音の無い滝
夏は過ぎ、秋の入口。自然豊かな鎌倉は、季節の移ろいも劇的に知らせる。昼下がりの自宅で、漫然としている私に、社会とは隔たり、想像的発展を賭けた秋は、夏の匂いを吸い込んでいた。崩壊からの転換の素ぶりで、
私の中で、それは昔から浴びせていた、自傷が、少年に、価値を与えようとしている。そう想えてならない、秋が来ていた。愛とその価値観が、この歳になって、ようやく結びついたのだ。人の価値を探したい、見つけたい、転換の季節が愛おしい。悲しみと寂しさが、ユーティリティーを含んで、人々に囁いている。決して
これから、いつもの裏駅のスーパーへ、買い物に行きたい。そう想いつつ、自然と、崖下の依津子さんの家に、視程の焦点が先鋭化してしまう。花火の夜から……ひと月半。絵里子さんの体に
淀むようで淀むまでもなく、私は軽装のまま家を出ると、空気の風合いは、私の心の流路を、
険し坂を
今更。
もう、依津子さんには、何を言っても……
彼女のひと言が、どうしても私の……
It's too late……
を引き寄せ、
It's not too late……
を……彼女と私の底流を、壊さんと、声を荒げる。私を苦しめる。自縄自縛の痛みが、私の心像に食い込んでゆくのだ。永い坂道の往ったり来たりが、家の出
見えて来た由比ヶ浜の、
秋の到来と共に、街並みも、ふと、変わっていったように想えてならない。大仏様の
心配要らない……
と、心の中で呟いていた。去りゆく影を、追いたくもあり、追えばまた、離れそうな想念が、私の記憶世界で、常に、隔たりの平行移動の均衡を探して、
秋日和の円やかさに、五体は
……さらりと買い物を済ませ、車に荷物を置いてから、GEORGE HAMPTON へ向かっていた。秋の観光シーズンには早いものの、人影は充分に膨らんでいる。常に変わらぬ、ちょうどいい熱気は、あまり動こうとはしなくとも、安心が溢れていた。一度来たら、また来たくなる、難しくない懐かしさが、誘いの手を、いやみなく差しのべている。何もかも、平々凡々とした顔ばせが、少し、嬉しい。砕けた男達の、遠慮しない繊細な視線に触れ、明かさぬようで、
マスターは、
ゆっくり歩いているのは、近い
あっ、……
無音の問題提起が、ゆくほどに、私へ、通り
誰だろう?……
顔から視線を外し合わないふたりから、私は外れるように、店の前に来ていた。いつもの空気を求めて、ドアを
別居中の奥さんだな……。
「おぅ! いらっしゃい」
頼りない私の、
「こ、こんにちは」
もちろん、誰かに告げるつもりはない。やっと最近、男女の機微を吞み込めたばかりの、当事者の責任を、軽んじたくなかった。
「ははん、青年は、もう秋の黄昏れ?」
「いやいや、そんなんじゃないですよ」
「なら、いいけど」
たとえ家族でも、今日初めてその人を見た時の顔色は、見た人を、忽ちその色に染めもしよう流れを、共に、遮るようだ。今日も休憩時間中。厚かましくて申し訳ないが、買い物の度に、顔を出すようになっていた。そんな無礼を、マスターと正樹君は、いつも粋に許して、甘ったれの私を受け容れてくれる。自宅に次ぐ、居心地のいい逃げ場所になっていた。
「
「そんな気分だ」
「ヘヘ……」
私は、あるテーブル席に座った。ここに来るだけで、追うものへの憧れが、確かに、その気分になる。回復したかの安堵に浸れる。しかし半分、そこまでだ。帰ればまた、今の所ゆっくりではあるものの、もう半分を占めるものに、
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます」
甘い湯気が、早速喋り出した。途切れないように、マスターはそのまま対座した。
「イッちゃんもエリちゃんも、例の如く、あまり来ないわ」
「はあ」
それは、いつもの話だ。私への連絡も、あまりない。あったらあったで、近況報告やら情報交換やらに終始する、何でもない内容で、突っ込まない。余程忙しいのだろう。
私は、
「女性は大変ですから」
「だよな」
「……マスターはご存じだと想うけど、依津子さん……今更っていう言葉が、大嫌いですよね」
「ああ、知ってる」
果たして、私の本気の訪れは、今年のこの秋のように早かった。
「僕も、それを消したくて
マスターは、顔の
「……僕は……そうではないかも知れない、別の何かで……自分の空白を埋めてしまった……これから、どうしようかと考えているんです……」
「フィットしたんだ」
「はい。でも、よくわからない……」
「……」
「……」
「あのな」
