何かが、ある……何かを、見つける……
そして、梅雨も去っていった。平年並みの梅雨明けであった。湘南地方にも、今年も夏本番が訪れ、子供達の、夏休みを待ち切れない
今日の私は……たった今、裏駅の有料駐車場に、車を駐めたばかりである。日曜の午後。真夏の直射に映える白い車体が、丸ごとレジスタンスの光体のように、合図を拡散している。その
……GEORGE HAMPTONの、扉を開けた。
「おぅ! いらっしゃいませ」
初の、ふたり揃ったACTIVEの歓迎だった。すぐ様、
「こんにちは!」
同じテーブル席に座ったままの、ふたりの女性の笑顔が、畳みかけた。
「こ、こんにちは。先日は、ありがとうございました。それと、先に帰ったりして、ごめんなさい」
座る前に、私は詫びた。ひとりの女性は黙ったまま、依津子さんと正樹君が、
「大丈夫大丈夫、ごめんね、こっちこそ」
ばらばらに、私への異口同音。
「ハハハハ」
マスターの、優しい干渉。私を見ながら頻りにうなずいている、同じ所作で、視線を返した私は、そして、もうひとりの女性と、目が合った。依津子さんに促され、その席に対座した。あの、彼女の柔らかく私に吸いつく肉体が、至近距離から、男の記憶にかかって来た。隣席の女性と一緒に……私は、倒れそうで、椅子に
「陽彦さん、こちら、サイトウエリコさん。結構、仲よしね?!」
「うんうん、ねっ。初めまして、サイトウと申します。よろしくお願いします!」
隣りのご存知さんと、頻りに目を重ね、こう挨拶した。
「初めまして、吉村陽彦です。どうぞよろしく」
私の方が、新参である。依津子さんのように、みなよく知る先輩に、礼を供した。
依津子さんの話によると、高校生の息子がいる、離婚歴のある、この
「夏だからかなぁ、最近、集まりがよくないね。今日もこの四人だけだし……」
「う、うん。家庭人である方も多いし、仕方ないわよ、おじさんおばさんばかりなんだから……」
「ハハハハ! やっぱり、若い人には勝てないよ、ねえ?!」
依津子さんが先導する、女同士の会話は、笑いをだぶらせ、〝ねえ〟 を重ね、男三人は、ひたすら間のびした微笑みを添え、息だけ抜き続けた。女盛りの域にある、明け透けなやり取りは、
「何飲む?」
マスターが、投げかけた。
「アイスティーで」
「了解!」
「ねえ依津子さん……」
「うん」
「フフフ……」
「何?」
依津子さんと私は、
「依津子さんって、言われてるんだぁ……」
「う、うん……」
私達ふたりは、言葉を、濁す……私は、この間、正樹君とどこまで行って来たのか、聞きたいだけだった。
「ねえ陽彦さん。いっちゃんでいいよ……これから……私は変えないけど」
「うん、わかった」
「ハハハハハ」
マスターと正樹君の哄笑は、言葉も仲間入りの歓迎であったか。
「エリでもエリちゃんでも、なんでもどうぞ! 男性に対しては、やっぱりハルヒコさんで行きます。絵の具の絵に
「太陽の陽と書いてハル。吉村も一般的なあれ」
「うん、そうなんだ。私、幾つに見えます?」
「う、うん……四十代……なったばかりぐらい……」
「そう! そんな所です……で、お宅はどちら? 私は、由比ガ浜のマンションでひとり暮らし」
「僕は、あの……極楽寺の外れの一軒家にひとり……」
「あっ、そうなんだ」
……絵里子さんのその言葉と、依津子さんのその言葉は、全く以て合致した。しかし……絵里子さんの歯切れのよさに比べ、依津子さんのそれは……なぜか、沈みそうであった。声量少な、余韻さえ消えがての響きが、されど保ったままの、笑顔の足を引っ張るような、一片の憂いを、私は、感じ取った。まるで私と同じ、隠して置きたい心の端くれを、私に知らしめる佇まいに見える。そしてそれは、この場にいる五人揃って、あまり触れるべきではない、気の置けない繋がりにもせよのバリアを、認めるものであったろうか。老舗のプライドたるを、彼女は、
「はい、お待たせ」
正樹君が、私のオーダーを完結させる、丁寧な態度で、アイスティーを持って来た。
「ありがとう」
「遠慮しないで、大人しがって飲まないで」
「ハハハ、うん」
私といっちゃんに、向けられた言葉で、あったろうか。その彼女が、俄かに活気づいた。
「あのね……私、やりたい事があるの」
「何、何?」
一同の注目が集中した。スタッフの手も、止まった。穴が
何かを、見つけたのだろう。私達は、期待を溜めてゆく。不安も、用意してゆく。彼女の事である。きっと計画を練っていよう。それでも相半ばする、ギャラリーをよそに、むしろ煽るふうの、その吐露の満を持する女の目が、急激に、満を辞する少女の目に呑まれるように、煌めき、そして、
「私……バイクの免許が欲しい! 普通二輪の、オートマティック限定じゃなくて」
「えええぇっ?!……」
即座に、総員挙手の喫驚が飛び交った。
マスターが、口火を切った。
「正樹。お前知ってたか?」
「いやぁ、初めて聞いた。いっちゃん本当に? マジ?」
絵里子さんも続く。
「ちょっと、いっちゃん!……あなた本気で言ってるの? 嘘でしよ?」
「ううぅん……」
私も
「あの、もう家族の了解も得た。驚いてたけど、説得したの。『一度言い出したら、聞かない
「ハアァァ……」
彼女のご両親の気持ちが、察せられたような、傍観者達であった。見かけによらない行動力の兆しを、初めて知った私達は、最早、優しい静観者に回るしか、選択肢はない気がしていよう、仲間達の心配顔を揃えていた。この細腕で……
