Mr. ACTIVE
梅雨に
夕方少し前、ここ表駅の、
「こんにちは、失礼します……」
「あっ! 吉村さん、こっちこっち」
いきなり、依津子さんの炸裂ぶりに、迎えられた私は、
「お待たせしました。失礼……」
と、膝を割り腰を預けながら、返した。
「すぐわかったでしょ?」
「うん。小町通りは、ちょくちょく来るけど、近くにこういう空間があったんだぁ。ライヴハウスって、初めて……」
私の携帯にかかって来た、彼女の携帯からの情報の回答を、素直に、述べた。先日の、材木座ゆきの帰り道、自然な、番号交換があったのだ。そんなこの
「ここは正に、アコースティックな開放区! 鎌倉らしく……」
「そうだね! あのパネルとプレートなんか」
私は、たった今、ドアを開けると同時に、脱皮したような自分を、少年の自分が、笑って眺めている目で、その壁にかかる、大型写真と、
「遅いわねぇ……また、バイクをいじってるのかな?」
「で、ギタリストでしょ? 何か、好きなものに囲まれている感じで、羨ましいなぁ……少しでも、そうしたいなぁ……」
「私も! 本当に……自分に素直に、まっすぐに生きて来た人なの。色んな夢を叶えてるし、それでなぜ? カウンセリングなのかしらっていう……奥様と、別居中らしいけど……」
「ううん……失礼ながら、それだけに、足りない何ものかに、ねぇ……」
「ううん……私も、そんな気がしてる」
ふたりして、この店のオーナー、私はまだ見ぬその彼の話題に、及ばざるはなかった。事前の彼女によると、今日は、私達ふたりだけとの事。他のメンバーは、時間の都合がつかず、自ずと、デートみたいな空気感を、その彼に、悟られまいとする気づかいが、たぶん彼女も、空振りに終わりつつあったろうか。浮かれ気分の処し方が、宙ぶらりんのまま、過ぎていった。依津子さんの眼差しが、
と……扉が
「さぁて……あら、いらっしゃい」
「あら! お父さま、勝手におじゃましてます、こんにちは」
「こ、こんにちは……」
私も、咄嗟に反応していた。
「ごめんね! 開けっ
依津子さんと私の父と、ともあれ同年代であろうか。その息子もこの親譲りの、自由の気を
「マスター! こちら……ニューフェイスの、吉村陽彦さん」
「あっ、初めまして、吉村と申します。どうぞよろしく、お願いします……」
「初めまして、マサキの父の、エノモトコウゾウです。耕すに、数字の
「は、はい……フフ……」
「ねっ! 気楽に、やってって下さい。一応、私がマスターという事に、なってるみたいで……まぁ、今後ともご
「はい! 是非」
「ハハハハ!」
私も吊られて、少し笑ったが、よく笑う、マスターである。自然にこぼれる、人である。骨のぶっ
私は、敗北感を、どうしても、他人に表現したくなりがち故の、失くし難い怖れから、沈黙という
「マサキさんは?」
彼女の問いかけに、
「うん。今日はライヴがないから、朝からゆっくりしてたよ。ヨシムラさん、聞いてるかな? 俺達、材木座の古びた家で、ふたり暮らしなんだ。てっきり、あいつ、こっちへ来てると想ってたよ、ごめんね」
「いえいえ」
客人約二名、Never mind……を、揃えた。小さな事は気にしない、気にならない、されど、こだわりを持たないという、こだわりを、私は、自分への慰めのように、この
「で、何飲む?」
「私、アイスティー。吉村さんは?」
回答を振られた私は、
「僕も……」
「OK!」
マスターは、奥の厨房へ消えた。久しぶりに私は、人前で自分を〝僕〟と呼んでいた。
……マスターは、そんな私達の風情を、気づかう笑顔のまま、日常なる、ルーティンワークの手を休めない。見え隠れしていた。グラスが触れ合う音を包む、アコースティックギターの調べが、