「はい」
「実は正樹も、そうなんだ……今、大事な局面で、まだわからない……同じだよ……」
「……」
私の中で、店先の密談が繋がった。父の顔を深めて、
「ひとつの大きなものに、一気に吞み込ませようと……」
「ぅぅん」
私は、俄かに自分の絵が彷彿とした。ふたつの影に共通する、家への想いと、そして、私との関係の遮蔽物たる、男のインシャラン……。相関図を難しくしている、自分を浮かべていた。
「陽彦君。……あの……まあ……人と人は、求め合うものが同じなら、出逢うよ。それを求められる人だと感じれば、その人の中に、探す。みな、それぞれ、大同小異。意見と意見の隙間を、埋められる可能性を、生まれ持っている愛は、察知する。やっぱり、世の中全てにおいて、共同作業っていうのは、理屈だよ。それを心を尽くして、屁理屈にならないように、料理してみるんだ。お付き合いも、人としての成長も、
「はい……」
ご多聞に漏れず、マスターは期待通り。私の、言うに言えない明々白々を、汲んでくれた。絵が融け出すかの想いに、怖さもまた、
「……ベストな自分から、買ってもらえる自分、自然にフィットする自分、そして、シンプルな自分へ……特に恋愛は、そう、流れるよ。人間だから、その道のりで必ずバランスを崩す。まず、出逢いだ。察知したとしても、求められそうもない事だってある、わかるだろ?」
「ええ」
「その時、どうする?」
「求めさせようとするか? 諦めるか?」
「うん。たとえば、その人が顔見知りで、挨拶程度の言葉が交わせる関係なら……きっかけを求めるよね、探すよね」
「……」
「何等かのそれに応えたとして、応えさせたとして、そこから、自分のベストとの葛藤が始まる。売り込もうと、買わせようと、受け容れさせようと……と同時に、その人を受け容れるべく、自分にフィットさせてみる」
「ううん」
「でも結局、整合性から大きくはみ出し、矛盾が受け容れ難くなった時、
「……」
「探り合い共有した時間の、長い短かいにかかわらず、ほんのきっかけの
「……う、うん」
「今、フィットしているように見えるよ……」
「えっ?!」
「フフフ……
「はあ……」
たぶんマスターは、大体……見通している。私の言葉は、依津子さんの口癖の意味が、既に私自身へ向けられ、矢の如く刺さって変貌するほどの、行状の告白である事を。三つの壁のジレンマに、でも、ひとつに決められない、それぞれが離れられないと考えている、私の焦燥、そして、切なさを。だからこうして、超えられもしようヒントを、いつものようにマスターらしく味つけして、語ったのだ。私は、自分で未練を深めてしまった。大ベテランの
……そして、正樹君が帰って来た。
「やあ、いらっしゃい! 来てたんだぁ」
「うん」
「ちょっと忙しくてねえ」
「大変だね」
「いえいえ」
普段と変わらない、私にしても馴れっこのキャッチボールの、投げ手と受け手の素早い交代劇を、やや前のめりで見ているかの、マスターと私であった。まあ、イレギュラーな彼ではない。それがどっちにしろ、関心は関心を喚ぶのだった。そして私もマスターのように、心配へと馳せてゆく自分を感じていた。あの真剣な表情が、目に焼きついている。自分の事のように想えて。そしてこの、正樹君の明るい笑顔にも応える、私は、痛かった。マスターも、心憂いだろう。
「一年も、煮詰まってゆくよなあ……すぐにやって来る錦秋は、その色だな」
マスターは、少し、寂しそう。
「ううん」
若手は
「……この、今の為にある秋は……先の為にある自分を……探しているんだろうなぁ。気づいているんだ。今という時に、埋没しがちな自分に。今の頑張りと先の頑張りを、見極めるべく、季節の色合いは、錦の如き綾を織って、悩ましい……」
私は、目の自然な微動が、一瞬、止まった。はっきりそれとわかる視界に、正樹君の、
私も正樹君も、考えている。彼にしても、たぶん、失礼を承知で言えば、先駆ける自分のひとりよがりが、自分だけを満たすばかりで……マスターの言う通り、私も、同じなのだ……。
そして夫婦関係は、まるで反抗するみたいに、空白を
挫折の隣りにある、希望、生。
夢のそばにある、挫折、失敗。
互いの陰に隠れ、ひとつの時間は、時代は、次に、相対する時を見せて来る。対極同士で転がるのだ。ともすれば、その証左の、夢と不安……相半ばする想念に、拠り所を求めてしまうのだ。私はそれが、
わからない……
わからなくなっていた。
私は、死を想い浮かべるほど、
決める事に、煩悶しているのだろうか?
