花火の宵
今年の鎌倉花火の当日。七月下旬のある平日の夕方であった。
今、私は、歩いて絵里子さんの自宅へ向かっている。年に一度、海の
無頓着な昔ではあったにせよ、しあわせな想い出を数えている、絵里子さんと私。であるだけに、果然の今の辛さが
報われない記憶は、燃やした方がいい。満たされたい夢は、刹那で想いを遂げる、夜空に咲く華になっても、いい。美しく鮮やかに、漆黒の空と海に
左へ緩やかにカーブしながら下りる坂に、私の後傾しがちな体の重心は、
私は進む。
時となく、目から鼻へ抜けるような、気づきの風は吹いている。もし、消し難く引きずる想いがあるなら、その風に乗り、自分から変わらなければならないのだ。いつまでもそのままでは、そこに、無駄は生まれる。その風は、いつでも他者から吹いて来る。簡単な事を甘く見て、やらないでいると、難しい人になってしまう。楽な事ばかり選んでいた私に、難しい事は出来ないのだ。諦めが、いつも隣りにある。無駄な頑張りが、近くで見ている。自宅へ向かう急坂の、きつい登り勾配で
海岸通りに出た。夜空から降りる大暗幕の
……マンションエントランス前に到着。この
「はぁい、いらっしゃいませ!」
「吉村です」
「ウフッ、お待ちしてました。次の自動ドアもエレベーターの中のボタンも、オールスルーでどうぞ。廊下の一番奥の部屋ね」
「はい」
他に出入りの人はなかった。その自動ドアが、招くように、いや、誘うようにゆっくり
エレベーターホールに進み、密室への集約を更に導くものは、唯一、エレベーターしかない。にもせよそれさえ慮り、絵里子さんが案内した以上の、開扉の姿勢で待機していた。乗り込むと、自動的に三階の点灯表示に続いて、扉が閉まった。……忽ち
玄関のインターホンを押した。鼻で息をする、逞しくない腹の張り
「はぁい!」
「いらっしゃい……どうぞ入って……」
「う、うん」
互いの怪しまれない高さの声は、
「おじゃまします」
私は中へ入り、刹那、白いトンネルのような明るい廊下の行き止まりまで、目線を投げた。一段上がり、靴を脱ぐ動作を急がせない長い廊下を、ベージュのカーペットの感触も賛成しているようだ。靴を揃えて端に寄せ、訪問客となった私であった。少し離れて見ている彼女と笑顔を合わせると、しどけない
……まだまだ
出来るだけ正直に、
だから正直に、
なりたい……。
それならば、嫉妬や恨みなる毒も消えよう。罪深さからも
私はリビングに通された。……勢い、南を望む大きな窓の全面に、視線の狙いは
私は外を見渡しながら、想わず、
「素晴らしい眺めだね……これが絵里子さんの日常なんだ……」
ふり返ると、すぐそばの大きな格子模様の微動が、真紅の帯の光沢からはみ出したように、逃れの悩ましさを憚らない。浴衣に包んだ女心を、こんな男でも、わかってあげるべきなのだ。
「陽彦さん、お腹
「うん、少し
「大体、仕度が出来てるけど、ちょっと待っててね」
「うん、ありがとう、悪いね……」
「大切なお客様ですから」
「ハハハ」
彼女の釣られ笑顔が、自分の横顔で私の笑いを引き取るように体を翻し、代わりにその後ろ姿を追う、男の想いを置き去りにして、ふわりとキッチンに消えた。浴衣地の紺と白、交互のコントラストが、飛び石伝いに小川を渡る、橋なき橋のように、どっちが
ほんの、ひとりの空気が流れている。数日前から、とにかく事の善悪の概念が、私の天秤を揺らして止まない。絵里子さんという、風の
