冬の翼

 自宅にいる。北からの乾いた寒風が、岬へ流れていた。

 かの姿は、窓辺の頭上を煽り、山の冬木のたじめく群像を尻目に、蒼古そうことした一筆をふるってゆく。その留筆とめふでたる、海に臨む街衢がいくの劣勢が、寒威かんいの受け身を呑み込んでうつむく。抽斗ひきだしの中を覗いて、しまってあるものを眺めるだけでも、読みふけってもよかった。すぼまった空間識の呼吸音が、閉め切った窓の外にも、あった。内にも、あった。ひと筆の一線上に集約される、冬を見つめていた。あと幾日もない今年の終わりに、締めくくられた想いがある。誰の胸の内にも、句点を打たねばならない、区切りを見つめていよう。一年の手綱を緩め、張りの満を辞し、さやに収める。仕切り直しの時を告げ、世間に取って代わるかの、新旧織り交ぜた、消火から点火をもこなす、置換性の季節風が、強く吹いていた。煽っては、消しつつある。また煽っては、内なる種火の誕生を連想させる、ユーティリティーな風を見ている、私であった。誰かにふり向いて欲しいと、求めているのではなく、その誰かをふり向かせる行動を待っているような、そんな風だった。不足故の虚勢、蒼き反発は、素直になれない以上、出逢う事がなさそうな空気を纏うかも知れない。この時候の、硬質の流体の密度は、一途な強張こわばりに傾注して、他を顧みない。

 それはともかく、私は、依津子さんの例の件について、まだ、返事をしてはいない。この上なく過分な話に、お世話になりたい心づもりではあり、自分の中では、既決事項であった。さりながら、善は急げというものの、ここでも怠け癖が顔を出したか、甘さを露呈して、年明けの応諾でよかろうと見通していた。サークルのメンバー達にも一切言わず、相談もせず、取りあえず内々ないないで事を進めたい、それぞれの思惑も一致している。いてはいけない方向へ、互いに、そっと仕向けていた。絵里子さんからの連絡も、年末の御用繁多の所為せいかして、ふたり共、途絶えていた。GEORGE HAMPTON での忘年会の話も、今年は店の飲み会が殊に盛況らしく、立ち消えてしまったかの感がある。みな、今年のラストを、平成最後の年の瀬を、懸命に駆けながら、味わっているようであった。

 

 ……私は、急坂に、最近よく見かけるようになった、黒革の上下に身を包んだ、崖下の風の化身が、師走しわすの土曜日の今日も、果たして現れるのを待っている。LINEの報告によると、繋ぎではないセパレートの、ライダースジャケットとパンツをセットアップするべく、一対いっつい買ったとある。それにしても、いつ見ても、勇ましく変身したものだと……忙しい時期にもせよ、AT 限定ではない免許証の取得なる目的を、見事に達成したものだと……感心頻りの年末を過ごしていた私であった。彼女のこれからの覚悟の程に、水をす隙もない、鮮烈な新味が、私の目をくらますのだ。冬日影を護持するが如き、うやうやしい黒艶くろつやの肢体が、400cc のバイクに跨がり、あたかも弾丸となって、排気のサウンドと共に風に乗るのだ。報告通り、岬への一本道を往き来する、その勇姿を、この坂道の上から、数回、目撃している私……耳に運ばれて来る、バイクのエンジン音を、探すような、待っているような、私……。ささやかな楽しみが、暮らしに灯っていた。無理だと想えば出来ない。出来ると想えば出来る。今の依津子さんに、中途半端という言葉はないのだろう。

 そうして思惑通り……タフな男装の麗人は現れた。黒のフルフェイスヘルメットを抱え、革製のブーツも同色、既に、一色の曳光弾えいこうだんが私へ放たれた。トレーサーの軌跡に追いすがる男はからめ捕られ、忽ち奪われてしまう。峻坂を駆け降りる髪は紫吹しぶき、事の向背を預かるイニシアティヴが、小刻みな足取りの慎重さをもたらしている。風と光の嗣子ししは、凪まりを散らし、日のわだかまりを解き、坂のあがり口に至り、打って変わって、谷合いの分かれ道の悉くを手繰たぐるように、緩々ゆるゆると、真ん中の道ひと筋を南へくだる。玄冬の気流はかすかであろう。淡く、眩しい、曇り空の下、動き出した休日の息づかいが聞こえて来る。


 私は想う。

 たとえひとりぼっちになっても、

 これなら人生を創ってゆけると、

 見極めた時……

 本当の旅が始まるのだと。

 本物の自分に出逢えた、

 晴朗な男の顔になるのだと。

 目を閉じれば……

 曖昧な旅立ちは、

 極楽寺坂切通きりどおしの、

 蓊鬱おううつたるを彷彿とさせる。

 寒雲砕け落ちる、

 鈍色にびいろ天穹てんきゅうが、

 まぶたの裏を満たす。


 今日もライダーたる彼女を、見下ろしている私。すると、黒光りする四肢五体は、裏手に線路を控える、一軒の民家のガレージへ入っていった。ここが、買ったばかりの、新車400cc のバイク置き場であった。この急坂での入出庫は、車ならいざ知らず、男でも無理である。この傾斜に二輪車を停止させるのは、危険だ。私は当初から心配していたのだが、ライセンス取得の一報を受けた時、すぐ近所の同級生の家の車庫を、御厚意で間借り出来た事と併せて、ふたりして喜んでいた。依津子さんの計画は、周到な準備の上に、ひとつずつ目に見える形を成してゆく。目的意識の強さが、まだまだ途中経過ではあるものの、誰しもがうなずける成果を遺すのだ。華奢きゃしゃな体つきの芯棒が、ぶっくなりつつある。ライダースーツ姿が、凜然と大きく見える……彼女の言葉を叶える彼女は、今という時に必ずしもこだわらず、とどまろうとはしないだろう。やはり、風は、風……風を夢見る、風……風をも壊す、風……。風になる車体の黒いタンクが、いつも道路際に見えていた。今も、私の方へ正対し、そこに、ある。


 きっと、私達ふたりは、自分を見つめ直せるはずだ……そこに、新しい自分がいるはずだ……出逢える……繋げる……確かに、そこに、ある。


 私の家の窓硝子や、谷合いごとノックするような、エンジン音が立ち上がり、街の気をくすぐる。江ノ電の走行音と自然のさやぎの間に置く、読点の主張は、無作為の生活音に過ぎない。ヘルメットを装着し、センタースタンドを解除し、前傾のライディングポジションの両脚が、ボディーをはさんで地に吸いつき、振動を抑え込む。中の家人かじんに一礼を付し、左膝を持ち上げる動作が、ギアをローへ入れたかに見えた。前方左右を確認して揺れる数回の、ヘルメットのシールドの透明感が、こちらを向く度……ここからは見えない、眼差しのゆくえを、私は、探してしまう。出発寸前ひと目に受ける彼女さえ、ゆく先は決めているにもせよ、まだ、覚悟の中に潜む、一抹の抵抗因子を見つけたいように……迷っているのだろうか。……それは、事情こそ折り合えないかも知れない、コンプレックスで、あったろうか……。私は、訳もなく、仄かな不安を、始まりに落としていた。

 そして、よくは見えない車体の陰で支える右脚が……蹴って離れたとおぼしきガレージから、黒尽くめの400cc は、一本道に頭角をあらわす、


 ドドド……


 や否や、向こうへ横倒れるに任せ、右の急旋回……半クラッチの開放、スロットルを繋いで瞬発、呻吟うなりを上げる反作用、咄嗟とっさに体勢を立て直し、安定走行を完成させてゆく……


 ドドドドドド……


 けたたましく立ち上がる鼓動が、微睡まどろいにしえの街並みをすり抜けてゆく……

 生まれたての生命体は、一定の韻律とシンプルな音階を昂揚させ、融合符をかざしながら、物言わぬ家々に応えるように、線路と並走してゆく……

 趣きある住宅の、密集エネルギーを引き込んで置いて、自らの背中は寄せつけない力強さが、流速に乗っていた。併せる私の視野は、冬霞ふゆがすみの遠望となり、水平線を呑んだ希薄なグレーの奥ゆきが、索漠たる一景に染める。放たれた弾丸は、彼女のうちに潜り込んでゆくように見えた。早寒の静謐せいひつを斬り、一点の念体の光にして、十念の祈りと出逢い、集中を捧げていよう。男勝りな逞しいライダーは、自由だった。それにしても、もっと自由になりたがっていた。内剛外柔ないごうがいじゅうなる自由を求め、満目蕭条まんもくしょうじょうの寒気団に挑み、つんざき、羽搏はばたいていった。見えない海へ向かい、やがて街の光は、軒先に隠れて見えなくなり、影となって走り去っていった。刹那の幻は、消えがての気配を遺し、かすれゆく。形のない、見透かされた何ものかが、目覚めたように展がっている。

 疾走する依津子さんの、前のめる姿勢に、どうしたって、自分を重ねたくならざるを得ない、私であった。今日は、特に。冬の悪戯いたずら所為せいかも知れない。焦燥すら、覚える。

 それが、自分全部を賭けられるものではないなら、真に、そうではないと、わかっているのだから、本気が逃れてゆくのだろう。本気になれない頑張りを、天網恢恢かいかい疎にして漏らさない。時間という、仮の名の非情は、いつしか、本気ではなかったそらを使い、知らぬ間に、プラスとマイナスを逆転させもするのだ。コンプレックスをとぼけ、ないがしろにする事ほど、残念なものはない。マイナス感情の針が、リミットをふり切ろうとすればするだけ、茨の道は拓けてしまう。ネガティヴと、呉越同舟ごえつどうしゅうを契るものなのだ。拒絶なるを以て、経験値をもおとしめてしまう。器の中身が多ければ、隠れよう何ものかは、見えなくなる。忘れられるのだ。

 他を尊重する事……そこに、喜びがあるなら、笑顔があるなら……それは本気という事……本当の自分に、真っすぐであるという事……優しさという……心である。たとえると、美味しい味噌汁を、ひと口……飲んだ時の、日本人ならわかる、あの、抱擁感……言葉が、要るだろうか?……涙が代わりでは、いけないだろうか?……。ほんのひとつ……それだけで、にじむように展がり、満たすもの。多くなくていい。強かでなくていい。溺れてしまいそうな喜びは、私には、相応しくない。語る資格。動かす権利。そこに、他の主体性を保証する精神がなければ、欺瞞ぎまんに過ぎない。涙をふり絞るように愛したなら、涙袋なみだぶくろは蓄え、はかれるだろうか。

 几帳面な依津子さんは、私の予想にたがわず、早々に出発していった。促されたかの、フットワークに難がある男は、いつものグレーのダウンジャケットを羽織り、キャップを深めに被った。私は車で彼女を追いかける、初のツーリングに誘われていたのだ。免許取得後一年間、タンデム走行は違反となる。