確かに、期するものが、ある覚悟が、あった。
死をも乗り超えんばかりの、それに、逸脱するかの、賭けかも知れない。
絵里子さんの中に、今を、そして、依津子さんの中に、先を、見ているような、気が、するのだ。
今更、憎しみや嫉妬を求めた所で、その先に息づく何ものかに、光はこぼれ、風は、そよいでいるだろうか?
……そういった一日が、また巡り、次から次へと、けれど肩を
私は、鎌倉に来て、約二十年ぶりの出来事……私を知る由もない依津子さんと、一方的な再会を果たした時の、切通の
そして、秋容
私は、窓硝子越しに、絵里子さんの、
外を眺めていた私は……居ても立ってもいられず、急いで外へ押し出された。
「……ハアァァ、着いたぁ!……」
「いらっしゃい、お待ちしてました」
「本当っ! この坂はきついねえ〜!! 切通から、ずうぅっと登りっ
「いやいや、僕も馴れたよ。確かに、難儀な条件下にはあるね。でもさ、この眺めが……」
私の、ついと放ってのびるに任せた遥かな視線に、彼女は、語らせるまでもない。ふり返るその目の端から、
「ああぁぁ……」
満つる光矢は一瞬で両の
「このまま、ずっと眺めていたいね……」
「うん」
「鎌倉だぁ……」
「うん」
初めて我が家を訪れた人とは、誰からともなく、決まって、こんな会話のひと時が永い。声の
私は、この街での生活全てにおいて、あの岬に至らざるはない理由があるように、想えてならない。惹かれる、魅せられる運命を、見つけてしまったように想えて、ならないのだ。秋の夜長に眠れぬ心と体が、切ない。寂しさがどこまでも融けて、私という存在が、消えてなくなりそうな夢を、最近よく見る。怖い夢ではない。されど、悲しみに目覚める朝が、決まって訪れる。鎌倉に来て初めて知ったひとりの朝は、海も、空も、そして時間さえ、私の悲しみが染める事から始まるのだ。私は、時を壊している。畳みかけなくても、壊しているのだ。
「ねえ……」
と、彼女。
「いつも、ここから何を見ているの?」
「うん……」
……大体、君と同じじゃないかな?
わかるだろう?……
もしかしたら、こうしてふたり並んでいるのに、ひとりの時間をもう少し……あともう少しだけ……求めていたのだろうか?……私は、恋をするには不似合いな、遠い昔に迷い込んでいった。こぼれる光は、絵里子さんの輪郭を
「……」
私は、悔しさを見ていた。それは、しあわせを求めていた。求めれば目指す所を見つめ、
されば、今という時に集う
そこに坂道があるなら、通るしかないなら……登るとも
……私達は、気がつけば気づかぬふりも、最早自然に、家の中へ入り、互いを、求め合った。
畳みかけるように、肉体の現実感を標榜し、それぞれの夢をも砕かん情念の下、この今の時間は壊れた。そうはしなくても、それが出来るはずの心に対する、ジェラシーが襲いかかり、心を裏切ろうとする love and hate が、際限なく入れ替わるように、肉体は躍った。制する者と制される者、愛する者と愛される者。妖しいコントロールは、既にそれを破壊し、衝動の頂きに、シビライズされた行動を見たかの、歓悦の
時に、先の頑張りが見えない、見ようとしない今があるなら、惰性に
もっと自分を問い詰め、追い込まなくては……
でも、ただ……
こんなにも抱き寄せ、掴み、離したくなかった私達だった。互いの体の熱い力が、それを想い知らざるを許さない。……怖かった……怖かったのだ……。求めるほど、奪おうとするほど、ひとりひとり離れゆく魂の陰影は濃く、心ここにあらぬ事は隠しようがなく、暗黙の肉体の
絵里子さんだって……