正直さの意味が、そこにある。絵里子さんだけではなく、依津子さんも、桜井さんも、正樹君も、そしてマスターだって……みんな、もっと正直に生きようとしている。私は、ここ鎌倉へ、正直に生きる為に来たのだ。……想い出す事ばかりの、束の間のひとりだった。諦めない、負けない。
私は、正直な頑張りに気づき、惰性に流されない事を学ぶ目的を、絵里子さんに託している。言い訳でも、こじつけでも、それは私達の申し合わせたかの、同罪の認識がぶら下がっている。
「お待たせしました!」
「あぁぁ、ありがとう……」
「フフフッ」
「あの……これ、お
「どうもありがとう」
私は持って来ていた白ワインを、今頃、彼女に渡した。安価な品だが、海の恵み豊かな土地柄に合わせて、白を選んだ。その予想通りの、海産物が中心の料理の数々を、キッチンワゴンに満載して、押して来た絵里子さんであった。その完成度は、独身男の空想が及ぶ所ではなく、ひとつひとつの量も、山だ。家庭的な一面に、純な女性のなだらかな暮らしが息をしている。鮮度にこだわる人並みが、人に対してもそれを憧れる、余計な遠慮を抜きに表現した日常に想えて、彼女の逞しさが羨ましくなる私だった。
「私、お料理大好きなの」
「凄いなぁ……」
海鮮料理の、時に油を
「さて、始めようか」
絵里子さんは、瞳の煌めきを抑えられない自分を知るように、告げた。
「うん……」
遠慮してばかりの私を手で制した彼女は、ボトルの汗を白い布巾で拭き取り、そのままスクリューキャップに被せてボトルを回し、「シュッ!」 っと
絵里子さんは、ボトルを私へ向けた。グラスのステムを持ち上げて応えた私の、その、スタンダードなボウルに、彼女の掌から、
私達の体に纏わりつく、見えないカーテンの香りを、絵里子さんは口笛を吹くように、
そして、正直者は、鼻だけではなかった……
だから、グラスを掲げ合う私達。
グラス越しに、見つめ合う私達。
「乾杯〜!」
女性の声が、詰め込むような張りをのばして、男性を添わせた。彼女に合わせる、精一杯の私の声は響かず、絵里子さんの落とし物は、まだ漂っている。この部屋に浮遊するもの悉く、
「ハアァ……おいしい! たくさん作ったから、どんどん食べてね」
「うん」
CAVAの軽い口当たりは、食道を通過してゆくほどに湧き上がる、雲のような食欲で、女と男をそっと包み、箸は動かせど、今はまだその手のゆくえを、料理と一緒に呑み込ませる。私の、雲で膨れる腹は、それにしても重たくなかった。浮かれ気分の訪れが、早く回るCAVAの、互いの催促のタイミングを見計らって、グラスへ赴きがちの目に、シルバーの平滑な曲線鏡面は、泡を
「ああ……これ、うまい!」
私は、つい
「フフフ……シラス、たっぷり入ってるでしょ?」
「ううぅん」
「やっぱり、シラスはこの辺の名産だから」
「うん。僕も朝に夕に食べてるよ」
「食事は気をつけてる?」
「一応」
「料理好きって言ってたもんね」
「あまり自慢にもならないけど」
その、手作りのイカ
「ハハハ、まだあるから、そんなに慌てないで」
「……」
……とある寺社に
緩んでいる互いに、言葉が釣り合おうとしていた。口がストレートに求める所、酒と料理ばかりではない時間が、だいぶ
私は、和らげた表情とは裏腹に、いい気になっているのだろう、問いかけてみた。
「ねえ」
「何?」
「ちょっと聞きづらいんだけどさ」
「うん」
若干、声のトーンが堅い守りに入っている。
「あの……実家とは、どうなの? うまくやってる?」
「……」
ふと、俯く彼女。前髪の中の眼差しが、私を鬱陶しがる事への、その先を読んでいるように、瞳を微動させている。
