蛍のゆめ

 ……虚空の紫明むらさきあかりはやっとの想い。急ぎ濃墨こずみ夜闇やいんへ馳せ参じゆく。まだ曖昧な色をしている、宵の口である。萎み吸い込まれた暖気が、消え遺る、ものの憐れをうたう。合わせ舞い揺れる蛍のゆくえは、口三味線くちじゃみせんの、旋律的な装飾に重きを委ねた、言葉の音色によって表現されるが如く、大まかな、緩やかな流れの遊泳にとどめた、泡沫うたかた生命いのちである。誰かの想いを乗せた言葉のままに、蛍は、いずこへも、流離さすらう。


 いつだったろう……いつから……今宵の蛍どもは、頑張る自分を見失ってしまったのだろう。


『まあ、いい……』


『そのうち……』


 今を、あっという間に流した。自分への許しは、自分で決める。自分の悉くは、自己評価の猶予期間にある。そんな青春の日々は、足早に過ぎゆく。些少の心配も、まあ、いい……それで。そのうち……一気に雪崩れ込まれた。周りを見渡せば、頑張る人ばかり。自分ひとりが居遺り、立ち止まっている。自分は、いつか来る、夢の終わりに気づかない。いや、気づかぬふりをしているうちに、うつつの夢は終わり、自分という夢の、まだそのままに、いる。確かに、現実のショックは、激しく痛みこそすれ、夢中にある、自分の恵まれた環境ゆえの癒しに、最早、その続きを見るしかない。失くした夢は、数え切れない。それに我慢を重ねる想いもまた、拭い切れない。蛍の生命いのちは、儚い。限りがあり、さればこそ、尊く、美しく、そして、寂しい……一瞬の、頑張り……。気高く舞い踊り、妖しくまり、しずかに、口を潜める。自分の言葉のままに生きて来た自分達。自分の言葉のままに失いし自分達。……今からでも、ほんの一瞬でも、置き忘れていた輝きを、今のものに、今という時に、今だけでいいから……これからの夢を、見せてくれ……



 まだ、輝いてはいないんだ……



 蛍の心の灯は、これから、点る。夢は、まだ、これから……。失いしこそ、得られるものがある。それだけに、それ故に尚も求めし夢は続き、終わらない。現実は途絶えても、生きていたもの、忘れかけていた何かが、今に成り代わり、今を満たさんと顔を見せている。……夢が、初主演の微動を来たし、これからの命脈を繋ごうと息吹いている。蛍合戦の、その段の宵の情話が、懐をはだけ出し、艶めく。色のついた、夜である。無彩色の悉くでさえも、色を、成す。夕色にほだされ、引きずり出された秘せる夢は、日が落ちようと、誰が何と言おうと、そのまんま、ありのままでいる。夕照さえ眩し過ぎて、じらってはいた。されどかえってその所為せいかして、肌燃えくれないを挿し、心躍り乱を覚え、自ら震える日のように、微塵みじんの蛍どもは夜を照らす。酔いどれ夜這よはい、今宵、いにしえの源氏の夢語りは、さも闇に紛れ、されど蛍火は永久とこしえたらんとす。


 鎌倉の蛍。……清き水ある所、そして海からも、源氏の至治安泰を守護する水神ありて、その、おさなき使わしめの如し……


 ……何もない束の間だった。波の音が消えたように静まり、微弱な風は、凪解けを告げたままではある。異種数多のさざめきは遠ざかり、代わる何かの接近を嗅ぎ当て、自らの態度保留の足並みを揃えている。浅き夜空の相形は、夏の夕べの日々の主題たる光の大崩落を、陰で見届けていたかの、星影一統の振戦しんせんが、まだ怖れを溜めているように、ひっそりとわだかまっている。星蒔き同士にしても、遠慮がちである。全てが、遠くへいってしまった。絵里子さんも、ふと、寂しげだ。互いに待っているものは、何かではない。見えないふりも、今更失礼に当たる。でっ過ぎる宙ぶらりんになるまで、放ったらかした私達は、その責任を持てあますばかりだ。苛立ちも見える似た者同士。全部一緒だから、反発し合っているのかも知れない。……生まれたばかりの風は、その向きを変えつつある。

 私達の韜晦とうかいには、過ちの認識がある。にもせよ〝?〟 を並べる。矛盾を禁じ得ない。……それは、あらかじめ言い訳を用意している、予防線を張っている、しるし。本当は、答えを出せずにいる、迷いの中で流されている今を、語っているのだ。迷える、蛍ども……。私としては、ふたつの本気の狭間に揺れる自分を、悟ってはいる。絵里子さんの揺らぎも、どっちつかずだと想える眼差しが、私へもたれそうで……私も、包んでしまいそうで……言い訳したくて仕方がない、蛍合戦の武者ぶりであった。妖しいジレンマの両将が、雌雄を決する今宵の陣は、ひとえに、言い訳のとりでの攻防にある。本気を示さない者は、置いて行かれよう事を、知りつつ。妖獣、寂然として、美の壮途に就かん。知而不行知りて行わざるは是只未知是れただ未だ知らざるなり知行合一ちこうごういつの夢の宵である。先行後知せんこうこうち泡沫うたかたを、無実のままにしたくない、してはいけない。蛍の灯の招きは、遅くはない。喚ぶ声ありて、喚ばれし者、喚ばれざる昔を想わん。されば、その声の招きのままに、風のままに……風向き次第で、いつでも女を棄てられる、男を辞められる、天秤度量衡ばかりさがに揺れながら……