自分のゆく先を求めるリーダーシップを、今こそ自分が執るべくして執り、復活するのだ……。国家と国民が、時に折り合わないように、すれ違う心と体があれば、私は、天国など要らないと、
喜びを分かち合えない人の不幸を、私なら、分かち合える。今の私に出来る精一杯の愛が、見過ごさずには置かない。誰かがやるのを待つまでもなく、私は、やる。私だって、同じなのだから。何もせず、何も考えず、動かす訳でもなく、どうにもならなくなった私なのだ。このままでは?……と……予感した、あの時……あの場所から……始まっていた、オウンゴール……。今、ふり返れば、後ろ向きのシュートを打つ、誰かの影が、遠く揺れていた。それは、執拗なまでにつき纏う、日々の暮らしの大元の影。
秋深き、それから、惜しむ頃のある日曜日、私は、何はさて置き、崖下の高見家を窓越しに見ていた。依津子さんから、久しぶりに誘いの LINE が来た。今、その約束の時間を控えている。休日で在宅であろう彼女の外出を、いつになく注視している私だった。前の山の向こう側、
今日は無風に近いのではないか。立ち枯れ知らぬ
緻密な思考、もしくは、大胆な行動。何れかを満たす事が、現実をとらえた、愛する人を守る為の、しあわせの動線……。
この急峻な坂道も、繋いで岬へ至る街の一本道も、そして、追い駆けて来るように登り、逃げるように下る、長い極楽寺坂
『大事な話があるの……』
私は、ここの所、聞いていない、依津子さんの声の弾力が、SNS 経由の、
……話って、どんな大事な話だろう?……彼女のメッセージを受けた拍子にこぼした、あの、決まり事だった、私の無言。〝?〟と同時に、出し抜けに浮かべる連鎖があった。自分の歴史を失くしたい、私の無言……依津子さんは、それを壊すきっかけを、黙り込んではいられない自然体を、促していると、どうしたって、そこに辿り着く。饒舌になってしまう、語り始めようとする自分を、イメージしていたのであった。彼女が私を焚きつけた、後ろ暗い灯と、先を照らす灯。その絶えない風間に煽られ、一緒くたに燃え上がる情念の炎は不規則に、果たして崖下の
真に、覚悟出来る物事との出逢いを感じている私だった。決意の程に、人の一生はかかっていると、強く、想う。ならば今の怠惰と、何れやって来よう、再三の後悔をも嫌うだろう。併せて、目先の自由への誘惑に、負けてばかりの自分の弱さは、目的が定まらない、かつての頑張りの反動であったと、言えるのだ。一大決心を託せる、何ものか……
やや!……眼下に、ネイビーのコートに身を包んだ依津子さんが現れ、険し坂のコンクリートを踏み
私も、出発するべく、グレーのダウンジャケットに袖を通した。……が、谷合いの道をゆく彼女の後ろ影に、
『陽彦さんの家は、鎌倉のどの辺り? うちと結構近い……かな?』
『絵里子さんとは、連絡取ってる?』
今頃になって、怖れていた、依津子さんの、あり
私も外へ出ると、鍵をかける横っ
人影疎らな目抜き通りへ、左に折れた。極楽寺駅の閑散を鵜呑みにした物寂しさは、融け流れるにもせよ、平々と、
『私、風になるんだ……』
ゆくりなくも、過日、GEORGE MAMPTONで、絵里子さんを紹介された、あの時……彼女の、底に眠っていたであろう想いの表白が、
……依津子さん……
君は、風……
本当に、風のように、
いや、風になったんだ。
もう、だいぶ隔たった君を、私は追い駆けている。
見下ろせば、
いつも手が届く場所で息づいているのに、
君は、
こうして離れてゆく。
風に乗り、風となって去ってゆく。
私は、大事な話を携え、帰って来たと想っている。
どこへゆくのだろう。