「CD回すの忘れてた……失礼」
その、海辺の一景、青き豊饒を
なぜか……並んで貼りついている、アメリカの〝マザーロード〟のプレートが、私に、歩み寄って来る。それだけでなく、
〝Route
「お待たせしました。今日も、俺からプレゼント」
マスターが、ドリンクを運んで来た。
「ありがとうございます」
を、被せ合う私達。更に私は、
「どうもすみません、いただきます……」
「ヨシムラさんは、まぁ、初めてのお客さんだけど、礼儀正しいねぇ! 営業マン? もしかして銀行の
そう言いながら、隣りのテーブルに座った。
「元、営業もやってました」
「へぇぇ、やっぱり……」
ロコふたりも被せたのは、合点がいったようなずきをも含んでいた。
「そうなんだぁ、私、初めて聞いた」
「うん、実はね」
「一応! 俺もお客さん商売だから、わかるなぁ、そこはかとなく……ねえ?」
「う、うん」
依津子さんの間合いは、何だったろう。
「僕なんか、マスターとは年季が違いますよ」
「そんなことないよね? いっちゃん……ねえ?!」
「フフフ、うん」
私は、マスターといっちゃんのかかわりようが、羨ましかった。これから来店した時は〝僕〟でいこうと、決めた。冷たい紅茶の
……ゆっくりドアへ向かったマスターは、立ち止まって、厚い防音の木の壁を押し開けた。忽ち流れ込む、雨のさやぎに分け入るように、空を見上げた。雨降りの外光の、仄明かりが灯る顔が、おもむろに微笑の輪を展げてゆく。たまさか、私達の耳にもそれとわかる、大型バイクのエンジン回転音が、
ドドドドドドド……と、
肚に応える交響曲の、低振動の重たい空気層を纏い、緻密にして単調な、
「マスター、来ましたね!」
「う、うん。まぁ、どこで何をしてたんだか、うちの若大将は……」
「フフフ……」
私達は、笑いを
彼が多くを語らずとも、
……マスターは〝やれやれ〟といった笑顔で、拡大しつつ迫り来るばかりの、風圧の
「よォ! 遅かったなぁ、おふたりさん、お待ち兼ねだぞ」
「う、うぅん、ごめんね! いやいや、失礼しちゃった! ちょっとね……ごめんなさい」
店の前に、バイクを止めているようであった。
「いつも、こんな感じ……」
尚も笑いを展げた私達である。
「僕にはない、アクティヴだ。カタカナじゃなくて、英語の」
「ハハハ、面白い事言うんだぁ。それでいいのよ、ねっ?」
「ハハハ、いやいや、もう……砕けたというか、融けっ
「来てよかったでしょ?」
……雨を物ともしないイケメンが、茶色い革のブーツの静かな大股で、ふわっと現れた。白いウインドブレーカーを脱ぎながら、張り上がる大胸筋を包んだ、やはり白のTシャツが、私達ふたりを眩しがらせるように、
「ごめんなさい、お待たせしちゃって、初めまして、エノモトマサキです」
依津子さんを目線で気づかい、礼を執りつつ、私に、両手の握手を求めて来た。その、ごっつい手の感触に、遅参の非礼を詫びる、温かな潔さが見えた。負けないように握り返した私は、息を
「初めまして、ヨシムラハルヒコと申します。これからも、よろしくお願いします。字は、秀吉の吉に
能弁ではない私は、饒舌に話せた。自分という不思議が、いい方向に傾いている事に、嬉しくなってしまった。真夏の入道雲のように、されど優しく、私達の目の前を塞いで盛り上がる体を、ゆっくり椅子に委ねたマサキさんであった。休憩時間の訪問を詫びたい気が、しないでもなかろう依津子さんと、同時に私も着席した。彼の、その目尻の切れように、いつも遠くに移ろえる、熱気の欠片が
「レモン
「うん」
マスターと入れ替わり、その椅子に彼は座った。
「また、お友達が増えたね! マサキさん」
依津子さんは、男ふたりを見やって、明るい同意を求めた。