「ごめん、気になってたんだ。……僕さあ、あまりうまくいってないんだ……」
「そうなんだ……」
「せっかく招いてくれたのに、水を差すような事を言って、申し訳ない」
「ううん、大丈夫。いきなり来たなあ?! って想っちゃった」
「ああ……やっぱり、場違いだったな」
「ううん、いいのよ。サークルにいる以上、言うべきなのよ」
「カウンセリングもありがたいけど、こっちの中身の方が具体的だね」
「言行一致ぐらい、難しいものはないわよね」
私は、絵里子さんのグラスにCAVAを注いだ。
……人の、道ゆきを見ている。叶わぬようで完結する、先々を見ている。若い人ならいざ知らず、その果てにあるものに、想いが至らざるはない。もう、若くはないのだ。心と体に
私達は、ただ、CAVAに酔い
「この部屋はね……」
「うん」
互いの目が、やや突っ込んでいる。
「
「……」
「浮き沈みの激しい人でね……長く勤めていた会社を、周囲の制止も聞かないで、辞めてしまった時に、私、
「うん」
口を
「で、まだ小学生だったひとり息子を連れて、小田原へ帰った」
「……」
口は
「女の影もない人だったけど、何の相談もなく、いつも独断専行。……私、息子とふたり、裏切られたと想った……」
力なく伏せた目が、女の溜め息を床に押し延べ、部屋の空気が逃げ出しそうになっている。不意に訪れた空白。すると、その見えない後ろ姿を追うように、
「その後に、離婚成立?」
「そう。家裁の調停に至った訳じゃない。時として、その強引さが幸いする事もあって、脱サラして立ち上げた会社が、急ピッチで発展してね、纏まったお金を手にした。それを背景に、してやったりの皮肉も
「でも、
少々、ムッとした女の表情が、体の崩し具合とのアンバランスに映えた。押しては
「それもそうだけど……それに押し切られて、一緒になったんだけどね……新婚当初は、頼もしく感じてた。素敵だったなあ……。すぐ子供も授かったし。でもね、やがて、いつも息子とふたりで、取り遺されていったの。家族にしてみれば、やっぱり強さばかりじゃ、話半分の価値よ」
「ううん」
「それにさあ……彼が勝手にふる舞ってばかりだから、私だって……。悔しいじゃない?! 顧みてくれないんだもん……。それが、私達が家を出た途端に、急に羽ぶりがよくなっちゃって。その前に、いくらでも何かあったでしょう? ひと言ぐらい……。こんなに成功するとは……想像も出来なかった。もう私、混乱しちゃって、一時、人間不信に陥った。私は自分の事ばかりで、勝手に早まって離婚したくせに、今頃悔むのは、自分の事じゃなくて、彼と、息子の事だらけ……」
「……」
私は、彼女の顔を見れない。その
「でも、彼は、私の自分勝手を許してくれた。『俺のわがままの
「ぅぅぅん」
「息子はね、幼稚園の頃から、『お父さん、僕達の為に……いつもありがとう』 って……。その、笑顔をふり撒く、こんなに
「……」
「本当は、凄く寂しかったと想う。でも我慢して……そんなにいい子にしなくたっていいのに……うっうっううう……ごめんね、お母さんを許して……あなた、許して……」
絵里子さんの頬は、グラスの泡のように報われない、にもせよ
そして、その女の冷たい火は、まだ消えない。
「彼が、私と息子から離れたのではない……。実家の両親に、ほとんど自暴自棄になっていた私から、息子を離されたのでもない……ううっ……いつもそうなの、私、元々、
彼女の、必死に押し殺す
……必然的に、沈黙が意図する所、暫時を
それから、絵里子さんは、肩の動きの上下もなだらかになり、涙も