 ……是非一緒に、行きたい場所がある。つき合って欲しい……との電話を受けていた私であった。何でも、平塚、大磯方面で、とにかく大切なものを見つけたと言う。ひとりでは心もとなく、どうしても連れが必要、と懇願され、もちろん喜んで請け合った。平塚市内の、とある小さなカフェらしい。……とある?……彼女のその言葉に、ずいぶん昔の事のようなニュアンスを、含めている感じがあった。ゆっくりと、出来るだけ自らを落ち着かせながら話す、声のトーンへ、切り替わっていた。ふたりの中で、今はそれ以上言えない、聞けない意思の探り合いが、目立たない底の位置で、無言を約束したのだろう。わかって欲しい想いは、わかってあげたい想いに救われないはずもなかった。大好きなひとに、告白も出来ない私を知るように、風のシルフィードはけしかけるのだ。風と連れ立って、風となるべく、私は、ただ、嬉しかった。



『何も言わずに、一緒に来て……』



 私の逞しい妄想は、勇ましいでたちの君の所為せいだ……いつまで? どこまで? こんな男を見逃すつもりなのだろうか……。例の仕事の勧誘の一件以来、私の期待には、常に、ひと言の手前でかすれゆく、はかなきインスピレーションが浮かび来る。そう、あの、初めて出逢った時の、夕暮れ迫る材木座海岸の、雲流れの空のような……。一年分うずたかく積もったちりを吹き飛ばし、終わりに相応しい、寒気凜烈たる道ゆきが始まる。待ち合わせ時間まで、三十分ある。

 年甲斐もなく浮つく私も、履き馴れた黒革のドライビングシューズで、家を出た。かなり頭を使うか、体を使うか、どちらかでなければ、しあわせにはなれない。ひたいに苦心の汗は浮かばない。それがわかっているのに出来なかった、惰弱という方程式に、ようやく、解かれる時が巡って来たと、想えてならない。車に乗り込み、エンジンをスタートさせ、数分で走り出した。険し坂を砕くようにくだりながら、足腰から上体が漲ってゆき、私というアイドリングは、満を持すばかりであった。寒い空と海から落ち、寂しい山と街の間を伝い、無味無色の雫の一滴は、染まる我が身のゆくえを、得体の知れない、測定不能の大きさの何ものかに、委ねつつある。素敵、とかいう言葉に、自然に、素直に、触れ合えそうな予感が、私をなぶる。そして、運転席のウインドウを全開にした。

 先んじる依津子さんの後を追い、ルーティーンの風景は冬の底をもたげていた。気の所為せいか、バイクのエンジンの排気の匂いが、路面になずんでいるように、車の足回りへ纏わりついて急がせない。この道は、通れば心躍るも、足取りや速度は、ゆけばゆくほどに、悉くその心を裏切る。そして意に添わぬ想いさえ、忘れさせるように嬉しさを与えるのだ。これから体当たりで風を斬る旅の心得を、私に教育する、街の密やかな息づかいは、一時いっときの喧噪をやり過ごし、平安を引き戻した矜持の陰に、しずかなる闘争の時代を押し込め、要らぬ不安を煽らない、寡黙な態度で見つめて来る。どこまでも見送り、いつまでも往く人の帰りを待つ、孟冬もうとうの寂想故の優しさが、こんなにも、暖かかった。待ちびと達の冬籠もりに、甘えてしまいそうで……。

 冷気は私の顔中に針仕事をするも、ひとつ踏切を渡り、日蓮にちれん袈裟掛けさがけの松跡の碑を過ぎ、ふたつ目の踏切も越えれば見えて来た、いつもの銀翼の海の飛行……その旋律……その香り……冬色をした、私にとり、実にしばらくぶりの自由な顔は、今や馴染みの友となって、挨拶代わりの冷たさも、気軽に済ませるのであった。耳の奥で、鳴り出した。尚も南下する目の左端に、十一人塚が眠っている。眼前を満たしゆく、希薄なグレーの空の羊膜に包まれた、神漿しんしょうの銀水たる海は浪浪。かのただ中に浮かび来て、正に生まれでようとしている胎児の如きが、銀花の海畝うみうねから立ち、冬の翼は、一陣の風となっておこる。浦風うらかぜの誕生なる、自然界の細胞分裂の、途方もないプロローグは、次の角を右に曲がるとすぐ見える……過日、寒々しさ匂い立つ小雨の中、ふたりして缶コーヒー片手に持ち寄り温まった、稲村駅前のコンビニにて、凪まりの一景を辞しつつあった。アナザーストーリーの扉をけるべく、店の駐車場を待ち合わせ場所としていた、私達である。

 ……やらずの後悔と……やって失敗した後悔……。後者のそれに、真摯な想いを賭けて来たなら、いつの日か、必ず、笑顔が救うだろう。やらずののちの悲しみに、逆様さかさまの本気と本当は、前者に何を与えようか……。内面はだませない。悉く表面に主張の形を求める、そんな風が流れていった。何かを埋める意思の、嘘も、何かをかばう態度の、無言も、みんな風になってしまえば……忘れてしまえば……。私達ふたりは、冬の翼を一身に引き受け、章章しょうしょうと、羽搏はばたく。

 道ゆけば、体に当たる寒さのかすかな痛みを、内気な冬日ふゆびは見とがめて、甘い刷毛で撫でて来る。硬く締まった潮騒のかすれ声は、海の香を砕いては荒削り、それを纏って冬を着膨れた、海岸線を縁取る国道の往来が、掻き消されそうになりながら、やけに年の瀬の助走たるを想わせる。正月は、もうすぐだ。一本道の出入口まで、もう少しだ。海の空門くうもんの如きをかたどり、その両側からいざる家並みの伏勢ふくぜいに、私の視界は、まだ限られたものでしかない。想いの一歩、二歩が……ときめくにせよ……奥まりから抜けでるように、角を、右へ折れた。懐かしいメロディーが、転調を設け、弾んだ。

 ゆっくり進んだ。地面が跳ね返すようだ。と、喃々と……黒尽くめの物柔らかな弾丸が、ヘルメットを脱いだ露わな朗笑で、私の瞳を見つけて飛び込んで来た。一気にさえずり、叩く、ライダースーツに身を包み、シートから降りている、引き締まった曲線に、言葉探しの隙間もないほどの、私の本当がまった。光さえみて、集まったように輝いている。眩しい凪まりへ、招きの微風はそよいで、私をほだしにかかる。満をたたえる同じ想いを、波のざわめきは打ち鳴らして憚らず、流れゆく風に乗せてゆく。……少年少女達のはしゃいだ夏が、帰って来た。砂と共に失われし、私のプラトニックが、依津子さんの瞳に揺らぎ、私達ふたりは風となって、揺蕩たゆたうままに、心の赴くままに、ゆけるだろう……冬にこそ、ノスタルジアの翼は羽搏はばたくのだ……。湘南のみぎわの落とし物は、いつまでも、消えない。冬の日だまりの暖かさを喜ぶように、大切なあの人の笑顔を想い出すように、いつまでも、消えない。……私は、バックで彼女の隣りに駐車し、すぐさま車外へ弾き出た。


「お待ちしてました!」

「やあ、ごめんごめん。いやあ……カッコいいなあ!……頑張ったんだねぇ……おめでとう! 今日は誘ってくれてありがとう!」

「いえいえ、こちらこそありがとう。私……やりました!」

「うんうん、やったね! 立派! 言う事なし!」

「えぇ?……それほどでも……」

「本当本当。凄いよ君は」

「フフ、照れちゃう」

「ハハハ」

 彼女の視線が、真っすぐな細い針故に、私の体内奥深く突っ込んで来るような心地に、目覚めていった。忽ち塞がってしまう、その近道に、一瞬で薄ら風は雪崩れ、見逃さない。崖上の人影は、移ろうのであった。はかない身の上を承知の、依津子さんという瞳の風が、私を満たさざるはなかった。始まったばかりなのに……気づかぬうちに、終わってしまいそうで……冬空が、悲しげに見えて来る……終わらせては、いけない……いけない……。彼女は、ただ、嬉々として笑うばかりで、私の俄かな曖昧を、包んだ。悟られまいとする男のから元気は、鈍色にびいろ玻璃はりの天文学へ融けてゆく。

 見つけた大切なものって、何だろう?……。私は、この手をのばせば、すぐにでも届く彼女を、見つけたと想いき、まだ、見つけられずにいた。彼女だって、まだ、この手にした訳ではないだろう。その存在を見つけたというだけで、しかうちいだいてしまった訳ではないだろう。私に、何を見届けさせたいのだろうか? 愚図愚図と手をこまねくばかりの私に、もしかしたら……しあわせへのプロセスの一部始終を、今という時代の為だけではない、先々に向けての頑張りと、その成功体験を、身を以て示したいのだろうか? 大切なものには、賭ける価値があるのだ。

「さぁて、行こうか! ねえ、若宮大路わかみやおおじを回って行こうよ」

「うん」

「そんなにスピード出さないから、ついて来てね!」

「オゥ!」

 弾丸はヘルメットを装着、あごのベルトも固定し、早々に準備を締め切るような「シュッ」という音の頻回で、私の安心を導く。頼もしい限りの女性ライダーは、流線形の様相極まり、風待ちとなった。ふたつのダークカラーの球体は、さんと息吹き、辺りの活眼をひらいて集めるようだ。私は、誇らしい気分を呑み込んだ。はっきりしない、胸のうちでも雲流れの空でもよかった。駆けてゆけるなら……。今日のツーリングの、見えないタンデムのイグニッションは、私の場合、角を曲がった時から、ONである。聞き馴れたノスタルジックな海の歌の、パラダイムシフトは、風のバイクであっても……いい……私達ふたりは、私達の時代を駆け抜け、創ってゆく、主役たる風となるのだ。誰が何と言おうと、風ならば、臆せず駆けてゆけ。想う存分、駆けてゆけ。終わってしまわぬうちに、微笑みが消えぬうちに、今日という一日を、忘れてしまわぬように……。

 愛する事がもたらす頑張りが、対価に報われ、健全な肉体を守る暮らしを創る、自由なるもの……。その行動半径を展げる権利、資格は、平等を以て保証されている以上、この上なく正直なレスポンスを示す。平明な自由の翼は、時ぞともなく羽搏はばたかずして、いずくにか、愛が、立つべき所やある。いつぞ、敗れしをうべなったものだろうか……。

 ちなみに、人間にとり、体と金ほど、正直なものはない。たとえば、ベテラン日く、「無言を読む」「顔に書いてある」。その真意が、ここにある。そう易々と、あざむけるものではない。無言の濫用は、時に、危険。正直ぶりを雄弁に物語り、火種になり兼ねない。自らの真実に、盲目という事になる。そこに、愛も、笑顔も、私には見えて来ないのだ。ひとりぼっちの寂想涔々しんしんは、ひと粒の微細な砂の運命の如く、はかない。いやみそしれば、人の優しさは離れる。無言を決めたなら、最後まで貫くべきだと想うのだが、考え過ぎだろうか?……火種を散蒔ばらまいて、どうしようというのだろう?……。

 過去を、冷たく悲しい火で燃やしては、いけないのだ。自らの真実に、目をつぶってはいけないのだ。蓋をしてはいけないのだ。少なくとも今の私は、そう、気づいている。自分の過ちを、自覚している。自らに備わっているであろう、脆弱な知恵と徳さえ、結果的に、消してしまいそうになっていた、罪をも……。新しい風を、体一杯に感じ始めている。依津子さんだって、きっと……。そして、空を見上げれば……光は、涙のようにこぼれつつあった。風は、濡れたように立ち止まりつつあった。冬の海辺が、微笑んでいた。

