音の無い滝

 夏は過ぎ、秋の入口。自然豊かな鎌倉は、季節の移ろいも劇的に知らせる。昼下がりの自宅で、漫然としている私に、社会とは隔たり、想像的発展を賭けた秋は、夏の匂いを吸い込んでいた。崩壊からの転換の素ぶりで、ついでに早々はやばやと、街に現れた。光も、風も、夏のものでは既になく、ゆるゆると逍遥しょうようしている。探すようで、注意するみたいに、経巡り流れていた。気づきと学びが、何かに立ち止まりつつあるのだ。何かを、優しい目で見つめている。強過ぎる生命力は、シェイクダウンの風儀を受け容れていた。往くも退くも、信義のほどを。その、強さを。……夏に受けた傷、痛み……シンプルに、真正面の一点からの旅……。通り過ぎ、そして決めた、いや、まだ決め兼ねている、私の愛がまた、揺れる。

 私の中で、それは昔から浴びせていた、自傷が、少年に、価値を与えようとしている。そう想えてならない、秋が来ていた。愛とその価値観が、この歳になって、ようやく結びついたのだ。人の価値を探したい、見つけたい、転換の季節が愛おしい。悲しみと寂しさが、ユーティリティーを含んで、人々に囁いている。決してずかしい事ではないと、感じられるようになっていた。されば、旅立てる。自分をおとしめるばかりの悲しみが、他人の心の平和を、簡単に奪って来た過去は、今にして、自分可愛いさのあまりの甘さと、言える。その傷は癒せようが、他人の過去は、癒えない……。そこから逃れて来た、ここ鎌倉に降り注ぐ秋の日は、微温ぬるく、そして、永い。もう、頑張りの見返りに泣きたくなかった、私の一日は、今日も始まっている。

 これから、いつもの裏駅のスーパーへ、買い物に行きたい。そう想いつつ、自然と、崖下の依津子さんの家に、視程の焦点が先鋭化してしまう。花火の夜から……ひと月半。絵里子さんの体にもれていた、依津子さんへの想いの丈……。少年の淡き恋が、大人の、別の女性によって満たされた、現実の出来事として、奥手の私を、Y字路に導かないはずがなかった。正直な所、その衝撃波が、煙のように私に纏わりついている。依津子さんか? 絵里子さんか? ひとりに決めなければ、何か、暴走してしまいそうな予感がある。私にとり、絵里子さんは引き金を引いた。依津子さんは、男の心底に眠る想いの端緒としては、充分だ。子供の存在と、老舗のプライド。私もで交じらい、三態の恋々たる夢想が、私をけしかけるのだ。私自身の決心も覚束おぼつかず、隣り合う女性達の本当は、計れない。

 淀むようで淀むまでもなく、私は軽装のまま家を出ると、空気の風合いは、私の心の流路を、ほだしそうでほださない、円やかさでなだめる呼吸をしている。秋の風に点った光が、心地よく、車へいざなう。今日も穏やかないい天気だ。相模湾の煌めきに、小さなヨットのセイル群が、白い矢印方向に滑って語らう。その清爽な声に応える車のドアがき、乗り込んだ。一瞬、ふたりの事は忘れている。そう気づくと、また……想い出して、エンジンをスタートさせた。絵里子さんを乗せたシートが、温かく囁いている。

 険し坂をくだってゆく。右へ U字に折れ切る右側を境する、生垣繁き依津子さんの家からは、この傾斜路は見えなかろう。私は、むしろ胸突き八丁の方が、姿をくらましているように想える、木陰坂を、ひそと、降りた。極楽寺の街の底を縫う間道は、さにあらず。地域の馴染みの本道を、繕って抜けていった。そして分け入る、初秋の切通きりどおし蓊鬱おううつたるは、如何にもらしい、閑古錐かんこすい……永いくだり坂の季節の、隠れ道の幽凄ゆうせいを焚いている。……今、仕事中の彼女に、正直になれない自分がいる。人知れず、あれほど愚直を誓った我が身が、絵里子さんの女を、求めたのだ。私へ俄かに、果たして今日も、迷いのうねりは黙ってはいない。……一秒を……沈めて繋ぐ坂くだりのエンジン音は重く、緑は、いつかの海の、依津子さんのひと言でのしかかり、想い立ったように静謐せいひつを蹴破った。……一秒……一秒……永き寸陰を惜しまぬ風は過ぎ去り、家の玄関から、ずっと降り続けているかの、一円の重さは、帰りの登坂も同じであった。花火の夜から……それを知ったのだ。坂道に沈めて繋がる、一秒、そして一円の重さを、ひと言を……。依津子さんの、黄昏れ迫る材木座海岸の、あの、言葉。そうではないかも知れないひととの一夜から、私をえぐる、ひと言……



 今更。



 もう、依津子さんには、何を言っても……

 彼女のひと言が、どうしても私の……



 It's too late……



 を引き寄せ、



 It's not too late……



 を……彼女と私の底流を、壊さんと、声を荒げる。私を苦しめる。自縄自縛の痛みが、私の心像に食い込んでゆくのだ。永い坂道の往ったり来たりが、家の出はいりが、夏の影を引きずり、家の中に持ち込むかのような、秋の風の一秒のそよぎを知らせて、私を取り巻く悉くは、哀傷の手をのばされてゆく。

 見えて来た由比ヶ浜の、青碧せいへきに富む詩想さえ、私のハンドルさばきに注文をつけるように、加筆している。力餅屋さんの賑わう軒先は、既に海を隠し、私も大ファンの甘味処の温容が、唯一、ほっとさせる。灯を点さねばならない、虚ろな目をしていようドライバーは、私だけだと想う。やがて飛び込んだ長谷はせ駅前の佇まいが、今さっき、坂ノ下の交差点を直進せずに左へ入った、男の照れととまどいを、なだめながらも少しだけ見逃した。しかし、私の想いを語るかの街のざわめきは、左へ折れずにそのまま真っすぐ走った先の、絵里子さんの家の存在を、見逃してはくれない。恋のあとさきがよくわかる、鎌倉の風は秋のただ中をゆく。ただ、ゆくだけであった。……真っすぐの道を選んだとしても、時間も距離も、目的地まで、そう変わらないのに。

 秋の到来と共に、街並みも、ふと、変わっていったように想えてならない。大仏様のまします、高徳院こうとくいん方面へゆき交う行客の流れが、なぜか、身近に感じられない。見馴れたはずの風景が、一歩、退しりぞいたかの風情で、私を窺うのだ。いつでも、更にもっと引き退さがらんとする顔が、並んでいる。私は、


 心配要らない……


 と、心の中で呟いていた。去りゆく影を、追いたくもあり、追えばまた、離れそうな想念が、私の記憶世界で、常に、隔たりの平行移動の均衡を探して、あいだは詰まるとも拡がるともしない。飛び出すべくを抑える、その不安を塞ぐように、訳もなく笑ってしまう自分が、今もこうして、薄ら笑いを浮かべている姿を、にこやかと受け取って欲しい、男の嘘を許して欲しい、と、黙唱するばかりだ。自分が引き退がる事をうべなえば、全てが壊れてしまいそうな、怖れを、踏み越えた向こう側に息吹く、新たなる自分に辿り着くまでには、まだ、遠い。こんなに近くに、目的があるのに。わかって、いるのに。私が私らしくあればあるほど、秋もまた、秋らしい。や中心街は近く、由比ヶ浜大通り沿いの建て込みは尚、袖ふり肩寄せ合って居並ぶ。

 秋日和の円やかさに、五体はつかえを覚えぬ人波が濃い。笑顔が厚い。声が拡い。されど光と風は、それにしても微温ぬるい。車さえ迎えられるように、私は小径こみちを左へ頭を入れ、出来るだけ、そっと、いつもの有料駐車場を目指した。スーパー来客者から、マスターの店の来店者へと、歩いてゆこうかと、今、決めた。父子おやこの顔が見たくなった。今日は、なぜか無性に、懐が、そうせせらぐ。小々波さざなみよりも、小さな波が知らせるのだ。秋声しゅうせいは甘く、ふたりの女性の秋波しゅうはが、私にまったままでいる。


 ……さらりと買い物を済ませ、車に荷物を置いてから、GEORGE HAMPTON へ向かっていた。秋の観光シーズンには早いものの、人影は充分に膨らんでいる。常に変わらぬ、ちょうどいい熱気は、あまり動こうとはしなくとも、安心が溢れていた。一度来たら、また来たくなる、難しくない懐かしさが、誘いの手を、いやみなく差しのべている。何もかも、平々凡々とした顔ばせが、少し、嬉しい。砕けた男達の、遠慮しない繊細な視線に触れ、明かさぬようで、うちに明らかなるを語り合いたい私。なるべく、そうしたい私。こんな穏やかな秋の日なら、マスターと正樹君なら、出来る。


 マスターは、流石さすが、鋭いからなぁ……


 ゆっくり歩いているのは、近い所為せいでも、マスターの所為せいでもなかった。


 あっ、……


 無音の問題提起が、ゆくほどに、私へ、通りすがるべき声を、大きくしていった。店の向こう並び、細い路地へ少し入った所で、大柄な目立つ正樹君が……初めて見る……険しさを隠し切れないわずらい顔で……誰かとふたりで会話をしている。近寄り難い真風まじを纏い、辺りを拒み、余人に推し量らせない難しさは、まるで睥睨へいげいを以て、その場の空気を壊しては作っている。夏の名残りを想わせる、落としものの思案のはたに……青いキャップを被った、ひとりの女性の後ろ姿が……背中の残壁を築き、抗していた。私の視野は、ふたりを隅に移動させ、急遽きゅうきょ、気づいていない体裁を整えた。鎌倉に来て、まだ日も浅い選択肢に、その女性の名は、ない。よく見るまでもなく、想い当たるまでもない。見て見ぬふりをして、店のドアだけが展がりゆけば、救われた。にもせよ脳裏をよぎる、


 誰だろう?……


 顔から視線を外し合わないふたりから、私は外れるように、店の前に来ていた。いつもの空気を求めて、ドアをけた。


 別居中の奥さんだな……。


「おぅ! いらっしゃい」

 頼りない私の、直観intuiteは、マスターの年季が入った出迎えに、いとも簡単に呑まれた。

「こ、こんにちは」

 もちろん、誰かに告げるつもりはない。やっと最近、男女の機微を吞み込めたばかりの、当事者の責任を、軽んじたくなかった。

「ははん、青年は、もう秋の黄昏れ?」

「いやいや、そんなんじゃないですよ」

「なら、いいけど」

 たとえ家族でも、今日初めてその人を見た時の顔色は、見た人を、忽ちその色に染めもしよう流れを、共に、遮るようだ。今日も休憩時間中。厚かましくて申し訳ないが、買い物の度に、顔を出すようになっていた。そんな無礼を、マスターと正樹君は、いつも粋に許して、甘ったれの私を受け容れてくれる。自宅に次ぐ、居心地のいい逃げ場所になっていた。もっとも、鎌倉全てが、守ってくれているのだが、最近、安閑としてばかりではいられない。私の中で追いつ追われつする想いを、たまにさりげなく吐き出したい。サークルなら出来る事と、すがった。

ったかいココア下さい」

「そんな気分だ」

「ヘヘ……」

 私は、あるテーブル席に座った。ここに来るだけで、追うものへの憧れが、確かに、その気分になる。回復したかの安堵に浸れる。しかし半分、そこまでだ。帰ればまた、今の所ゆっくりではあるものの、もう半分を占めるものに、一時いっときの平穏は追われる。天秤が釣り合う時間を、この店は提供してくれるのだ。家にいるばかりでは、畳みかける切なさの饒舌を、まだ正樹君は戻って来ないが、今日もマスターの饒舌で、天秤を平らにしてもらいたい。影を、影のように歌うひと。そして、光のように歌うひと、そのふたつを。ずるい、悪い、弱い、こまかいのではなく、小さい、誰かの。優しく穿うがつマスターの眼差しが、温かなチョコレート色にまみれて、こちらに来るのを、待った。


「はい、お待たせ」

「ありがとうございます」

 甘い湯気が、早速喋り出した。途切れないように、マスターはそのまま対座した。

「イッちゃんもエリちゃんも、例の如く、あまり来ないわ」

「はあ」

 それは、いつもの話だ。私への連絡も、あまりない。あったらあったで、近況報告やら情報交換やらに終始する、何でもない内容で、突っ込まない。余程忙しいのだろう。

 私は、

「女性は大変ですから」

「だよな」

「……マスターはご存じだと想うけど、依津子さん……今更っていう言葉が、大嫌いですよね」

「ああ、知ってる」

 果たして、私の本気の訪れは、今年のこの秋のように早かった。

「僕も、それを消したくてたまらない……胸に刺さります」

 マスターは、顔のしわが際立って来るみたいに、緩やかな微笑みで小々波さざなんだ。アンプラグドのBGMのさえずりと一緒に、男のレトロな手作りの匂いが、ココアの甘い香りにじり、私達を突っついて誘う。

「……僕は……そうではないかも知れない、別の何かで……自分の空白を埋めてしまった……これから、どうしようかと考えているんです……」

「フィットしたんだ」

「はい。でも、よくわからない……」

「……」

「……」

「あのな」

「はい」

「実は正樹も、そうなんだ……今、大事な局面で、まだわからない……同じだよ……」

「……」

 私の中で、店先の密談が繋がった。父の顔を深めて、

「ひとつの大きなものに、一気に吞み込ませようと……」

「ぅぅん」

 私は、俄かに自分の絵が彷彿とした。ふたつの影に共通する、家への想いと、そして、私との関係の遮蔽物たる、男のインシャラン……。相関図を難しくしている、自分を浮かべていた。

「陽彦君。……あの……まあ……人と人は、求め合うものが同じなら、出逢うよ。それを求められる人だと感じれば、その人の中に、探す。みな、それぞれ、大同小異。意見と意見の隙間を、埋められる可能性を、生まれ持っている愛は、察知する。やっぱり、世の中全てにおいて、共同作業っていうのは、理屈だよ。それを心を尽くして、屁理屈にならないように、料理してみるんだ。お付き合いも、人としての成長も、んなじ。さて、どんな味になるんだろうな?……。自分がよかれとするものは、他人ひとがよかれとするものと、限りなく近いほど、よかれさ。自分のベストを考え過ぎると、他人ひとに押しつけたくなる。ベスト……頑張り……。俺はね、よかれとするものより、他人ひとに売れるもの、他人ひとが求めているもの、それが本当のよかれだと想うよ。頑張っている自分でも、買ってもらわなくちゃ……それが、ベストなんだ。自分のベストは、必ずしもベストじゃない。他人ひとの声は羅針盤だぞ! 時に、自分の声より……」

「はい……」

 ご多聞に漏れず、マスターは期待通り。私の、言うに言えない明々白々を、汲んでくれた。絵が融け出すかの想いに、怖さもまた、ほどけてはだけそうだ。父の口が、また、ひらきそうだ。

「……ベストな自分から、買ってもらえる自分、自然にフィットする自分、そして、シンプルな自分へ……特に恋愛は、そう、流れるよ。人間だから、その道のりで必ずバランスを崩す。まず、出逢いだ。察知したとしても、求められそうもない事だってある、わかるだろ?」

「ええ」

「その時、どうする?」

「求めさせようとするか? 諦めるか?」

「うん。たとえば、その人が顔見知りで、挨拶程度の言葉が交わせる関係なら……きっかけを求めるよね、探すよね」

「……」

「何等かのそれに応えたとして、応えさせたとして、そこから、自分のベストとの葛藤が始まる。売り込もうと、買わせようと、受け容れさせようと……と同時に、その人を受け容れるべく、自分にフィットさせてみる」

「ううん」

「でも結局、整合性から大きくはみ出し、矛盾が受け容れ難くなった時、別離わかれは訪れる。だけど、その別離わかれが仮に暴走だったとしても、もう、そうしなければいいんだ。また、何度も繰り返してしまえば大暴走だ、不幸の足音が聞こえて来る……」

「……」

「探り合い共有した時間の、長い短かいにかかわらず、ほんのきっかけの目搏まばたきだけでも、家族の間柄にしても、別離わかれそのものが、マイナス感情なんだから……そんなベストを尽くしてはいけない……その人に本気になれない、本気を必要としない人や物事の為に、ベストを尽くそうにも尽くす事は難しい」

「……う、うん」

「今、フィットしているように見えるよ……」

「えっ?!」

「フフフ……別離わかれを準備して、どうする? 過剰反応だ!」

「はあ……」

 たぶんマスターは、大体……見通している。私の言葉は、依津子さんの口癖の意味が、既に私自身へ向けられ、矢の如く刺さって変貌するほどの、行状の告白である事を。三つの壁のジレンマに、でも、ひとつに決められない、それぞれが離れられないと考えている、私の焦燥、そして、切なさを。だからこうして、超えられもしようヒントを、いつものようにマスターらしく味つけして、語ったのだ。私は、自分で未練を深めてしまった。大ベテランの炯眼けいがんは見逃さず、優しく包囲された男がいた。……絵里子さんである事も……きっと、わかっている……私達は、この人にかかっては、赤子も同然なのだ。

 ……そして、正樹君が帰って来た。

「やあ、いらっしゃい! 来てたんだぁ」

「うん」

「ちょっと忙しくてねえ」

「大変だね」

「いえいえ」

 普段と変わらない、私にしても馴れっこのキャッチボールの、投げ手と受け手の素早い交代劇を、やや前のめりで見ているかの、マスターと私であった。まあ、イレギュラーな彼ではない。それがどっちにしろ、関心は関心を喚ぶのだった。そして私もマスターのように、心配へと馳せてゆく自分を感じていた。あの真剣な表情が、目に焼きついている。自分の事のように想えて。そしてこの、正樹君の明るい笑顔にも応える、私は、痛かった。マスターも、心憂いだろう。

「一年も、煮詰まってゆくよなあ……すぐにやって来る錦秋は、その色だな」

 マスターは、少し、寂しそう。

「ううん」

 若手はうなる。三人それぞれに、重ならざるを得ない何ものかを、ひと足早く、遠く、眺めている眼差しがあった。私も、自分のそれがわかる。見えていなくても、そこに息吹く影が、ここにいる全員の表情を、満たしている事さえ。

「……この、今の為にある秋は……先の為にある自分を……探しているんだろうなぁ。気づいているんだ。今という時に、埋没しがちな自分に。今の頑張りと先の頑張りを、見極めるべく、季節の色合いは、錦の如き綾を織って、悩ましい……」

 私は、目の自然な微動が、一瞬、止まった。はっきりそれとわかる視界に、正樹君の、んなじ、マスターに射止められた目があった。私は、また、爽やかにえぐられた。だから、ここに通っている。そんな快哉かいさいをも秘めた秋の色合いが、尚も移ろう冬へ、何れ……連れてゆく何かが、どこかが、見えて来るなら、来そうなら、私は、正樹君だって、もう、迷わないだろう……。


 私も正樹君も、考えている。彼にしても、たぶん、失礼を承知で言えば、先駆ける自分のひとりよがりが、自分だけを満たすばかりで……マスターの言う通り、私も、同じなのだ……。


 そして夫婦関係は、まるで反抗するみたいに、空白をきたしてしまったのでは?……。私の揺らぎは、再燃したかの感があった。……違う……求めてはいないひとと、私自身もわからないうちに……求め……すれ違うような、あのひと……これ以上分かり合えないような、あのひと……近くても遠く、手が届きそうにない存在……。誰にも言った事がない、言えない、正に墓場まで持ってゆくべき懊悩を、図らずも引き出していた。


 他人ひとのしあわせを斬り、自分の過去を、押し売ろうとしているのではないか?……斬捨御免きりすてごめんの、侍気取りの……。


 挫折の隣りにある、希望、生。

 夢のそばにある、挫折、失敗。

 互いの陰に隠れ、ひとつの時間は、時代は、次に、相対する時を見せて来る。対極同士で転がるのだ。ともすれば、その証左の、夢と不安……相半ばする想念に、拠り所を求めてしまうのだ。私はそれが、いやしくも、死……で、あったなら……と、あの、稲村の浜辺を、また想い出した。であるから、いつかきっと、復活もしようかと……。挫折の中に、生を見ていた。失敗を利する事により、生きる事を得られる、愛する人の為に生きられるのだろう。そして、その対面にある、希望の中に、影を見ている。夢を利する事により、死を……得られる、愛する人の為なら、死ねるのだろう……。生と死と愛が、渾然一体となって、私ににじり寄って来る。そんな揺らぎだった。失わせて置いて、生かすかのように……。


 わからない……

 わからなくなっていた。

 私は、死を想い浮かべるほど、

 決める事に、煩悶しているのだろうか?

 確かに、期するものが、ある覚悟が、あった。

 死をも乗り超えんばかりの、それに、逸脱するかの、賭けかも知れない。

 絵里子さんの中に、今を、そして、依津子さんの中に、先を、見ているような、気が、するのだ。

 今更、憎しみや嫉妬を求めた所で、その先に息づく何ものかに、光はこぼれ、風は、そよいでいるだろうか?





 ……そういった一日が、また巡り、次から次へと、けれど肩をすくめるように、流れていった。身をかがみたくなる寂想へ押し出された、近頃の私であった。ある日の午後、私はやはり自宅にいた。極楽寺の街をいだく、全山の葉身一叢いっそうは、息の半ば潜め、細長く気脈を繋いでいる。希薄たればこそ、延べ漂う風の粒子に、さやさやと山は鳴る。静々しずしずと、みな黙り込んでは眉尻を下げる。見えなくても、噛みしめればわかる風を、奥深く吸い込んでいた。その時の無防備な顔が、時折眺める窓硝子に映り、妙に、少しほっとする。崖下に佇む依津子さんの家が、眉を上げれば、いつも、あった。眉を、上げれば……。

 極楽寺坂切通ごくらくじざかきりどおしを登って来る、絵里子さんの姿を想像していた。これから、初めて、この家を訪れるのだ。連絡によると、全行程歩いて来ると言う。緩やかな秋声しゅうせいを聞きながら、目から心に沈む想いを重ねるように、歩を進めているのだろう。坂は登れど、坂の上に来ようものなら、一念の拘泥こうでい、一念の幻想、それは時として、欺瞞か? あるいは……本意か?……何れ馳せくだりゆく何ものかの命脈が、待っていよう。今は出社している依津子さんが、崖下で息吹いているから……絵里子さんはそれを知らないから……ふたりの影が、秋澄む風に重なって私へ匂い来る……。ふたりの女性への裏切りは、女同士の友情と男の惰弱を見限り、サークルの存続にも影響し兼ねない、そして、私自身の沽券こけんにかかわる問題、危うさをはらんだ問題であった。私は、自己喪失の危険に挑んだのだ。絵里子さんの自己嫌悪を、顧みもせずに。

 私は、鎌倉に来て、約二十年ぶりの出来事……私を知る由もない依津子さんと、一方的な再会を果たした時の、切通の静謐せいひつを引き連れて現れた、あの影を追っていた。美しき女性は女性でも、そうとはいえ、違う……どうあれ、違う……そのひとであった。幻は、今もまだ幻のままで、今にして生まれたての幻であった。あの時、誰だかわからず、消息不明の人影だった。それは今も尚、人知の及ばざるを諭すような、人事の悦楽で揺蕩たゆたう、肉体と精神、現実と未来、今とゆく先を見せていた。肉体は現実にあるものの、その心は、向こう側へ飛んでゆかんばかりの想いを、今という時間の韜晦とうかいに費やしていた。そうではないものは、蓋然がいぜんの逃避を利し、陰ながら肯綮こうけいあたるのだ。内なる予熱にほだされの実存は、余熱ほとぼりと争わない態度で、会稽かいけいの恥をすすぐが如く、機を窺い見ている。絵里子さんの肉体と依津子さんの心は、限りなく被さり合い、優婉嫺雅ゆうえんかんが如幻にょげんの生となった。こんなっぽけな世界で、粒と粒に過ぎない人間同士の微光は、途方もない、見果てぬ宇宙空間が光被せしめるままに、折れていようと、畳んで久しかろうと、夢の翼を乗せ、帆を上げるように羽搏はばたかんとしていた。登坂の助走路を離れ、その先に続く何ものかへ、正に飛び発つのだ。岬へと続く、その先へ……この家をも超えて……。もう、絵里子さんがやって来るであろう時間である。

 そして、秋容やわく、覚めがての私の体が雪崩れたような急坂を、キャメルのワンピースのひとりの女性が、足下に視線を落として登って来る。木陰に見え隠れしながら、常緑の葉洩れの水玉模様の日に染められ、ウールとおぼしき体のアークが、張り溜めた腰のなまめかしさを集めて映える。坂道の風合いが、この時、自然色豊かなシンメトリーの世界を創っていた。導くそのひと……おもむろに……絵里子さんが浮かび上がり、私の世界は、果たして、アシンメトリーの世界に変わってゆく。先の頑張りは、目的を決める。今までの頑張りから脱却するかのような、彼女の歩みが、今の私の内部非対称を知らせて、決めたい想いにまた、男の惰弱はつつかれた。花火の宵以来の、ふたり切りであった。雷吼らいこうに焚きつけられた、極彩色の光の奔流が押し寄せ、共鳴しない悉くの理由を、私から根刮ねこそぎ奪いつつあった。

 私は、窓硝子越しに、絵里子さんの、麹塵咽きくじんむせぶ秋木立ちから去り、名残りを惜しむかの、山肌をうような佇まいが、九十九折つづらおれ、こちらを仰ぐ時を待っている。されば、その通り、最後のカーブを道なりに左へ曲がり、いそいそと、乗り遅れまいと、私がよく知る彼女を忘れそうな眼差しで、我が家の玄関を求め、章々しょうしょうとして秋意を引き立てた。そのあごの上がりは、登坂の道ゆきの終わりに、ふり返る坂道の、更にまだ続く、終わりのない彼方に展がる、稲村の海の群青ぐんじょうを、大きな喜びに変える約束事たり得る。子供の頃から、それと知る私を逆撫でない、由比ヶ浜からの遠出の散歩に、絵里子さんの表情は晴々しい。胸の脈動を数える一歩が、酸素を欲しがる口元にも託され、リズムを歌って鼓吹こすいするみたいだ。まばゆく熟れた清爽が、額を汗で潤し、風のさやぎを纏い易い、暖色に身を包んだ彼女に、ふと、寂しげな、谷合いの街を架け渡す光波は、立ち止まらずにはいられない、円やかな淀みを、玄関先に届けている。招かれた時間を、用意して待っていた。人を拒まず、人と人を隔てず、受け容れるままに。秋思しゅうしの、人恋しさのままに。

 外を眺めていた私は……居ても立ってもいられず、急いで外へ押し出された。咄嗟とっさに引っかけたサンダルを踏み直しながら、そのひとと気づくまでの時間、そのひとを想っていた時間の長さが、秋旻しゅうびんに吸い込まれ、気づかぬふりの男のてらいを、日溜まりめく出迎えの道端が、ときめきへの坂の道々の我が家へ結びめた。彼女の気ずかしさもまた、荷ほどかぬ訳にはいかない微笑みで、気づいて見つめ合う時間と距離の隔たりを、出来るだけさりげなく、詰め寄って来る。互いの照れ笑いが、ゆっくりひらいて蕾を脱ぎ、女のたえな花織りはもたれ、男の露わな想念に手を添えて来る。その一歩ずつの歩みに連れ、何もかもが、それぞれに迫り来る。ただひたすら、抱え合い携えつつ、今日の逢瀬は再び出逢い、始まった。玄関先に届けられた、ありのままの絵里子さんは、この家に届いた、やって来た。……嬉しかった……互いに……


「……ハアァァ、着いたぁ!……」

「いらっしゃい、お待ちしてました」

「本当っ! この坂はきついねえ〜!! 切通から、ずうぅっと登りっぱなしみたいだった。陽彦さん達、坂沿いにお住まいのみなさんは大変でしょう?」

「いやいや、僕も馴れたよ。確かに、難儀な条件下にはあるね。でもさ、この眺めが……」

 私の、ついと放ってのびるに任せた遥かな視線に、彼女は、語らせるまでもない。ふり返るその目の端から、

「ああぁぁ……」

 満つる光矢は一瞬で両のまなこを射抜き、明々白々の雨打ゆたの如き、透き通るひさしが目をいだく。秋ぐ海はまだ微温ぬるく、風はさして立たずにそよぎ、秋の水さえ日和にほだされ、蒼き燦々さんさんは柔らかい。掴めそうな、手が届きそうなかたわらに、や紅葉を散らすひとが、息を少し弾ませて、破顔わらう。秋麗あきうららが、遠く霞んでいる。ふり返らせなかった険し坂の光は、今、言葉になった。たまさかの煌めく雨打ち際にあった心も濡れそぼり、絶景との巡り合わせに酔いれるなら、急坂峻坂険きゅうはんしゃんぱんけわし坂は、登るべく意義を以て報われ、そこにあるのだった。

「このまま、ずっと眺めていたいね……」

「うん」

「鎌倉だぁ……」

「うん」

 初めて我が家を訪れた人とは、誰からともなく、決まって、こんな会話のひと時が永い。声のぬし主人しゅじんも客人もなく、今日のように天気がよければ、尚更。想う所、それぞれに新しく、また、一方ひとかたならない。江ノ電の懐かしくきしむ乾き声が、谷合いに響き、極楽寺駅へのんびり向かう。突と破れた警笛に、秋の鹿達はまだ、大人しくして寄らず驚かず、風は急がず光は出娑張でしゃばらない。秀でる事をよかれとしない、意思的な惰性が仄めいて、秋づく。香ばしい季候は寂色さびいろひとつ。濃厚にして拡散、拡散という海の平夷へいいに通じている。

 私は、この街での生活全てにおいて、あの岬に至らざるはない理由があるように、想えてならない。惹かれる、魅せられる運命を、見つけてしまったように想えて、ならないのだ。秋の夜長に眠れぬ心と体が、切ない。寂しさがどこまでも融けて、私という存在が、消えてなくなりそうな夢を、最近よく見る。怖い夢ではない。されど、悲しみに目覚める朝が、決まって訪れる。鎌倉に来て初めて知ったひとりの朝は、海も、空も、そして時間さえ、私の悲しみが染める事から始まるのだ。私は、時を壊している。畳みかけなくても、壊しているのだ。

「ねえ……」

 と、彼女。

「いつも、ここから何を見ているの?」

「うん……」



 ……大体、君と同じじゃないかな?

 わかるだろう?……



 もしかしたら、こうしてふたり並んでいるのに、ひとりの時間をもう少し……あともう少しだけ……求めていたのだろうか?……私は、恋をするには不似合いな、遠い昔に迷い込んでいった。こぼれる光は、絵里子さんの輪郭をぼかし、私という風を立ち止まらせ、彼女の中へ融け入ってゆく。なぜか寂しかったのは、風が濡れていたからたろう。


「……」

 私は、悔しさを見ていた。それは、しあわせを求めていた。求めれば目指す所を見つめ、れようとはしない。そして、現実という坂道があった。ネガティヴなパワーは、バネにこそなれかてたり得る。しかりといえども、その強さは横にれ易く雪崩れ易い。それもわかってはいる。余圧の気を抜くような補正を加え、真っすぐであり続けた。そこにも、やはり惰性は存在し、馳せくだり易さに、寂念は許しを与えよう。強さに負けそうな自分を、寂しさは棄て置くまい。慰めは、時に、寄り道横道を本気にさせようとするのだ。やがて……妄念を喚び、見えない下り坂のトンネルへといざなう。あまりの寂しさに、悔しい想いは、いつしか恨みと嫉妬に姿を変えてしまった。堅固な高い城壁に守られた暴君。絶海の孤島でいきつ漂流者。自分ひとりに誇らしくふる舞おうか。

 されば、今という時に集う数多あまたの影。今に獅噛しがみつくもの、今から離れゆくもの……様々ある。今と、これからがある。今は現実味のよろいを身につけ、これからは夢の衣を纏う。それは何れ、肉体と精神の相克、表裏一体の剣ヶ峰に通じる。

 そこに坂道があるなら、通るしかないなら……登るともくだってはいけない。登らなければ、家へは帰れない。あの岬の海へも、ゆく事は出来ない。急がば回るように、急がば登らねば、見えるものは見えないのだ。誰もが秘めている悔しさは、処し方を誤れば、そうではない、反対側へ雪崩れよう。ネガティヴマインドあなどなかれ。負けたくない、諦めない、粘りの信条を、らしてはいけないのだ。体でも頭でも、かなり使い込まなければ、しあわせは、見えて来ない。犠打が、膠着したゲームのゆくえに、大きく貢献するように。家族と故郷を語れない、私の悔しさは、この坂道の途中にたくさん落ちている。登って拾ってそれから……これからが、始まる。影を集める険し坂の鬱蒼は、今年も寂色さびいろの秋に燃ゆ。ご無沙汰の秋景は、侘しい実りの言葉になった。寂想涔々しんしんの声が、身に沁み入っては濃汁こじるを呑ませる。遠いこだまが、耳の奥深く鳴り止まない。隣りの絵里子さんも、それを聞いているようだ。私達の今は、さるにても、どうしても、まだ寂しさでしかないのだろう。瞳の底は秋色しゅうしょくの光でもさらえず、あざむけないとこぼしている。涙の用意もしているみたいな顔に、なっていった。


 ……私達は、気がつけば気づかぬふりも、最早自然に、家の中へ入り、互いを、求め合った。

 畳みかけるように、肉体の現実感を標榜し、それぞれの夢をも砕かん情念の下、この今の時間は壊れた。そうはしなくても、それが出来るはずの心に対する、ジェラシーが襲いかかり、心を裏切ろうとする love and hate が、際限なく入れ替わるように、肉体は躍った。制する者と制される者、愛する者と愛される者。妖しいコントロールは、既にそれを破壊し、衝動の頂きに、シビライズされた行動を見たかの、歓悦の鐘声しょうせい乱れ、1ページをめくったばかりの幻が先走った。それは、坂道を登り来る誰かの影……言わぬが花の、その人影かも知れない。罪を作るようで超えていた、遥か向こうの稲村の海がまた、溜め息をき、煌めきをがしていた。離れようにも離れられず、獅噛しがみついたままの肉体を、確かに、愛したのだ。

 時に、先の頑張りが見えない、見ようとしない今があるなら、惰性にまみれ易く、その今のまま、いつしか先は訪れる。今と合流した先は、先が見えないと知っていた今のまま、これからも流れよう。いつまでも今という時に立ちすくむ、その想いを、誰が、孤独と呼んで悲しむだろう?……永遠の今を求める想いを、誰が、愛と呼ぶだろう?……今にとどまってはいられない、それが愛なのだ。誰かの今は、その今の愛を語っている。愛は、可能性である。人を、プロフェッショナルにする。自分ばかりを愛する事で、それが出来るなら、私は、愛を疑う。もう、何も信じないだろう。多くを求め、多くを奪うより前に、与えよう許しの安堵が、さして求めず奪わない、この穏やかな、清秋せいしゅう息づく鎌倉のような平安を、知る所以ゆえんとなる。今を壊さずにはえ難い。悔しい過去を壊したくて仕方がない。これから始まる。その先を創るのだ。壊さなければ、私のどこに、その余地があるだろう? っぽけな、つまらん男の、どこに?……


 もっと自分を問い詰め、追い込まなくては……


 でも、ただ……

 こんなにも抱き寄せ、掴み、離したくなかった私達だった。互いの体の熱い力が、それを想い知らざるを許さない。……怖かった……怖かったのだ……。求めるほど、奪おうとするほど、ひとりひとり離れゆく魂の陰影は濃く、心ここにあらぬ事は隠しようがなく、暗黙の肉体の咆哮ほうこうは空虚で悲しい。私達ふたりの関係は、既に見えない、見ようとしないものになっていた。それが、怖いのだ。私は、心と体がバラバラになって、別物になって、それぞれに意思を持ち、畢竟ひっきょう、違う何かを追い駆けている、そのまさかを、予想通りになぞるだろう。今のまさかは、肉体と精神を隔て、双方に過分な権利を与えたくなっていた。いびつな男は、それも破壊のうちと、区切りの盲目へ彷徨いでた。たとえ、予感通りの未来が訪れたとしても、蒼い果実が熟れようと熟れまいと、売れようが売れまいが、心を揺さぶる顕現化の実感の深さは、予想を遥かに超えるはずだ。その程がわかっていれば、誰も苦労はしない。私にしても、それに陥ったひとりだ。過去と未来、若手とベテランは、今を巡らざるを得ない、道のりの一時代として繋がり、そのひとつという自分の意味を、うべない分かち合うだろう。……私は、そんな一体感を願って止まない。


 絵里子さんだって……

 自分のゆく先を求めるリーダーシップを、今こそ自分が執るべくして執り、復活するのだ……。国家と国民が、時に折り合わないように、すれ違う心と体があれば、私は、天国など要らないと、夢幻泡影むげんほうようの境界へ馳せつつある。それは、悔しさをバネにする事を決め、完結出来ない予感に怯える日常を、約束するものであった。バネをらそうとする、目先の自由の充足感なる、っぽけな誘惑。そこは惰性という微温湯ぬるまゆ。されば風邪かぜきのまま、怖いもの見たさのふるえは、かすかだった。窓辺に立てば、この秋の一日の光は、頑張りの謙虚さではないようにこぼれ、風は、その怠惰に涙するように濡れて、止まりつつあった。街は、知っている。全てを受け容れた上で、大人しく息をする、しずかで、さるにても寂しい眺めが、私の底へ沈んでゆく。素直になれない人に対して、素直になれない自分は、もう、終わりにしたい。イージーな環境を、永い間、選択していたのだ。掴めなかった……だから、掴んで、自分の経験の財産にしたい。もしかしたら倒錯の、半ば破壊的な建設から始まる、次なるステージであったろうか? 愛を、透かして見ているように想えて、ならないのだ。不可避の、それだった。


 喜びを分かち合えない人の不幸を、私なら、分かち合える。今の私に出来る精一杯の愛が、見過ごさずには置かない。誰かがやるのを待つまでもなく、私は、やる。私だって、同じなのだから。何もせず、何も考えず、動かす訳でもなく、どうにもならなくなった私なのだ。このままでは?……と……予感した、あの時……あの場所から……始まっていた、オウンゴール……。今、ふり返れば、後ろ向きのシュートを打つ、誰かの影が、遠く揺れていた。それは、執拗なまでにつき纏う、日々の暮らしの大元の影。うちに秘めていた後顧の憂いが、今にして、その具体的な項目の、優先順位の取捨選択に疲弊する、神経質過ぎる青春の残像を結び……。絵里子さんと私は、遥かな眼差しで、ただ、海を見ている。彼女の、光を集める瞳の微動が、焦点を探して尚、降るように、震えた。私達ふたりは、社会の許しを得て、ご厚意に甘えて、生かされている。せめて、笑顔で応えられるようにしたいと、また、胸が高鳴る私だった。

 他人ひとを見る。他人ひとの話を聞く。自分がわかる。立ち止まるか? 先へ進むか?……時は流れゆき、隔たる必然を止めず、置き去った心に見せる眺めもまた、否みようのない必然である。仕事の陰に隠れられない、最早偽り難い私達を暴き出す、秋の陽光は、そうはいっても、どこまでも、優しく……。本心をさらすほど、偽らぬほど、魂は磨かれ、感謝し、その言葉を素直に発するうちに、やがて自分の中の、感謝されども価値のない、足下が見えていないプライドは、自ずと遠ざかるだろう。余計なものは、消えてゆきそうな気がするのだ。若い時代に創った覚悟は、身を棄てこそすれ滅ぼさない。いつもしあわせと隣り合い、不可分たる不文律を得るのだ。




 

 秋深き、それから、惜しむ頃のある日曜日、私は、何はさて置き、崖下の高見家を窓越しに見ていた。依津子さんから、久しぶりに誘いの LINE が来た。今、その約束の時間を控えている。休日で在宅であろう彼女の外出を、いつになく注視している私だった。前の山の向こう側、聖福寺しょうふくじやつの最奥にある、横長の小さな正福寺しょうふくじ公園で待ち合わせている。まず海方向、稲村ヶ崎駅まで南下し、駅前を経て、音無川おとなしがわ沿いを北に転じ、南から回り込むようにやつを登るしかない。ゆく彼女の背中を確かめて、私も距離を取り、時間差で同じ道を辿らねばならなかった。少しときめきいて、居ながらにして依津子さんの出発を待っている。ブランチもうに済ませ、時間まで三十分ほどある。もうそろそろ、家を出てもよさそうな頃合いであった。

 今日は無風に近いのではないか。立ち枯れ知らぬ常磐木ときわぎの、晩秋めくインセンスが、窓辺の屈折をしても真っすぐな、しかし、薄べったい光の波動を、揺るがせるべくもなく、部屋の奥まで暖めている。火照ほてり臭い、匂やかな白いヴェールが、私の体にも垂れ込めて、もたれの重さを感じさせない。冬の使者の乾いた痛みを、言葉にしづらい悲しみに、私は、憐れむかのような眼差しで、見下ろしていただろうか。それとなく、自分の表情が窓硝子に映っている。江ノ電の往き来も遠慮深げで、下支えを添えて揃い、二、三羽のトンビの滑空のループの幾重いくえが、大らかに架け展がって森閑しんかんを引きのばす。その間にし挟まれた、なだらかな山相の、黄にあかに点描仄かな、さまで主張しない寂栞さびしおりが、私の一眸いちぼうに言葉の無力を告げる。私しか知らない、依津子さんとの距離感を、人知れず、え難いものに仕立てるように。されば、私を黙らせるのだ。あいらしからぬ海の凡庸はかすみけぶり、蒼白く見えにくい水色も軽やかに、何ものとて溺れさせない一面を見せて和らいでいる。低密な空気でも息を繋げる、拳拳服膺けんけんふくようたる冬隣ふゆどなりかすれ声で、質朴な造化を口遊くちずさむ。


 緻密な思考、もしくは、大胆な行動。何れかを満たす事が、現実をとらえた、愛する人を守る為の、しあわせの動線……。


 この急峻な坂道も、繋いで岬へ至る街の一本道も、そして、追い駆けて来るように登り、逃げるように下る、長い極楽寺坂切通きりどおしも……疑いもなく、私の、いや、私達の、秘せるささやかな、ソーシャルキャピタリズムたり得ると……既に心づいていた。ベースラインの道であった。悉くを落とし込み、数多あまたうずめ、踏みしめ、歩んでゆく。この街で、鎌倉のどこかで、小さな歩みは、大きくはない一歩を刻んで、繋げようとしている。いつも、鎌倉のどこかで……そして、今日も、これから……。こだわりを持たない、街のこだわりが、拒まず受け容れてくれる。柔らかで薄く、半透明の丸い光と風に、誘われるままに。その、心もとなさの一抹につき従う、徒然つれづれに。


『大事な話があるの……』


 私は、ここの所、聞いていない、依津子さんの声の弾力が、SNS 経由の、惹句じゃっくの綾からはみ出していた。合言葉のような唯一性をうたいながら、この待ち伏せ時間を費やす男の、鷲掴んだ予感さえ、期待通りにさらった。彼女を裏切ってしまった家の、窓際に佇む孤影に、暮秋の寂光、清寥々白的々せいりょうりょうはくてきてきとして降り注ぐ。やましさの影が、今をして、あの夏の花火の火の粉の寂想を映し、火の葉の落葉の如く、声なき声を、音なき音を上げて、私の懐に沈んでいる、と、引き出さずには置かない。依津子さんの誘い文句は、一閃の透過で、私の後悔を、愛に、言寄せたがる。誰かを、愛させたがる。誰かひとりに、決めさせたがる。それでも……誰かはわからない、鳴かず飛ばずの売れない私自身が、苦々しい。


 ……話って、どんな大事な話だろう?……彼女のメッセージを受けた拍子にこぼした、あの、決まり事だった、私の無言。〝?〟と同時に、出し抜けに浮かべる連鎖があった。自分の歴史を失くしたい、私の無言……依津子さんは、それを壊すきっかけを、黙り込んではいられない自然体を、促していると、どうしたって、そこに辿り着く。饒舌になってしまう、語り始めようとする自分を、イメージしていたのであった。彼女が私を焚きつけた、後ろ暗い灯と、先を照らす灯。その絶えない風間に煽られ、一緒くたに燃え上がる情念の炎は不規則に、果たして崖下のひとに火の手をのばしつつあった。

 真に、覚悟出来る物事との出逢いを感じている私だった。決意の程に、人の一生はかかっていると、強く、想う。ならば今の怠惰と、何れやって来よう、再三の後悔をも嫌うだろう。併せて、目先の自由への誘惑に、負けてばかりの自分の弱さは、目的が定まらない、かつての頑張りの反動であったと、言えるのだ。一大決心を託せる、何ものか……何某なにがしか……は、早く見つけるに越した事はない。目に見える現実は限りあるもの。目に見えない心ひとつで、如何ようにも、創れる。ひとつの肉体の存在は永遠ではなく、心像を塗り替える造化を、虚しくしようものなら、っぽけな誘惑は、惰性に引きずり込みもしよう。現実世界には、如何せん本当の盲目が存在する。世を恨み、社会に嫉妬し、他人ひとあざける類いが、それである。そのような場所を知り、過適応した所で、何の意味があろうか? そんな頑張りは不要だ。時間には限りがあるのだ。

 やや!……眼下に、ネイビーのコートに身を包んだ依津子さんが現れ、険し坂のコンクリートを踏みならして降りてゆく。ととのえ切れない私という糸をあざない、一本の縄をうように堅実な歩みで。織り姫の如く、やわ甘き光を呑む一葉いちよう翻るかの、紺藍こんあいの衣たるコートの裾が跳ねて、秋日しゅうじつに、微温ぬるい女の形をした寂栞さびしおりは、街の底へ紛れ込もうとしている。水彩の風景画に描かれた、静物の一点に甘んじる後ろ身が、秋水しゅうすいにじみ出る、女のぼかした想念を知らせ、極楽寺の往く秋になぞらえて、荒立てるまでもない。多くを望まぬ平凡が、鎌倉を語っている。ふんわり束ね上げて丸めた髪が、白いうなじを隠しては躍るも、人肌恋しいそぞざむを想い出したように、九十九折つづらおれの峻坂しゅんぱんあがり口で、知る由もない、見えるはずもない私の窓辺の方を、はたと、仰いだ。その、愁眉しゅうびひらけぬ、安心立命を得られぬ無情の、遠くへ預けて赴かんとする眼差しが、私のひとりよがりをせせり、突き上げた。

 私も、出発するべく、グレーのダウンジャケットに袖を通した。……が、谷合いの道をゆく彼女の後ろ影に、り立つ薄羅紗うすらしゃの、日脚ひあしの長尺はほうけ、女の幻像が紫吹しぶき、先客の便りをしたため始めた。私は、その、あたかも投げ文に綴られし、よそ事にして、旅寝たびね初枕ういまくらへの悋気燻りんきくすぶる、荊棘けいきょくの紀行文を走り読んだ。


『陽彦さんの家は、鎌倉のどの辺り? うちと結構近い……かな?』


『絵里子さんとは、連絡取ってる?』


 今頃になって、怖れていた、依津子さんの、ありべき、自然な質問の妄想が立ち上がり、私は、かばっている自分の傷口が、再びいきなりひらいてしまった、男の過怠を、予期出来なかった。引っ張り出されたふたつの泣き所を、急いで閉じ込めるように、ジャケットでしっかりと両肩を包み直して、体に巻きつけた。サークルのメンバーで、自宅の詳細な場所を明かしているのは、榎本父子おやこだけだ。過剰にプライベートへは立ち入らない、暗黙のルールにすがりつく、姑息な私を襲う、実はもうひとつの影の存在がある。花火の火の粉の如きが、飛び火しない事を祈るばかりであった。大事な一夜を共にしたひとと、これから大事な話があるひととの、三人の相関性に投じる、冷たく燃え盛りもしよう、闇雲な、見えない心……。私は、財布と部屋の鍵とスマホを持った。暖房のスイッチを切り、黒いスニーカーを履き、明かりを消すまでの間、駆け足の想像は胸をけたたましく叩いて、忽ち、よきゆき顔を作りかけの、地元民のゆとりの漏れを装い、表情にたたえていた。玄関に置いてある鏡に映る、決められない男の強がりは、誓って、口にすまい、暴走すまいと、決めた。間に合わせではない笑顔は、私の為には、間に合った。依津子さんの為にも、間に合わせたいように。大事な話に、応えたいように。

 私も外へ出ると、鍵をかける横っつらに、触れそうで触れられない、せいぜい届いて随分控えた日射しが降る。秋を感じて長閑のどかに施す、海辺の街の約束は、こんなにも甘露であった。大事な話は、どうしても、よい話に寄りついてゆく。そぞろに歩き出した私を、当たり前の急勾配はやけに神妙に、靴音を吸い込んで落ち着かせるみたいだ。足下を見つめている私の一心は、もうだいぶ離れたであろう、ここからは見えない、依津子さんの背中を追うだけの、授かりものの心を見ているのだろう。給われし者の浮つきを、険し坂はなだめるのだ。どちらの味方でもない。

 人影疎らな目抜き通りへ、左に折れた。極楽寺駅の閑散を鵜呑みにした物寂しさは、融け流れるにもせよ、平々と、切通きりどおし木深こぶかき山影をぐようだ。かの山の西麓せいろくに貼りつく、依津子さんと私の家。わだかまそばだち、あまつさえ、深憂しんゆうあればこそ踏ん張っている。彼女の後ろ姿は遠く、もう、見えなかった。もしや……



『私、風になるんだ……』


 

 ゆくりなくも、過日、GEORGE MAMPTONで、絵里子さんを紹介された、あの時……彼女の、底に眠っていたであろう想いの表白が、山畔やまくろのこの道に滑り出した。先ゆくひとは、今、その言葉通りに果たすかの、真近で満つる海からの風となり、そして風は巡って北から南へ、冬の足音を連れて帰って来た。うずくまる山の跼蹐きょくせきを慰めるように、剥がすように通り抜け、なだらかな山姿に差し替え、どこ吹く風の、施しおごらぬ優しさに、給われ応えし悠々閑々たるは、時候の調和に相応しい。秋のは先細るも、冬の出迎えに、道端の垣根から覗く、気の早い寒椿の安堵が、寂しげに綻んでいる。秋と冬の、涼しさから寒い季節は、人を吸い込む。何ものとて立ち止まらせ、春と夏の、暖かさから暑い季節の、けぶるような、むせんでしまう濃厚な空気とは違う。薄広がりの軽い空気は、ややともすると風であって、けだし、解放拡散の匂いをちりばめて流れようか。それは夏の空気が、回り回って今更ながら、冷め切れぬまま持ちこたえた、寡黙な誇りを、悪びれずに架け渡して、世界を靖んじてゆくように想えた。……そういえば、バイクの件はどうなっただろうか?……急に心配になって来た。


 ……依津子さん……

 君は、風……

 本当に、風のように、

 いや、風になったんだ。

 もう、だいぶ隔たった君を、私は追い駆けている。

 見下ろせば、

 いつも手が届く場所で息づいているのに、

 君は、

 こうして離れてゆく。

 風に乗り、風となって去ってゆく。

 私は、大事な話を携え、帰って来たと想っている。

 どこへゆくのだろう。

 私を、

 どこへ連れてゆくのだろう。

 私は、

 どこまで追い駆けなければいけないのだろう。

 姿の見えない君を、

 姿の見えない君にしてしまったのは、

 私の怯懦きょうだなのだ。

 だから……

 君は、

 風になってしまった。

 消えようとしているのか?……


 先ゆく彼女は、既に稲村ヶ崎駅前へと右に折れ、この岬への一本道かられたと想われる。姿はない。山畔やまくろを回り込んで、聖福寺しょうふくじやつを、南から北へ分け入り、緩やかに登っているだろう。稲村ガ崎五丁目、新興住宅街の行き止まりに佇む、横にひょろ長い、鎌倉市の公園に向かって。その、裏山にいだかれた、子供向けの静かな趣きは、恬淡てんたんにして地味。ではあるが、真っとうな優しさが、尚も登りゆき、隘路あいろ折れくねり奥広がる、鎌倉山かまくらやま翠微すいびに守られ、かの余情、刺々とげとげしからず、森の胚胎はいたいが連なって息吹いていようか。

 私は、風にさらしていた。てて加えてさらされていた……あれはいつだったか……たぶん、いや、きっと、絵里子さんと唇を重ね、女を強く意識した、落日の余映の陰で、君の言葉は、色も形も表現しづらい想いを、君らしく見えない流動風体に委ねて、吹き迷い始めたのだ。そして私は、絵里子さんと肉体を交わし……愛した……と共に現れた、夏の織り姫かの、依津子さん……君の寂しい眼差し……透き通る風の涙の匂い……

 あの、絵里子さんの熱い唇を知った、稲村ヶ崎の車中……その時から、なぜか不思議と、道ゆく人がやけによそよそしく感じ、以前より距離を置いて眺める私と他人が見え隠れして、裏面の驟雨しゅううを放ったらかしにしてはいた。夏の花火に蹴散らされ、打ちひしがれたそれは、時として、私の記憶像を寄りてて蘇り、心像界は依津子さんの手を引いたのだ。風立ちぬ……そうさせたのか? されたのか?……更にその風にさらしたのか? さらされたのか?……それはわからない。ただ今は、暮れの秋の露寒つゆさむを知るようで、先回りした寒凪かんなぎ白姫しらひめを追うばかりの、心寂うらさびしい枯れの雑木林の小径こみち逍遥しょうようする私がいる。大抵の物事は、露わになったふるえに臆していながら、その実、媚びない、いやしさのない、訥弁とつべんであっても不機嫌ではない、愚直な慈しみに溢れ、話のわかる人に見える、そんな顔を揃えている木立ちに見えるのだ。風は、吹いて吹かれて裸になって、私も、小春の森のただ中にある。今、夏の織り姫は、秋の終わりの風となり、まるでこのまま過ぎ去るように、冬の白姫しらひめに化身しようとしている。私達ふたりの今は、犇々ひしひしと、滅びゆく時代の終わりに、ある。それぞれがいだく、心の財産を想い出し、これからのパズルの用意を、見つめたいだけであった。その、融通が利かない頑張りを、融通が利くまで粘るには、風の笑顔の癒しもまた、大事な話になって来る。

 駅前を通り過ぎ、彼女の歩みをなぞり、翻って北へ曲がった私の背中に、淡い日の手がもたれかかり、先の導きに向き直った自分の影を踏めば、自然と右側ばかりに目を奪われる。束の間、音無川おとなしがわ細水ほそみずが、人の無関心を野情に訴え、私の瞳に仄めかして……。

 現在はここだけ遺すのみの、浜の砂地にみ込み、音が潜まって揺蕩たゆたう、曲水きょくすいの小息が、そろそろと、せめてさやかに私を見つめて来る。応えたい私だった。応えようてしている私は、応えなければいけなかったと、横顔で小川を引きずり、応えられない私を知るままに、歩いていた。緩やかに、登っている。依津子さんの影は、や、この北上の前途には、ない。追い着こうにも、まだ追い着いてはいけない、私が勝手に拵えた隔たりが、怯懦きょうだ躊躇ためらいの真ん中で、風に吹かれて尚、強がってはいられないと、無情を知らせる。通り過ぎたばかりの、失われし砂の如き幻を、今にとどめる細小川いささがわを、想わず、ふり返った。最早既にない何ものかが、人知れず生き永らえていた、淡白な味わいが、あまり来た事のない、このやつ横溢おういつしている。古ききそれは、新しいという、先天的アプリオリなパラダイムシフトの気風を感受させて、えのプラトニックも、絶えない色相で誇らしい。復活ではなく、消えそうであれ、絶え間なき、繊細なひとすじの永々たる不文律を見せている。

 ゆくほどに見回せば、やつの新興ぶりにも、懐かしさを焚き染めた香りがくゆる。家々を窺うように後衛する茂みは、どこも屋根よりひいで、森の縁辺ふちべにあるかのそれは、たまに届く、家族からの手紙に似て、寂しさを励ましに託すように、慎ましやかな笑みを、ふと、こぼす。そうそういい事はない、ありきたりの毎日を信じていよう、もっともな普通に、やつの行き止まりとなって序開じょびらきする、山精木魅さんせいもくびの常緑の棲家すみかは佇み、寸言を呟き始めた。抽斗ひきだししまわれつつある秋は、林間に酒をあたためて紅葉こうようく、翼覆嫗煦よくふうくたる暮らし向きを想い出すも、ほうきいたふうの雲流れに、そこはかとなくめくられる。その、雲脚うんきゃく逃げ散るさまを眺めていた私の想念は、たえな依津子さんの空想が、みょうに、マスターの数々の言葉を引き寄せる。


別離わかれを準備して、どうする? 過剰反応だ!』


 うちなるパズルが、身近な人の助けを借り、組まれてゆく……そして、信じられないような、私とは無縁のような、大きな喜びの妄想へと駆け上がる自分を、禁じ得ない足取りを実感しながら、やつを登っている。依津子さんに誘われた時、大事な話と瞬時に一致する、マスターと私とのやり取りの中に、実は、また別の一節があった。人と人は、同じ環境を求め合えば出逢い、共に生きてゆけるきっかけが、種が、幾らでも落ちている。それを素直に拾って、再び、愛を込めていて頑張るなら、こんなにも膨らむだろう事も、わかっていた。今日まで、あまり考えないようにしていたのだが、ここへ来て、これである。それも過剰反応だろうか?

 彼女の話に、たとえ喜べなかったとしても、私は、彼女に失望しない。彼女を非難したりしない。私は、もう、自分ばかりをかばったりしない。種は、自分の足下にく。足下が見えなければ、畑は耕せない。種もけない。そういう自分を、かばい切れるものではない。それこそ、過剰反応なのだ。マスターのもうひとつのヒントに、別離わかれなど微塵みじんもない。今となっては離れられない。過去の虚しさが晴れない訳が、ない。そんな拡大解釈なら、許されてもいいはずだ。

 自分の頑張りによって得たものを、心から信じたい。そして、信じるべきものは、何もそればかりではない。そこが、分岐点だと想う。後ろを向くか、前を向くか。立ち止まるか、ゆくか。隠すか、放つか。拒絶か、受容か……その果ての、逃げと憩い。じゃくだん……心持ちが、景色が違って来る。途轍もなく大きく、深い〝?〟にぶち当たる。そこで、夢でも幻でもいい、持って生まれた玉屑ぎょくせつの如き純一じゅんいつの種が、ゆく先を左右するのではないか? 目当ても、あと先も、それに向けて追い込むストイシズムも……それ次第。加えてそれは、信じ得る他人の存在、あるいは、家族の存在によってもたらされる場合がほとんどだ。他人も家族も大事、大事な話がある。そこに、なぜ拒絶があるのか? 昔と違い、理解出来なくなりつつある、私であった。

 残念ながら、頑張れずに得たものへの過信が、拒絶の種になりがちであろうかと、推察する。世に生じる争いの火種は、概して、ここで絶えないのではないか? 人の意思はどこまでも自由だが、私は、火種を、過剰に表現したくはないと、想えるようになっていた。かつての私の表現は、間違っていた。言うべき事は言えないくせに、言わなくてもいい事は平気で言える、打たれ弱い男だった。せめて、口癖のようにしてはいけなかった。目に見え、音に聞こえし、憎悪と嫉妬の証左に、痕跡に、もう二度と出逢いたくない。不幸の歴史を学ぶ事も、確かに大事ではあろう。しかしそれよりも、その不幸を乗り越え、ゆく先を見つめ、共存共栄して来た歴史を学ぶ事の方が、どれだけ大事で尊いだろう……ひとりで愉しむより、みんなで……今、私は、そう考えるほどに、心強くなってゆく自分を知るのであった。

 ……暮れゆく冬隣ふゆどなりのままに、鎌倉山の裾の端が通せんぼして、境を畳みかけて来た。楚々たる息づかいにもれるやつの奥は、あくの如く。狭まる座に、景色も俄かに肩幅を詰め寄って来る。行き止まりを感じさせるも、私は、いにしえ迎山むかえやまへも連なる、峠越えの山道を想像した。入ったばかりの山中に、熊野権現社くまのごんげんしゃ小祠しょうしが潜み、難路は東側の西ヶやつへ至る。逆に東から登れば、この聖福寺しょうふくじやつへ入れるのだ。少年時代、実際、数回挑んだ経験がある。自宅の険し坂どころではない、舗装されていない、あるかないかの山道をゆく人は、やはり滅多にいないらしい。西ヶやつのぼり口には、月影地蔵堂つきかげじぞうどうがある。私は、その、赤い衣を纏い、優しく微笑む地蔵様の、白い顔を浮かべた。母親想いの健気けなげな少女の、悲しい伝説を、私も知っている。ほこらかたわらに眠る、つゆという名の娘の、墓にくっつく梅の木ごけは、在りし日、仕えていた主人から与えられた梅小袖うめこそでに、そでを通す事もないまま、幼くして逝ってしまった娘に、地蔵様の情けが、小袖こそでを着せたのだろうと、遥か過ぎかたの村人達はあわれんだという、言い伝えが遺っている。涔々しんしんと降り積もる雪の、寂しい小声のようにも、訴えかけて来る。元々、江ノ電極楽寺車庫の裏手、月影ヶやつにあったものを、いつかは定かではないが、西ヶやつに移したと聞く。我が家の山は、陣鐘山じんがねやま。遠い昔、切通きりどおしが隔てた、かの山に、険し坂の家は建っている。陣鐘山じんがねやま迎山むかえやまの谷合いに憩う極楽寺の街。こうを共にする稲村ガ崎界隈の、さるにても深い由縁ゆかりが、森陰に沈んでいる。そして、浮かぶ瀬は、ますます描き、最早馳せ、漂い出した。


 人生を賭けられるものに、出逢いたい。早く、特に男なのだから。出逢わぬうちに、違うものに賭けてしまっているうちに、いつしか……後ろを向きもする。本気で賭けている分だけ、それに気づかなくなる。……本当に賭けられるものに出逢ったなら、それは守るべきもの。そこから創り始める、一生。守りたいなら、わかっているなら、想うばかりではなく、やらねばならない。我れ想えばこそ、我れは、やる。……わかっているのにやらずにいれば……わかっていた、望んではいなかった、のぼるともくだるともつかない、ゆく先に、今という時から飛び立てない、ままならぬ坂道が、見えて来る。傾く土壌に佇む、翼が折れたかの、日々の暮らし……やらずの後悔の雨は、ただ、冷たい。それをよく知る、私であった。本物との出逢いは、早い方がいい。人生八十年の一回切りの、出来る事なら、結婚前が望ましいと、斯様かように想う。今の暮らしに付帯するばかりの責任からは、逃れようもないだろう。最近の私は、やっと、そう気づいた。そうさせてくれたのは、他人だった。家族のような、家族以上の、他人だった。みんなで家族のように愉しむ、他人同士がつどっていた。そんなサークルを、繋がりを、心から愛している。この鎌倉の街と、森と、海と共に……私達は、今日こんにち、ある。



 人のみち

 今をほろぼし

 時ぞ立ち

 末こそ断たず

 風なむ流るる



 それでも、表情は静けさを拵えつつ、私は、ようやく正福寺しょうふくじ公園の中へ入った。なだらかな丘陵が、北の山へ架け渡して登り、擂鉢すりばちの底のような南向きの斜面の展がりが、枯れ色をぜ合わせた絨毯じゅうたんの、心細そうな暖かみを綴っている。人影はほとんどなく、時が止まりかけている。散歩に連れ出された柴犬しばいぬが、かすれた渋色しぶいろの世界に一点、微睡まどろみから何かを引きずるように、リードを張って飼い主を歩かせて、人間の足取りが忙しく動いている。主従の息が白っぽく散り失せ、共々、元気そうだ。来たる冬の寒さなど、お構いなしの犬達は、先取りするかの笑い顔が映えるものだ。私は子供の頃から、どこの公園に行っても、犬の姿を探す癖がある。いつも微笑ましく眺めて、たまに触らせてもらったりもする。きっとやっぱり、命の温もりを求めているのだろう。そうこうしながら、スマホの着信を気にかけつつ歩いていた。繕ってはいない落ち着きを、仄かに感じている。

 敷地の北東の隅が見える。近くのベンチから、紺色の身形みなりの人が立ち上がり、ばらける髪から覗く肌つきも滑らかに、依津子さんの笑顔が咲いた。私の笑い顔をくすぐるように見ている。久しぶりに近くで見られる私への、喜びの顔を、作ってはいないと信じられた。こちらへ歩み寄り、羞恥はにかむそばから、大事な話が漏れて来る。語る前から、飽きさせない予感が溢れて来る。煮こぼすままに、白い歯も手伝うまでだ。距離がなくなってゆく。彼女が笑顔でいられるのは、私の怠惰たいだ所為せいでは、断じてなかった。コートの裾がはためくもかすか、折からの緩い北風は今、ふうっと、海から巡り戻って再び北に始まり、南へ吹き降ろす。同じ風が吹いている。しかし、違う匂いがする。柔風やわかぜに変わった彼女の記憶術は、風の精、シルフィードの聖域サンクチュアリへの招きに応じたかの私を、鳴謝めいしゃの満を持するばかりの一礼で、迎えてくれた。私は、自分の体の重みで、膝が、突っ張るように立ち止まらせたがる。そして、好きな事のみに、躍起になっていた影が、こんなにも掻き消されそうな、このひと時を、忘れられないものにしたくなっていった。内因的なるものの悉くが、私達を満たして、弾けそうであった。ただし、限りなく、誰にも気づかれずに。


 ……風は、何を言い出すのやら……冬も間近な秋郊しゅうこうのノイズが、耳に心地いい……冬の産声が、こだましている……君を裏切ってしまった私を、どうか、許して欲しい……


 私達は、同じ地点に、それぞれが立ち至った。その道程を想いやりたい笑顔が尚、それぞれはだけた。

「陽彦さん、しばらく!」

「やあ、元気?!」

「うん、お陰様でこの通り」

「ハハハ、それはよかった。どう? バイクの方は」

「うん、もうじき卒業出来ると想う」

「じゃあ、卒業検定だけ?」

「うん!」

「へえぇ、優秀だなあ。400 はさぁ、取り回しが大変でしょ?」

「もう、最初っから筋肉痛! でも馴れた」

「ハアァ……やるなぁ……」

「エヘヘ、それほどでもないよ」

「気をつけて頑張ってね」

「うん、ありがとう」

 一瞬、眩い光の中に、依津子さんの元気が姿をくらました。頑張る人の輝きが、果たして彼女を、とどまってはいられない、風がさらって隔たりゆく。照り映えた白い顔は、あの地蔵様のようにも、そして、さっきふたり共そばを通った、月影ヶやつ館跡やかたあとの碑が建つ、そのあるじ、中世に書かれた十六夜日記いざよいにっきの作者、阿仏尼あぶつにしるした、かくも深き母性愛をも想起させて、私は、女の、しずかなる自信のほどを垣間見かいまみるのであった。濃厚過ぎる彼女の気配に包まれている。それは、今日の関わりを求めている、互いの意思であった。さあらぬ目を合わせたまま、目に物を言わせないように、自然に見つめ合っていた。気配と意思の間には、こんな日の風がよく似合う。ひと度、強く吹こうものなら、任せてしまえば、どちらへも傾き、獅噛しがみつき、気配のままなら物別れ、意思ならば通じ合う。ふたり分のときめきが、うちなる波状の満を辞さんとしていた。……私は、


 ……今が……終わりそうな、


 ……先へ……乗り替わりそうな、


 ……先の頑張りが、見えるような、


 ……人生を……創れるのか?


 先を見極める、大事な話の予感に、足のうらが重い。半ば踏ん張ったまま、風の言葉を期待していた。胸が熱くなって来る。目に見えない、それでも充分、合理と決断の匂いが、私達ふたりの周りに散らばっていった。それで創れるのか? どうか……。

 対して依津子さんは、うに明るい回答を、表情で提示しておごらず、私の不安を裏切らない。しばらく逢っていない所為せいか、とても優しい顔が、淡く白い吐息の中で暖かい。時に、彼女の気配が、それとなく似通う、少女の想いと、女親の母性を引き寄せ、私達ふたりの意思を、想い想いに添わせようと、さっと記憶の風になる。初めて並んで南天を仰いだ、女と男……忽ち、天馬空てんばくうをゆくが如き一眸いちぼうは、その結界を壊した。掴み所のない、隙のない蒼穹そうきゅうは、胚胎はいたいするまでで終わり、視程の極まりは届かず、空白の青い光を想い知る。……遺して来た何かが、ある。忘れられない何かが、ある。生きていた証しが、ある。誰かの声が、こだまする。メロディーが、聞こえる。みんなの笑顔が、咲いている。故郷が、見えて来る……往く秋を惜しみ、私の懐かしさは……君の招きで、込み上げる……。悔しさをバネにしたのはいい、挫折してしまったから、自分をも恨んだ私が、壊れつつあった。

 依津子さんも、ただ黙ったまま、やつを降りるままの先に展がる、街並みに隠れた海の方向へ、想いを馳せている。ふと、言葉を失くし、得たものを見つめている。読みふけるそれは、彼女なりの記憶術を、沈黙の陰に隠し、底流する所、たしかに、私の意思と相身互あいみたがいであろう。ここからは見えない音無おとなしせせらぎも、五月雨さみだれる影の如く匍匐ほふくする。私達は、きっと、今まで出来なかった事が、出来そうな……見えない何かが、見えそうな……この胸に、いだけそうな……夢……素晴らしいじゃないか……。ならば、私の裏切りとて、笑顔の陰に、隠せる……。

 今、私達は、今のままでも、それだけでしあわせだった。今、その場所に、しあわせがあるなら、それは、今、創ったものではない。今のしあわせは、今、創れない。今、頑張って創っているものがあるなら、それが、気配なのだ。意思と呼べるのは、先の話になる。彼女が言う、大事な話とは、そういう事だろう。合理と決断の、夢で、あったろうか。声の透明感が、空気のように歌う、風の夢で、あったろうか。


「ねえ……」

 依津子さんが、何かを砕くように話しかける。

「うん」

「稲村の駅前を曲がって来たんでしょ?」

「うん……」

「じゃあ、幼稚園があるでしょう?」

「知ってる」

「私、そこに通ってたんだぁ……」

「そうなんだ」

音無川おとなしがわが近くてね。昔、私達が生まれる前、音無おとなしの滝があったのは、知ってる?」

「えっ?……それは、知らなかった……」

「昭和三十年代の宅地開発で、なくなってしまったけど……」

 私は、瞬間、虚をし込まれた。稲村の浜の黒砂を、連想せずにはいられなかった……やはり、古くから鎌倉に住まう人は、歴史をよく知っている。

「私、妹がいて、小さい頃から、ふたりして『見たかったね』って、言ってたの」

「……」

 それぞれの器に、届けつ届けられた、実に想いがけない、失われし寂栞さびしおりが、矢庭に語り出す。風の歌のように、透き通って躊躇ためらい、音もなく砕け、そして融け落ち、濃厚な無想が、夢現ゆめうつつの底に分け入って積もっていった。響く歌、届かぬ想い、何ものかにみ込んでゆく、懐かしい心……。色も形もない、純一じゅんいつたればこそ、通じるものが生きている。何を歌うのやら……それは、風に他ならなかった。風であるが故、洗いたてられすすがれた、曇りなき鏡面に映る、ややもすると反目し合うかの、私達の記憶像は、重なってゆくだけだろう。私の、岬……彼女の、滝……。気配の世界で、今も変わらず生きていたのだ。どんな時もノスタルジーを連れ、律儀な腹心は、不抜の想いで運んでいた。たとえそれが、反目の胚胎はいたいであろうと、送り送られた、ひと言、一瞥……で、これからが流れ出し、動く。逃げているようで求めている、口笛めく調べは、ただ、揺蕩たゆたう。過ぎ去りし時代は、透明でなければならない。少年少女の私達ふたりは、冬のさきがけとなり、淡い光に濡らされ、風の溜め息にこぼされるままだった。


 ……君は、懐かしさを裏切らない、気配という名の、風になったんだ……今の時代に蘇り、さやと、シルフィードに化身した……。回帰の風向きも浅浅あそそに、蕭颯しょうさつはてまで過ぎたるは、一途に。


 私達ふたりの郷愁は、砂、だった。私の、社会に居場所を求めない、本当は獅噛しがみつきたい、アマチュアリズム……されど君の、社会に居場所をこだわらない、風にもなれる……ヒューマニズム……失われし砂故に、語れず、語らず、言葉の音無おとなしは、同じでも……。


 音無川おとなしがわは、今の姿の稲村の砂浜のように、滝の名残りをとどめているんだ。


「その滝は、どんな滝だったの?」

「高さ六メートルぐらいの、砂山があったらしい。水の落ち口が砂だから、音もなく……二段に分かれていたそう」

「へえぇ……海辺だからか……」

「うちの両親も、子供の頃、見てる」

「ううん……」

「それでね、この辺りにも、那智なちの滝があったんだって」

「ええっ?! じゃあ、稲村にふたつの滝?」

「うん」

「ハアァ……鎌倉は山だから、滝も幾つか知ってるけど……そうだったんだぁ……全然知らなかった……」

「ちょっぴり残念……」

「ううん……なるほど、そこの山のきわにある、小さな神社、熊野くまの那智なちだよね。滝が御神体なのもうなずける……」

「そういう由縁ゆかりがあるみたい」

「うん……ありがとう、勉強になった」

「いいえ……見たかったでしょう?」

「うん」

「ね……」

 きっと、依津子さんも本当に、ならば私も、見たかった。出逢いたかった、そして、いだきたかった……本物に……本物の……自分にも……。本物になればいい。その気配の風と出逢い、本当の自分を知った時、それを表現しようとする時、嘘は、ない。本物の、実物大の自分がいる。後ろ向きの感情が、本当の姿をゆがめる。たったひとつの真実は、嘘で埋め、無言でかばう心から、遠ざかってしまう。ひとり歩きのそれらから、離れたがる。その、微弱な、ひと粒の砂のような、あざむけない生命いのちは、風に吹き迷わされ、流され、どこまでも隔たりゆく。帰りたい、帰りたいけれど……現実が、そうさせてはくれない。少年少女の想いに塞がる、壁……せめて、いっそ、このジレンマという狭間はざまにて、夢を見て、微酔ほろよい、風と共にまた、舞い上がれば、もしかしたら、故郷は、藹々あいあいと、目の前に現れるだろう。あの人に、逢えるかも知れない。


「陽彦さん、聞いて……話ってね……」


「……」


 君の瞳が濃い。私は、その中へ乗りかかり、泳ぎ出した。賭けに、出た。


「私の会社で……一緒に働いてみない?」


「ええぇっ?!」


 私は、急に騒騒さいさいの一閃に襲われ……落ち沈み……砂? のようなものをぶっかけられ……目をけると……稲村の……遅い秋の砂浜が展がった。……砂に磨かれたかの、えとした白い鏡に似た少女の顔が、悪戯いたずらっぽく、寝まなこに映り込んで来た。

「フフフッ……びっくりした?」

 甘い光暈こううんの真ん中で、笑顔が融けた。似つかわしい彼女の匂いが、立って来る。

「ああぁぁ……」

 一気に虚脱に陥った私の周りを、正直……求める母性と、逃れる母性が、忙忙せわせわしく往きし始めた。対立をけて欲しい私の不安顔を、求める母につき従う、美しい少女が覗き込み……その心を、語りたがっている。……それは……十六夜日記いざよいにっきにしたためられた、阿仏尼あぶつにの母心……妾腹しょうふくの我が子を案じ、異母兄との相続紛争の解決を願い、訴訟に踏み切るべく、京のみやこから、時の柳営りゅうえい鎌倉まで、老躯ろうくを駆りたて女ひとり、遥々はるばる道ゆく、愛の寂想涔々しんしん……。逃れるようで求め続ける、疲れを隠した心に、想い致らせる。

 そして、逃れてゆく、私を求めるようで逃れてゆく……絵里子さんの母性が……その心を宿した肉体が……寂しく、疲れた風情を引きずって、私の胸裡きょうりなぶつ。ふたりの女性の想いが、私へ慰藉の手を差しのべ、だから……こちらへも向けて欲しいと……微動なんかじゃ済まさない。

 その時……

 そよと、想いついたように、風が吹いた。

 私達ふたりを慰める、風に変わった。君は、鳩が豆鉄砲を食らったふうであろう、頼りない私を窺う微笑みで、時の猶予を読んでいる。優しい風を、感じる。秋と冬の隙間にし入れる、それにしても微温ぬるい、記憶の風だった。合理と決断の、処世の香りをはべらせ、全ての敵意も、嘘も、決して怖くはない、君の底に綿々と流れていた、純一じゅんいつあればこそを、私は、如何に疑おう?


 心を慰める、風になった君……

 情愛を慰める、花火の如き光の渦流となった、絵里子さん……


 疲れただろう?……助けて欲しかっただろう?……助けて欲しいと言う前に、助けて欲しかったに違いない……。私は、何も、ふたりに限った事じゃない、ありとあらゆる場面において、気づいてあげられなかったんだ……わかっていても……そうしなかった、出来なかったんだ……。私自身が招いた、ふたりの相剋そうこくを、ただ、うちに秘めるだけの、今を見ていた。確かに、処世へすり寄ろうとしている、私が、いる。うちなるパズルが、アクセルを踏み込み、忽ち組まれてゆく……マスターの、また別の一節が、野球の捕手キャッチャーのサインのように……これなら賭けられると……言わんばかりに……降って来た。


『ひとつの大きなものに、一気に呑み込ませようと……』


 その時が来ている。

 あに図らんや、正樹君と状況が一致したようだ。

 この機を、とらえなければならない事は、わかっている。賭けるに充分たり得る、いや、あまりにも過分である事も、わかっている。実行出来ずに、手をこまねいていると、惰性にもれていると、先々、見たくはない何ものかを、見よう事にも、なる……


 私は、それを、よく知っている。わかっている。もう、見たくはない……。

 やらずの後悔は、さるにても重く、怒りの飢餓感が、うちに沈んで溜まる。

 風も、光さえ届かぬ、むしろ拒むかの、狭隘きょうあいな、そして険しい、坂道の如き、そのはてに……見えるものは……。私は、極楽寺の、岬への坂道の家での生活を、み回想した。疲れていたのだ。先走る喜びもおぼろげのまま、君の笑顔が、これからの光に化身し、もっと先への、風に届かんとしているのだと、そう、想った。

「依津子さん……」

「ぅん」

「公私共に多忙なのに……どうもありがとう……」

「フフッ、いいえ」

「考えてくれてたの?」

「ぅん……」

 ふたりして、仄かなじらいが初々しく、牴牾もどかしい。

「陽彦さんは、人当たりが柔らかで、接客業務に向いていると想うの、営業をしていただけあって」

「いやぁ、まぁ……」

「うちへ来て頂けるなら、もちろん製造の分野でも、やる気ひとつで出来ると想うし、みんなとも、うまくやっていける人だと想う。陽彦さんと知り合ってから……実はね、そう、感じていた……」

「ああ……言葉が出て来ないなぁ」

「フフフッ、一度、真剣に考えてみてくれないかなぁ?」

「うん……」

 その後が続かない私だった。言葉の呑みくだしを、穏やかなうなずきが見ている私だった。こんな私の精一杯が、お礼の一行を素直に纏めて羞恥はにかんでいた。隠し切れない嬉しさが、君へも伝わったかの、華やぐまいは、まだ幼き冬らしい旋律を待ち兼ね、揺酔いざよう波のゆくえ知らずも、音無おとなし涓涓けんけん塞がざれば、つい江河こうがとなり、大海へでるべくを想像させる……微光が、ふわっと、私達の間に射し込んでいる。小春の陽気の微温ぬるさが、こんなに心地いいのは、初めて知ったような気がする私。君も気分がよさそうだ。人影まばらな晩翠ばんすいに立ち尽くす、隣り合うふたつの影が、西へかしぐ日に浴すも、溺れず、埋没するまでもない実像にこだわり、東へ細長く、対立軸の痕跡をがしている。生きていると、知らしめる。あたかも切り離され、独立独歩の意思を持ち、実体のあるなしにかかわらず、その対立関係をも凌駕りょうがせんと、水面下において、形なき想念の一塊いっかいとなり、命脈を繋いでいたのだ。今も、生きているのだ……見えずとも……そこにあるのだ……そしてうちなる対立は、表立って、他の対立を喚びもするだろう……それもわかっている、私、加えて君も、そんな予感が、しているのではないか?……。揃って、西空を見上げた。波乱の匂いがする風が、英英たる雲を流し、私は、消えてしまった音無おとなしの滝の、玄玄げんげんたる幻が、今以て生きているのだと……記憶像のうねりを抑えられそうに、ない。恨みつらみ、人のさがの無情から跳躍し、何れ有為転変ういてんぺん所詮しょせん生滅流転せいめつるてんの法へ辿り着かんとして……。ひとつまみの安堵、ひとさじの寂しさ……人の世の千緒万端は、一切無常の寂光じゃっこうにこそ、ある。

「バイクに乗っているとね……何か、こう、羽根が生えたようで、このまま飛んでゆきたくなるの……何事にも、希望的観測が持てる。陽彦さんも……また、頑張って欲しいな……」

「……」

 無言で見守る私の中では、や、委細承知の生産が始まっている。その覚悟を固めつつある、この束の間、返しの言葉の出る幕ではなかった。ただ嬉しさが、間違いなく……もう君は、彼女ではなく……君という、愛する存在へと昇華していった。愛すべきにあらず、ひたすら愛するばかりの、純一じゅんいつ無二を見つめている私であった。君の、献身的に優しく諭す、ともすれば賭けていよう、確かな眼差しに、私の揺らぎは吸い込まれてしまう。いつかの火成岩塊を冷ます風に、君は姿を変えていた。見えないけれど、底に流れ、頭上に吹く、形にこだわらない暖かさを纏う、流転の伝道者の熱誠の如きを、私なるひと粒は、最早信じない理由など、ない。



「私……陽彦さんが好き……だから……」



 ……さっと、一陣の風が、まさぐるように紺色のコートの裾を翻し、駆け出してのびてゆく。女性の方から告白されたのは、初めての経験だった。君は掌を展げ、供し、何かを掴むようで掴まれたくもあり、待ち人の顔を拵えてはいる。すぐさま捧げてしまいそうな温容を憚らず、満つるままの、納得尽くめで佇まい、隙だらけで頼りなさげに見えようが、隙のない拠り所、目的に守られていた。立ち急ぐ風に任せ、打ちなびく髪は、甘雨かんうおぼしい。男心を惹きつけては、私の肩口に触れる。忽ちにして濡れそぼつ己心こしんは、君から、私へ……ひと度、告げてしまえば、偽らざるはない、言うまでもなさが、私達ふたりの繋がりを、頻りに因果めいて埋め尽くしていった。私の言語は奪われっ放しで、まだ回復せず、陶然の淵底えんていを彷徨うばかりで……。互いの瞳でも、息づかいでも、言葉でも……心をしまった体が醸すのなら、今はその気配の風であろうと、私は、君にしても、満悦に浸れよう。


 

 私は、どう返せばいい?……

 本当に賭けられるひとに、

 畳みかけられた訳ではないのに、

 畳みかけられたように、

 何かが……

 壊れてゆく……

 時間であるかも知れない、

 何かが……。

 君は、

 時を壊そうとしている……

 これからを、創る為に。

 私だって、

 ずっと前から、

 好きだった……。


 

 私の過ちは、自らの非を認めない所に始まる。自分が今している事を、本当にそれでいいのか? 疑うべくもなく、そんな自分にたかくくっておごり、よって、頑張らない自分がいた。何でもかんでも、なるべく楽な道の選択肢というふるいにかけた。自分の真正面から逃げおおせるに、軽やかなフットワークは、充分、正統性の主張たり得て、そこに笑顔を添える時、頑張れない自分を、あざむけた。寂しい花は、もう数え切れないぐらい、咲かせて来たのだ……そしていつも、自分は……正しかった……。この、今更のように非をいさめ、遅きながら頑張らせる、気づきの北風を、今となっては、無条件で受け容れるにやぶさかでない、私であった。過去が壊れる事をうべない、それに賭ける覚悟の程は、まだ、甘い。何もかも、これから出来上がってゆくであろう、正に気配だけで酔いれていた。しあわせだった。単純な男だった。失くしていたものが、やっと見つかったと信じたい、運に感謝するばかりのひと時に、なぜか、風が少し冷たくなっていた。俄かに、寒い色をした雲が、集まり出している。雨を喚びつつあるようだ。一日の暮れが、悲しみを呟き始めるのは、まだ、早いのに……。


 どうすれば、いいのだろう?……語り語られた、そのあとに……。私達は、はたと、止まったままだった。互いに、何ものかと出逢ったように、そこに見つけたように、言葉さえ邪魔に感じられて、君も、黙っているのだろうか。この静かな喜びは、早々と風に散らされ、どこかへ瑟瑟しつしつと馳せ流れ……たとえ逆風に吹かれようとも、自らが遺して来た痕跡に、深く想いを致せば、その風の心が、わかる。自らがして来た事が、冷たい風を喚んだのだ。その風を、ひとり歩きさせてはいけない。冷たくされた事だけを、切り取ってはいけないのだ。風は、風であって、宙ぶらりんの、立ち止まるようなものではない。出来過ぎた風は信じ難い。それにしても荒んだ風は、自由から逸脱した、無理無体に過ぎる。風は……風らしく、さりげなく流れるべきなのだ。曖昧ぐらいが、ちょうどいい。迷惑を感じない、感じさせないファジーな地点に立った時、全ては、風になる。今、私達は、坂道の途中で眺めるには似つかわしい、余韻嫋嫋じょうじょうたる一景に落ち、やんわりと嬉しい。一歩退しりぞいて見守れる、責任を担わんとするゆとりが、笑顔にするのだろう。気を使ってばかりでは、時に理由をも見失い、幻の合格点なる、怠惰な錯覚を見易くなる。少し頭を使えばわかるそれは、気づかいだらけの心が、頭を使う頑張りを遠ざけなければ、自らの辻褄つじつまが合わず、頑張りの威だけを借りて、態度の風を吹かせもしよう。そんな風は、もう、要らない……君だって、そうだろう?……心ない、ひとりよがりの風を見た所で、どうにも切なくなるだけだ……。

 

 かすかに……地下水脈の歌が、玲玲れいれいたる声ものびやかに、私の耳に届いて来る。飛んでゆきたいだろう君は、人知れず、うに習習しゅうしゅうと立ち赴き、心ここにあらぬ佇まいを、そっと隠していた。隣りにいるひとは、風という気配を遺して、既に心をがしている。いなくなっても、私を不安にさせない、証しの記憶を繋ぎめていた。微笑みが、ひとつ、ある。ひとつだけ、ある。それだけで……郁郁いくいくたる敷衍ふえんは嬉しや、うちに鳴るは滝の水……の如き、失われし碧潭へきたんの時世へとさかのぼり、不意に、在りし日の、音無おとなしの滝つ瀬へと放り込まれた。底にめり込むような感覚がある。

 融けつ融かされつする、水と砂は、あるいは曖昧で色のない水に濾過ろかされ、あるいは砂のままの触媒体として遺り、分かれざるを得ない愛惜が、悲喜交々こもごも身贔屓みびいきせず、無言のはなむけを供して送り出し続ける。朦々もうもうたる、むせぶほどの透明な世界を醸し、多義性が横溢おういつする、拒絶のない自由が、犇々ひしひしと伝わって来る。寂しさを乗り越えた開放を、ゆるけし風は触れ回って尚、流れゆく。寛容という名の辺境に、私は今、立ち至った。

 水簾すいれん哭声こくせい啾啾しゅうしゅう。逃げる背をこちらへ向けつつ追い駆ける、幼子おさなご連れのふたり旅は、前途遼遠。悲嘆に暮れそうな声とて、潜めなければ、音もなく落ちくだる滝の水は、かばってはくれない。寂しい火影ほかげが揺れようとも、消しては、くれない。

 それは……喜びであろうと悲しみであろうと、殊更のような言葉を禁じ、冬夏青青とうかせいせいたるべく源流、始まりの一滴をしぼり出す。可能性を信じている証しを、常に真ん中に置く事を忘れない、頑張りという、拠り所を……。

 その対象を、もっと知りたいなら、信じているなら、頑張ってしかるべきと言う他にない。自分自身であっても、愛する誰かであっても、信じられるから、頑張れる。純一じゅんいつも真面目さも、その他では得られない。

 この、音無おとなしの里にては、火を燃やすも消すも、自分次第、個人の域を出ない。火は自分に向けるもの、他人ではないのだ。私は、悔しさをバネに出来なかった、冷たい火を、自分に向けるべき事を、最近ようやくわかって来ている。その時……君がいたのだ……

 この里は、さるにても優しい……平和だ……一歩退がって静かに見守られているようで……それならば、私だって……君だって……音を立てないように……声を荒げないように……心を逆立てないように……ゆくべきだろう?……。君がいれば、きっといつか……冷たく寂しい火は……風に消えるだろう……音無おとなしの心を宿した、君が、消すだろう……。喜びを抑えれば、怒りは、寄りつこうとしないはずだ。怒りを隠すなら、喜びは、それに応えるのではないだろうか?……。水も、砂も、共に、寂しい火を秘めているのだ。悲しみに、耐えているのだ。君も、よくわかるだろう?……私達ふたりは……ひと粒の砂じゃないか……たとえ消えてしまっても、消えそうになっていても……水に潤され、風に流され、帰りたいだろう? 戻したいだろう?……。見えない想いを、あまり形にしない、そんな愛が、きっと、いつまでも続く何ものかを、遺してくれるのだ。

 ……しかしながら……答えを出せずにいる、多義的なるものの跋扈ばっこが、今後の問題に発展しそうな予感が、あるには、ある。許されてばかりでは、禍根を遺し兼ねない不安を、如何にすべきか? 心の平和を妨げる、それらを説得するには、あと何が必要か? そういう私自身だって、多義的にして、微細な一点に過ぎないのだ。


『コミュニケーションを、断ち切ってはいけない……』


 幼き冬の白姫しらひめの、透き通って耳に聞こえない、瞳に映らない、声と涙が、静かな風に届けられ、ぽつりと、私に知らせて中へ潜りたがる。それにしても早い、驟雨しゅううであった。音無おとなしの優しい侵略者が、ひと筆に、誰かの罪の跡を塗抹しに来た。細筆の立て下ろす、雨のすじ足足あしあしが、おもむろに合って来る。姿なき時を巡る滝は、今を知り、今を憂い、今を慰めるほどに時空からはみ出し、天河あたか滂沱ぼうだたる化身となり、呱呱ここの声を上げた。小声なれど長長おさおさし風情は街をくくり、和順な仕種は包み込む。破壊が始まる。癒しへと変わる。そう感じさせる……雨……


 私も、君が、好きなんだ……でも、もう、遅いかも知れない……それでも……いいのかい?……。

 

 ゆっくり連なりうろこになってゆく、雲流れを見上げる君がいた。私の、怠惰によって、多くを裏切って来た宿痾しゅくあを、知って知らずの雨が、その頬を、涙のように濡らしていった。崩れ始めた何かを、見つめているのだろう。雨、霞み、眼差しもおぼろ、俄かに隠れる街並みの寒さが、忍び寄っていた。ふたり共、両肩を張り上げ、首を縮めている。今はまだ、肌に触れる癒しは、少し冷たい。私は、絵里子さんとの事を想うと、孤独に怯えてしまう。君の純一じゅんいつを想うと、えぐられる。ただ、潜まるしかなかった。絵里子さんの、本当は逃れようとしている母性にすがり、他言無用の祈りを新たにする、姑息な私の震えそうな体に、寒さが、にじむ。君が、みる。君は、融けてなびいて、どこかへ馳せようとしていた。逃げる素ぶりで求めている、おも差しがあった。このままではいけない私を遮る、何ものかの抵抗を穿うがつ、小雨のネゴシエーターは、君という風に喚ばれて、並んで冬を待っている。私は、もう待ち切れない。自分の不甲斐ふがいなさを、素直に認めてしまえば、このままではいられなくなると、わかっていた。もう、立ち止まり固まってばかりの、機能しない時間は、壊れればいい、滅びゆけば、いい。

 年次昇給がない、今の時代。退職金が当てにならない、今の時代。終身雇用だけが理想ではない昨今は、多義的な時代なのだ。土台造りが何より大切、何より望ましい。わかっている、その時期に、守らねばならない立場を選択し、今を楽しみ、今を歌う。それもいい。しあわせなら、いい。さりながら、日々の暮らしに追われるうちに、たまさかの出来事ともゆき逢ううちに、守りの責任は、もし、志半ばの土台から成っていたとしたら……わかってはいた、必然の寂しさを見る事にも、なり易いと想えるのだ。責任は、造りかけの見切り発車から、絵里子さんをがさないのだろう。彼女は、そこから逃れたいのだろう。


「寒くなって来たね……雨も……」

 視線を後ろの山の方へ泳がせながら、私は呟いた。

「うん……雨が、冷たい……」

「妹さんがいるんだ」


「……」


 君は、小さくなってうつむいた。その姿の中に、どうにも、私を見つけてしまった。


 私は、君の無言という態度に、初めて触れたのではないか? 言えない想いなら、よくわかる。私はそれが多いから、余計にわかる。君への生まれたての〝?〟を、愛おしむように、

「帰ろうか……」

「ぅん……」

 今のうちに帰れば、傘がなくても大丈夫そうな雨脚は、確かに、冷たい。冬の間際の秋送りは時雨しぐれ、午後の街化粧は濡れて立ち尽くし、いつの間にか微光さえ塞ぎそうな雲蓋うんがいの、低き鉄灰色てつはいしょくに圧される。冬の門前は早寒そうかんの壇上にあり、聞き逃すまいとする里人に紛れようと、私達ふたりもまた、静まり返った。告白のじらいでも、降り出した雨の所為せいでもない、いつになく大人しい、君の佇まいから、寂しさが滴っている。私のひと言は、要らなかっただろうか? その雨打ち際で添うばかりの、小心な男がいた。自らのプライドが、ネガティヴな感情を口にしてしまえば、ただの差別意識に変わりもする。そのようなものに、自分が大切にしている何かを、おとしめていいはずがないのだ。私は、ナーバスになっていた。やはり、君が好きだった。

 私達は公園を出ようと、再び稲村の駅前へ向けて歩を起こした。出入口にわだかまる、聖福寺しょうふくじ跡碑が、こぼれてしまうであろう、薄墨うすずみすずりを、自ら引っ繰り返すように、黒々と立ち濡れて潜まっている。住宅街の息づかいは、小雨の囁きを許し、その陰で、まばらな行客を眺めて通させる。家並みの守りが、拒んではいないふうの一線上に列するも、そうは打ち解けられない一線が、末枯うらがれの庭木に点っている。残秋の匂いが、湿ってほだされ、かくまわれていた。愚図ついた空に、ふたりの滞留が浮かんでいる。そこから離れるべく、君は左、私は右にそれぞれを置いて、不即不離、やつくだっている。時間を推し進めたい足取りは、早い夕方にも届きそうもなく、空空くうくうと、寞寞ばくばくと、とぼとぼと、沁み入るように連れ立っていった。君も……家が恋しいのだろう……私は、ふと、市川の実家の家族を想い出していた。寒空に、みんなの笑顔が融けていった。暖かい家を、引き寄せたかった。今は遠く隔たった、故郷を。風になれば、いつでも飛んでゆけるだろう。いつでも、逢えるだろう。君の、自身に纏わりつく白い息は、溜め息であっても、よかった。

 ふたり共、幼稚園の案内看板を見つけている。その矢印が指し示す、右へ入る小径を、懐かしそうにうかがう君の瞳が……一瞬、右側を歩く私の体をすり抜けた。左側に感じる君の気配が、間を置かず通り過ぎた細道を手繰たぐり……いつかそこにあった、幻の滝の水にたれたかの、満ちゆくも寂しき娟娟けんけんとした風姿の……手弱女たおやめ早変はやがわりする……。そしてすぐさま、左に音無おとなし川を眺めるふたり連れ。


 ……こんなはずでは……それは、違う。本当は……このままでは……必然のなりゆきは、偶然という抽斗ひきだしには、しまえない。点は、線に勝てない。砂のひと粒が、流れる風に、はかなく消えるように……。あの時からのこのままを、今更のこんなはずであがないたくない、私であった。たとえば、それが、砂の夢であったとしたら……。君の嫌いな〝今更〟の意味が、今の私には痛いほど……わかる。こんなはずの、このまんまが、いけない……結局、それを放置してしまったのが、いけなかった、私の、慚愧ざんきという火成岩塊は……鎌倉に言う稲村の、今は無き、音無おとなしの滝の砂山にも似ると、知り得たり……。深く洗われる、時にえぐられる、水と砂を、風が、かげって黙り込む光が、しずかに見ていた。砂は、どこまでも流れてゆけども、いつの日か、きっといつか、帰りたい……帰って来るのだろう……。君の言葉が、全てが、岩塊を砕く。流れる水のように、風になって、私達ふたりの砂の心を、どこまでも、運びゆく。

 道の先に、江ノ電の踏切が見える。その手前を左へ曲がると、駅前である。上がっている遮断機の向こうに、すぐ、ここからは街並みで見えない、海が、ある。目を閉じて、街のノイズ交じりの雨音の旋律に降られていても、海は匂い、聞こえ、届いて来る。懐に見え、感じる事が出来る。……さっきから、何げなく、私の様子を覗いている、いつかの……崖下? の、母想いの少女の、白く美しい顔だちが……私の中の……かつての少年とオーバーラップして、久しぶりに心像に現れた。


『どうして泣いているの?……』


 雨が、強くなって来た。寒声かんせいしか耳に届いて来ない。

「コンビニへ寄って行こうか?」

 私は提案した。

「うん」

 駅を左に見つつ、このまま真っすぐ踏切を渡り、突き当たりにある、その店へ入った。数人の先客がおり、暖房に、ほっとひと息。私が、透明のビニール傘を二本手に取ると、

「私が払う……」

「いえいえ、それには及ばない」

 少女の如き君を制して、レジで会計をする私の隣りのレジで、温かいコーヒーふたつをカウンターに置き、私の目を見て相好を崩す、白い顔。短かい時間で退店し、買ったばかりの二本の傘を、左右それぞれ同時に開くと、横から、缶コーヒーの甘い香りがし入って来た。

「どう、ぞ! 傘、ありがとう」

「いやあ、ありがとう、ごちそう様」

 揃って店先で飲みながら、はぐれそうな笑顔をがさない、温かな湯気が、呼気を元気づけて一層、互いの顔を白くう。

「今日は、どうもありがとう、なるべく早く返事します」

「ぅん、お願いします……」

 傘に落ちる、雨の内緒話だった。

 並んで、コーヒーを飲みながら、稲村ガ崎郵便局の方へ東に向かう。岬への一本道に戻りたい。私は、まだ、君のそれに知らないふりをしている。その道は帰り道、さっき来た道だ。君は、それをよく知らない……同じ道を帰れば、家に戻れる事を……。そして、いつも崖の上から君を眺めている、私の家がある事を……私が……君を、好きだという事を……子供の頃から、忘れられなかったという事を……。

 郵便局の北の並びの角、十一人塚じゅういちにんづかまでやって来た。ここは、その道……立ち止まり、私は、

「家、この先なんだ……」

 この角から、極楽寺川沿いに分け入る小径へ曲がりたい意思を、目線で告げた。心の中で、もう君には上がらない頭を、それでも何度も下げるしかない私であった。

「そうなんだぁ……」


「……」


 先刻の君の無言は、帰り際に、自分がこうなる事を、予期出来たから……君の気持ちが、よくわかったのだ。女性がうちに秘め、言えない想いを、いたわるひと言よりも優しく、言わずとも、わかってくれる風情を供する、色で押さない、形を起こさない、されど立体を彷彿とさせる、雨だけが……ふたりを見ていた。街の寒色かんしょくは、拒み弾く訳ではない、虚静恬淡きょせいてんたんとした、受容体質の色合いで、問われれば答え、まだ早い寒雨寒林かんうかんりんを以て、里心を教えてくれる。多くを語りたくはない、私達。ならば、それも、いい。それで、いい。


「今日はありがとう、じゃあ陽彦さん、ここで……またね……」

「うん、じゃあ、気をつけて……」


 傘に委ねた紺のコートの背中が、甘い香りにつき添われ、雨を纏って北へ帰っていった。その風は、海から回った疲れに、北の向かい風の合流を受け容れ、微弱な姿となって、ただ、風の泉への道を辿ってゆく。凪まりを求め、帰る風を、私は見ていた。いつまでも、見ていた。小さくなるばかりの空気が、見えていた。君は、そういう形をしていた。初めて、見た。

 ……確かに、この小径をゆけば……再び、いつもの一本道へも出られる。少し回り道をすれば、帰れる。生半可な自分を、わらっているようにも感じられる雨が、妙に……違う事を言い出した。今現在の私の最大関心事、もう何度もフラッシュバックする、


『It's not too late……』


 そして、


『どうして泣いているの?……』


 私は、泣いてばかりではない。もし、君が寂しいなら、本当は泣きたいなら、君と共に風となり、君の元に吹く事だって出来るのだ……と、このままでは終わらせはしまい……と、言える。同じ言葉で、霏霏ひひとして、慰めもしよう。涔々しんしんと、埋めもしよう。つい先程の、初めて呈した、君の〝?〟にしろ。しあわせを創るべく、健闘している人へ、天は時を恵むだろう。健やかなるを約束し、永き旅路を守る心を、気配となって、日々の暮らしにちりばめるだろう。応える人は、守られている意識の種をき、愛する人を守りたくなる芽が生まれ、育み、これからの責任という花を咲かせ、覚悟を添え、永遠とわに、歌おうか。

 

 少年の心を、今こそ、君に……風のような、君に……。人をしあわせにする喜びを知った時……全てのネガティヴな感情は、消えてゆく。たとえば……報われないのではなく……それは、違う……そうではない……とする心を受け容れるなら……塊まりは、風のように融けてゆくだろう……気配という、風のような心を、知るだろう……この、グレーの雨空も洗われ、要らない何かが、流れ去ってゆく……。

 一本道に戻る時間を見計らい、飲み切った空き缶を持ったまま、裏路地をゆっくりと逍遥しょうようする私。ひとりになってから、寒さが、違う。五月蝿うるさい雨だった。缶が、もう少し冷たくなったら、いつものあの道へ、出ようと想った。


 ……そういう君の方こそ、自宅は極楽寺のどの辺りか、教えてはくれない。マスター達から、およその事は聞き及んでいるだろう……として、触れて欲しくないように想えてならない。そんな男のひとりよがりが……普段は見せない君の、やはりの老舗の自負の前で、躊躇ためらいながらも、もう一方では、取り引きをするのだった。本当は、君の隣人であるという……本当は子供の頃から、君を知っているという……意気地いくじなしの私の秘密にも、触れないで欲しいと……。


 守られて育ち、守る事を知り、守るべきものを得る。確からしい、その気配を、今はただ、守りたい。前を見る時、嘘は、ない。私に見えるものは……。気づかいばかりが過ぎれば、その頑張りが、このままの場所から、離してはくれないのではないか?……また、自分を、美しく誤解してしまう……このちまたで手を引く、小さな誘惑と、その充足が……目的地を、忘れさせようと……。しかし、それでも、もうこのままでは、いられない。

 君は……もう、家に着いただろうか?……この脇道からは、見えない……。今、君と私の間に流れている時間は、気配そのものだった。そしてそれは、風……。それを、壊そうとしている。本物の、形を成しつつある証左、そのインスピレーションが、私を、このままではいさせないのだ。まだ途上にあり、なり切れておらず、見えにくくわかりづらい〝?〟の存在であった。君自身も、そんな自分に気づいていよう。心の声を聞いている。


 ……わかっているなら、自分自身を変えようと、どうして……正さないのだろう?……。それは私の心の叫び……限りなく、逸れる事なく、私達ふたりをなぞる、贖罪しょくざいの想念……。


 こうして私達は、サークルの繋がりの中で、出逢ったのだ。しかし……何れ、その形も滅びゆく。さすれば再び、気配に戻ってしまう。あったものが、あったかのような痕跡を遺す、懐かしい風となって……


 私は、君に、一抹のはかなさを禁じ得なかった。

 にも……美しき誤解という……直観intuiteの一閃に、おそれを感じた。

 砕心過剰なる慢心は、まず、運動不足に陥っていたのだろう。部屋に籠もり、机にかじりついてばかりいる生活が、悪習に染めたのだ。元々、走る事が得意で、好きな私。そうしていれば、頭も回転し、嘲笑おかしなプライドにいきるまでもなかったと、考えられた。今という時代に溺れるままに。惰性をあざむき続けるままに。後回しの、その後先に、蓋を閉じたまま。幻のような自惚うぬぼれのリバウンドは、予測をも奪い、限界を超える。

 己の非を認めた時、その個体に、細胞分裂なる変化が生まれ、増殖発展が始まる。腰は折れ、笑顔で頭も下がり、謙虚たるを得られる。責任を自ら放棄していた、昔。それは、孤独を受け容れざるを得ない事を意味していた。今に至り、そこから合理的な決断に復する覚悟が、胸裡に灯っている。そうではない場所と知りつつ、そのこだわりが巣食う惰弱な道筋を、壊しては逃れゆこうとする人は……誰?……無言を貫く誰かが、ネガティヴな言葉を躍らせ、オウンゴールを引き寄せてから、免罪符を壊すかのように……。


 白姫しらひめは、冬隣ふゆどなりを待っていたのだ。雨の中、月曜の隣りの、日曜なのに。

 













 


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