私を、
どこへ連れてゆくのだろう。
私は、
どこまで追い駆けなければいけないのだろう。
姿の見えない君を、
姿の見えない君にしてしまったのは、
私の
だから……
君は、
風になってしまった。
消えようとしているのか?……
先ゆく彼女は、既に稲村ヶ崎駅前へと右に折れ、この岬への一本道から
私は、風に
あの、絵里子さんの熱い唇を知った、稲村ヶ崎の車中……その時から、なぜか不思議と、道ゆく人がやけによそよそしく感じ、以前より距離を置いて眺める私と他人が見え隠れして、裏面の
駅前を通り過ぎ、彼女の歩みをなぞり、翻って北へ曲がった私の背中に、淡い日の手が
現在はここだけ遺すのみの、浜の砂地に
ゆくほどに見回せば、
『
彼女の話に、たとえ喜べなかったとしても、私は、彼女に失望しない。彼女を非難したりしない。私は、もう、自分ばかりを
自分の頑張りによって得たものを、心から信じたい。そして、信じるべきものは、何もそればかりではない。そこが、分岐点だと想う。後ろを向くか、前を向くか。立ち止まるか、ゆくか。隠すか、放つか。拒絶か、受容か……その果ての、逃げと憩い。
残念ながら、頑張れずに得たものへの過信が、拒絶の種になりがちであろうかと、推察する。世に生じる争いの火種は、概して、ここで絶えないのではないか? 人の意思はどこまでも自由だが、私は、火種を、過剰に表現したくはないと、想えるようになっていた。かつての私の表現は、間違っていた。言うべき事は言えないくせに、言わなくてもいい事は平気で言える、打たれ弱い男だった。せめて、口癖のようにしてはいけなかった。目に見え、音に聞こえし、憎悪と嫉妬の証左に、痕跡に、もう二度と出逢いたくない。不幸の歴史を学ぶ事も、確かに大事ではあろう。しかしそれよりも、その不幸を乗り越え、ゆく先を見つめ、共存共栄して来た歴史を学ぶ事の方が、どれだけ大事で尊いだろう……ひとりで愉しむより、みんなで……今、私は、そう考えるほどに、心強くなってゆく自分を知るのであった。
……暮れゆく
人生を賭けられるものに、出逢いたい。早く、特に男なのだから。出逢わぬうちに、違うものに賭けてしまっているうちに、いつしか……後ろを向きもする。本気で賭けている分だけ、それに気づかなくなる。……本当に賭けられるものに出逢ったなら、それは守るべきもの。そこから創り始める、一生。守りたいなら、わかっているなら、想うばかりではなく、やらねばならない。我れ想えばこそ、我れは、やる。……わかっているのにやらずにいれば……わかっていた、望んではいなかった、
人のみち
今をほろぼし
時ぞ立ち
末こそ断たず
風なむ流るる
それでも、表情は静けさを拵えつつ、私は、ようやく
敷地の北東の隅が見える。近くのベンチから、紺色の
……風は、何を言い出すのやら……冬も間近な
私達は、同じ地点に、それぞれが立ち至った。その道程を想いやりたい笑顔が尚、それぞれ
「陽彦さん、しばらく!」
「やあ、元気?!」
「うん、お陰様でこの通り」
「ハハハ、それはよかった。どう? バイクの方は」
「うん、もうじき卒業出来ると想う」
「じゃあ、卒業検定だけ?」
「うん!」
「へえぇ、優秀だなあ。400 はさぁ、取り回しが大変でしょ?」
「もう、最初っから筋肉痛! でも馴れた」
「ハアァ……やるなぁ……」
「エヘヘ、それほどでもないよ」
「気をつけて頑張ってね」
「うん、ありがとう」
一瞬、眩い光の中に、依津子さんの元気が姿を
……今が……終わりそうな、
……先へ……乗り替わりそうな、
……先の頑張りが、見えるような、
……人生を……創れるのか?