「ハハハ、僕達、弾丸だな!」

「フフッ、ハハハハ、そうだね!」

 私は、賭けられる人を、間違いなく選択している。すぐにでも訪れる、先々という現実を、創らせたがるに充分な、合理、そして決断を、自らにフィットさせようとしている。トータルのしあわせなる、最終的なゴールを、強く意識していた。自由の空気が、動いている。移ろい、私達ふたりをいざなう。目の前にある、取るに足りないっぽけな自由を拾わせない、そこに埋没させない、その空気の流れは、無論、目的地への旅を創らせない、盲目のはずがない。希望的観測が横溢おういつする現実から、逸らさない方へ、馳せていった。わかっている。わかっている自分を、信じようとすればするほど、こんなにも近くでこぼれる柔らかな光が、依津子さんに輪をかけて、いだくのだ。このひとを好きになって、想い続けて来て、よかったと、心から、言える。素直な自分が、嬉しかった。彼女と一緒なら、風を待てる。風にも、なれる。語る所の、大切なものを、翼に乗せて、きっと、分かち合える。

 私が車へ戻ると、彼女はセンタースタンドを外し、颯爽と翻す右脚も高々と、楕円だえん黒曜石こくようせき然とした、渋い光沢巻き上がる、二輪の内燃動力体に跨がった。やや沈んだかの車高を、感心の眼差しで見蕩みとれている私へ、軽く右手をかざして斬る合図を投げた。


 キュルル……ド、ド、ド、ド……ドドドドドドオオォォンン!……点火を忽ちスロットルは反応して、依津子さんのマシーンは駅前にいなないた。自分の真実を、本気を、本当を、放置してはいけない!……と吠えた。贋物にせものになってしまう!……と戦慄わなないた。蒼き時代の欲望のコントロールは、冬に待つ身を虚しくさせない!……と鳴り響いた。駆ける翼に想いを乗せて、彼女の車体は岬への一本道に向け、東へ走り出す……。

 続いてアクセルを踏む私に、失われし砂の如き、火成岩塊を砕いた輝石きせきの粒子の匂いが、ガソリンの内燃臭と混じり、侃侃かんかんと、けぶりかかる。光が燃えるを嗅ぐ、見えないタンデマーであった。街なかに排気の響動どよめきを沈め、引きずりゆく。バイクのそれは、みぎわしずかな羨慕を集め、右へ曲がって進入した一本道は、遠慮しているふうの無関係を装い、ゆき交いはない。二輪のビートが、や今日の私達の主旋律を担ってそばだち、国道百三十四号、稲村ヶ崎駅入口の赤信号にて、彼女は停止線ぎりぎりで停まり、その後についた私である。海岸通りの流れはスムーズ、一枚の相模湾は、なだらかなおもて翫味がんみたたえ、小波のささくれを許し、寒風をとがめる風情はない。彼女と私の、二台分のアイドリングストップにも気づかない、そのままの鼓動で安らいでいる。青に変わると共に再びスタートする、私達のウインカーの左折意思を、うに国道の通行へ織り交ぜ済みの、大らかな翼を以て、ふたつの小さな羽根を、見つめていた……




 大きな翼になれ……羽搏はばたけと……




 依津子さんの背中越しに、海は、歌う。

 その、温かな雫が、ふと、私の目に、灯った。

 彼女の体が揺れているのは、同じ歌を、聞いているのだろう。

 海が微笑むうちに、今日のこの海を、忘れてしまわぬうちに、揺蕩たゆたうように、ただ、走ってゆけばいい。

 そう、想った。

 合理を揺らし、決断を促した彼女がいる。

 そこに集中を捧げる私がいる。

 そうさせてくれた光が、風のように流れゆくなら、導くなら、

 私だけの海は小々波さざなみ、

 時に、凪ぐ。

 貝になると決めた、マジョリティーという現実の海へ、想いを馳せる。

 拒絶の毒を吐かない、優しい貝は守られていた。

 私は、いつもそう願っている。

 夢見ている……。

 そして、信号が青に変わりつつあった。

 目をみひらき、ゆく先を真っすぐ見つめている、ふたりがいた。

 まだ、翼とは呼べない、小さな羽根を畳んで、待っていた。

 もうじき、

 走ってゆけるだろう。

 私達の海は、彼女の風が吹けば、いつか、いつかきっと……。


 ……1……2……3……青を告げた。無言のカウントは……


 ド、ド、ドドドドドド!……


 と、二輪車の衝動をく、号砲の如きエンジン音に蹴散らされた。忽ち路面を削る左折円弧は紫吹しぶきを上げ、海岸通りをく、無人の横断歩道を超えつつある。遅れてはいられぬ私は、出し抜く彼女の後塵こうじんの幻を、濡れ羽色に凄む車体に求め、追う。それは、焼きつけるほどの官能的な熱さを、マフラーの排気と消音が、にもせよの低減な態度で証言していた。

 駆けゆく一塊いっかいの風になりたい私達は、右手に突き出した、稲村の岬へ連なる、陣鐘山じんがねやまを分断する、国道の坂路をつんざいて登る。手緩てぬるい傾斜の頂きに届こうもなら……坂ノ下海岸から由比ヶ浜の、扇と佇まう、その寛ぎ、引き継ぐ材木座海岸の婉容えんようは光発。されど見馴れた風光は、何事かの甲斐があったように、息を吹き返して見えて来た。依津子さんも、私も、自分なりに表現し、頑張っていた。今に始まった訳ではない、日常的な営みが、美しく見えている。ゆかんとする国道の赤信号は取り払われ、緑の点灯が数珠じゅず繋ぎにととのってまた、恵まれていた。

 フロントガラスの中から見切れない、先導の疾走を、彼女が自らのバックミラーで確かめる、その眼差しは、私からは、見えない。ただ、車間距離の均衡が、ふたりだけのサイン交換も密となるほどに、道は煮こぼれ、辺りをさんと濡らす。冬のみぎわの待ち侘びしさは、びの想いを鈍光が引き受け、街は閑雅な光被を蓄えて尚、小さく輝いている。東へ、ひた走る。

 打つ波はばらけ、退き脚をもがさない論題の、謦咳けいがいに接するばかりの世界観が、優勢を取りこなしていた。海の素顔に説得され、悉くの矛盾が、本物を待望しているように見える。それは、不条理な論争に至らしめない、真実の優しさであると、私は想った。時の風は、優しさを優越意識に変えもし、それに歯向かうジェラシーをも喚ぶ。人と人のかかわりの不文律たるを架け渡す、最低限、私達にとっては本当の風を、本気で突っ切るようで、それでもまだ、風待ちの風は、何かを探し求めているのだろうか。真実に正直でありたい願いは、価値を生もうか。右頬に感じる由比ヶ浜は、鷹揚おうように語り、広く、耳を傾けて物柔らかに煌めいている。明明あかあかと、延延えんえんと受け流す一景の先陣をゆく、パースペクティヴな視界を拓く一塊いっかいは、前方の起点たるを知れば、風になれる……。

 坂ノ下の丁字交差点の青を過ぎ、次の星の井通りとの合流信号も青のまま、東行きの車両の通行を許している。されど、この V字路は左折出来ず、極楽寺坂切通きりどおし長谷はせ方面からの、東方への一方通行のみ認めて、国道への車両の排出に余念がない。車で海岸通りから自宅へ戻る際には、先程の坂ノ下を曲がれば、すぐ次の星の井通り交差点から、極楽寺方面へ入ってゆける。このように、界隈の混雑に対応しているのであった。夏場の人出に伴う、車の流れの洪水をも、このエンドレスな順路の仕事に、委ねられていた。

 街の中心部へと進む彼女は、前傾を深めるように、鎌倉の静波せいはを突き抜ける。光に濡れ、甘く塗抹された言霊ことだまの如きが、私には、線描の弾丸に見えて来る。言葉を換えさせる、シェープする力が、そこには宿っていた。私だけではなく、衆目の一致する所、その表現には、余計なものがぎ落とされていようか。目には見えない専心が、わかる人には、わかるだろう。そう、想えるのだ。それだけに、彼女自身が見つけた大切なものが、彼女のうちで飛翔しているのだ。であるから……依津子さんのあの宣言通り、


『私、風になるんだ……』


 予言は、本物になった。その頑張りを、私は、察するにあまりあるのだ。そして、由比ガ浜四丁目信号が……赤に、変わりつつあった。

 ……先行車両の減速に合わせ、私達一塊いっかいも、信号やや手前で停まった。依津子さんは私にふり向き、絵里子さんのマンションを指差すのだが……私は、薄笑いを浮かべながらうなずいた。シールドの奥の彼女の眼差しは、尚々細めつほどきつしているようで、束の間の信号待ちに憩うをうべなう、幾許いくばくかの点頭が、不意に……私の懐半分へ、風を送り込んで耳打ちする……胸を叩く……。


『私、知ってるよ……わかっている……』


 冬のみぎわのシルフィードの、こんなふうに……第二の予言めく、海鳴りの如き波動は遠来……私へ届いた。アイドリングストップに代わる動悸を、車内のリズミカルな空白に言寄せたがる私だった。わかっている事、それは否でも応でも、私達ふたりにとり、大切な事……。突然、目の前にぶら下がって来た。わかっている現実の諸々もろもろ、そうしなくてはいけないという、半ば強迫観念が、頭をもたげるのだ。心半分のこの萎縮だけに、もう半分の解放へ紛らす感覚が、今の私の俄かな拮抗を以て、成立させていた。今日これから出逢う事になろう、彼女の大切なものが、私にとっても解放になるのかも知れないとして。

 ……正直さに価値を持たせる、彼女なる風が……1……2……3……青の点灯と共に……前をがしてから、さっと走り出す……絵里子さんが、私との事を話していようがいまいが、依津子さんの言動を起点とするべく、私は再び、追っていった。彼女への裏切りは、私を縮こまらせる呪縛。そこに加担する悉くの敵意を、嫉視を、どうでも寄せつけないように、駆けていった。


 依津子さんは、許してくれたんだ……。


 目的地に辿り着く前に、自分にかけた縄手を、出来るだけ緩めたかった。自分で、そうするべきである。さっぱりとした顔を、まだ見ぬの地に立つ彼女に、見せたい。


 駆ける。

 駆ける。

 追う。

 追う。

 逃されつがさず、砕かれつ拾い……バックミラーでふり返るも、狭苦しい過去の反映鏡面など、っくにはみ出して呑み込む波は、九十九つづら折りの坂を、海のおもてに横倒したが如く、私へ襲いかかった。変わって退けど、きびすを返せど、時間が止まった一瞬が見えるも、連続連鎖の波と坂の反応は、形而上メタフィジックスの世界に立ち止まりつつ、次なる波、次なる人、きたるべき波、きたるべき人に呑まれて、一枚に纏まってゆく。疾走の周辺で、世界はスローモーションに見えて来る。依津子さんだって、きっと。この海も、あの坂道も、私にとって、馴れっこの困難であった。もしかしたら、私達ふたりは、強いのかも知れない、強くなれるのかも知れない。