彼女の懐の波高も、だいぶ
「陽彦さん、ごめんね……取り乱して……」
「い、いいえ、大丈夫?」
「うん。せっかく来てくれたんだから……泣いてばかりじゃ失礼よ。あまり心配しないでね。今夜は、花火の為にお招きしたんだし」
「ありがとう、無理しないで」
「うん……ありがとうね……」
私は、再び会話が成立した事が嬉しい。まず、ほっとひと安心だ。
そうして……夜と、ふたりだけの女と男があった。
夜に寄り添う、まだ始まらない花火と、ふたりを
大人びた夜は、輝く華があろうとなかろうと、生きられようが、微細な私達ふたりの想いは、膨らむばかりの風船が埋めて、互いの距離を保ち、生かされている。今は、CAVAの酔余に任せているが、その泡が弾けるように、夜の華の火で、腫れ上がった切なさを、破裂させたい事は、最初からわかっている。その為にやって来たのだろう? その為に招いたのだろう? さすれば、女と男は、夜に寄り添える……。
「このままじゃいけないのよね……」
「ぅん」
「それを知りながら、僅かの違いの穴を、やり過ごしてばかり」
「〝大した事じゃ〟と〝そのうち何れ〟の甘い放置を、時間の経過が、大した違いの、埋め戻せない穴を掘ったんだ、僕の過去は」
「私だって……。その穴が、いつの間にか、不平等の穴に想えてね、なかなか拭えないの」
「僕もそうだ。やっぱり、過剰な自尊意識が、少しの違いという穴を葬るんだ。教えてくれる事を、放棄するみたいに」
「そうよね。本当、
「ハハハハ……」
笑い合いも返り咲き、手離してしまう罪を慰め合った。私の中に強か象嵌された、さっきから気になって仕方がない、絵里子さんのひと言に、私も……永い間、怯えていたのだ。おそらく、私達ふたりの核にある、
怖い……。
それは、借りのない人を恨むという、矛盾に満ちた感情に対する、私達の正直な意見だろう。不平等の穴を回避する所の、一歩も二歩も
プラトニックではいられないなら、
大人なら、わかるだろう?……
わかるからこそ、それならば、言葉にしづらい事。……子供の事……。コツコツ頑張るにしても、無計画の名残りに、不平等の鬼は
……そして、私達ふたりは、
……ド〜ン!!
ドドン、ドンド〜ン!!
ついに……待ちに待った突然……今年の花火開始の合図が、闇に轟いた。
「始まったね!」
「うん!」
彼女の瞳の光が、俄然の相の嬉々たるが、目から飛び出した。釣られた私に、応答するまでもない、個力の強さが籠もっていた。窓の外へ首をのばす、私達の視程は、いっぺんにあます所なく、遠望へと切り替えられた。
「天気もいいし、よかったね」
「うんうん。本当、何か、蘇って来たなあ……」
私の首も、忙しくなりそうだ。
「懐かしいでしょう?」
「ううん、とても」
弓形の湾の、すぐ外に停泊した台船から打ち上がった、試し打ちのような合図の、白い硝煙が、湾の中空に仄めき、夜空に散ってゆく。痛みが深いほど燃えるような証しの、控えめな爆発音が、私の耳に
グラスを傾ける手が、ふたり、止まった。
互いに発する、書面に
「ねえ……」
「ん?」
「私達、仕事を持っていないんだから……今夜、泊まって行ってよ……」
「ぅ、ぅん……」
……ドーン、ドーン、ドーン……
名物の水中花火の、白い噴水状の光の
白く
爆発音の度に、何かが生まれていた。絵里子さんは、夢見心地の顔を、しなやかに嵌め込まれている。花火の華の仮初めだけではない、何かが、彼女と私を、揺り動かしている。光が、それぞれの体を掴んだ。そうされても、何等
……ドーン!!
ひと際でっ
「打ち上げと水中のコラボだ」
「ううん……」
「水中も、色づいてゆくよね」
「ねえ……寝室で、ベッドの上で観ない?……」
「……」
まだ、火の粉の
一方の、白い
「行こう?……」
「ぅぅん……」
のばしているその手を、本当は制そうとする私の手は戸惑い、宙に翳して 遮るはずが、
隣室のドアを押し開けた彼女と、ふたり、仄暗い部屋へ入った。南向きの窓の風景は、今までとは何等変わりはない。花火の
……手を繋いだまま、窓辺に立つ。
私達の
あれから……再び、彼女と私は、互いを求め合っている。こうして永く、抱き合ったまま、私という外圧は、彼女の記憶細胞の中へ、浸透したいと想っていた。叶わぬ過去が、私を運び届けたくて、
過去の最後に、そのまま遺っていた肉体は、現実を追認した今を鷲掴んでこそ、更に決定事項を取り消す事を放棄した為にも、そのままの心は、そのままでありつつ、新しく生まれ変わるべきなのだろう。……音と光は、そう語り、海をも魅せる……。
誇りたいなら、自身の充実を語ってからの話。それが出来ないなら、黙っていればいいだけの話。それが筋だ。その何れか一方をも満たせない、中途半端な態度が、信頼を失わせた過去を、消す事が出来るのか?……。恨みと嫉妬もそこから生まれ、折々降らせる、いやみと
外に向かえば、華、離れれば、少年少女染みた現実があった。肉体を纏った心が、心を
絵里子さんも私も、それをこの目で見つけた訳ではない。体を被せ合い、外から離れた内なる魂が、それと気づかせないはずもなかった。深く触れ合えば、心の目は
知らん顔が出来るものか! 消し去る事が出来るものか!……音を持たぬ叫びが、華の動乱の
……想い出は、しあわせなら消え易く、もし、そうではないなら……消えては、くれない……今のそばから、離れない……耳元で、そっと囁く。
彼女も、私も、導かれたのではなく、CAVAの酔余に言寄せたくもなく、肉体の末端に至るまで、
「あ、……」
「ん、……」
私の、やや荒っぽい手つきに、彼女は先に音を上げ、
唯一無二の想いを、心の底までも深く……。この部屋に浮かぶ、あの風船を見ている。心の目を外へ移せば、虹色の光輪の華が、宇宙との境界域を飾り立てては駆る。掴み所のない立場に、ぶら下がるように浮揚する、私達のふたつの脳裏体験は、不可分にして異質の成り立ちを持つ。……消さなければいいものと、消えゆくもの……生き続けるものと、果てるもの……途上と、終末……若さと、老い……。両者を橋渡す、何れ成熟期にある事に間違いない。煮詰めるほどに、価値を纏うのだ。彼女と私の前知行動の見つめる所、そこにこそ、ある。まだまだ、たくさん身につけるものがある。今だって、大したもの、身につけてはいないだろう? 格好つけてる場合ではないだろう? 目の前にある、その何かから、目を逸らしてもいいのか? そうして
部屋の明かりは、今宵限りの、多才な人工の光の造形に、自然光の役目を許していた。窓の大きさが、それを保証している。華の雫と雷鳴降り注ぐ、硝子一枚隔てた
……倒れ込むそばから上がった飛沫が、不意に、木洩れ日の面影を映し出す。
彼女の爪が……私を
……一枚の波……一響の声……一点の光……それぞれひとつが時を同じくすれば、同音異体のひとつとなった。そして、三種ならぬ、多種多彩な吸収複合体質に変わり、女と男の脚とて、練り合わせ交錯を止められない。最早、一枚ではなく、一響ではなく、一点ではなく、真白きベッドの底に、融け落ちながら濃度を積み上げていった。
きっと私は、絵里子さんを、真剣に愛し始めているのだろう。彼女の深い爪痕が……痛い。強かな指の圧が、火照りを教えて、掴んで……私の背中を千切っては撫で、また掴み取っては
そういう彼女の目が、弱々しい泣きべそ顔を
愛とは、痛みを与えるものと、気づかされたのかも知れない。傷に伴われるものかも知れない。私の不確かな掌は、まるで、絵里子さんの想いを掘り当てたかのような、
互いが醸す愛のニュアンスは、それぞれのセンシビリティーが看過しない。それだけに、ひとひらの
……遠くを見つめる女の目が、私の目の中に貼りついている。心の声に耳を澄ませば、そこには……こうあるべき自分の姿が……ずっと、このままでいたい自分……愛されたい自分……体で考えた自分と、頭の中で考えた自分……。ふたつの目的意識を
花火の美しさは、愛の痛みのように切なく展がり、故に、忘れられない。痛みは、癒されるべく愛を求め、風となって、果てしなく
過去と現実の狭間で揺れ過ぎたなら、花火の懐かしさは、一足飛びの未来へと酔わせる。夜に咲く華は、かつての夢を叶えた、今よりも新しい自分。もう少し、いい自分。そんな自分を演じても、いいではないか……。頑張って来たつもりの自分が、今、ここにいる。自分なりに考えられる、最善の頑張りを見ているような気がする。人の内部は、離合期を経て新しくなり、そこに、しあわせは、ある。
夜空を彩る華が、私達の先ゆきで輝いている。女と男は、過去を引き戻すように、現実に
息づかいの
そして、熱さに触れたい互いの憶測が、それぞれの
私にしても、焦がれる自分のその手を、今は彼女に先んじるしかなかった。それしか見えない。大きなそれだけで、絵里子さんと私は繋がっている。女の待ち
「ああぁ……」
「ふぅぅ……」
彼女の解放は、私という抑圧を
「あっあぁぁ……」
それは、沈み落ちて、自分の体に埋没してゆく自分を、深く知るように……。
slip de femme ……が、
彼女の、
「あ、……」
嘆き
「……避妊薬、飲んでるから……ねっ……」
過去に自分を釘づけ、錆びてしまった私達ふたりは、こうして同じものを持ち寄り、何かを作ろうとしている。そうなりそうな、何か……今にしてやっと気づいた、机の上で考えた事かも知れない。それでもいい。一個の、ひとりの、たとえば一円の、たったひと言の重さを、大切にする心で作りたいのだ。抑え切れず、私も全裸になった。女と男の香りが、何ひとつ隠さない裸で
そして……
……
「あ、あぁぁっ……」
絵里子さんは、
腹合わせの
かつての私……そうではないと知りつつも、頑張りは頑張り。惰性を信じ、異を
風浪のロアリングは
癒せばいい、癒せばいいのだ……
涙に
そうすれば、いいのだ……
再び、咲く為に、
いつか、咲き誇る為に、
笑顔は、
眠っている。
ふと、
心は移ろう。
それだけで、
物語は動き出す。
今は、
今だけは……
何も、
話さなくて、いい……
彼女も、無傷を探してはいないふうの悦びに、埋め尽くされて膨らんでいる。無傷は癒されずとも、ありふれた喜びに変わっていた。そうして、
……なぜ?……なぜ、今?……おばあちゃんが……前以て連絡もなしに、急に、現れた。……あの、少年だった私に、
もう、私はもう壊れる寸前……
「あっあっあぁぁ……」
花火の宵に、虹の
法悦
そして私と共に頂きで……騰落は折り返し……沈降していった。女と男は、七色の蛍光塗料をぶっかけられた、白塗りの道化師だった。体の上を、観客の拍手のような光が、ただ、通り過ぎてゆく。喝采のそれではないと知るそばから、忽ち
……それから……そこから、絵里子さんは、巻き添えをもらった突然の悲しみに、
……
……
……人ひとり、たったひとり、ひとつ。それは、一円の心。僅か一円の想い。そんな存在を、たかが……とするか、されど……とするか。そこは、しあわせとふしあわせの分かれ道、それぞれの真髄、大元の出発点なのだ。一円を
そんな一円は、真っ先に、想いを言葉に託す。生まれたばかりの赤ちゃんの産声、泣き声のように……物も、金も、人の心にも、一個の、一円の、ひとつの、ひと言の、小さな想いがある。ひとひらの花びらにも、
まず、ひとつ。一方を、一点を決めなければ、他方も側方も、そして前方も、全体さえも、ゆく先は決まらない、見えて来ない。初めから、全部を決められる訳がないのだ。決めずとも、
……絵里子さんと私は、底に溜まった遺りものの体で、ベッドの海を
私は、家族や、故郷、数少ない友達、お世話になった方々の顔……昔のまんまの少年少女に、今以上もっと、心の目を向けたくなっている。隣りで安らぐ絵里子さんの目から、その心がはみ出しそうに見える。きっと、おばあちゃんが、
愛は、癒すべく痛みを探すも、無傷を探さず、悉くを、ありふれた喜びに変えたのだ。私は、昔、教えられたように、しあわせにならなければいけないと、強く、想った。心は燃えても、燃えなかった、湿っていた体に火がつき、燃えたのだ。みんな、共に生きている。生涯忘れ得ぬ、花火の宵となろう。たとえ、そうではなかったとしても、失くせぬ愛は、失くせない。
Don't speak……。
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