先を見極める、大事な話の予感に、足の
対して依津子さんは、
依津子さんも、ただ黙ったまま、
今、私達は、今のままでも、それだけでしあわせだった。今、その場所に、しあわせがあるなら、それは、今、創ったものではない。今のしあわせは、今、創れない。今、頑張って創っているものがあるなら、それが、気配なのだ。意思と呼べるのは、先の話になる。彼女が言う、大事な話とは、そういう事だろう。合理と決断の、夢で、あったろうか。声の透明感が、空気のように歌う、風の夢で、あったろうか。
「ねえ……」
依津子さんが、何かを砕くように話しかける。
「うん」
「稲村の駅前を曲がって来たんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、幼稚園があるでしょう?」
「知ってる」
「私、そこに通ってたんだぁ……」
「そうなんだ」
「
「えっ?……それは、知らなかった……」
「昭和三十年代の宅地開発で、なくなってしまったけど……」
私は、瞬間、虚を
「私、妹がいて、小さい頃から、ふたりして『見たかったね』って、言ってたの」
「……」
それぞれの器に、届けつ届けられた、実に想いがけない、失われし
……君は、懐かしさを裏切らない、気配という名の、風になったんだ……今の時代に蘇り、
私達ふたりの郷愁は、砂、だった。私の、社会に居場所を求めない、本当は
「その滝は、どんな滝だったの?」
「高さ六メートルぐらいの、砂山があったらしい。水の落ち口が砂だから、音もなく……二段に分かれていたそう」
「へえぇ……海辺だからか……」
「うちの両親も、子供の頃、見てる」
「ううん……」
「それでね、この辺りにも、
「ええっ?! じゃあ、稲村にふたつの滝?」
「うん」
「ハアァ……鎌倉は山だから、滝も幾つか知ってるけど……そうだったんだぁ……全然知らなかった……」
「ちょっぴり残念……」
「ううん……なるほど、そこの山の
「そういう
「うん……ありがとう、勉強になった」
「いいえ……見たかったでしょう?」
「うん」
「ね……」
きっと、依津子さんも本当に、ならば私も、見たかった。出逢いたかった、そして、
「陽彦さん、聞いて……話ってね……」
「……」
君の瞳が濃い。私は、その中へ乗りかかり、泳ぎ出した。賭けに、出た。
「私の会社で……一緒に働いてみない?」
「ええぇっ?!」
私は、急に
「フフフッ……びっくりした?」
甘い
「ああぁぁ……」
一気に虚脱に陥った私の周りを、正直……求める母性と、逃れる母性が、
そして、逃れてゆく、私を求めるようで逃れてゆく……絵里子さんの母性が……その心を宿した肉体が……寂しく、疲れた風情を引きずって、私の
その時……
そよと、想いついたように、風が吹いた。
私達ふたりを慰める、風に変わった。君は、鳩が豆鉄砲を食らったふうであろう、頼りない私を窺う微笑みで、時の猶予を読んでいる。優しい風を、感じる。秋と冬の隙間に
心を慰める、風になった君……
情愛を慰める、花火の如き光の渦流となった、絵里子さん……
疲れただろう?……助けて欲しかっただろう?……助けて欲しいと言う前に、助けて欲しかったに違いない……。私は、何も、ふたりに限った事じゃない、ありとあらゆる場面において、気づいてあげられなかったんだ……わかっていても……そうしなかった、出来なかったんだ……。私自身が招いた、ふたりの
『ひとつの大きなものに、一気に呑み込ませようと……』
その時が来ている。
この機を、とらえなければならない事は、わかっている。賭けるに充分たり得る、いや、あまりにも過分である事も、わかっている。実行出来ずに、手を
私は、それを、よく知っている。わかっている。もう、見たくはない……。
やらずの後悔は、さるにても重く、怒りの飢餓感が、
風も、光さえ届かぬ、むしろ拒むかの、
「依津子さん……」
「ぅん」
「公私共に多忙なのに……どうもありがとう……」
「フフッ、いいえ」
「考えてくれてたの?」
「ぅん……」
ふたりして、仄かな
「陽彦さんは、人当たりが柔らかで、接客業務に向いていると想うの、営業をしていただけあって」
「いやぁ、まぁ……」
「うちへ来て頂けるなら、もちろん製造の分野でも、やる気ひとつで出来ると想うし、みんなとも、うまくやっていける人だと想う。陽彦さんと知り合ってから……実はね、そう、感じていた……」
「ああ……言葉が出て来ないなぁ」
「フフフッ、一度、真剣に考えてみてくれないかなぁ?」
「うん……」
その後が続かない私だった。言葉の呑み
「バイクに乗っているとね……何か、こう、羽根が生えたようで、このまま飛んでゆきたくなるの……何事にも、希望的観測が持てる。陽彦さんも……また、頑張って欲しいな……」
「……」
無言で見守る私の中では、
「私……陽彦さんが好き……だから……」
……
私は、どう返せばいい?……
本当に賭けられる
畳みかけられた訳ではないのに、
畳みかけられたように、
何かが……
壊れてゆく……
時間であるかも知れない、
何かが……。
君は、
時を壊そうとしている……
これからを、創る為に。
私だって、
ずっと前から、
好きだった……。
私の過ちは、自らの非を認めない所に始まる。自分が今している事を、本当にそれでいいのか? 疑うべくもなく、そんな自分に
どうすれば、いいのだろう?……語り語られた、そのあとに……。私達は、はたと、止まったままだった。互いに、何ものかと出逢ったように、そこに見つけたように、言葉さえ邪魔に感じられて、君も、黙っているのだろうか。この静かな喜びは、早々と風に散らされ、どこかへ
融けつ融かされつする、水と砂は、あるいは曖昧で色のない水に
それは……喜びであろうと悲しみであろうと、殊更のような言葉を禁じ、
その対象を、もっと知りたいなら、信じているなら、頑張ってしかるべきと言う他にない。自分自身であっても、愛する誰かであっても、信じられるから、頑張れる。
この、
この里は、さるにても優しい……平和だ……一歩
……しかしながら……答えを出せずにいる、多義的なるものの
『コミュニケーションを、断ち切ってはいけない……』
幼き冬の
私も、君が、好きなんだ……でも、もう、遅いかも知れない……それでも……いいのかい?……。
ゆっくり連なり
年次昇給がない、今の時代。退職金が当てにならない、今の時代。終身雇用だけが理想ではない昨今は、多義的な時代なのだ。土台造りが何より大切、何より望ましい。わかっている、その時期に、守らねばならない立場を選択し、今を楽しみ、今を歌う。それもいい。しあわせなら、いい。さりながら、日々の暮らしに追われるうちに、たまさかの出来事ともゆき逢ううちに、守りの責任は、もし、志半ばの土台から成っていたとしたら……わかってはいた、必然の寂しさを見る事にも、なり易いと想えるのだ。責任は、造りかけの見切り発車から、絵里子さんを
「寒くなって来たね……雨も……」
視線を後ろの山の方へ泳がせながら、私は呟いた。
「うん……雨が、冷たい……」
「妹さんがいるんだ」
「……」
君は、小さくなって
私は、君の無言という態度に、初めて触れたのではないか? 言えない想いなら、よくわかる。私はそれが多いから、余計にわかる。君への生まれたての〝?〟を、愛おしむように、
「帰ろうか……」
「ぅん……」
今のうちに帰れば、傘がなくても大丈夫そうな雨脚は、確かに、冷たい。冬の間際の秋送りは
私達は公園を出ようと、再び稲村の駅前へ向けて歩を起こした。出入口に
ふたり共、幼稚園の案内看板を見つけている。その矢印が指し示す、右へ入る小径を、懐かしそうに
……こんなはずでは……それは、違う。本当は……このままでは……必然のなりゆきは、偶然という
道の先に、江ノ電の踏切が見える。その手前を左へ曲がると、駅前である。上がっている遮断機の向こうに、すぐ、ここからは街並みで見えない、海が、ある。目を閉じて、街のノイズ交じりの雨音の旋律に降られていても、海は匂い、聞こえ、届いて来る。懐に見え、感じる事が出来る。……さっきから、何げなく、私の様子を覗いている、いつかの……崖下? の、母想いの少女の、白く美しい顔だちが……私の中の……かつての少年とオーバーラップして、久しぶりに心像に現れた。
『どうして泣いているの?……』
雨が、強くなって来た。
「コンビニへ寄って行こうか?」
私は提案した。
「うん」
駅を左に見つつ、このまま真っすぐ踏切を渡り、突き当たりにある、その店へ入った。数人の先客がおり、暖房に、ほっとひと息。私が、透明のビニール傘を二本手に取ると、
「私が払う……」
「いえいえ、それには及ばない」
少女の如き君を制して、レジで会計をする私の隣りのレジで、温かいコーヒーふたつをカウンターに置き、私の目を見て相好を崩す、白い顔。短かい時間で退店し、買ったばかりの二本の傘を、左右それぞれ同時に開くと、横から、缶コーヒーの甘い香りが
「どう、ぞ! 傘、ありがとう」
「いやあ、ありがとう、ごちそう様」
揃って店先で飲みながら、はぐれそうな笑顔を
「今日は、どうもありがとう、なるべく早く返事します」
「ぅん、お願いします……」
傘に落ちる、雨の内緒話だった。
並んで、コーヒーを飲みながら、稲村ガ崎郵便局の方へ東に向かう。岬への一本道に戻りたい。私は、まだ、君のそれに知らないふりをしている。その道は帰り道、さっき来た道だ。君は、それをよく知らない……同じ道を帰れば、家に戻れる事を……。そして、いつも崖の上から君を眺めている、私の家がある事を……私が……君を、好きだという事を……子供の頃から、忘れられなかったという事を……。
郵便局の北の並びの角、
「家、この先なんだ……」
この角から、極楽寺川沿いに分け入る小径へ曲がりたい意思を、目線で告げた。心の中で、もう君には上がらない頭を、それでも何度も下げるしかない私であった。
「そうなんだぁ……」
「……」
先刻の君の無言は、帰り際に、自分がこうなる事を、予期出来たから……君の気持ちが、よくわかったのだ。女性が
「今日はありがとう、じゃあ陽彦さん、ここで……またね……」
「うん、じゃあ、気をつけて……」
傘に委ねた紺のコートの背中が、甘い香りにつき添われ、雨を纏って北へ帰っていった。その風は、海から回った疲れに、北の向かい風の合流を受け容れ、微弱な姿となって、ただ、風の泉への道を辿ってゆく。凪
……確かに、この小径をゆけば……再び、いつもの一本道へも出られる。少し回り道をすれば、帰れる。生半可な自分を、
『It's not too late……』
そして、
『どうして泣いているの?……』
私は、泣いてばかりではない。もし、君が寂しいなら、本当は泣きたいなら、君と共に風となり、君の元に吹く事だって出来るのだ……と、このままでは終わらせはしまい……と、言える。同じ言葉で、
少年の心を、今こそ、君に……風のような、君に……。人をしあわせにする喜びを知った時……全てのネガティヴな感情は、消えてゆく。たとえば……報われないのではなく……それは、違う……そうではない……とする心を受け容れるなら……塊まりは、風のように融けてゆくだろう……気配という、風のような心を、知るだろう……この、グレーの雨空も洗われ、要らない何かが、流れ去ってゆく……。
一本道に戻る時間を見計らい、飲み切った空き缶を持ったまま、裏路地をゆっくりと
……そういう君の方こそ、自宅は極楽寺のどの辺りか、教えてはくれない。マスター達から、およその事は聞き及んでいるだろう……として、触れて欲しくないように想えてならない。そんな男のひとりよがりが……普段は見せない君の、やはりの老舗の自負の前で、
守られて育ち、守る事を知り、守るべきものを得る。確からしい、その気配を、今はただ、守りたい。前を見る時、嘘は、ない。私に見えるものは……。気づかいばかりが過ぎれば、その頑張りが、このままの場所から、離してはくれないのではないか?……また、自分を、美しく誤解してしまう……この
君は……もう、家に着いただろうか?……この脇道からは、見えない……。今、君と私の間に流れている時間は、気配そのものだった。そしてそれは、風……。それを、壊そうとしている。本物の、形を成しつつある証左、そのインスピレーションが、私を、このままではいさせないのだ。まだ途上にあり、なり切れておらず、見えにくくわかりづらい〝?〟の存在であった。君自身も、そんな自分に気づいていよう。心の声を聞いている。
……わかっているなら、自分自身を変えようと、どうして……正さないのだろう?……。それは私の心の叫び……限りなく、逸れる事なく、私達ふたりをなぞる、
こうして私達は、サークルの繋がりの中で、出逢ったのだ。しかし……何れ、その形も滅びゆく。さすれば再び、気配に戻ってしまう。あったものが、あったかのような痕跡を遺す、懐かしい風となって……
私は、君に、一抹の
砕心過剰なる慢心は、まず、運動不足に陥っていたのだろう。部屋に籠もり、机に
己の非を認めた時、その個体に、細胞分裂なる変化が生まれ、増殖発展が始まる。腰は折れ、笑顔で頭も下がり、謙虚たるを得られる。責任を自ら放棄していた、昔。それは、孤独を受け容れざるを得ない事を意味していた。今に至り、そこから合理的な決断に復する覚悟が、胸裡に灯っている。そうではない場所と知りつつ、そのこだわりが巣食う惰弱な道筋を、壊しては逃れゆこうとする人は……誰?……無言を貫く誰かが、ネガティヴな言葉を躍らせ、オウンゴールを引き寄せてから、免罪符を壊すかのように……。
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