「あのさ、いっちゃんの普通車免許は、オートマティック限定?」
絵里子さんの心配旅は、納得探しの道程にある。取り巻きはみな、一視同仁であった。
「ううん、違う。マニュアル車も乗れるよ」
「あっ、そう、意外とやるわね。私、取得したの三十半ばだったから、オートマティック限定」
「ふうん、そうなんだぁ……ねっ、一緒に通わない?」
「ええっ?! 何言ってるの?! 私は絶対無理よ、アラフォー女ライダーは……確かにカッコイイけど……フフッ」
「ハハハハハ!」
男三人は、女性コンビの漫才に、ただ笑った。確かに、アンプラグドだった、しかも、即興の。考えてみれば、常に、誰彼構わずそうなのだ。その反応の笑いは、いつもの事である、普通であった。当たり前が、砕けてゆく。
「普通二輪って、排気量400ccまでよね?」
「うん。400に乗りたい、400が欲しい! 免許取ったら買うんだぁ。私だってアラサーだよ。年なんて関係ない! あの……風を斬る感じが、風の壁に突っ込んでゆくような感触が、
〝ねっ〟 と同時に、彼の方へ首を
「う、うん、まあね……」
突然向けられたミュージシャンは、吃音を呈し、とまどいを
「ほらぁ、正樹さんだって困ってるじゃない、ねえ?」
絵里子さんも追いかけるように、顔ごと向けられた彼は、苦笑するばかりだった。更に、どこか小さく収まりつつあった。
私は、入店した時から、あまり意識しないようにしてはいたが、ふと、正面にいる絵里子さんの視線が、やけに気になっている。依津子さんを見やる、私の目配りの
さはいえ、絵里子さんが
さっきから、もう幾度、この目に出逢っただろう。私が正樹君を見る目も、この種の目なのだろう。絵里子さんと私は、五十歩百歩の念を掲げ、行動していたのだろうか。それは、無意味な事のようにも、感じている。非生産的であるようにも、悟っている。互いに、勝機はあるのだろうか。互いに、探っている事に、変わりはないだろう。口に出して言えない所で、繋がりそうな予感を、今は隠したい、私だった。
それよりも、正直……この依津子さんという
私は、絵里子さんのジェラシーを掻い
想像……想像……。もしかしたら、依津子さんも、私への嫉妬……絵里子さんに対しても……
たまさか、微笑むマスターと目が合い、うなずき合った私。大先輩が景気よく、
「うちは、若いお客さんが圧倒的に多いから、俺も毎日、刺激をもらいまくりだな! ハハハハハ!……しあわせって、事だな」
「そうだねえ! ハハハハハ!」
四人の子供達は、若さにおいて負けてはいない父親を、
「正樹さん、今日はずいぶん大人しいじゃない? いっちゃんが心配なの?」
「えぇぇ……」
の、依津子さんの後を拭うような、
「心配は心配だけど……あの、何と言うか……もう……
「ハハハ」
マスター単独の、
それは、依津子さんを愛していると、初めて知った、その時の、震えるような息苦しさに包まれた、感覚だった。愛とは、弱いが故に、強くなれるのだろう。今、初めて、それを知った。そういう、愛だった。ならば、愛だった。だから、忘れられなくなるのだろう。弱いから、続いてゆくのだろう、続けられるのだろう。果てしなく、どこまでも、ずっと、ずっと、君を。夢の中までも。
四人の若い仲間達……それぞれの事情がある。さればこその心のパートナー、尚以て、この集まりである。正樹君には妻があり、絵里子さんは子供を持ち、仔細まではわからないが、属籍を同じくする、継続中の立場がある。私は今ここで、その責任
絵里子さんが、気づかう。
「正樹さんは、もうカウンセリングは、いいの?」
「う、うん、今の所は」
「どう? その後」
別居中の妻の事であろう。私も、俄かに気になって来た。依津子さんも、そういう目をしている。まず同じ目の、私だろう。既に絵里子さんの仕切りは、自然の流れとパラレルなストーリーだった。ふたりのやり取りが、続きそうである。
「地道に話し合ってる。カウンセラーの方のアドバイスもその線だしね。まだ、時間が要るよ」
「そう……私も、そういう時期があったから、何か、わかるなぁ……正樹さんの意志は、変わらない?」
「うん」
「本当?」
「うん!」
「やり直したい?」
「もちろん!」
……依津子さんの瞳が、
「じゃあ、その為に、是非夫の方から、積極的に歩み寄って欲しい。ねっ、プロポーズの時の事、覚えてる?」
「まあ……」
「綺麗事だけどさ、でも結婚って、契約だけど……新規契約のつもりで臨むべき。更新じゃない。それは違うと想う。だから、夫からノックしてね、し続けてね。時間を要しているという事は、奥様はそれを見ているし、待ってる、と、私は想うの。ごめんね、偉そうな事言っちゃって」
「ううん、ありがとう、参考になった」
「フフフ……」
絵里子さんは、小さく笑った。たぶん、
「愛が、消えた訳じゃない。まだ、愛してる……生活も安定してるし……ただ、正樹さんの中に、今までとは違う、知らなかった何かの欠片が、見えたような……それに、距離を置かざるを得なかったと……ねえ、浮気してないよね? モテるからなぁ……正樹さん」
「してないよ、そういう事はしない! 俺のわがままなんだ。女房の言う事も、わかる……」