 前哨戦の時。それぞれのうちなるひとり舞踊のフィガーは、いつに相対、二に同体、三にときの声を望んでいる。まず、ときを作るべく、仕かけを窺うかの時もまた、必要ではある。が……絵里子さんは抜け駆けて……というより、さきがけの任を全うするような顔で、



「……忘れさせてあげようか?」



 炯然けいぜんたるその目が見ているものは……私の心じゃない。

 そしてその目は、彼女だけのものじゃない。

 私のものでもある。

 相手の体を通り過ぎる、それぞれの強がり……ひとりよがり……愛欲という、性愛という、そのプロセスにおいて、互いのわがままが、今、それを貪ろうとしている。このままでは、どこまでも溢れてゆきそうな、強い目だった。ここにとどまる強い意志の目だった。さればこそ同等に、そこに否応なく絡みつく……嫉視。気まぐれの流動体質のサーカズム。火宅の人同士は、他人ひとへジェラシーの火を向け同士……時として、理由わけのわからぬ獣のように、異化せんとばかりに熱くなり、火となり、ぜた。……そのひと言は、私を、彼女自身をも縛り上げる。自分だけが頑張って来たと想っている、強い力で、私の体へ倒れ込み、預け、忽ち真白き両の手が、男の肩に巻きついた。

 ふと、目睫もくしょうに迫るいきった吐息のぬしを見れば、違うひとがいる。違う男を見るような目が、人のものとは想い難い。射すくめる妖獣の眼光炯々けいけいは、私から自由を奪った。思考も停止せざるを得ず、確かに、忘れられるものは、あまりにも大きい。私のひとりよがりの大きさは、彼女の強がりの大きさにひと呑みにされつつある。この私の両手。……それを受け容れようとする、取り込もうとする腕の力は、最早、自らを満たさんとする手で、女の体を探している。違う目をした違う女の違う手は、私に、代わりの違う自由を与え、その対価を求める、しっとり汗ばんだ実りの果肉の匂いが、ばらけ髪に煽られて、肉塊の甘ったるい重さを、私の体に味わわせる。久しい目覚め間もないぎこちなさが、駆け昇るそれぞれの体の熱に、功名心ははやり、その上がりゆく心地に酔う、回りの早さをも併せ食らっている。溺れるほどの肉体の波状に消えた、女と男。

 ウインドウは開け放たれてはいるものの、微温ぬるい風の手が届いてはいるものの、この限られた空間の気は、一気にトンネルへ突っ込んだかの、耳を塞ぐ圧に抑えられている。互いに上体を委ね合う、アンギュレーションの〝くの字〟 姿勢の足下や、今となっては無粋な邪魔物でしかない、シフトレバー周りの、目下用事のないスペースにまで、蛍のまたたきが埋め尽くし、風の呼吸の充溢群のひとつとなって、闇夜に浮かんでいる。タカアシガニのように膝を折った、絵里子さんの白い両脚が、私の方へ撓垂しなだれるも、隔てる中央分離帯に、その膝頭をぶつける白さから、私の目は離れようとしない。……可憐いじらしくて、愛おしくて、もっと抱きしめたくて……。ほんのり白んで見えるのは、ルームランプではない。彼女の白い艶肌に、海の蛍どもは寄せ集って来る。こうして抱き合っている時間と共に、息苦しい想いが、だんだん切なくなって来る。互いに、それと、わかる。余計に、腕に力が入ってしまう。彼女の右頰が、私の左肩で憩うかの、かすあごの甘えを揺らし、男の喉元をえぐらんと窺う。牛乳にレモンを数滴しぼったような、円やかに匂う、このひと婉容えんようのもの寂しさに、私は惹かれていった。もう少し、そのあごを上げてくれたら……。絵里子さんの次なるギアが、溜めを作る一瞬の引きを見せ、私のいよいよをつつく。男の息づかいのほぼ真下に、女のおもていざり寄った。纏わりつく蛍火が、なぜかしら、潮戯しおざれのような響きを連れて、帰って来た。岬に届いて砕ける飛沫しぶきは、ここからは見えない。深まりゆく夜に、海は見えない。一面の漆黒界は、一掃の潮騒、一興の蛍火という、それぞれひとつの寂念涔々しんしんだけが、侘しく佇んでいる。じりけのないひとつは、ひとつを以て飛翔する他に、何が許されよう。何が、あろう。夜は、引き絞られるしかないのだ。


 実に久しぶりの、充実が見えている。車は駐まっているが、助走路をゆく私達は加速するばかり、蛍の舞は佳境を迎えつつあるようだ。まだ何かが足りない、何かが見えない特別な今にこだわる道ゆきであった。殊更のように現在に執着する蛍達。語りたくない過去の過ちに、全てのレゾンデートルがある。はなはだ不足な青春期に、問題がある。……そんなある日、時の流れ郵便局の配達人が、私達それぞれの懐に手紙を届けた。差出人は〝不足物より〟 とある。開封した私達は、授かり物のように、大切に自分の抽斗ひきだししまった。なるものを、不足という経験から得たのだ。想い出す度、心が痛む。やり切れなさが込み上げて、切なくてしょうがない。と同時に、それを何とか活かしたい想いもまた、込み上げて、切なくてしょうがない。この年齢を得て、涙と共に込み上げるものばかり、やたらと切なくてしょうがない日々を生きている。よわい重ねる実感が、隙間風のように心にじかに当たるのだ。……彼女は、深く顔をうずめたままである。

 絵里子さんと私は、求め合うしかない。ないものは、求めるしかない。何かが欲しい、見えない何かを求めていた。互いの体が、弱々しい震えを溜め、まだ不十分とあえぐ。彼女の姿容しようは、それが所以ゆえんのもの寂しさを素直に纏い、臈長ろうたけたしなやかな体のカーブを、私の、埋め切れない風穴だらけの胸間に嵌め込んで、く。体が、それでも悲しいと、くのだ。……私は、いつかの、正樹君のギター演奏が蘇り……袖を手繰たぐられ、それでも言えない、言うべきではない女の矜持きょうじが、気高さを保ったまま、私の腕の中で融け出している。熟れあます大人の女の肉体の溶融……それは、蠱惑こわくであった。足りない何かをしずかに求めるそのさまは、あえて触れない、あえて読まない、わかっているのにわからぬふりの優しさが横溢する、鎌倉の街がおぼろに霞むような色気であった。……不足の中に、欠かせないものがある。それと、知った。それを、懐に秘めたる蛍どもの演舞は果てない。灯し灯され、浮かんでは流れ、揺々ようようと恋々としてぶら下がり、はたと獅噛しがみついて離さず、それぞれ掴んだ肩口からなだらかに山盛る、胸の膨らみが、互いの肉体の女たると男たるを分かてる。それでも紙一重もないほどに、密着を決め込んでいる。息詰まりつ繋ぎつする呼吸が、荒れゆかないはずも、ない。女の乳房と男の胸筋が違う態度を掲げ、先刻以来、座したままだ。

 知行合一ちこうごういつの夢の中に、ある。夢のような現実に、いる。先行後知せんこうこうちの教えのままに、今はその時に、最早、ない。……その教えは、誰かに甘やかされ、時間をかけて自らゆっくり知るより、誰かに想い知らされる方が、楽。何より、早い。目覚めは早いにかず、他者とはかくもありがたい。甘やかされたその人を、逆恨む事なかれ。……私は、過去を、家族の所為せいにしていたのだろうか……。相済まぬ想いに、永き空転が虚しい。が、しかし、知即行ちそくこうの時の知らせは……今。今の想いを体で素直に表現すべきだ。今すぐ、ここで。蛍流れの風に任せ、うに充分熱は蓄えた。大切にしまって置いたものは、いつでもさっと取り出せる。先の創造は、一見、現在を隠すようで、全ての韜晦とうかいを放棄し、清算するものだ。闇並びの際限なき今宵、稲村の岬に車寄せ、体を添わせつ待ち伏せつしていた、事の流れが、時に……波のうねりに逆らう防波堤から溢れ、一気呵成におかへ駆け上がらんと、謀反むほんの光陰の矢を射った。寸陰を惜しむが如き、急進の行軍は待つべくもない。……かくやあらん、蛍の端くれ、一寸の虫どもにも宿せる魂の光源は、五分ごぶおろか、自らの体躯以上の光を放ってさかり、その相貌は衆望を集め、同志を募り、一軍の群叢ぐんそうとなってときを作る。何ものかに、喚びかける。音のないときの声が、心の叫びが、夜闇やいんつんざいて響き渡った。蛍は、蛍のよろいを脱ぎ棄てた。早変りに、慌てている。その汗が、女の白い胸元に滲み、それと気づいた男の風情を、匂やかなくゆりの奥床おくどこいざなわんとす。かたわらに眠る、稲村の小浜……。鹹水かんすいは、あらい砂粒の目をくぐっては染み、洗っては落ち、今際いまわきわに繰り言を遺す。夜のみぎわ水漬みづく悲しみが、いつになく、波にも磯にもつかぬ心地を、濤声とうせい一掃に結ぶのだった。あたか撥乱反正はつらんはんせいの大意をいだいているように、今夜の唸りは迫り来る。……おばあちゃんや市川の家族達の顔が、夜闇やいん揺蕩たゆたい始める。砂の流出著しき浜面はまづらを想う……


 稲村や

 浜の真砂まさごは 尽きるとも

 夢に目のの 露は尽きまじ


 私は、や夢の入口。絵里子さんも、その切符を手に仕度を整えている。頑張らなければいけない何かに、頑張りたくなっている。そうすれば、それが見えて来そうな何かが、仄めく。されど、それは何かが見えなくなりそうな気もしている。私達のかすかな震えは、正直だ。凪まりがほどけた風が、岬の横っつらさらうように駆け昇る。しがない蛍に過ぎなかった身の上は、宙ぶらりんを嘆こうにも、風に急かされるほどのその大きさに、泣きたい気持ちになっている。涙は、尽きないのだ。いつでも流せる、溢れる。互いの体に頼ったまま、熱し汗ばむばかりの手練てだれどもは、魂からしぼり出そうなそんな雫、燃える汗をぜ、女と男の密なやり取りの濃漿こくしょうが……今やっと、横陣のなぶり風にふりほどかれ、それぞれの口元からこぼれそうだ。何かが、新たに生まれそうだ。……もう、待っていられない、溢れてしまう、流れて失くなってしまう。道づれが、どこかへ消えてしまうかも知れない。すくい取らなければ……助けなければ……

 私達は、生まれたてなのだ。蛍は、姿を変えたのだ。きっと何かが、わかりつつある。そして、生まれたばかりの乳呑み児が、母の乳房を探し当てるように、匂いの元へ辿り着くように、遅々といつつ唇を差し出しつ、互いのその紅いひれを重ね合わせて……吸いついた。絡まりこぼれ、ほぐし融け合うもの、ふと覗く、柔らかな感触の微妙な肉筆は、無節操な自転にふけり、ひたすら甘い……味に溢れている。忽ち濡れ潤み、ふたつの紅い山襞やまひだと化す。粘体ねんたいの肉筆同士がこそぎ落とした、上澄うわず漿液しょうえきが……もっと欲しい……もっとみ出すまま、与えるから……優しく揉み合わせて、自分のものにしたい。殊に女のそれは、白い山肌から噴出する、マグマの紅熱こうねつ泥流に浮かされ、消えて間もないだいだい瞑色めいしょくを想わせる。口の中、奥深くでそれぞれの火成岩塊が融けているのだ。澎湃ほうはいたる深層界に触れてみたい、火傷やけどどころでは済まされない、血肉の色のいざなえるとば口……唇の魅惑から、事は始まる。ほだされまさぐる掌の巡撫使じゅんぶしは、それを必死に抑えて大人しがる。彼女の顔に被りがちの髪が、誰の味方でもなさそうに、女の羞恥と男のとまどいの真ん中で、時計の振り子のように揺れている。たまらず逃げようとする吐息の退路さえ、ひれの攻防は容赦なく塞ぎ、抜けさせない。それはただ、受け取れるものを受け取っているだけに過ぎない。遺らずからめ取りたいのは、コンセンサスの仕業であり、今だけの、今という時の最大公約数であった。全てを、今のものにするべく。今は女と男の唇が、相手の唇を求めるに任せている。唇は知りたがり、欲しがり、そして味わい、やがてそれだけでは、済むはずも、ない。渇けば、潤すだけだ。失くなれば、求めるだけだ。肉体が、そこにあるなら。抱きしめて、いられるなら。夜が、更けてゆくなら。海風が、吹いているなら。……その風は、過ちの認識を変えてくれる風だろうか。風向きが変わるのだろうか。過ちの永きを喚び、果ての麻痺するような感覚に至らしめる風では、ないようだ。確かに、今までにはない風だった。求めていた、足りない何かに違いなかろう。


 書き換える、という、初一念あるのみ、という、風。


 ……でも、私は悲しかった。絵里子さんの唇を、受け取れば受け取るほど、取り込めば取り込むほど、なぜか、悲しくなってゆく、寂しくなってゆく。自分が自分ではいられなくなりそうな不安に、駆られる。だからすがりついたまま、辞められなかった。彼女もきっとそう。永い、キスだった。キスだけでは、求め尽くせない。私にはわかる。絵里子さんも私と同じ。他人ひとの情けを悉く突っねて生きて来た。そんなふたりが、たまさか、大した目的もなくこの鎌倉に来て、出逢い、そして……今こうして濃く円やかな時間を、授けつ受け取りつする自分を、未だ突っねようとする欠片、それを自分の中に再び取り込んでいたのだ。私達の創造だった。自分のものとこんがらがり、反芻はんすうもすれば、それぞれに血湧き肉躍り、自分のものとなってゆく。錆び釘は蛍になり、灯を点し、尚も火と燃え夜闇やいんに漂ってさかり、暗い海を照らした。夕照にほだされ、風に乗り、風となった蛍火は、どこへゆくのか。その一抹の不安、欠片を想う心もまた、相変わらず昔からの小心者のままであった。昔を想い知った所以ゆえんのとまどいを見ていた。蛍のよろいを脱いでしまった拙速を憂いても、何も始まらない。

 目の前に、あまりにでっい宙ぶらりんがある。宙ぶらりんのひと塊まりを、この腕にいだいている。それは欠片という、兆しという、小さいなりをしたひとつの妖術、あるワンフレーズであった。……シャーマンの如きその言霊ことだまの……過去なる傀儡かいらい神の……。今更の慚愧ざんき。この上の嫉妬。見つめているもの、抱きしめているもの、自分のものにしつつある何かの源泉に、それらが眠っている。そして今をして、それらを突っつくものがあり、むさぼらずにはいられない。蛍どもに喚ばれし愛欲のとりこは、眠っている誰かさんを叩き起こし、結ばんとするさがにそう時間を要しない。故に燃え、為にほとばしり、よって乱を惹起し、暴発を怖れた。その不安であった。


 ……欠片とは、罪なのか?……


「悔しい……」


 絵里子さんは、想わず漏らしてしまい……しまおうとして、目を閉じたまま夢中だった。私も終始瞼を下ろしてはいるが、実は半眼を決め込み、彼女のしどけない粘着力をんでいた。互いのそれを想像するまでもない。かてを得るべく膨れ返る情動体質は、心赴くままに花蕊かずいの呟きを露わにした。めすの声が、おす手懐てなずける。彼女は傷心妬心を欲し、私へも求めて唇を浴びせ続ける。私も負けじと見舞う。相互にわからせようとするそれは、相手の芯に触れ、そのありように気づき、百万の味方を懐柔せんとして、正に舐めるように誉めそやす、一流の接遇であった。それぞれの無念、女と男のジェラシーは名状し難いものがあり、隠し切れない。仲間の異性達への、シェイプされるばかりの羨慕に、互いが身を任せるしかなかった一日だったのだ。女は女に、嫉妬する。たったひとりだけの女として……。さればこそ尚、熱を来たし燃え転がり、蛍をも喚ぼうか。どっちがどっちかわからない、蛍はどうだの、もうわかりたくない、もう見えなかった。

 そうして、ぎ落ちつづまりゆく想いのみがある。うろこを剥がし剥がされるセンスが高揚する。気づきに溢れ返るそれぞれがいた。そこには、見ようとすれども見えなくなる、ふたつの同じ存在があった。移ろえる実体。感動する実像。もし、そこに時の流れが、感情がなかったら、私達は……どうなってしまうのだろう……今という時間の感覚が、極まりつつあるように想えてならない。絵里子さんもそうに違いない。満たされつつある。今が昇り詰めつつある。一日の光の頂上が、夕日となって最後の一閃に燃焼し尽くすように、ふたりしてそれを眺めたように、渇驥奔泉かっきほんせんの今にはやるのみであった。これ以上の向こう側にある、見えなくなる何ものかに、怖れが兆している。それと、悟っている。……ならば、今は虚像に過ぎないのか? 消えてしまうのか? 失くなってしまうのだろうか?……。感動と無感動の境界域にあるかの、最後の一滴を味わう、私達……揺れる、私達……麻痺してゆかんばかりのその手応えは、ともすれば、罪?……。愉しむだけの、自分が納得するだけの、ひとりよがりであった。……ここから先は、罪の意識すらない、罪が待っているのだろう。それもまた、罪……。


 夜闇やいんひらめく真白き肌は、妖しく、美しい。露ほどの、夜露の生命いのちはあまりに寂しく、さるにても、切ない。……余桃よとうの罪に泣きそうな時の風が、それを耳元で仄めかしては去ってゆく。最期に来たりて見つめる所、寂しさだけが佇んでいた。最早、神の劫罰ごうばつを待つ身のように、丸裸だった。自分の毒で半ば麻痺していた感覚は、罪に走る自分をも裏切った。寂しさ故の衝動は、言い訳に過ぎない。燃えさせる、言い訳でしかない。自らの魔性で喚び集めた蛍どもに、罪の意識はない。されば、消えてしまったのだろう。愛欲の感じる所、性愛の巧む所、煩悩の悉くは、無意識下の防衛なる、毒もどきのちょうほしいままにしよう。割り切れぬ未分化の世界は、幻。どんなに愛しても愛し切れない、そして愛されない。ならば……初めから愛していないように……出逢っていないように……君は、風のように……ほんの少し、目の前に立ち止まっただけなのだ……寂しさが招いたものは、寂しさのうちに消えてゆこうか。最後、なのだから。顔には、帰るべき場所の趣きが映っている。たとえば、家。あるいは、故郷。


「私達、ずるいよね……」

「えっ?」

 水を噛む事に疲れたように、さりとて、ふと、口にしてしまう本音を覗かせたひとだった。

「いけないって、わかっているのに……」

「フフ……何事もね」

「もっと賢ければ、意気地いくじのなさに負けてないよ」

ずるくても……漏れっ放しだ」

「それが一番、損。最後にひとりになっちゃった……」

「僕もさ……」

 今更止められない。漏れたままなのだ。いつも、そう……いつまでも、んなじ……。そして、ふたりなら止められるかも知れない、泡沫うたかたの防波堤となった私達だった。微温ぬるい自覚の毎日は、いつかなますに叩かれるかの仕置きで、毒には毒を以て制されよう。全てが、幻の中から離れられない気がしていた。もう、逃げられない。……絵里子さんと私は、ようやく体を離した。甘い必死が、後に棚引かせる風に紛れ、流れていった。ずかしい罪悪感が、やけに痛い。残留物にまみれるふたりなら、ふたりだから、止められるものをつつみとなって塞いだようで、別の何ものかの流出を許したのだ。漂うままであった。乗り換えたような、更にすり替えたいとまどいは、そのまま。流れゆく同腹一心の想いは、変わらない。……夜空を望見すれば、気づかぬうちに雲流れが、厚い。蛟竜雲雨こうりゅううんうの如く天翔あまかけ、風が、胸に轟いた。

 ……やがて、波音は高く、うねりの一章へと雪崩れた。絵里子さんと私のほだされ顔も、迷える子供の足取りのように、人の流れをかわし、溺れまい沈むまいと、渦流にあらがう顔にやつれつつある。婀娜者あだものの行路難しと、偶然を装ってとまどう。……自ずと訪れた沈黙。彼女と私は言葉が見つからない。真っ暗な海に小々波さざなみさえ見えない。にもせよ、ふり絞るうめきの潮声たかぶり、私達をおごらせようとそそのかす。今、こればかりの微弱な欠片を取り巻く奔流は、偶然の中へ、女と男を落とし込んで惑わせる。しかも抽象性をもはべらせ、古き過ちの認識と相競わせたく、操らんとしている。いつもながらに、何も言えない私達。偶然なるものと過ちのジレンマに、埋没せざるを得ないのだ。暗くて見えない海の班声むらごえは近く、小々波さざな九十九つづら折れ、果てなき連鎖の葛藤を醸して、遠声とおごえへと逃げおおせる。作り声のようにも、聞こえる。それは、偶然の過ちを成立させるべく、手の平を返すように具体性を与え、百万の味方たらしめる、千鈞せんきんの沈黙……をちりばめるばかりの、音も形もない、聞こえない哭声こくせいと、見えない火影ほかげ姿をも呑み込むかの、海の日常であった。海も、沈黙する。時に拠り所とする。それでも、語る、語る事が出来るのだ。無意識下の表現を誇るように、眠っている、眠らせている何ものかに、気づきがある。刹那の沈黙も、何れ永い沈黙に帰るという事を、知っているだろう。沈黙させられるような出来事をも、見せてくれるだろう。一度決めた沈黙は貫けと、教えてくれもしよう。罪も罰も、与えもしよう。……海の万能にいだかれている、ひとりとひとりの今の時の波だった。

 沈黙に眠る具体性は、さかのぼらずには置かない。その為の沈黙、その為のひとりなのだ。さかのぼろうものなら、隠して守り通したい過ちにも出逢う。それは偶然ではない。具体性に偶然はない。ひとりなら、ひとりの世界なら、偶然のような幻も、沈黙も守られる。しかし、ひとたびひとりのフレームから漏らしてしまえば、必然的に虚声きょせいこそ聞こえ、守りたいものも守れず、過ちは沈黙しない事を知ろうか。世の無情矛盾に泣こうか。忘れられないもの、消えないものがある。忘れようとしているのに、忘れたいのに、どうしても消えないものがある。それが過ちだとしても、消えてくれないのは、その大きさの所為せいばかりではない。大きさの陰に隠れる、忘れたくない想い、たとえば、愛……。同じぐらいの大きさのものを見つめているから、忘れられない、消えないのだ。愛のそばに過ちがある時、過ちの近くの愛に触れそうな時、忘却は意味を失う。愛のそばに、過ちがない事があろうか。過ちの近くの愛に、触れそうにならない事があろうか。愛にも、過ちはある。そして過ちにも……愛は、ある。……私は、強く、そう想う。想い出という今日の友は、ともすれば明日の敵。楽しい時の友は、辛い時には敵に回りもしよう。その時その時代の自分が決める事。いつでも今の自分を代弁する伴走者の声は、この上なく饒舌、されば重く、さるにても忘れられない。最良のパートナーたり得るその言葉は、気がつけば、いつもそばにいるのではないか? いつもその響きが懐にあるのではないか? 素直にそうだと言えるか? 満たされている今は、それを隠す必要もなかろうが、もし、そうではない時、それを隠そうとする自分を、想い出は、尚も何を語ろう、何を教えようとするだろう。今という針の振れように、想い出は敏感、そして正直、貢献する所、無限大。笑顔も涙も針の振れ方の仕事、作品である。他人ひとに明かせない想い出は、外に触れさせぬべきものなのか……否か? 外の風を求めているのではないか?……風通しをよくしなければ、何も変わらないように想えてならない。

 ただ……絵里子さんもそうだと想うが、私達は、偶然の過ちを演じる事に、こだわり過ぎていたのだ。それは取りも直さず、沈黙の濫用であった。安っぽく扱ってしまった罪なのだ。そして、その劫罰ごうばつに怯え、過ちに沈黙はない事を知り、敵の術中に嵌まるように、更なる沈黙に走った。私達は、最早過ちの傀儡かいらいに甘んじ、黙り込む事だけが修行として許される、囚われの僧然となった。人知れず妄想する自由を得た旅僧たびそうは、ひとりの世界にこそ羽搏はばたき、光を探し、風のままに風となって尚々漂流し、消えそうな、止まりそうな身過ぎ世過ぎにあえいでいる。沈黙を戴き、接足作礼せっそくさらいにて拝する僧残であった。比丘びく比丘尼びくにの密夜の逢瀬は、終生の沈黙を言い渡され、波羅夷はらい罪の悲哀にく、僧階の瀬戸際の恋に燃え、還俗げんぞくせんとしているみたいだ。……過ちに沈黙などないと知らされつ、それでも沈黙せざるを得ない、沈黙させられる事ほど辛いものはない、悲しいものはない。……沈黙。それは孤独である。……愛。それは過ちである。……そして、過ち、それは……愛だろう。いつか必ず、愛に変わるのだ。そう、信じられる。……小さく弱い虫くれ達は、強く、そう想う。消えてしまったいつかの蛍は、再び灯を求めて、飛ぶだろう。小さな灯にならんとして、いつか、必ず。

 寝腐ねぐされの女と男のあいだ、起き抜けのベッドのような黒革のシートが、夜一夜よひとよの汗を知る、吸いつき心地を惜しんでいる。唇は離れてしまっても、柔らかな蜜は、私達の枝葉末節にまで沁み込み、甘く濁った気が、まだ風に散らされず滞流よどんで貼りついている。ひと時の移ろいにこなれた人間臭さが、およそ半分の目覚めを語って、むせぶ。じり合う濃さが覚めた訳ではなく、生乾きの女と男の匂いがしている。……臭くて、仕方がない。されど気になって、愛おしくて仕方がない。離れたとはいえ互いにお見通し、互いに勝てないと想っている。目の前の人にも、そして、自分にも。どこまでも続きそうな、見えない綱引きを見つめていた。更けゆく夜に、約半分の光のまたたきは、斑点模様の抵抗で、どっちつかずの意思を示していた。誤魔化せる余裕が、ある。甘く見ている道づれだった。どちらに転んでもいいように、柔らかいままでいたい。確かに、私達は、ずるい……。確かに、私達は掴み合いむさぼり合い、しどけない、あられもない、他人ひとに見られたくない、知られたく、ない。……胸を掻きむしりたくて……どうにもならない。

 胸と胸が見つめ合うほど、うちうちが息吹くほど、沈黙は永かった。永い、罰だった。言葉を奪われた私達は、こんなに近くにいるのに、離されてしまったかのような、しかも必然的な、自らが招いた孤独の辺境に投げ出されていた。偶然を軽んじ、当たり前を遠ざけているうちに、本当に、そういう自分を作り上げ、その言い訳に固着するしか道は見えない。そしてそれさえ、抑えられている。……自分の中の本当を見失い、わからなくなってしまった。沈黙という、必然を知った。本当の想いをあなどった罪は、同じ想いに裏切られ、同じように黙り込む因果は巡る。真実の味方は、涙だけであった。私達の弁護は、涙だけにあった。沈黙の涙がなかだちする偶然の過ちだった。……絵里子さんの、ややはだけたシャツの胸元でえぐり展げる、白皙はくせきの乳房の二子山のふもとが、峻坂しゅんぱんを冒す道程に、自らいている。薄っすら光る汗を乗せた艶肌のしょっぱさを、わかって欲しいとくずおれる。私をえぐって置いて、えぐるように深いその谷間へ逃れ、髪のすだれで隠し、女の息づかいを潜めている。横隔膜の波打ち際に至らざるはない、男の情動は、真白きみぎわそぞろ歩いている。そぞろでいられるはずもなく、彷徨っている。破れ砕ける波頭は裂帛れっぱく叱声しっせい。最上段から一撃で斬り下ろす、一瞬の縦一文字いちもんじ月白げっぱくの一線ひらめくも月形つきがたの影はなく、海鳥の眠り深き波の白妙しろたえの、ひとりねがてにして、さても寂しかろう遠吠え。砂浜に手延べ届くも手ね消え、退却の矢尽き、蟷螂とうろうの斧は限界の刀折れ、水泡みなわ微塵みじんあととどめず、顧みはせじ……。潮騒飛び交い荒ぶる見送りは、ひとえ寂寞せきばく。体当たりして悉く跳ね返る泣き顔は、むしろ屹然きつぜん険坂けわしざかは、極楽寺の我が家へは辿り着かない。白い海岸は、稲村の小浜の黒砂でもない。夷険一節いけんいっせつの沈黙は、幻に射抜かれたと言う以外に、私にはわからない。ただひとつを以て貫かれたかの、絵里子さんもそう……きっと、そう。しずかな躊躇ためらいの無言のようで……自分達も気づかぬうちに……


 東海の

 岬の磯の 白砂に

 我等泣き濡れ 如何に戯らん


 うちなる本当。その具体的な行動。両者を引き離した怯懦きょうだざり合わない永き時間……。そういう一本の、か細い線はずっと変わらず、硬い釘になりはしたが、酒を覚えるように知った怠惰たいだに、釘は錆びた。生活感のない抽象的な想念の世界は、やはり、具体性の意趣返しとしか想えない、私達。想い出が作ったスープは、ただしょっぱいだけで、っくに冷めている。そんな暮らしの笑顔も涙も、語りたくないさ……寂しくて……。そんな目をしている絵里子さんは、そんな目をしているであろう私を、じっと見つめている。……そんな、目の下の涙袋を膨らませた眼差しで……私を見つめないで欲しい。……わかっているから……訴えなくても、その目に男は弱いのだ、勝てないのだ。冷めたスープをもう一度鍋で温めて、寂しさを煮詰めている女の……その、目。煮こぼれそうな、ぎゅっと、強く、抱きしめたくなる、この胸の熱さでかばい包んでしまいたい、彼女の薄紅うすくれないした、火照ほてりに下がる目尻……。どうして、そんな目をするの?……私だって……。辛いんだね。君もやっぱり息苦しいんだね。何かの為に生きる、その何かを探す事に、疲れてしまったんだね。私達は、帰る港を失くした、船籍不明の難破船……。当てない漂泊航路に、羅針盤を棄ててしまったんだ。もう、何もかも、疲れてしまったんだ。どうしようもないんだ……。今日、出逢ったばかりなのに、ふたりでここまで彷徨ってしまった。……悉くに否やを突きつけるも、自分に対してそれが出来ない、ひとりぼっちの所以ゆえんとなって、自らに跳ね返る、その、疲弊。抱き合った肉体は、怯懦きょうだを恨み潰すように、きしみの悲鳴をし殺して、痛みを分かち合ったのだ。本物の勝負が出来ず、敵前逃亡癖の韜晦とうかいに、噬臍ぜいせいかいが憎らしい。


 ……一本……ひとつ……


 私達ふたりは、もう、それを取り返したい想いしか、ない。

 絵里子さんの羽二重肌の艶めきが、消えた蛍に生まれ変わり、命脈を繋がんとしな作って久しい。白いデコルテの膨張は、蛍火の隆盛に余念がなく、乱れ髪を直す仕種の弱々しい腕が、何ともさりげない。灯れる瞳を添え、匂やかに薫って来る。これでは……肉体の豊溢を、抑え切れようはずもない。その細腕では、到底無理である。如何にして、私の何を取り返そうというのか?……。空想が先走る、行燈あんどんの明かりは淡く、それにしても妖し過ぎて、不可解な夜に底光りする、一点を守っていた。確かにこの時、このひとの肉体は、白皙はくせき肉叢ししむらと化している。彼女にとっての今の私という存在も、限りなく、それに近い。こんな私に取り返されたい何かを、その目が、示唆に富んでいる。全ての蓋然がいぜんは、剴切がいせつ横座よこざにあって揺るがず、満々と水をたたえている。夜も売れ、一日の終わりも近い。やがて日が変わりつつある狭間で、私達は、稲村ヶ崎の蛍合戦ほたるがっせんに、揃って勝っているようで、互いに敗れてしまったのだ。痛み分けは、敗北でしか、ない。

 そんな絵里子さんは、こう、どう? 切り出せばいいものか、決めあぐねるように、

「ねえ……」

「うん」

「もうじき、鎌倉花火だよね……」

「うん、そうだね」

「私の部屋で、一緒に観ない?……ふたりで……」

「う、うん」

「夕方、家に来てね」

「うん」

 短気の暴飲暴食、自暴自棄の日々につら当てるかの、俎上之肉そじょうのにくたる、ふたつのせい。今宵はあえて抑えつつも、まだ、続きが、ある。取り返せば取り返されたくて、取り返すしかない、夢の続きが。……夜空を彩る華は、黄白青銭こうはくせいせんの算を散らし、時に鮮紅の血潮紫吹しぶく熱き瞑想が、や、彼女の目の中でくゆり、起き上がり、そして掴んで握り潰そうとするように、その炸裂音に震えるように満ちていった。極彩色の放射状光線に映える海の仮面を被り、婀娜あだな顔で私を見ている。その日はすぐにやって来る。尽きない想いは何れ尽きるも、また生まれづる想いは、尽きない。私達の動揺は、かくの如き花火の風圧の所為せいだろうか。心、ここにあらず。


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