 先ゆく風にシェープされて、シンプルという強さを意識し始めたのだろうか。かくありたい自分が見えている。そうなりたいと願うなら、そうなればいい。たとえば……そうして欲しいと、他に投げかける前に、ましてや他の所為せいにする前に、自分がそうなればいいだけの事。自分自身の問題である。それに気づいているなら、行動すべきなのだ。さるにても、シンプルな理屈の力が見えていた。

 そしてその、わかっているサイン、行動すべしのサインが、ある。言わずと知れた、


 このままでは……。


 それを、見逃してはいけないのだ。……依津子さんが速度を落としている。前も詰まりつつある。と、彼女は左のウインカーを焚いた。ブレーキランプも灯り、滑川なめりがわの丁字交差点へ、私の視程は短かく小さくなってゆく。併せてブレーキを踏んでいる。開け放ったままのウインドーを、穿うがって体に当たる、彼女をもぜた風が、左側の鎌倉海浜公園、由比ガ浜地区の、如何にも湘南たる坦夷たんいに安堵して、大人しい空気に変わり、ばらつきがなくなりかけている。無風の匂いが、うしおよりも街と緑の息づかいを運び来る。信号もまた、青である。彼女が描くコースは、少しセンターラインへ膨らんでいる。そのバックミラーに、映り込んでいるであろう、後続の私をふり切るように、内傾を保ちながらインサイドを一気にき、刻み上がって左折していった。論なく私も追従すると、背後に回った相模湾の銀浪ぎんろうが、ルームミラーのキャンバスを頬張り過ぎ、こぼれそうだ。

 若宮大路、県道二十一号を北上する私達ふたりであった。車の流れが上下共に、やや混み合って来た。メインストリートを、早くも海岸橋まで至り、一の鳥居が見える。鎌倉警察署も見える。偲ぶようにそばを抜けて、歩道橋もくぐると、下馬げば四ツ角の賑わいの向こうに、ジェイアール横須賀線のガードは、紺とクリーム色のストライプを横たえた、ステンレス車両のひと続きが、北へ押し流れるのを黙認せぬとばかりに、轟々と響き渡る。表駅前の喧噪を想わせるのは、道ゆく人も車も、そして街並みも、四季を通じて馴れ親しんだ挨拶として、見守る風情を蓄えているようで、いつもながらの風景に、ほっとしているのは、私だけではないだろう。職場も程近い依津子さんは、まるで寄り道をするみたいに、四ツ角の赤信号に辿り着き、停まった。ここでも左へ曲がりたい、オレンジの灯を点けた。

 スクランブルの横断歩道が、待った! の手を挙げる最前列で、一塊いっかいは待っていた。歩道側の沈黒ちんこくを気づかう隣りに、銀泥ぎんでいの描線の四輪は添い、ふたつのビターな光にそぼち、どうかすると、蠱惑こわく的に映る。冬色の温もりに、人肌恋しさがまる。もちろん、エンジンは OFF ではあるが。なぜ? 彼女は黙っているのか。その、優しい眼差しだけで、充分、語ってはいるのだが。ちょっと、いつもらしくないように、想えて来る。曇り空が、銀色の小箱の中にも忍んでいた。

「ねえねえ!」

 依津子さんが突然……交差点を越えてすぐの、反対側の角に建つビルの方を指差した。

「あっ、正樹君……」

「あの女性……アァ、顔見えないなぁ……」

 私は咄嗟とっさに想い当たった。また……あの女性と一緒である。おそらく、奥様……。

「奥様かなぁ……私、お逢いした事ないの。お顔もわからない。あの方も、初めて? 見る……」

「写真とかも?」

「うん、ない」

「ふうん……」

 一階の、とあるカフェから出て来たふたり連れは、知り合いが見れば、やはり、夫婦と言う他にないだろう。色こそ違えど、共にキャップを被り、女性はうつむいたままではあるものの、大柄な男性は、すぐにその人と知れる。駅前のダイニングバーの、異彩を放つ経営者は、界隈の、憩いを求める耳目をほだしているのだ。私達も、ちょっとしたローカルスターの動静が、気にならなくはなかった。サークル仲間として、分かち合う者として、興味本位などではなく、友情は心配に形を変えたのだ。空も、依津子さんも、同じ目をして見つめている。そしてふたりは、向こうの歩道を北へ向け、大路をゆっくり遡って、ガード下へ消えつつあった。駅前へとゆかんとしているのだろう。依津子さんには、初めて見かけたその姿を、私は、抽斗ひきだしの一番奥へしまい込み、鍵をかけるべきであった。何れ、話してくれる時が来よう。私にしても、私の真実を語る日が、きっと、来るのだ。誰にでも、その日は必ず、来る、やって来る。

 信号が変わり、中心街を意識した、柔らかな左折を供して立ち上がった、バイクの後を、私もなぞった。由比ヶ浜大通り、県道三百十一号、緩やかな、左から右のカーブを描いて、長谷はせ観音かんのん前へ至る、大路よりも狭い道路に入った。私も買い物でよく使う、走り馴れた道である。サークルのメンバーのみならず、生活道路として、それにしても何げない。近過ぎる街並みが鬱陶しくもなく、むしろ嬉しくなって来る。楽しくなって来る。今日こんにちの鎌倉の街の喜びが、見えて来る。身近な生活音、匂いは、何もそればかりではないように、道を左へ弓なりにして、行客の懐をうかがい出す。六地蔵ろくじぞうの合流に乗る彼女の次に、私とて遅れない。

 この街の歴史、ともすれば、永き無念を乗り越え、熟知するもの共の寂しさをかたどった群像が、正に風となって、この海辺の街の頭上に流れ、全てを造ったのだろう。跳躍したい一途な頑張りは、成るか成らぬか? 針はどちらにふれるか? 悔しさがその真ん中で、両者を見つめている。楽しい時代は、何れ幕を下ろす。されば先々を見るにつけ、出娑婆でしゃばれるものではないだろうと。加算ばかりが、計算ではない。詰め込むばかりが、手段ではない。器のサイズを、過信出来ようか? 引き算を加える事を、別としているような風を感じる、私であった。依津子さんも、既に右カーブに入っている。絵里子さんの家は、次の信号を左だ。まだ、青のままである。……引き算を悔しさに加算した時、プラスに変わるではないか……。さっき見かけた正樹君達も、積極的に行動しているのだ。トータルの視点に立って。一塊いっかいは、想いも寄らぬ道ゆきになっていた。

 私にとり、行動の概念は、受信するもの、されるもの、眺めるもの……ひとり部屋に籠もるを、善しとして偏り、それをわかっているサイン……このままでは……さえ、軽んじていたのだ。サインを……挫折と勘違いした。そうではなかった。怠惰に過ぎなかったのだ。募る寂しさ、報われぬ頑張り、そんな不成功体験は、為せども成らぬ感覚を、私の心底に象嵌して、悔しさをバネにした頑張りの針を、マイナス方向へ傾けてしまったのだった。他人ひとが自分にもたらす言動に対する、過剰な不安という反応は、私自身が為すべき行動の方向舵を、曇らせた。遠ざけた体験願望が選択するものは、最早、孤独しかなかった。まず客観を閉ざそうとするルーティーンが、エゴイストの生活基盤となっていた。

 為せは成る成功体験は、そこに行動を発信するもの、与えるもの……。そして、一も二もなく動くもの。よって、針はポジティヴへとふれよう。言われなければいい……されなければいい……受け身の自分を、眺めなければいい……くすぶり滞った部屋の空気は、窓をけ、あの海を望めば……光は涙のように煮こぼれ……濡れて煌めく風に乗り……みひらかれた未来への眼差しを、知るだろう。ゆき過ぎた惰性から救うものは、要らない何かを気づかせてくれるものは、まだまだ遅くはない、充分間に合う、尽くしてなげうつ風のような、愛である。挫折気取りの怠惰に、根拠を持たせる不条理を、引き算は掃くだろう。善き事を取り容れるより、悪しき習慣を排除する事。正直な健康体の如く「引く」という頑張りが、見えるだろう。言葉と行動は、軽いものではないと、わかる。自分がされた事ではなく、今まで自分がして来た事、これからしようとしている事が。マイナスの針の、消し難いチクリチクリの発信、その罪深さも。……行動の指針が、現実たる今の風に揺れている。足下の「このまま」を、先駆ける依津子さんが、示すように……。

 ベテランらしく、築き紡いで来た心で、彼女を、説得出来そうな気がしている。たとえ……この恋が叶わなかったとしても、しんの、人と人との繋がりが、家族とんなじ顔をして、私達を覗いている。一抹の、たえなる寂しさが、追い駆ける私には、あった。それは、そんな、はかなさだった。寂しくて、追っている。寂しくて、逃げている。そういうふたりなのかも知れない。依津子さんは、逃げてゆくふりをして、ただひたすら求めていた。私には、風の心が、見える……。

 彼女にしても、誰にしても、幻の合格点なる模擬体験を、本物にしたいのだ。出汁だしの入っていない、味噌ばかりを盛大に使った汁物のようなプライドを、旨味の深いプライドとするべく、アイデンティティーのプロセスが、見える……ストーリーの完結を求めて……風は、問題を提起する……。

 引き算こそが、大切なものを守る。暮らしを守ると、言わんばかりに……そして、自分ではなく、他を愛する事が、他人ひとの主体性を尊重し、受容する事こそが、本物なる、真実なる、愛の返礼、連環、絆……たり得るのだ。どんなネガティヴな感情だろうと、現実だろうと、無条件で、一瞬のうちに融かしてしまう、奪ってしまう力で、人を、地球を、再生する、救う。「百聞は一見にかず」という説得力である。ほんの少し触れただけで、誰にでもわかる、理屈など要らぬ、引き算させる、目には見えない、どこまでも優しく温かい、威を持つ風圧である。他に無責任ではいられない。他に無神経では許されない。そうではあっても、人の温かさに触れた時、言葉を奪われてしまったなら、それは、そう感じた人を、無責任に、無神経にさせるほどの、愛との出逢い、第一印象ファーストインプレッションの、許されよう罪である。

 ……私は、マスターと正樹君の店の壁にかかる、由比ヶ浜から稲村ヶ崎を望む、大判の写真が浮かんで来た。油彩の、個性的な筆づかいを操る、冬の翼たる画家が、現実という一景を、正に、熱情を以て塗り替えようとしていた。そして……故郷の、父、母、家族の笑顔……みんなで可愛がった、ペット達との楽しい日々……を想い出せば、他人ひとを、大切に出来ない、愛せないという事は、ないのだと……自分自身の真実に、正直に、素直になれないという事は、ないのだと、想った。今日のこの短かいふたり旅で、もし、依津子さんとはぐれて、道に迷ってしまったら、彼女の心を見失ってしまったら、私は、それぞれの心を見つめ直すべく、そうしようと、想う。