「そう……あの、ね、女って、やっぱり、今の安定を守りたいの。ごめんね、お子さんもまだだし、正樹さんが頼りなの。わかってあげて……」
「うん……」
正樹君も、そっと、笑った。ふたりの静かな微笑みが、落ちた。アコースティックギターのBGMに融けて、流れていった。物柔らかな流れは、風だった。こぼれた笑顔は、光を灯した。時に、消えつつある光は、風を濡らして、止まりつつあるだろう、人との絆を、幻のように、蘇らせもしようか。その空気が、風のように流れて、みんなに語りかけていった。学びという、癒しの風だった。
「私、ちょっと、ショップに行って来てもいい?」
依津子さんのストーリーは、
「うん、いいよ私は……」
「うん、どうぞ……」
絵里子さんに続いて、男達も引き立てた。
「ごめんなさい、すぐ戻ります……」
依津子さんは、頭を下げながら席を立つと、早足で店を出ていった。
「……」
束の間の四人だった。
……私は、中座した彼女を想像した……。正樹君への仄かな憧れが、彼の告白と、それを導いた絵里子さんの言葉に反応して、従順な防御を示したのだと、彼女を擁護した。彼に向けた訣別が、人知れず、依津子さんの胸の中で
「いっちゃん、大丈夫かなぁ?……」
マスターが、彼女待ち組の代弁者を自認する、生まれたての声を上げた。留守番部隊は、その、意思統一の下に、同等の作業訓練よろしく、憂色の
『私を、よく見てて……』
『私、風になるんだ……』
彼女のふたつの言葉が、私の中で揺れていた。消えそうで、止まりそうな、感じがしていた。早く帰って来て欲しかった。彼女がいないこの隙に、白日夢は、降って湧く。
依津子さん……
私の腕の中に、彼女の柔らかな体があった。ただ待つばかりの狩人は、ありのままを、
「いっちゃんも、振っ切りたいのね……本当は。でも、どうにもならない部分、自分で拵えた側面も、あるはずたから、抱えているだけで精一杯、立ち止まって前を向けないの。私もそう……探してるんだけどなぁ……出口を……」
絵里子さんは、手元を見やりながら、呟いた。そして、ちらりと、私を見た。彼女の言葉は、四人共通の心模様、マスターだって、もしかしたら……。
やっぱり……私なんかは、依津子さんの、本気の対象にはなり得ない、だろう……
自分を責めるまでもなく、先を見るべくもなく、主観を交じえる事もなく、私の回答も浮遊している。依津子さんの、二篇の心の
……海が見たくなったら、風を見よう、たとえどこにいようと、風に想いを馳せよう……私は、そんな事を考えていた。依津子さんは、私の、柔らかな風……確かに。そして、私は、時間を追い駆け、浪費し、使い方もよく学んでいない。今は眺めているだけの、こんな私に、これから何が、創れるだろう。私のインスピレーションの悉くは、彼女を経由して発せられるものばかりだ。風は、海と私を架け渡す、インタールードであった。もう、欠かす事が出来ない。本気で、時間を創りたくなっている。
しあわせな時間を、創ろうとしている。ここに集うひとりひとりは、ここにいるだけで、仲間のそれを
あの奇蹟は……ふたり共、そうだった。過去の言い訳を隠す事に、衝動という、あの瞬間の、あのひと時に、今の言い訳を塗り重ねて、そこから連なり流れゆく、しあわせを見ていた。されば、今までの自分は報われ、今の自分は満たされ、これからの自分は、夢を見ていられる……そんな気がした、そんな心地に包まれていた。温かな体が、それぞれの抵抗を
……愛し合う事、それは、きっと、そういうもの……知ったのだろうか……誓い合ったのだろうか……永遠に、まだ過ちの中にある、幻。だから求め合う、幻。私は、そう想う。これからのふたりの夢は、いずこへ……風のように、流れてゆくのか……互いを、過ちのままにして……初めから、わかっている事も、ある。用意しているものも、ある。引き留める切なさが、ある。それでも、私は、私達は……過ちにしてしまえば、そうして置けば、悲しくて、惹かれ合うだろう。間違いではなかったと、知るだろう……。そして、始まりから、間違いではない恋に、もし、間違いを見つけてしまったら、その恋は……。私は、それを考えると、言葉を、失う。どの道、全てが、幻と、共にあるのだろうか。私には、わからない……依津子さんが、わからない……。彼女への、仄かな予感。空想上の、掴み所のない期待。風が喚んだ幻は、どう転ぶか、それを知らない方がいいのか、それを知りたくない私が、いる。わからないなら、終われない、終わってはいない、だから、幻のまま、続いてゆく。記憶と夢が、悩ましく
想い上がっていた少年は、いつしか、自分の中に心内鈍麻が
……自分の事は言わないと決めた人が、
「ただいまぁ!」
彼女が、帰って来た。
「おかえり……」
一同、笑顔ではある。が、控えめな出迎えだった。私達ふたりは、勃然と現実の関係に戻された。ただ、風が吹き流れていた。柔らかな
「元気いいわねぇ! この暑いのに、大丈夫?」
「ハァァ、うん! みなさん、すみませんでした」
見回しながらの謝辞に、満場一致の、無事確認であった。
「あのね……」
誰にとはなく、依津子さんは続ける。自分に注がれるみんなの目線を、想いやる感じで。
「ショップのスタッフ達に、バイクの事話して来たの。
大輪の晴明が展がる、汗に煌めく、花の笑顔だった。何も文句をつけようがない納得は、ほとんど満足と比肩する、自信が溢れていた。
「じゃあ、あとは本社サイドかぁ……」
絵里子さんの反応は、正しかった。
「そうだね!」
「ちょっとォ、いっちゃん! あなた本当に気をつけてよ!……私だって応援するけどさぁ、ねっ? わかるでしょう? バイクは車じゃないんだから……それ以外にもいろいろさぁ……」
「いろいろって、
「だから、いろいろよ!」
「わかってるっ! みなさんすみません、充分、気をつけますから、見守ってやって下さい。お願いします……」
「うんうん、わかってるわかってる、自由に……」
マスターの反応もまた、正しいといわざるを得なかろう。こうなった以上、私も、そして正樹君も、言葉にしないまでも、頻りにうなずいている。マスターの微笑みが、〝学びこそ癒しである〟 という、ベテランの充実を表す顔に見えた。安心を与えるエールを、早くも依津子さんに贈っている。私は、彼女が〝サークル〟 と言っていた意味が、よくわかったようなつもりになっていた。父の如き風情にも
風向きが変わる時、たとえ風がぶつかり合おうとも、ほんの少しの矛盾が見えたとしても、風は、止まる。依津子さんなる陸風は、自熱に暖められ、上昇してゆくばかりだ。私達、周りの心配風は、その、薄まり置いていかれた気を補って、自然に、心づかう言葉を注ぐのだ。そんな、彼女の熱い想い故の、空気の対流という関係にある。
マスターに諭されたのは、私だけではないと想う。依津子さんは、海風になりたいのだ……きっといつか、海風になる。今、舞い上がり、陸から流れ
けれど……いつか、海の優勢が始まる。風は、今は、濡れたように止まってはいる。それでも……今度は、海の方が熱を上げ、時に、風に憧れ、風になった心へも、風に癒される心へも、海の学びを教え、本当の人の旅路を知らせて、そこにこそ本物の癒しがあるとする、真実の海風の優しさをして……何ものとて、連れ去る。そして、誰彼の別なく、人は、それに勝てない。何があろうと、旅へゆく。難しくても、それしか、ない。想いを、遺して……ひたすら離れ、ただ遠ざかり、去りゆく。……遺された心は、みな、同じ。私達の心が変わらなければ、いつまでも、そのまま、遺る。海風は、それを求めて、再び私達の元へ、帰るだろう。たとえ、人の心を灯す光が消えつつあっても、心にそよぐ風が止まりつつあっても、仄かな希望の
依津子さんは、風を選んだんだ……正樹君でも、私でもなく……。
マスターは、語る。
「自分の勝ちを、全部拾っちゃいけないよ。時に、負ける事も必要。ずっと、勝ち続ける訳がないんだ。勝ちを遺して置けばさ……トータルで、勝てばいいんだから。あまり矛盾を向けると、向けられるしなぁ……」
私には、海の
「これから忙しくなるなぁ……頑張ろう!」
「頑張れ!」
の声が方々から寄せられ、依津子さんの照れ笑いの
「まあ、いっちゃんも行動派襲名だね。私も、
「ところでさ、小田原へは帰ってる?」
女同士のトークは、濃密になりそうな気配を感じる、言葉少なの私であった。
「うん。先週の日曜にね……」
「あっ、そう、みなさんはお元気?」
「う、うん……相変わらず」
「ふうん。息子さんも?」
「う、うん」
「来年、大学受験でしょ?」
「うん。準備に余念がないみたい……頑張ってるわよ」
「応援してます! って、お伝え下さい」
「ハハハ、うん、ありがとう」
男性陣の傍観をよそに、日常の匂いを、遠慮なく開け展げるふたり。そこには、やはりの共通項、家族の存在があった。私の知る依津子さんと、これから知る事になろう絵里子さんの、それぞれの事情が、私の中で微妙に重なりゆく。ふたりは、ここ鎌倉において、特別な想いを寄せる男性が……おそらく、いないだろう、という、寂しさの影が、膨らんでいった。愛する家族への想いとだぶるふうの切なさが、私の
「息子さんは、ご実家にいるんだ」
私は、想い切って聞いてみた。久しぶりに、会話の成立を試みた。
「うん、まあ……」
触れて欲しくない気韻は、彼女の目の翳りだった。さっきから、気づいている私である。あまり気にはならないが、絵里子さんは、自分のトーンの湿りを、気にしている。みんな、それを慮る顔で、私とのやり取りを注視していた。短く済ませた、話だった。
……サークルの会話が、途切れた。ひとりひとりの懐の暗がりが、集まったように……。
事実、依津子さんは戻って来た。真実、風のまま、風になろうとしている。何れ、再び、流れゆく。私は、手応えというリアリティーに、疑問符をつけている。そして、その寂しさが、寄る辺を求めて彷徨いつつある自分に、モジュールコントロールの湿りを覚えている。それは、依津子さんを、諦めようとしているのではなかった。忘れようとしているのではなかった。事実を目の前にして、それは出来なかった。不意に、ウエットな想いが、逸れようとしていた。バリア頼みの憂える日々が、諦めと忘却を怖れたのだ。求める心が、命脈を繋ぎたがっている。置いてきぼりにされた、私の予感、期待は、去ってゆくかの、宙ぶらりんのようでもある。ただ……手応えがない、という概念が、ひとり歩きして、大きくなってゆくのだ。〝手応え〟 とは、如何なるものなのか、私は、よく知らない。
それを、湿ってしまった絵里子さんが、見ているように想えた。ふと、目が合う機会が、度重なる……。
「ねえ、いっちゃん」
年長の
「んん?」
こだわりのなさそうな、短い反応。
「あなた……って、意外と強いのね」
「えぇぇ?」
男どもは、一瞬、
そして……みな、時計を見る頻度が、じり高くなっている。今日も、ライヴの開催はない。ディナータイムが、近かった。
「さて、オープンにして来るよ」
正樹君が、表へ出た。目を突っつく
「外は暑いな!」
「夕凪か……」
マスターは、なぜか残念そうに呟いた。
「これからどうする?」
依津子さんは、気持ち、顔を近づけて、絵里子さんと私に、回答を求めた。
「ううん……」
束の間、揃いの前置きを
「帰ろっか?……」
「う、うん」
依津子さんも、私も、ちょっと、うなずいた。外気の湿り蒸れる匂いを、ほんのり感じる私だった。のん気な男をよそに、女性ふたりは身繕いを始めた。
「今日はお開き?」
マスターが、ガソリンメーターの残量を気にかける。
「うん。どうもありがとうございました」
「ありがとうございました」
依津子さんと私も、礼をなぞった。
「ハハハ」
マスターも正樹君も、笑って何度か、うなずいている。
「今日も楽しかったね!」
依津子さんの素直さは、店ぐるみの営業方針を実現した、満足の、
「うん!」
の合唱を誘って、喜びを咲かせた。女性達の姿直しも済んだようだ。
私達三人は立ち上がり、
「ごちそう様でした!」
「ありがとうございました」
爽やかな渋さのおじ様達は、ひとつの言葉で尚更の笑顔をふり
「陽彦君、当店では心のパートナーさんは、いつもおごりだから」
マスターの、心意気だ。
「そういう事」
息子も、粋だ。
「わかりました」
私は、まだまだ
「失礼しまぁす!」
「気をつけて」
最後も、並べた。
「正樹さん、免許取ったらツーリングに行こうね!」
「うん」
「強気な
「エヘヘへ……」
「ワハハハハ!」
爆笑が降る中、名残惜しげに、静かに、ふわっと、ドアが閉まった。
……目が眩む瞬間だった。
今こそ、創る、という事の実行を知るべき時……
それぞれが、そう想っている顔に見える、私である。互いに見定め合う目が、そこから逸れようともしない因縁話を、既に語り出している。私にしても、もちろん聞いて欲しいのは山々、それを察している女性ふたりも、懐中物は同じ。三人の相互意識のクロソイドカーブが、インターチェンジとの合流間近の、スパイラルロードを彷彿とする、ストレスを突きつけられ、その端緒に進入しているような気負いの熱が、殊、女の目を輝かせている。
……いつか、カウンセラーの桜井さんも言っていた、〝創造〟。そこから、いやみも
「じゃあ、ここで別れようか?」
依津子さんが、提案した。
「うん」
絵里子さんと私の、同意を待っていたかの感が、依津子さんに仄見えていた。ふたり共、それ以上は黙っていたが、絵里子さんの口元が、やや
「私はこれで……じゃあ、また」
両掌を翳すバイバイを添え、まず依津子さんが、ひとり去っていった。八幡宮方向へ歩いてゆく。オレンジがかった西倒れの光線勲章に支えられた、その後ろ姿……手提げバッグの前後の揺れが、なぜかしら、私の目の中に居座っている。考えたくない時間が、横に平行移動しようとするのは、
「帰るんでしょ?」
彼女は、問いかける。
「うん」
私は、迷わず答えた。
「僕、車で来てるんだ。すぐ近くに駐めてある」
「ふうぅぅん、じゃあぁ……」
長い間合いが、私を
「……私のマンションまで、送ってよ」
「う、うん」
私達は、こんがらがりそうになりつつも、着地点を見つけたのだろうか。私のひとりよがりを見ていた、絵里子さんの強がりかも知れない。彼女の強がりに甘えた、私のひとりよがりかも知れない。私は、彼女に、何でも話せそうな気がしていた。女のジェラシーを臆せず見せた、さっきが、そのまま、私を導いたようで……で、あるなら、彼女を私へ赴かせた理由、強がりを潤す何ものかを、私のひとりよがりに見ていたのだろうか。絵里子さんの瞳は、今、極彩色に揺れている。私は、そうなりがちな、無彩色の男の情念を、すり替えたい想いが、不意に……立ち上がり前のめり、サティスファクションを探し始めた。忽ち、サイマル的にそれを探しあぐねる、彼女の強がり、嫉妬……と、雑じりゆく気配を、否めようも、ない。たぶん、ただ、今は、おそらく、出来れば、刹那、忘れたい男と、忘れさせたい女……に過ぎないのだろうか。私の、ひとり相撲だろうか。いやな男の車に、乗りたいだろうか……自宅まで……。
絵里子さんだって、忘れたいんだ。私に、忘れさせる事など、出来やしない、出来まい。だけど、それでも、私は、もう……。考えたくない時間は、まだ、先がある。それだけが、わかっていた。きっと、彼女も。目の中という
「道案内よろしく」
「うん」
「行こうか……」
「うん……」
絵里子さんと私は、連れ立って歩き出した。小さくなるばかりの、依津子さんの後ろ影を
そんな、道ゆき
……駐車場へ来ている。私は、まず、料金を精算した。
淡い紫の雲流れ模様のハンカチが、絵里子さんの、沈黙頼みの
私の車は、スマートエントリーが作動して、解錠したようだ。ズボンのポケットの中の、携帯機との通信成立を合図する、バザードランプが点滅している。彼女も、気づいたようだ。
「あの車ね」
反射光線に
「うん、どうぞ」
「……」
私達は、車に乗り込んだ。即座に、
「エアコン、ちょっと待ってて」
「うんうん」
絵里子さんも、オーナードライバーである。街なかなので、窓に僅かの隙間を空けて、駐車場から離れる事も出来ない。忽ち湧き浮かぶ汗に
「いいかな?」
「うん」
「GO!」
私はブレーキを踏み、シフトをドライヴに入れる。左脚でパーキングブレーキを解除し、ミラーと目視で周囲をよく確認する。右脚を緩め、ゆっくり動き出す、タイヤを履いた白い靴は、それに吊られる適材適所の、アクセルとブレーキとハンドル操作に、委ねられていった。今日は嗅覚までも、研ぎ澄ませざるを得ない、車の運転が、暑いなんてものじゃないにもせよ、
助手席の
「……やっと、熱が逃げて来たね」
「うん」
彼女の顔ばせが、安心へ傾いていた。瞳は、風
「本当、鎌倉は暑いなぁ。僕はご無沙汰の夏だから、
「うん、そう想う。やっぱり、温暖化が進んでるのよ」
「ねっ」
ふたり共、ハンカチが顔から離れない。私は運転に集中しているが。
「道はね、六地蔵を右、ひとつ目の信号を左……」
「由比ヶ浜駅へ入る道だ」
「うん。で、そのまま直進、国道手前の左側」
「わかった、すぐだね」
「うん、すぐよ」
「じゃ、行きましょう」
「お願いします」
私は、エアコンのスイッチを入れた。揃ってウインドウを閉めた。その六地蔵へ南下直進する、鎌倉市立
「ハアァァ……涼しいぃ! どうもありがとうね」
「フフ」
彼女の本当だった。……左に、鎌倉幕府
たまさか、その交差点の、停止線の最前に停まった。ウインカーを右に出している。左手に、赤いべべの身拵えのお地蔵様の、幾つかの頭が、植え込み越しに見えている。守護するような石碑には、松尾芭蕉の一句、〝夏草や
そして……青になり……静かに走り出して、右折する。この通りは、
それぞれ、汗も
汗は、暑さの
ひとつ目の信号に、至りつつある。左へ、ウインカーで知らせる。幸運にも、青の点灯。ゆうっくり、そのまま左へ……斜めに枝分かれる道に進入した。真っすぐゆけば、海。国道百三十四号、由比ガ浜四丁目信号である。夕映えの
「あ、そのマンション……」
絵里子さんは、顔の向きで示した。
「うん。いい雰囲気の造りだね」
「ありがとう。由比ヶ浜一望よ」
「ううん、そうだろうねぇ……いいなぁ……」
「この車もいい車ね」
「ありがとう」
……バザードを焚き、正面エントランス前に、車を停めた。
「……」
……想いも寄らない無言は、私の、想いによる。それと想わせたくない強がりは、絵里子さんの、ひとりよがりにもよる。私達は、互いにひとりよがり、期せずして、無言を揃えて、隠したくて、何も言えないのだろうか……。想わせぶりな、道ゆきであった。彼女は、私を感じているだろうか。今の私は、自分のありっ丈で、彼女を感じているつもりでいる。子を産み、嗅ぎ分けた女の、諦めさせない諦め、想い切ろうとしない想い切りを、見つめている。それぞれの視野の、過半数に
それは、私の奥底に眠る、依津子さんの影を、それとなく覗くような、それ以上の嫉妬を
言えない想いは、見えない想いに、なってゆきそうな、気が、している……。
来る波は、さして間を置かず、
「ねえ……」
初めて聞く、絵里子さんの言葉の予感が、芽を出した。
「うん」
「このまま、少しドライヴしたいな……。話したい……海辺で……」
「う、うん……」
まだ、目を合わせられない、ふたり。
「じゃあ、行こうか」
「……」
絵里子さんは、黙ったまま、やや、下を向いた。……私は、パーキングブレーキのペダルを、踏んではいない。彼女も、わかっていたと想う。ひとり降ろしてから、このままひとりで帰るつもりだった。なりゆきの一線は、まだ終わってはいない。終わらせたくないひとりひとりが、隣り合っていた。短い道ゆきは、最初からずっと、そうだったのか……。たった今、私達ふたりは、道づれというなりゆきを、
「稲村の駐車場へ行こう」
「うん……」
隣りにいるのは……絵里子さんだった。依津子さんでは、ない。私は、この狭い空間に、三人で乗っているかの、
……ウインカーを右に切り替え、アクセルを押し踏み、このまま南下する。すぐ、由比ガ浜四丁目信号。赤で、停まった。海の、黄金と
そして、信号が青を告げた。湘南を代表する、代名詞のようなこの海岸通りを、西へ向かう。左に流れる、緋色の
快適なシーサイドドライヴは、忽ち、稲村ヶ崎に着いてしまうだろう。まだ赤信号に引っかからずに、スムーズな走りである。絵里子さんは、顔をやや左へ向けて、海の呼吸に合わせるように、何かを拾い集めている。リサーチの集中は、静かなるに限る。暖色の光を浴び、静かな
……彼女を隣りに乗せてから、目を合わせたくても、合わせられない。ふと出逢うようで、出逢っていない。見つめたくて見つめれば、不意に逸らされ、逃げる訳ではないが、迫り続ける前方や、流れる周囲の様子や、それら全てを従える夕景色に帰ろうとする、私達ふたりの視線のあり
左は、落ち込むような海面、陸の
あまりに接近してしまえば、触れてしまえば……笑顔は、笑顔ではいられなくなるかも、知れない……たったひとつの、ほんのひと言の、
今、緩やかな坂を上がっている。稲村ヶ崎に連なる、山の縦塞がるその横腹、岬へと収束する、東側の
小さな峠を、越えた。平らな
「今日は、対向車線もよく流れてるね。裏から回って反対車線に出ないで、このままダイレクトに通りを横切って、駐車場へ入ろうか」
「うん」
有料の平面大駐車場は、公営で、海岸側ではなく、街側の車線に面している。満車の事が多いが、その表示もなく、見た所、
と……一台の対向車が、少しスピードを落とし、パッシングで私達を促した。その後ろの路面の道筋を、塞ぐものはまだなく、平滑な反射光が、譲り合うハレーションのように、合図の、一瞬のライト点灯を際立たせている。……私も返礼の灯を点し、右にハンドルを切ると、絵里子さんも一礼を添えてくれた。駐車場へ入った。
私は、自動駐車券売機の券を抜き取ると、彼女は、
「貸して……」
バッグの中に
「……」
一瞥だけで……半分ほどの空きの車室を認めた。今走って来た国道に正対して、この通りの歩道と境を接する、奥の空席エリアが、やけに広々と、一、二台ではないゆとりを訴えている。
「一番奥へ行こう」
「……」
海が真近の、最前列である。
……前向き駐車ではなく、枠内に頭から進入して、駐まろうとしている。
おもむろに、私達の眼前に、真正面に……透かし
「陽彦さん、窓、開けようよ……」
「うん」
それぞれ、ウインドウを全開にした。私は、エアコンとエンジンを切った。やはり……忽ち、熱気球体を車内に投げ込まれた。女の体臭と絡まる外気が、夕凪
いつしか夕空は、不可思議な、紫地の
今、落ちつつある夕日、消えようとしている光を、追い駆けるべき、時間。上天に離れるほどに、紫の濃度は縮こまり、
ほ ほ ほたる こい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
ほ ほ ほたる こい
ほ ほ やまみち こい……
私は、この近くの、
この夕照までも招いて煌めく、彼女の眼差しの灯は、何を守っているのだろう。何かが、ある。必ず、ある。見つけるだろう、見つかる時を知らせるべく、絵里子さんが、私の方へ顔を向けて、気持ち、悩ましげな眉を拵えた。
「ねえ」
「うん」
見合っている。
「いっちゃん……どう想う?」
「ううん……」
顔半分は彼女へ向いたまま、目線は当て
「……大胆というか、気づかってよ、って想うの私……」
「フフ」
鼻の息で
「別居中の身の正樹さんを、幾ら親しい間柄とはいえ、父親の前で、軽く誘うような言い方って……どうかと想う」
口が
「僕は新参だから、榎本さん達との関係性はわからないけど、依津子さんの言葉通り、他意はないんじゃないかなぁ。バイク仲間としてのさ、挨拶というか、まぁ……」
「ずいぶん寛大ね」
「いや、まぁ、あのぅ……」
「
……まだ、風はない。凪
彼女の強がりは……嫉妬。
「あのね……」
「……」
想い出すように、絵里子さんは呟くが、私は、黙っていた。彼女は宥めるように、私達の僅かの
「私は……二十年、行き当たりばったりだった。ひとり息子は、そんな私を心配する実家の両親に、託したというか……離されたの……」
「……」
「いけないお母さんね……確かに……」
「……」
それぞれの
「後悔頻り……もちろん反省もしている。でも、私達ぐらいの年齢になると……気づくよね。人生八十年のお返しのような、その予感……」
「ううん、そうだね、わかる」
「でしょう? やっぱりどうしたって、足りなかったものに救いを求める。大切に
「……僕も、わかっているのにそうしなかった自分が、
「
「ハハハ」
「生きるって事を、簡単に考えていたのよ。なめてる訳でも馬鹿にしている訳でもないと、昔の自分は言うと想う。でもね……手間をかけていない、早く済まそうとしていた……何事も。……鉄は、赤いうちに、若いうちに打たれてない」
「あぁ……食事だって、簡単に済ませてばかりいると、生活習慣病にかかるしね」
「ストレスの悪者扱いが過剰。他人や環境の
「知らん顔をして、面倒な事から逃げていたよ。そのうち、いやみも
「私、結構
「フフ……回答しません」
「わかってるくせに……」
「……」
錆びかけの釘は、気まぐれそうになっている。気まぐれ鉄は、
「手応えが、足りなかったよね、私達……」
「うん」
「不足から知った手応えは、手応えのなさ、手応えの大切さでしょ? 取得から知ったそれとは、同音異義、実体験が違う。頭でわかった事と体でわかった事は、同じ響きだけど、難しさを経験した上で、体に刻まれた性質が……手応えよ。ベテランなら、みんな知っている。難しさを排して、イージーな生き方を選んだ、私達の頭でわかった手応えは、実体がないじゃない、経験がないじゃない。心身一如っていうけど、心は、体に宿る。肉体を纏って、借りているようなもの……」
「体の感覚が元で、先駆ける」
「想像は、どこまでも想像、幻……」
「幻の手応えを、求めているんだ」
「風のようにね……」
女の、寂しい目があった。
「……」
押し黙った、道づれ。
「僕は……自分の給料を、自分で決めたようなもの。自分の毒で、自分の不足を補う感覚が、半ば麻痺していると想っていたんだ」
「ううん、言うわねぇ……ハハハ……確かに、私だってそう。……じゃあ私、毒ヘビ?!……ひどい!」
「ハハハハ……」
ふたり共、寂しく、笑った。
「私も、息子の事がね……」
目が、再び泣いているように。
……私は、絵里子さんの、母としての苦悩、その
『風のようにね……』
『息子の事がね……』
おそらく、絵里子さんの
「もう、仕方ないのよ……仕方ない。……それでもいいの」
彼女の
「でもねぇ……一寸の虫にも五分の魂がある。毒もあれば、甘い水だって……女としての
「……」
「ねえ、陽彦さん」
「ん?」
絵里子さんを見やる視線の長さが、出し抜けに、伸び縮みしている。長くのびた視線の延長線上に、彼女がいた。目の玉が丸い自覚を、素直に受け容れられるほど、敏なる自分がいた。女の眼差しが、準備のように微弱なタッチで、何事かの予告を
「あなた……いっちゃんが好きでしょ」
「えっ?」
「フフ……」
「……」
いきなり、ど真ん中のストレートが来た。私の読みは、相変わらず甘かった……。絵里子さんの、鼻の小息の返し笑いを継いだかの、私の無言だった。さっきから、想わず黙ってしまう自分に、出逢ってばかりである。私のライントレーサーの目は、一網打尽に
やはり……私の心の中は見透かされていた。……今日という白日夢。仲間達と、涼しい店内で日を
永い……それはいつも、深い。時として、深い。いつまでも、深い。
「
「……」
「ねえ」
「ん?」
また、来そうだ。
「私の事……どう想う?……」
彼女の近い目が、波立っている。暮色濃き海の色に
「えぇぇ……」
私の目は、下へ長く、離れようとしている。それでもの近い目が、飛び散って幾つも灯し、私は、大人しくなった。それは、ドメスティックな争いに、内的世界が本腰を入れたサインでも、ある。絵里子さんなる、悉くの
「私だって、頑張ってるんだよ……悲しいけど……」
「う、うん……」
「本当は言いたいけど、抑えている事だって、陽彦さんもあるでしょう? たっくさん……」
「うん」
「頑張ったかどうかなんて、そりゃあ、世の中の評価よ。ひとりじゃないんだから。それが謙虚さだったり、慎重さだったり、リスクマネージメントにもなって、イコール〝創る〟 って事になる」
「そうだね」
「でもさぁ、これからそれが出来たとしても、今までそれが出来なかった、時間の長さは、どうにもならないわよ。知らんぷりをしていた自分は、今でも頑張って、我慢をしている……変わらないじゃない……我慢をする事には、いつまでも変わりはないじゃない。いつまで、我慢すればいいの? どうすれば、もっと我慢出来るの? それに耐え続けなきゃいけないの? それしかないの? それだけしか……」
「……」
「私は忘れたい。こんな話、息子に聞かせちゃいけないけど……弱い自分を消したいの! 変えたいの! あなたもそうでしょう?」
「うん」
「悔しいの……何もかも、悔しいのよ……」
絵里子さんの魂は、今、蛍に姿を変えつつある。瞳ばかりでは、既にない。
一編の詩の世界に、私達は、いる。幻の中に、いる。分け入ったのだ。始まったのだ。……互いにその人と、初めて息を合わせるように。初対面の女と男が、今、ここでこうしている当たり前を、もう、当たり前のようには、感じられない。それも当たり前の、人間の普通の欲求なのだ。そうしたい想いがあるなら、ひとりの女とひとりの男の、そうしたい想いがひとつなら、そして今それが出来るなら……自然に、そうすればいい……風が流れるように、そうするより他にない、今が、止まりつつある。凪
『いつまで、我慢すればいいの?……』
それは、
『私は忘れたい……』
私だって、私だって、
忘れたい、忘れたい、忘れたい。
……でも、それでも、
忘れられない、忘れられない、忘れられない。
……忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない。
忘れたいのに……忘れられない……時間の永さは、忘れていた時間を見つけてしまった……忘れられない時間を、倍にしてしまった……。もう、こうなった以上、時間を変えた。時間は変わった。今となっては、忘れたくない時間に、忘れてはいけない時間に、変わったのだ。……忘れられない時間が、動き出した……動いているのだ。……忘れたい時間。忘れられない時間。そこに歳月という、ともすれば愛という、蛍の灯の
時間が戻る感覚。……それは、違う時間が始まっている感覚。そこに新しさがあるなら、その人にとって価値があるなら、間違いなく、それを創造という。止まっていようが、戻っていようが、
そして今……私達ふたりは、確実に、時間を巻き戻している。絵里子さんの瞳の蛍は逃げ惑い、私の
こっちのみずは あまいぞ……
を、探しあぐね、
……私だって
何を怖れているの?
少しは……
男らしくして欲しい
私は
女……
言わせないで……
どうにかなりそうだった。どうにかなりそうな、女と男だった。どうしようもなかった。どうにもならないものを、どうにかしなければ……いけない。どうすればいいのか、わからない訳が、人間には、ない。……海の蛍どもが、そう
さっきから盛んに解き放つ、道づれもまた、道づれではある。……そこに想いを致すべきが、私達の今を救うのだ。どうにもならないものを、どうにか、出来る。どうにかなりそうな想いは、どうにか、なる。どうにでも、出来よう。……もっと、どうにかしたくなっていった。どうにかなりたかった……もっと投げるべきで、もっと応えるべきなのだ。彼女の心も、顔に宿しつ至近距離を、埋めようにもあぐね、詰めようにも迷うものの、時ならぬ……凪
「忘れたいんでしょ?……」
「……」
何をか言わんや……
宵につがひし
ひと
いまぞゆめむすびたし
たゆたひせまほしうおぼえ候ふ
いみじうあはれにをかしけれ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます