花火の宵

 今年の鎌倉花火の当日。七月下旬のある平日の夕方であった。

 今、私は、歩いて絵里子さんの自宅へ向かっている。年に一度、海の空門くうもんを押し開ける、千紫万紅せんしばんこうの物語絵巻を見物する、人や車の流れの渦動を、遠く見下ろす坂にある私だった。極楽寺坂切通きりどおしの、ゆっくりくだるアプローチの長さは、今日のインシデントとアクシデントの隙間に、早々に男絵おとこえを誘いかける。……想い巡らせば、その嬉しい不明瞭が、海上に舞う花火の紫電一閃しでんいっせんを宥めるように、爆音雷鳴をも甘美な旋律にげ替え、一夜の幻は完成するのだ。真夏の夜の夢、豪奢な風物詩は、そこに会する人ひとり遺らず、その懐から激しく強引に言葉を奪うだろう。完膚なきまでに圧される満足が、さぞ心地いいだろう。甘ったるい全会一致の賞嘆の時間へ、私は、坂の上から突っ込もうとしていた。絵里子さんとの先日の出来事以来、彼女にしても生煮え、憶説の域にあるままだろう。不時現象のような夜空の華の下、守るべきものは守るしかないではないか。時ならぬ華は時として咲き、供覧に付す事一心に、人々に唯々諾々いいだくだくを甘受させるのだ。坂ノ下、長谷はせ、由比ガ浜、材木座界隈の、樹木に埋もれる家並みと浜辺ぐるみで光被こうひする所の、金碧輝煌きんぺききこうたるみぎわの夕景が、眼前に展がっている。今朝からの倦怠感は、既に転換が兆している証しだろうか。体が逸早いちはやく反応していた私だった。それでも歩みは遅かった。三十分もあれば、到着するはずである。ショルダーバッグには手土産てみやげを持参している。

 無頓着な昔ではあったにせよ、しあわせな想い出を数えている、絵里子さんと私。であるだけに、果然の今の辛さがかさむ。余燼よじんを集めたような夕照は、燃え遺りの悲しみをうたう。焼けぼっくいは、憧憬を持てあます寡黙な日々に嫌気いやけを蓄え、情火となったのだ。いかれる飢餓、阿修羅の煩悩の如き烈日赫々れつじつかくかくたる、夜闇やいんつんざく七変化の日輪炎上劇……。一年に一度、かかる花火が上がる逢魔おうまが時に、ある。斯様かような花火との逢瀬の時に、ある。女と男の逢着ほうちゃくが、ある。今宵にないものは今更何が? ある。海なる舞台にとって、不足はない。手で握り潰して弾けるような魂の、遥かなる投擲とうてきは、花火師を夜の漁労に駆りたて、幻妖な光る投網とあみを放ち展げるのだ。天気予報も上々の日和を伝え、コンディションも人の出足も問題ない。例年通りの期待が満を溜めている、鎌倉の夏の夜景は、なぜかひと際、暑かった。風もなく、潮の匂いの湿り気が、私の汗に纏わりついて、歩行を急がせない。意地悪な、夕凪である。皮肉な、汗である。待ち切れない想いがみなぎり、花火と共に飛んでゆきたい、同じ顔をした人並みにじる、ひとりだけの私が、一体どれほどこの中にいるだろう。熱にうなされ窒息しそうな宿痾しゅくあの目は、うに始まっている、血道ちみちを上げるそれに、うちなる無音潜航で近づき、どうあっても追い駆けてゆく。

 報われない記憶は、燃やした方がいい。満たされたい夢は、刹那で想いを遂げる、夜空に咲く華になっても、いい。美しく鮮やかに、漆黒の空と海にいだかれ、燃え尽きてしまえば、それでも、いいのだ。夢が見たいだけ、なのだ。一瞬でも……消えてゆこうとも、華は華になり、そして華のままで、果てる、散り失せる。燃焼させてやりたい、そして……さよならを言わせてあげたい、心がある。人は集い、華のような一生を夢見て、たまさか出逢う、ひとりとひとりが、幾つもの、ひとつひとつの、それぞれの出逢いを、暗くて見えない小々波さざなみの気まぐれに託して、しあわせとの邂逅かいこうを、運命のはかりの海に載せるのだ。何人なにびとも、何事も受容されよう海の懐深きを、知りつつ、怖れつつ、諦めつつ、忘れていたふりをして。たまさか想い出したような、その所為せいにして。そこに許しがある、愛があるから、あるのなら……甘えられるのなら、人は……ありっ丈の空気を吸い込んで呼吸して、心は息を吹き返す。その目は動体。今は、ふと立ち止まってはいても、心に従う目は、心の先遣たる目は、探し追い上げようとしている。それとなく、つぶさに。……夏という拡散反射の時季。その動作の全ては手練しゅれんの早業に成る。後追いの季節の気持ちなど、考えている暇もない。後づけの言い訳で、辻褄つじつまが合えばいい。秋の憂いを見ていては、何も出来やしない。非情の夏の光は夕刻に収斂しゅうれんされ、それでも秋の安堵をおびき寄せる、漁火ぎょかほむらのように、不如意な夕色の平和が揺れていた。海上に浮かぶ不知火しらぬいの如きは、水中花火の投げ込み船である。

 左へ緩やかにカーブしながら下りる坂に、私の後傾しがちな体の重心は、かかとに生えた根ッ子を引っこ抜くような、小幅な歩調をひとつ踏み出す度に、後ろに引かれるものがあった。昼間の光をも遮るほどの、鬱蒼うっそうとした森陰もりかげの手が、私の背中に触れて、語りかけて来る。夜闇やいんに頼み込んだ不料簡ふりょうけんな暗がりが、脚下照顧きゃっかしょうこを諭す手に想える、わかってはいる私だった。成就院じょうじゅいんへ至る、登坂参道の階段のあがり口が、既に無人の閑を守っている。切通きりどおしの往来も、最早、ない。坂ノ下の家並みへ、揉みほぐすみたいに立ち入った。平らな土地に、潮の香がほのぼのと匂っている。人の熱気を孕んだ微風が、余計な質問を面倒臭がる平夷を望んで過ぎていった。

 ほし通りを東進している。いつになく、鎌倉らしい風情が佇まうのを感じるのは、いやが上にも、もうすぐ始まる花火の見物客達の、嬉々と煌めき飛んでゆかんばかりの、瞳の光の翼が、そうさせる。地元の人とはわからぬまでも、この場に居合わせ、今夜の一部始終の目撃を賜われた、急拵えの名誉が沸き、殊更のように鎌倉ぶりを追認するのだった。誰もが愛するこの街の息吹きが、古き昔を今の新たに、一風違った物新しさに書き換えている。時として、私はそう想った。実に久方ぶりの今宵の花火大会は、何をどう見せてくれるのだろうか。古さという斬新は、歴史を踏破した魂が、そのプロセスの成否を越えた首肯性を想起させてこその、学びであった。古さを今にとどめているだけで、新しい価値観を見つけたような感があるのだ。玉石混淆ぎょくせきこんこうのプライド、清濁せいだく併せ呑んだ奥深さが編む、優しい風が、そっと流れて目に見えそうな気がしている。消えがての光に透ける空気が、呼吸するように見えて、風の色の濃さを知る、人気ひとけが集いさざめく。それに準じて笑いも弾けさやぐ。この道の果てに展がる、光を失いかけた相模湾の端が、今日最後の淡い輝きを漏らし、後進へ静かな期待を滲ませていた。

 私は進む。しかと前を向いて、尻上がりに調子づいて進んだ。絵里子さんの家も近い。かつて、立ち止まって迷う事は、格好悪いものとしていた私。そこにある学びを逸した私は、早々に諦め、無駄な頑張りの抽斗ひきだしに、何でもかんでも放り込んでいるうちに、いよいよ立ち止まらざるを得なくなった。行き止まりに進入していた。たとえ疲れてつまずき、立ち止まり滞っていても、そこに学びを見つけなければ、いとも簡単に諦めは徒労に変異して、不動の火成岩塊ともなろう。立ち止まる事へのトラウマが、どうにもならなかった歴史が、私という人間を作ったのだ。そして今、正直、迷う事をじる勢いで、歩を進めている。正直に生きるべく伴う困難が、今にして骨を叩いて響いて来る。反面、立ち止まる事への怖れは、学びの放棄と見され、ここから歯車は狂い始めるのだ。現在に至り今更ながら、ゆくもゆかぬも、ただ怖い。不意に、短気は損気そんきを怖れる風が、帰って来たように吹いている。……ならば……その学びが間違いだとしたら、間違った事を学んでしまっていたとしたら、そこから何が生まれるのだろう。どうすればいいのだろう。わかっている過ちを、過ちにしない事で……救われるのではないか? 間違いだった学びも、何れ、本物との出逢いがあるのでは、ないか?……私は、自分との対話が途切れなかった。正直になろうとしている自分を、尚も圧搾あっさくしてゆく想いだった。夜の色が重なり厚くなるばかりの、時の空のように、今の温度が、ただ上昇の一途にある。絵里子さんだって……きっと……。


 時となく、目から鼻へ抜けるような、気づきの風は吹いている。もし、消し難く引きずる想いがあるなら、その風に乗り、自分から変わらなければならないのだ。いつまでもそのままでは、そこに、無駄は生まれる。その風は、いつでも他者から吹いて来る。簡単な事を甘く見て、やらないでいると、難しい人になってしまう。楽な事ばかり選んでいた私に、難しい事は出来ないのだ。諦めが、いつも隣りにある。無駄な頑張りが、近くで見ている。自宅へ向かう急坂の、きつい登り勾配でつまずき、自ら一気に落剥らくはくした、暗夜のつぶてのような私へ、海に打ち上がる花火の光彩は、私だけでなく全ての人々へ、如何に、何を撃ち込むだろう。忍耐という孤独な作業を、難しい事は苦手な、ひとりの女とひとりの男が、その身に引き受けて久しい。今宵の空の光色こうしょくは、目紛めまぐるしく移ろえど、心中、容易ならざる話である理由に、変わりなど、ない。

 海岸通りに出た。夜空から降りる大暗幕のころもの、袖口から覗かせたような、砂浜でうごめく黒山の人影が、今や遅しと花火の開演を待っている。この時間のみぎわの喧噪は、人口移動の偏りに潮声しおごえは驚き、人の熱気に半ば抑えられている。海も人も、日和見ひよりみ主義の花火の助けが要るとこいねがう。国道百三十四号線の街灯や、今夜だけ特設の灯を頼りに、顔を海上へ向け、おかを忘れた後頭部の、小刻みな上下動の群れが、仄明かりの下、小々波さざなんでいる。人々は海と和し、未だ通行中の車や私へ、早くとどまる事を促す。通りすがりの心もまた、急いてはいるのだ。なぜか今夜は濃い潮の香にまみれつつ、由比ガ浜四丁目信号が見えている。絵里子さんのマンションが、あった。既に私の視程の目的意識は、目端めはしが利く男になろうとして、平静を装うのだった。人知れず、うちなる導火線の点火を、知った。かつて苦しんだ動悸が、私のありのままの強迫に変わり、招かれざる客となった。こんな男でも、これから開く夜の海の華は、微笑んでくれるだろうか。絵里子さんと私の全てを透過するべく、照らすだろうか、包むだろうか。


 ……マンションエントランス前に到着。この狭隘きょうあいな道に、これだけの人が繰り出している様子を、初めて見た。立ち止まっているのは、私ひとりである。人流れにあらがくいの、錆びをじらう弱々しい虚勢が、オートロックの、絵里子さんの部屋番号を入力する所から始まる、今夜の成りゆきの空想に屈したのか、ひとまず、インターバルを求めた。見物客達のさえずりの、怪訝けげんを買うまでもない。薄笑顔を浮かべていれば、それで済む。そして自動ドアを通り、おっとりと献身的な、広々としたホールへ入った。……テンキーパットを、ひとつずつ選択する指先の動きは、滑らかに、三つの数学を探し当て、いつにもまして、その手探りなる行為が待ち遠しかった。柔らかく聡明な明かりの箱庭にいる。その、威張らず、招きとも違う、誘いに乗らせて自らはさして労せぬ趣きの中、インターホンの応答を待った……。呑むほどもない固唾かたずを呑み、塞がるべくもない息を詰めた。大硝子一枚隔てた、道ゆく南下の人塊まりのざわめきは、ここまで届いては来ない。無風空間にあっても、空想に手を焼いていても、動悸が沈んだように、たえな低重心を覚える私であった。それは妖しさで、あったろうか。私というアイデンティティーの、草莽崛起そうもうくっきであったろうか。


「はぁい、いらっしゃいませ!」

「吉村です」

「ウフッ、お待ちしてました。次の自動ドアもエレベーターの中のボタンも、オールスルーでどうぞ。廊下の一番奥の部屋ね」

「はい」

 他に出入りの人はなかった。その自動ドアが、招くように、いや、誘うようにゆっくりいた。靴音への遠慮も吸い込まれる、しずかなアプローチの時間だった。私はふと、心のパートナー初日の、桜井さんのインテーク対応を想い出した。そういえば、あの人は元気にしているだろうか。次回のカウンセリングの予約を保留にしたまま、無沙汰になってしまっでいる。そんな彼女への申し訳なさが、いみじくも、依津子さんまでも連れて来る。絵里子さんを紹介してくれた依津子さんとの、あの、材木座の抱擁が……何とも手の届かない、虚しい触れ合いであったかの顔を作り、絵里子さんの陰で大人しくしている小さい姿が、私の空想世界に滴って来る。そしてそれを、桜井さんが眺めているような気がするのだ。最近の鎌倉での出来事が、はたと、悉く彷彿とする。しかも、女性に纏わるものばかり……。私のアイデンティティーという奴は、リビドーの周辺にあると、いわざるを得ないだろう。由比ヶ浜と材木座海岸が、隣り合うように。首をのばして突き出す、稲村ヶ崎が静観する、鎌倉の海の輪廻還流は果てないように。

 エレベーターホールに進み、密室への集約を更に導くものは、唯一、エレベーターしかない。にもせよそれさえ慮り、絵里子さんが案内した以上の、開扉の姿勢で待機していた。乗り込むと、自動的に三階の点灯表示に続いて、扉が閉まった。……忽ちり上がり、停まり、開け放たれた男の目に、一瞬にして、フロアの他端たたんに至るまで、優然と焦りがないプレゼンスが飛び込んで来た。エレベーターを降り、それでもやはりの一抹の気後きおくれが、足をフロアに貼りつけて、ここでも小休止させる。見回すと、居住者共用空間の大醇たいじゅんの相は、海辺の清爽に中和され、小疵しょうしなくもなき事を告白しているようであった。いやみを感じさせない、締まっているばかりではない締まり具合が、訪れる誰しもを、喜ばせること自然であろうと想えた。歩みが前のめりそうな私の揺らぎをからめ捕る、内廊下の薄いグレーのカーペットを、やっと辿り出す。ゆくほどに、足底がくすぐったい。密閉空間を想わせぶらない、暖色の温容に救われている私だった。鼓動が沈降してゆく感覚が、壁面の最奥を認めたように、終わりの一致に安堵して立ち止まった。ここが301号室、斎藤絵里子さんの部屋である。家ではどんな服を着て、どんな髪型をしているのだろう……。化粧はして?……どんな顔で待っているのだろう……。

 玄関のインターホンを押した。鼻で息をする、逞しくない腹の張りすぼみを見つめても、何も浮かばなくなっている。読みかけの本の未読感は、今のままで一杯一杯だ。

「はぁい!」

 かすかに、玄関ドアの気密性から漏れ出した声を、私のモラリズムが受け流そうと健闘する。寸陰を惜しむ、私だけの仕事だった。……音もなく、ドアがひらいた。仄かに届いて来る斎藤家の香りに、本当は吸い込まれそうな男へ、ずかしくて仕方ない私へ、


「いらっしゃい……どうぞ入って……」

「う、うん」

 互いの怪しまれない高さの声は、たかが自然な小声の挨拶から始まった。絵里子さんの瞳の色温度が、玄関の電球色の暖かさにくつろいで、大玉おおだまに膨れ潤んで招いている。私は瞬間、躊躇たじろいでしまって……。浴衣姿の彼女は、その艶めきを知りつつ持てあまされた、浮遊の妖しさが、あるいは眼差しを満たすも、あるいは小ざっぱりとした締まり心地の、和の装いの均衡に身を包んで、自らの揺らぎを上手に隠している。両のたもとの袋の重さで釣り合う、弥次郎兵衛やじろべえのような、柳顔やなぎがおの日本人形のような、初めて見る絵里子さんの、夢一夜ゆめひとよの半人工的な美しさに、まず以て一敗を喫した。

「おじゃまします」

 私は中へ入り、刹那、白いトンネルのような明るい廊下の行き止まりまで、目線を投げた。一段上がり、靴を脱ぐ動作を急がせない長い廊下を、ベージュのカーペットの感触も賛成しているようだ。靴を揃えて端に寄せ、訪問客となった私であった。少し離れて見ている彼女と笑顔を合わせると、しどけない柳腰やなぎごしを私に遺して奥へ赴く、引きずるような導きのまま、私達は尚、安息の空間へ歩を向けた。空豆そらまめを茹でた香ばしい匂いが、男の懐にも漂い来て、それぞれの日常に納得し合うだろう、今宵の正直者のふたりに、私は、歓迎を惜しまないのだ。絵里子さんの後ろ身の、博多織はかたおりおぼしき赤無地の半幅帯はんはばおびの結び目が、固締かたじまる正絹しょうけん文庫ぶんこを揺らして、大柄な紺白こんしろ市松いちまつ模様の、綿の絞り染めの浴衣地の肌合いに、くすぐったがるようにまた、揺れた。


 ……まだまだずかしい、

 ずかしい。

 出来るだけ正直に、

 だから正直に、

 なりたい……。


 それならば、嫉妬や恨みなる毒も消えよう。罪深さからもき放たれよう。罪は他者と自らに対する破壊の攻め手。他者に差し向ける度、何れその手は大きくなって、こちらに返される。攻めるも攻められるもこちら次第。最初の仕かけは自分の脆弱という毒。自分も気づかぬ自分の罪。言い訳も嘘も嫌みもそしりも、それを必要とするオウンゴールなのだ。正直は強さ。それはいつも峻坂しゅんぱんの如く険しい。一日にして成らず、尋常一様の話でもなく、遠い不断の道のりの、その不可避なるを忘れる意味において、人の世の矛盾は蔓延はびこり、そして忘却の名の下の攻め手の涙の、考えられる限りの所以ゆえんという終結を見せる。どこを向いても毒に塞がれ、何はどうあれ罪でしかない。不文律を解く鍵は、いつだって自分の真実に忠実な、正直さの一本だけである。その想いのままに攻めても攻め切れない時、その想いは矛盾に満ちた仮説に過ぎない。そこに求められるものこそが不可避であり、また転換であり、新たなパラダイムは、この激動期を経て生まれる。想うほどに、そのシンクロニシティーは昂揚こうようして、夢となり、目的ともなる。尚も想えば、シビライズしたような、具現のプランとも出逢う。そこにある頑張りは、ただひたすら、正直なのだ。

 私はリビングに通された。……勢い、南を望む大きな窓の全面に、視線の狙いはかわされて、四方八方に散らばった。さても心地いい招きの海の夜景の暗さが、上向く期待をなだめるように、私達の襟元から、そっと紛れ込んで巡ってゆく。誰も声を発してはいないのに、喚びかけられた絵里子さんの瞳が、まだアルコールの所為せいではなかろうも、微睡まどろんで目の舟形ふながたに座っていった。その同じ想いを形に変えた、足下に展がる、黒の革張りのソファーのフォーメーションが、受容と牽制けんせいなかだちした、弾力性を窺わせて、しっとりと佇んでいる。このモダンな空間を包む明かりは、数個の小さな常夜灯veilleuseが担い、ひとり言のように、間接的に、女と男に淡い光暈こううんを被せてほだすのだ。ここにいる限り、私達のパイロットランプたり得て、その暖かな薄靄うすもやの中に、私はしばし立ち尽くした。……窓の外の、ありとあらゆる営みも、花火の灯光の作動を待ち焦がれ、自らの生命いのちの実感する所を、出来るものなら充実のうちに重ねたいはずだ。一視同仁の見物客達の旅が、出発前のいたたまれなさかして、むずむずと蠢動しゅんどうの我慢が、上からよく見える。みなの求むらくは、自ら光たらんとしても、返照の光にしても、窓の外に、その本源を欲する鎌倉が見えている。

 私は外を見渡しながら、想わず、

「素晴らしい眺めだね……これが絵里子さんの日常なんだ……」

 ふり返ると、すぐそばの大きな格子模様の微動が、真紅の帯の光沢からはみ出したように、逃れの悩ましさを憚らない。浴衣に包んだ女心を、こんな男でも、わかってあげるべきなのだ。ずかしさも同じ。見つめる先も、今……しかと目と目だった。そこからはみ出しようも、ぶれようもない、目と目が合っている。暗い砂浜にひしめく見知らぬ同士は、あまりに近くても、見知らぬ同士。望む所を共にする、他人との距離は、こんなにも、近い。そして私達は、何もかも整った、恵まれた環境に生きている。この部屋の世界観には、その気になれば全てがあり、その気次第で何でも自由に手に入れられる。何の不足がある? どんな距離がある? わかっているなら、そのようにすればいい。わかり切っているなら、確かめるだけだろうに。正直とは、そういうものなのだ。確かめても大丈夫だろう? 確からしいものは、真実、なのだから。

「陽彦さん、お腹いてない?」

「うん、少しいてる」

「大体、仕度が出来てるけど、ちょっと待っててね」

「うん、ありがとう、悪いね……」

「大切なお客様ですから」

「ハハハ」

 彼女の釣られ笑顔が、自分の横顔で私の笑いを引き取るように体を翻し、代わりにその後ろ姿を追う、男の想いを置き去りにして、ふわりとキッチンに消えた。浴衣地の紺と白、交互のコントラストが、飛び石伝いに小川を渡る、橋なき橋のように、どっちがおかか水かも、この際気にしないように、曖昧の中に見つけた、ひとつの潔さを示していた。今、私達の眼前にあるみぎわは河畔ではなく、紛れもなく海であった。海という掴み所のない、計り知れない対象物に付与する曖昧こそが、結論と潔さを橋渡すのだろうか。ならば、曖昧という結論を受け、その決然たる行動が、許されるのだろうか。自暴自棄と自尊意識の狭間にある、人のさがを想像している私だった。

 ほんの、ひとりの空気が流れている。数日前から、とにかく事の善悪の概念が、私の天秤を揺らして止まない。絵里子さんという、風の所為せいだ。こんな男の責任感は、いとも脆弱だろうと想える。悪しき経験は蓄積するものだが、善き経験はそうとばかりは言えない。その、いい例として、健康とお金がある。であるから引き算が先の話、足し算が一番ではない。悪い事はせず、いい事など、そうそうある訳ではない。それがごくごく普通、天秤は大きく揺れない。目的意識の程は、そのまま未来予想図を描き、設計図を作り得る大切な物事の具体性も、それに準ずる。合理もセオリーも、こうした全体像の出来如何いかんと言えるのではないか。実行も、実効にしても、もちろん途中の追加項目も。わかって来る事は、わかったその時に、たとえば転換の必要があるなら、すぐ様そうすべきで、そのタイミングをのがすと、全体が惰性に流されがちになろう。手をこまねいているうちに、時間はどんどん経過して、限りがある事を知るのだ。だから生命いのちは、尊い。時間という生命いのちを宿した、人間である。悪しき蓄積をかばい得るものは、少なくとも、ささやかでも、善き何かである必要を満たし、そして、かばい切れるものではない事を、知るべきだろう。正直とは、そんな所である。小さくても、き心。小さな優しさ、想いやり、親切……そこに嘘をはさむ隙かあろうか。よって、虚しさという傷痕は、致し方なく、遺る。小さな心の器に、大きな嘘は、しまい切れない。小さな嘘が積もり積もって、大きく膨らんでしまったら……

 正直さの意味が、そこにある。絵里子さんだけではなく、依津子さんも、桜井さんも、正樹君も、そしてマスターだって……みんな、もっと正直に生きようとしている。私は、ここ鎌倉へ、正直に生きる為に来たのだ。……想い出す事ばかりの、束の間のひとりだった。諦めない、負けない。一時いっときの迷いにも、それが罪だとしても、罪を、罪のままにしなければいい。目的意識の質は、頑張りの質と、限りなく一致を図ろうとする。それは時として、人により、残念ながら矛盾たらしめよう。喪失、忘却、虚無、ひとすじの孤独の流れが……。マイナスとマイナスを幾ら重ねても、プラス材料に変わるまでは、気が遠くなるほどの時間がかかるだろう。頑張る事に、目的の意味を求める人間達。その時間を、如何にして作ればいい? 人生の質量の問題に、数学は用を成さない。ただ、恨みや嫉妬からは、私の望むものは生まれないだろう事は、わかっている。たとえ叶わなかったとしても、いつか、わかる時が来る。新しい自分に変わる時は、必ずやって来るのだ。正直な頑張りも、虚しさも、残酷な事この上ない、限りある時間の仕業と考える。時間への渇望は、危険を伴う予感を否めない、そんな私は、今もこうして、ひとりで誰かを待っている。早く、ここへ来て欲しい。……あっ、そうそう……彼女に、お土産みやげを渡すのを忘れていた私だった。


 私は、正直な頑張りに気づき、惰性に流されない事を学ぶ目的を、絵里子さんに託している。言い訳でも、こじつけでも、それは私達の申し合わせたかの、同罪の認識がぶら下がっている。一時いっときの迷いは、ふたつの方向への分岐点を、や天秤にかけている。そのまま流れるか、惰性をき止めるか。嘘か、本気か。罪のままか、そのままにしないか。正直さがこんなに震えるのは、嘘ではないのだが。久しぶりの懐かしい感覚が、部屋の明かりに尚も暖められて、夜闇やいんは言葉を奪おうする。言葉を離されてしまった私達の心は、最早、理屈など要らない、裸の女と男になるだけだ。そして、嘘という遊びの関係に雪崩れた時、その心の正直さは、自分の毒で自覚を失くした罪に、やがてうなされえぐられよう先々が、うに夜のとばりの招きのように、私達を見下ろしているのだろう。今、正に、どっちつかずの日和見ひよりみる前哨の段にあるのだった。今宵は、どちらに転ぶか? 私は、無責任なキュリオシティーにむせんだ。……隠したい人が攻めを仕かける問題を、私はよく知っている。社会はそれを許容しようが、矛盾は遺る。ならば私達は、言葉を離されても、むしろ喜びと言えるだろう。自ら遠ざけていた言葉は、やはり、遠くにあるべきなのだ。それを近くに感じたい時、あるいは言葉も輝きを放つだろう。時間というむごい仕打ちに争える、そのひとつの、抑え難いリビドーがあるなら。そして、愛が見えるなら、言葉も、美しくなる。


「お待たせしました!」

「あぁぁ、ありがとう……」

「フフフッ」

「あの……これ、お土産みやげ。忘れちゃってた……」

「どうもありがとう」

 私は持って来ていた白ワインを、今頃、彼女に渡した。安価な品だが、海の恵み豊かな土地柄に合わせて、白を選んだ。その予想通りの、海産物が中心の料理の数々を、キッチンワゴンに満載して、押して来た絵里子さんであった。その完成度は、独身男の空想が及ぶ所ではなく、ひとつひとつの量も、山だ。家庭的な一面に、純な女性のなだらかな暮らしが息をしている。鮮度にこだわる人並みが、人に対してもそれを憧れる、余計な遠慮を抜きに表現した日常に想えて、彼女の逞しさが羨ましくなる私だった。

「私、お料理大好きなの」

「凄いなぁ……」

 海鮮料理の、時に油をくぐらせた数品と絡まった海が、匂って来た。ダイニングテーブルを横目に見ながら、リビングのソファーの、低いテーブルに辿り着いた達成感を語るように、嬉々として一品ずつ並べる彼女。鼻腔を洗う塩の一味爽涼が、今宵の主役を奪わんばかりに飛沫しぶく。言うまでもない、目の満足を差し置いてもいいぐらい、如何にもおいしそうな香りが咲いた。ステンレスのワインクーラーには、黒いボディーのスパークリングワインが二本、氷水の海で汗を掻いて凝立している。そのスペインのCAVAは、たまさか私が持ち込んだ銘柄と同じ、Freixenet Coldon Negro。……絵里子さんは、私の一本を氷海に立てし、お声がかりを待ち侘びる先達に割り込ませた。花火の宵に、弾ける小さな泡もまた、はかない。度数の低いアルコールも、束の間の夢と消える。ほだされ熱ばみ紅塵こうじん舞い散る夜は、泡か塵か、弁えのつかない微粒子に酔いれ、洗われ、打ち棄て去りゆく玉響たまゆらの幻妖界へいざない、秘めたる引き際を飲ませるような、桂花陳酒けいかちんしゅが薫っている。

「さて、始めようか」

 絵里子さんは、瞳の煌めきを抑えられない自分を知るように、告げた。

「うん……」

 遠慮してばかりの私を手で制した彼女は、ボトルの汗を白い布巾で拭き取り、そのままスクリューキャップに被せてボトルを回し、「シュッ!」 っとし黙ってはいない、ガスが抜ける発泡音を笑顔で読んで待った。僅かに噴きこぼれる、泡垂れをあざむくような声に、私達の耳目は集中せざるを得ない。絵里子さんはその騙しに乗るまでもなく、音が止んでから、今度はキャップを回して開栓した。レモンとアルコールの、爽やかな泡の歓迎にはしゃぐかの香りが、海鮮の匂いに上書きするように、部屋中に散らばってゆく。再び木綿布を使って軽く撫ですくい、その端のほつれを内側に隠して畳み、今はテーブルの隅でかしずかせて、こちらも用意を丸め込もうとする。夜はふと、小息こいき交じりにじらい薄らぐみたいだ。酒と人の対話は、その地均じならしも、やはり半分は物、そしてもう半分は紛れもなく、心……に纏わる、たとえ合いの記憶を前後する、旅の土産みやげそのものの感を、人は胃の腑に流し入れるのだろう。形であって形のない心に、酒は、ひしと強く迫って惑わせもしよう。担ぎ担がれ、担ぎたくて担がれたくて、ただ酔いたくて、漂うままに……そして、忘れたいのだ。眠っているうちに、出来る事なら、微笑んでいるうちに……。絵里子さんは、ひとりの夜、たまにこのソファーで飲んでいると聞いている。強くも弱くもないらしく、私もそうだ。そんな酒に、今夜はふたり。そんな酒を、私はぶら下げて来たのだ。……もうじき、花火も上がる……。

 絵里子さんは、ボトルを私へ向けた。グラスのステムを持ち上げて応えた私の、その、スタンダードなボウルに、彼女の掌から、あたかも銀白色の湧水が、清冽な溢流となって注がれゆき、香気芬芬こうきふんぷんささら泡は、ボウルを巡りたい素ぶりを見せるも、それより静かなる埋没を選び、リムまで届くべくもない程合いの、半分量の平和に呑まれて、透明の煌めきは貫いている。その手を止めた彼女。しばし私は、グラスを見つめた。守られた密やかな佳醸かじょうは、薄明的なシルバーの、ひとすじの泡が立ちのぼる息づかいで、今に始まった口福こうふくを約束し、淡麗な味わいを供する引き立て役の任に燃え、光彩満つる所の専らを以て、答礼と致す旨を示しているようだ。たとえば……白いものはより白く、白いままではいられないまでの白さへ、連れてゆくような、酒……。

 私達の体に纏わりつく、見えないカーテンの香りを、絵里子さんは口笛を吹くように、羞恥はにかみながら私へ風を寄越よこす。彼女の鼻も、きっと、私と同じように敏感になっているだろう。清々すがすがしく弾ける、CAVAの香りとじり合う、女と男の石鹸の泡を含ませた体臭の裏で、匂い立つ甘美なその風が、今更、物言わぬ向きに吹いている事に。ふたりでいるのに、寂しさに敗れてしまっている事に。そして、ギリギリである、互いの心にも。これから酔いれるはずの鼻は、尚もセンシティヴにそれらを拾うのだ。鼻の奥まで突っつく、アルコール臭の軽い刺激が、私達にそれを教える痛みを探すも、白いままでいられる無傷を、鼻は、探そうともしない。……私は、絵里子さんのボトルを引き取って、彼女の白い指先がける、グラスのボウルに想いを注いだ。授け合ったものは、認め合ったもの、呑まざるを得ないものなのだ。

 そして、正直者は、鼻だけではなかった……

 だから、グラスを掲げ合う私達。

 グラス越しに、見つめ合う私達。

 夜闇やいんに笑われそうな、私達。

「乾杯〜!」

 女性の声が、詰め込むような張りをのばして、男性を添わせた。彼女に合わせる、精一杯の私の声は響かず、絵里子さんの落とし物は、まだ漂っている。この部屋に浮遊するもの悉く、女風おんなかぜに流されて、行き場を探している空気が走り回る。私という壁に話しかけても、すげなく遮られて来たであろう、他人ひとの声が、今、私の懐で甲走かんばしる。中が作った外壁は、要らないものが一番前、そこから始まる生活の、そんなひと言が、彼女に憑依のりうつるほどの情念を燃やすように、その目にほむらを宿し、何かくれてもいいのに、何かあげてもいいのにと、背中合わせの甘えをちらつかせる。私をもっと見つめようとする絵里子さんは、緩慢に目搏まばたき、こんな男のどこに惹かれたのか、それさえもう想い出せない顔が、しなやかに歪みがちであった。ふたりの視野の広角は、鋭角に。そして、一点に限られ、しかもとどまる時間は、どうしても永く……なりつつあった。目がまるもの、忽ち融けてゆきそうだ。敏感な目を融かすCAVAの術の前に、正直な自分は、どこまで正直でいられるだろうか。目鼻がついたようで、ついていない、ともすれば無節操な時間は、開閉が出来ない、巨大な窓からのオーシャンビューへの奔走ひとつで、この夜と共に、一瞬の思考停止をも拒みそうにない。

「ハアァ……おいしい! たくさん作ったから、どんどん食べてね」

「うん」

 CAVAの軽い口当たりは、食道を通過してゆくほどに湧き上がる、雲のような食欲で、女と男をそっと包み、箸は動かせど、今はまだその手のゆくえを、料理と一緒に呑み込ませる。私の、雲で膨れる腹は、それにしても重たくなかった。浮かれ気分の訪れが、早く回るCAVAの、互いの催促のタイミングを見計らって、グラスへ赴きがちの目に、シルバーの平滑な曲線鏡面は、泡をちりばめ続けている。そのグラスの中に、何が割り込み、また、割り込まれたのか、あえて知ろうともしない、酒と料理と女と男の、混沌たる明日の生活の匂いが浸透している

「ああ……これ、うまい!」

 私は、ついす。

「フフフ……シラス、たっぷり入ってるでしょ?」

「ううぅん」

「やっぱり、シラスはこの辺の名産だから」

「うん。僕も朝に夕に食べてるよ」

「食事は気をつけてる?」

「一応」

「料理好きって言ってたもんね」

「あまり自慢にもならないけど」

 その、手作りのイカ焼売シュウマイを頬張る私の、口の端から、シラスがはみ出してこぼれそうになり、

「ハハハ、まだあるから、そんなに慌てないで」

「……」

 咀嚼そしゃくがこんなに嬉しいのは、私にとって実に新鮮だった。それがこうして、溢れてしまう口の正直さに、味気ない食事ばかりで、家庭的なるものとは縁遠かった男の、今の普通が散見している。おいしいという、ありふれている事の実感を、噛みしめているふたりだった。今の時に、必死のひとりはいない。ただ、今は切り離されていようが、細い糸で繋がって引っ張り、宙に浮かぶものがある。

 ……とある寺社に由縁ゆかりの日にち、そのいちくらいに、同じ数字がつく日にだけ店を開く、縁日で買った、風船……。買ってもらった子供が握りしめている、糸の先に浮かぶ、縁日帰りの想いを膨らませた、あの日の、風船……。もう一方の手は、父や母や兄弟と、温かい手を繋いでいたであろう、遠い記憶……。私だけでなく、きっと絵里子さんも、ふわりと昔を浮かべているだろう。どうしても私は、痛みを探して迷い込んでしまう。そうさせる何かが、風船の中にある。透明ではないその中で、息をしているのはわかる。不明瞭な想いは、CAVAに言寄せてもせずとも、果たして、それであろう。確かに、私達は見つけていたのだ。そして、痛みの次のゆくえさえ、もう、見えている。されば、風船は次なるを待ち侘びて、膨らんでいられる。膨らんだ苦心の意味が、それに報われたがって尚、揺れた。握りしめた糸を引っ張るように、風に流されて、揺れていた。風船も、糸も、そして風も、みな意思のままに、時として恣意しい的に、風に乗って飛び去りたい。あまつさえ風は風に乗り、流離さすらうべく。

 緩んでいる互いに、言葉が釣り合おうとしていた。口がストレートに求める所、酒と料理ばかりではない時間が、だいぶほぐれている。花火の始まりまで、もう少しの間にはさむ、ひと言の煌めきに、窓の外の人だかりが、闊然と明るむようだ。人々を揺り動かす、言葉にならないざわめきが、室内へは届かずとも、その言葉の意味を、私は、絵里子さんだって、絶えない笑顔が告白していた。花火の開始を、その言葉に込めて待っている。遅くても、遅過ぎても、ただ待っていると……風船を膨らませたまま、告白するのであった。笑顔は、見つけたものを拾いたい所以ゆえんの、次なる何か?……。風船の中身が、その言葉にすり替わるには、今はまだ届かなくても、照れ隠しでも、本当の笑顔が相応しい。眼前一面の漆黒たる不覊奔放ふきほんぽうに、その輝きは負けじと羽搏はばたく。

 私は、和らげた表情とは裏腹に、いい気になっているのだろう、問いかけてみた。

「ねえ」

「何?」

「ちょっと聞きづらいんだけどさ」

「うん」

 若干、声のトーンが堅い守りに入っている。

「あの……実家とは、どうなの? うまくやってる?」

「……」

 ふと、俯く彼女。前髪の中の眼差しが、私を鬱陶しがる事への、その先を読んでいるように、瞳を微動させている。ばらける髪を、吐息の所為せいにもしたくないのか、固く締めた蛇口から、今までとは違うひと雫が滴り、空気を吸い込んで、真空状態の中に逃れている。動かない束の間は、何かの前置きかも知れないと、私は、自分のひと言を悔やみ、自分でもやを喚び込んでしまったのだった。

「ごめん、気になってたんだ。……僕さあ、あまりうまくいってないんだ……」

「そうなんだ……」

「せっかく招いてくれたのに、水を差すような事を言って、申し訳ない」

「ううん、大丈夫。いきなり来たなあ?! って想っちゃった」

「ああ……やっぱり、場違いだったな」

「ううん、いいのよ。サークルにいる以上、言うべきなのよ」

「カウンセリングもありがたいけど、こっちの中身の方が具体的だね」

「言行一致ぐらい、難しいものはないわよね」

 私は、絵里子さんのグラスにCAVAを注いだ。相酌あいしゃくしたグラスの泡のぶり返しは、今宵のボウルの舞踏を、再沸騰の熱演よろしく、かすかな破裂の台詞を添えて、私達を魅せる。小さな泡粒達は、どこまでも不成立の宿命さだめを、科白せりふに込めていた。それは、生まれては消え、生まれては嘆き、喜びは消えるも、それでもこれでもまた、生まれづるターンオーバーの、限りなく微弱な、終わりと始まりの間、そのとその一歩手前の、まだ不成立というには早過ぎる、なかなか消えようとはしない姿へのこだわりを、見せているような気がする。そして私は、相変わらずの It's not too late……を、忘れてはいなかった。絵里子さんは、今、言ったばかりの自分の言葉の難しさが、最早潔く、次なる一致の方向を見ている証左の、瞳の光度を弥増いやましている。彼女にしても、消せない想いは一緒のはずだ。消えない姿に傾倒してゆく女の、不成立への道程からの、意地の逸脱を灯していた。

 ……人の、道ゆきを見ている。叶わぬようで完結する、先々を見ている。若い人ならいざ知らず、その果てにあるものに、想いが至らざるはない。もう、若くはないのだ。心と体にみ込んでゆく、酒の術の早い足取りが、いつかの自分の毒のように、袋小路へ迷わせる。そこは……夜だった。尚も深更へ煮詰まりゆく、濃汁のうじゅう滴る世界にこそ、人知を超えた成就があろう事を、見物客達は、今は、考えたくない態度に我が身を置き、酔眼の中へ遁走とんそうしようとしている。そして、CAVAを煽る絵里子さんと私は、やはり……ずるいのだ。花火を愉しもうとするまなこが、行客のそれを凌駕りょうがする、考えたくもない今へ、雪崩れゆく自分を、既に許し合っている。酒に罪を被せる事も、出来るのだ。わからないものは、わからないままで完成とするなら、花火の華も、CAVAの泡も、人の一生も、儚くその身を散らす道ゆきの短かさを、人知れぬ未完成の想いを、一体誰が見ていようか、覚えていようか、語ってくれようか……。人々は、その痛みを探して、癒し合うのだろう。それが美しいとする時、ありふれた喜びに変わるだろう。……愛が横溢する、開演前のひと時である。グラスが、硬いだけでは強くはなれないように、しなやかに輝いている。その、火炎をくぐり抜けて来た硬度が、たとえば火の酒を欲した瞬間、グラスは、フレキシブルな強さを曲線に映し、偶然にこだわらない価値観が、さんたる主張を今の時に響かせ、まだ……止む事を知ろうともしないだろう。


 私達は、ただ、CAVAに酔いれる自分を求めていた。火の酒をたたえたグラスを交わす所、情念も、肉体も、そして花火さえ、刹那、上騰の境界に立ち至ったように、火に触れたなら、後は打ち上がるだけしか、為すべき事はない。錆びかけた釘が蛍を喚び、蛍になったあの日から、ほんの数日。再び巡り来た変成へんじょうの渦流に、意識過剰な私達ふたりの反応もまた、予断を許さない感じがしている。正直な求めには、まず驚きがあってしかるべきなのだ。グラスを傾けるほどに、火照りゆく心と体は、刺激に対してストレートに驚く事で、何かを越えようと企み、ハプニングを待っている。火に油を注ぐ、CAVAの芳醇な香りが途切れない。初めて見る絵里子さんの、カーブが連続する、高速道路を走っているような酔態は、婀娜あだな匂いの発散を、今更憚るでもない彼女の目が、時折、居直り、視線を女の体の凹凸に這わせて、微睡まどろみを深めている。追いつかんとする私は、彼女と歩みを合わせ、遥かに先んじる夜闇やいんに、臣下の礼を執るべく、悩ましさもまた、奥まっていった。私達の吐息は、色を成す湿っぽい微風に変わっていた。

「この部屋はね……」

「うん」

 互いの目が、やや突っ込んでいる。

離婚わかれた前の夫の慰謝料で買ったの」

「……」

「浮き沈みの激しい人でね……長く勤めていた会社を、周囲の制止も聞かないで、辞めてしまった時に、私、別離わかれようって決めたの」

「うん」

 口をひらかず、うなずかず、短かく繋いだ。

「で、まだ小学生だったひとり息子を連れて、小田原へ帰った」

「……」

 口はひらかず、鼻で息を長く抜いた。

「女の影もない人だったけど、何の相談もなく、いつも独断専行。……私、息子とふたり、裏切られたと想った……」

 力なく伏せた目が、女の溜め息を床に押し延べ、部屋の空気が逃げ出しそうになっている。不意に訪れた空白。すると、その見えない後ろ姿を追うように、おもむろに彼女の視線は起き上がり、遠くへ馳せるも、折り返してまた、私に帰った。

「その後に、離婚成立?」

「そう。家裁の調停に至った訳じゃない。時として、その強引さが幸いする事もあって、脱サラして立ち上げた会社が、急ピッチで発展してね、纏まったお金を手にした。それを背景に、してやったりの皮肉もはさんだりしたけど、話し合いはスムーズに運んだ。私達は、慰謝料って呼ぶ事で、自他共に納得させていた。息子の親権は、もちろん私。月々の養育費と併せて、『大枚たいまいはたいた!』って言ってたわ……」

「でも、別離わかれ話と新事業展開を、同時進行させて、言い方は変だけど、一応の決着へ導いたパワーは、凄いね……」

 少々、ムッとした女の表情が、体の崩し具合とのアンバランスに映えた。押しては退く、大人上手おとなじょうずの色香がくゆる絵里子さんには、怒りも、皮肉も、嫉妬さえ、なるほどそれを他へ浴びせるだけの、女の可愛らしさが息吹いていた。

「それもそうだけど……それに押し切られて、一緒になったんだけどね……新婚当初は、頼もしく感じてた。素敵だったなあ……。すぐ子供も授かったし。でもね、やがて、いつも息子とふたりで、取り遺されていったの。家族にしてみれば、やっぱり強さばかりじゃ、話半分の価値よ」

「ううん」

「それにさあ……彼が勝手にふる舞ってばかりだから、私だって……。悔しいじゃない?! 顧みてくれないんだもん……。それが、私達が家を出た途端に、急に羽ぶりがよくなっちゃって。その前に、いくらでも何かあったでしょう? ひと言ぐらい……。こんなに成功するとは……想像も出来なかった。もう私、混乱しちゃって、一時、人間不信に陥った。私は自分の事ばかりで、勝手に早まって離婚したくせに、今頃悔むのは、自分の事じゃなくて、彼と、息子の事だらけ……」

「……」

 私は、彼女の顔を見れない。その嗚咽おえつが、視野を塞いだ。鼻をすする嘆きの息のの、促迫と頻回も、この空間の窒息に、一瞥をくれようとしない。もしかしたら、ここにいる私達ふたりは、この上なく、非情だった、冷酷だった。

「でも、彼は、私の自分勝手を許してくれた。『俺のわがままの所為せいなんだ。俺が悪かったんだ』 って……」

「ぅぅぅん」

「息子はね、幼稚園の頃から、『お父さん、僕達の為に……いつもありがとう』 って……。その、笑顔をふり撒く、こんなにっちゃな息子の心を想うと……うっううぅぅっっ……」

「……」

「本当は、凄く寂しかったと想う。でも我慢して……そんなにいい子にしなくたっていいのに……うっうっううう……ごめんね、お母さんを許して……あなた、許して……」

 絵里子さんの頬は、グラスの泡のように報われない、にもせよしぼるしかない涙の痕が伝い、置き去りにされていった。浮き上がって煌めく川条かわすじを載せた、白い顔が、流れの合流に甘んじざるを得なかった、昔を想い出して委縮し、冷たい川は、それならいっそ、説明のつかない、三次元的な奔流となって際立っている。私が差し出したハンカチで、目元をかばい、せ切れず呑み切れず、咳き込めない息づかいの絡まりに、虚しさのコンセントレーションは、極まりを隠せない。私の男泣きも、この手が触れそうな、ギリギリまで寄り添う河畔で、辛うじて踏みとどまっている。泣き崩れる、濃密な女の涙に吸い取られた、彼女のやつれが、いっぺんに、招いた女が拵えて来たしなを襲い、図らずも、弱々しく変貌した眼差しが、もっと何言かを訴えかけて来る。長い枝垂しだれ髪は、心もとない樹幹の風倒を見限らず、ひたすら迷い揺れている。私は、かつての絵里子さんの過ちが、かつての私自身のそれと、二重の相を成している事に、剰語の余地もなく、慰めの言葉も見つからない。借りを作って来た人を恨めない者同士故の、この、社会に矛盾を投げかけようとしている、今宵の一席に、どっちつかずの、この風船の中身を掴んだ時、確かに、私達ふたりの矛盾は、切り離されるだろう。彼女の揺れ移ろう髪のように、まだ当てのない想いは、そうある限り、止めない恨みや矛盾をやり過ごす、理由のない悲しみに震える。ひとつを選べない、脆弱な女と男は、ただ、悲しい。

 そして、その女の冷たい火は、まだ消えない。

「彼が、私と息子から離れたのではない……。実家の両親に、ほとんど自暴自棄になっていた私から、息子を離されたのでもない……ううっ……いつもそうなの、私、元々、他人ひとの言う事を、あまり聞こうとしない、天邪鬼あまのじゃく。彼とのすれ違いで、ますます、自分の事は自分だけで決める、って、強く想うようになった。でも……独立心と無責任は、両立しない……。もう、遅過ぎるけど……私の方から、心が離れてゆく……私が先に、手離してしまう……いつもそう、すぐ、諦めてしまう……うっうううぅっ……そんな娘でも、孫共々心配する、両親の心がわかるの……あの子は優しくていい子だから、私だけじゃなく、周りの大人達にも気づかいして、大人しく我慢している心を想うと、私、私……もう、辛くて、痛くて、耐えられなかった……どうすればいいのか、わ、わからなくなってしまったの……うぅうぅっ……あの子を、おじいちゃんとおばあちゃんに託して、実家を出る事しか、頭になかった。両親は引き止めてくれたけど、あの子は、『僕、ずっと待ってるから、おかあさん、僕の事、忘れないでね』 って……うぅうぅ……あの子を、棄てた訳じゃないの……うっうっ、あの人も何もかも、棄てた訳じゃないのよ……うぅうぅうううぅぅっっ……苦しかった……怖い……怖いの……」

 彼女の、必死に押し殺す哀泣あいきゅうが、夜闇やいん手繰たぐられる響きの糸を、蜘蛛くもの巣のように展げていった。涙の迸出泉へいしゅつせんの、間歇かんけつ的な放発は尽きず、川面の煌めきは、漸次、上刷りされ、水嵩みずかさは保たれたまま。涙淵るいえん丸ごと、窓の外で、見えない煙霞えんかに変わり、心の底の影に引かれた、紫黒のカーテンとなった。白皙はくせきおもての、啾々しゅうしゅうたる哭岐泣練こくききゅうれんは、今以て寒い海と化している。乾きを知らない、悲しみに満たされ続けるその顔で、更に何を求め、没入したいのだろうか。大いなるひとつに浸る事しか、知らない今宵に……。その水に溺れるという事が、仮に、彼女にとって、いや、私にとっても、至福なるもので、あったなら……。同じ深さの同じ色の糸に紡がれた、私達ふたりと夜の、心であった。絵里子さんの剥き出しの想いは、同じ色の夜に包まれ、同じ深さを極める。重なる心は、それだけに尚、相通じ、ひとつを見つめているように。この世界の全ては、ひとつの、同じ悲しみを見つめている。この世界に集う、誰もが、知っている。


 ……必然的に、沈黙が意図する所、暫時をはかる間合いが流れた。人はくずおれ時は硬直した、皮肉の象嵌ぞうがんを、忘れたふりして誤魔化すべく。私は想う。時として、誰にでもあり得る無責任な言動を、だからといって、過剰に、偶然の事としてとらえるのは危険だ。たとえば、独自尊の価値観は、偶然の操舵に頼ってばかりではいられないはずだ。無責任な言い訳だらけの私ではあるが、そんな事も、頭をかすめていった。


 それから、絵里子さんは、肩の動きの上下もなだらかになり、涙もしまった。ようやく私の方へ向けた顔もまた、私は、久しぶりに見るようで、いつもの薄化粧を直してもいないのに、やけに清々すがすがしく、カタルシスの為せる業をじらっている。互いの涙に初めて触れ、その一部始終の果ての安堵が、空間識を元に戻した。サークルならではの連帯である事は、自明のことわり。さにあらぬ、付加価値というか、副産物というか、誰もが推して知る所の、このままではいけないと知る所の、いつ如何なる時も、私達ふたりして言えば、想いの風船弾けるを……涙の後に描く、慰藉を求める人のスタンダードへ、揃ってそっと、経巡へめぐりたいのであった。そして、今の私にとり、絵里子さんの涙は、依津子さんの涙を、塗り替えてしまったと、感じられる。いつの間にか、彼女の顔の張りが、蘇りつつあるように見える。まだ、風船は膨よかであろうかと、想える。私の場違いなひと言から始まった、ひと頻りは、どうやらふんわり着地したみたいだ。きっと私達の足腰は、想いの外強いのだろう。満更でもないふたりの空気に、やはりの妖しい風が引き返して来た。安心という、目には見えない混迷を見ようとしている、ゆとりを、絵里子さんも私も、悟っているのかも知れない。

 彼女の懐の波高も、だいぶいでいた。酔い覚めの朝のような、まだ張り切れず中弛なかだるんだおもてが、顔に嵌め込まれて、動きを制限している。気怠けだるさが、部屋の床一面に染み展がり、私の足下さえ覗き見ている。私のハンカチを綺麗に畳み直しながら、息を整えているのがわかる。平らにならされて出来上がった、男の粗末な心づかいに、息は穏やかでありたいと、私を優しく見つめて微笑んだ。指先で髪を押さえ、跳ねを撫でつけ、出逢って間もない女の、カジュアルな落ち着きが、復帰を果たしそうだ。ワインクーラーの氷同士が、滑り崩れ合っても笑うような、冗談交じりの衝突音は、彼女を喜ばせたいのだろう。

「陽彦さん、ごめんね……取り乱して……」

「い、いいえ、大丈夫?」

「うん。せっかく来てくれたんだから……泣いてばかりじゃ失礼よ。あまり心配しないでね。今夜は、花火の為にお招きしたんだし」

「ありがとう、無理しないで」

「うん……ありがとうね……」

 私は、再び会話が成立した事が嬉しい。まず、ほっとひと安心だ。

 そうして……夜と、ふたりだけの女と男があった。

 夜に寄り添う、まだ始まらない花火と、ふたりをほだす酒があった。

 大人びた夜は、輝く華があろうとなかろうと、生きられようが、微細な私達ふたりの想いは、膨らむばかりの風船が埋めて、互いの距離を保ち、生かされている。今は、CAVAの酔余に任せているが、その泡が弾けるように、夜の華の火で、腫れ上がった切なさを、破裂させたい事は、最初からわかっている。その為にやって来たのだろう? その為に招いたのだろう? さすれば、女と男は、夜に寄り添える……。

「このままじゃいけないのよね……」

「ぅん」

「それを知りながら、僅かの違いの穴を、やり過ごしてばかり」

「〝大した事じゃ〟と〝そのうち何れ〟の甘い放置を、時間の経過が、大した違いの、埋め戻せない穴を掘ったんだ、僕の過去は」

「私だって……。その穴が、いつの間にか、不平等の穴に想えてね、なかなか拭えないの」

「僕もそうだ。やっぱり、過剰な自尊意識が、少しの違いという穴を葬るんだ。教えてくれる事を、放棄するみたいに」

「そうよね。本当、んなじだ私と!」

「ハハハハ……」

 笑い合いも返り咲き、手離してしまう罪を慰め合った。私の中に強か象嵌された、さっきから気になって仕方がない、絵里子さんのひと言に、私も……永い間、怯えていたのだ。おそらく、私達ふたりの核にある、


 怖い……。


 それは、借りのない人を恨むという、矛盾に満ちた感情に対する、私達の正直な意見だろう。不平等の穴を回避する所の、一歩も二歩も退しりぞき怖れおののいた、自分がいるのだ。そして、今さえよければいい自分から……いつもいいそれぞれに。ずっといいふたりに。ずっといいふたりを、手離したくないなら、手離さなければいいのだ。抱きしめたいなら、抱きしめればいいのだ。罪が罪では、なくなる。もう、怖くは、ない。


 プラトニックではいられないなら、

 大人なら、わかるだろう?……


 わかるからこそ、それならば、言葉にしづらい事。……子供の事……。コツコツ頑張るにしても、無計画の名残りに、不平等の鬼はわらう。私は、親想いの子供の存在が、気がかりだった。父、そして母と、立て続けに別離わかれ、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らして来た、現在高校生の男の子の、両親への想いたるや、如何ばかりか。私は正直、その想像から逃げ腰であった。安易な言葉は悉く散り、はなばなれになってしまった、親子の悲しみの重さに挫折して、それを呑み込むしかなかった。自分を手離した母親を、手離したくないと想う男を、かつて手離され、今、青年に成長した息子が知ったら、母と男をどう想い、何と言うだろう……。また、父親は、息子を引き取る事もなく、どうしているのだろう……。私は怖くて、申し訳なさを、強いて封印してしまった。彼女の消えがての、ひとり息子への罪の意識と一緒に、私の懐を、からめ捕ろうと迫り来る。顔の見えない青年の陰で、女のさがを詫びる母親と、漂泊行の道づれの私へ、青年の、見逃すまいとする憤怒相ふんぬそうたるが、縄を手にして人の業に立ちはだかる。……私は、言葉には、出来ない。睥睨へいげいの両のまなこが、遠い夜空から見下ろしているようにも、感じられる。私達の自由は、遥かなる夜闇やいん深溝高塁しんこうこうるいの下、人の悲しみへ、遥拝を捧げずには置かない宿命さだめを、背負ったのだ。私達は、それぞれ事情は違えど、永年にわたり、自分が作り上げて来た罪が、怖い。罪深さに怯える生活であった。私などは、世の中の悲しいニュースに触れる度、まるで自分がしでかしたような、やましさに近いものがある。それは、私達から被った人の悲しみと、同じ痛みで、そのシュート、リプライにかかわらず、関係する全ての人の環境を、戦慄させて止まないのだ。

 ……そして、私達ふたりは、慚愧ざんきと共にあった。ふと、会話が途切れている。この静けさを、読んでいた。あたかも、嵐の前のそれのように、時をつ時計の、人工の精緻さえ、動きを潜めた音を揃えて、女と男の足下で、わだかまりがちの流れを溜めている。沈みゆく感覚が、私達の意識を占有する。見た所、もう大丈夫そうな絵里子さんの落ち着きが、目で追う静寂の中に探すものは、無念だけではない事を、私は、自分の中にも、認めざるを得ない。込み上げる想いは、罪深さの隣りにもあると、わかっているふたりであった。CAVAに酔うほどに、悉くが迷い奥まるほどに、煮こぼれるものがある、燃えるものがある。酒が焚きつけたか、悔しさの火か、どっちが先か、もう関係ない。全身の火照りを持てあまし、満を持す表情を、共に探り合っていた。隣人の手をふり払った瞳が、そこには、ある。ひとりの女と、ひとりの男が、いる。半分子供で半分大人の心は、半分故に、半分だけしか、まだ、見せてはいなかった。じらいという、隣人の影が、まだ、かすかに見える。絵里子さんも私も、燃やしたいCAVAを、また、煽った。香りが、立ちのぼってゆく……。消えそうで消えないそれを、消してはならないそれを、消したくなかった。


 ……ド〜ン!!

 ドドン、ドンド〜ン!!


 ついに……待ちに待った突然……今年の花火開始の合図が、闇に轟いた。

「始まったね!」

!」

 彼女の瞳の光が、俄然の相の嬉々たるが、目から飛び出した。釣られた私に、応答するまでもない、個力の強さが籠もっていた。窓の外へ首をのばす、私達の視程は、いっぺんにあます所なく、遠望へと切り替えられた。

「天気もいいし、よかったね」

 一時いっとき、首の向きをねじって、私の笑顔を求める絵里子さん。

「うんうん。本当、何か、蘇って来たなあ……」

 私の首も、忙しくなりそうだ。

「懐かしいでしょう?」

「ううん、とても」

 弓形の湾の、すぐ外に停泊した台船から打ち上がった、試し打ちのような合図の、白い硝煙が、湾の中空に仄めき、夜空に散ってゆく。痛みが深いほど燃えるような証しの、控えめな爆発音が、私の耳にこだましている。見物客達のざわめきが、夥しい数の、スマホ画面の揺れの放列で、歓迎を惜しまない。夜に紛れる、白煙の遥かな匂いに、室内からは届かないれったさを、私と、いうまでもなく彼女の耳に、残響は救いの長脚を魅せる。天井桟敷の人群れが、互い違いの動きで袖すり合い、こちらへ、画面の灯を向けてふり返る。ひと息、高い所の物見台ものみだいに遊ぶ当方は、酔歩の宵に、耳目を研ぎ澄ます準備に余念がない。鼻と手触りは、これから束の間、花火の留守居を仰せつけられる。ありっ丈の、行客達の興趣の赴くままに、花開く火輪かりんの、極彩色の世界が展がる。私達の、引き離された想いは、はたと、ないもの強請ねだりの手が、先日の肌合いを恋しがり、隣人の体に、触れそうで……再び、袖すり合いたく、羨ましく、打ち上がる花火に焦がれた。目は、今、嘘をつけない。互いに、そうに違いない。罪深いほどに、情念の火は燃える。もう、違うとは、言わせない。

 グラスを傾ける手が、ふたり、止まった。

 互いに発する、書面にあらわせないメッセージが、ひとつの個体の蓄熱をけしかけ、腫れるような暑さを感じている顔がある。由縁ゆかりのCAVAは、その責を、一夜限りの縁続きの信頼よろしく、花火へと譲り渡し、炎症の厚ぼったい体を、そのままにした。花火が上がる段。息を呑んでいるのは、私達だけではない。もう少しの辛抱の静寂に、待ち人の本音が漏れたとしても、見咎みとがめる人もいない。ましてやここは、砂の上ではない場面なのだ。婀娜あだな酔態に、危うく乗っかっている、女の泣き潤む目が、心の底を、ひとまず言葉ではだけそうに……溢れる吐息にまみれながら……私に体を寄せて、眉頭の緩むそばから、撓垂しなだれ尻細る眉月びげつの想いが……その端を見切りつつある。こぼれそうになっている。どうにも納得出来ない寂しがりの顔で、しぼらせる私の目を、その想いで塞ぐように、見つめて来る。絵里子さんも私も、目が馳せる所、こんなにも真近な、他人と呼ぶ事を忘れている人の目に、ゆき当たる。融け入るべく、見つめ合っているのたろうか。彼女の甘ったるい全部が、私の、固い牛蒡ごぼうのような体を纏った内部を、濃汁こじるになるまで煮詰めんと、白砂糖の科作しなづくりをはらませ、柔らかく、させたいらしく尚、踏み込んで来る。ふたりの焦熱にうなる酔い息のスイッチを、取り替えっこするみたいな、その至近で、絵里子さんの前髪のすだれが、一瞬、掻き分けられた。

「ねえ……」

「ん?」

「私達、仕事を持っていないんだから……今夜、泊まって行ってよ……」

「ぅ、ぅん……」


 ……ドーン、ドーン、ドーン……

 名物の水中花火の、白い噴水状の光の条々すじすじが、天をもかんと球形を描き、一気に立ち上がった……。黒々とした海に、玉響たまゆらの月が、降るように昇った。鋒矢ほうしに突き破られ、逃げのびる海の面体は、方円の陣形譲らぬ小々波さざなみが、照り映えの白銀をこぼしている。扇面せんめんを展げ翳した半月を画す、幾条いくすじもの噴き出しの協奏は、玉泉ぎょくせんの源たる海原に、その永きを問わない。刹那に舞い、咄嗟に散る半球体は、弧を引き撫でるその、それぞれが、自噴のひとすじを燃焼発火させる頂点を、夜空に点描するのか、つままれたかする端から、火の粉の靄山もややまの落葉に果てる、半月の起承転結を語ったのだ。転瞬のうちに、更なるモーメントを求めるが如き、噴泉の月は、飛沫しぶきを上げた。雲もなく、風は、白煙を蹴散らしてとどまらせず、透き通る光の月影の儚さを、邪魔だてしない。砂浜に届く爆発の振動に、行客の閑は覚め、目はみひらき、全身が息吹いているだろう。私達の、限られた目と耳は、それでもやはり、探すべくして探り合い、観劇の一体感をこいねがっている。自分の内部を纏め上げる集合意識は、自尊意識が先走って引っ張り、現実とアンフィットな関係になりつつある。最早、アンフェアなのだ、ずるいのだ。……途端の夢、想わず知らずの出来事である……。

 白くかがよ小々波さざなみに、花火の尺玉を投げ込む一艘の船影が際立ち、さっと滑って逃れゆく。水中爆発までの間合いを計った、その行動の背後でまたひとつ……月は燦然さんぜんと生まれ、そして一葉いちようの如き、生みの母を乗せた小舟は落ち流れ、とはいえ、またひとつ、弟妹ていまいたる泉の月は生まれで、尚々退しりぞきつつもまた、ひとつ……。幾つかの、鳴動飛び散る逐条の、月影飛沫しぶくに任せる序の段にあった。咲いては消え……そうで、隣りで弾け、そばに居たたまれず揃い咲き、重なり合う条々すじすじの、乱立する交歓の付和雷同、直情径行は誰憚らない。母の苦しみは、誕生の、閃耀千条せんようちすじの瀧登りの喜びに姿を変える。それは……数えられない光のすじを、あえて数えるべくもない、数えさせない、膨圧のような想いのひと塊まりとなって、月形をかたどっている。条々すじすじ幾許いくばくなりとも、ひとつとして、同じものはない。同じ月はない。決して、なぞれない。最初で最後の、月光であった。

 爆発音の度に、何かが生まれていた。絵里子さんは、夢見心地の顔を、しなやかに嵌め込まれている。花火の華の仮初めだけではない、何かが、彼女と私を、揺り動かしている。光が、それぞれの体を掴んだ。そうされても、何等いぶかる事もなく、為すがままに身も心も委ねていた。浜の人群れも、円やかな粘性流体のように見えるのは、私の気の所為せいだろうか。彼女のたわわな胸の膨らみを従えた、その目が、戯れではない、心ここへあらぬ方へ……雪崩れそうに、私へ、体ごと倒れそうに……私を、見つめて来た。私も、このひとの目から逃れんとする、自分の目を、叩きのめすみたいに見つめ返した。酔っているのは、CAVAと、花火と、それだけではない何かを、それ以上の何かを、私達ふたりは、言をたない目と目で、まず、うべない合った。


 ……ドーン!!


 ひと際でっい一発が、闇をつんざいて響動どよめき、七色の華の大輪が、永い一瞬、高々と中天を眩耀げんようし、忽ち漆黒に煙滅した。打ち上がった尺玉が一気噴発、枝葉末節にわたって、ゆき届くようにひらいた光華の果てを、円周の縁辺ふちべに揃いとどめた。それぞれの色彩の想いが、儚く消えるにも度が過ぎる。早世に自ら手向ける、供華の光耀たらんとする、生命いのちが瞬いた。美しき花の、色香滴る心が、こぼれる間際まで詰め込まれ、散り失せた悲しみの余燼よじんが、涙の雫のように火の粉を降らせる。刹那に生き、全力を賭け散華さんげする、血脈相承けちみゃくそうじょうの精髄であった。そして、次々に上がる、腹に響く衝撃波に、夜空は割れ、海はなお沸き、地はふるえまくり、時に、風の惶惑こうわくはなはだしく、月と共に、夜の日輪は炯然けいぜんと昇り、ふたつ、三つ……息をすれば忽然と、それはそうなる、無に、なるのだ。先に生まれた者は、後から生まれた者の影に、慕われるそばから、悉くが消える。遺された者は、触れ合えたひと時を喜び、別離わかれの悲しみに暮れるいとまさえなく、喜びに連なるように、すぐ様、悲しみが訪れる。先立つ者へ、されば、後を追う自らへ。もしかしたら、見送る者への惜別は、涙の色も併せて変わろうと、再び、喜ばしい顔も作れる、そんなふうに……消えようか……。全ての生命いのちの営みは、ひとつの、一線上に存在するという宇宙理論の、昊天不忒こうてんふとくを畏怖する、欠かせないそれぞれが、ここにあり、生きているのだ。……そうして私は、

「打ち上げと水中のコラボだ」

「ううん……」

「水中も、色づいてゆくよね」

「ねえ……寝室で、ベッドの上で観ない?……」

「……」

 まだ、火の粉の靄山もややまが、遠くに、はらはらと降っている。その落ち葉のような、紅きひとひらの心の流転無尽が、消える間もなく、残煙諸共もろとも、愛に焦がれた紅雨の乱点が悲しい。現実から隔たろうとしている、いつもそうしがちな、今も自分を見失いつつある、女と男の心を埋めるものは、愛しかない、のだ。アンフィットもアンフェアも、反転しようか。自分を偽りたくない。他人ひとを、偽りたくは、ない。許して欲しいとは言わないが、許しをうだけの日々は、もうたくさんだ。半円と全円の、幻想美術館の順路を巡る今宵紀行は、まだまだ先が、ある。眠れない夜は、永い。私達それぞれの心に、ぽっかり空いた穴は、まだ、蓋をして、隠そうとしているに過ぎない。函蓋かんがい相応せる関係は、それでも、ひと度強かな風が吹こうものなら、蓋は、さらい飛ばされもする。埋まった訳ではない穴を、埋めない限り、蓋という体裁にこだわり続ける限り、私達ふたりは、報われないのだ。……そう、わかっているひとが……すっと立ち上がり、底光りする瞳を、私に潤みかける……

 一方の、白い柔手やわてを差し出し、

「行こう?……」

「ぅぅん……」

 のばしているその手を、本当は制そうとする私の手は戸惑い、宙に翳して 遮るはずが、白皙はくせきからめ手に、たれるように手を繋いだ。とても、温かい。が、流れ出す感触は、とても、鈍い。互いを満たす浸透圧は、外へ押し出すも内へ吸い込むも、まだ動きに精彩を欠き、その手を頼りにしてさえ、私の起立は、中年男の凡庸さから逃げられなかった。同じ内圧のふたりが、今、かくも並び立った。

 隣室のドアを押し開けた彼女と、ふたり、仄暗い部屋へ入った。南向きの窓の風景は、今までとは何等変わりはない。花火の色光しきこうの明滅が、窓辺の思惑を操り、霹靂閃電へきれきせんでんの時間を、しかと刻んでいる。絵里子さんのもう一方の手が……忽ち、私の背中へ回り込むようにのびくねり……ドアを閉めた。照明のスイッチには目もくれない。ひとり寝腐れの、女の生温かい匂いがくゆり、私を襲う。毎朝置き忘れる彼女の想いを、窓際のベッドの白いシーツが、ならばあや成す残映を浮かべ、不確かな反射に、天井は泣き出しそうな風合いをしている。揺蕩たゆたうその、体温の余薫よくんの色相が、寂しさにめ切れない。この十畳ほどの、洋室内奥へ届く光芒は、煌々こうこうたるも矢の如く、寸陰。風の如く、去ってゆく。焚かれたフラッシュの残光は、長居の意思を持たず、ただ、色のついた無数のワンシーンが、目紛めまぐるしいペースで移ろい、私達の目を迷わせる。まぶたの裏に、七色光の点滅が刻印されていった。夏の日射しが透けるような眩惑は、時ならぬ虹を連れて、大いなる何かを、魅せずにはいられないだろう。シーツの白さが、余計なものを省こうと、やけに男の目をつつく。私は、ここまで来たと、感じている。何か、こう、上手く言えないが、現実のエピローグに立ち至ったと、想えてならないのだ。彼女の目も、それと知るように、めくばせしているように、見える……。夏の夜の幻想は、虹と共に、ある。蘇るものが、あった。私達のてらいは、過去と現実の狭間に揉まれ、掻き消されつつある。互いに矛盾を隠し合う、今はまだ、韜晦とうかい行路のり際。賛否両論をぶら下げ、ドアを開けたばかりであった。これから、遥かなる埋没という完結を夢見て、ひとつ、躍ろうか。


 ……手を繋いだまま、窓辺に立つ。かない窓に、ほむら立つ。全身の毛穴がゆるみ、くすぐったさを覚える私。……見つめ合ってはいる。けれど、絵里子さんの瞳の絶えない微動は、私という人間の辺縁を見回すように、それから絞り込むべく、意思よりも恣意しい的に揺らいでいる。顔に浮き上がる髪の生え際のうぶげが、繊条の光沢を頬に誘う。私の目は、それとなく、その下へと導かれて……う。彼女の目も一緒に下りて、ふたつの、小高い溶岩火口丘が、紅く、熱風を吐いてやはり、光を集める。鼻梁の反照をかわし合うも、絵里子さんは私の丘辺おかべを甘く見て、舐めるような無作法にも悪怯わるびれず、くずおれゆく。天空の火影ほかげは輪になって破顔わらい、鳴り止まない鼓動の炸裂音が、夜空を抱え込んで離さない。多種多彩な背後の光と、音圧が奏でる韻律の世界にいだかれ、女と男は、この窓辺にて……宙に浮くように……抱き合った。想いを綴り、体に、書きめようとしていた。

 私達の一眸いちぼうの下に、外圧は健闘を極めていった。頑張っていない者など、どこにもいない。個々の行客にしても、たまさか肩寄せ合う見知らぬ他人ひとを、称えもしよう。この世界を平らげる交歓意識は、誰が誰を見ても、その行動に対し、異口同音の容認を呈していた。それぞれの頑張りは、たとえそれが、ちっぽけなひとりであろうと、大輪の華であろうと、みなみなが称賛を惜しまず、沸騰し、全ては万民に委ねられているのだ。誰彼の別なくわかる事に、価値観は高揚し、またひとつ……花火は打ち上がる……自己判断の身勝手を打ち破るように、また……そしてまた、ひとつ……。幾つも幾つも、夜空は称えられていった。何もかも、虹の光を浴びて、照り映えていった。音と光の擾乱じょうらんは、円転自在な海上戦の様相企む、傀儡かいらい神のたなごころひとつにあろうか。人々の心のスクリーンに浮かぶ情景が、目のから煮こぼれそうで、さぞかし困るだろう。でも嬉しいだろう。

 あれから……再び、彼女と私は、互いを求め合っている。こうして永く、抱き合ったまま、私という外圧は、彼女の記憶細胞の中へ、浸透したいと想っていた。叶わぬ過去が、私を運び届けたくて、たまらない。この時、私のその圧は、彼女の内圧にまさっているはずだった。彼女の記憶細胞の浸透圧は、自身の想いの丈の膨圧を差し引いても、私の圧には勝てないように感じる。だからこうして、彼女の中へ、吸い込まれてゆくのだ。想いが強ければ強いほど、私は、絵里子さんとひとつになる事が出来る。今、体が、それを確かめている。涼しい室内で体を温め合っていても、それ以上の何かを求め合ったとしても、それは彼女も知る所の、ふたりにとって本当の、過去との訣別を見つめているからと、今だからこそ、ようやく今になって、初めて言える。はっきり言える。逃れようもない、それぞれの苦い想い出は、逃げられようもないぐらい、強く、腕に力を込める。光は妖しく絡まるも、密着の隙間にし挟めず、体の上を右往左往して、それでも絵里子さんの婉転えんてんを探し当てた。そして爆音を伴えば、写実のものとして立体感を煽動する。彼女の肉体が、汗ばんだ物質である事を嫌うらしい反応の、乱れる息づかいを見せ、私に対する、一片のアンチテーゼが頭をもたげて来る。肉体に宿る心を、私に、忘れさせないように……過去の涙は棄てても、心までも棄てさせないように……

 過去の最後に、そのまま遺っていた肉体は、現実を追認した今を鷲掴んでこそ、更に決定事項を取り消す事を放棄した為にも、そのままの心は、そのままでありつつ、新しく生まれ変わるべきなのだろう。……音と光は、そう語り、海をも魅せる……。

 誇りたいなら、自身の充実を語ってからの話。それが出来ないなら、黙っていればいいだけの話。それが筋だ。その何れか一方をも満たせない、中途半端な態度が、信頼を失わせた過去を、消す事が出来るのか?……。恨みと嫉妬もそこから生まれ、折々降らせる、いやみとそしりの雨は、ただ冷たく、心に沁みる。そんな辛い想い出が、私達を埋め尽くしていたのだ。忘れたいのに、消したいのに……愛する誰かのように、消えてはくれなかった……過去の記憶が逆巻いていた。

 外に向かえば、華、離れれば、少年少女染みた現実があった。肉体を纏った心が、心をうずめた肉体が外へ向いた時、たったひとつの、どこまでも食い下がらん情念に、華の生命いのちは、燃えた、そして、尽きた。短か過ぎる一点の虚しい時を、散り際に、ごくごく小さな、見つけられないぐらいの微笑みの……切ない一点……忘れかけた想いが、小々波さざなむ一点……

 絵里子さんも私も、それをこの目で見つけた訳ではない。体を被せ合い、外から離れた内なる魂が、それと気づかせないはずもなかった。深く触れ合えば、心の目はみひらいた。見えなくても、目で感じる無碍むげには出来ないものがあった。黙読出来る言葉があった。互いの脈搏みゃくうつ心奥の熱い響きが、ひとつになった塊まりに共鳴している。他人ひとには見えない、聞こえない、届かなかった想いが、今、痛いほど、塊まりの記憶細胞壁を叩いて駆け巡り、内圧が……

 知らん顔が出来るものか! 消し去る事が出来るものか!……音を持たぬ叫びが、華の動乱の喧嘩囂躁けんかごうそうたるを物ともしない威勢に震え、私達は、身悶えるにも度が過ぎてゆく。虹の欠片が全身を濡らし、汗の妖光にまみれ、煌めきの一塊いっかいとなった。


 ……想い出は、しあわせなら消え易く、もし、そうではないなら……消えては、くれない……今のそばから、離れない……耳元で、そっと囁く。


 彼女も、私も、導かれたのではなく、CAVAの酔余に言寄せたくもなく、肉体の末端に至るまで、しんを為す、正に手先となっていった。意のままの、意中の自分が予言する的を射る早さは、さるにても早かった。焦りとは想えない焦り、上ずってばかりではいられない、体の表面のうわつらたけり、まさぐるようで確かめ、はたと掴んでめくり上げた、互いのシャツを粗削あらけずるべく、それでも敏な指先が、ボタンにかかる盲目をわらっている。妖しい多感な擦過音と、飢餓の嘆息の湿った音が、呑みつ呑まれつ爆音を浴び、七難変幻たる光矢こうやの、縦一線を束ねた放列を背中に刺させ、女と男は痛みにあえいだ。そして、もっと、女と男に、なってゆく。

「あ、……」

「ん、……」

 私の、やや荒っぽい手つきに、彼女は先に音を上げ、先花後果せんかごかの、情火のえにしが生まれでた。身を焦がしつ生み出したもの、それは作り出したもの、そして今、露わになったもの……。疲れはだけた彼女のシャツから、肩口が、息の緒繋ぐ凜乎りんことした白さを、私に訴える。つい先刻、涙に濡れたばかりの頬のような、滑らかな汗の皮膜に守られた曲線が、その端で崩れ落ちつつある、木綿のシャツの肩幅にいている。本意と不本意の真ん中の時間を、絵里子さんは作り出していた。私だって、同じ。男のシャツは、女の牴牾もどかしさのコントロールに剥がされている。私だって、同じ。共に隔たりを生み出し、多々悩み、あるいは遊び、自由に時間移動している。時ならぬ風に乗り、突然飛来した一枚のしおりは、忘れて欲しくない、覚えていて欲しい、自分という存在の記憶を、ふたりの物語にし挟む。そして、自由行動の如何なる制約も、今にしてやはり見えず、やはり反故ほごにするのだ。恋ある所、時間の歪みは不思議ではない不思議なのだ。女の、少しのばした爪が描く肉体の言葉は、私の暗号に、まだ、ほんの少ししか触れてはいない。絵里子さんの前触れは、溢れっ放しの吐息と、厚かましく揺さぶれる髪と、その爪だけでは……納得出来ない。彼女の肉体は、語ってはいないのだ。語らせるには、彼女にしたって、この上とも、より多くを、きっと、必ず……

 唯一無二の想いを、心の底までも深く……。この部屋に浮かぶ、あの風船を見ている。心の目を外へ移せば、虹色の光輪の華が、宇宙との境界域を飾り立てては駆る。掴み所のない立場に、ぶら下がるように浮揚する、私達のふたつの脳裏体験は、不可分にして異質の成り立ちを持つ。……消さなければいいものと、消えゆくもの……生き続けるものと、果てるもの……途上と、終末……若さと、老い……。両者を橋渡す、何れ成熟期にある事に間違いない。煮詰めるほどに、価値を纏うのだ。彼女と私の前知行動の見つめる所、そこにこそ、ある。まだまだ、たくさん身につけるものがある。今だって、大したもの、身につけてはいないだろう? 格好つけてる場合ではないだろう? 目の前にある、その何かから、目を逸らしてもいいのか? そうしてのがしてばかりいたのではないのか? 足下を見れば、自分の畑を持たない人を、私は知らない。種きをしない人に、出逢った事がない。責任転嫁という逃避行動なら、嘘なら……私は、知っている……。

 部屋の明かりは、今宵限りの、多才な人工の光の造形に、自然光の役目を許していた。窓の大きさが、それを保証している。華の雫と雷鳴降り注ぐ、硝子一枚隔てたみぎわに、半裸の白いひと塊まりの影が、わがままな吸収と、迎合の均衡を探って揺れている。羽搏はばたこうとする翼を被せ合い、まず、掴む事から始まっていた。彼女の深い爪痕と、私の荒れ放題の掌のあらこすりが、互いの肉体を磨き上げ、白々と夜は明けてゆく。弧線途切れる剝き出した肉体の、情炎の白日は昇った。しかし、尻を隠している太陽の悪戯いたずらに、我慢がならない女爪おんなづめ……そして、男の鑢手やすりては、歓喜の声色を、単音で切り取ってはちりばめ、まだ、小さな声。それぞれの研磨体には、あまり絡まない。天翔あまがける怒号と、鮮彩な沛雨はいうは尚、畳みかけ、私達は、自らの光沢にも頼り切れず、一敗地にまみれ、助けを求めるように、純一無雑なベッドの地平へ雪崩れた。

 ……倒れ込むそばから上がった飛沫が、不意に、木洩れ日の面影を映し出す。たおれた双樹の葉陰を惜しむ、名残りの光子こうし憐憫雨飛れんびんうひむせぶ、絵里子さんと私は、今はまだ、白闇しろやみに変わりそうもないベッドへ、鞭打むちうつように沈んでいった。生活の中に見え隠れして息づく、愛、故郷、趣味 etc……。人の誇りと癒しは、それらの、歴然たる行動の証しにこそ見えて来る。風船のように浮かび上がる想い出は、動かずして黙り込むばかりの歴然を、見逃してはくれない。今、こうしていても、強かな向かい風を感じる。硝子に守られた安全地帯は、音と光の波動が風になった。彼女も、私だって、ベッドに前のめって突っ込んだまま、永い間、壁みたいに立ちはだかって風を受けて来た、やつれた背中をさらし、予感していた通りの、今のこの風を、やはりの背中、今更の背中で、読んでいた。

 彼女の爪が……私をえぐる。私の鑢手やすりては、彼女を削る。ふたつのリアルが、どちらともなく先んじたがり、互いの肉体の早瀬から、今、淵辺ふちべに臨んでいる。流れて来た女と、やり過ごして来た男の、絡まる禁じ手……そうは食わない巻きつく奥の手の返しに、あおぎ合う腕と腕は翻り、たまらず逸らした顔と顔は見つめ合わず、あらぬかたへ突っね、長い吐息で交じわり戻す。うねり上がった全身の波状は、彼女の脚の岸辺に届くが早いか、かすかに引きれるかの筋張りを浮かべつ、私の目の隅っこにとどまった。それぞれの端くれに至るまで伝えた、それぞれの心は、相対する者の肉体をすり抜け、自分に帰ったのだ。

 ……一枚の波……一響の声……一点の光……それぞれひとつが時を同じくすれば、同音異体のひとつとなった。そして、三種ならぬ、多種多彩な吸収複合体質に変わり、女と男の脚とて、練り合わせ交錯を止められない。最早、一枚ではなく、一響ではなく、一点ではなく、真白きベッドの底に、融け落ちながら濃度を積み上げていった。

 きっと私は、絵里子さんを、真剣に愛し始めているのだろう。彼女の深い爪痕が……痛い。強かな指の圧が、火照りを教えて、掴んで……私の背中を千切っては撫で、また掴み取ってはい回る。体中を愛でる、四つの掌の巡礼は、互いに痛みを探していた。その痛みは、それぞれの燃え盛る情念の炎にあぶられ、腫れ上がり、不実な故意の体で、び覚まそうとするのだ。ただ、痛みを与えるだけの、大人の悪戯いたずら、意地悪……。

 そういう彼女の目が、弱々しい泣きべそ顔を婉語えんごに託し、わかって欲しいと言わんばかりに、一方の肩が私の体をかわし、海側に撓垂しなだれてすがった。その、憔悴しょうすいしたかの横顔を追う私は、果てるともない荒息の交換を浴び、なだらかな白い曲流に乗り、横倒れの、ふたつの白皙はくせき雪洞ぼんぼりが、胸の風まりに揺れ落ちている艶冶えんやを知った。風を待ち、風がなくとも揺れている。……私は、風にならなければいけなかった……白い夜明けは、風を欲しがって泣いていた。彼女を、当てもなく漂わせてはいけなかった。

 愛とは、痛みを与えるものと、気づかされたのかも知れない。傷に伴われるものかも知れない。私の不確かな掌は、まるで、絵里子さんの想いを掘り当てたかのような、囂々ごうごうたる光の演舞に、嗟嘆さたんの声を上げる特等席の寵栄に浴した。不躾ぶしつけな男の手を混ぜ合わされ、小波打つ体は、婀娜あだな不調和の一瞬にも、陶肌とうきの滑らかな張りが、私の手に吸いついて忘れさせてくれない。そしてまた、彼女の肉体に触れた時、私というインコレクトは、愛されている幻に、この手を染めてしまったかのように、ますます手離したくないと、五月蝿うるさやすりになってゆく。絵里子さんも、愛されたくて、その為に私の体を愛してこそ……離さない……。

 互いが醸す愛のニュアンスは、それぞれのセンシビリティーが看過しない。それだけに、ひとひらの躊躇ためらいを認めている事もまた、ふたりの小さな事実だった。夜闇やいんに散り失せる光の花屑を、彼女の遠い眼差しが、逃れるように追い駆けていた。私達の身に迫り来るものと、本心から遠ざかってゆくものとの隔たりが、押しては退き、退いては押して、今宵の情動の一理を、探り合っていると想える。

 ……遠くを見つめる女の目が、私の目の中に貼りついている。心の声に耳を澄ませば、そこには……こうあるべき自分の姿が……ずっと、このままでいたい自分……愛されたい自分……体で考えた自分と、頭の中で考えた自分……。ふたつの目的意識をったり来たりする、夜の彷徨者達に、虹の降雷こうらいは、つづみの雨打ち際に、憩わせ足そそのかし、去らせてはくれない。

 花火の美しさは、愛の痛みのように切なく展がり、故に、忘れられない。痛みは、癒されるべく愛を求め、風となって、果てしなく流離さすらう。出来過ぎだものは信じられない。出来なさ過ぎたものもまた、信じられない。それでも、何れ愛してしまう、愛されたいと願ってしまう。愛の弱みに傷つき、痛むのだ。

 過去と現実の狭間で揺れ過ぎたなら、花火の懐かしさは、一足飛びの未来へと酔わせる。夜に咲く華は、かつての夢を叶えた、今よりも新しい自分。もう少し、いい自分。そんな自分を演じても、いいではないか……。頑張って来たつもりの自分が、今、ここにいる。自分なりに考えられる、最善の頑張りを見ているような気がする。人の内部は、離合期を経て新しくなり、そこに、しあわせは、ある。霞光奕奕かこうえきえきたる夜の華も、過去を引きずる霞をいだく。愛されたいなら、頑張れるだろう?……。

 夜空を彩る華が、私達の先ゆきで輝いている。女と男は、過去を引き戻すように、現実に獅噛しがみついていた。この、今という時、先のポテンシャル半ば、昔に怯えながら、ここにとどまっている。そして私は、愛と頑張りはイコールであると……はっきりわかりそうな予感がするのだ。彼女が私を欲するなら、私は、何だって与えたい。何にでもなれる。ずっとこのままでいたい、離したくない、離れられない。一緒にいるだけで、絵里子さんのオーラが、私を掴んで離さない……。私は、彼女の現実を、過去丸ごと掴むように、手燭てしょくを取り外すように、白皙はくせきの乳房を閉じ込めている、胸のランジェリーの純白のシンプルを……見切って、退けた。

 息づかいの小々波さざなみに舟を漕ぐ、ついの乳首が、真白き島影の聳立しょうりつを集めた、隠棲いんせいのやり場のなさから、流れ出る……。私は、息を呑み、目はみはるも手は滞った。小島は、雪洞ぼんぼり。灯を点し汗ばみ、仄白い光をかさに丸めて秀で、小さな栗の実の頂きを結びめる、乳嘴にゅうしさえずりはまだ、密やかだった。痛いとく、その底からの小声にふるえるを、彼女も、私も、表向き変わらぬ沈黙で、一気にくだりそうな、想い雪崩れる筋道を、横へ逸らした。褐色の結び目の双子は、迷子のように狼狽うろたえ、探してくれる手の、待ちびと来たらず、痛々しいぐらい、その焦がれびとたる私に、背を向けて皮肉る。私達の肉体は、先走る事をうべない合った寄り道の、なぎのようだ。しかし、花火が打ち鳴らす砲声乱れ飛び、光圧は募り、ベッドの想いは憶測を喚んで、流言飛語に惑わされもしよう、白いフィールドは、無統制の庭と化してゆく。響動どよめきに、体がじれる反射はもう待てず、彼女の肉体を突き抜けた、女の砲弾が、篤き痛覚の涙目を、部屋中に散蒔ばらまき出した。

 そして、熱さに触れたい互いの憶測が、それぞれのうらで、風となって……体を冷ますようで、尚々あおるように、その、彼女の真っ赤な唇の火光の噴き出しを、私の口は塞いだ。……絵里子さんの溶融に……時間はかかりそうもなかった。ふたつの風と風は熱風となり、光の雨は横殴り、つむじを巻き、巨大な目をかたどり、私達を傘下に収めてにらむ。そのまま、私の目の端に、過去の残影を浮かべているかの、彼女の目があった。だから、だからこそ……私達は風になれば、この現実からも跳躍して、花火と共に未来へと飛んでゆけるのだ。憶測は憶測ではいられずに歩み、膨らむばかりの意中の風船が……突として弾けた。熱に弱い記憶細胞の壁は、内外の攻勢に敗れ、絵里子さんの肉体に、秘めたる想いの欠片が降り注いだ。そうして、彼女も見ていた、彼女自身の雪洞ぼんぼり……。風船は、正に彼女自身の胸にこそ揺れていたのだ。いつから、そこで揺れていたのだろう。なぜ、そんなにふるえているのだろう。風船がれたように、雪洞ぼんぼりも、はち切れなければいけなかった。破裂させると言うより、融かさなくては……。

 私にしても、焦がれる自分のその手を、今は彼女に先んじるしかなかった。それしか見えない。大きなそれだけで、絵里子さんと私は繋がっている。女の待ちびとが、ようやく現れたように、私の手は、栗の実をそっと撫で、雪洞ぼんぼりの中に混ぜてうずめる掌に、優しい熱を込めた。彼女の白い顔に浮かぶ紅いくちばしと、重ね合わせた切りの、唇の交換に、彼女は声にならない反応を煮こぼし、ひらいては閉じ、がっては平めかして、口のの漏れ息を妨げず、開放が際立ってゆく。肌が触れ合うだけの、目と目がすれ違うだけの時は、今の馴れ合いに群がったままの想いを、そのままに棄て置くはずもないのだ。ただ、融け合ってゆく感覚に、身を任せる一塊いっかいだった。私の、手にして置きながらがすそばから、憩い切れない女のしな作りを、一途な肉体はちりばめ放題の……とある、嘆き交じりの気息は整えようもない。隆々たる互いの命脈は、声を求めていようかと看取した、私の唇は、柔らかな桎梏しつこくが壊れ、流されていった。……と、言葉の自由を得るや否や、

「ああぁ……」

「ふぅぅ……」

 彼女の解放は、私という抑圧を知悉ちしつしているかのような、声の反論の悦びを上げ、私を制した。だる女体は、平滑な陶肌とうき玉壺ぎょっこ然とした薄白うすじろが、暗がりで羽をのばして反映を蓄え、その肌表きひょうを包む艶めきさえ掃洒そうさいせんと、虹霓こうげいの双弧を想わせる光の細粒が、十重二十重とえはたえに通り過ぎてゆく。彼女も見えているであろう、私達ふたりの肉体の煌めきの錯雑は、想いの汗が、光の涙を誘って落とし込んだかの、しののに濡れては鳴き渡る、それぞれ一端の声で、引き込み合うばかりだ。どうしても、どうあっても、もっと融けたい……その為に、融かしたい……ふたり……。崩れゆく、その残像まみれの、絵里子さんの目だった。今、くずおれている最中さなかなのに、彼女は、や、記憶の抽斗ひきだししまい込んでしまったようだ。ならば、もう黙ってはいられないとするより、他にない。何も見えなくなっていった。繊細な目を、この時、私は自分の唇に任せるしか、術がなかった。さっきから、それが自然なのだ。流れを戻す男の口は、はたと心づいて、再び、真白き女体の丘を駆け出した。……彼女の、白皙はくせき肉叢ししむらを……ゆく。痛みを探す旅人は、どこかへ、辿り着きたいのだ。絵里子さんの許しは、まだまだ甘いと、いてうねっている。されど栗の実は、ついばめば甘く融けて、消えた。一塊いっかいを巻き込む光の乱は、私の唇を使って、矢の如き悦びを、彼女に突き刺した。

「あっあぁぁ……」

 それは、沈み落ちて、自分の体に埋没してゆく自分を、深く知るように……。雪洞ぼんぼりの、ほぐれからの崩落が、白皙はくせきの波間に浮かんでいる。消えようとはしない。漂泊している。その底にまり、肉叢ししむらを成す心が見ているものは、何だろう? 遺りもので作るものは、何が出来るのだろう? そんな問いかけが、私を喚び覚ますのだ。雪洞ぼんぼりは、あの風船、私の中にも眠っていたもの。私の言葉を借りた、大切という概念が、見え隠れして来た。あます所なく、限りある生命体に定められた所以ゆえんの、それが、やけに温かいのだ。決して壊せないフレームの中で、微笑みを絶やさない。絵里子さんだって、わかっているだろう? それでも、私達の肉体は先行し、心は置き去られそうで致し方なく、煩悶の鋲螺びょうらたる体は止められない。雌雄の一対いっついのそれは……おとこの、唇は濡れ舌は乾かぬ、ひと綴りが描くを、おんなの白いキャンバスは含み笑い、じれゆくほどに逆戻りするかの一塊いっかいは、忘れかけた釘の陰影さざめくに、怯えているのか。絵里子さんの体の、弛緩しかんと緊張の波状は極まるばかり、荒ぶるソニックでも説明出来る。私の一筆は、くびれた広口ひろくちから詰め込まれたような、腰回りのせり出しのきわにある。

 slip de femme ……が、白暈はくうんを放つ豊かな稜線を守っている。私の目の片隅を過ぎし残躯ざんくは、今、白きつつみの如く、淡く、眼前、いや、想いの真ん中に進入を果たしていた。……最後のひと葉を揺らす風のように、私は、その葉をまみ……樹幹に、一纏わせない。痛みを与える罪を、また、持ち込んでしまった。ふと……なぜか、悔しさとプライドが混ざり合わない、切り離されたみたいな気がした。やはり、愛している、愛してしまったのだろうか。絵里子さんは、探しものを見つけ、その手ですくい上げんとする、夢見心地の嫣然顔えんぜんがおくゆらせるも、れは隠せない。きっと、私も、プライドだけではないと、教えられたのだ。隔てられた両者は、愛の溶媒に、為す術もなく流体をさらし、その、底にまった遺りもので作ろうとしている、愛のプライドが散見していた。そんな〝かたち〟、時に〝もの〟。必然の信頼は欺けない。心穏やかならぬ時、愛もプライドも見えにくい。限りなく、悔しさが見えていたと、言わざるを得なかった。現実は、愛の時間に、微動では済まされない……。

 彼女の、ほぞを固める間際の叢林そうりんに、奥許しは隠れていた。ついさっきの、声涙倶せいるいともくだる余情のようにも、私は感じる。……いている……触れると……燃えて、

「あ、……」

 嘆きくすぶる皮肉間然を、脱ぎ棄てられそうなしるしが、やんわりと空間を彷徨う。私達の、心の瞳という結晶体の中心で、光軸のひとすじを走らせ、いい物差し、いい眼鏡との出逢いの像を結んでいるかの、空想をせずにはいられない。誰かの為に、誰かの土台たる事。それは大人の喜び、大人の笑顔。そして絆、されば想い出、故郷……。繋がろうとするそこに、憎しみやジェラシーは居場所が見つからない。やがて大人になる、少年少女にもわかるだろう、そこは、今、私達の中にある。その何かが、花火と共に散り、崩れ落ちつつある。だけど何かが、生まれでつつある。問題意識の高い甘いは、そのまま愛を作るのだ。愛されたい高みに、自分ではなく、他者を愛したい、愛するという実現が、人を強くする。愛する誰かの、土台たればこその喜びが、尊いプライドを語り、そして、永遠となる。目には目を。敬意には敬意を。遥か先をゆく、風と、光と、愛には、愛を。美しく、悩ましく……。岸に届く波は、やがて、砕けゆくように……。

「……避妊薬、飲んでるから……ねっ……」

 過去に自分を釘づけ、錆びてしまった私達ふたりは、こうして同じものを持ち寄り、何かを作ろうとしている。そうなりそうな、何か……今にしてやっと気づいた、机の上で考えた事かも知れない。それでもいい。一個の、ひとりの、たとえば一円の、たったひと言の重さを、大切にする心で作りたいのだ。抑え切れず、私も全裸になった。女と男の香りが、何ひとつ隠さない裸でじり合えば、雲の波のように生まれ打ち寄せる欲情と、崩れ退しりぞく盲目の境界域の波間は、汽水の薄遇にして、千重波ちえなみ頻りに綾を織り、これ以上のない頽瀾たいらんに、もうじき届くかの時にある。持ち込むべき男波おなみの風濤はたけり、紫吹しぶく汗に溺れ、疎覚うろおぼえの旋律も露わに、自虐的なずるい波折りは、まだ吠えるにすくんでいる。蜀犬しょっけん日に吠ゆらしい一塊いっかいの、砕け波の便りを待つ女波めなみおもても、波長を合わせ、その逆説的形而上けいじじょうの、波数の世界との邂逅かいこうを読みふけっている。面白くなかった、それぞれの生活……自分の人生に対する怒りや失望を、他人に与え続けて来た所以ゆえんの、我が孤独、中身を阻害していたマイナス感情から、脱出しつつある、今の……いちいつになる回答を夢想し、その力学の妖花の影を、白体に招いて匂い立つ、台上の孜々しし営々であった。人の世に憎悪を向け、容赦なく、自分のゆく先のポテンシャルに波及した、呪うような想いから、覚醒するべく……。

 そして……夜闇やいんつんざく光流は尚、閃き、けたたましい渦流に呑まれるを、一遇の幸いは見逃さない。あたかも利するように流れに乗り、手間取るいら立ちさえ、丁々発止と斬り結ぶ。……てがう手を引き寄せ、あらがう手を迷わせ、それは脚とて黙らせず、目搏まばたきの自由を奪い、気息の閑を睥睨へいげいする、心優しき盲目の衒耀げんようが、私達のゆく先の不明瞭に、短気にはなれない……見えない、見えなくなってゆく……わかりたくもない情動に、不安も何も見えない。触れてさえいれば、この腕の中でいだいてさえ、互いの体があるなら、見えなくても、見えそうだった。汗にまみれ、溺れ、自惚うぬぼれ、相身互いの情けが、招き招かれていった。この手で掴んだままでは、形のない約束は果たせない。衝動のままでも、見えつつあるものは拾えない。探り合う同士は、そうしなくてもよかったように、来たる怡悦いえつに先回りする余色を点じ……女と男の肉体の岸辺に辿り着き、まだそぞろな直観intuiteに揺られていようと、耽溺たんでき夢中の境に入れ揚げ、男は、ゆうっくり、女体の淵叢えんそうを押し分け、不離一体となった。

 ……しゅんを衝き、真白き女体をまくし立て、後ろから抱擁せんと、濡れ手の貪婪どんらんたる蝟集いしゅうの、七色の半球光体がのび盛り……虹の太陽を海の背に担ぎ上げた。中空の全円を追う、海面の半円は、虹彩を連ねて相競う、蛟竜こうりゅうふたつ虹の姿を現し、千言万語せんげんばんご燦爛さんらんを、闇に貼りつけて吠える。今宵の逢瀬は、風の夜空にほとばしって散り、余燼よじんの葉陰に倒れよう、衆生済度しゅじょうさいどを巡らせる。ならば、私達の作善さぜんは、燃えるのだ。

「あ、あぁぁっ……」

 絵里子さんは、火影ほかげに憩うて、吠えた。

 腹合わせの双竜そうりゅうたる、白皙はくせき女蛟めみずちと、蒼白あおじろき軟体の男蛟おみずちは、癒合企む見る間の波動をみなぎらせ、専心にあった。あの、毒気含みの宿痾しゅくあは変質し、吹くも甘く、やはり微温ぬるく、されど、忽ち没却の詞海しかいはそよぐ。風任せの行路に、掴みめつ掴まれつする、海神わたつみの使わしめどもの肉叢ししむらは、思考があまり届かない、悩乱の潮流に沈んだ。荒波に揉まれ、それでもの美玉の魂と、ひしがれの弱玉の魂は出逢い、それぞれの成りゆきの瑕疵かしを、見つけ見つめ合うべく、想いは肉体を囲繞いじょうする目が、また妖しく、光る。吠える四十度……狂う五十度……絶叫する六十度の……とある海峡の波濤を、斬り裂き乗り越えるかの、命根めいこんを賭けた旅路の結末を、まるで知っているように、ふたつ竜は、躍った。舞い昇り天をっては引きからめ、つかえて使えぬ体ではない、しなやかな流線形の二岐大蛇フタマタノオロチ一塊いっかいは、光被こうひする所、全く以て憚らない。衝天尽き果て紅い火光を吐き、火の粉の一葉いちよう剥がれ落ちる、静寂が訪れる度、この世の、何を知ろうか。幾年いくとせにも及び、これからまた、幾年いくとせにも及ぼす夜は、まだ永いと、見下ろして息吹く。終わりのない時を、聞かせて欲しい人間が、ここにも、いる。私達は、せ返る霧靄きりもやを掻き分け、花火の虹の殉教者のように、鈍い黄金こがね斑雲まだらぐもの海を、遥かに仰ぐように、光りに隣り合う影と、影に耳をそばだてる光に、想いを馳せ、今はただ、手探りでもいい、抱きしめていたい……そんな悦楽は、忽然こつぜんたる永続の、恍惚こうこつへと移ろい、体中が魅せられていた。……空は、たまの花火に、心のありのままを託し、無色透明ではいられぬほどの懊悩を、遠く隔たるこだまに響かせ、一切合財いっさいがっさいの雨を降らせる。その色は、涙色。その想いは、ジェラシーだろうか?……何の、焦燥なのか?……それは、想い眺めるひとりひとりが、決める事。想いが天に届けとばかりに、人は花火に、涙する。

 女蛟めみずちの波の音は、荒く絡まり、撓垂しなだれの息のとばりが私を覆う。炎熱は、驀地まっしぐら。酸化炎の鮮黄色に上り詰め、魑魅魍魎ちみもうりょうどもに纏わりつく金色こんじき叢雲むらぐもは、ただ、厚い。何もかもゴールドが雪崩れる窒息は険しく、あまりに怖い。危ない色だ。ひたすら酸素を欲しがる彼女の燃焼に、私の悦も極まりゆくを止めも出来ない。ふたり共、立ち位置から距離が近く、短かい計画の短気が招いた訳ではない、盲目に頼り切り、はっきり見えてはいない、その果てを見ようとしている。計画性を見つけようとしている。ゆく先は、わからない。だけれど、愛し愛されたい。私は、虹の眩耀が、どうも引っかかり、そして……金襴きんらんに縁取られた、白無垢の肉叢ししむらを見せるかの、更なる卦体けたいへと変わっていった。危うさと悦びに掻き回され、絵里子さんの溶融は濃い。黄色い光の明滅がまぶたを濡らし、透かすようにみ展がっているだろう。表と裏の紙一重を知らされただろう。どちらに倒れるとも、まだわからず、慎重にこそなってもよさそうなのに……害にはならない拙速回避の目的も、あと先も、見えて来ように……オウンゴールの想いは、どこへいった?……。


 かつての私……そうではないと知りつつも、頑張りは頑張り。惰性を信じ、異をはさめる訳がなく、不安を搔き消そうとしていた……見えなくなってゆく……そうではない、軸を持たない自負は、やがて、その通りの場所へ私を連れていった。消えていった、あの……稲村の浜の砂と共に失われし、私のプラトニック……美しい夢の想い出……今、この時、絵里子さんの中に、それが見えている。今頃になって、見えている。そうではない事、そうではないものと一緒に、見えているのだ。私達の、少年少女から抜け出せない、純情というより幼稚な、苦い想い出、青春の影……

 風浪のロアリングはしょうに当たり、かけり鞆音ともねあおられた濫觴らんしょうを目論むも、風が喚ぶ熱砂の光の嵐にたれ、ふたりの影は詰め伏されて、く。逃げ吠えの乱心は、私の場合、劣情?……の危殆きたいに瀕しているように想えてならない。暴れ波は一塊いっかいを駆け上がり、彼女へ寄り回る波となるも尚、馳せ、迎え波の、白き引く手紫吹しぶくは呑波之魚どんぱのうおの如く、今様いまようの歌の朗誦ろうしょうに、さも愛おしげだ。……ややともすると、シュリーキングな幻妖かも知れない。やはり放ったらかしているうちに、惰性を信じたように、壊れゆく何かの想いに、私は、そこにひとすじの光明を見つけたような……迷いを転じ、草創の時代に際会する、そんな予感が……。壊す事から、始まるのだと……壊れても、壊しても、いいのだと……波のように、華のように、そして……涙のように光はこぼれ、濡れたように、風は止まりつつあった。どこかへ、帰りたかったのだろうか? ふたりはただ、互いの痛みを探し回っていた。それは、傷つけ、その傷を壊すように……壊したくなってゆく……


 癒せばいい、癒せばいいのだ……

 涙にしおれる華を見つけたら、

 そうすれば、いいのだ……

 再び、咲く為に、

 いつか、咲き誇る為に、

 笑顔は、

 眠っている。

 ふと、

 心は移ろう。

 それだけで、

 物語は動き出す。

 今は、

 今だけは……

 何も、

 話さなくて、いい……


 彼女も、無傷を探してはいないふうの悦びに、埋め尽くされて膨らんでいる。無傷は癒されずとも、ありふれた喜びに変わっていた。そうして、女蛟めみずち雪洞ぼんぼり素波銀濤そはぎんとうは、男蛟おみずちのゆき止まりを待って、泳ぐ。波頭を追い駆けて群がる、夜のカモメき、一塊いっかいは身も心も頂きへ一心で、かつ、それでも二心にしんとは言いたくない、想いのままでいよう、互いの未練がわかるから……こんなにも詰め寄り、詰め寄られるのだ。まるでゆく先のポテンシャルが高まるように、加速する……悉くに響き渡る、悉くが押し展がる……波は蹴散らし弓なりの水幕を立ち上げ、光も風もとばっちりを食らうも、しかし、忽ち反抗にくみして吸い込まれる。……その時、おぼろに見えて来る、また浮上する影がある私だった。何かが、違う。こんな時に、違う。

 ……なぜ?……なぜ、今?……おばあちゃんが……前以て連絡もなしに、急に、現れた。……あの、少年だった私に、のちの大切な宿題を語った時の、寂しさを愛おしさにうずめている顔……忘れられず、抽斗ひきだしの一番奥にしまい込んでも、時折、ふと想い出しては引っ張り出し、読みふけって微睡まどろみへいざなわれる、いつもの笑顔が浮き上がるのだ。でも……何か、いつもと違う……静かにおこっている。目が、笑ってはいない。そうだ!……言い聞かせて、叱る時の顔だ!……笑顔ばかりだったから、わからなかった。想い出したよ、おばあちゃん……。

 もう、私はもう壊れる寸前……まみれ、溺れ、自惚うぬぼれ、でも……本物を見つけたかの……一閃いっせんの深い羽搏はばたきにたまらず……雪洞ぼんぼりは割れ……砕けて破れて散るかの如く、どうして? なぜここに?……依津子さんの憂い顔が、赤い目をした、もう一頭のみずちのように、もたれかかる形ぶりもしなやかに現れ、雪洞ぼんぼりを、私を、そして時を、壊した……私は、もう自惚うぬぼれない! 私達はしゅんを跨ごうと、肉体に極まる浮揚……

「あっあっあぁぁ……」

 花火の宵に、虹の大蛇オロチは舞い躍る……


 いななくは

 らいたれし

 女蛟めみずち

 法悦耀かがよ

 酒水漬さかみづく君


 そして私と共に頂きで……騰落は折り返し……沈降していった。女と男は、七色の蛍光塗料をぶっかけられた、白塗りの道化師だった。体の上を、観客の拍手のような光が、ただ、通り過ぎてゆく。喝采のそれではないと知るそばから、忽ち退いた水の忘れものの、静寂が忍び寄っていた。轟音の掃雨そううが、砂浜の活気と私達を隔てて楯突くままではある。が、ふと、虚しい風に、透き通るカーテンは揺れていた。

 ……それから……そこから、絵里子さんは、巻き添えをもらった突然の悲しみに、ひもとかれたからめ身はゆるみ、ベッドの地平は、沃野よくや千里の夢のあとを落とし込まれて、しわ立っている。依津子さんは、その欠片を遺して、すうっと、消えた。また、ふたりの現実を見ている私だった。絵里子さんも知る所の、男の失くせない想いが、今の必然を壊した事を、彼女は知らないだろう。遠い昔に迷える、旅の余話を噛みしめながら、息をほどいていた。


 ……みずちどもの夢語り。

 ……みずちは、ゆうっくり、登ってゆく宿命さだめ。その痕をとどめる為に、生まれて来た。そして生きるべく、心と体を必要とし、求め続けている。今も、盛んに求めている。持って生まれた、最初から備わっている心と体で、同じものを探し求め、彷徨っていた。見えない心には、形ある体がわかる、知る事が出来た。ならば、体を纏う心で、同じように、他者の見えない心がわかる、見えて来るのだ。形のない心と、形ある体が満たすもの。みずちどもは、それを探しあぐねている。心は、体を知る事が出来る。体は、心を知る事が出来る。自分の中にもある、大切なふたつのものが、分かり合える事……主たる海神わたつみは、それを〝愛〟と名づけた。〝愛〟と言うより、他になかった。やがて……ひとつの疑問、矛盾が生まれた。……自分の中で、折り合いをつけようとしているのに、どうして、他者と分かり合えない事があるのだろう?……時に争い、傷つけ、壊してしまうのだろう?……。その、海神わたつみの怒りに満つる疑問がつかわした、みずちは、赤い目を持つ、怖ろしいまでの体に化身して、舞い降りて来たのだ。しかし、姿形は怖ろしくても、うちに宿す心は、さるにても、温かい。心の目で悉くを見ようとして、赤い目になってしまった。夢だって見る。こんな夢を持っていた。

 ……人ひとり、たったひとり、ひとつ。それは、一円の心。僅か一円の想い。そんな存在を、たかが……とするか、されど……とするか。そこは、しあわせとふしあわせの分かれ道、それぞれの真髄、大元の出発点なのだ。一円をわらう者は一円に泣き、一円でも大切にする者は一円に好かれる。たった一円を集めてゆくほどに……豊かな暮らし、満ち足りた心、平和、そして自由……一円同士の家庭、たくさん集まった社会……世界……

 そんな一円は、真っ先に、想いを言葉に託す。生まれたばかりの赤ちゃんの産声、泣き声のように……物も、金も、人の心にも、一個の、一円の、ひとつの、ひと言の、小さな想いがある。ひとひらの花びらにも、ささやかな価値観から始まった、重さがある。みんな同じ、元々かすかなひとひらなのだ。その声に、敏でありたい。泣いて教える赤ちゃんを、優しさで包んであげたい。そしてその子を、知識ではなく、知識だけでもなく、つたない経験によって得た、それでも映画のような、立体を醸すような言葉で、笑顔にもれてあやすだろう。心の庭で培われた、人なりに大切なものがあるだけで、言葉は、つ。養われたものは、平面的ではいられず、であるから、他者の心に融けてゆくのだろう。もし、そこに、人を選ばず隔てる行為があるなら、その意味など、何ひとつ、ない。

 まず、ひとつ。一方を、一点を決めなければ、他方も側方も、そして前方も、全体さえも、ゆく先は決まらない、見えて来ない。初めから、全部を決められる訳がないのだ。決めずとも、なまじ、何でもこなせる器用さが、大きく膨らみ、はたとふり返った時、その足痕に咲く花の笑顔は、何を語るだろう。たとえば、膨らみ過ぎた蕾は、ひらかない事もある。ひとつを決められなかった想いに、蕾は蕾のまま……ひとりを、知ろうか。折れなかった、壊れなかった、膨らみ過ぎた自分が、ふり向きざまに、自分を押し潰す……。壊れずとも、大切なものは〝折れる〟という事が、いつか本物に出逢い、真の強さを身につけた自分の、証し、生涯の美しき宝となって、自分を語るのだ。創る為に迎合し、あるいは壊した、その過去は、報われる。引き退がり、壊れる事を、過剰に怖れるべきではない。予めの用意、ぎりぎりの用意をした、登降の向こう側に見える、気づき。用意のない、向こう側に見える、気づき。後者のそれに、It's too late ……を与えてしまえば、愛の灯は、トンネルの出口を見失う。……ひらかぬ蕾は、自らの珠玉で、諸刃もろはの剣で、自らを……。咲いて散る花、咲かずに散る花。その生命いのちは、時に、怖ろしいほどに美しく、儚さを見せよう。頑張りの果実を、自分で手にしても、社会秩序は壊れない。自分だけで決めて来た、そういう自分を壊すのだ。


 ……絵里子さんと私は、底に溜まった遺りものの体で、ベッドの海を揺蕩たゆたうばかり。それで作る、愛のプライドのスープは、温かな平和と、しあわせの味がした。自分と関わりを持たない、人や物事の、価値を見つける見えないはかり……人ならば誰しも携えている、その愛は、いつもしあわせを探している。それは自分次第、余人のものではない。たとえば、そうではない偶然を見つけた時、そこから、全く別の必然の歯車は回り出す。初めから、ある程度わかっている、もし?……だらけの、惰性の道ゆきであろう。

 私は、家族や、故郷、数少ない友達、お世話になった方々の顔……昔のまんまの少年少女に、今以上もっと、心の目を向けたくなっている。隣りで安らぐ絵里子さんの目から、その心がはみ出しそうに見える。きっと、おばあちゃんが、みずちの言葉を使い、依津子さんと絵里子さん、ふたりの女性を連れて来たのだ。今、こうして、その間で、揺曳ようえいしている私がいる。更に何かを教えようとし、教えられだがっている三人かも知れないと、想うにつけ、背景に……淡く、稲村の海は展がり、翼をはためかせ、私達の恋は、風の夜空にほとばしって散る花火に魅せられて、燃えるだろう……。


 愛は、癒すべく痛みを探すも、無傷を探さず、悉くを、ありふれた喜びに変えたのだ。私は、昔、教えられたように、しあわせにならなければいけないと、強く、想った。心は燃えても、燃えなかった、湿っていた体に火がつき、燃えたのだ。みんな、共に生きている。生涯忘れ得ぬ、花火の宵となろう。たとえ、そうではなかったとしても、失くせぬ愛は、失くせない。みずちの声が、まだ、耳の奥でこだましている。甘く、聡明な響きで。「 0 」の蓄えが、一気に埋まりそうな、前夜に。


 みずちの想いは、肉体を超え、花火という言葉で、語った。目に見える世界の出来事に、負けたくなかった。見えるものだけに、語らせたくない。届かぬ想いを届かぬものに、託したのだ。もう、明日が怖いなんて、言わない。なり損ねなんて、想わない。悔しさの中途半端に、立ち止まるべきではない。その先が、ある。朝、爽やかに、目覚めたい……でも……影は、ふたつ……。




 Don't speak……。


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