「そうだね! 吉村さん、遠慮しないで、何でも言って下さい、ねっ?!」
「はい!……」
みんな笑ったままだが、私は、嬉しさに照れて、軽く、視線を下げた。Tシャツが似合う若々しい姿が、水々しくニューフェイスの目を
「まあ、ヴィヴィッドな出逢いだ」
マスターが、レモン
「お父さん、すぐ茶化すんだから……ハハハハ! ねえ吉村さん、俺のマサキは、正しい樹立の
「うん、わかった。じゃあ、正樹君で」
「OK、
「ハハハハハ!」
と、全会一致の可決の歓喜の顔が、並んでいた。私の、虚礼を排したかの、親しげな言葉への歩み寄りを、みな、驚く事もなく、何等問題なく、受け容れていた。私自身も、不思議と、自然だった。今まで、自分に関係ないものは、悉く却下しがちな、外部に対して本当は攻撃的な、隠れた自分を憂いていた。そんな、火成岩塊のような心を、自ら更に砕かんと宣言する、「うん」であった。それぞれが、もちろん察していよう。それは……仲間であった。OKを出した正樹君もいる仲間を、信じたのだ。私を含めた仲間が、動き出した合図の……「うん」そして「OK」。
急に、正樹君は、何かを決めたような顔で、席を立った。そして、店の端っこに片づけられていた、低くて脚のない、箱型
「やるか?」
「うん」
私は、〝やる〟が〝
「正樹さん、やるぅ!」
と共に降らせた、それぞれの拍手に、私はもちろん、乗り遅れてはいなかった。正樹君が、ギターを手に腰かけ、クリップ型チューナーでヘッドを挟んで、チューニングを
「陽彦君。君をお祝いして、記念して、一曲
「うん」
「あ、そうなんだ。いいよね、何か、スケールがでっ
再び……拍手が
そして……彼の右指が、私の心を、私達の今の想いを、優しく……
Talkin' to myself and feeling old.
Sometimes I'd like to quit.
Nothing over seemes to fit.
Hangin' around, nothing to do but frown.
Rainydays and Mondays always get me down......
恋する心の憂鬱は、恋という、潤い過ぎるエマルジョンの、副産物であった。私は、依津子さんの目の、それを読み込む
しかし、ここ鎌倉に来てから、このジレンマが、必要欠くべからざるものたれ、とする想いに、気づき始めていたのも、また事実であった。彼女と再会してから、かつての、眺めているだけの、初恋なる道への迂回路が、本来の、求めるという人の
弱い私……誰もいない、誰も見ていない、誰も気づかない小部屋に、ひとり……群れ成す自然の攻め手さえ、免れる事はない。本当に、許してくれてはいないだろう。まだまだ許しが足りない。どこへ行っても
生きてゆく為に、痛みの希釈化なる、青春の影に泣いた、あの日の、依津子さんであった。そして、私であった。ふたりは、抱き合ったのだ。この手をのばし、その手をのばされ、はたと、掴まえた、そして、離さなかった、離れなかった、いつまでもそうしていたかった……。その温もりが、遺っている、今、想い出している、そんな顔をしている、ふたりであろうかと、そんな目で、彼女を見た私だった。まっすぐに、手をのばせば、それでいい……そこには……
きっと世界中の中年層以上の人なら、誰しも、カレンの歌声に魅せられた、経験があるだろう。たとえ一瞬でも、報われただろう。そして、愛し愛されたいのだ……。繋ぎ合えず、すれ違い、無意味な事だとわかっていても、ひとり言に過ぎなくても、時に愛する人と自分さえ、嫉妬と怒りで責めてしまっても……愛する為、生きる為、生かす為、憂鬱へと、駆けてゆく……まだ、続いている、終わった訳ではないのだ……それが、生きるという事……。
人は、人を想うが故の憂いを、よく知っている。だから、涙の雨も降れば、曇り空を見上げるだけで、その涙を想い描く。まるで自分から投じるように、
依津子さんの横顔が、演者を見つめる私の視野の切れ端に、しっとりと佇んでいる。さっきまでの開放を閉ざしたように、流れるメロディーを追いつつ、落ち着いていた。その唇が、曲をなぞって
されどこの
こうして移ろえる彼女は、それでも、ふと、なぜか……移り気な
正樹君に対する、男の嫉妬だろうか。彼への羨ましさが、小さな、ほんの小さな石の
正樹君の左指……腕ごと繰り出す、その流動体のような手
彼の少年時代、おそらく、マスターに手
その、甘く切ない指が……弦の響きが……依津子さんを
私は、世の中の様々な物事に対して、昔から、鈍い怒りを、ゆっくり自分の中へ沈めてゆく種の人間と言える。確かに、鈍く、のろい。であるが、それ故に、怒りはいつまでも続き、
あまりにもかけ離れてしまった、虚像と実像。その距離を埋めるには、最早、自分で自分を慰めるべき……それしかなかった。その為に、時に、鈍い怒りを社会へ向けてしまうのだ。どんなに頑張っても、どんなに我慢をしても、どう頑張り、どう我慢したのか、その評価は、社会に委ねられるべきもの……しかし私は、それを自己採点にだけ、任せていたのだ……中途半端な、曖昧な、私自身の主観世界に、全て……囲い込んでいた……。
ギターの調べは美しい。新しい仲間も美しい。それが嬉しい。だけど……きっと、やはりの、そんな予感が……。嬉しい予感が、居場所に迷っていた。それはたぶん、いい事をするという、常道の意識以上に、よくない事はしないという、予め危険を予測する意識へ、大きな意味を持たせていなかったからだろう。足し算は大切。されど、引き算の足りない世界に、何を、予感するものがあるだろう。引き算という地道な頑張りは、未来の時間を作る。リスク回避なる、多角度逆方向からの光さえ、用意しよう。私は、これから時間を作れるだろうか。時間が、欲しい……It's not to late……の
そして……演奏が終わった。
濡れた手を合わせるような、
「ハアァ……よかったぁ! 正樹さんすごい!」
「ありがとう」
「やっぱり、カーペンターズはいいなぁ……私、初めてのライヴ感!」
「あぁ、そうだよね」
「どう? こんな感じかな……」
「すごくよかったぁ! 本当、オールドナンバーはいいね。久しぶりに聞かせてもらって、しかも初めてのライヴで、どうもありがとう。いやぁ、感動した! プロって、すごい……」
「でしょう?! 本当に……」
依津子さんと、大きく相槌を打った私であった。彼女の瞳は
されど依津子さんは、隣席の私に
正樹君が……こちらへ歩を進めながら、
「実は俺、女房と別居中なんだ……」
私の正面に座った。腰の重さが、店内に蓋をするように、たわいなく地響きした。こだわりのない、彼の眼差しが、打ち
「そうなんだ……」
返した私を見るでもなく、マスターと依津子さんは黙っていた。
「こう見えて、いろいろ、あるんだ。プロとして、売れてる訳じゃないし、この店があればこそ、音楽もやって行ける。女房にすれば、そんな甘ったれというか、決め切れない俺が、
「……」
「で、心のパートナーに、頼った。少しこぼすだけで、フッと、軽くなるよね。陽彦君もそうでしょ?」
「うん」
私は、初めて
「でもね、実際、正樹君が羨ましい。音楽という、夢がある。君の頑張りは、初めに夢ありき、その為でしょ? 答えを見つけたでしょ? 僕には、正直言って、そういう夢がなかった。だから、今でも答えが見つからない。ただ当てもなく、彷徨い歩いて来てしまった。あるべきものがあれば、途中で気づきもするし、立ち止まって考えもするはず、軌道修正だって出来る。自信のない道ゆきは、僕には無理だった。もう無理だ……という闇が展がるばかりで、どうすればいいのか、困り果てるだけだった。周りに助けを求めた所で、今まで自分勝手を通して来た、僕の話など、今更、本気にする人はいまい……追い込まれていったんだ。話を聞いてくれる人もいない、その程度の価値の人間なんだ! 何も出来ない人間なんだ! って……何も、何もかも、なかった……。変な話だけど、僕は自分の、肉じゃない肉、生きているけど自分じゃない肉を食べて、暮らして来たような感覚があるんだ……。もう新鮮ではない肉、おいしくないだろう肉は、それでも肉だから、何とか細々と
「……」
恋心が滴るようであった、空間の気は、私の告白に萎んで、涸れつつあったろうか。ニューフェイスが壊してしまったかの感が、否めなかった。私は、立場を顧みず、場のモチベーションを下げてしまった、自分を
「そうだったんだ……大変だったね……いやぁ、俺なんて……まぁ、今にして想えば、俺の頑張りは、専心という挑戦だったかな。それは時に、慢心という安心を求めたりもした。安心……プライドだよね。そこに安住しちゃうからなぁ。守るように、逃げ込むように、今も、それが消えない。〝初心忘れるべからず〟 ってよくいうけど、俺もある意味、子供のまんまだね。だから、女房が怒るんだろうなぁ……『大人になってよ!』って」
「独身の私が言うのもあれだけど、女性は、常に、現実路線堅持を基調としているから……」
「ハハハハ!」
依津子さんが、ひとつふりかけるスパイスコメントに、三人の男達の目が集い、笑顔をふり
「雨、止んだかな……」
それぞれの
突然……
彼女は立ち上がり、ドアへ歩き出した。のんびりとした開扉と共に、忽ち淡い光が店内に漏れ、仄白い
「ほとんど止んでる……」
雨上がりの、蒸れ立つ軽さだった。彼女は、そのままの姿勢でこちらへふり向き、
「ねえ、正樹さん」
「ん?」
「私を……後ろに乗せて!」
「えっ?」
「お願い! 少しの時間でいいから」
「う、うん……」
「ねっ?!」
「よし! じゃあ、ちょっと行こうか!」
「ありがとう!」
マスターが、私をちらりと見た。
「……」
マスターも、そして、私も。
正樹君も席を立ち、ジェット型ヘルメットをふたつ持った。入口でふたり揃った所で、彼は、
「じゃあ、行って来ます!」
すかさず依津子さんも、笑いながら、
「少々、失礼します!」
「気をつけて」
遺されたマスターと私の、ひと綴りが、薄らいだ店の気に浮かんだ。きっと、私の表白に、いた
「いっちゃんは、いつも元気がいいな」
「はあ」
「あの
「ええ」
「失礼だけど、そのプライドと、それに対する反発の、
「……」
「フゥッ……間違っていなかった、って事に」
マスターの長い溜め息が、私の営みを冷ます風になって、吹き流れた。なぜかしら、その瞳の光が、
「あの……正しかった正しくなかったではない。見つかった見つからなかったでもない。ただ、早い遅いの問題だと想うんだ」
「……」
私は、マスターの目から、自分を外さなかった。目と目の、長い刹那であった。
「陽彦君の話を聞いていると、自分は間違っていた、という、終わりを見つけてしまったように想える。故に、言葉と肉体の、悉くの自由な行動を封印した。過ちにしてしまえば、真面目な君だから、その世界で生きて来た、自責の念に苦しんだろう。臆病風に吹かれて、それを隠す沈黙でもあり、プライドの陰に隠れる事を、嫌ったんじゃないかな。いやな男に、なりたくなかったんじゃないかな……追い詰めてしまったんだよ……。隠す事に必死だから、いやみも
「……」
私は、まだ
「桜井さんは、何て言ってた?」
「はい、『光は、澄んでいるほど力になる』 と……彼女、ご存知ですか」
「名前だけはね。その心は、我慢を解き放って、表現する事だよ。言葉で、体で、悲しみさえも……」
「僕もそう想います」
「うん。やっぱりわかってるんだ、前を向く頑張りを」
「まあ、理屈では……」
「もう、我慢はいい。散々耐えて来ただろう? もういいんじゃないか? 学習したんだよ。桜井さんも言う通り、前を向いてシュートを打たなくちゃ。後ろ向きの頑張りは、オウンゴールと
「はい」
「自陣のゴールはさ……俺が預かるよ。老ゴールキーパーだけど、絶対に死守するぞ! オウンゴールだって……そりゃあ、たまにはあるさ。そんなゴール許したくないけど、流れの中で、不本意ながら、そうなってしまった事だって、あるさ、人だもん。陽彦君……遠慮しないで、いつでも、後ろ向きのシュート打って来い! 愚痴でも恨み節でも何でもいい、打て!……その代わり、しっかり前を向いて、打つんだよ、打てよ! 前を向かなくちゃ、シュートは打てない。後ろ向きのオウンゴールなんか、気にするな。シュート練習しよう。俺がいる、俺達が、いるじゃないか……前を向くには、まず、語る事から始めよう。それがきっかけになるさ……」
私は最近、涙脆い。昔からよく泣く男であったが、鎌倉に来て以来、特にこの数か月で、涙腺が更に弱体化した。依津子さんと再会し、心のパートナーに通い始め、それを想う度、嘘のように涙が生まれる。嘘のような存在の私の涙は、嘘のようで、されど本当の涙であった。虚ろな中にこそあれ、嘘ではない、
しかしながら、不思議と今日は、泣かなかった。マスターのありがたい言葉にも、その要旨に、しっかりと応えたような態度の、私であった。涙は固まって、形を成そうとしているふうの、抵抗、頑張りに、
「ところで、君の名は、本名?」
「はい」
「いや、ハンドルネームの人もいるって、聞いてたから」
「本名ですよ」
私は、運転免許証をマスターに見せた。
「ふうん……本籍地、千葉なんだ」
「実家は市川
「あっ、そう。この現住所ね。ご両親はお元気?」
「はい、お陰様で」
「ふうん、大事にしてね」
「は、はい」
「で、今は、鎌倉のどこに?」
「極楽寺の
「ふうん……いっちゃん
「ええ……よくわかりません……」
それは、それだけは、言えない、まだ、言ってはいけないという、終わりではない答えを、見つけていた私だった。たったひと言の、嘘の
「俺はさ、女房に先立たれて、正直、寂しいよ。若いつもりでいるけど、体は嘘を
「はあ」
「いやね、この店の名前〝GEORGE HAMPTON〟 って、以前に所有してた、ヨットの名前なんだ、もう、手放したけど……」
「そうだったんですか……」
「うん……女房は船が好きでね、よく海へ出てたよ。でも、亡くなってから、何か、こう、船に乗ると、どうなんだろう、無性に寂しくてね……辛いんだ。楽しかったクルージングも、一緒になった頃の苦労も、雪崩れるように押し寄せて、息も出来ないくらいに、想い出が埋め尽くすんだよ。それがね……どうにも、沈んでゆくように、溜まっているんだ……どうしても、想い出さずにはいられない。その度に、また、沈んでゆくんだよ……浮かべて、沈めて、また浮いて、沈んで……その重さが、沁みて、辛いんだ……。
マスターは、寂しくひとつ、笑った。初めて見る、小さくなった顔だった。稲村の海の写真が、ほんのり香る潮の息を潜めるように、見下ろしていた。旅路の果てに届いた想いは、おそらく、こういうものであろうかと、Route
少し、間が
……私のハンドルネーム〝吉村陽彦〟……それは、私の中の少年の名前。今は縁遠い友人の名前。永年そう想っていた、そういう存在であった。そして、今の私の名前も、やはり……吉村陽彦に、違いなかった。私は、たとえ自分が間違っていたとしても、何も見つけられなかったとしても……たとえ、自分が間違っていなかったとしても、何かを見つけたとしても、私は、私のままで、私であったろう。私が見た夢は、変わらないだろう。いつか、きっといつか、その〝だろう〟 が〝だった〟 に変わった時、それでも尚、私は私という、変わらない吉村陽彦であると……夢を見たような気がした。幻の合格点ではない、自信の芽生えを、予感するのだった。ふたりの陽彦を、限りなく一致させたいと、想った。これからの人生のテーマが、前を向く意味が、事改めて、目の前にあった。
「陽彦君」
「はい」
「君は……いっちゃんが、好きだろ?……好きなんじゃない?……」
「……」
何も言える訳がなかった。
「大丈夫。正樹は、間違った事はしない男だ。ただ友人として、少しだけ、一緒に行動しているに過ぎない。いっちゃんだって、君の事、満更でもなさそうに、見えるんだけどなぁ……本当だよ。正しく、表現その時は今にあり、と、想うけどなぁ……後悔しないように、行動だな」
「……」
私は、
湘南鎌倉は、Mr. ACTIVEの街である。少し、寂しい。華美なるを排した、シンプルな愛の、寂しさが、漂っている。みんな、よく知っている。その光が、こぼれて、消えつつある。その風が、濡れて、止まりつつある……。私は、言葉ではない言葉、言葉以上の言葉、言葉の中の言葉を、聞いたような気がしている。伝わり来るものは、言葉だけではない、言葉の中の音、音の中の言葉を、聞いたような気がしている。言葉のような、音だった。音のような、言葉だった。そんな、Mr. ACTIVEが奏でる音楽と、語る言葉だった。
立場に関係なく、それぞれが求め、求められ、それぞれが期待し、期待されるものは、時として巡り逢い、あっという間に融け合う事もある。その価値観の一致に眠る、不出の想いさえ、
人は、前を向く、麗しい時代も過ぎ、やがて、失いもする。私は、それを早く知ったのだ。そんな後ろ向く時代の、早過ぎる到来が、若さ故の抵抗に苦悩し、殊更、沈黙に走った。マスターのように、何かと出逢い、多くのものを見つけ、作り上げてゆきたい。されば、たとえ時の流れと共に、その大切な何かが、滅んでしまっても、去ってしまっても、人の
見つけてしまった答えの言い訳の、沈黙に、今も泣きそうな、私だった。もうこれ以上、何かを言われてしまったら、きっと、泣くだろう。しあわせを知らない心を、想いやる、メロディーの言葉、言葉のメロディーに、海の懐へ、沈んでゆくような心地が……初々しいその旋律と、透明なその
……そうして、時間は過ぎていった。依津子さんと正樹君は、まだ、帰らない。どこまで行ったのだろう……もうだいぶ、時間が経っている。ちょっと格好悪い気もしたが、私は、マスターに、先に失礼する旨を伝え、ありがとうと、今後もよろしくを遺して、店を出た。マスターは、無言の笑顔でうなずいて、送ってくれた。帰宅するべく、表駅へ戻る人波に投じた私に、私だけなく悉くに、再び、細かい雨が降って来た。鎌倉の梅雨も、私のように、気まぐれなのだ……そして、こんな事を考えていた……私に、間違いがあるとすれば……間違っていたと、決めつけた事……積もっていった、ちょっとしたボタンのかけ違い程度の事という、想い……。
それにしても、今日も雨の日。そういえば……今日は、月曜日だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます