせの道が、見えて来る。そこにって立つ。常に立つ。自分は何をすべきか? 今の自分が出来る何かが、見える。もし、そこに、このままでは……の想いが邪魔をするなら、分かれ道に立っているのだ……。そして、迷い立ち止まる時間の永さが、危険な絶対評価の自分の風を、吹かせもしようか……。汗の隣りには、いつも友がいる。正直者の同級生が、そばにいる。誰が名づけたか? みな、親しみを込めて、涙と呼んでいる。みんなよく知るお節介焼きは、どこへでもついて来たがる。やっぱり、幼馴染みだから。つき合いの古い大親友だから……そいつがいないと……共に寂しいのだ……。

 

 私は、そんな事を考えていた。女同士の、見えない絆の強さを、その懐かしい色合いを、うに確信を込めて、一方ひとかたならぬものであると、結論づけている。一同の目は、涙の証明をはばかるに、場違いの無理がある。どうかたの端役は袖にけ、本心と本心の連れまいの段に、道行みちゆきの涙は、本水ほんみずの趣向を求めるが如くである。ととのい極まりしじょうに、両々あいつ伏流の表出を、目は言の葉以上に語り、しかも先駆けるに過ぎようか。口が追いつくには、正直な目を抑えようものなら、その口もまた、正直な沈黙ばかりではないと、わかっている、表白の解放ぶりを……しゅんじゅうんの絶唱を……みな、夢見ていようか……。涙だけの所為せいではない、と……。


「陽彦さん」

「うん」


「聞いて……」


「……」


 ……私は、ハッとして、息を詰めた。立ち尽くすひとの耳目にも、先客のそれにも、届かぬ距離では、ない。一杯一杯たる我が身を、みな、この上とも抱え込むしか、ない。今更言われなくても、既にとりこと化しているものなら、それぞれのうちにも息づく。異口同音の回答たればこそ、濡れてまみれて読み耽っているのだ。

 私の、彼女に纏わるプレイバックの軸とて、1ミリもぶれない位置で、急停止した。早い情報処理があまりにはかなく、切ないほどのいっ当千とうせんたるレスポンスが、怖いとさえ感じた。彼女のワンシーンでさえ、今の私と、遭遇したばかりの、見知らぬ依津子さんの、全てであった。初対面の人なのに、私には、わかる……わかってはいる事が、そのまま滞ってしまった心が、眼前にちらつくは悪戯いたずらが過ぎる。



『私を、よく見ていて……』



 ……出逢ったあの日の君が……またしても……いや、いつでも……蘇らざるは、ない……。君を巻き戻せば、君は、いつも先を歩いている。私達ふたりの、まだ浅い、鎌倉の歴史のひとひらが、淡雪のような、ひとひらが……降って来たのか?……。グレーの空模様を担う光が、雪に映えるなら、消えゆく雪の、消えぬうちの、刹那の雪明かりを惜しむに、くはない。初雪で、あった。君は知って知らぬ顔をして、晴れ間が兆したかに見えて、引き入れ、安心あんじん立命りゅうみょうのうちに、今日という日を我が物にする。もうひとりの分身と、結び。あの時……よく見てあげられなかった、私は、今、隣りで、こんなに近くで……見ている……聞いている……私だけではなく、ここに集う全員が、見逃すまい、聞き逃すまいと……。そして、更に私は、依津子さんとの最初の想いから、まだ知らぬ最後の想いまで、往ったり来たりするべく、本気を……ふたりに。ふたりは、自分と、もうひとりの自分に、冷めるはずもない真情を捧げ、想起集中の信念の人と、なってゆく。

 自己の表現と、証明。たとえば、想うに任せぬままの、不安なつぼみと、花開く、本気……。そのふり幅の最大公約数は、自由における守備範囲は、どこまでも、グレーの領域にあるのだろう。浮いつ沈みつの一生の、誰にもわからない、歩み寄りだろうが……。挫折から繁栄への追体験は、あいたがいの、マイナス表現と弁証をなかだちする、控えめな態度をこいねがう。収束なる、終わりなき頂点へ向けて。

 汗を、愉しめそうである。私は、そんな気がしていた。涙が、日まりのように暖かいなら、その涙が遡れば、汗に戻るなら、本気のそれこそ、辛抱の中に日まりを見つけ、愉しめばいいのだ。自らを追い込むばかりでは、窒息する。笑顔の返礼のように、仄かな往き交いが嬉しい、吝嗇けちな心は似合わない、悠揚たる物腰たれば、継続が、見えるのだ。そして……


 ……言外に伝わり来る、風……立ちぬ。蝋燭ろうそくの焔の如き、無言の寂想……小々波さざなみ、匂い立つ。雪明かりの淡い望みは、寂しく揺蕩たゆたともしに炙られ、早熟の春が偶然に舞い込む、わく以上の不時を告げるようだ。ならば、修道しゅどうを踏まざるは、ない。彼女の昔語りが、交じり合いつつ、ある。火の人肌にぬくめた、雪融けのしゅんすいたるは、柔甘やわあま般若湯はんにゃとうの如く、訪れしひとを、酔わせる。


「……子供の頃……この雑炊ぞうすいが大好きでね……ふたつ違いの妹と……いつも楽しみにしていたの。取り合うように、競って食べてた……」


「……」


「懐かしいなあ……材料も、味も、全部んなじ……お母さんが作ったみたい。お父さんはね、『こらこら、あまり慌てるな。女の子なんだから……』って。家族四人、笑いながら、毎日毎日、楽しい食卓だった……忘れられないの……あの……とてもしあわせな時間が……みんなの笑顔が……」


「うぅっ、ぅっ、ぅぅ……」


 寂風せきふう悲雨ひうける傘もなく、立ち佇まう待ちびとえつは、張り詰めた糸を切り……壁頼みの体側を歪め、前へつまずきも出来ぬ、棒立ちの矜持へすがる。足めされ、床に吸いつくばかりの残躯の孤独は、反作用に逸れゆかん、大切なものだけをがそうと、く。別離わかれが辛いと、遠吠える。溢れるをき止められず、目の堤上にわだかまる、名残惜しげな魂は、裏切りのしゅっぽんにあらぬ、我が身の宿命さだめを、風に託して背中を見せつつあった。


「もう、何年経つかなあ……」


 遠ざかる影のような、依津子さん。


「妹と逢えなくなって……」


「……」


 もしかして……たぶん……やはりの、妹であった。耐え難いまでの、言葉を切り離した姉の主張は、揺らめくともしの姿もえと、寄り添う衆目一致の指先こそを待つ。みな、自らの琴線を爪弾けば、ほのおの色彩、寂想の調べのままに、悩ましい納得から慈悲じひ憐憫れんびんへと、情は移ろう。そこにある悲しみを、そこに見える涙を、誰かが触れる指先から注がれよう、慰藉の心の形通りの、火芯にかたどられた。泣けば応える手は、優しき人泣かせ。涙の主人公さえ貰い泣くかの、仄かな雪明かりの言の葉を集め、先々をちらつかせるは、風花かざはなとなる。てんきゅうの心を、教えるのだ。しゅんじゅうんの如きは去れど……頂きを越えようとも……遺りし者の、涙雨の切なさを。だからこそ、雪明かりのひとひらの、はかなさをも……焦がれよう事を。一同それぞれが眺め、語り合うは……想い出のコレクション。当然ついでに、自然に換言すれば、それを……しあわせと、名づける。

 依津子さんの表白は、てんきゅうをも衝かん勢いで、何から何まで上ずらせてゆく。取り巻く他人の予感も、この姉妹の紆余曲折の道のりに似て、つつかれつつかれして終章を迎えた。正に、真正面から向き合っている両人は、「やはり……」の決着さえ、追従する事を怖れていない。その、たくさん籠もった期待のゆくえは、言うまでもなく、ふたりの真実へと、みょうりょに背かぬ助っ人の、もろの剣の如きまなしは赴くのであった。信念の人たらしめる、言葉の奔出は、最早、経年劣化著しい、遠回りの暗渠あんきょの如きなど、放棄していた。美しい姉妹が、悲しい湯気を吸い、寂しい吐息を漏らす度、聞こえる言の葉が……痛い。繋げない手の後ろ影を追えば、想い出は、ひしと、手を繋いでいただろう。微笑んでいただろう。他者から奪うばかりで、自由を分かち合えない時の永さに、何れ、全ての自由は枯渇してしまう。何の為に、汗がある?……誰の為に、汗を使う?……想い出を隠したくはないでしょう?!……これからも、このまま?……これから、どうしようというの?……。私には、彼女の声が、わかる……。でも、今、何をしようとしているのかまでは、わからなかった。ただ、真っすぐな彼女の、下心なき発露を信じつつも、驚愕は隠せなかった。

 ふたりの魂の慟哭は、最後に遺っていたものに、初めて出逢ったように辿り着いた、その証し。これから手を繋げる、失くしていた、汗の、愛の、涙の、その、色……。決して、遅いという事は、ない。色次第。心、ひとつ……。大仰な話かも知れないが、戦争に敗れた、資源のない日本は、昭和四十三年には、GDP 世界第二位に躍進した。貿易で復活したのだ。仕事で、過去の借りを返したのだ。その汗こそが、日本人の誇り、日本らしさである。真摯な心が息吹くなら、これからを、赴くままに、ゆけばいい。本気を尽くして、ゆけばいい。歴史の遺産は、あまりにも多い。人ひとりのそれであっても、大切なものは、多くの経験を語るのだ。世界は、日本の技術力と、精神性を待望していようか。そう考えるなら、個人が担うべき役割と、そして更なる夢が、どこまでもばたいてゆけるだろう……平和の為に、何かが出来るだろう……。しあわせの種は、誰の心の中にも、必ず、ある。誰でも、育てられるのだ。諦めなければ、誰にでも……日はまた昇る……。


 ……折しも……立ち疲れていよう、そのままの妹が……かたわらの、レジを設置したチェストに片手を突いた。その手から伝える居たたまれなさに……掴めぬ拳の抵抗は虚しく……木目の流覧さえ、指先が引っ掻くに過ぎないまま……。しゃがみ込む膝はくずおれ、しゃくれるだけの今を、足下にうずめるようにこごまる……


「あぁぁぅぅぅ……っ、ぅぅぅっ……」


 辛うじてずり落ちぬ、遺りし指節屈曲の五本とて、細々と天を指し、その棄て身の圧が、先すぼまりのもろきっさきのように、自らに突きたて、無色の血潮は哀切の涙となって飛沫しぶいた。

 人という人の心の目が、ぼうの涙で、まなじりを裏切った瞬間だった。姉妹の、美しい想い出を壊し、失くした自由を隠し通して来たざんの、折り重なる幾重もの疾風怒濤であった。うずくまる細身の背中から、容赦なくひと呑みにするは、予感を一遍真面まともに蹴破り、咄嗟に訪れた。波の咆哮、無理もない。海角天涯かいかくてんがい古疵ふるきず、癒し難い。喚呼の手は、翻弄の溟海めいかいの如き、面弱つらよわしにこそ挙がっていた。それは、許し合える、意地と本心の相克劇。感涙は、りょうに富む台詞回しであった。永い時が、ふと立ち止まる今の一点に、しなれかかる。たもとを分かった袖と袖を、懐かしさと愛しさのり糸で、縫い合わせていよう。だから……綾を成し、ひだひだを重ね添わせ、息も、汗も、そして……目であっても……心と心なら……繋がる。一枚は出来上がり……最後のひと針の結び目は、涙の雫の形に変わるなら……こぼる。今ここに蘇る、高見家の想い出は、汗する翼を得て、他人ひとの射しかける日に浴し、玲瓏れいろうたる歌声にいだかれつつ、瞳にこそ灯っているだろう。時間の情けに、過去の全ては、それにしても美しいという面影しか、遺さない。

 ……過ぎ去りし時……失いしもの……。時代を見つめる目……その向こう側で、まぶたの裏で、誰しも温めていよう、愛を、惜しみなく持ち寄るが早いか、寂しさは、姿を変えずにはいられない。分身となって別離わかれていった心は、懐かしさという形に化身して舞い戻り、涙の中に、ある。目の中に、ある。食べかけの、一杯の中にもあった。ゆっくり噛みしめ味わえば、大切なあの人のおもしが、日々の生活の息づかいが、目の中で、器の中で、くゆりたつように微笑みかけていよう。正直者の涙汗が、融け込んでいるのだから。やっと、こうして対面を果たしたのだから。家族……なのだから。失ったものは大きい。代わりに得たものも大きい。消せない想い出と同じぐらい、大きい。その天秤の、過去最大級の揺れであったろう。崩壊寸前の、いや、生みの苦しみに違いない。優しくそよぐ風だけが、全てを見通すように撫で、ゆき過ぎる……。


 ……ゆくりなくも、大昔の、冬の吉村家の晩の食卓が、彷彿とする。我が家でも、鍋のめは決まって雑炊ぞうすいだった。母が、火を止めた鍋に、少し高い所から溶き卵を注ぎ入れ、家族揃って喉を鳴らして待つ、あの風景が、ますます私に覆い被さった。今日の行き合いの顔ばせは、一様に、そんな古い経験者としての自身を想うにつけ、目をすがめるほどに懸命に射抜かんと、純情づかれ、涙に浸って慰めたかったのだろうか……。


 幾つもの、何人もの、唯一無二のしゅんじゅうんの築堤が、完全決壊して流出する幻の中で、のばしたその手はなぶられる……。砂を濡らし、洗いたて、時の奔流に任せて消え去らんとする無情は、投げやりに漂う。報われぬ、ひと掴みの憤慷慨ふんこうがい、無理解の汗染みはそそげず、理想主義故の挫折は深く、自身の歴史丸ごと葬りたい意思が散見していた。時をとらえ、まさしく、風雲際会の潮流、汗が形を成しつつある。饒舌になれない、薄笑いひとつ……だけでも、しあわせは、しあわせ……。寡黙な、うつむいてしまうけれど、手離せない、まだ話せない、しあわせ……。その色を、虚しくしてはいけなかった。叶わぬ汗を無駄と考えた時、幻の合格点の不本意をも得よう。オウンゴールの不手際さえ掴まされよう。他人ひとに尽くしてこそ、愛。過剰な自己評価は、後先の弁え甘き向こう見ず。形のない、わがままに過ぎない。愛とは呼び難い、処し難い愛である。他人ひとのしあわせに触れた時、自分の不幸を押しつけてしまう……。しあわせの饒舌が、ネガティヴの言い訳のように聞こえてしまう……そんな想い出も、今では懐かしかろう……。愛が、微笑まないものなら、うに忘れている。無駄など、どこにもないではないか?……。時間は、一見いっけん、無駄に想えるものほど、無駄にはしない。必ず、何倍にも大きくして返すのだ。

 泣き崩れる妹の、掴めぬ掌の中に、見えないものがある。逢えなかった空白を、今ようやく、しかと、潰れるほどに握りしめていた。今こうして、見えていた。勇気を見つけた風に乗り、立ち現われた姉の、日まりに浴したまなしが、果たして、同じものを見た感動に共震している。鳴り響き、止まぬ喝采と、噴出する、感謝のてんぴょう……にもせよ優しく、慈母啾啾しゅうしゅうの面相は白やける。あたかも白昼に泳ぐ氷輪孤影たるは昇り、想い知ったのだ。洗い上がったかの雫は双涙そうるい。寒の時雨しぐれは海となり、寒涙かんるいの片割れを、双つ星の宿命さだめと見定め、天球と天球のパラダイムはシフトする。宇宙のダイナミズムが、新局面へと回り出すかの胎動を、察せずにはいられない。

 そう望月もちづきの雫は、涙のあますだれ……。白き独白、白日の幻泡影げんほうよう

 ……かすかに聞こえる、江ノ電の線路の響きは、谷合いの街を叩き、山の震えが岬の海まで届いた所為せいかして、寒空に沁み入るこだま寂風せきふうに変わる。涔々しんしんこぼる月の雫は、懐かしい口笛を想い出しては架け流れ、悲しいほどに美しく煌めき、うす玻璃はりを砕いたように、何かに気づいたように、自分を投げつけたように、壊れている。ふたり共、げつの愁いをひらくには遠く、狼狽うろたえ未だほとばしるは、壊れ易い我が身を知ろうか。自分からそうしたのだ。泣くに泣けない、誰にも言えない、痛みだった……。

 さりとて、姿を見せない、セオリーの超越は、初めの一歩を繰り出すが早いか、突と、安心方向への進行を裏切り、期待の矛先ほこさきに予断を許さない。スタンダードな嫡流の踏襲からは外れず、さはいえ、行動論理を紙一重でかわし、平行線喝破の技巧も鮮やかに、引きつけては突き放す、促迫と頻回の魔法をかける。保守におごらず、予感のパターンに満足しない。二歩目で飛び跳ねては復し、三歩目で雪崩れては掃き戻し、逸れ続けてはいつしか描く全円の、上向く調和の流れの醸成へと引き込むうちに、常に新しい発見を語り、喜びも悲しみも、尽きる事がない。波瀾万丈の危うい刺激から、目が、離せない。問題は、自分にあるのだ。永遠に美しいはずの、色白の月を……壊してしまったのだ……。ひとりぼっちで、ただ浮かんでいる、寂しいメロディーが、揺蕩たゆたう。月白げっぱくの雫に濡れ、悄然と倒れすがり、失われた時の声を、聞いていた。

 永く……永く……ほつれていた絆の、糸と糸が……愛という……不定形にして鴻恩こうおん無双なる、運命の引力、その発心ほっしんに痺れている。揺れている。誇りと痛みの真ん中で、立ち昇る気炎にまみれていた。切なくて、甘い。遠ざけても、喚ぶ。泣いたとしても……笑う。忘れていたとしても、忘れようとしても……求める……。ほつれとほつれ。ささくれとささくれ。背中と、背中……。甘やかしては喚び、笑いながら求める、そんな日常の切れ端同士、姉と妹、それぞれの断面が、途切れたからこそ、そして、逢えたからこそ、ゆき着く先は、糸と糸の、結び目……だろう……。泣かせたとしても、笑わせればいい。泣かされたとしても、笑えばいい。泣き泣かされ、笑い笑わされ、最後はいつも泣き笑いの、家族なら許せる当たり前の、ささやかなしあわせへ……穏やかな、日々の暮らしへ……。

 どこかで借りて来た、自分勝手だった優越が、時と共に、やはり知らぬ間に見つけた、日まりの優しさは、こんなにも、強い。借り物のそれは、脆弱な光に過ぎぬと知るにつけ、嘆き、泣きじゃくる。しかし……計り知るほどに、射されるほどに、その、はかなきほどに……悲しみの逆境は、されど一段上を遥かに望み、坂の上に立つ。彼方一眸いちぼうの限り、遠望届くて、何をか想わん。しょう風弄月ふうろうげつ耽溺たんできにこそあれ、今にして、今だから、今しかないのなら……柔甘やわあまともしは、海のおもてに冴え渡り、贋物にせものではない。自分の手に成る、自分だけの寒月に変わった。……心の月が、泣いている。しょうの月が、憐れんでいる。そんなに泣いて、どこまで憐れんで、往かなければならないのだろう? 往こうとするのだろう?……。美しきつゆ時雨しぐれに、冷たく濡れぬよう、笑顔を展げるように、傘の花に、なればいい……。

 最早、姉妹の、心のはかりの針がふれるゆくえに、みな、祈りの一心を投じている。無論、苦いだけの、恨み辛みの方ではない。さかのぼる度、それを乗り越え、懐かしい、いつもそばに居てくれた、美しい想い出を育んでくれた、一番近い人……家族、その人の、温もりの方へ……。家族の記憶のパズルは、あと、何ピースかを遺すだけである。久しぶりの牡蠣かき雑炊ぞうすいを、依津子さんも私も、食べ終えつつあった。類は友を喚ぶ。希望は、希望を。愛には、愛を。たとえ、美味しいスープが冷めてしまっても、薄くなってしまっても、込められた心の坂の道ゆきには、変わりはない。月も、満ちては、欠ける。


 ……月光に照り映え、わたの原に遊ぶは揺曳の段、どうやら……最後とおぼしき、月の顔のうねりが、私の岸辺に届いたみたいだ。しずかに佇む、たまさかの月の客にも見えよう、あまるを射抜き、大属だいぞくしょうの煌めくが如き、祈りの光波が。


 

 自分は、

 家族を超えてはならない。

 超えられぬものを、

 超えてはならない。

 家族は、

 あまりにも多くを与えてくれる。

 であるから、

 心から、ありがとう。

 心から、こんな自分の為に、

 ごめんね……である。

 失うものもあれば、得るものもある。

 失った分、得られるものがある。

 多くを得ていない、与えられていないと、

 嘆くなら、

 失うばかりと、

 心が、空っぽになるなら、

 それは、

 自分の手で、確かに、

 掴んでいたのだろうか?

 掴んだのだろうか?

 なぜ、離れてしまったのだろう。

 なぜ、掴んでいられなかったのだろう。

 どうして?……

 掴めなかったのだ。

 なぜ?

 掴めない……掴めない!


 ……自分ばかりを……愛してしまったからではないのか?……。

 多くを、喜びの多くを……家族へ与えただろうか?……。


 喜びを与えなくてもいい。

 喜ばせなくてもいい。

 喜ばなくても、

 喜べなくてもいい。

 自分が選んだのだ。

 涙が止まらない。

 悲しみを、どうする事も出来ない……。


 それが、愛だ!

 愛というものだ!


 諦めてはいけなかったのだ。

 自分の手で、

 しっかり掴むという事を。

 その手を、

 離してはいけないという事を。

 いも甘いも苦いも冷たいも、

 水には、

 違いがあるという事を。


 愛を失ってしまったなら、再び、掴むのだ! 得られるはずだ!

 偶然と必然、両者の祝福を受ける……汗を、使えば。


 

 波濤紫吹しぶくはぎんしょう抉剔けってきの言の葉は、群雄割拠の時の波に揉みしだかれ、それでこそ白雲はくうん孤飛こひの情たるは、一穂いっすいの灯をともし、消えはしない。



 ありがとう……が、


 肥やしを、バネを……作る。


 姉妹でしょう?


 反対側に、心の針が、落ちないように、ふれないように、


 さあ、


 ほら、


 笑顔と傘の、花を添えてあげて……。


 やっと逢えたのでしょう?


 姉妹の、ごめんね……も、きっと、言える。


 そんな汗を、使って欲しい。

 汗を、悲しませないで欲しい。

 せめて……これ以上……。


 愛があるなら、

 涙を与えてもいい。

 泣かせでもいい。

 泣いてもいい、泣かなくてもいい、

 そして、泣き止まなくてもいい。

 愛しているなら……身を斬られるように、記憶が壊れても……


 もう泣かない、もう泣きたくない。

 もう泣かせない、もう……泣かせたくない。



 姉妹は、一番大切なピースが抜け落ちたまま、人生のパズルを創って来たと言える。最早、泣く事も、泣かせる事も、出来はしない風を、疑うべくもない。信じるという事が、信じられるという事が、真昼の月に集う行客へ、喜びと悲しみの真ん中に、そのピースはあるを、信じさせる風である。本気を垣間見せる風である。汗の弱みを、弱みを見せる汗を、本気と言うのだ。弱みを見せずに生きて来ただろう。泣くまい負けるまいと、歩いて来ただろう。ここに来て、せめて、もっと……弱さを見せなければ、本気とは言えない。尚も弱さを見せるなら、登り坂の本気にしてくれるはずである。隠さず、つけ加えず、我が家の素顔を揃えれば……。上手い下手ではない……荷物をそっと置く時に……丁寧か? 否か?……教えられたままに……それを今でも守っているか? 忘れてしまったか?……そして、家と同じように、よそでもふる舞えるか?……。分け隔てのない、人へ贈る和順な心を、今のこの時とて、求めざるはないはずだ。……そんなに泣かないで。泣かないで。泣かないで……。だって……君が泣くから……海が、泣くから……風が、濡れるから……こんなにも……。

 誰かの声が、いよいよ風に乗っては姿なく、されど瞭然となびく。


 ……空白の……永い年月としつき……。

 どこにいたの?……何をしていたの?

 何を考え、見つけ、手に入れたの?

 大切なもの?……大切にしている?……それなら、いいけど……。

 頑張ったんだね……よかった……よかった……

 しあわせ? 本当に? それなら……それなら……いぃ、いの。

 今……今、何が見える? 何を見ているの?

 生きて来たんだね。生きているんだね。

 あの時見ていたものは……今も見える?

 あの時の愛は、今も、生きている?

 昔のあの愛と、今のこの愛は、同じかな?

 私は、昔のあなたをよく知っているから、それなら……いいの……

 昔のように、今を愛してくれるなら、それでいいの……

 今を、大切にして欲しい。

 あなたのしあわせを、祈っています……。

 他人ひとのプライドに触れる前に、自分の真実に触れる事から始まる、しあわせを。平和を。

 そして、自分の汗から始まる、正直な色の証明……涙を……温かいものにして欲しい。弱みを見せない冷たい涙が、温かさを求め、誰かを待っているなら、その献身を見届けた涙自身も、いつか、温かくなれる。温かいなら、泣いてもいいけど……泣いたっていいけど……。涙は、己の汗にこそ、問う。己をぐ冷たさは、汗から、逃げる。家族の為に死に、わがままを勇気で殺し、その家族のしあわせを以て生き返る。それを、強さと言う。涙は、汗という勇気の証し。人前で泣けるという、愛の強さを証明して、報われる。祈るほど、信じている。相互理解は、自分の汗に、真実に触れる。


 ……わかってはいる。小さな自由に酔い、小さな喜びのそのままに、どっちつかずの汗は置き去られる。逆風さえない。内観もなく、涙知らずのプライドは、他の汗へ触れようものなら、己の汗の誠を以て、愛の針を、冷たい方へと傾ける。自戒なき汗に、謙譲や憐れみも疎ら、半ばレイシズムの風流れ、ロンリネスの涙流れ雲流れ……。後先を想像させぬ、らずの雨……皮肉な酒……。悪しき、夢のまた、夢なり。失いたき、夢なり。

 それは、私の、家族に対する想いでもあった。


 やっと辿り着いた、やがての今。姉のげっしょくまなしは、おもての輪郭ごと絞り抜いたかの、下弦の月の如く、さるにても優しげな朦朧体となった。涙は、晴れ間の筆を染め、その、涼しくも横流れたて、目尻の切れ上がるは、遥かなる想いを笑納している。崩れこぼるままの相好の一画はおもむろ。空明くうめいの決心は韜晦とうかいの段にあった。銀鉤ぎんこうおぼしき尖端にて吊り上げたい、傾慕の目で、妹の烟月えんげつを見つめた。悔悟を、むだにさせてはならない……応えなければならない……今こそ、報恩の罪滅ぼしの時は、過ちの結界を壊しにかかる。私も、進退きわまってゆく。姉月の尽くし目の畳みかけるほどに、月の行客の穿ほじくられるほどに、まるで、新しき限界を得るべくして、群像は駆け昇る。早くやって来ていた、何れ知ろうはずの遅咲きの愛だったから、掴めば、もっと早く花開いていた、得られたはずの愛に焦がれ、逆様さかさまの順番にもせよのじらいは弾けた。そして、掴むと掴まざるとにかかわらず、無抵抗のままの滅びの瞬断は、来る。永遠の不文律は、来る。それらを、知って知らぬ風流れに言寄せるのだった。考えたくもない怖れが、見えているのだ。今こうある自分を、こう煮詰めてゆく先読みは、みな、あまりの瞬発に、あっなく頂点に達している。現実と期待は、足並みを揃え、立ち止まっている。厨房から覗く、二名の女性スタッフも、うなれたまま、微動だにしない。姉月の目のゆくえに、かたを呑む一叢ひとむらに、認識のズレもない。しもの弓張る霽月せいげつの剣に宿る情灯は、ほむらを翳すが如く見下ろし、かの、決定権者たる目は、慈愛に満ちていた。

 引き絞る弓は満を忍ぶ。弦の軋みは懐へ落ちる。沈みこそ浮かび、隠してこそ月映えの、幻の仄白き手は、もう……黙ってはいられない、見過ごせない。居たたまれぬ瞳だけでは……言葉を、心を、月魄げっぱくの全身全霊を抑えられない。そう伝わるような、彼女の足は、一歩……前のめる体の、懐かしさに熟れ切った反応と共に踏み出した。

 待てない足蹠そくしょ蹴上けあげるは静寂しじまを突き、


 コ、ツ……コ、ツ……コ、ツ……と……


 蹌踉よろけ沙汰止みの孤月の方へ……。

 ピンと張り抜いた空気圧をまた一歩、更に一歩穿うがつほど、妹のプライドの城壁は、最期を聞き届けたのだろうか。

 瓦解の寂声さびごえは悲痛を極める。

 壁面さえ反響を諦め、無条件に受け容れればひび割れるかの、守れぬ無情の盾のような棒立ちを決め込む。

 せめて波打つ喉の抵抗は、窮屈でもかすれる事が出来ず、ただ、ひとすじの糸を紡いでは……辛うじて、次なる何かへ望みを託し……。

 依津子さんは、妹の手前で立ち止まった。月白げっぱくの胸像が温存していた、永き雌伏を脱ぎ棄てんと共に、前屈まえかがみの先を探り出す、手……

 ……被さるように、いだくように、ようやく繋がったかの、差しのべる……差しのべる事を叶える……積年の待望の手が、ふるしじまる妹の肩に、そっと、一枚剥がすは、躊躇ためらい……のまま、ふわりと、触れた。剥がれそうな肩に、知らぬを知らせる、知らぬぐらい柔らかな手を、載せた。重い荷物を下ろした姉だった。馴れっこのはずの、互いの素通りのひとり旅に、ブレーキがかかった。忽ち滲み出すであろう、戸惑うばかりの何かの為の、韜晦とうかいの手だった。それも虚しくなると、最早、抑えられぬと、知りつつ。


「うっ、ぅぅぅぅ、……っ……」


 トランジットを告げる、その手は、誰?……。


 一瞬、妹の丸めた背中がこわり、振戦しんせんは止んだ。重さに、鎮まった。明らかに、たしかに、先読みの岸辺に妹はいる。誰の手か?……わかってはいても、予断を許せぬこれからの怖れが、早くも塞ぎ、今を岸辺に変えたのだ。曖昧のままでいたいような、切なさだろう。力なく、顔を床にうずめ、見つめ合うのが怖いかの……。そしてまだまだ姉とて、同じ岸辺にいる。その手の主は、先をまさぐる手になろうとして、ついの岸の架け橋たるを、見えそうで見えてはいない、この、何れにも媚びない中立の景色から、連れ出し連れ出される、出奔の夢語りの一幕ひとまくへといざなう。ゆき着いたばかりにせよ、更に……さっ早変はやがわりを見せた。短か過ぎる慌ただしい滞在に、くずおれの幻月の、心の月の分身の沈黙、無言は、これ以上追い込めない、現実の辺涯にある我が身の証しのパスポートであった。ここまで、自らを窮迫してしまったのだ。夢が夢のままである限り、真実が真実を欲する限り、この上とも言葉を縛ろうもなら……美しき双の月人つきひとおんなの想いは……泡沫うたかたと消えてしまう。嘘へ、雪崩れてしまうかも知れない。女性が月を見てはいけない……言い伝えの如く。分身が、どこか遠くへ……帰ってゆくが如く。偽りの如く……さえずれるうちに、逃げ場を失くした小鳥がいるだろう? 籠の中で、飛べなくなってしまった小鳥がいるだろう? 飛びたいと……小さくいている。行き止まりの隅っこで、いている。怖いもの知らずにも程がある。きっと、そんな過去を棄ててしまった愛なのに、許して欲しいと、時にすがるしかない愛だったのに、懐かしいあの頃の夢枕に立つは……笑顔の花開く……暖かなそよ風の匂いがする……あの……あの……。尚、喚んでいる……途切れる事なく、訴えている……。自分の価値を下げるような事に、今なら、大いなる抵抗があるはずなのだ。饒舌と沈黙の狭間で、しあわせとネガティヴの真ん中で、言わずもがなの言葉だけが、悪者になってゆく、淘汰されてゆく。まことのひと言が、研ぎ澄まされていったはずだった。

 どんな汗も、汗は、汗……。遠い予感通りに、全ては、消えてしまう。汗が知り得た温かさも、冷たさも、手離した訳でもないのに、掴みたかった訳でもないのに、かの、心に点した灯の想いは、どこまでも果てしなく、切なく、棚引く。けだし、教育云々うんぬんを超えた、生来具有する徳性であろうか。日本の皇室、二千六百年の歴史。創造の旅は、そこから始まっているように想えるのだ。忘却への、慈愛……。永い永い、心のありようの旅路は……。たとえ乗り遅れても、きっと、待っていてくれるだろう。笑顔で、迎えてくれるだろう。「ごめんなさい」と「ありがとう」の笑顔で、応えれば……いい。

 そして、喜びもまた、喜び。ならば、どんな愛にしても……愛は、愛でしか、ない。そうではないようで、隠れるようで、失くしてしまったようで……忘れがちの我が身を惜しむべく、涙と共に、人の中で小さな灯を宿し、うつし世に持って生まれづる。どうしようもなく、ある。その無意味を壊すべく、存在するのだ。時に、かの価値観を遮るもので、自分で自分を苦しめてしまう事も、悲しいかな、ある。……想い出して欲しい……明かりがある……家の明かりが見える……あの時代……


 明かりを点けたのは、誰?

 そばに、誰がいる?

 笑い声が、聞こえる?

 みんな、家族。

 素直にみんなの真似をしてしまう、

 見習って笑う、自分がいるでしょう?

 取り戻したいなら、

 また、

 そうすれば、いい。

 そうすれば、いいの。


 他人ひとの喜びだって、

 悔しくない。

 他人ひとの愛に、

 嫉妬しない。

 自分が置かれている環境への、問題の責任転嫁も、

 その環境を選んだのは、自分、と……

 悉くを妨げず、満たすはず。


 妹の、預けてくれない瞳を求めて、ひたすら優しく見つめる、依津子さんの手の温もりは、そう、伝えているに、違いなかった。

 かつての過ちを、必要とされた、嘘や無言の、あり得ない軽さ……で……あがなえるなら、涙は、何れ、意味を……見失うだろう……。太陽となって燃やした汗も、愛も、その悲しみをよく知るように、むしろ似合うかのように、月光は雫を結んで降り注ぐ。きんぎよくの交じわりは、為に涙さえ言葉に変え、故に慰めは、しずかに、こぼつべきもの、と……。私は、そう、見えていた。そう見えなくても、倒されたのは、私ばかりではないと、それを頼みに、ただ、待った。何かを……何言かを、当然ながら。……私も、同じだったのだ……。自分の手によって、悉くの道を塞いで来た、窒息しそうな気道から漏れる、妹のえつは、和解を喚び寄せる準備の、声にならない声で、あったろうか。

 その肩を支えに、かつての姉は、高見家は、どれほど……しあわせであったろう……。誰もが、そう信じて疑わない目で、息を凝らして見つめる中、やる瀬ない撫で肩の仕事は、終わらない。依津子さんの手は、願いを塗抹してすがるように、そこから、や何かを伝えられたように、スローモーションで……膝を畳み込み、妹の悲しみと同じ目線まで沈溺して、ひざまずいた。変わらぬ慈母のまなしがあった。浮かぶ瀬に揺れる姉と妹の、一対いっついの月のふねは、せせるまでもなく、を漕がない。ここまで流れ着いたついでの、不時の邂逅かいこうは、抑揚を持てあます孟冬の一日に、顔を見合わせてすれ違えぬ……現実の末端……あの、稲村の岬の如き、分水嶺の頂きに差しかかった。一気の登攀とうはん、ひと息の最終アタックの時節到来に、今日のこの戦慄わななき、一年のとどめに相応しい。岬の天辺てっぺんにぶら下がる双月は萌え、雲流れを掻き分けるは、空明くうめいの轟き出すはなにある事を、知らされざるは、ない。

 姉の温かな両手が、妹の双肩を包んだ。甲の筋は立ちゆき、おもむろな愛の回復を、私達に告げ、勢い、次を待つ傍観者の足並みを、揃えざるを得ない。先駆け引っ張る、膨よかな涙堂るいどうを持つふたりの悲しみは、たしかに、時宜を逸してはいる。さりながら、佇みうなれたままの女性スタッフが、胸にいだかれた銀の円盆まるぼんを以て……受け留めれば、みながともなみださえ、受け取れば……冬の観月を供するやつかたの、白き面相は、メタリックの如く、弥栄いやさかの白銀の月となった。善くも悪しくも、過去の貯金が物を言っているのだろう。……たとえば……言う事為す事、悉くが報われない、やり場のない虚しさは、遠い怒りに近づきたがる。その韜晦とうかいを満たすべく、遥かなる記憶を辿るが如く……自分の目の前を通り過ぎ、更に離れゆく列車の汽笛と……レールのきしみを追い駆ける、人影が……見えているのだろう。叶わぬ夢の悲しみは、何れ……怒り……恨んでしまったような……。親の心配を的中させたかの、その言葉の意味にえぐられ続けて来たであろう、娘達……そして、私……。先人賢者たるは、やはり、いつも正しい、と……。

 まさしく今のこの時、永きに亘りわかってはいた、その何かが、そのもの、しんにその人が、手の中で……蓄えていた涙を訴える。弾け紫吹しぶいて突っかかる。……私の心が、わかる?……あなたも……そうだったのでしょう?……私の心が、わかるでしょう?……あなたの心が、今なら……わかる……わかる……。私達のように、私のように……なってはいけない……なってはいけない……安易な逃避と……己を偽るという衝動を……コンプレックスを逆手に取れない、惰弱の証しの、イージーな誹謗中傷と箝口かんこうを……断て! 断ち切れ!



「……大丈夫?……」



 依津子さんは、沈黙を退しりぞけた。



「はぁぁっ、ぁっ、ぅっ、ぅっ、ぅぅ……」



 妹は、渦流を抑え切れず、その遠心へと尚、強いて半分の想いを託すような、懊悩呻吟おうのうしんぎんの息漏れ声を震わせた。うつむく先へすぐにも届く、床面を小刻みに叩いては言い聞かせている。届ける相手が違う。届けるものが違う。届ける角度が、違う……。逃れようがない、逃れられない真正面を、まだ……向けない。濡るる顔を上げられない。生まれたての寂声さびごえの、新たなる旅の始まりが、このまま生きてゆける訳がない。大丈夫な訳がない。瞳を合わせるどころではない。しかしだ……たとえ別離わかれが待っていようと、今は、今でしか、ない。今を今のうちに使わなければ、本気で使わなければ、どうなるか? どこへゆくか? わかっているだろう? ……たとえるなら……消費者の心理、被害意識という、やま彽徊ていかいして、日向を追い続ける、自己弁護の道ゆき……。嘘でもいい、許せる範囲のぎりぎりで、自分の価値さえおとしめずば、抜け出す事など意中にない。適当に甘く、たまの危なっかしさも御愛嬌なら、いつまでこうしてやっていられるか? 終わりが見えなくなってゆく。そして突然訪れる、チェックアウトの日……。デポジットの精算は、信じられないぐらい、冷たい。そもそも、この旅の始まりには、信頼が、ないのだ。多少の瑕疵かしさえ、この時とばかりに高くつく。兎と亀は、最後の最後に明暗を分けるが如き、道なき道が待っている……。

 そうではないだろう? そんなはずじゃないだろう? 待ちに待った、千載一遇たる、今、その時である。鈍い怒りとの深いつき合いからの、コペルニクス的転回の、一大事である。姉は小さく笑ってはいても、ひと言、ひもといてはいても、妹のように、再び口籠もったかに見える。探し回っていよう、姉妹の時間は、うちなる演舞を極め、創出のいっにあった。表舞台への顔見世こそ、本物と、まるで言わずもがなの事を、言わないようにも感じられる。その不安を、小さな不満を偽れば、積もる。涙淵るいえんに沈むは、早い。過去へ迷い込むなら、遡るなら、その温かな手を、今、触れている、ここにある温もりを……手繰たぐれ……もっと、手繰たぐれ……それだけでいい、今はそれだけあれば、いい……。私は、鎌倉へ来て、十数年ぶりに、大人になった依津子さんを、初めて見かけた、あの時が……尚も今までより限りなく突き抜け、見た事もない新しい顔で、生まれ変わりつつある夢を、見ていた。同時に、市川の父の言葉を伴って。


 ……今の自分を愛すな。

 金は、今の自分の為に使うな。

 未来の自分の為に、貯金しろ。

 未来の自分を愛せ。

 未来の自分を愛するように、

 他人ひとを、愛せ。

 汗と、涙を、未来の為に使って、

 愛を、守れ。

 それが、人というものだ……。


 私達は、本気を見せ合わなければいけないと、強く、想った。

 今の、この愛を、全ては、


 未来の為に。


 君の為に。


 古き良き誇りを持って。


 ……どこかへ失くしてしまっていた、パズルのふたつのピース。今、探り合えば、一緒に見つけた、やって出て来た、最後のピース。持ち寄る涙は、故郷の小川の如くこそあれ、注ぎ込む誓いは、蒼海に満たされざるはない。海の隙間は、月の涙滴に埋め尽くされ、かばかばわれ、被せ被され、さんと、一枚の平平凡凡は目前にあった。私は、ただ、本気を見せて欲しい。普通という甘い罠に捕まれば、平凡さえ得る事の困難、痛い経験が、今、またしてもざわめく。汗、その、塊まりを行使すべき、ときの声がこだましている。ふたりの耳に届かぬはずもない、ちょうたるわたの原といえども、時としてひび割れ、いざなう。恣意を見せる故意を、疑うまでもなかった。裂けれど優しく、悲しくも微温ぬるく、ならば、すぐにでも融け流れる、涙に変わり易く、塊まりづらい、昔じりの汗さえ、風はさらって涸らしもしよう。半歩先ゆく翳したその手で、姉よ、早く、ラストのピースを繋ぎ止め、そして今度は、その脚で、健脚で、階段を駆け上がるように……早く……決意の塊まりを以て……。ありふれ過ぎた当たり前の悲しみが、海が、想い出が、あまりに……。

 依津子さんは見つめたまま、動かない……まだ、動かない。裏側で動いているのに、届いていない、先へゆかない。目と目は、巡り逢わない。扉のチャイムに触れているのに、寂しくてノックしているのに、押し切っていない、力がまだ足りなくて、拳を、掴み切っていない、握りしめていない、涙のゆくえが……見えてはいない。やり場を探しあぐねる瞳の微動、渦のまま舞い上がりそうな、不安を見兼ねたまぶたばたきが、むしろ遮るように、依津子さんのまなしにしんしゃくを加え出す。耳元でささやき、そそのかし、潤いを戻されたかの緊張、対等の糸手繰だぐりの時間は守られ、ネゴシエートの尻は長くなってゆく。次なるひと言にて報い、救い出し、更にほだすひと続きの精神的統合が、間に合っていない。

 ここまで来た……掴みかけた……あとは……あとひとつで……間に合う……わかっているだろう? ……君だって、君なら、よく知っているはずだ。宙ぶらりんの想い出そのものを、目の前に息づく悲しみを、切なさを、ジェラシーを、憎しみを……そして、愛の塊まり全てを……本気で、強く、抱きしめればいいんだ! ……潰れるぐらい、砕けるぐらい、吞み込めるぐらい、にくになるぐらい、血肉けつにくの同じ体を……分身を……自分の中に、戻せ! 逃げないように、がさないように、もう、離れて暮らさないように……。喜びも悲しみも、そばに、隣りに置くんだ! 守るんだ! 何れ別離わかれてしまうなら、何れ消えゆくなら、死んでしまうなら……心の片隅に追いやり、忘れ去るほど遠くへ、風のようにどこかへ往ってしまうなら……いっそ、せめて、この時に、求め彷徨い来た、この時に……温かな月の時雨しぐれる、徒然つれづれに……。今のうちに……美しい、今という時の想い出を……和解の場面を見失う前に……残酷極まりない時間が、海が微笑むうちに……微睡まどろみと共に……揺蕩たゆたうように……あの、いつかの岬まで、ふたりして歩いてゆけば、いい……。

 汗の塊まりが、涙を知った時、黄昏れの月光がこぼれた所為せいにすれば、風は、吹く。風の中にいた。粒子が見えそうな風だった。涙に濡れて止まりつつある、この地に根を下ろした、刹那の風まりで、あったろうか。それとも、遠方よりきたりて、乾きもしなかった涙が乾いてもたらした、生乾きの風で、あったろうか。誰にも、わからない。依津子さんの端という端、かどというかどが、末梢にとらわれ、めくれ上がるも甚だしい。正直過ぎる相貌そうぼうは、並みいる期待と、自らの最後の望みを双眸そうぼうへ集めて祈る。両の目尻は、その曲がり角から顔を出して覗き込むかの、内的限界の主張の目を、最早、抑えられなくなっていた。緊張の波状……その消耗は早く、やはり、いつも先駆けるものに負けてしまう。ここでも、負けてしまう。真水と海水が混ざり合う、若さの終わりを知らされざるを得ぬ、謀れぬ瞳の勝ち誇るは、言葉を衝く。従えんと、葛藤へ飛び込んでいた。今に始まった事ではない。纏わりつく汗さえ蹴散らそうものなら、忽ちにして涸らせるのだ、収拾出来るのだ。涙と共にくくられた言の葉の出る幕、乾坤一擲けんこんいってきの時は昇華して、研ぎ澄まされていよう、満を切るはなに、光るもの、依津子さんのひと言を、まだ訪れぬ、瞳と瞳を、信じるだけであった。


 君の本気を見せてくれ!!

 人生における、

 創意工夫の痕跡を刻むべく、

 もっと言葉と態度を切り取り、

 滞りつつある空気に貼りつけ、

 願わくは、

 出来る事なら、

 ヴェールのように……

 その、 ふたつの腕を畳み込むだけで……

 地上の月のランデヴーは、

 あの岬から、

 海のてまで横滑り、

 ひしと、

 ひとつの顔を揺らし、

 笑うように昇ろうか。

 泣き笑いで昇ろうか。


 そして、姉の両掌は、肩口から二の腕へと……滑り、救いを求めて、上腕を掴んだ。瞳にさえ及んだ力で、優しいだけではない、強い姉の目と化し、妹を見つめた。見届け人然とした私達も、鷲掴みされ、想い出帰りの甘苦あまにがく切ない体は、現実を投げ込まれ、はたと、見えない自分が起立したかの顔に変わった。ふたりの心の触手は、いちにのびさかるようで、四つの瞳は先導の証しとなり、妹の肩はびくつく。古びた気脈はしゅんを跨いで灯を点すが早いか、しおれたままの妹は、初めて応え、顔を持ち上げた。しかりといえども、双眸そうぼうの最後の抵抗?……過去からの目覚め、かんばしからず、とても美しい、生まれたての柔順が、寄りかかって決められない、まだ、目を合わせられない……そのはずもないにせよの、されどの幸甚こうじんを、取り戻していた。こうするばかりの我が身の陶然、うにはんじょくを棄て去りし彼方に、丸裸となって遺された、想い出の片割れへの渇愛をさらしている。互いに、いっ纏わぬ無雑の心魂しんこん体質を磨き上げ、余韻嫋嫋じょうじょうに浸っては、完結の自尊も輝かしくはべらせる。無言を決め込む意思が、主張に回ろうとするなら、その前に、まず、汗を示してからの話と、どこかの誰かが言っているのだろう。

 ……やっとこさ乗り継いだ江ノ電が、極楽寺手前のトンネルにて、減速しながら駅へ近づくかの、最後の暗中模索、光の胚胎はいたいの喜びを、噛みしめるように鎮まっていった、いつかの、小さな旅。何かを諦め、何かを得た、思い返せば束の間の攻防は、短かいトンネルの先に見えて来た、故郷の街の、変わらぬ優游涵泳ゆうゆうかんえいぶりの懐かしい光に、異論の類いは鳴りを潜めたようだ。当然が、横溢おういつしている。順接が、屹立きつりつしている。かつて、けたたましく塞ぎ、のしかかるようにトンネル内は響動どよめき……。口をんがらかしたり……物欲し顔で、こそこそしたりの……安脆やすもろい籠を見つけて逃げ込んだはいいが、いつか、飛ぶ事まで忘れてしまった、翼が縮んで飛べなくなってしまった、帰り道さえ……失くしてしまった……臆病な小鳥達の喘鳴擬ぜいめいもどきが、乗り合い同士の腹をえぐってばたつかせるかの……浅い夢が……。されど、されどしかし、今は、ホームへ雪崩れ込むしあわせな夢を見ていられるだろう。安心あんじん立命りゅうみょうの祈りにも、聞こえて来るだろう。……くずおれたままの、ふたりの会話が、届いて来る……


 あなたに逢いたい……あなたに逢いたい……あの頃のあなたに……もう、逢えないなら……あの頃は、二度と帰って来ないなら……せめて……いっそ……やっぱり……だから……それだから……それでも、いいから……いいんだから!……再び、昔のように、かけえのない、新しくかけえた日々を、創りたい……。


 私は想う。

 たとえ全ての証しを失おうと、忘れ去るように消えようと、生命いのちの終わりに、きっと最後に遺りし愛なれば、諸事万端、初めから、創り出せる。本気の心は、消えない……その想いは、忘れない……絆は継がれ、麗しく、また、始まる……。季節が移り変わるような、終わりから始まりへの、精神と肉体の神秘、永遠の不可知、その狭間で繰り展げられる、大いなる燃焼、沈深たる韜晦とうかい劇の、私達は目撃者であった。おか八目はちもくの目に、仕たて上げられていた。グレーの如き、かの世界で、うちのおばあちゃんも微笑んでいよう。同じ心を持っている。同じ心を見ている、望んでいる。……ならば……。最後まで忘れなかった愛。最後に遺った愛。なぜなら……受け継がれるものであるのだから……新しく生まれ変われるのだから……受け渡さなければ、いけないのだから……。悲しみも、寂しさも、挫折も、嫉妬も、身を焼くような悔しさが刻みつけた、過去の傷痕さえ……愛するが故の、裏切られた、その、憎しみであっても……どんな事であろうと……何れ……全て何れは……。

 ならば……同じ心を、語らなければ、いけないのではないか?……。それが、筋道だ。本気の汗がなかったであろう、昔。私と同じ、昔。今、あるのは、本気の、悲しみだろう?……。中途半端な汗が、躊躇ためらいをき散らして、汗の誇りを守ったのだ。全てをグレーに染め上げたのだ。無言でかばえば、時に嘘で埋めれば、笑顔を添えれば、なるほど、傷痕は見えなくなる。が、青春の瑕疵かしという奴は、えぐり、表面的な性質のものであろうはずがない。深い傷は、悲しいかな、不幸の連鎖の引き金を引いてしまった事さえ……あったのではないか?……。自分でも気づかぬうちに、突然の嵐に見舞われたように……つい、その、不用意なひと言を……心を寄せてくれる、罪のない、無防備な人に対してさえ、向けた……。貝に、なり切れるものではなかった。あの頃、その時から……今の自分を愛し過ぎていたのだ。自分ばかりに獅噛しがみついていたのだ。大切な人は、いつも……後から遅れてやって来る。泣きながら、自分の後を追って来る。置いてきぼりの存在だったのではないか? 自分が、迷子にしてしまったのだ!……。さすれば、勢い、はぐれる。はなばなれに、なってゆく……。汗を問われよう。自他共に、自分の汗を問われる状況となっただろう。選べる道は、最早、ひとり旅という、そんな……。問わず語りの、悲しき自問自答。大切な人を傷つけて置いて、被害者の籠の中へ逃げ込む、飛べない小鳥のモノローグ……。

 他人ひとに突っ込まれるような事を、言わなければいい、だけの話。自分で自分にプレッシャーを加える、悔しさの話。孤独、しくは、オウンゴールという、悲しい、話。自分の夢を、語ればいい。たとえば、歌手やテレビ局が創ったものではなく、自分が心から愛する、大切な人の話を。人生における創意工夫、愛の証明行動の痕跡に、心は、触れ合いたい。そう!……自分の体温の話である。自分が寄り添い、自分に寄り添う、野に咲く花の笑顔のような、風の声のような、愛の話を、贈りたい。自分が拵えた、現実に微笑みを覗かせる、夢を。

 懐深くしまい込んでいた、ひとり言のような台詞を……今、手にし、手にされている、近くて遠かった、されど今なら、もう逃げられない、自分を偽れない、こんなにも大きな、一気に近過ぎて見えないほどの、愛の受容体、その人へ!!……迷子と迷子の、永い悲しみを!……。私の、あまりに身勝手な妄想続きも、しゅうれんさせて欲しい。市川の家族の笑顔が、私の悲しみに、何度も何度も触れて来るから……。


 触れて欲しくないのに……

 触れてしまう。

 そっとして置いて欲しいのに……

 そっとして置けない。

 好きなのに……

 素直になれない。

 そして、

 愛せなくなっていった、

 愛されていないと……勝手に閉じ込めた、虚ろな日々。

 心の目は、いつも挑戦的であるべき必要に、迫られているようだった。

 それでも……笑顔だった、

 家族……。


 依津子さんの手に、今日一番の大きな力が籠もった。掴みし人は、掴まれし人を見つめている。誰であろうと、その手の中に、大切な人がいた。掴まれしその人は、掴みしその人を、人知れず見つめている。誰であろうと、その手の中にあるなら、大切にされていると、わかる。愛されている。そう想えるしあわせが、不可能を、諦めを、握り潰すような力だった。考え過ぎという事も、もう遅いという事も、誰の想いからも、吹き飛んでいるだろう。

 ……姉の背は、更に一段丸まって沈み、疲れを隠せないまなしが、妹の足下で雨宿りしたい旅心を、自らのまぶたに伝え、つぶった。妹の目の中で、らばって積もりっ放しの萎縮に、併せる途切れの不安定は……刹那だった。すぐさま、反転、かの反動、過去の悉くを引っこ抜くように……瞳の光さえ再生しながら……その尽力と妹の涙雨を、笑顔の傘で受けながら……ゆっくりと、立ち上がろうと……する。優しく差しかける傘の中で……憩う、ふたりに、感動は花束となって集まるようで……最早、雨の想いは、姉の、掌の意思に負け、足下の踏ん張るにほだされ……伴われ……一緒に遅れせながら、そろそろと起き上がる。共連れのひとつ傘の下、道ゆき半ば、妹の肩に触れるは掌だけではない。傘がかばう、素直に叩かれし雨打ちぎわでこそあるなら、かの音の連ね、長い台詞にも聞こえ、どちらとはない、迎えの喚び声にも聞こえて来る。立ちおおせるも、ふたり同時だった。問答の如きに気づかされ、もう忘れ物を拾ってはいられぬ妹は、ずぼんやり、ようよう初めて、瞳を重ねて来た。

 姉のしおるは、既にない。ずぶ濡れて立ちすくむ妹と、たえなる姉妹は見つめ合った。

 うに、挑戦的であり続けていたであろう、永き反抗は、遠く、その必要のなくなった証しを、ふたりして見つめ合っている。しあわせを、見ている。私達にも、見える。だからこそ、置き忘れた、やり遺した想いもまた、彼方へ逃れるように、今度は、さかのぼるとみせて先へゆく、やはりの、変わってはならない、変えてはいけない、近くて遠い旅路が、時を同じくして始まっていた。

 言葉がない……言葉が出ない……別離わかれたあの日から……沈黙のままに、ある……。沈黙が永いほど……流して来た涙が辛いほど……そのゆくえを……追わなくてはいけない。やり場を……見失ってはいけない。依津子さんは、涙を棄てて生まれ変わっていた。妹は、その涙を引き継ぎ、まだ、極楽寺の暗いトンネルの中を走っている。……妹の苦心の上にある今を、姉として、看過出来ない……。そんな顔に見え、そんな声さえ聞こえる、私。涙に恵まれ、失くしていた大切なもの、その存在の説得力、導きの意味が、わかっただろう。涙の如く生きている、どんな色にも染まれる、後にも先にも感謝と共にある、愛という名の証明行動を……。望んで止まない一幕ひとまくの触れが、知らせるも疲れよう。時が人なら、ぎっしり詰まって立錐りっすいの余地もない。大詰おおづめに、ふるえざるは、ない。

 求めた時が……求められた時と重なっている。求められる言葉を、求める以外、何もない。降り頻る雨が、悲哀の雨なら、そして衆望は時雨しぐれるなら、賞揚の風さえ蠕動ぜんどうして、浴するも幸甚こうじんの至りとなろう。ふたりが謳歌する所、みなの目は、いちに磨き上げる。時は、一回の場面を用意する。ひとつという、たったひとつだけという今生に雪崩れ、一遍に、出逢いと別離わかれの、寄り添えど忽ち剥がされるかの、漂流一過の宿命さだめを夢想するが如く、厚情のまなしで見守っては加勢する。はかなければはかないほどに、きっと忘れ得ぬほどに、妹を覆う英英えいえいたる雲流れはがれ、晴れゆき、ありがたき、冬の日まりこそわだかまっては恋恋れんれんとするだろう。ただならぬ、一握の達成、一投の全力、見た事のない、もう二度と見る事が出来ない、換言すればただ、たえなるものの……露をみつつ邪魔だてるべくもない、柔らかにして硬い、沈黙の塊まりにて……。燃え遺り易いジェラシー、不純物を、冷ましてあげたいだけの事なのだ。わかっている事が、今や遅しと、待っているだけの事なのだ。もう我慢出来ないだけの事なのだ。ひと言……口にするだけの事……。目を見れば待っている。既に充分、そぼつ顔が吐露している。無言は、一堂に会する涙の救いを集め、洗われ、これ以上のない、今更これ以下に戻せない、てまで辿り着いていただろうか。待てどくらませぬ、黙せど逸らせぬ、泣けど……さっきまで泣いていたのに、守り抜こうとする、小さくなるばかりのわがままな後ろ影が……かかる無言に口説き落とされたかの表情に……ふたり携え、自分をくくり出した。過去は、敗北を認めざるを得ない。

 自分の敗北を認めたくない証しの、グレーであったはずだ。時に、何かが悉く塞がれゆく、始まりの色でもあったはずだ。併せるかのように、突然……私へ……涙のやけ覚めやらぬ妹が、短かい横見を繰り返す……。姉を飛び越え、怪訝そうな、想い出すようなおもしを、必死に追いやろうと可憐いじらしい。言わぬが花の、おや哀婉あいえんに、応えざるはない男のさがと、その周辺の記憶像の反応は、即座だった。……姉とのこの再会の場に、妹の私へ、無言の種をいたのは、他でもない、あなた……と……。私の中で、新たなる懐かしさの波状は、途切れてはいなかったのだ。よそ者の四十男のれったさは、ここまで来て再び、俄かに、グレーの穹窿きゅうりゅうを衝く逆回転が加速して、昔語りの謦咳けいがいに接するも膝を詰める。妹は、これでもまだ、飽き足らないように、私にまでじかにノックするのだ。予期していた自分達の再燃の場に、姉の恋人かも知れない私の同席は、まるで、偶然がこうも重なったかの、ハッ、とした目を、躊躇ためらいに呑ませる。妹と私との間で、たった今、暗黙の了解が成立しつつあると、受け取れる。姉も、誰も、気づいていないようだ。


 ……ただの連れではない……と、いう……。もしかしたら……こんな男を、知っている……と、いう……私を、覚えている……と、いう……。


 妹は、私をも、同じ記憶世界に巻き込み、彷徨い出しているのか? あまつさえ、私の流離さすらい癖とて、そう、つつかれるより早く、想い返せば……鎌倉へやって来た事が、まさしくそれなのだ。っくの昔に始まっている。姉妹と、私を含めた三人は、敗北よりも……何かを封印し、新しく始まる何かをこそ、認め合うだけだ。自分を剥き出す作業の、促迫と頻回を想うにつけ、姉の、妹の、そして、私の涙の意味でさえ、それでも守り抜こうとする自我の欠片が……胸に、刺さる……。道ゆきの先に、見えているものがある。そこへ至るに、あと、どれだけ……脱ぎ棄て、恥を知り、涙を流し、悔しさと悲しみと寂しさに襲われるのだろう?……。その途上にある、今。タイムラグを詰め合う、今。てで待つ、真実へ辿り着くまでに、私達は、私達はきっと……月のような、裸で物を落としたためしなしの、ね者の小唄とは無縁となり、限りなく、裏と表は接近するだろう……。真実を明かし、明かされる、恐怖との闘い、けて通れぬ、その時であった。



「マナミ……」


 

 やっとの想いで姉が絞り出してくれた名前に、妹の一瞬……抱える分厚い本……永きに亘り、表題を忘れかけていた、黙読の一冊は……優しくタイトルを書き込まれ、いよいよ……諭されの、泣きっつらを浮かべてしまうはずの、家族のストーリーに、立ち止まった。あれから滞っていた、新たな 1ページは……颯爽とバイクに跨がる姉でこそ、起筆役たれば、タンデムシートにある妹さえ、スタートダッシュは先頭を切り……のびゆく……。「マナミ」という名を、姉は噛みしめ、妹は、今にもすがりつきたい壊れ目で聞いていた。もうこれ以上、壊れたくない壊れ目で、想い出そうとするほどに、前のめる姉の背中を邪魔しないように、自分の為に用意された指定席に獅噛しがみつき、ふたり旅の壮途に就いた。身を引き、受け渡し、そして授け授けられよう、その為の、誰かであった。分断の憂き目こそあれ、以来、血の繋がりは味方せずとも、最後に遺りし愛故に、溢れて紫吹しぶかぬべくもない。姉の双眸そうぼうは輝きをいや増し、そを語れば、しかと、互いを自分の真正面に置き、向き合っている。背中を追うようで、追われるようで、向き合っている。私は、その代わりであったのだ。席を譲りし交代さえ、了解のうちとばかりの私と、見届ける面々とて、引き連れられて駆け出した。

 疾走する姉の目がある。男勝りの黒一色の麗装に守られた、その目は、さればこそ、優しくなれたのだ。自ずと引き寄せられる想いとて、正直者に違いなかった。……想い出のエピソードの数々……泣いたり笑ったりの、一日一日……は呼応して、眼前にぶら下がっていよう。かの塞ぎし関門をくぐり抜け、エクスキューズにしなれる、妹の顔に見えて来る。ひとつの旅が終わり、続けざまに、ひとつの旅が始まった……と、した……。



「ありがとう……久しぶりの雑炊ぞうすい……美味しかったよ……」



「……」



 ……妹は……黙ったまま、走り回る姉を追い駆けていた。どこまでも、追い駆けていた。その幼なき小さな手と、喚び声……小々さざなみのような、父と母のまなし……谷合いの街にこぼつ、潮風が透かし見える、光……。あと少しで追いつきそうで、あと少しで、家に帰れる。あの……険し坂のあがり口が、見えて来るかの……自然の息吹き豊かなる、生まれ育った、故郷の家が……。時間を巻き戻した淵で見つけた、大切なものを、現実へ連れて帰りたい。当たり前のように、時に、それを失う事でしか、そして、遺りし記憶の欠片を、パズルを組むように拾い集める事でしか、目の前に帰っては来ない。創る事は叶わない、と、わかっているでしょう?……。けだし、何もかもは、失いしこそ、失わなければ、愛として、愛故に、遺らない、生き続けない、生きられない。もう……生きてはゆけない!

 ……そういう姿に居たたまれない私とて、どうにも、自分をどこに持ってゆけばいいのか?……。ただ、爪で拾ってこぼすような結末だけは、迎えて欲しくなかった。隠れた挑戦者、潜在的アンチテーゼの夢を、夢のままには……。

 創りたいという、概念だけがあった。サブに回ってはいられない、と、強く意識していた。その想いが蘇るものなら、その心を蘇らせる事が出来るなら、その何かが、以前と同じものでも、違うものでも、人でさえなくても、この世から消えてしまったように失くした、小さくても大切なものであっても……必ず、必ず……仄かな明かりのように、いつかまた、巡り逢ったように……灯る。生きられるのだ。生きてゆけるのだ! 無言さえ、かばいだての、雄弁な薄笑いに見えなくなった時、殊更に言葉を求めない、絆は、復活するだろう。


 ……小舟が一艘いっそう、グレーの波間を漂っている。もう一艘いっそう、彷徨っている。それぞれ、か細いもやい綱で、どこかのボラードに繋がれてはいる。波高、うに猛らず、さしてうねらず、潮の足とてしげくはない。されど、果てしなき銀浪ぎんろうをゆくほどに、寄る辺は隔たり、殷殷憂心いんいんゆうしんの遡航は当てなく、止めない。そして、日はまだ暮れずとも……徒らに、逆様さかさまつむじかぜを唱え、異を退しりぞけてはいつとなく、風雲急を告げる……。風も、雲流れも、たまさかの光さえ、柔甘やわあまくとも篤いものではない。優しいようで、深いものではない。風が風ではなく、光が光ではなくなってゆくみたいに、優しい海が、優しい海ではなくなっていった。優しくしてあげられなくなっていった。風が欲しかった。光が欲しかった。風となり、光となってあげたかった。そう想うほどに、そう嘆くほどに……ふと気づいて幾度となく、されば隣りを見るほどに……同じ小舟はこんなにも、世風になぶられ人海に揉まれるまま、木の葉のように小さくなった。唯一掴めそうな、あるかないかもわからぬような、我れ関せずの雲の原に手をのばした。どうしても届けたい、この手。どうしても届けたい、この声。どうしても届かない想いだった。どうしても見えない想いがあった。ただ……言いたかった。同じように、言って欲しかった……。ほんの、それだけの事だったのだ……。そうして、雲の情けは、涙雨を恵んだ。

 帰る港がわからない……帰る港を失くてしまったなら……その、辛うじて繋がっている綱を、引き寄せてごらん?……どこに繋がっている?……それはどこ?……昔? それとも今の場所?……。もっともっと巻き戻して、昔の場所が見えたなら……いや、今の場所しか見えなかったとしても……私達は、互いに、帰る港になればいい。帰る港になってあげなければいけない。見つからなかった大切なものを、見つけたなら、逢えない時間の辛さがわかるなら、見つけた者の優しさを以て、今、まだ迷いの中にいる小舟を、誰よりも一番早く見つけたように、その綱を掴み、手を引くように、今も昔も変わらない我が家を約束する、稲村ヶ崎の、幻のボラードへ、連れてゆくんだ……繋ぎ留めるんだ……。

 それで終わりじゃない。それだけじゃ足りない。続けざまに、あの、岬からのびる一本道を、駆けて……もっと駆けて……一段上がれ!……登れ!……。期待する時……自分の汗を、白地あからさまに自薦する時……その、頂きの如く定めていた場所は、坦々とした、分かれ道に過ぎなかったのだ。急坂の上に建つ我が家そのものが、途上の分岐点だったのだ。まさしく、幻の合格点に安息を求めていた……と、いう事になる。しかるべく閉じ籠もった孤独、抜け出せないオウンゴールに、家の空気は呼吸しづらくもなる。であるから、ふり返れば……確かに、窓から見えるてに憧れ、いつもゆく先に、姿を現さぬ岬の、独立自尊の幻泡影げんほうようを追い駆けていた。海潮の生命活動は、永い時間のうちに、海岸線を削り、白砂を奪うと共に、あの、粗い黒砂をもたらす事を許した。かの妥協、かかる安心、せめて満足、いっそ合格点は、幻ともなり、ひとりぼっちの意味は価値を持つに至り、頑なな、籠の鳥のプライドこそ生まれようとも……。

 しかし……いつかは、妄想は覚める。起き抜けの寝まなこに展がりゆく、現実像の片隅に、記憶の忘れ物を見つけた。姉妹の今が、それを見つめ合っている。そして私の現実も、やけに不思議と……いつかの険し坂のあがり口に集中して、落し物探しの目は誘導されるのだ。……なぜだろう?……引っかかる記憶がある……まるで、極楽寺坂きりどおしを、そっくり丸ごと引きずるように……。時と共に海に消えた、岬の浜の白砂が、帰って来たように……。海岸も、何もかも、埋め戻すように……。妹が、愛を裏切ってしまった女に見える。それは、私が、恋を忘れていた男だから。でも、今の私は、違う。焦点を絞れない私へ向けられた焦点を、絞らせない私ではない。実らぬ苦労は語れまい。実らせる、途上にあるのだ。私だけではなく、依津子さんも、そう。大切なものを失くしてしまった、悲しみと寂しさの涙を知っているなら、妹よ、きっとあなたにも、再び、明かりは灯るのだ。姉と、私の涙が、人々との優しいふれあいが、証明している。

 私のまぶたの裏を、そっと砕き、融けて展がり色を成してゆく……ある場面が、現実を切り取ろうと……彷彿として、来た。


 ……九十九つづら折りの急登の手前に、誰かが見える。遠い日ではない……鎌倉へ引っ越して来て……初めて、ひとり……稲村の海を見に行った……あの日……。その、帰り道……。そう……きりどおしを引き連れるように……初夏の山々の、翠緑の炎熱をくぐりながら……私の瞳へ飛び込み、そして……。


 あの時は、確か……誰なのか?……想い出せなかったのだ。後日、大人になった依津子さんであった、と、わかったのだが……。そうだ!……彼女なら、あの時間、会社へ行っているはずだ!……。ならば……私が見たあのひとは……まさか?! もしかしたら……。私は、深い、幻の森の中へ、またしても、迷い込んでしまったのだろうか? あのひとの、幻と共に……。現実界にて半ば失われた正体は、分身の境界で、本性をばたかせるには、その自由が、私の目には、さぞ、切なかろうとしか、映っていない。


 ……あのひとは……逃げ腰外交の基本姿勢の、無言……。実体を見せない、カムフラージュ……。関係の限界をかばい切れるものは、最早、何もない……と言わんばかりの、涙に押された顔を拵え、こちらへ迫り来る。逃れるしか、なかった、と。すぐに新犯人を見つけてしまう、と。加害者は、ここにいるのに……このまぶたの裏、奥深くで、息を潜めているのに……と……。焦点をはぐらかしてばかりの悪い癖が、風と共に消えたような、そのざんは、やはり、風のような。

 絞り込めない怒りを、時間は、絞らせない虚しさに変えてしまう。戻れなかった、この道を、帰れなかった、故郷の家を、時を経て、懐かしさと愛おしさが、狂おしいほどの涕涙ているいの中に、見せる。今をして、戻らせるなら、今を以て、帰らせるなら……自分らしさのひとり旅は、みなと同じ目線にあらぬ、泡沫うたかたの言い訳、竹細工の籠の拠り所を衝かれ、玉響たまゆらの夢は語る。「同じ……」という美辞麗句こそ、幻である。驕りである。ズレがある。過ちである。自分のこうしたい……ではなく、その声を、聞かせて欲しい……その笑顔を、見せて欲しい……。それが、そうしたい者の、持つべき謙虚さであろう、という……半分ふり切れ、半分悩ましい風情を纏っている……。



「それじゃあ……」



 依津子さんにとって、今となっては、事の成否の問題ではないはずだった。



「また、来るね……」



 私達の無音、反射の「えっ?」。言下の「それから?……」。


 姉はうなれ、やっと掴まえし月の肌の、滑らかさ故に弾かれた、雨露の如き涙のひとすじが、両頬共に伝って……落ちた。落としてしまった。掴んでいた両手も、力なく剥がれ落ちた。そのように見えたのは、私の、ゆきずりの行客全ての、挫折の、敗北の目の仕業であったろう。依津子さんの、もう決めたかの、されど、目にあまるち難き双眸そうぼうが、私へ向けられる。ぶれ続けた彼女自身の、見つめる先……その的さえぶれさせがちの、いわんや、他者においてをや……の矛盾を、訴える。今を叶えたい……でも、今すぐは、まだ、拭えない、拭い切れない……声涙せいるいともくだる分かれ道に、あるを……。出来るか? 出来ないか? の判断は性急、領分踰越の偏見すら集める。出来るに越した事はないが、そうする事が出来なかった、あの時……。逆走ついでのパルティアンショットを、繰り返そうものなら隔たりゆく、本当の分岐点からの旅路を、浮かべているらしく。まだ、迷いの中にある私達を、どこかへ連れ出そうとする、切ない決心の目が、みなを、しっとりと、刺す。「往きたい……」その目と「どこへ?」の、その目。見つめ合えば、ゆき合った。偶然では、なかった。たとえ叶わなかったとしても、それが、偶然ではないなら、真の分かれ道は、きっと……学びの方へ、導いていったはずだ。諦めては、いないはずだ。過ちが、偶然を見つけてしまえば、きょうと出逢ってしまえば……。永年の経験は、人知れず、静かに燃えるを、学ぶ。ひとりで生きてゆけるはずがない。自分に負けたくない誇りは、見せるものではない。過ちを改むるにやぶさかでない、真っすぐな、謙虚さ……それ次第である。……手離された小舟は、揺ら揺ら、また、蹌踉よろよろと。依然、浮動漂流のただ中に、ある。



「陽彦さん……」


「ぅん」


「帰ろう?……」


「だ、だって……」



 どうして?! 坂を駆け上がってはくれない、登らない? せめて、想いの丈のひとつづりを。懸針垂けんしんすいを。そして、抱きしめて……。君だって、良く知っているだろう? そうではないと、わかっているだろう? 君の涙雨も、やっと上がっていたのに、そうするしかないと、わかっているくせに、妹の無言を、どうするんだ?! あと少し、もう少しじゃないか……。本気の涙が消えてしまうから、想い出が無くなってしまうから、全てを、忘れ去ってしまうから……また、悲しみを拵えているのかい?……。その為に、ここまで来た訳じゃないだろう? 今まで、我慢して来た訳じゃないだろう? 今どうしても逢いたくて、逢う為に、見つめ合う為に、そしてその手で、抱きしめる為に……来たんじゃないのか?!……。その手で……そのひと言で……。そして妹よ、君だって……泣いてばかりいないで……何か、何か言いたい事があるだろう? 君達の本気は、そんなものじゃないだろう?……それでも、いいのか?……ぃぃのか……過ちが、過ちのまま、でも……。諦めるのが早過ぎた。どこかで、心が、切り替わってしまった……スティグマとも言える、自家じかどうちゃく。真実は誤魔化せても、悔しさと、愛ある人としての誇りまでは、そうする事が出来なかった、そこから学ぶべき、何かが……欠落していた、昔が……。

 共有を望むなら、絆が要る。かの愛が求めない、絆はおろか、共有は、ない。互いの今ある愛の証しを、語り合うだけなのに……。今、愛している、その、誰かが……矛盾を……愛という名のプライドの下へ、韜晦とうかいせしめるであろう、可能性の話は? 寂しさに怯える表情を、笑顔の陰に隠しおおせるであろう、希望的観測は? 宙に浮いたまま、そのままなのか?! 幾つもの、かつて吐き棄てて来た、悲しい言葉とじり合って。


 ……あのひとも……坂を、登れなかったのではないか?……。


 万斛ばんこくの涙を絞り切ったかの妹にしろ、引き留めんとするは低頭傾首に任せ、踏みこたえている。しずかなる、我が岸辺と、我が岸辺……それぞれの、港の今に繋がるもやい綱を、浮かせつ沈ませつ、手繰たぐり寄せては閉じ込める。かかる散見にて抑え、緒に就く前提の段たらしめる守心しゅしん、それだけに頑なな痛み分けの、今日の幕引きを漂わせる。私の中で、あの、幻のような再会のひとは、依津子さんに他ならない。さらでだに夢なれば、夢は夢を生み、一入ひとしお膨らまざるはずも、何を今更、ない。私も、姉妹同様、成否を超えた、瀬戸際に立ち至っていた。


 ……やはり……過去を訪ねざるはない……あのひとも……。「マナミ」なる名の、血を分けた実の妹という……愛の証左……。


 この期に及んで、疑うべくもなかった。私は、身じろきひとつせず、確信に満ちていた。こうして今も、あの時と同じ、絆に苦しむ、双美人とだつが上がらぬ男の三人の、用意されていたかの再会の序幕に、辛抱立役しんぼうたちやくの幕切れのがしらが入った。小さく刻みゆくは上り調子、り上がり、詰め寄り、問いただされる夢は落ちのびようとも、その、けたたましき不安の嬌声の如きに、ともすれば、逃げ遅れた良心の欠片は、いっそ、じゃっするものとて、あろうか。依津子さんは、妹を見やりもせず、通り過ぎる行客に帰り、自分の席へ戻るべく、こちらへ歩き出した。

 ふりほどかれた妹の目が……姉を追うまでもなく、ち切るように、はたと、私へ留まった。もう彷徨わず、私を選んだ。潤みの波頭の中に、美しくも意志的に生き遺った、強い瞳があった。それは、彼女が想い出したあとう限りの記憶と、釈明の生命力が、こうなるべくしてなった、私をして、生まれたての予想通りの、ある意味、当然の成りゆきであった。……ただ形もなく、訴える……助けを乞い、強請せがんでは降りそぼつ……。その哀願にほだされた、私の中の不一致の感情は、一致をいざなうかの、しかも、姉さえ知る由もない、私の最大の怖れ……打ち消しても打ち消しても、また現れて消えてくれない、スティグマを……初めからわかっていたように……狙い撃たれた。まるで、帰りしなに、軒下の雨打ちぎわから、灰色の空を仰いでいる気か、した。


 ……あの時……マナミさんは……私の姿を見ている……あまり日も経っていない……覚えている……ならば……私は……高見家の崖上の家へ帰る……隣人である事も……おそらく……。彼女の、子供の頃の記憶に遺る、見上げる隣家から我が家を見下ろす、少年の面影と……今、正にまぶたの裏に焼きつけている、現実の私が、寸分たがわぬ一致をみせ、時の隔たりを埋め合わせた、その自信めくまなしが、涙をも呑み込もうとしているように、私には、見える……。夢を夢から覚めさせたい、にもせよの怖れに戸惑うのは、やはり、私の方と言わざるを、得ない。依津子さんとマナミさん、併せてふたりに関わる私は、かくも三者三様の、大きな忘れ物を、今日という日に、如何せん、故意に遺しつつあった。


 ……私は、依津子さんに、何て言えばいい?……その事を……今、話すべきじゃないのか?!……きっと、そのはずの……マナミさんだって……君に、家族に逢う為に……極楽寺の……岬への坂道の家の、近くまで……来ていた事を……。火成岩塊のようなスティグマを、閉じ込めるには、忘れるには……この今の……今あるままの、君達の愛しか、ないんだ!!


 私の体は微動している。私の魂は叩かれている。私のまぶたの裏は、百術千慮の如く耀かがよう、暖海の一面、てを競っては変幻自在にのびゆく。夢は、半分眠り、半分覚めている。そういう間隙かんげきを縫う意識の下、こうして今、私はあった。誰しも、言葉さえ見失い、無為な空気が、端っこでこだわっている。依津子さんの両手が……現実界から雲海を抜けて突っ込まれたように……今日の私が追い駆けた、颯爽たる女性ライダーの、黒いヘルメットを……掴んで、抱えた。


「陽彦さん、行きましょう」


「……」


 私の心胆を読んだかの、やや朱を帯びた才媛の横顔が、翩翻へんぽんたる旗印のように、出入口へ向き直り、悉くをふり払ってこそ、最早、歩は迷わない。


 コ、ツ……コ、ツ……コ、ツ……。


 ただ、見送るしかない、全会一致の衆目さえ背中でかわしながら、遮るドアを射抜かんほどの、悠悠舒舒ゆうゆうじょじょたるは、連れの私と、ひとり遺された妹との距離を、今の自分になぞらえるように、隔てる。促されし私は、拒めず、急ぎ会計伝票を持って、ついしょうした。夢のままには終わらせまい、可能性をいだかせる、依津子さんの心の灯を、私なら、彼女の目を覗き込まなくても、確かめる事が、出来る。絶対に、その目を見ずして、明かりが見える。誰にでも見える、その人の選択の余地を感じさせる、まなしという、心の窓に、私は、そっと、寄り添うしかなかった。いつも、崖上から彼女を眺めている私を、未だ、隣人である事実を言えない私を、この時は、姉妹への期待に、ここでも結局、紛らせてしまう。くじけてしまう。妹から姉へ、初めて明かされるかも知れない、男の真実……。その時の到来の予感……。私は怖れた。許して欲しかった。それでも、このふたりの和解には代えられない。私の事より、老舗の家の事情の方が、どれほど……乗り越えるべき山が、険しいか……。私にしても、人知れず腹をくくる段であった。そんな私を穿うがつ、妹の目線をくぐり抜け、レジで待つ男装の麗人と合流した。この、余地を創る失地回復と、消えがての、不決断の浮き腰との狭間に揺曳ようえいする、明かりのゆくえを、みな、黙して、目撃者の連帯意識にすり寄り、求めていた。今日の偶然にも、やっぱり、無言が一番よく似合うと、言いたげに。

 ひとりの女性スタッフが、靴音を消して現れ、依津子さんと私の退店業務を請い、


「……」


 私が透かさず財布から、合計金額ちょうどを払い渡した、レジ周りのトレーを、黙視決済するも淀みはない。音もなく、視程も塞ぎがち、一礼だけが際立った。


「どうもありがとう……」


 誰にとはなく、黒尽くめのライダーは、小声の謝辞を向け、私も黙礼を供した。彼女は、ホールへふり返るが早いか、流覧するに任せ……と想わせるものの、すぐに、果てた。尽きるだけの理由が、来た甲斐があった理由が、そこに、涙を差し出す……。共に突き当たり、立ち止まらざるを得ない。全てのしがらみを、行き違いを、恩讐を……かくも寂しく、かさがさ非道ひどく、家族の計り知れない恩と仇は、清濁せいだくは、永い空白が引き離していったような……姉は去り難く、遠方へ馳せ、妹は愴愴そうそうとして、一対いっついの場面の表情を浮かべている。ふたりは、申し合わせたように、もう、それぞれ、時に先駆け、今日を通り抜けてしまったように、瞳を重ねる事が、なかった。寸陰を惜しむ、思考停止。併せ呑めなかった、それはそれ、それも、それ……。依津子さんは今、一瞬のうちに、それらを、やっと呑み込めた証しを立てるべく、はなばなれの妹へ、見せていた。ここは行き止まりではない。ここは分かれ道なのだ。愛が聞こえる方へ、誰かのその声が喚ぶ方へ……あれから歩んでいった証しが、正直な言葉が、初めてここへ辿り着き、何年かぶりの対面を果たした姉の、今日の、せめてもの精一杯を、用意しているかに、見える。優しい束の間が、きょうあいな空間にこだまして、見つめている。


 ありがとう……。それから、何?……何?……。悉くを隔てた、恩讐を、今こそ、私達の中から、追い出す……。この再会は、目に見えない、明日に繋がる、最期の後ろ暗き、別離わかれで、あったろう。


 ……成就させたい……本当は、本当は……やっぱり、抱きしめたい!……。焦点を、絞れなかった訳じゃない! まだ……これから……これから……。


 想い満つる故に、一致を免れんとする、わざと交じわらない似た者姉妹の視線が、虚しく、何度も私の体をかすめて、困らせる。しおれるばかりの妹の、声に出来ない、声にならない声を、依津子さんは聞いていた。同じ夢を、見ていた。うつむいた切りのみなの一部が、限りなく、この、今ある自分の全部との邂逅かいこうを、疑うまでもない。夢を、遂げなければならない。初めは小さなものを、本気で、大きな全部に。そう想えるほどに。私は、自分の事のように、義務感が兆していた。別離わかれという、ある、新次元の、胚胎はいたいの時である。傷つけるより、傷つけられる方が、どれほど救われるだろう。して貰うより、してあげる時の、自分の見えない笑顔の方が、どれだけ、しあわせだろう。その、時に見せる涙は、温かで、隙間を全て埋め尽くしてしまうから……悲しい。誠実であるという事が、最後の答えが、微笑みをくれるから……。我慢して来た甲斐が、あったのだから……。

 そういう私は、私へ向けられがちの、代わりに聞いて欲しそうな、マナミさんの目を、気づいて気づかぬふりをした。されど、吸い寄せられてしまう……はかなさを、彼女は、いつも、待っていた。何回も、待っていた。私は、このまま、放っては、置けなかった。どんなに汗をかいても、涙を流しても、届かない想いは、ある。それを語り継げる、何かが、さっよぎっただけで、私の中に感じたなら、想い出したなら、男のひとり善がりかも知れないが、余計なお世話かも知れないが、微力ながら、惜しみなく尽くしたいと、決めた。

 そして依津子さんは、


「フッ」


 と、小さく微笑み、軽い一礼を贈り、急に前を向いて早足で、ひとり、店を出て行った。ドアか、微動している。向こう側の風が、小さく叩いている。マナミさんは、後ろ影さえ追わない。虚を衝かれ、笑みも礼も無作法なまま、すぐさま続こうとする私の背中を、姉を見送れぬ、視線をひとり占めされた無念の如き圧が、畳みかけんばかりに、襲う。過去と未来の板挟みの、この、現実という隙間は、いち早く、ゆく先の殷賑いんしんたるを感受し……。


「あの……」


 初めて、今頃……マナミさんが……ふるえる小声をしなれかけた。私は反射的に足が止まり、ふり向き、想像がばたくのだが、聞き覚えもなく、籠もり声では致し方ない。


「……姉を、よろしくお願いします……」


 その瞬間より早いぐらい、同時に頭ごなしに、私のスティグマの壁は一撃を浴びた。かの独弦哀どくげんあいの調べに、見届け人達の悲涙の投降もまた、タイムラグさえ、許さない。みな、一気に遠慮なしに、噴出してしまった。かくも悲痛、この上ない、愛惜。妹の涙の懇願に、私の記憶像の無意識とて、本気で応えざるはなかった。互いの、悉くの想いを丸呑みして、想い以上の涙海るいかいに溺れ、私は、せめて引き留められるなら、この終わりの次に、始まろうとする想いを、互いに、心の目で、交わしたい、確かめたい。


 溢れる言葉を……もっと早く……本人に、直接……。今にして、今なれど。でも、私だって、この今は……何も……してあげられない……意気地いくじが、ない……協力したいだなんて、格好いい事、自分に言い聞かせて置いて……ごめんなさい……。


 私は、そうしなければいけない事が、わかっている。私にしか、出来ない事が。過去という領域のせきりょうは、これが、最期……。後先を、考えた。後に続く誰かの為に。先の自分の為に。慎重さと謙虚さは、限りなく、近い。


「近いうちに、必ず、また来ます。今日はどうもありがとうございました。ご馳走様……」


「……」


 寂しい顔同士の一礼は、浅くても充分だった。あまり腰を折れば、このコンタクトは、姉妹の久しぶりの懐かしさに敗れ、そのまま倒れ込んでしまうかも知れない、と、初めてのコンセンサスを咄嗟に完成させた。あとはまなしさえあれば、深く、契れる。それならば、私は、わかっている。かくもはかない、一点の混沌に過ぎない現実に、小さな愛のしおりし挟んでこそ、この、目の前にある、未来へのドアを、麗しく軽やかに、けられよう事を……。美しき様式に、寂しさをよく知る愛は、シンプルを説明するに、いつも謙虚である。遅過ぎるという事も、ない。

 そうしてひらく、ドア……。私に纏わりつく未練の匂いが、「ヒューッ」と、湘南の街角を巡る、暮れゆく年のかぜえに乗じ、狭苦しい現実を吐き出して逃げ惑う。静かに、ひとりでに閉まるドアの音を、背後に聞き流す、私。そこまで冷たくなれなかった、弱い直射が翳す光暈こううんは、果たして、日まりであった。まるで誓うように、依津子さんは、その中で待っていた。言うまでもない何かを、既に装着したヘルメットの反照が、あまりにも悲しく、にもせよの殷賑いんしんい交ぜにして、シートに跨がる余威を守っている。何かを言い足りないエンジンが、始動した。



 ド、ド、ド、ドドドドド……



「もう少し、つき合ってね」



「うん」



 誤魔化しようもない想いは、辺りに届かぬはずもないエンジン音に急かされ、私をあえなく黙らせる。車に乗り込み、スタートボタンを押した。二台のアイドリング音が、腹の底に響く。彼女は左のウインカーを焚き、私も併せると、けたたましく道を砕きながら、前の幹線市道へ右旋回で進入し、西へゆく。私も、続く。富士山のでっい冬づくりが、依津子さんと私の目の食い気に、果てしないマウントを取るように立ちはだかる。

 これまでの成りゆきを、先送りした、再会であった。小さな喜びの中に、虚しさが入り込めば、じんを遺した。この絶景へ突き進むほどに、嘲られるかの人間の抵抗は、飢餓感を、殊更シンプルにぎ落とし、マウントを取り合うさがを、吹き飛ばすようである。前方に、高麗こま大橋が見える。山紫水明に呑まれようものなら、私はやはり、それはそうと……ルームミラーを確かめた。先行する依津子さんが、そのふちに引っかかり、後ろを気にしている。時折ミラーにもたれ、進行方向の視程に問いかけながら、前をゆく。横長の、意地っ張りな鏡面がとらえしもの……



 ひとり店の外で、私達を見送り、深々と頭を下げている、マナミさんの姿があった。自らの現実に、フィットしない領域のプライドが、終わりを告げるように。薄汗が脚色した悲劇を、脱稿するべく。私は、前部の座席の窓を、全開にした。





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