何かが、ある……何かを、見つける……

 そして、梅雨も去っていった。平年並みの梅雨明けであった。湘南地方にも、今年も夏本番が訪れ、子供達の、夏休みを待ち切れないうずきが、街中に散らばっている。大学生達は、うに始まった長期休暇を、他に先んじて早乗りするように、気が早い、忽ち移ろう夏の一過を、満喫していた。すぐにそれとわかる、若々しいこだまが、そこかしこで弾けている。アルバイトに精を出す人々と併せ、あお色と黄色の水煙の如き、男女のコントラストが、鎌倉ごと、覆い尽くしているかの感は、観光地の、普通の顔をしていた。かつての芋を洗うような、海水浴場の賑わいは、なりを潜めてしまったが、それでも、関東の砂浜の、黒っぽい砂ゆえの、波打ち際を求めて、おしゃれなゴム草履の若い人達が、街の主役である事には、変わりはなかった。ここは、横浜川崎東京に程近い、リゾート地でもある。

 今日の私は……たった今、裏駅の有料駐車場に、車を駐めたばかりである。日曜の午後。真夏の直射に映える白い車体が、丸ごとレジスタンスの光体のように、合図を拡散している。その所為せいばかりではないだろうが、街ゆく人達も、日傘の中で目をすがめたり、帽子の日けと、サングラスを用いたりして、自然の白色光の、縦横無尽の攻勢を、半ば呆れるように、仕方なく受け容れていた。怠屈が清爽なのは、山の鮮緑の遠景にほだされ、想いを馳せているからか。ほんの少し手をのばせば、身近に山も海もある。蒼茫たるものに惹かれる、一点の蒼氓そうぼうに過ぎない私……が、街中に散蒔ばらまかれ、街中を歩いてゆく。その中のひとりが、私であった。意識が一歩退しりぞくかの感は、暑さだけの、故では、ない。

 

 ……GEORGE HAMPTONの、扉を開けた。

「おぅ! いらっしゃいませ」

 初の、ふたり揃ったACTIVEの歓迎だった。すぐ様、

「こんにちは!」

 同じテーブル席に座ったままの、ふたりの女性の笑顔が、畳みかけた。

「こ、こんにちは。先日は、ありがとうございました。それと、先に帰ったりして、ごめんなさい」

 座る前に、私は詫びた。ひとりの女性は黙ったまま、依津子さんと正樹君が、

「大丈夫大丈夫、ごめんね、こっちこそ」

 ばらばらに、私への異口同音。

「ハハハハ」

 マスターの、優しい干渉。私を見ながら頻りにうなずいている、同じ所作で、視線を返した私は、そして、もうひとりの女性と、目が合った。依津子さんに促され、その席に対座した。あの、彼女の柔らかく私に吸いつく肉体が、至近距離から、男の記憶にかかって来た。隣席の女性と一緒に……私は、倒れそうで、椅子にすがった。

「陽彦さん、こちら、サイトウエリコさん。結構、仲よしね?!」

「うんうん、ねっ。初めまして、サイトウと申します。よろしくお願いします!」

 隣りのご存知さんと、頻りに目を重ね、こう挨拶した。

「初めまして、吉村陽彦です。どうぞよろしく」

 私の方が、新参である。依津子さんのように、みなよく知る先輩に、礼を供した。

 依津子さんの話によると、高校生の息子がいる、離婚歴のある、このひと。カウンセラーの桜井さんと、同じ年格好の美人である。その眼差しに、どこかこう、繰り合わせ切れないような、不足物の欠片が、端の方で揺れていた。初対面の緊張にけしかけられたのは、私も同様ではある。が、私とは比較するまでもない質感は、鋭角の斜光が筋通る、鼻梁が印象を集めているからであろうか。口元も、引きしまっている。意思的な風合いのそれらが、顳顬こめかみに伝わり、神経質そうな皺となって、目尻を引っ張り、一抹の目の不安を、緩く、かばっている。口ほどにものを言う目は、口ほどに守られて、口ほどでもない目の、自戒が仄見えているような気が、私にはした。

「夏だからかなぁ、最近、集まりがよくないね。今日もこの四人だけだし……」

「う、うん。家庭人である方も多いし、仕方ないわよ、おじさんおばさんばかりなんだから……」

「ハハハハ! やっぱり、若い人には勝てないよ、ねえ?!」

 依津子さんが先導する、女同士の会話は、笑いをだぶらせ、〝ねえ〟 を重ね、男三人は、ひたすら間のびした微笑みを添え、息だけ抜き続けた。女盛りの域にある、明け透けなやり取りは、しかと、若さには負けていない、熟れる女の匂いをして、勝るとも尚、まさっていた。客もスタッフも、味わい深き人をこぞる、アンプラグドな空間識が、日常を語ってゆく。ランチ時間帯も過ぎ、休日でも準備中の表示を掲げる、商売よりも趣味が高じたゆとりの、実益のみにこだわらないような、心の余白が、あえての余白を無言で伝えている。気韻生動の含識がんしき、その生命感が溢れていた。アコースティックギターのBGMも、実演さえなくても、心識の風景には、いつも音楽が流れている。この店に来れば、忽ち、流れ出す……誰とはなく、語り出す……。

「何飲む?」

 マスターが、投げかけた。

「アイスティーで」

「了解!」

 父子おやこで返って来た。私は、

「ねえ依津子さん……」

「うん」

「フフフ……」

「何?」

 依津子さんと私は、小笑こわらいのエリコさんを見やった。

「依津子さんって、言われてるんだぁ……」

「う、うん……」

 私達ふたりは、言葉を、濁す……私は、この間、正樹君とどこまで行って来たのか、聞きたいだけだった。

「ねえ陽彦さん。でいいよ……これから……私は変えないけど」

「うん、わかった」

「ハハハハハ」

 マスターと正樹君の哄笑は、言葉も仲間入りの歓迎であったか。

「エリでもエリちゃんでも、なんでもどうぞ! 男性に対しては、やっぱりハルヒコさんで行きます。絵の具の絵にさとの絵里子。サイトウは一般的な。ハルヒコさんは?」

「太陽の陽と書いてハル。吉村も一般的なあれ」

「うん、そうなんだ。私、幾つに見えます?」

「う、うん……四十代……なったばかりぐらい……」

「そう! そんな所です……で、お宅はどちら? 私は、由比ガ浜のマンションでひとり暮らし」

「僕は、あの……極楽寺の外れの一軒家にひとり……」

「あっ、そうなんだ」

 ……絵里子さんのその言葉と、依津子さんのその言葉は、全く以て合致した。しかし……絵里子さんの歯切れのよさに比べ、依津子さんのそれは……なぜか、沈みそうであった。声量少な、余韻さえ消えがての響きが、されど保ったままの、笑顔の足を引っ張るような、一片の憂いを、私は、感じ取った。まるで私と同じ、隠して置きたい心の端くれを、私に知らしめる佇まいに見える。そしてそれは、この場にいる五人揃って、あまり触れるべきではない、気の置けない繋がりにもせよのバリアを、認めるものであったろうか。老舗のプライドたるを、彼女は、疎覚うろおぼみる表現に、とどめていた。みな、その察して欲しそうな心の顔を、黙って眺めているだろう……。

「はい、お待たせ」

 正樹君が、私のオーダーを完結させる、丁寧な態度で、アイスティーを持って来た。

「ありがとう」

「遠慮しないで、大人しがって飲まないで」

「ハハハ、うん」

 私といっちゃんに、向けられた言葉で、あったろうか。その彼女が、俄かに活気づいた。

「あのね……私、やりたい事があるの」

「何、何?」

 一同の注目が集中した。スタッフの手も、止まった。穴が穿くほどの視線を浴び、嬉しそうに瞳はほむら立ち、逆に矢の如き、みんなを見回す視線は、果敢に、まだ見ぬ世界へ、や飛んでいったかの、駆け巡るキュリオシティーの目から、供給されていた。少女のままの目が、もっと、大人になりたがっている、目だった。満面の笑みは、そんな自分が滑稽だったのだろうか。過去にあらがい、現実を皮肉り、未来を窺う、しあわせを望む営みの困難を顧みる、慰藉の、防衛の、笑顔をたたえているのだ。可笑おかしくて仕方なさそうな、あの日の……崖下の少女が、今、私の目の前にいる。私しか知らない、私だけの世界で生きていた少女は、誰が見ても、かくも美しく、濡れるような、女……だった。

 何かを、見つけたのだろう。私達は、期待を溜めてゆく。不安も、用意してゆく。彼女の事である。きっと計画を練っていよう。それでも相半ばする、ギャラリーをよそに、むしろ煽るふうの、その吐露の満を持する女の目が、急激に、満を辞する少女の目に呑まれるように、煌めき、そして、さっと、放たれた……

「私……バイクの免許が欲しい! 普通二輪の、オートマティック限定じゃなくて」

「えええぇっ?!……」

 即座に、総員挙手の喫驚が飛び交った。えぐるような残像をかたどる、深い響きに包まれた瞬間を見ている、私達だった。束の間の、空白だけが、浮かんでいる。それにしても、長い寸陰を惜しんでいる、ギャラリーだった。集中からの一気の解放には、無防備のそれぞれが、自問すら放棄の対象とせざるを得なかろう、時間が訪れていた。あともう少しで、青天の霹靂へきれきに達しそうな、そんな出来事を予感させるには、充分な地点に、落とし込まれたような私達だった。また、その、ほんの僅かの安全地帯を、目ざとく見つけていたのも、私達の電撃的事実であった。そこにはやはり、彼女の歴史と、この宣言そのものが、どうしたって繋がらない、相応しからぬ方向性を、嘆かんとする言葉が、それぞれの脳裏を席巻していただろう。防波堤が吹っ切れたかの感が、五人全員の対峙たいじする所で、あったようだ。

 マスターが、口火を切った。

「正樹。お前知ってたか?」

「いやぁ、初めて聞いた。いっちゃん本当に? マジ?」

 絵里子さんも続く。

「ちょっと、いっちゃん!……あなた本気で言ってるの? 嘘でしよ?」

「ううぅん……」

 私もざり、重たげなうなりを、重たくならないように、気づかう一同である。言葉も目線も、滞りがちの顔に囲まれ、その中心で、依津子さんだけが、ひょっこり上陸したっぽい、自分の輝きに微酔ほろよっている。

「あの、もう家族の了解も得た。驚いてたけど、説得したの。『一度言い出したら、聞かないだ!』って……半分、諦めたみたい。で、大船おおふなの自動車学校に通う事にしたの。近いうちに、申し込みに行こうかな。会社にも、理解してもらわなくちゃ。まだ言ってないけど、なかなか融通が利くから、大丈夫!」

「ハアァァ……」

 彼女のご両親の気持ちが、察せられたような、傍観者達であった。見かけによらない行動力の兆しを、初めて知った私達は、最早、優しい静観者に回るしか、選択肢はない気がしていよう、仲間達の心配顔を揃えていた。この細腕で……あたかも、老舗のお嬢様の御乱心を、の当たりにしている空気に、みな、自らを投じていた。私にしても、バイクの事はわからない。彼女の家のガレージには、昔から普通乗用車が一台、いつも駐まっている。私は鎌倉に来て以来、その車を、家族三人の全員が運転している姿を、何度か見かけている。依津子さんも、たぶん、普通自動車免許を所持していよう……でも……何か、彼女には、危なっかしい……そう想えてならないのだが、それを、言えない……自分の弱さが、れったい……。

「あのさ、いっちゃんの普通車免許は、オートマティック限定?」

 絵里子さんの心配旅は、納得探しの道程にある。取り巻きはみな、一視同仁であった。

「ううん、違う。マニュアル車も乗れるよ」

「あっ、そう、意外とやるわね。私、取得したの三十半ばだったから、オートマティック限定」

「ふうん、そうなんだぁ……ねっ、一緒に通わない?」

「ええっ?! 何言ってるの?! 私は絶対無理よ、アラフォー女ライダーは……確かにカッコイイけど……フフッ」

「ハハハハハ!」

 男三人は、女性コンビの漫才に、ただ笑った。確かに、アンプラグドだった、しかも、即興の。考えてみれば、常に、誰彼構わずそうなのだ。その反応の笑いは、いつもの事である、普通であった。当たり前が、砕けてゆく。

「普通二輪って、排気量400ccまでよね?」

「うん。400に乗りたい、400が欲しい! 免許取ったら買うんだぁ。私だってアラサーだよ。年なんて関係ない! あの……風を斬る感じが、風の壁に突っ込んでゆくような感触が、たまらない……私、風になるんだ……。いいでしょ? ねっ、正樹さん?」

〝ねっ〟 と同時に、彼の方へ首をじる、ライダー志望者だった。

「う、うん、まあね……」

 突然向けられたミュージシャンは、吃音を呈し、とまどいをあらわした。

「ほらぁ、正樹さんだって困ってるじゃない、ねえ?」

 絵里子さんも追いかけるように、顔ごと向けられた彼は、苦笑するばかりだった。更に、どこか小さく収まりつつあった。

 私は、入店した時から、あまり意識しないようにしてはいたが、ふと、正面にいる絵里子さんの視線が、やけに気になっている。依津子さんを見やる、私の目配りのかたわらで、それをたずねるまでもなく、たずねるべくもなく、下からてがう添えものに似た、脈つ女の揺らぎを忍ぶ目に、変わりつつある事が。依津子さんの表白に寄り添い、その言葉に併せて、逐一の反応、漸次の被翻弄止むなしとしたのは、みな同じである事に、変わりはない。

 さはいえ、絵里子さんがしまっていたのは……焦慮やきもきの陰にある、嫉妬やきもちであるように、私に教えるように、そういう目を、しているのだろうと……今頃気づかされた、デリカシーに欠ける、私だった。あえて空気を読もうしない、ずるい私を、彼女はわかっているだろう。初対面のテーブルの下で、意地悪をしかけ合っていると、想っているだろう。もちろん、依津子さんに対する私の気持ちだって、見えているはず……。ならば、依津子さんに対する、飢餓感のようなジェラシー、正樹君に対する、看過出来ない羨望、取りも直さず、怒りに変わるかも知れない、嫉妬……それさえも……。絵里子さんが私を見る目は、依津子さんを見る、ち難くはべり、いずり回る、定温度の女の情念くすぶる、その、目。

 さっきから、もう幾度、この目に出逢っただろう。私が正樹君を見る目も、この種の目なのだろう。絵里子さんと私は、五十歩百歩の念を掲げ、行動していたのだろうか。それは、無意味な事のようにも、感じている。非生産的であるようにも、悟っている。互いに、勝機はあるのだろうか。互いに、探っている事に、変わりはないだろう。口に出して言えない所で、繋がりそうな予感を、今は隠したい、私だった。

 それよりも、正直……この依津子さんというひとが、飛翔体のように、それになりたがっているのは……やはりどうしても……正樹君への、消し難い想いが……妻帯者であるにもかかわらず、憧れ傾く女心が、羽搏はばたく事……翼を持つ自身に目覚め、翼を信じ、想いの丈を、その翼の自由のままに、悉くを委ねた……と、私を押し戻すのだ。動かし難いものは、依津子さんと私では、全く逆、対極に位置しているのか。彼女は、あの日の事を忘れ、正樹君へ焦がれ、彼を選んだと、私は感じている。前を向こうする彼女と、後ろ向くばかりの、私の、嫉妬……。

 私は、絵里子さんのジェラシーを掻いくぐり、自分の想いを隠す事に、ここでも必死だった。今は、絵里子さん云々うんぬんの場合ではなかった。自分が向かう所のジェラシーを、一途に、飛翔せんとばかりに……。それでも、過ぎ去りし梅雨の雨簾あめすだれのように、密やかに、出来るだけ穏便に、済ませたいのであった。絵里子さんの想いに、乗じるべきではない。待っているような何かを、汲むべきではない。定めし彼女も、その想像をしていよう。今は、場の空気に馴染む事を選択した、私達であるはずだ。

 想像……想像……。もしかしたら、依津子さんも、私への嫉妬……絵里子さんに対しても……牽制けんせいの目で……。マスターを除く、若い四人の男女の眼差しは、複雑に交錯しているかの空間識に、浮かんでいたのだろうか。

 たまさか、微笑むマスターと目が合い、うなずき合った私。大先輩が景気よく、

「うちは、若いお客さんが圧倒的に多いから、俺も毎日、刺激をもらいまくりだな! ハハハハハ!……しあわせって、事だな」

「そうだねえ! ハハハハハ!」

 四人の子供達は、若さにおいて負けてはいない父親を、揶揄からかえる笑いの渦で、晴朗なリスペクトを贈った。父の言葉通り、インスパイアたるを実感しているのは、総員丸ごとだろう。私のそれに関しては、他でもなく、ただ、強烈であった。それぞれの個性という塊まりが、触れ合いぶつかり合ううちに、自ずと角が取れて玉のようになり、更に磨かれ艶めいて、一個の存在を創る。どこにでもあるような、言動。どこにでもいるような、その人。埋没しているみたいで、他人ひととは違う。何を考えているのかわからないふうで、信念の人。彼等は、そういった人格を育み創造し得る、自由の旅をいつも用意している。だから出来る、だからわかるようになる。そして、彼等は自然に引き寄せられて、集まる。求めるように……そのように……私はまた、マスターと視線を重ね合わせた。微笑み合った。

「正樹さん、今日はずいぶん大人しいじゃない? いっちゃんが心配なの?」

「えぇぇ……」

 の、依津子さんの後を拭うような、

「心配は心配だけど……あの、何と言うか……もう……いじめるなよ!」

「ハハハ」

 マスター単独の、ちゅうくらいの笑いである。私は、やっぱり……正樹君も、依津子さんも、決して悪い気はしていない、されど、とまどうばかりの心を、持てあましていると、問答をいた。誰もが一致する一景だろう。そして、はっきりしない言い方の陰には、それだけでなく、私へ対する遠慮が引きめていると、嗅ぎ取れるのだ。自分の優越を押し出さない、わきまえというより、私の気持ちを推しはかればこその、気づきの心を露わにしたと、想った。みんなが察しているように、きっと……。そして、そのみんなの中にいる、今日の輪の中心で赴く、依津子さんの、実際の所を、私と正樹君をどう想っているのか、私はもちろん、知りたい! 聞きたい!……。ふたりが私に届けた斟酌しんしゃくの心を、私は〝優しさ〟 であると判じている。尚も情炎燃ゆるを否めない。たとえ、道徳的な〝わきまえ〟……換言すれば〝怖れ〟 であったとしても、私の情火は消えないだろう。他人ひとの恋路の邪魔はして欲しくないと、祈る私は、確かに、弱いのだ。それにしても、絵里子さんは意地悪なひとだ。体中の毛穴が、ぎゅっとまった私であった。


 それは、依津子さんを愛していると、初めて知った、その時の、震えるような息苦しさに包まれた、感覚だった。愛とは、弱いが故に、強くなれるのだろう。今、初めて、それを知った。そういう、愛だった。ならば、愛だった。だから、忘れられなくなるのだろう。弱いから、続いてゆくのだろう、続けられるのだろう。果てしなく、どこまでも、ずっと、ずっと、君を。夢の中までも。

 四人の若い仲間達……それぞれの事情がある。さればこその心のパートナー、尚以て、この集まりである。正樹君には妻があり、絵里子さんは子供を持ち、仔細まではわからないが、属籍を同じくする、継続中の立場がある。私は今ここで、その責任云々うんぬんを論じるつもりはない。無責任な私が、他人ひとのそれをどうこう言ういわれはない。そういう男にはなりたくない。揚げ足鳥はずかしい。こんな私を認めてくれたのだ。何でも言い合える関係性を契ったなら、自由な言動より、仲間入りの恩義として、むしろ繋がりそのものに、重きを置きたいと考えている私であった。無論、そこに自由が保証されていれば、何もいう事はない、理想的であろう。永きにわたるひとりの心が、人恋しさの説得に敗れたのだ。さすれば、多少のわがままだって、許せるだろう、そんな気もしている。わがままというわがままではないだろう、そんな気もしている。依津子さんに対しても、正樹君も、そして絵里子さんについても、彼等が表現する所の、わがままという自由を、私は、微笑ましさのうちに、うべなってゆくべきなのだ。でなければ……ひとり故のジェラシーは、去りそうにない……。しかし、人を、求めれば求めるほど、求めただけ、ジェラシーは……去ろうともしない。前を向こうとすれば、それなのに、後ろ向く。人のごうの喜びと悲しみは、いつも背中合わせ、無常の響きにいだかれている。狭いスペースで生きて来た私は、曲がらざるを得ない、言い訳ばかりだ。広いスペースを求めて、前へ突っ込めば、そこには、ハイプレッシャーが待っている。ゆかねば、ならない。自らの毒で、麻痺しているような感覚を、取り戻すべく。一見、優しい感じを漂わせている、私という人間は、毒を持っているのだろうか。

 絵里子さんが、気づかう。

「正樹さんは、もうカウンセリングは、いいの?」

「う、うん、今の所は」

「どう? その後」

 別居中の妻の事であろう。私も、俄かに気になって来た。依津子さんも、そういう目をしている。まず同じ目の、私だろう。既に絵里子さんの仕切りは、自然の流れとパラレルなストーリーだった。ふたりのやり取りが、続きそうである。

「地道に話し合ってる。カウンセラーの方のアドバイスもその線だしね。まだ、時間が要るよ」

「そう……私も、そういう時期があったから、何か、わかるなぁ……正樹さんの意志は、変わらない?」

「うん」

「本当?」

!」

「やり直したい?」

「もちろん!」

 ……依津子さんの瞳が、かすかに、震えている。ふたりの会話に注目する、私の視野の端に、今を装う彼女が、いた。盛んなるやり取りをよそに、自身の中へ、尚、駆けてゆく動作に伴う、自然な揺れが、その目を満たしている。

「じゃあ、その為に、是非夫の方から、積極的に歩み寄って欲しい。ねっ、プロポーズの時の事、覚えてる?」

「まあ……」

「綺麗事だけどさ、でも結婚って、契約だけど……新規契約のつもりで臨むべき。更新じゃない。それは違うと想う。だから、夫からノックしてね、し続けてね。時間を要しているという事は、奥様はそれを見ているし、待ってる、と、私は想うの。ごめんね、偉そうな事言っちゃって」

「ううん、ありがとう、参考になった」

「フフフ……」

 絵里子さんは、小さく笑った。たぶん、別離わかれた前夫は、そうしてくれなかったのだろうか。想い出せば辛くなるような、自身の心情を吐露した、意地悪ではない彼女に、私は、一片の安堵を見た。リトルラフターくゆひとが、小さく見えた。彼女は、続く、

「愛が、消えた訳じゃない。まだ、愛してる……生活も安定してるし……ただ、正樹さんの中に、今までとは違う、知らなかった何かの欠片が、見えたような……それに、距離を置かざるを得なかったと……ねえ、浮気してないよね? モテるからなぁ……正樹さん」

「してないよ、そういう事はしない! 俺のわがままなんだ。女房の言う事も、わかる……」

「そう……あの、ね、女って、やっぱり、今の安定を守りたいの。ごめんね、お子さんもまだだし、正樹さんが頼りなの。わかってあげて……」

「うん……」

 正樹君も、そっと、笑った。ふたりの静かな微笑みが、落ちた。アコースティックギターのBGMに融けて、流れていった。物柔らかな流れは、風だった。こぼれた笑顔は、光を灯した。時に、消えつつある光は、風を濡らして、止まりつつあるだろう、人との絆を、幻のように、蘇らせもしようか。その空気が、風のように流れて、みんなに語りかけていった。学びという、癒しの風だった。

 斟酌しんしゃくなる、贈りものを届ける先方は、私から、正樹君に切り替わっている。私はもちろん、喜んで贈り手にすり替わった。相互に、転じられる心を憚らないのは、みな同じ、果たして、仲間意識の賜物たまものであった。その届けものの正体、真実の姿に、私達は、ひとり遺らず誇りを覚えているに違いない。見届け人たるマスターも、しかと保証しているかの、しあわせそうな好々爺こうこうやの顔で、丸まっているようだ。互いに、必要に応じて、あるいは迫られて、いつでも馳せ赴く。反射的に駆ける。そう確認したはずの、安心のひと時であった。正にライヴ空間である。ひとりひとりが、個性派の名演者。台本も譜面もない。されど、前を向く、心がある。ストーリーは、それぞれの中に、ある。光が、風が、見ている。観客のように……そして、私達は、それを、見えているのだろう……。そして、街が、人々が、山が、海が、空へと……何もない、あの、空へと……誰が見ていようと、いなかろうと、ただ、ただ、私達は……。

「私、ちょっと、ショップに行って来てもいい?」

 依津子さんのストーリーは、や動き出しているようだ。自らの体内の蠢動しゅんどうを感じているのは、彼女だけに限らず、正樹君と絵里子さんのやり取りに、インスパイアされた、うちを表面化するタイミングを、全員が探しているだろう。最年少の彼女が、先陣を切った。

「うん、いいよ私は……」

「うん、どうぞ……」

 絵里子さんに続いて、男達も引き立てた。

「ごめんなさい、すぐ戻ります……」

 依津子さんは、頭を下げながら席を立つと、早足で店を出ていった。

「……」

 束の間の四人だった。

 ……私は、中座した彼女を想像した……。正樹君への仄かな憧れが、彼の告白と、それを導いた絵里子さんの言葉に反応して、従順な防御を示したのだと、彼女を擁護した。彼に向けた訣別が、人知れず、依津子さんの胸の中で反芻はんすうしていただろう。彼の意志確認に対する、彼女の回答である。早期に、自ら、ったのだ。私は、早いうちなりの、その諦念をかばいたかった。後ろ向きは、小さくても後ろ向きである事を、私はよく知っている。麻痺しているような感覚は、本線に集中出来ない。言い訳も、勘繰りも、順番を待つ。純粋に、バイクに走りそうな予感がしていた。引導を渡したような、ふたりとのかかわり方に、一縷いちるの不安が兆している。私のジェラシーは、今は、それに呑まれていた。遺された四人共、それをも予知するかの、沈黙で、あったろうか。前向きな道は、緩い上り坂がいい。同じように、後ろ向きの道も、緩い下り坂であって欲しいものだ。

「いっちゃん、大丈夫かなぁ?……」

 マスターが、彼女待ち組の代弁者を自認する、生まれたての声を上げた。留守番部隊は、その、意思統一の下に、同等の作業訓練よろしく、憂色の面様おもようを相揃えた。彼女のうちなる落胆を、誰ひとり、見逃した者は、いない。新参の私をして、そう、言える。この状況に、耐えられなかったのだろう。プライドが、許さなかったのだろう。顔を見られている、今が。……マスターは、みんなの顔を眺めていたが、最後に、私に長くとどまると、黙ったまま、俯いた。私も、釣られた。絵里子さんは、顔を丸ごとすぼめ、そして……正樹君の口元も、固く締まっているふうで、目線は下方の平行移動に終始していた。彼女のバイクへの想いが、ひとつ、宙に浮いていた。それを掴まえに、行ったのだ……


『私を、よく見てて……』


『私、風になるんだ……』


 彼女のふたつの言葉が、私の中で揺れていた。消えそうで、止まりそうな、感じがしていた。早く帰って来て欲しかった。彼女がいないこの隙に、白日夢は、降って湧く。


 依津子さん……


 私の腕の中に、彼女の柔らかな体があった。ただ待つばかりの狩人は、ありのままを、いだいていた。鈍い感覚では、もう隠しようがないのだ。必死な想いが、彼女を求めている。それが、今の私の前向きだった。

「いっちゃんも、振っ切りたいのね……本当は。でも、どうにもならない部分、自分で拵えた側面も、あるはずたから、抱えているだけで精一杯、立ち止まって前を向けないの。私もそう……探してるんだけどなぁ……出口を……」

 絵里子さんは、手元を見やりながら、呟いた。そして、ちらりと、私を見た。彼女の言葉は、四人共通の心模様、マスターだって、もしかしたら……。んなじたから、わかりもするし、それだけに時として、批判的にもなろうか。絵里子さんの言い回しの端々に、そう窺える男達である、おそらく。ドリンクの氷が融け崩れる音が、仲間のそれと重なる、物憂い時間が過ぎていった。誰もが外向きの顔をして、内向を深めているだろう。目の輝きが、流れていない。さっきまでとは、違っていた。


 やっぱり……私なんかは、依津子さんの、本気の対象にはなり得ない、だろう……


 自分を責めるまでもなく、先を見るべくもなく、主観を交じえる事もなく、私の回答も浮遊している。依津子さんの、二篇の心のうたと、愚稿とは、馴染まない……現実を嘆いているかの、虚ろな中身のような、午後の空気を感じていた。材木座の奇蹟は、きっと、私の中だけで生きている出来事。ならば、風を求めて駆けてゆかんとしている、依津子さんなる存在も、やはり、少なくとも、限りなく、それに近い実体であるという直観イントゥイットを、私の心像にもたらすのだ。崖下の、初恋のひとは、私にとって、まだ、幻と共に、ある。澎湃ほうはいたる、海の懐深く、流れている。こぼれる光が消えつつあるような、そのひとの、涙に濡れて止まりつつある、風。風になれば、風のままなら、風のままに、いつか、消えつつある光は、こぼれる光は、こぼれる笑顔は、きっといつか、私の懐に、帰るだろう。私の懐を、灯すだろう。風は、海の懐を語る、しるべのように、ただ、流離さすらう。


 ……海が見たくなったら、風を見よう、たとえどこにいようと、風に想いを馳せよう……私は、そんな事を考えていた。依津子さんは、私の、柔らかな風……確かに。そして、私は、時間を追い駆け、浪費し、使い方もよく学んでいない。今は眺めているだけの、こんな私に、これから何が、創れるだろう。私のインスピレーションの悉くは、彼女を経由して発せられるものばかりだ。風は、海と私を架け渡す、インタールードであった。もう、欠かす事が出来ない。本気で、時間を創りたくなっている。

 しあわせな時間を、創ろうとしている。ここに集うひとりひとりは、ここにいるだけで、仲間のそれをねぎらい、自分もそうしようとする事と一緒に、オートマティックにうべなっている。であるから、必然的に、出逢いがある。それは……インスパイア……ほとんど、衝動……。眺めているだけでは、いられない、自分も創りたくなる、この胸にいだきたくなる、そして……共にいたわり合いたい、抱きしめたい……そんな想いに、敗れてしまう。

 あの奇蹟は……ふたり共、そうだった。過去の言い訳を隠す事に、衝動という、あの瞬間の、あのひと時に、今の言い訳を塗り重ねて、そこから連なり流れゆく、しあわせを見ていた。されば、今までの自分は報われ、今の自分は満たされ、これからの自分は、夢を見ていられる……そんな気がした、そんな心地に包まれていた。温かな体が、それぞれの抵抗をき、敗れる事を選択した。私達が許し合ったのは、自分自身だった。そして、この敗北に寄り添う影の如き、言い訳、たとえば、今という既成事実に、それぞれの全てを重ねた。間違っていた、とする、私の過ちを、過ちかも知れない過ちを、過ちのままにしたくない、そうさせない……間違っていなかった、夢……依津子さんに導かれた、ふたりの夢。夢のままじゃなく、現実に変えたい、今という時にとどまらず、これからの時間を創りたい……そんなふたりに違いない。語らずとも、成立していた。言い訳も、何れ想い出になる予感がしていた。全てを、これからの時間に呑み込ませた。そんな、ふたりだけの韜晦とうかいだった。


 ……愛し合う事、それは、きっと、そういうもの……知ったのだろうか……誓い合ったのだろうか……永遠に、まだ過ちの中にある、幻。だから求め合う、幻。私は、そう想う。これからのふたりの夢は、いずこへ……風のように、流れてゆくのか……互いを、過ちのままにして……初めから、わかっている事も、ある。用意しているものも、ある。引き留める切なさが、ある。それでも、私は、私達は……過ちにしてしまえば、そうして置けば、悲しくて、惹かれ合うだろう。間違いではなかったと、知るだろう……。そして、始まりから、間違いではない恋に、もし、間違いを見つけてしまったら、その恋は……。私は、それを考えると、言葉を、失う。どの道、全てが、幻と、共にあるのだろうか。私には、わからない……依津子さんが、わからない……。彼女への、仄かな予感。空想上の、掴み所のない期待。風が喚んだ幻は、どう転ぶか、それを知らない方がいいのか、それを知りたくない私が、いる。わからないなら、終われない、終わってはいない、だから、幻のまま、続いてゆく。記憶と夢が、悩ましくざってゆく。過去と現在と未来は、夢の一線上にある事だけが、わかっていた。

 想い上がっていた少年は、いつしか、自分の中に心内鈍麻が蔓延はびこっていった。やがて、図らずも、そんな自分を受け容れられない、毒に……変わったのだろう。その、罠に落ちたような感覚は、今更の愚鈍を嘆かせる。それは、初めての、先鋭なものであった。私の、言い訳の旅の早い到来は、こうして壮途に就いたのだ。自分を受け容れる難しさを、私はよく知っている。他人ひとを受け容れる難しさも、私はよく知っている。ならば、このまま……風のように……夢のままに……流れもしようか……。答えなど、要らなかった。


 ……自分の事は言わないと決めた人が、他人ひとを語れば、それは、たとえ愛していても、嘘になってしまうような……幻のままで、いいんだ……手応えがなくても、それで、いいんだ……。


「ただいまぁ!」

 彼女が、帰って来た。

「おかえり……」

 一同、笑顔ではある。が、控えめな出迎えだった。私達ふたりは、勃然と現実の関係に戻された。ただ、風が吹き流れていた。柔らかな微温ぬるい風が……盛夏の熱風をもたらすように、にこやかに弾け、短い道ゆきの汗が、その額を薄濡らしている。その息を躍らせるごとに、着席の距離が詰まっていった。私は、彼女が見ている幻を、知る由もない……。不在時の、直観的な記憶像は、彼女の復帰という渦流に、消えた。私の空想世界の主人公が、再び、目の前に座った。理念の想像界が明けた、夏の朝のような爽やかさを纏っていた。清かな匂いを、みな、感受していよう。その正直な笑顔が、なだらかに開いて揃っていった。心配は、要らなかったようだ。

「元気いいわねぇ! この暑いのに、大丈夫?」

「ハァァ、うん! みなさん、すみませんでした」

 見回しながらの謝辞に、満場一致の、無事確認であった。

「あのね……」

 誰にとはなく、依津子さんは続ける。自分に注がれるみんなの目線を、想いやる感じで。

「ショップのスタッフ達に、バイクの事話して来たの。っごく驚かれちゃった! でも、みんな理解を示してくれた。リーダーの人が、私より年上の女性なんだけど、『留守は私に任せて!』 って……嬉しかったぁ……。店側の、内諾は得ました」

 大輪の晴明が展がる、汗に煌めく、花の笑顔だった。何も文句をつけようがない納得は、ほとんど満足と比肩する、自信が溢れていた。

「じゃあ、あとは本社サイドかぁ……」

 絵里子さんの反応は、正しかった。

「そうだね!」

「ちょっとォ、いっちゃん! あなた本当に気をつけてよ!……私だって応援するけどさぁ、ねっ? わかるでしょう? バイクは車じゃないんだから……それ以外にもいろいろさぁ……」

「いろいろって、ぁに?」

「だから、いろいろよ!」

「わかってるっ! みなさんすみません、充分、気をつけますから、見守ってやって下さい。お願いします……」

「うんうん、わかってるわかってる、自由に……」

 マスターの反応もまた、正しいといわざるを得なかろう。こうなった以上、私も、そして正樹君も、言葉にしないまでも、頻りにうなずいている。マスターの微笑みが、〝学びこそ癒しである〟 という、ベテランの充実を表す顔に見えた。安心を与えるエールを、早くも依津子さんに贈っている。私は、彼女が〝サークル〟 と言っていた意味が、よくわかったようなつもりになっていた。父の如き風情にもほだされ、それぞれの小々波さざなみは、凪に止まりつつあった。

 風向きが変わる時、たとえ風がぶつかり合おうとも、ほんの少しの矛盾が見えたとしても、風は、止まる。依津子さんなる陸風は、自熱に暖められ、上昇してゆくばかりだ。私達、周りの心配風は、その、薄まり置いていかれた気を補って、自然に、心づかう言葉を注ぐのだ。そんな、彼女の熱い想い故の、空気の対流という関係にある。

 マスターに諭されたのは、私だけではないと想う。依津子さんは、海風になりたいのだ……きっといつか、海風になる。今、舞い上がり、陸から流れでてゆかんとしている風は、海の懐の心と同じ、マスターの心にも宥められ、時として、同じ暖かさにあったのだろう。同じ心が……ある。風は、今だけは、今にして、止まっている。

 けれど……いつか、海の優勢が始まる。風は、今は、濡れたように止まってはいる。それでも……今度は、海の方が熱を上げ、時に、風に憧れ、風になった心へも、風に癒される心へも、海の学びを教え、本当の人の旅路を知らせて、そこにこそ本物の癒しがあるとする、真実の海風の優しさをして……何ものとて、連れ去る。そして、誰彼の別なく、人は、それに勝てない。何があろうと、旅へゆく。難しくても、それしか、ない。想いを、遺して……ひたすら離れ、ただ遠ざかり、去りゆく。……遺された心は、みな、同じ。私達の心が変わらなければ、いつまでも、そのまま、遺る。海風は、それを求めて、再び私達の元へ、帰るだろう。たとえ、人の心を灯す光が消えつつあっても、心にそよぐ風が止まりつつあっても、仄かな希望の灯火ともしびが、かすかな癒しの風が、あるなら、守るべき、大切なものが、あるなら、きっといつか、陸風は、海風となって、忘れずに、人々の元へ戻って来る。私達は、首を長くして、それを迎えたくて、いつでも笑顔を準備して、待っているだろう。ずっと、待っているだろう。海の微笑みを、いつまでも、心のノートに、書き綴りながら……


 依津子さんは、風を選んだんだ……正樹君でも、私でもなく……。


 マスターは、語る。

「自分の勝ちを、全部拾っちゃいけないよ。時に、負ける事も必要。ずっと、勝ち続ける訳がないんだ。勝ちを遺して置けばさ……トータルで、勝てばいいんだから。あまり矛盾を向けると、向けられるしなぁ……」

 私には、海の傀儡かいらい神の啓示のように、聞こえている。若手は揃って、神妙な面持ちに変わっていた。これが、エールだった。その主は、湘南の、厳しい交通事情をもかんがみたのだろう、響きの返りを待つかのような、慈愛に満ちた笑顔が、父たるを後押ししている。心配風には、そういう顔がよく似合う。癒しの風は、癒される笑顔を、や準備して待っていた。

「これから忙しくなるなぁ……頑張ろう!」

「頑張れ!」

 の声が方々から寄せられ、依津子さんの照れ笑いのうちに融けていった。その味わい深さが、目の落ち着きを促すように、尚も目尻を下げている。

「まあ、いっちゃんも行動派襲名だね。私も、んか、こう、じっとしていられない感じがして来た」

「ところでさ、小田原へは帰ってる?」

 女同士のトークは、濃密になりそうな気配を感じる、言葉少なの私であった。

「うん。先週の日曜にね……」

「あっ、そう、みなさんはお元気?」

「う、うん……相変わらず」

「ふうん。息子さんも?」

「う、うん」

「来年、大学受験でしょ?」

「うん。準備に余念がないみたい……頑張ってるわよ」

「応援してます! って、お伝え下さい」

「ハハハ、うん、ありがとう」

 男性陣の傍観をよそに、日常の匂いを、遠慮なく開け展げるふたり。そこには、やはりの共通項、家族の存在があった。私の知る依津子さんと、これから知る事になろう絵里子さんの、それぞれの事情が、私の中で微妙に重なりゆく。ふたりは、ここ鎌倉において、特別な想いを寄せる男性が……おそらく、いないだろう、という、寂しさの影が、膨らんでいった。愛する家族への想いとだぶるふうの切なさが、私のうらに滴った。

「息子さんは、ご実家にいるんだ」

 私は、想い切って聞いてみた。久しぶりに、会話の成立を試みた。

「うん、まあ……」

 触れて欲しくない気韻は、彼女の目の翳りだった。さっきから、気づいている私である。あまり気にはならないが、絵里子さんは、自分のトーンの湿りを、気にしている。みんな、それを慮る顔で、私とのやり取りを注視していた。短く済ませた、話だった。


 ……サークルの会話が、途切れた。ひとりひとりの懐の暗がりが、集まったように……。


 事実、依津子さんは戻って来た。真実、風のまま、風になろうとしている。何れ、再び、流れゆく。私は、手応えというリアリティーに、疑問符をつけている。そして、その寂しさが、寄る辺を求めて彷徨いつつある自分に、モジュールコントロールの湿りを覚えている。それは、依津子さんを、諦めようとしているのではなかった。忘れようとしているのではなかった。事実を目の前にして、それは出来なかった。不意に、ウエットな想いが、逸れようとしていた。バリア頼みの憂える日々が、諦めと忘却を怖れたのだ。求める心が、命脈を繋ぎたがっている。置いてきぼりにされた、私の予感、期待は、去ってゆくかの、宙ぶらりんのようでもある。ただ……手応えがない、という概念が、ひとり歩きして、大きくなってゆくのだ。〝手応え〟 とは、如何なるものなのか、私は、よく知らない。

 それを、湿ってしまった絵里子さんが、見ているように想えた。ふと、目が合う機会が、度重なる……。

「ねえ、いっちゃん」

 年長のひとが先駆ける。

「んん?」

 こだわりのなさそうな、短い反応。

「あなた……って、意外と強いのね」

「えぇぇ?」

 男どもは、一瞬、狼狽うろたえてしまう。強くなりたい風を煽るような、下降気流ダウンフォースつむじが、落ちた。息子の話を切り出された姉が、妹の失念を皮肉るかの、五分ごぶに寄り戻す意趣返しのような風が、辺りをさっじって掃いた。言葉の自由と関係重視のジレンマが、仲間うちのアイデンティティに、時には、一石を投じる事も、ある……と、男三様おとこさんようにやり過ごすべきだろう。苦笑いも、呑んでいた。女心とプライドも、一緒に。依津子さんと絵里子さんは、女の世界の常に、当たり前の得意泰然を、面貌にかたどっている。感情のアンビバレンスを抱える、心のパートナーのゆくえの、前触れでもあるかように。依津子さんの、自由闊達な姿が、絵里子さんに、火をつけたに違いない。負けたくないひと達の、負けてはいない応酬も、例外ではない。にもせよ、小さな意地悪は、小さなままであって欲しい繋がりを、忘れて欲しくない、五人であろう事もまた、排除出来ないのだ。

 そして……みな、時計を見る頻度が、じり高くなっている。今日も、ライヴの開催はない。ディナータイムが、近かった。

「さて、オープンにして来るよ」

 正樹君が、表へ出た。目を突っつく暑白あつじろい外光が、一瞬、威丈高な筋柱すじばしらを、店内に貫き……彼はドアの表示をひっくり返したのだろう……すぐ、戻って来た。

「外は暑いな!」

「夕凪か……」

 マスターは、なぜか残念そうに呟いた。

「これからどうする?」

 依津子さんは、気持ち、顔を近づけて、絵里子さんと私に、回答を求めた。

「ううん……」

 束の間、揃いの前置きをはさみ、先輩が、

「帰ろっか?……」

「う、うん」

 依津子さんも、私も、ちょっと、うなずいた。外気の湿り蒸れる匂いを、ほんのり感じる私だった。のん気な男をよそに、女性ふたりは身繕いを始めた。

「今日はお開き?」

 マスターが、ガソリンメーターの残量を気にかける。仕度したくしながら、絵里子さんは、父子おやこを見つけて、

「うん。どうもありがとうございました」

「ありがとうございました」

 依津子さんと私も、礼をなぞった。

「ハハハ」

 マスターも正樹君も、笑って何度か、うなずいている。

「今日も楽しかったね!」

 依津子さんの素直さは、店ぐるみの営業方針を実現した、満足の、

「うん!」

 の合唱を誘って、喜びを咲かせた。女性達の姿直しも済んだようだ。

 私達三人は立ち上がり、

「ごちそう様でした!」

「ありがとうございました」

 爽やかな渋さのおじ様達は、ひとつの言葉で尚更の笑顔をふりいた。愛想笑いではない、男の愛嬌の見送りが嬉しい、三人だった。

「陽彦君、当店では心のパートナーさんは、いつもおごりだから」

 マスターの、心意気だ。

「そういう事」

 息子も、粋だ。

「わかりました」

 私は、まだまだ野暮天やぼてんだ。いやまあ、充実には違いない。愉しんだ時間だった。崩れっ放しの表情筋の疲れは、鍛えられた証し。その張り艶をとどめる、女ふたりで開けかけた扉の隙間から、夕方の風止みの気を透かし通す、強かな暑光が射って入った。照り映えの双顔が父子おやこへふり向き、ならう私と共に、

「失礼しまぁす!」

「気をつけて」

 最後も、並べた。

「正樹さん、免許取ったらツーリングに行こうね!」

「うん」

「強気なひとよねぇ、ハハハ!」

「エヘヘへ……」

「ワハハハハ!」

 爆笑が降る中、名残惜しげに、静かに、ふわっと、ドアが閉まった。

 

 ……目が眩む瞬間だった。

 耀蝉之術ようぜんのじゅつ師の如き日輪の、恵みの光に寄り集まる街頭世界があった。風さえたしなめられ塞ぎ、熱は逃げ場を求めずわだかまり、時間の止まった無常界の底を、人流れの河が揺蕩たゆたう。遅々として進まない時計を、人間が動かそうとしている。今日一日の自然の終末観の中、人々は生産行動であらがい、時間に生命いのちを吹き込み、先を延ばし、これからを見つめ返す。それは、体中隈なく見つめられる陽光への返礼。馴れ切っている。その、普通の顔という顔は、さして眩しがりもせず、滑らかに泳いでいる。私達は、そのただ中に立ち止まる、杭に繋がれた、三艘の小舟。この次を、待っていた。籠もりがちの私の避光ひこう体質が、人目に耐える時間を、すっかり忘れている。光が怖い訳ではない。人の視線も、あまり気にはならない。受け容れる喜びを、知りつつあったのだろう。学びという癒しが、少しずつでも、欲しかった。三人共、次が欲しかった。ほだされるものは、光だった。光に暖められた気が、上昇して流れ出そうとする、準備の凪に、あった。凪めの、風の小舟の模様見であった。ともすれば、私達は……言い訳というよろいに、自分の過ちの、悉くを呑みこませようとする、悲しい涙を、見つめ合っているのだろうか。私は、そう想えてならなかった。それでも……


 今こそ、創る、という事の実行を知るべき時……


 それぞれが、そう想っている顔に見える、私である。互いに見定め合う目が、そこから逸れようともしない因縁話を、既に語り出している。私にしても、もちろん聞いて欲しいのは山々、それを察している女性ふたりも、懐中物は同じ。三人の相互意識のクロソイドカーブが、インターチェンジとの合流間近の、スパイラルロードを彷彿とする、ストレスを突きつけられ、その端緒に進入しているような気負いの熱が、殊、女の目を輝かせている。


 ……いつか、カウンセラーの桜井さんも言っていた、〝創造〟。そこから、いやみもそしりも去り、いやな男ではなくなるような……火成岩塊が融け出すような……。


「じゃあ、ここで別れようか?」

 依津子さんが、提案した。

「うん」

 絵里子さんと私の、同意を待っていたかの感が、依津子さんに仄見えていた。ふたり共、それ以上は黙っていたが、絵里子さんの口元が、ややんがっている意味を、それとなく、推して知った。店を出る直前から、急速に焚きつけられる何かを、私は、女性達の懐から、見逃すべくもなかったのだ。急かされれったい心を、必死に押し込めながらの葛藤が、瞳の光度上昇に貢献している事を。

「私はこれで……じゃあ、また」

 両掌を翳すバイバイを添え、まず依津子さんが、ひとり去っていった。八幡宮方向へ歩いてゆく。オレンジがかった西倒れの光線勲章に支えられた、その後ろ姿……手提げバッグの前後の揺れが、なぜかしら、私の目の中に居座っている。考えたくない時間が、横に平行移動しようとするのは、けだし、隣りの絵里子さんに向けられた、私の、ひとりよがり……

「帰るんでしょ?」

 彼女は、問いかける。

「うん」

 私は、迷わず答えた。

「僕、車で来てるんだ。すぐ近くに駐めてある」

「ふうぅぅん、じゃあぁ……」

 長い間合いが、私をくすぐる。

「……私のマンションまで、送ってよ」

「う、うん」

 私達は、こんがらがりそうになりつつも、着地点を見つけたのだろうか。私のひとりよがりを見ていた、絵里子さんの強がりかも知れない。彼女の強がりに甘えた、私のひとりよがりかも知れない。私は、彼女に、何でも話せそうな気がしていた。女のジェラシーを臆せず見せた、さっきが、そのまま、私を導いたようで……で、あるなら、彼女を私へ赴かせた理由、強がりを潤す何ものかを、私のひとりよがりに見ていたのだろうか。絵里子さんの瞳は、今、極彩色に揺れている。私は、そうなりがちな、無彩色の男の情念を、すり替えたい想いが、不意に……立ち上がり前のめり、サティスファクションを探し始めた。忽ち、サイマル的にそれを探しあぐねる、彼女の強がり、嫉妬……と、雑じりゆく気配を、否めようも、ない。たぶん、ただ、今は、おそらく、出来れば、刹那、忘れたい男と、忘れさせたい女……に過ぎないのだろうか。私の、ひとり相撲だろうか。いやな男の車に、乗りたいだろうか……自宅まで……。

 絵里子さんだって、忘れたいんだ。私に、忘れさせる事など、出来やしない、出来まい。だけど、それでも、私は、もう……。考えたくない時間は、まだ、先がある。それだけが、わかっていた。きっと、彼女も。目の中という揺籃ようらんの世界で、震える瞳は、ほとばしる入れ込みの衝動を丸呑みしようとする、気炎万丈たる夢を、見ているのだろうか。私だって、同じだろう……。こんな男にとって、なくてもよかったものが、なくては納得出来ない、今の燃焼を約束する、それを、見つめている。私は、絵里子さんから、目を逸らそうとしない自分を、強く、意識していた。なくては話が始まらない、目を逸らせない何かを、見つめている。絵里子さんだって、同じだろう……。見つめていた。目を逸らさなかった。意識していた……それぞれだった。手応えを、知りたいように。手応えを、求めるように。その心のうねりが、畳みかける。息をもかせぬ勢いで、鷲掴みにする荒々しさで、尚も絡まりたい手を引き込む、男と女が。……依津子さんの背中が、遠ざかってゆく。足音が、かすれてゆく。ふり返りもせず、髪をなびかせ、風のように……。

「道案内よろしく」

「うん」

「行こうか……」

「うん……」

 絵里子さんと私は、連れ立って歩き出した。小さくなるばかりの、依津子さんの後ろ影をち切る、私達の背中の、盾。反対方向へ、同じ道をゆく。西染めの橙果とうかに似た太陽が、嘘みたいに、前方から輪の光芒こうぼうを覆いかける。早くも眩んでいる私は、その光の所為せいだろうか。彼女も、そんな沈黙、こんなにもふたりきりを、選択したようだ。鎌倉が落ち着き始めた時間に、女の微睡まどろみは、やはり、微酔ほろよいに佇まう。目線は、足下を彷徨うろつくばかりで……眩んでいる自分を、光だけの所為せいにしたくないふうの、泡沫うたかたの抵抗だったろうか。盾は、かけ違う光の、依津子さんへふり向かない、ふり向けない。そうしようにも、ひとりひとりのなりゆきが、同じ一線上のなりゆきから、決められない目を、追い出していた。離れ去る依津子さんを、見ようともしない。もう、距離感さえ、掴みたくなかった。決めた目をしている、ふたりなのだ。いつまで、こうしていられるだろう……。冷淡な私達は、今、錆びかけた釘の泣き声のような、心のうずきに、耐える事だけが意中にあるのか。絵里子さんの、一歩退がる足取りは、初めて見る、彼女のじらいだった。

 そんな、道ゆきびとのふたり……それぞれが、自分の中身を見つめている。自分同士の密接なやり取りが、内向く目を保っている。会話の内容は、自分にしかわからない。他人ひとには、わからない。わかっているものの共感が、眠らせていたものを目覚めさせ、感動という、サティスファクションの波濤が押し寄せる。他人びとにはわからない、自分自身。他人びともわかっている、自分自身。ふたつの自分自身の違いを持つ、ひとりの自分。ひとりひとりが違う事など、何を今更……。失くせない、消せないものだって、あるにはある、ない訳がない。あっても……あるとは、言えない。それが、人のじらいだろう。あなたもあるだろうと……他人ひとは、言えない。……私は、それを、言って欲しくなかった。私も言わないから、言って欲しくなかった。絵里子さんだって、そうだろう……。あるものは、時として、膨らむ。たとえば、手応えを、共にする事によって……。それが、言えないのだ、言いたくないのだ……わかるだろう?……わかっている、ふたりだろう?……。幾ら、お互いにとっては、何でも言えそうな人が、何でも言う人で、あったとしても。

 ……駐車場へ来ている。私は、まず、料金を精算した。

 淡い紫の雲流れ模様のハンカチが、絵里子さんの、沈黙頼みのかばい汗を、そっと、抑えている。束の間、表情がベールに隠れた。慎しみを、用意していた。それだけではないものも、あえて、宥めている。……再び現れたおもては、あまり化粧崩れもしない、さほど気にならない程度に薄拵えたであろう、変わらない彼女だった。ただ、変わらずにはいられない、内面のありようは、隠せない。悲しいかな、表面で物語っている。それを言って欲しくない、私と同じ心が、女のプライドに化けて強がっていた。そういった、絵里子さんの、汗を乗せた薄化粧が、早く、涼しい車内への避難誘導を待ちながら、私に従い歩んでいる。汗は、また、滲む。おもては、おもてに過ぎない。

 私の車は、スマートエントリーが作動して、解錠したようだ。ズボンのポケットの中の、携帯機との通信成立を合図する、バザードランプが点滅している。彼女も、気づいたようだ。

「あの車ね」

 反射光線にまみれる、白いエナメルの靴のような車体は、常にタイヤを履いている。暑い中の、昨日の洗車の対価かも知れない光沢を、私は、語るまでもない。白い車は、白い車で、あって欲しいのだ。今日、女性を乗せるなんて……

「うん、どうぞ」

「……」

 私達は、車に乗り込んだ。即座に、暑蒸あつむれ息さえ塞がりそうな、濃い空気の壁の急襲に沈められた。私はたまらず、エンジンスタートボタンを押す……すぐさまエンジンが、跳ねるセルモーター音に引っられて立ち上がり、始動した。地面を押しつ怒声まがいの回転音は、女と男のたった今を当てこすり、わらぶる。ここで、パーキングブレーキの作動中と、シフトの P ポジションを確認した。そして、ウインドウを全開にしたふたりだった。私は、

「エアコン、ちょっと待ってて」

「うんうん」

 絵里子さんも、オーナードライバーである。街なかなので、窓に僅かの隙間を空けて、駐車場から離れる事も出来ない。忽ち湧き浮かぶ汗にまみれつつ、フロントガラスのサンシェードを素早く畳んだ私。彼女は、控えめな態度で、顔にハンカチをてがう手に、頼るようだ。私は、左頬でそれをやり過ごした。早く車外に、籠もった熱気をがしたい。しばらくぶりに、車に女の汗の匂いが満ちようとも……。共に、シートベルトもOKだ。

「いいかな?」

「うん」

「GO!」

 私はブレーキを踏み、シフトをドライヴに入れる。左脚でパーキングブレーキを解除し、ミラーと目視で周囲をよく確認する。右脚を緩め、ゆっくり動き出す、タイヤを履いた白い靴は、それに吊られる適材適所の、アクセルとブレーキとハンドル操作に、委ねられていった。今日は嗅覚までも、研ぎ澄ませざるを得ない、車の運転が、暑いなんてものじゃないにもせよ、や……愉しい……。道も、帰りの時間帯にしては、さほど混んではいないようだ。鼻が、なぜか、痛い。目に染みて来そうだ。光が、眩しい。ナビゲーターも、んなじ顔をしている。それぞれサンバイザーを調整した。絵里子さんの表情の移ろいを、横顔で読みあさっている私だった。忘れていた、車内に散らばり始めた女の匂いが、私という男のそれと、絡まりゆこうとする端から、車の逃げ足に連れ、吹き抜けるようにさらわれていった。望んでいたこの環境が、それでも、女と男の、これからを見せつけている気がする、私、そして、彼女であろう。その僅かな強張りも、相半ばするれ、今のほんのひと時だけ、不安がまさった、これからの始まりを見ているのだろう。目は、本心の周りで息吹いていた。私だって、極めて、それに、近い。

 助手席のひとが、ふり切りつつあるように、口を開く。

「……やっと、熱が逃げて来たね」

「うん」

 彼女の顔ばせが、安心へ傾いていた。瞳は、風ばらけの髪が、うねるに任せる隙を見逃さず、とどまろうとしていた。私にしても、その通りだ。

「本当、鎌倉は暑いなぁ。僕はご無沙汰の夏だから、んか、昔より気温が高いね。体感温度が」

「うん、そう想う。やっぱり、温暖化が進んでるのよ」

「ねっ」

 ふたり共、ハンカチが顔から離れない。私は運転に集中しているが。

「道はね、六地蔵を右、ひとつ目の信号を左……」

「由比ヶ浜駅へ入る道だ」

「うん。で、そのまま直進、国道手前の左側」

「わかった、すぐだね」

「うん、すぐよ」

「じゃ、行きましょう」

「お願いします」

 私は、エアコンのスイッチを入れた。揃ってウインドウを閉めた。その六地蔵へ南下直進する、鎌倉市立御成おなり小学校前の、今小路いまこうじを走っている。市役所庁舎が、既に右後方へ去っていた。

「ハアァァ……涼しいぃ! どうもありがとうね」

「フフ」

 彼女の本当だった。……左に、鎌倉幕府問注所もんちゅうじょ旧蹟の石碑を見て、小さな佐助さすけ川に架かる裁許橋さいきょばしを渡り、由比ヶ浜大通りの青信号が近づいて来る。その左角に、石垣に護られた六地蔵の、ひと息く緑も、待っているはずだ。まだ、見えてはいない。……そして、黄色から赤に、変わった。

 たまさか、その交差点の、停止線の最前に停まった。ウインカーを右に出している。左手に、赤いべべの身拵えのお地蔵様の、幾つかの頭が、植え込み越しに見えている。守護するような石碑には、松尾芭蕉の一句、〝夏草や つはものどもが 夢の跡〟 と、刻まれている。無論、ここからは読めないが、飢渇畠けかちばたけと記されている、柱碑モニュメントと共に、街を眺めて一角を占める。いにしえの時代、問注所もんちゅうじょで刑を申しつけられ、先ほどの小橋を渡ってここまで引き連れられ、そして、刑場の露と消えた……罪人達を、弔うべく、里人がまつったのが、このお地蔵様の始まり。後年、ここへ移されたのだそうだ。この辺りは、往時の刑場。芭蕉の辻とも呼ばれている。毎月四日には、お参りに訪れる人の姿も見られる。

 そして……青になり……静かに走り出して、右折する。この通りは、長谷小路はせこうじとも言う。立ち上がったばかりの冷気に、体が馴染もうとする、正直な嬉しさは、夏場に頻回する、当たり前の反応であった。夏の厳しさ故の喜びが、私達を安心させる。絵里子さんの眼差しが、じらいと強がりの狭間で、ひと時の架け橋を見つけたようだ。まだ、その橋の通行は、生微温なまぬるい。

 それぞれ、汗も退き、快適な時間を楽しんでいる。ハンカチの手も、止まった。いつも賑やかな、この、長谷観音へ至る直線道路を、西へと流れゆく。真面まともに西日を浴びせる、薄暮れの光の息づかいは、空気のものと重なりつつあった。冷た過ぎない風が、心地いい……絵里子さんと私である。……私は、収めた汗を想った……

 汗は、暑さの所為せいばかりではない。暑さは、夏の仕業であるとは限らない。確かに、暑い、夏……やはり、今夜も、寝苦しい熱帯夜だろう。寝開ねはだける、夜に眠るのだろう。けれど、あの汗と体の熱は、私達が、自分で現したものでもあるはずなのだ。熱すれば、汗ばんだ。あの時、それに満足していた。その現実に、納得したままか、それとも、これからもっと満足させるか、互いの中には、ふたつの満足があったはずだ。現実を呑み込んだ時、更なる充実を求めもしよう、前向きでひた向きな、創造という行動によって得られるものが、あるだろう。それが心もとない故に、いつしか後ろ向き、ふり返りながら得たものとは、手応えなる意味において、似て非なる性質がある。手応えという、実感。自責という、実感。両者を架け渡すべく、経験の時が訪れていたのだろう。私は、そう想っている……。そして、今、隣りの絵里子さんも、その感じの、その、ときめきらしい、緊張を溜め込んでいるようだ。あごを引き、眩しそうに上目づかう、まなこは、屡叩しばたたいているのだが、それは、目の前から吹き流れる、エアコンの冷風や、あまつさえ、今日一日の、暮れゆくこれっ切りの、これっぽっちになりそうな光を、鬱陶しがっているのではなかろう。

 ひとつ目の信号に、至りつつある。左へ、ウインカーで知らせる。幸運にも、青の点灯。ゆうっくり、そのまま左へ……斜めに枝分かれる道に進入した。真っすぐゆけば、海。国道百三十四号、由比ガ浜四丁目信号である。夕映えの闃寂げきせきへ、滲み入るばかりの住宅街は、ひたすら、夜へと続く仕度に余念がなさそうに、佇まう。江ノ電の踏切をひと跨ぎ、それぞれ、右手に一瞬、由比ヶ浜駅を認めた、道づれのふたり。家々の影が、夕照を疎らに語ろうとして、私達の目を、かばい和ませる。暑さの一段落を促し、返照こそ淡くぼかし、自らの夜想一途を憐憫あわれむしるしの、モザイクの影法師を、車へ投げかけ続ける。車中の人の目の中に……光と影……白と黒の……交互の主張を、飛び込ませる。光は影を使い、影を操り、騙し、人の目をくらまそうとする。それは時に、点で飛び滴り、時にまだらな曲線を描き落とし、気まぐれな芸術家を気取る。しずかな街をゆく、一台の白い車……うねるその感情の波間に、ふたりは、融けていた。かすかな吐息は、オレンジ色をした、その結論だった。あと、僅かだった。それだけに、それほどの波も、また、巡り来て、いる。そっと、伏せたい、ふたり……今だけは……

「あ、そのマンション……」

 絵里子さんは、顔の向きで示した。

「うん。いい雰囲気の造りだね」

「ありがとう。由比ヶ浜一望よ」

「ううん、そうだろうねぇ……いいなぁ……」

「この車もいい車ね」

「ありがとう」

 ……バザードを焚き、正面エントランス前に、車を停めた。


「……」


 ……想いも寄らない無言は、私の、想いによる。それと想わせたくない強がりは、絵里子さんの、ひとりよがりにもよる。私達は、互いにひとりよがり、期せずして、無言を揃えて、隠したくて、何も言えないのだろうか……。想わせぶりな、道ゆきであった。彼女は、私を感じているだろうか。今の私は、自分のありっ丈で、彼女を感じているつもりでいる。子を産み、嗅ぎ分けた女の、諦めさせない諦め、想い切ろうとしない想い切りを、見つめている。それぞれの視野の、過半数になんなんとする存在が、尚も余勢を駆るばかりであろう、その一方の、絵里子さんでも、ある。その想いの当てたる、私でも、ある。私の燃え遺りを、彼女は、見つめている。……時、正に暮れ方。私の稚拙なその色合いを、大人になり切れない、その匂いを、絵里子さんの香りが、しっとり落ち着いた髪の艶めきが、まだ、男の鼻をつついている……依津子さんとは……違う……。そして、まだ、シートベルトは、そのまま……

 それは、私の奥底に眠る、依津子さんの影を、それとなく覗くような、それ以上の嫉妬をかぶせる、無言のうちに色めき……私の横顔に気づかせたい、本当は見つめられるだけじゃ、つまらない、女の目をしていた。見つめれば見つめられ、見つめられれば、また見つめるだけの、互いにその目を見れない、ふたりの視線が赴く先に……夕影ゆうかげの遺り香揺蕩たゆた紅霞こうかを仰ぐ……一面の、朱天鵞絨しゅびろうどの海の、燦爛さんらん一色たる息づかい……その、永遠のタイムラグの世界が……あった。押し寄せ引き戻し、煌めきうねる促迫と頻回の、感情の反芻はんすう体質……その、無限界が……。足を踏み入れてしまえば、もうそれで、それだけでいい。最初から、それでよかったのだろう。わかっているのに、そうしなかったのだから、これから、そうすればいいだけの話なのだ。……何れともない、心の声の、小々波さざなみを聞いているような、永い無言であった。そして、夏の日脚もまた、永い。


 言えない想いは、見えない想いに、なってゆきそうな、気が、している……。


 来る波は、さして間を置かず、退しりぞくばかり。作用の力は、すぐ様引き返してゆく。まるで……反作用の波に変わり、その援軍の如き次の波、次に来る波の作用に委ねて、そして、呑み込まれ、ひとつの、反作用を成立させていた。ともすれば、この時、波は、立ち止まっている。押し合い押し戻される均衡の、真ん中を見つけたように、静かなのだ。それはきっと、人の知る由もない、知る所ではない、海の終末……故の、寂想涔々しんしんなる世界観……その静けさであろう。潮騒の響きは、海の、秘めたる寂しさの、ことば……。

「ねえ……」

 初めて聞く、絵里子さんの言葉の予感が、芽を出した。

「うん」

「このまま、少しドライヴしたいな……。話したい……海辺で……」

「う、うん……」

 まだ、目を合わせられない、ふたり。

「じゃあ、行こうか」

「……」


 絵里子さんは、黙ったまま、やや、下を向いた。……私は、パーキングブレーキのペダルを、踏んではいない。彼女も、わかっていたと想う。ひとり降ろしてから、このままひとりで帰るつもりだった。なりゆきの一線は、まだ終わってはいない。終わらせたくないひとりひとりが、隣り合っていた。短い道ゆきは、最初からずっと、そうだったのか……。たった今、私達ふたりは、道づれというなりゆきを、しかと、うべなった。まだ続いている事を、認め合ったのだ。ブレーキを解いたままの意味を、絵里子さんは……ふたりの所為せいにする……女の言い訳にすり替えて……私を、私達を……

「稲村の駐車場へ行こう」

「うん……」

 隣りにいるのは……絵里子さんだった。依津子さんでは、ない。私は、この狭い空間に、三人で乗っているかの、蠱惑擬こわくもどきを、抑えた。こんな私にも、あるものは、ある。道づれの彼女にも、あるという、じらいという、態度の嘘かも知れない顔を、私は久しぶりに、真面まともに見れた。絵里子さんも、私の目を、見ている。

 ……ウインカーを右に切り替え、アクセルを押し踏み、このまま南下する。すぐ、由比ガ浜四丁目信号。赤で、停まった。海の、黄金とだいだい共融ユーテクティックに沸き返るはだが、国道をゆき来する車に見え隠れして、紛れてはいる。しかりといえども、路面諸共もろとも、車も何もかも、わたの原の営為さえ、あまねく引き入れる傀儡かいらい神の恵みは、頭上から馬乗りになって押し照り、風餐露行ふうさんろこうのただ中へ、均霑きんてんの豊饒界へ、いざなって有無を言わせない、ステートメントを掲揚していた。遠く小さく離れゆく夕日に、引きずられる統一体は、燎原りょうげんの火のように、炎上する他ない懊悩を、哀切の涙を、畏怖させずには置かない。道ゆきのふたりの瞳は、更に、火の色をした光の粒に雪崩れ込まれた。燃える夕照の光勢こうせいに退却するべく、同系色のウインカーが……再出発の今さっきから、右折を知らせるままに……立ち止まっている。ひとつになりつつある波は、反作用の波に、逃れようとしている……。

 そして、信号が青を告げた。湘南を代表する、代名詞のようなこの海岸通りを、西へ向かう。左に流れる、緋色の螺鈿らでん細工のおもてが、尚も空遠たる天上に届かんとして、西ゆく視程を導く。海と空の境界は、いつに、鏡面の世界にあった。決して遅くはない速度が、その中に突入し、前面続きの天井部ごと、切り裂き進むそばから、欲海よっかいと空寂の一視同仁のうねりが、曖昧な想念を、私達に耳打ちするみたいだ。なだらかな夕暮れ時の流れに、追いつかんばかりのこの車の目当ては、今、私にある。私が、決める。火急の使者のようにも……走れる。

 快適なシーサイドドライヴは、忽ち、稲村ヶ崎に着いてしまうだろう。まだ赤信号に引っかからずに、スムーズな走りである。絵里子さんは、顔をやや左へ向けて、海の呼吸に合わせるように、何かを拾い集めている。リサーチの集中は、静かなるに限る。暖色の光を浴び、静かな小々波さざなみが、彼女の顔に映っている。風を斬る私達の空間は、時間は、今ここにさえいれば、止まっているようにも感じられる。止める事も出来るのだ。時間を止めて、止まった所で、何を……しようというのだろう。今、車は走っている。まだ、走っている。稲村まで、ほんのひとっ走りである事も、わかっている。為せば成るという当たり前が、私にとっては口先ばかりで、真面目に学んではいないかの感がある、物の道理が、彼女の目の前にあるような、オレンジの擾乱序じょうらんついでに為そうとしている目が、海を、見ていた。


 ……彼女を隣りに乗せてから、目を合わせたくても、合わせられない。ふと出逢うようで、出逢っていない。見つめたくて見つめれば、不意に逸らされ、逃げる訳ではないが、迫り続ける前方や、流れる周囲の様子や、それら全てを従える夕景色に帰ろうとする、私達ふたりの視線のありは、あるいは……ルームミラーの中の出来事……で、あったのだろうか。ドライバー同士の目の会話は、小さな鏡の世界に引き込まれ、利しつ利されつ、時に無意識のうちに、習慣的に通り過ぎては覗き、飛び込んでは去り、それぞれの役目は果たしている。運転者の責任と同乗者の権利は、両々満たされざるはなく、成立していた。この車の広角の背後をカバーする、横長の鏡面だけが、ふたりの無言のやり取りを見ている。……言えない想いは、笑顔をすり抜ければ、優しく伝わる。そのまま自然に繋がる。しかし、たとえば、そこに怒りや、嫉妬……いやみやそしりをてようものなら、そこに透かし見える心のありように、優しさは、虚しさへと、違う方向へと繋がりそうな気が……するのだ。だからこそ、私は永きにわたり、無言の笑顔を貫いて来た。絵里子さんだって、依津子さんだって、大人なら誰しも、それとわかっているはずだ。笑顔なる、防波堤の意味を……。


 左は、落ち込むような海面、陸のきわぎりぎりを疾走する。陸と海の端境はざかいを成す、この道路。防波堤を担う、この道路……どこまでも、続いてゆかなければならないのだ。道なのだから……道という、守りなのだから……。私達ふたりは、うしおの調べを聞きながら、ゆっくり踊る、最後のダンスを、ゆったり愉しんでいる夢を、見ているのだろうか。


 あまりに接近してしまえば、触れてしまえば……笑顔は、笑顔ではいられなくなるかも、知れない……たったひとつの、ほんのひと言の、たかがひと頻りの行動が、全てを想像させ、のちの全ての創造に繋がりもしようか。人の心の深淵に、肉体の讃仰さんぎょうに、優しさは、果たして、常に相応しくあり続けるだろうか……。その自信が怪しくなるばかりの、少なくとも、私達なのだ。確かに、絵里子さんの女ぶりは、妖しい……壊れる音に、耳を澄ましているような、瞳の灯が、ミラーの中で揺れている。ひとつの、過ち……それは、本意を裏切る、不要なパズルの、ワンピース?……。何げないひと言は、全てをあらわし、悉くを創る。いやなパズルでも楽しいパズルでも、小っぽけなたったひとつが、辻褄つじつまを合わせるように、ぴったり繋がるように、蓋然性の流れに逆らわない。究竟くきょうの、自然なるものなのだ。事情はどうあれ、全く以て自然なその流れのただ中に、今、私達は、いる。流れのままに、風のままに、いる。

 今、緩やかな坂を上がっている。稲村ヶ崎に連なる、山の縦塞がるその横腹、岬へと収束する、東側のきわに至っていた。この道路は、そのまま翠緑帯へ突っ込み、えぐり抜けるように続いて、岬の緑は分断され、ひとり、座している。故に名声嘖々さくさくと、超然として佇む。……のぼりながら、先が展けゆく視野が射抜く、相模湾の金箔の波々に浮かぶ、江ノ島の孤影が、ぽつり……私達に語りかけて来る。遠き山々は、箱根の稜線も、伊豆へのびる陸続きさえ、そして、突き抜けるばかりの富士山をも、影の世界に招き潜めている。岬の西から始まる、せ返る波状は、あたかも兵火のような夕波夕紅ゆうなみゆうくれないに臨み、禍福をほしいままにせんとさざめく。坂の頂上から、一気呵成に駆け降りる、白い靴の車輪は、エンジンブレーキの減速に、立ち止まりそうではある。私は、フットブレーキのタイミングを窺っていた。このまま雪崩れてゆきそうで、それが怖いような、そうするしかないような、ぶれを、まず自分から、止めたいように。絵里子さんからも、辛うじて止めている、気韻を纏う風が吹いていた。風を斬っている。下っている。私達のコンセンサスもあおられよう。が、それぞれの本当の想いは、散ってゆくように……互いに同じ風に乗り、ここまで来たのだ。ひと握りの合意と、心底の本意。絵里子さんと私のうちには、ふたつのおもりがある。各々おのおの、両の天秤に、ある。ふたつの真実の、その自重に揺れるしか、あえぐしか、なく。

 小さな峠を、越えた。平らなみぎわの風景があった。いつもの、よく晴れた夕暮れの街に、来た。

「今日は、対向車線もよく流れてるね。裏から回って反対車線に出ないで、このままダイレクトに通りを横切って、駐車場へ入ろうか」

「うん」

 有料の平面大駐車場は、公営で、海岸側ではなく、街側の車線に面している。満車の事が多いが、その表示もなく、見た所、結構空いている。右のウインカーを点すと共に、ブレーキをゆっくり踏んだ。……湘南随一の夕絶景は、多くを語るまでもないのだが、不馴れなこの雰囲気に、私という天邪鬼あまのじゃくが頭をもたげるのは、早々に、敗れてしまっているのだった。この辺りは、現在の私のホームグラウンド、想い出の海である。数少ない見知る人を、見かけるかも知れない。依津子さんは、まだ帰宅していないだろう。照れ隠す見栄は、男ばかりではない事も、私は、わかってはいる。絵里子さんのれの溜め顔は、待ち切れない、女心のあや成すをも。……だいぶ、速度が落ちている。ミラーを見て、後続車との車間距離が、やけに長い事を確認し、少し安心する私であった。彼女も、今来た後ろを、ふり返り見た。

 と……一台の対向車が、少しスピードを落とし、パッシングで私達を促した。その後ろの路面の道筋を、塞ぐものはまだなく、平滑な反射光が、譲り合うハレーションのように、合図の、一瞬のライト点灯を際立たせている。……私も返礼の灯を点し、右にハンドルを切ると、絵里子さんも一礼を添えてくれた。駐車場へ入った。

 私は、自動駐車券売機の券を抜き取ると、彼女は、

「貸して……」

 バッグの中にしまった。

「……」

 一瞥だけで……半分ほどの空きの車室を認めた。今走って来た国道に正対して、この通りの歩道と境を接する、奥の空席エリアが、やけに広々と、一、二台ではないゆとりを訴えている。

「一番奥へ行こう」

「……」

 海が真近の、最前列である。


 ……前向き駐車ではなく、枠内に頭から進入して、駐まろうとしている。

 おもむろに、私達の眼前に、真正面に……透かしはだけつ散蒔ばらまかれた、金波銀波の一衣帯水いちいたいすいが……畳みかける……息も苦しくなりそうな、煌めきで……埋めに埋めて、固めに固めて、隙もない、滞流よどみなどない、大流れの一水しか、ない。さざめきという、呼吸をしていた。フロントガラス一枚隔ててさえ、海の熟れまる醸成気は膨らみ、圧するが如く、車を、駐めもした。ドライバーは、パーキングブレーキをかけるのだった……。潜まるばかりの、絵里子さんと私。海のおもての、ちょっとんがっては周りに引き止められ、上下するくちばしさえずるような口元は、小々波さざなみ。その無限の連鎖はアトランダムで、そこには、必然のタイムラグが存在していた。錆びかけた釘は、油膜もときの暖光線を浴び、芯をも自ら融かし出すかの心地に、酔いしびれていった。窓が遮り、届かないはずの風が、彼女には届いている。私は、そんな気もしていた。

「陽彦さん、窓、開けようよ……」

「うん」

 それぞれ、ウインドウを全開にした。私は、エアコンとエンジンを切った。やはり……忽ち、熱気球体を車内に投げ込まれた。女の体臭と絡まる外気が、夕凪どきの、ささやな重さを囁いている。湿り気に濡れて、風は立ち止まる。それにしても、一服の清爽を覚えるのは、なぜだろう。先刻、店を出た時の、ひと塊まりの期待に似ている。それを待っていたれは、絵里子さんだけではない。そうした風のいざないに、私より早く応じた、年上のひとである。錆びを消すように……自ら輝かんとして、窒息感は、気道を見つけた。今という充実には、清澄な見えない風が、よく似合う。コンセンサスは、ひと時の、ある色合いの無垢でもある。色は様々に移ろえども、それがじり合う、油でさえも。……眩しい、美しい、色彩の動乱を眺めている、私達ふたりだった。やがて消えゆく、今日一日の光の色は、憂色……故に、海の膚色はだいろの必然は、ふたりの流れを、蓋然のものにり集めようと、潮騒ぐ。終わりのない時を、今日の光の終わりに聞いていた、そして見つめていた、道づれだった。

 いつしか夕空は、不可思議な、紫地のまだおり模様の幾層かに、分かれ重なっていった。棚引く雲の横流れる筋々は、各々おのおの、絶妙な濃淡の差異も誇らしく、自然に束ね積み上がり、水平線と別れ、奥まり遠のく頃合いに、ある。今が、その段であった。一日がかりでわたの原へ融け入ってゆくばかりの、光の思案は、おもてに表現の場を求めるのだ。海は、光の想いを映してこそ煌めき、風任せの理解者、同業他者と相携え、表情を作る、そんな顔をする。海の顔色は、光の想い。顔かたちは、風の想い……作り手は、それぞれに、違う。永遠の暗中模索は、時に蒼め、時に錦繍きんしゅう謎めく神秘を滲ませ、とどまる事を知らない。日中の限界と夕刻の断末魔。その青と紫。青から紫に至るプロセスにおいて、刹那、橙と金色のエッセンスを、しぼり滴らせてはい交ぜる、海の営為。それは時に無情という、混沌という、必然の無常界の威を、声高こわだかに唱えもしよう。人間の魂を引き込みもしよう。……私は、海の移ろいを、いつもそういうふうに眺めている。極楽寺の自宅からも。たとえみぎわから離れていても、光がこぼれ、風が濡れるように吹いてさえいれば、私の中には、いつも、あの海が、小々波さざなむ。あの人の笑顔が、揺蕩たゆたう。あの人は、その人。その人は、この人であるように。この人は、隣りにいる人で、あるように。いつも隣りにいて欲しいと、願うような、ひとであった。きっと海は、女神のようで、あったろうか。傀儡かいらい神は、女性であると想うのだ……絵里子さんだって、その風情の、合理と非合理の狭間に揺れる、想像の目が羽搏はばたきそうであった。

 今、落ちつつある夕日、消えようとしている光を、追い駆けるべき、時間。上天に離れるほどに、紫の濃度は縮こまり、紫檀したんのおぼめきは夜闇やいんと見まがう。終わりのない時は、今のこの時。そして、終わらない夜は、今に始まり、始まったばかり……まだ、終わらない。そう、絵里子さんの顔ばせも、私へ蹌踉よろめきかけて来るみたいな、女っぽさに色めいている。髪に手をやる半袖シャツから覗く、白い高腕たかうでに、肩のなだらかな線は引き上がり、健気けなげ仕種しぐさが男の懐をまさぐった。瞳は、気の早い蛍の灯を吸い寄せ、眩暈めまいを覚えているかの小さな明滅が、ほうけ顔を、ふと、婀娜あだに崩して、右の頬に撓垂しなだれそうな、浮き髪のゆくえを、私に決めて欲しいと、うたう……



 ほ ほ ほたる こい

 あっちのみずは にがいぞ

 こっちのみずは あまいぞ

 ほ ほ ほたる こい

 ほ ほ やまみち こい……



 私は、この近くの、音無おとなし川を想い出した。蛍合戦ほたるがっせんなる往時の面影を、今も名に遺す。細小川ささらがわに架かる 《音無橋おとなしはし》から見られる、夏の夜の一景は、子供当時の私の心に、しっかりと刻まれている。川面すれすれにくねり張る、樹々きぎの根の野趣に、蛍の仄明かりが乱れ舞う、水の灯影ほかげの叙景は、湧きでる清水しみずのように、極めてささやかに、辺りの闇をくらきのままに、ぼんやりと浮かべる。その時の、狭められた空間の視覚は、見物の人々を、偏狭の地から辺境へと導かんとする、ある想念をいだかせる。水面に映る、仄白い光の粒の回避は、ただでさえ夏の雪のように降り、それぞれの目に、飛ぶ。飛んでまり、やはりとどまる。そして、灯を点すのだ。雪は何れ融けもし、流れもしよう、消えもしよう。蛍の命は、儚い。そんな涙だろうか。それは幻だろうか。今の私には、きっと絵里子さんにしても、わかるまい……彼女自身の瞳の中に棲む、蛍の意味を、その雪のような存在をも……尚もその蛍の灯は、揺れて揺られて、移ろうのだ……。


 この夕照までも招いて煌めく、彼女の眼差しの灯は、何を守っているのだろう。何かが、ある。必ず、ある。見つけるだろう、見つかる時を知らせるべく、絵里子さんが、私の方へ顔を向けて、気持ち、悩ましげな眉を拵えた。かすかな溜め息が、一拍の間を置き換えた。金色の光が、彼女の悉くの輪郭をぼかして透かし、その展がる波紋を脱ぎ棄てるように、美しい顔が息づいている。言葉が解かれそうになりながら……

「ねえ」

「うん」

 見合っている。

「いっちゃん……どう想う?」

「ううん……」

 顔半分は彼女へ向いたまま、目線は当てを探して、海原へ逃げた。横顔を遺した私に、

「……大胆というか、気づかってよ、って想うの私……」

「フフ」

 鼻の息でかわしたやり取りは、絵里子さんへ戻った私の目に、女の、ややかど立った面差しで、その上にじって来る。

「別居中の身の正樹さんを、幾ら親しい間柄とはいえ、父親の前で、軽く誘うような言い方って……どうかと想う」

 口がんがりそうな彼女は、あごを引いた。まばたきが聞こえて来そうだ。鼻の呼吸を抑えてはいる。弾みつつある気配が、彼女の匂いを、突として私に浴びせた。それは女の胸元にあった。見ない事ぐらい、私にだって出来るが。

「僕は新参だから、榎本さん達との関係性はわからないけど、依津子さんの言葉通り、他意はないんじゃないかなぁ。バイク仲間としてのさ、挨拶というか、まぁ……」

「ずいぶん寛大ね」

「いや、まぁ、あのぅ……」

ぁんか、っかえるなあ。ちょっと、楽しくない」

 ……まだ、風はない。凪まりの時である。それでも、私達は揺れた。少しだけ、揺れた。互いの天秤は、なぜ揺れた?……。絵里子さんのおもり、心底の本意のおもりが、私に意地悪をした。風は吹いていないのに、風が吹いたように、ふたりの合意のおもりに、悪戯いたずらをするように。彼女の強がりが、私のひとりよがりを心配させる。合意なる当て、収束しつつあるふたつの流れは、この時、一瞬、違う方向を向いたのだろう。後ろ向きという、方向だったろう。私は、向きたくもない。連れのひとだって、向きたくもなさそうな様子だ。彼女を乗せてから、ひたすら前を向き、一掬いっきくの想いを育てて来た、私達だ。絵里子さんも、その心模様を隠せない。私は知っている。彼女も、私を知っている。ひとつという、収束を。まだ、風は流れようともしないけれど、立ち止まってはいるけれど、天秤は、かすかに、揺れている。蛍の灯のように、揺れている。


 彼女の強がりは……嫉妬。


「あのね……」

「……」

 想い出すように、絵里子さんは呟くが、私は、黙っていた。彼女は宥めるように、私達の僅かの躊躇ためらいさえ、自分から消そうとしている。

「私は……二十年、行き当たりばったりだった。ひとり息子は、そんな私を心配する実家の両親に、託したというか……離されたの……」

「……」

「いけないお母さんね……確かに……」

「……」

 それぞれのうちの百パーセントで、互いを見つめている、見つめ合っている。重ならざるを得ない心底のおもりは、それぞれ、自身の暗部へ至らざるはない、過ぎし方の懺悔を、今日という日の暮れ方に、展げたいのだろうと、想わずにはいられない私だった。彼女は間違いなく、私にも、同じように……。それは、ゆく末を見つめているからに、他ならない。今日の当ては小休止、道程の中ほどにある。どんなに先の当ては果てしなく、たとえ幻の境界に及ぼうとも、されば開き直れもしようか。夕方の白地あからさまは、今後の明け透けを予感するには充分な、寝腐ねぐされのしどけなさを、この狭隘きょうあいな車内空間で、もっと露わにしようとしている、女と男だった。

「後悔頻り……もちろん反省もしている。でも、私達ぐらいの年齢になると……気づくよね。人生八十年のお返しのような、その予感……」

「ううん、そうだね、わかる」

「でしょう? やっぱりどうしたって、足りなかったものに救いを求める。大切にしまって大きく掲げる」

「……僕も、わかっているのにそうしなかった自分が、たまらなく悔しいよ。だから足りないんだね、それが……」

んなじ」

「ハハハ」

「生きるって事を、簡単に考えていたのよ。なめてる訳でも馬鹿にしている訳でもないと、昔の自分は言うと想う。でもね……手間をかけていない、早く済まそうとしていた……何事も。……鉄は、赤いうちに、若いうちに打たれてない」

「あぁ……食事だって、簡単に済ませてばかりいると、生活習慣病にかかるしね」

「ストレスの悪者扱いが過剰。他人や環境の所為せい?」

「知らん顔をして、面倒な事から逃げていたよ。そのうち、いやみもそしりもしたと想う。……簡単に、他人ひとに対して、逃げ腰ついでの後ろ足で、砂をかけるようなもんだよ」

「私、結構嫉妬やきもち焼きよ」

「フフ……回答しません」

「わかってるくせに……」

「……」

 錆びかけの釘は、気まぐれそうになっている。気まぐれ鉄は、ほだされ温度を上昇させている。人間もどきの体温に焦がれ、真似て、一個の女と一個の男に成り代わった。ひとつの心とひとつの心が見つめ合い、それぞれが見ているものは、何だろう……ひとりの女とひとりの男……ふたつの心がある。何を見ている? 見つめている?…… 海? 空? それとも、風?……。絵里子さんの意地悪な目の蛍が、私の周りを飛んでいる。遊ぶようにい回って、鬱陶しがらせる目が、人間もどきをどうにかしたいのだろう。妖しい動きの、蛍が舞う。誘って、舞う。どこに逃げ込もう、どこに、ゆけばいいのか。……私は、考えない。今は、考えるべきではない……彼女の、考えたくない目が、あった。そこに、あるのだ。そういう目に決めた、絵里子さんだった。

「手応えが、足りなかったよね、私達……」

「うん」

「不足から知った手応えは、手応えのなさ、手応えの大切さでしょ? 取得から知ったそれとは、同音異義、実体験が違う。頭でわかった事と体でわかった事は、同じ響きだけど、難しさを経験した上で、体に刻まれた性質が……手応えよ。ベテランなら、みんな知っている。難しさを排して、イージーな生き方を選んだ、私達の頭でわかった手応えは、実体がないじゃない、経験がないじゃない。心身一如っていうけど、心は、体に宿る。肉体を纏って、借りているようなもの……」

「体の感覚が元で、先駆ける」

「想像は、どこまでも想像、幻……」

「幻の手応えを、求めているんだ」

「風のようにね……」

 女の、寂しい目があった。


「……」


 押し黙った、道づれ。


「僕は……自分の給料を、自分で決めたようなもの。自分の毒で、自分の不足を補う感覚が、半ば麻痺していると想っていたんだ」

「ううん、言うわねぇ……ハハハ……確かに、私だってそう。……じゃあ私、毒ヘビ?!……ひどい!」

「ハハハハ……」

 ふたり共、寂しく、笑った。

「私も、息子の事がね……」

 目が、再び泣いているように。

 ……私は、絵里子さんの、母としての苦悩、その韜晦とうかいぶりを想いやった。過ちの欠片が、彼女のリトルラフターを漂わせていた。私のそれと、同質の匂いがした。こんな男の、空っぽの苦悩、実体のない、風を隠すような時間の長さが、そのひとの微笑を、かばったのだろうか。過ちという、冷たい匂いがいやだった。今更嫌って、怖れていた。


『風のようにね……』


『息子の事がね……』


 おそらく、絵里子さんのうちにある、偽らざる百パーセントであるように、私は感じていた。その嵌まり込んだ目を、二度、見てしまった。何かを隠したい人、しまって置かなければいけない人であった。その人が、わがままを語る時、強がりを示す時……もう既に、孤独がある、始まっている。……嫉妬、いやみ、そしり……シニカルな態度は、今のひとり、いてはこれからのひとりを、図らずも表現している。畢竟ひっきょう、そんな蓋然の流れから外れる事は、難しい。孤論難持ころんなんじを秘めたる、私達。それを畏怖する、私達。難しい母と、まだ子供のような、難しい大人の男。見つめる先は、他にも、ある。まだ、遺っている。されば見つめる目が、寂しい目の陰に、二度共、隠れていた。易からぬ事ゆえに、踟蹰ちちゅうを守ってはいる。踏ん切りを、こらえてはいる。

「もう、仕方ないのよ……仕方ない。……それでもいいの」

 彼女の台詞せりふは、私というプロンプターの仕業でも、あったろう。仕方ない所へ行き着く同士は、最初から承知の上だ。

「でもねぇ……一寸の虫にも五分の魂がある。毒もあれば、甘い水だって……女としてのさがは、奥で眠らせてはいるけど……」

「……」

「ねえ、陽彦さん」

「ん?」

 絵里子さんを見やる視線の長さが、出し抜けに、伸び縮みしている。長くのびた視線の延長線上に、彼女がいた。目の玉が丸い自覚を、素直に受け容れられるほど、敏なる自分がいた。女の眼差しが、準備のように微弱なタッチで、何事かの予告をてている。私の長い視線は、私なりの防御であったろう。一抹の、怖れという。一掬いっきくの、予感という。……たぶん、例によってジェラシーの品物を展げるのだろう。それでも、私は彼女を許せる。この年上のひとは、自身の懐を、私に展げてみせた。もし、それがないシニカルトークを投げられようものなら、私は失意の溜め息を遺して、早々に立ち去っていただろう。いやな女は、投げ続けるだろう。絵里子さんは、そうではない。自身を見せた上での、強がりなのだ。強がる自由に、男も女も年齢も関係ない。が、自由にも責任が、筋というものが関係しない訳がない。私は彼女に、女の潔さを感じずにはいられない。女盛りの艶肌の芯は、きっと、竹を割ったような清々しさが薫りもしようか。嫉妬のひとつやふたつは、女心のエトセトラと……流せる……


「あなた……いっちゃんが好きでしょ」


「えっ?」


「フフ……」


「……」


 いきなり、ど真ん中のストレートが来た。私の読みは、相変わらず甘かった……。絵里子さんの、鼻の小息の返し笑いを継いだかの、私の無言だった。さっきから、想わず黙ってしまう自分に、出逢ってばかりである。私のライントレーサーの目は、一網打尽に収斂しゅうれんされた。打って変わって守勢に回り、彼女の追及柔らかき事を、哀願するが如く。情けない、男がいた。彼女の瞳の灯の夕色が、濃墨こずみまなこを濡らし包んで光っている。飛ぶように、光っている。羽搏はばたく何ものかの影が見えた。一気に縮こまった私の目は、更に、どこかへ逃れようとしているのか。追い駆けて来そうな、絵里子さんの長い意地悪な視線が、私を見ている。がすまいと、見ている。寂しかった目は、毒に、酔うが如く。早変はやがわりを遂げた、ダイアローグのひと幕である。

 やはり……私の心の中は見透かされていた。……今日という白日夢。仲間達と、涼しい店内で日をけている時も、嘲笑あざわらうかの白色日光は、人知れず、私達に洗礼の曙光を浴びせ、ほとばしっていたのだ。人の時は、この時にしたっていつも、金科玉条きんかぎょくじょう赫灼かくしゃくたる天光に支配されている。室内の採光も、街なかで交じわる反映も、この車の白い反射も、日移りは今日を巡り、そして……今、正に、隠れ落ちようとしている。や、このひとの瞳の中に棲む蛍光と、遠き雲透くもすきの倒景黄金とうけいおうごんたる、その時にある。日は落ちてまで、余光にて悉くを浮かび上げる。見ている、どんな時も、ただじっと見ている。知っている、どんな事でも言わずとも、知っている。長い目、長い光、永い時を、人々と共に……生きている。たとえ全てが滅びゆこうとも……どんなに悲しくても……。今の私達ふたりにとり、絵里子さんの眼差しが、全てをつかさどっていた。それでもいいと、して。あの日の、桜井さんとマスターの言葉も、私に何かを期待するようだ。見ている人は見ている。わかる人には、わかる。


 永い……それはいつも、深い。時として、深い。いつまでも、深い。


んか、面白くない。……いっちゃんばっかり……みんな……」

「……」

「ねえ」

「ん?」

 また、来そうだ。

「私の事……どう想う?……」

 彼女の近い目が、波立っている。暮色濃き海の色に紫吹しぶいて、寄せ砕けつつある。夜の溟海めいかいの時が、間近に迫っていた。……最早海は微睡まどろみ、言わずもがな、凪は身動みじろぎ始め、風はさやぎ、何れ海風を喚びもしよう、その、時告げだろうか。ふたつの線、それぞれの一線は、車が駐まったまま、アイドリングの蠕動ぜんどうに甘んじなければ、臨場の幕も、決して上がりはしない。海のようにゆっくりとしたダンスの、踊り手たる、ふたりのパフォーマンスを、待っている。嬉しい緊張が、俄かに小々波さざなんだ。回転する円形が、軸へ求心し続けるそばから、余計なものはがれていった。心なしか、潮のざわめきが、五月蝿うるさく、絵里子さんと私の間を埋めんとして、割り込んで来る。傍観者達は人ではなく、人ならば他人を装う夕暮れ時の憂いのまま、隔たったまま、共に夜闇やいんを招きもしよう。いざない手の、知ったかぶりではない、知り過ぎている異体の威、人心のようで違う姿に変わった自然体。みぎわに落とした悲しみをも、拾うように、うたうように、人を超えた人に似通う……その、化身の仕業に人ならば、泣くしか、ないのか。考えさせられるような、その怖さに。

「えぇぇ……」

 私の目は、下へ長く、離れようとしている。それでもの近い目が、飛び散って幾つも灯し、私は、大人しくなった。それは、ドメスティックな争いに、内的世界が本腰を入れたサインでも、ある。絵里子さんなる、悉くのまたたきが、私の感覚という感覚から浸入して、中身を撹拌しない隙もない。旗印の目が、翻っている。近い、頑なな目だった。周りの景色が、退かすれゆくのは、夜のとばりが降りかけている所為せいだと、車内の女と男に知らせている。彼女の近い目に、私の目は、とどまった。……年上のひとの魂は、何ものに変わろうとしているのだろう。岸に届く波は、及ばずともあぶれ、退きそびれつも呑まれる、無限のトートロジーの韻律を奏でる事しか、許されてはいない。ともすれば、それならば、蛍寄せ来てアイリッシュリールに憩うかの、薄ら寂しいフィガーにも、相応しかろう。

「私だって、頑張ってるんだよ……悲しいけど……」

「う、うん……」

「本当は言いたいけど、抑えている事だって、陽彦さんもあるでしょう? たっくさん……」

「うん」

「頑張ったかどうかなんて、そりゃあ、世の中の評価よ。ひとりじゃないんだから。それが謙虚さだったり、慎重さだったり、リスクマネージメントにもなって、イコール〝創る〟 って事になる」

「そうだね」

「でもさぁ、これからそれが出来たとしても、今までそれが出来なかった、時間の長さは、どうにもならないわよ。知らんぷりをしていた自分は、今でも頑張って、我慢をしている……変わらないじゃない……我慢をする事には、いつまでも変わりはないじゃない。いつまで、我慢すればいいの? どうすれば、もっと我慢出来るの? それに耐え続けなきゃいけないの? それしかないの? それだけしか……」

「……」

「私は忘れたい。こんな話、息子に聞かせちゃいけないけど……弱い自分を消したいの! 変えたいの! あなたもそうでしょう?」

「うん」

「悔しいの……何もかも、悔しいのよ……」


 絵里子さんの魂は、今、蛍に姿を変えつつある。瞳ばかりでは、既にない。おぼろな光暈こううん体質は、おそらく、私の怖れの産物だろう。私の中で、彼女は息吹きを繋ぎ始めた。私が絵里子さんを創り上げるのだ。そうしたくなってしまった。もう、抑えられそうにない。毛細血管が密集したような、雲流れを浮かべる夕空は、一日の光の終わりに、その姿を、紅い燃焼の頂点に至らしめない、はずもない。……空、沸けば、雲さえ、湧く。人さえ、わくする。心、沸かずにいらいでか。光、惑わずにいらいでか。海とて、風とて……女と、男とて……。錆びかけの釘どもは、蛍となって、尚も、飛んでゆく。舞い踊る、蛍合戦の宵である。宙に浮かび、揺らぎ、泡沫うたかたの如く群れ、蒸れ濡れ淡く、陶然とうぜん自失の境を、彷徨い流れつつあった。ふたりの汗の匂いが触れ合って、久しい。じらうだけのれも、牴牾もどかしい。満を引く弓のような想い、しなうばかりの女の体の側線が、私の目を、もう、黙らせる事は、難しい。


 一編の詩の世界に、私達は、いる。幻の中に、いる。分け入ったのだ。始まったのだ。……互いにその人と、初めて息を合わせるように。初対面の女と男が、今、ここでこうしている当たり前を、もう、当たり前のようには、感じられない。それも当たり前の、人間の普通の欲求なのだ。そうしたい想いがあるなら、ひとりの女とひとりの男の、そうしたい想いがひとつなら、そして今それが出来るなら……自然に、そうすればいい……風が流れるように、そうするより他にない、今が、止まりつつある。凪まりは解かれ、再び海の蛍は喜んで漂い、この上ともどこかへ、まる。時は、今を止めるのだ。されど姿を変えて、まだ知らないどこかへ、まだ知らないその人へ、駆けもしよう。まって置いてみせて、流れもしよう……みな、自身さえ知らない思惑しわくの世界では、流れるままに……そうすれば、いい……



『いつまで、我慢すればいいの?……』


 それは、見惑けんわく連声れんじょうの如く、真意すら隠さんばかりの、情惑じょうわくとの境に深々と退しりぞくかの、煩悩世界を見ている人の、本当である。本当でこそあれ、一歩手前の本当である。私は、そう想っていた。そして、一歩前のめった本当をも、今さっき、当の絵里子さんは表白したばかり……それもまた、事実だ。最早、私達の本当が一致しない場面は、考えられない、あり得ない。初対面にもせよの成りゆきの、それでも退路を閉ざした緊張に震え、癖になりそうだ。どうしようもなく好きになっていた。彼女の瞳は、悩ましく様々に移ろう表情の真ん中で、水を得たように潤み、涙ぐましく輝いている。夕翳りの一景に落とした、その煌めきに、ふと、立ち止まり、寂しくて、悲しくて、歩きたくなくて……今だけは、せめて今だけは……立ち止まらせて欲しい。……私は、絵里子さんを、愛おしく想う。可愛いひとだと想う。抱きしめたいと、想う。今は……そう想う。


『私は忘れたい……』


 私だって、私だって、

 忘れたい、忘れたい、忘れたい。

 ……でも、それでも、

 忘れられない、忘れられない、忘れられない。

 ……忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない。


 忘れたいのに……忘れられない……時間の永さは、忘れていた時間を見つけてしまった……忘れられない時間を、倍にしてしまった……。もう、こうなった以上、時間を変えた。時間は変わった。今となっては、忘れたくない時間に、忘れてはいけない時間に、変わったのだ。……忘れられない時間が、動き出した……動いているのだ。……忘れたい時間。忘れられない時間。そこに歳月という、ともすれば愛という、蛍の灯の泡沫うたかたの一滴の如きさえ、あるのなら、時間は如何ようにもじり合い、忘れたくない、忘れてはいけないものにも、なりもしよう。時間は巡り、何れ忘れられないものに、帰るのだ……。時間は、戻ってゆく。時間は進んでいるようで、戻っている。黙らせる事は、極めて、難しい。ならば……黙らせる必要はない。それは誰にでも出来る事、難しくはない。時間を見つめればいいのだ、見つければいいのだ。ある想いに浸る、それだけで、時間は黙ったように止まりもすれば、饒舌に走りもしようか。ささやかな一滴の甘い雫のような、それさえあれば、人は生きてゆける、生きられるのだ。


 時間が戻る感覚。……それは、違う時間が始まっている感覚。そこに新しさがあるなら、その人にとって価値があるなら、間違いなく、それを創造という。止まっていようが、戻っていようが、微睡まどろんでいようと、走っていようと、それも必要欠くべからざる、プログラムのひとつである。たとえ立ち止まっていても、時間が動いていると感じる時。あるいは我慢をしていても、時間を動かそうとしている時。既にその人は、時間を動かしている。時間を創造している。誰にでも出来るではないか。諦める必要など、どこにもないではないか。生きてゆける、生きられるのだ。それが出来るなら、点は線になり、色は匂い、線は風と共に立ち、光と結んで舞い、かたちはかたちを包み、折り重なり、時に交じわってし、あるいは裏返し、束ね、積み上げて、小さくてもひとつの塊まりを創る。目に見えなくても、誰も知らなくても、見えようが、誰が知ろうが、かたちはかたち、塊まりなのだ。少なくとも、小さなひとつのきっかけなのだ。何れ、り所にもなり得る、時間も創れる。……水が水を誘うように。……生命いのちを繋ぐように。……絆を守るように。

 そして今……私達ふたりは、確実に、時間を巻き戻している。絵里子さんの瞳の蛍は逃げ惑い、私のまなこすがろうにも、まろうにも……


 こっちのみずは あまいぞ……


 を、探しあぐね、まって黙っている。私の目は、まだ、語り出してはいないようだ。それを語るに、彼女には不足なのだろう。女の目が待ちぼうける……その前に、男は、拾わなければいけなかった。怒りじりの露出をもいとわない、絵里子さんだった。私が守っていたものは、何だったのだろう。この後に及んで今更こだわっているものは、獅噛しがみついているものは、何ものなのだろうか。……十中八九、戻る道すがら、置き忘れたものとして、わかっているのに素知らぬ顔で封印して、忘れたいゴミ箱に棄てて、それでも気になって仕方がない、そんなもの……。それを見つけているはずだ。ふたり共、見つけているはずだ。蛍が泡のように舞い遊ぶのは、その、しるし。その、知らせ。……戻るなら、さかのぼるなら、必ず見つかるものがある。同時に、新たなる時間さえ展がり出す。だとすれば……今まで守って来たものは、どうなる?……忘れる?……棄てられる?……壊される?……。回帰は、半分の、破壊。一方で守り一方では壊す、それも創造という行動。私は、今までを失くしそうで……こんなにも嫌っていたのに、それが失くなってしまったら、今の自分まで壊してしまいそうで、先の自分がいなくなりそうで、自分が自分ではいられなくなりそうで……そんな自分が、怖かった。もちろん、絵里子さんのうちの蛍の心は、わかっている。


 

 ……私だって んなじだよ……

 何を怖れているの?

 少しは……

 男らしくして欲しい

 私は

 女……

 言わせないで……


 

 どうにかなりそうだった。どうにかなりそうな、女と男だった。どうしようもなかった。どうにもならないものを、どうにかしなければ……いけない。どうすればいいのか、わからない訳が、人間には、ない。……海の蛍どもが、そううそぶいている。……頭ではわかっていても、散漫なストーリーを創って来た経験が、私に語らせる内容は限られている。それを想い知った場面に、今までどれだけ出逢った事だろう。……悔しかった。寂しかった。こうしている今も、その怖れと慚愧ざんきは、いつも私を、私ばかりか絵里子さんをも、硬直させる。如何なる時も真新しい。自分というからが、厚貌深情こうぼうしんじょうたる相を際立たせていよう事は、私だけの問題ではない。彼女は、先んじてそれを壊そうとしている。その気高い艶容艶姿えんようえんしに、私は、どうにかこらえるだけだ。

 さっきから盛んに解き放つ、道づれもまた、道づれではある。……そこに想いを致すべきが、私達の今を救うのだ。どうにもならないものを、どうにか、出来る。どうにかなりそうな想いは、どうにか、なる。どうにでも、出来よう。……もっと、どうにかしたくなっていった。どうにかなりたかった……もっと投げるべきで、もっと応えるべきなのだ。彼女の心も、顔に宿しつ至近距離を、埋めようにもあぐね、詰めようにも迷うものの、時ならぬ……凪けの弥増いやます一風が……女の香りを、私の汗に絡めかけて来た。こんがらがって回り出した。蛍は蛍を喚んでいる。蛍は蛍に喚ばれなければいけない。私は、蛍になるしか、ない。……蛍は、蛍と共に群れ、綾織るように妖しげに、今ぞ、舞わん。今ぞ、崩れん。時に、壊れん。さつと、うそぶかん。さても、麗しく。そして、女は、


「忘れたいんでしょ?……」


「……」


 何をか言わんや……


 宵につがひし

 ひとふたの蛍のままなりて

 いまぞゆめむすびたし

 たゆたひせまほしうおぼえ候ふ

 いみじうあはれにをかしけれ



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る