 自らの不足を知る目。更に求める目。内なるものを、外への優越に向けた時……補われるその目は、往々、姿を変えもする。余計な忠告、過剰な表現、それも優しさのうちと勘違いして、ややもすると隠したい、自らの真実さえ、窒息させてしまう……そうではない何かが、始まってしまう……。その時、言えない寂しさは、自身の心像界だけで生き、外へ放たれた端から、ゆき場に迷い、見えていない。柔風やわかぜの案内人は、拒んでここまで来た旅人をも見下さず、拡大解釈の微酔ほろよびとを慰藉し、外向きの顔に理解を示して、責めたりはしない……言われたくないなら、言わない事の平和をしるし、人をひとりには、しない。早まりそうな人の手を掴み、大切なものを裏切らせない、その道へ引き戻して急がせない、されど去りゆく魂の宿命さだめのうちに、守る心を遺して、流れていった。最早、自分だけを守る寂想涔々しんしんとて、大切なものであると……それも、愛であると……冬日影を集め、夏を手繰たぐるような心を、耳元で、ささやく。



 冬の日まりを、見つけよう……

 それだけで、いいんだ……



 私達は、長谷観音前の交差点に至りつつあった。赤信号を真っすぐ抜ける、細い参道の賑わいが、はやして知らせる。その奥に遠く……山門にぶら下がる、赤い大提灯おおちょうちんが、花の寺をひっそりと語って招いている。応じざるはない一塊いっかいは、眺め拝む無作法を詫びるように、ここからは見えない右側方の、悠揚迫らぬ大仏様に見下ろされるように、鈍鈍のろのろと、二輪が先、四輪は後ろについて、停車した。蝸牛かぎゅうの歩みの如き、長谷の日常風景は、その上師走の香りを忍ばせて、初詣で準備の散見、威張った所がない。背丈の低い微動が街を巡り、程近い海辺へとろけるものこそあれ、長谷駅の質朴に喚びめられ、今のこの時を知らされざるを得ない。地域の現実と、行客の非日常が、肩も触れ合うばかりの隣りで交錯して、共に生きていた。それぞれの立場の違いを、無言のコンセンサスが、日まりのありを教え合うべく、形のない挨拶で喚んでいる。

 彼女の矢印は左折を示して、オレンジに灯っていた。いつものように、数分で、再び流れ出した。左へ進路を取ると、踏切の左の長谷駅が、だんだん見えて来る。人波も肉厚へ隙間を詰め、ドライバーの注意を引き、何でもない通行にも、気づかいはつつかれる。飲食店の出入りは活発、見馴れた看板の個性も、正月直前の空気が、この一年のラストを洗いたてるように、ありがとうのひと言を連ねて微笑んでいる。その余情のまま、来る年の大切さを、先読みして佇んでいた。私にとり、初めての、鎌倉での年越しになる。先導する依津子さんのヘルメットが、ほんの少し何度か、現れた駅舎の方へ、向く。

 線路を跨ぐ振動が、運転者達の心底を叩いていようか。駅前の人だかりを横目に、突き当たりの丁字路交差点の、信号の動作へ、車上の旅人の瞳の中で、目を覚ました線路は、移ろっていった。先程の、下馬げば左折直後の踏切以来、ふたりでの通過は、二度目ではあるが。

 今の頑張りの陰に隠れる、過去の過ち。

 これからも守り抜くと想っていた、現実なる足下に落とす、韜晦とうかいは……

 この信号を右へ折れ、

 ただ道なりに、

 極楽寺坂切通きりどおしを、

 駆け登ろうものなら……。

 まだ、

 青であった。

 青であって、欲しかった。

 と、

 依津子さんが、

 右腕を……

 道路と水平にのばし、

 方向指示器も、それにならった。

 冬の日まりが、灯りかけている。

 暖かい光が、集まり出している。

 たとえ、

 遠い想い出であっても、

 現在進行形の相思相愛は、黙ってはいない。

 どうか、

 このまま……

 消えないで欲しい。

 冬日影をゆく、

 翼は、



 いずこへ?……。



 右旋回のマシーンが二台、間髪入れず、描線を畳みかける。曲流の頂点の筆圧がえぐる色は、黒く濃く煌めき、強かな遠心の壁にあらがう。曲がり切って直線に入った、ふたりの内圧の程は、一本に決めた行路であるだけに、その一線上に弾き出されてのびざかり、逃げ惑い、今日の頂上に取って代わった一塊いっかいは、想いを込めればさらでだに、上がりゆく斜度に連れ、またしても右回りの弧線をふるう。登坂の健脚は韋駄天いだてんの如く、自らを前へ前へと押し進めるだけであった。極楽寺坂切通きりどおしの直線へ、常磐木ときわぎ溟海めいかいは無遠慮に喋り出して、依津子さんも、さぞ五月蠅うるさかろう。ますます、


 ドドドドドド……


 と呻吟うなりを絞り出し、まくしたて、冬の老竹色おいたけいろのその口に詰め込み、塞ぐ。閉ざされた空間識の静謐せいひつへ立ち戻り、私達一塊いっかいの風流れへの許しを、森は与えて俯瞰ふかんする。自然と自然が手を携え、森もまた、森であった。風もまた、風となった。心底を、叩いてほだして登らせるものが、ストレートに届けられ、邪魔だてするものは、既に見当たらない。森色に染まるをうべなえば、ふたり連れは、翡翠ひすいの海を、真っすぐに泳いでゆけた。

 ……坂の頂きに、赤く塗られた、桜橋の欄干が見える。名にこだわらぬ、なずさわるひと摘まみは、地元へ帰って来た。ふり返る暇もなく、橋を渡るまでもなく、道なりに左へ倒れてカーブするや否や、極楽寺駅舎の古びた小作りが、右へ追いやられた橋の傷心を、自らに引き当てたふうの、いつもが……私の中で、淡い赤色せきしょくの灯りを点す。置き去りにされた、駅前丸ポストの赤ら顔とも結び、いつもならぬ街の空気感を、男のパーソナルスペースへ漂わせる。さっきよりも感じる、しあわせだった。されどその手前で、小さな明かりを見つけたのだ。少し寂しそうで、少し微温ぬるくて、控えめだけれど、滲みながらも生きようとする、健気な灯火ともしびだった。消しはいけなかった。守らなければいけなかった。出来るだけ、自由にしてあげたかった……。

 家へ帰るかの依津子さんは、自身が見つけた大切なものへの想いを、もう充分過ぎるぐらい、身を以てあらわしている。そして、私の韜晦とうかいに想い当たるものが、あの屈託のない笑顔の陰で……私……ではなく、むしろ自分に向けてこそ、気息を繋ぎ、灯を守っているように、想えるのだ……。止まってしまえば消えゆく灯は、彼女という柔風やわかぜに、消えない。されば流れるしかない、必然の因果律なる、宇宙の原理原則に戸惑い、ふと、寂しくもあろう。それでも暖かな、日まりを見つけたのだろう……。愁眉をひらけぬ故の、小さな頑張りが、小さなしあわせを形作った、この街……森……それから、海……。私に灯りかけていた明かりも、今、優しく、確かに、灯っている。何という、ユーティリティーな一日だろう……いつに変わらず、そうは言っても、いつもとは違う気配が……見えないのだけれど……一塊いっかいは凪いでいるようで、引っ張られてゆく。名もなき風は、有名無実を主張しない。寂しげな自然体をずかしがらず、肩書きや形式を、平和において際だたせず、当たり前のしあわせな風に、なってゆく。……一本道の線路際を走っている。踏切遮断の警報音が鳴り響き、バイクのエンジンサウンドは、懐かしのパーカッショニストとの、セッションとなった。まだ、江ノ電の姿は、ない。

 ひとつ目の踏切が見える。……俄かに、レールのきしみが、前方から近づいて来る。街の屋根裏をくぐり抜け、鎌倉行きの四両編成が、自分の肩を叩くように、トン、トコ、カタ、コト……顔を出した。止まりつつある一塊いっかいの、右肩にも触れそうなすれ違いに、二台のブレーキ操作とて、優しく応えて停止した。真近の電車拝見は、それにしても、身近過ぎる街のルーティーンを、慌てさせない約束を守っている。空気さえ、動きはかすか、すぐに落ち着き、走行音と共に北へ去りゆくを、依津子さんも私も、見送る事は、ほとんどないと言って、いい。遮断機が上がり、地を蹴る彼女と、踏み込む私……ふたりの足首の動作は、柔らかいものであった。踏切を越えると、レールはやはり、私の目から懐に届き、底にとどまり、語りかけるものが、ある。開けっぱなしのウインドーから、電車のものとおぼしき、機械あぶらの匂いが揺れ、少し焼けた古さを、率直に言い遺している。行動体の想いを、私に被せるものの、ライダーの依津子さんたるや、あまりに単刀直入なその言動に、心中如何いかばかりか。彼女自身の心底に横たわる、レールの存在を、どう表現するだろう……日本人なら誰しも、鉄道に纏わる特別な感情が、あると想うのだ。私達の今日の行動は、馴れっこのようで、新しいと想うのだ、確実に、違うのだ。

 少し悪戯いたずらするように、ねた態度の左カーブは、ほとんど張り上がらない。依津子さんの背中が、私の目のフレームから飛び出さない。が、ゆくほどに割り込んで来る、稲村のわたの原、今ぞ乱に及び、銀河傾瀉ぎんがけいとうの如く、一塊いっかいの風さえ襲う。この抜け道とて、追っ手は慈悲容赦ない。狭隘きょうあいな視野闘争、先陣を切る渦中に、次なる踏切は迫り、見えないぐらいであった。少なくとも、海辺暮らしをよく知る人は、この時、記憶だけではなく、第六感シックスセンスをも信じたがるだろう。このまま通過出来る事は、私の体が覚えている。彼女の心が覚えている。私達は、知っている。海の輝きと、光る風の歌を……。

 ゆくほどに、私達へ届くべく、感じるほどに、私達を叩くべく、されば心はうす玻璃はりとなって震え、尚も応えてこだましよう。満たさざるもの、この世界に、何があろう。満たされざる人、この世界に、誰がいよう……。岬の海の旋律は序章、幼き風の一塊いっかいなる、マエストロを待ちあぐね、そのタクトをけしかけ、熱心に駆けてみせる。言って聞かせて動かそうと、する。調べの主題、海辺の街の毀誉きよ褒貶ほうへんを、顧みて欲しそうに。

 何の変哲もない、線路という段差を越えた。光るレールが真っすぐのびるような心が、小さな障害物なる刺激すら、わからなくさせるほど、一塊いっかいは、やふわりと浮き立ち、何ものによらず超えてゆく、真っすぐな風だったのだ。私は、自分から変わりたい。自分が染まり、他人ひとを染める。他人ひとを染める前に、他人ひとへ投げる前に、自分へ投げ、自分を変えてからだ。宿題を与える順番は、いつでも、自分自身が一番先であるべきだ。いい事をするより、悪い事をしない、止める。自分のエゴを引いて考える、引き算の頑張りである。何かを得る為には、何かを棄てなければならない。

 稲村ヶ崎駅入口、赤信号。間道のはいり際に至りつつある、私達ふたりであった。


 ……あと、もう少しで……

 届くのに……

 そうする事が、

 そういう行動が、

 出来るのに……。


 十一人塚さえ、よく見えない。縦一列も、静かなアイドリングストップの、信号待ちに入る二台であった。相模湾を描く画才が、やはりの右折を準備する、オレンジのランプの向こうで、再び、我々のうちに灯をかざす風となるを、はっきりと、感じている。依津子さんも、ふり向いてはくれなかった。


 ……創造の学びと、自責の学びは、八十年という時間の喪失のうちに、何れ、出逢う。そこに、愛が見えるなら……そうする事が出来た想いは、そうする事が出来なかった想いをおもんばかり、ままならなかった想いは、遂げるを夢見て、この、銀河一景の如き愛の豊饒を以て、天空海闊てんくうかいかつたる世界へと変えるだろう。時間を壊し、畳みかけられた過去は……壊れる。

 今、天上に隠れていよう、宵の明星みょうじょう白金プラチナの光は、愛に触れようものなら、涙のように煮こぼれ、慚愧ざんきまがいの、宇宙空間の暗黒界を濡らし、湿潤な風の立つままに、地球へと舞い落ちる、その姿は……混沌色の、グレー……。 壊れそうな悔しさと、燃えそうな愛のまん中で、小さな翼は大きく揺れて、何ものとて拒まぬ、時局の支持を惹きつけ、一面一色の景色に滲んで尚、羽搏はばたきはのびゆく。私をして言わしめれば、灰色の真実は、限りなく事実に接近し、同化せんとするばかり、定かではない水平線を描き、そのままの空と海は、あまりにもでっい、低姿勢な冬色の翼を展げている。刺激のない、波風をいとう、安住を求める風情の陰で、こいねがうものは、ただひとつ……力みいきる自分に、迷い込みたいと……。

 私達ふたりの挑戦は、時代遅れかも知れない。でも、青春の灯火ともしびを、消したくは、ない。



 愛とは……届きそうで届かない、こんなにも曖昧な、あともう少しの、永遠のグレー……結論のない態度である。そうすれば、そうなるだろう……という、想像力は羽搏はばたき、他人ひとの寂しさを、さりげない風のように探し、拾わずにはいられない。そして見つけた時、そうしたい……想いは、一歩退しりぞき、和解する。そこへ至る道筋は……。でも、だから、届かない。どうしても、届かない。であるから、こんなにも……切ない。見つけたのに、もっと燃やしてしまう、寂しさは……やはり、証しなのだろう……。



「真っすぐは、見えているんだけどなぁ……」



 道筋……道筋……。

 それを覚える人の心が、移ろわない限り、どこまでも続く、終わりのない、現在進行形の相思相愛である。たとえ、その想いを寄せる偶像に、逢えなくなってしまっても、その対象が、消えてしまっても、愛という行動が絶えない以上、守られる。そして、もし、後悔に苦悩する日々が、訪れた時、行動は、色を成す事を知るだろう。本当の結論としての、白、黒、あるいは、グレーを……。

 中間色は、初めからわかっているのに、行動しない態度の、曖昧もしくは、怠惰……。挫折ではなく、敗北なる結論でもない。諦めるには、早過ぎる。想いを繋ぐ、半信半疑の天秤に、人は壁を作って置きながら、戸惑い、怒りではない怒り、涙ではない涙の方角を望み、生きようとするのだ。喜びを求める生命いのちが、まだ半分の余力を遺して、行動してゆく。曖昧という日まり。一知半解いっちはんかい灯火ともしび……。躊躇逡巡ちゅうちょしゅんじゅんの瀬戸際にこそ、愛は燃え、生命いのちの躍動を知らされざるはない。行動の成否にかかわらず、辿り着く所、始まりも終わりもない、どこまでもエンドレスな、グレーの世界へ導かれよう。

 なぜか……永い信号だった。停止線の先頭の彼女越しに……曖昧も、不実も、同意さえ……空々洋々くうくうようよう。そして玄冬に尚、落落らくらくとして、光被するばかりの世界は、朧朧ろうろうおもてを、全面に展げている。風任せも弥弥いやいや、雲流れの英英えいえいたるを喚び、みぎわの歌声を浅浅あそそに聞く一時いっときであった。風が追うは恋恋れんれん足ればまた……逃げるも浪浪ろうろうなりとて、許されようか……。

 

 愛するものが、違う。

 見えるものが、違う。

 拾うものが、違う。

 ゆくべき場所が、違う。

 人を愛する。

 笑顔が見える。

 素敵な心を拾う。

 しあわせというじるしへ、向かう。

 身の丈と頑張りの天秤は……

 釣り合う。

 この、

 真っすぐのびる、

 海岸通りの真実……

 その、

 延長線上に、

 大切なもの……

 事実は、


 ある。


 ……やっと青に変わり……蹴り出す黒い弾丸の一閃……


 ド、ド、ドドドドドドォォ……


 掘り返す地響きを巻き込むように、依津子さんは発つ。続く鈍色にびいろはその影の如く、二体のひと塊まりは、私とて体ごと内傾して右回るや否や……はたと目に飛び込んで来た、岬の舳先へさきを引きずり描けば、かすれゆく。先行も一瞬、稲村ヶ崎を目に入れたようで、正面に向き直った。後続と等しく、今までの想い……とりわけ今日の落とし物を、噛みしめていようか。立ち上がりは緩慢でさえあり、彼女が拵える左拳ひだりこぶし側の先、しちヶ浜に遊ぶ、冬に色鮮やかな、円転自在の海鳥? の群れが、さえずりかける。寒さ冷たさ物ともしない、サーファーの元気は、馴染みのサプリメントだ。ライダーとの共演が、よく似合って照り映える、シーサイドのステージは、いつも活気づく。それでも、ルームミラーの岬は、小さくなりつつ寂しげで、今までとは違う、新しいグレーにいだかれ、粛然たるを守っていた。滅びゆく砂に、想いを馳せるように。そうする事が出来なかった昔を、今にして、愛せるように。全ては、このグレーの世界に、生かされているのであった。

 西へ東へすれ違う、国道の流れは滑らかだった。海鳥達の影も濃くなってゆき、絶好の波乗りポイントも近い。信号に足止めされず、逃げられるなら逃げ、追えるなら追っていたふたりだった。こうして追えるなら、私は、掴まえるだけだった。……右側に、江ノ電の単線軌道が、合流するように現れ、さしあたり、並走区間に入った。からのレールは、この道からやや離れ、真っすぐ西へのび、鉄錆色てつさびいろに時代がかったバラスト軌道と、海岸通りのコントラストが、色褪せた焚き火の想い出じみて、私の目を、引く。

 一直線の道だった。光も、風も、狙い澄ました音無おとなしの滝の如く、真っすぐに託し、わたの原へのローヤリティーにふたごころなきを、無言のうちに隠している。私達が、聞こえないふりをするのは、バイクのマフラーが、ときを作る声の濡れぎぬに、怯えているのか?……逆風ではない北風を衝くも、無限に当たれば全ては強か。風に捧げるだけの道ゆきであった。ただ、後先が見える真っすぐな目が、そして、この道そのものが、一塊いっかいの証しとなるのだ。曲がりたくなかった。曲がるべくもなかった。先行する彼女の背中にも、その意思が乗っかっている。必死の頑張りが足りなかった、蒼き時代は、ベテランとなった時、身を以て襲い返す。必死の韜晦とうかいに、やつれ枯らそうとする。そこに……


 光が、

 日まりを揺らそうと、

 降ってくれるなら、

 落ちてくれるなら、

 君が、

 微笑んでくれるなら、

 私は、

 君に、

 いて欲しい。


 逢いたい……。


 前衛と、退廃……両々相つ、一枚の海が、微温ぬるく輝いている。薄情そうな愛の光は揺蕩たゆたい、ともすれば膠着、あるいは迷走をささやき、海の表の顔は、そばだち憤るも、それは……小々波さざなみ……。打ち寄せ砕ける潮声の、白き泡沫うたかたしゅんに届くものがし、絶頂の夢語りとて、しゅんを掴まえど、退行の壮途に就く。幾千幾万の、波の頂きの営巣は虚しく、置き忘れの、際々きわぎわの、濡れそぼる砂の悉くは化身して、鏡の涙を潤ませ煌めき、波の残躯ざんくとなりし我が身と併せ、この瀬戸際を見送っては嘆く。その一枚の一栄一落いちえいいちらくは、果てしない微光をちりばめては消えゆくも、永き生命いのち光波こうはは生き永らえ、煌めきは優しさを知る。一枚一枚、受け継がれて来た、悠久の寂しい光の点描画が、私の左肩に触れる。そしてまた……ひとつの波が、砂に沈んで、いて光った。次々と、誰はばからず泣きじゃくりながら、涙を砂に蓄えてゆく。


 この海は……どれだけ……人知れず……涙を流して来たのだろう……。


 私は、ここ鎌倉へ来て、初めて、稲村の浜辺に立った日を、また、想い出す。その帰り道、大人になった依津子さんを、初めて見た日が、忘れられない。ひとり回想する時、この海の景色は……私……だけではなく、私達、だけの……空と、海……だった。こうして、今も……。蓄えられた涙のような光が、砂に消えた無限の海の心が、流した涙の数が……海を、美しくする。応える空も、その分、美しい。海の輝きと、光る風の本気が、一途な想いが、そこに、ある。今、涙の色は、偽らざる故の、半分半分の、グレー……。うしおを跨ぐかの、オープンエアーの彼女、そして、私。海の香紫吹しぶく湿感を纏い、冬日影にも濡れよう、この、今を、切り取ってしまえば……過去に畳みかけ、壊してしまえば……前衛への好転の胎動が、海深く眠っている真実を、知る事が出来るだろう。地球の輪廻、代謝エネルギーは、退行には、誕生を用意する。水面下に生棲する、銀色のストリームラインも鮮やかな、魚鱗うろくずの生命活動の如きさえ、新しさをもたらしそうで、海のおもてに、突と、小々波さざなみの一閃、銀鱗たるは躍る。サーファーのひと群れ、波を蹴散らす。さはいえ、遥か届かぬ先、数羽のトンビの滑空が、わらうように中空を大円でなぞる。

 この、遠く穏やかなる海原の、永遠の上陸作戦は、海辺に暮らし、あるいは集う誰しもが、そして、営みを知る全ての人が、その場にいようと、想い出であろうと、いつ如何なる時も、ひと単色の紡織ぼうしょく壮麗である。今日の繻子サテンの一枚は、曇天の鈍色にびいろの糸。上陸を決めた、経糸たていとの矢印は小々波さざなむも、さして浮かれず、隙を見せようものなら入れられる、緯糸よこいとの横槍もなく、隣りの矢印に先を譲り、あいだを保つ事だけの、執心の光は滑らかで柔らかい。矢印のまま、経糸たていとのまま、風に押されるまま、それを守り、自ずと、等間隔のモザイク的な平和を生み出している。しあわせの作り方を、海は、生きざまで見せている。一枚の、グレーの平夷へいいという、覚悟が息づいている。

 海の傀儡神かいらいしんのキャパシティーは、気まぐれを、それと感じさせない。十全十美じゅうぜんじゅうび千手観音せんじゅかんのん菩薩かの、無尽の幾手をふるい、深層からの鼓動のままに、表の一枚を、一挙一瞬、精緻無情、あたかたか小手こてに縄を打つが如き、波の織り手にかけてしまう。その糸手繰たぐるは、無限の網の目。経緯たてよこ交じわる、二本のほうき目、ふたつの綜絖そうこう。海原か? マリオネットか? 織り手か? 人形使いか? かの才腕は、永久とこしえ幻泡影げんほうよう、他言を待たない。底の息吹きにたて引くは、よこくぐり重ね、またたては寄せども、よこは抜き離れ、ふと淀む、憩いに群がる小々波さざなみは、たえなる優しさをして荒だてない。互い違いの矢印は、端然と流れゆく。退く水こそあれ、埋めぬ水なし。誘う水こそあれ、けぬ水なし。過ぎ去った隙間にし挟む、海のしおりみずごころは、報い報われる、平々坦々の煌めきに安堵し、もしかしたら、酔眼朦朧すいがんもうろうたるに気づくのは、眺める人と、想い出だろうか。自画自賛を知らぬ気高さが、緩く引き締まるような、海の、相互意識たる理念を想わせる。……静かな海面は、やや、膨れ吹き出しそうになっていた。背のびして反り返る、その腰に、隣人が、てがわぬはずが、なかった。

 依津子さんという、そよ風に、海の草原は揺蕩たゆたい、渚のカーテンはちらつき、もう少し窓を開けると、そのうねりは、はためきは、深層から突き上げる鼓動と、表面を見守る風が出逢い、牴牾もどかしくも通じ合い、ばらかれた海の息づかいを、風は押し戻すようになだめる。底からの拡散は、表面へ放射状にのびるも、気まぐれのタイムラグが、うねりの元を作る。側面からの風の布地は見逃さず、うねるさがを汲めば、経糸たていとの一線は大切なものとなろう。その先には、波の絶頂がある。高ぶるばかりではない自然の鼓動は、果たして、風……ともネットワークを結び、埋め込むモザイクは低姿勢、草原はふり乱さず、カーテンとて大人しい。そのままに、緩々ゆるゆると、アトランダムな矢印の前進が、幾何学模様的な相似性を踏まえたかの、一枚のプロットに落ち着き、流れゆく先を目指すのだ。経糸たていとのひとすじは、真っすぐなこの道。曲がっていては、先は見えない。目の前しか、見えない。自分の本気を知る事が出来そうな、いやいや、出来るものに、賭けるのだ。上手い字を書く事は大事だが、それより、その文字で、旨い事を書きたい。気を使うより、考えたい。本気になるという事は、そう、想う。大事なものを、お体裁だけの道具にするのは、どうかと想う。書く文字は、下手くそでもいい。本気を書けば、いい。このままでは……いけない。楽しくて美しい想い出の予約を、キャンセルしたくない。これからは……想い出を、全部予約しよう。

 運転中ではあるが、私の目は、正直に、暖かなグレーを映して、滴りそうである。逢いたさは、私だけのものではなく、依津子さんと、重ならざるはない。そして、私の大切なもの……彼女の次に……いや、同じぐらい……市川に遺した、家族の顔が浮かんでいる……。

 小さい頃……いつも父の膝の上にいた……。親は、大人になった我が子でも、ギュッと、抱き締めたいものだろう。この歳になると、よく、わかる……。家族の笑顔をかてとした時、バロメーターの針はふれ出してからのち、やがて、何よりの良薬となるのだ。守れない、守り切れない男のプライドなど、要らない。守るという概念は、自分ではなく、家族、そして、家。しあわせになる為の、愛の意味、イコール、金の価値……。それは、合理。ゆく先にある、しあわせの途中に見える。世の矛盾、人の葛藤、頑張りの目的である。このままでは……で、計れる……。色も、ここで、つく。偶然と必然に対する態度が、隔たる。両方、隠すか? 必然だけを、隠すか?……。創造という力が要る。欲するもの、創りたいものの、相関絵図が浮かぶ力。であるから、言葉に出来るのだ。また、その熟練が要るものから、合理は応える現実……本気を賭ける価値……それがある、証左……。

 一段上の、先を望めるものへ賭けるべく、シフトする。過渡を選択し、そのままの、オートマチックな頑張りから、逸脱する。一度身につけたら脱げないよろいを着る前の、人生の胎動。それが、青春だ。そこに、青春を燃やすのだ。……非建設、破壊、喪失……後先……後先……短気は、損気……青春の影……ベテランになれば……わかる……。私は、幸運にも、ぎりぎり年齢的に、その影を破壊出来るかも知れないのだ。この道をゆけば……It's not too late……報い報われる、しあわせの時計の針は、回り出す。

 線路は国道かられ、七里ヶ浜駅前の家並みに紛れ込み、私達と別れていった。依然直線の大通りの通行は、行合橋ゆきあいばしの黄から赤の信号に、対向車も、丸ごとゆっくりと吸い込まれてゆく。

 逃げる柔風やわかぜは止まりそう。そして止まった信号待ちで、弱風よわかぜは追いつき、掴まえた。逃げゆく柔らかさは、弱さを待って、掴まえた。


『何も言わずに……一緒に来て……』


 いて来た種は、何れ、かれしかれ、悉くを自分で拾う。もたらされる優しさは、頑張りの証しなのだ。中間色のグレーの豊饒が、追いつ追われつ、次から次へと、一塊いっかいを呑みつつあった。

 赤表示が、薄っすら躍る旭日光暈きょくじつこううんのまん中で震え、わだかまっている。半びらきの目眩まばゆさが、一部の曖昧どもを懐柔し始め、消えそうなゆくえを仄めかしてはいる。が、呉越同舟ごえつどうしゅうならではの意見の光は、棄権を守れば赤は映えた。何れ疎らな光色こうしょくにせよ、それでも緩やかに、青を塗り重ねる潤筆をふるいかけている。湘南地方の天候は、回復の途にあるようで、まだ、寝惚ねぼけた色からは覚めない。

 そうして青を告げられ、車両は吐き出されてゆく。西行きは、そのまま直進、橋を渡り、されど依津子さんは、滑り出しから、あまり速度を上げない。先行車との間隔が広がり、私はミラーを覗くと、ついて来る車もない。おそらく、先程の、行合橋ゆきあいばし丁字交差点で、橋を渡らず、右へ入ったものと想われる。信号待ちの後方確認の甘さを、今頃知るはずかしく、彼女の様子と和解した。行合橋ゆきあいばしに纏わる、伝承……。遠き昔、処刑寸前の日蓮聖人にちれんしょうにんの身に起きた、ずいおそれる、行き合いの使者達……。私は、ふわり、想い浮かべていた。

 真っすぐな国道は、ひとすじの淡い光の河のように、溜め込んだ輝きの色が、やや、濃くなっている。グレーは逃げ出しつつあり、おもむろな天候回復を見せている。この車はオートマチック車だが、シフトアップ、その時を告げているようだ。一直線の心に見えるものは、正に、先。次なる段階へのトランジットを知らせている。今という、時間の限界、先端を突き破り、切り取り、切り離し、抜き出るドリルのように、今を過去のものとして脱ぎ棄てるように、乗り超えるように、先を見据えた頑張りに、移行する時の到来だ。アナザーストーリーの歯車は、過渡を選択し、その尽力から、手加減なる概念を奪い、通行証明証なる、真っすぐな自信を与える。これから……が、展ける。畳みかけて……今を壊そう! 今を壊そう! 頑張り時を、のがすな! オートマチックな今の頑張りを、壊すんだ! このままでも、いいのか? それでも、いいのか? 一段、上へ……もっと、上へ……。これからと、このままの、分水嶺は、厳しい。険し険しの、坂道である。

 人を想う時、他人ひとと接する時、自然に重なる、自分の真実……ふれ始める、心の針……それが、氷のような、恨みや、嫉妬や、無意味な拒絶ではなく……暖かく、柔らかな、微風のような笑顔を添えて、優しさや、謙虚さや、慈しみや、あわれみや、許せる愛の方へ、針を、ふれさせたい。そういう心なら、そういう心となら、共有共鳴し、心の友の絆も、きっと、繋げる。時計の針を、逆戻りさせてはいけない。新しい時間を、刻もう。創造しよう。依津子さんだって……疑いもなく、そうなんだ! 私達の、新しさなんだ!……江ノ島が、緑色の光を、そっと跳ね返し、息をするように、かたの浜をいだいている。藤沢ふじさわとの境に程近い、如何にもの、湘南をゆく。

 ……線路と砂浜に挟まれた区間に、再び至っていた。レールは更にぐんと近く、軌道敷と海側の国道は、境を接し、西行き車線からも、砕石バラストの断片が見えるほどだ。永年の疲れが積もった、その顔色を、レールは今の所、黙って抑え込まれていた……のだが、ルームミラーは、藤沢行きとおぼしき電車を、吸収している。オープンの右ウインドーも、きしみに乗っかるモーター音を嗅ぎつけ、おかきわぎりぎりを縫う、密着した二本のひと束が、背後ぴったりの、街並みに突き落とされそうな、砂浜との狭間で、いつもながらに競い合いつつあった。グリーンの旧型四両編成が、線路を塞ぎゆけば、海と街は縫い合わされて、まるでファスナーの緑色のスライダーのような、シンプルでわかり易い、この海辺の生活ならではの顔をして、控えめに直走ひたはしる。


 ウウウゥゥー……

 ガターン、

 ガターン、

 ガターン

 ガターン、

 ウウウゥゥー……。


 この長い直線区間は、スピードを上げるので、ガターン、の次は、ゴトーン、ではない、鎌倉から江ノ島の、海のスタンダードナンバーが、浜辺の袖をちょっと引っ張るように、鳴り出した。私達の背中へ、懐かしい波がだんだん迫り、押さんばかりの絶頂を、感じずにはいられない、私。そして、彼女も、そうだろう?……。

 てがわれた波に、出逢ったのだ。彼女は、この、海が剥がした一枚を、待っていたのだろう。偶然かも知れない……波は……ひたと追いつき……掴まえ、並走する……。乗客達の笑顔のひしめきが、わかる。波は、暖かかった。私がこぼした白い歯を、波は知っている顔をして、先馳ける黒い弾丸の光さえ、風のようにあまりに自然な、その頑張りに、今という時を、共有していた。ゆけば、もっとゆけば、心の針は、ふれた。しあわせの方へ、ふれた。もっと、ふれる。もっともっと、ふれる。それは時計の針にしても、回り出す方向を、一緒にするものだ。共に今が……今が……のびてゆく……時が……頑なに守り通して来た、時間の殻が……自分で拵えた、限界という壁が……壊れてゆく……。江ノ電って、こんなに速く走っていたっけ? と、想った。青信号が、堤防の真上にすっくと立つも、寒そうには、見えない。鎌倉高校前駅の、ホーム上の待ちびと達も、憩うみたいだ。古都の初詣での話でも、しているように。

 急にスピードを上げる彼女。逃げる彼女。私は、そのまま眺めがちで、アクセルを踏み込めず、がした。離れゆく後ろ姿が……寂しく映える。依津子さんを愛している、何よりの証拠だった。寂しさをも愛おしむ今、踏み込めない。やはり、本気なのだ。それは、新しい今を創る、土台、ベース……ベース。時計の針は、止まらない。この、ひとすじの道から、逸れてしまえば……時に、所以ゆえんのない恨み、過剰な嫉妬の火種にも、なろうか。オートマチックな今の時計の針を、永く、進めようものなら、針は止まり、逆戻りさえ……。しあわせの時計の針は、オートマチックには、回らない、進まない。私は、自分のこの手で、この愛で、一段上げて、動かしたい。普通のしあわせを求め、普通に頑張れば、それが叶うのなら、この地球上に、矛盾も、葛藤も、不条理も、そして、不幸など、存在しないだろう。ただ、そう想う。彼女を、追わなければ……。

 バイクから離れれば離れるほど、愛は煮こぼれた。消えそうで、燃えていた。憎しみやジェラシーに消えそうで、寂しさに負け、再び、灯っていた。それもいい……。過去を隠す事に必死だった。いやみ、そしりは隠せなかった。人心は離れ、他人ひとの優しさを裏切って来た、私の孤独が、今……想い出という経験さえ、語れなかった私が、今……。

 空は雲を剥がし、光は砕かれ、星屑もどきの雨がりつつあった。西ゆくほどに、蒼穹そうきゅう色濃ゆし一刻一刻が知れる。海の一枚とて、眠りこけていた水魚之こうを覚まし、銀鱗ちりばめたるをけしかけ、シルバーブルーのモザイクは鏡の海となった。半分半分をぜた曖昧は、もう半分、青を請け合い、自身の不実を晴らそうと照り映える。空は、見過ごさなかった。雲をめくれば、こぼれる光に濡れた風が、小々波さざなむ矢印の反射に尻をつつかれ、立つ。空の溜め息のように、吹く。一枚剥がすように……流れる。風を斬って馳ければ、海原は、百面相の、小さな小さなプロットどもが集まり、一枚の完成形を目指していた。大きく展げ、奥まるに連れ、フォーカスするに連れ、集まりのスタイルはずっと変わらず、同じ形の一枚のままに見える。どこを切り取って剥がしても、一枚のまま、一枚として、私の目に触れる。見ようとすればするほど、知ろうとすればするほど、それは、美しいままの……無尽の魂のプラクタル……答えの出ない、美しさ……美しさの為の、美しさ……わからない、わからないのだ……。方々に気を使ってばかりいると、ど真ん中を見失ってしまいそうな、はかない美しさだった。めくるように積もってゆく、募ってゆく、波、そして、海、だった。波は、砂に沈むも退しりぞくも、たとえどんなに深くとも……うねる……そして……いつでもどこでも一枚である為には、まだ足りないプロットが、彼女と私には、ある。常に、同じ心で、ありたい。一枚の波が、海の全てであるように。本気であるように。



 私は、海のようになりたい。彼女が微笑む時、海も、微笑む。彼女を、私だけの風と共に、海に、したい。



 ここは、もう腰越こしごえゆるぎ。鎌倉の海は、西も終わりつつあった。江ノ島の、冬の歌声は膨らみ、響き渡る。肩を組んで走った江ノ電とも、また、お別れだ。家の形の森へ消えそうで、海岸のオリジナルナンバーは、大きくなるばかりの島の佇まいが、繋いだ。吸い込まれていった。いった、私達は、いったのだ。

 ならば……依津子さんと一緒に逃げようと、隠れようと……流離さすらい漂う因果の終章に、消えゆく真実……人のごう……生滅流転の、一所不在の、輪廻の激動たるを、同意する、はかない風の一枚となった。愛に集い、追い駆けるもよし、逃げるもまた、よし。曖昧で不実なものほど、追い駆けたくもあり、そして、逃げ出したくもある。彼女だって、信じられないのではなく、信じようとしている。宇宙が、この地球という星を生み落としたように……空が風を許すように……私達ふたりは……あの、流れゆく雲の英英えいえいたるを……掴まえに来たのだ。わからないものであろうと、心もとないものであろうと、この手にして、育ててゆけばいいではないか? 掌から、砂は、こぼれる。どうしたって、かわされ、逸らしてしまう。空気や、雲や、はかないものは、その存在を許される事に、価値がある。そこに生命いのちが宿っているなら、宿っているとするなら、必然の尊重を捧げて当たり前だ。小さくても、脆弱でも、素晴らしいじゃないか! 生きている! 呼吸している! そして……海も……微笑んでいる……称えている……逃げてゆく、君の影……気配も……。

 光を浴び、風を受けて進む私達。わかってはいる事が出来ないなら、今更の非建設であってもいいなら……光と風の真ん中に立とう。光とは呼べない光と、風とは想えない風の真ん中に立てば、手を結ぶものが、見えて来る。それは、小さな日まり……。消してはいけない……消してはいけない……私達の挑戦の時計の針を……逆戻りさせては、いけない。

 腰越橋こしごえばしを渡った。腰越こしごえの砂浜続きの、かた東海岸を引っ張る、前のめりの返し波の、すぐ向こう……相模湾のよこたる、緑の島の、眼前芬芬ふんぷんの機影が、両翼をのばし、待ち構えている。飛び込んで来いと、全てを吸い込まんと、映える。そこに、ある。かた東浜、Y字交差点を通過した。藤沢市へ入っている。

 ……君が逃げるほどに、私ががすほどに、江ノ島へ突っ込んでゆく。海へダイヴする光と共に、寒雲は尚も剥がれ、青みを帯びる鏡面界は、嬉々として自らの一枚一枚を、めくっては剥がし、こぼしてはらせ、濡らしては流し、色彩のタッチは明るいプレスが効いて来た。小々波さざなむ矢印は型押しされ、丸いうろこのようにかたどられ、しかし、滑らか。風の一枚どものてがいは、見返りを求めず、それをまたてがう連鎖は、しゅんをも掴み、何も要らない、言葉少なの声が、風を斬ってゆく私には聞こえる。色にいう、煌めくシルバーブルー。音にいう、透き通るシルバーブルー。そして、私達一枚が言う、風にも海にもなれる、風というなかだち……グレーを忘れかけている、忘れられない色を知る……ブルーになりたい、溜め息と涙のグレー……。これほど偽りのないピュアなグレーを、私は、見た事がない。

 うろこは、貝殻のでん細工を敷き詰めたかの、虹色の光沢に満ち、私の夢語りを煽る。小さなプロットの息づかいが、私を、一枚で呑み込んだ。映るもの全て、モザイクがよぎる。風が、空想のまわ灯籠どうろうを動かし、それにしても江ノ島の辺りだけ、明るい傘が輪旋し始めた。私達は駆けた。駆けて、駆けていったのだ。光の河のようなこの道にも、うろこり注いで来る。先ゆく弾丸に、纏わりつく。更なる疾駆を焚きつけられ、この時、一瞬、すうっと抜け出るように加速する、一枚が巻き上がり、私の視程をりゃくして、虹鱗こうりん冴えるぎよじょうこうの如き幻が、光を弾いて膨らんだ。抜けけするように生まれた。抜き打ちの連続だった。間髪入れない鮮やかな時が、震えている。あざむかれ、くじけそうな、無力の後続は、惰性にすがりつくしかない。

 走って走って、超えて超えてゆけば、もう影さえ獅噛しがみつけない。反射にまみれた一枚の、その一塊いっかい以上の光暈こううんは、虹の残像を引き、それでも一枚故に透けて見える、その心の隙間に、風は……翼のしおりし入れずにはいられない……。七色は跳ねて躍って、また駆けて、虹のうろこを投げ散らかし、はたと何かに気づいたようにとどろき、さんと輝けば一心に……一気に共起する紫吹しぶき。ひれの翼を、たかる光がじ上げ……ぐいと、のび上がってこそ今度は、何をか言わんや、飛び魚に化身した。煌めく皮膜をうろこに脱ぎ、街の空気と空のあいだじ開けて滑り込んだ。風をつんざく風のシルフィードが、正体を現した。海のうろこと同じうろこが、磁力の反発で雪崩れゆくような、飛行するような、滑らかな舞だ。ばたけば、シルバーブルー花びらの乱、星影たるつむじかぜなびかせる。放射の波動、島は虹の綾をいだき、止まらぬ回転扉となって惑わせる。悉くは、飛び魚と島の一場いちじょうの夢に巻き込まれ、跳ね飛ばされ、洗われた生まれたての海は、しゅんにして待つ。つと、ひたと、駆け寄るものがある。てがいの波どもは、なかだちの心を、幼きその身の上の、日まりのような波に言い遺し、また、去りゆく……走っていってしまう……私を、置いて……。

 君も、時を忘れていよう。今、自分がしている事が、わかるかい?……君が、壊したのだ。君が、壊れたのだ。畳みかけたのだ。貰った事故ではない。少なくとも私にとっては、確実に、君が起こした、事件だ。

 ……龍の伝説薫る江ノ島を、今、虹の飛び魚はかすめゆく。相模湾をすり抜ける、競泳のバタフライの如き翼は、光を吸って尚、昂然こうぜんと膨れ展がった。吹けば剥がれる、風の世界のシルバーブルーは、絶えない一枚を翼に背負わせ、無言の雲透きを投げる。にもせよ明るむなみに、浮かび来る島影は、寒風にさらわれそうな顔は、しない。……もっと、とどまっていてもいいのに……。


 冬の翼よ……ばたけ! もっと速く、もっと高く、どこまでも飛んでゆけ! 君は、風……風……風の翼よ! あの坂を超え、山を超え……しあわせという、海へゆけ!……曇り空でも、私は信じられる、生きてゆける……果てしない、グレーの空よ……もっと、ブルーになれ!……君と共に……生きてゆきたい……。


 曖昧のグレーを、愛と言う。美しき誤解の潤色とも言う。さればこそ、かくも遥かなる同意の、受容の世界の色であった。ずっと見ている前方の彼方、青い富士山が、雪を冠して霞んで眺めている。いつもの冬を、私達も眺めている。そんな今日の旅は、まだ、西へと続く。君が逢いたいのは……何?……誰?……。


『何も言わずに、一緒に来て……』


 私は、君に逢いたい。この、一枚の絵の中で。そして、家族にも、逢いたい。初めて見る、グレーだった。君だって、そうだろう?……。わかっている事が出来ず、目先の自由に溺れ、一度身につけたら外せないよろいに泣き、日常に追われ、埋没していた。動かし難い今という壁の陰で、時をやり過ごすうちに……そのまんまの今が、見えなかったゆく先と出逢った。私は、この、迷子のようなグレーの海を、泳いで来た。そして、今、日まりを見つけ、辿り着いた。……君という。


 私の目は、この世界がくれた、微温ぬるく滴り落ちそうなものを、少し、我慢している。ふと……あの、私の中の少年が呟き出す……そばで、少女の声が……おぼろな記憶の、少女時代の君の声が、少年の私を、隠してしまった。


『どうして泣いているの?……』


 まだ……それは、聞かないで欲しい。嬉しくても、泣いてなんかいない。悲しくても、泣いてなんかいない。嬉しくて、泣いているんじゃない。悲しくて、泣いているんじゃない。嬉しさと悲しさが、まだ、隠し合ってしまうから……嬉しい、懐かしい涙に変わるまで、まだ……聞かないで欲しい……。本当は、風に、もう少しいて欲しい。でも、風だから、掌からすり抜けてしまう。私は、まだ、本当の君を掴んではいない……いつ……掴めるのだろう……。

 世に隣り合い、忍び寄るかの、嘘と誠。

 背中合わせの、白と黒。

 すかし彫る風は、うつむく、グレー。





 Tylko niebo i morze……



 

 グレーほど、深い色はない。








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