材木座の浜辺にて

 まだ、小雨が降っていた。ふたり並んで、傘を開いた。梅雨冷えを諭された肌が、多少、薄い膜の硬さを纏ったような、とある寂しさを囁いて来る。イツコさんにしても、私よりは柔らかな、そのよろいに包まれる事を、拒めない、いとうものではないといった、諦念かも知れない、心に馴染んだ潔さが、鎌倉人の、雨への想いをあらわしていると、私を促した。

「ねえ、ヨシムラさん……海岸へ行ってみませんか?」

「ええ……」

「小雨模様の海って……人もいないし、いつものざわめきが嘘のようで、私、好きなんです」

「静かですよね」

「風も穏やかだし、きっといでると想う」

「そうですね」

「じゃあ……一番、あっ、二番目に近い、材木座ざいもくざへ行きましょう!」

「はい……」

 私達は、若宮大路わかみやおおじへ向かって歩き出した。このまままっすぐ、数分である。真近に、横須賀線の踏切が見えている。それを越えた先、鎌倉随一の賑わいの、小町こまち通り界隈の人波も、傘の花の往きが、いつになく、心なしか疎らに、そして、たどたどしく流れているようであった。私は、なぜかしら、横にイツコさんがいるにもかかわらず、そんな街の気が、私の中の灯を消すかのような、ある意味、私の歴史たるを想い出させる隙間に見えて、ただ躊躇ためらい、大人しがってしまうのだった。

 会話のない、道ゆきに就いているふたりであった。イツコさんは、つまらない男と想っているのか、それとも、気づかってくれているのか、私は、尚も無口になってゆく自分を、持て余していた。自然な笑みを絶やさない、彼女の顔ばせが、私と同じ透明の傘の中で、雨の雫を含むかのような、憩い楽しむ青に咲きくつろぐ、街角の紫陽花あじさい婀娜あだなるを見つけて、私の言葉を待つまでもなく、正に今、揃いの花姿はなすがた綻びぬ……。私は、何を話せばいいのだろうか。迷える、少年に過ぎないのだろうか。

 遮断機の下を通過して、表駅エリアへ至ると、それでも古都の雨にそぼ濡れる、行客の上機嫌が、そこかしこで袖を振り合っていた。緑の明彩色の粒の大小が、遠くの雨脚に煙る山並みを架け渡す、中心街にも届けられた余情のような、露を結び、鈍色にびいろに突き抜けづらい、雲流れの中空なかぞらに浮かんでから、いっそ、まっすぐさやぎ落ちてゆく。自然の色合いを呑み込んだ、柔らかな微温ぬるい雨の底に、何もかもが互い違いに息を繋いでいた。イツコさんは、その雨を数えるように、読み上げるように、嬉しそうな顔をして、湿り風に洗われた髪は舞い、艶やかな潤いを溜めていた。傘をさすり、靴音とじり合い降りしきる調べに、三方さんぼうを山に囲まれ、三面楚歌の如く所狭き八百年のいにしえの都は、忽ちのうちに、蜂起の矢を束ねた雨のほこに満たされ、今は言葉はなくても、それでもいいと、私には想えるのだった。

 私達は、大路おおじ、朱塗りの二の鳥居へ出た。段葛だんかずらが始まり、その、北向き狭まり奥まりゆく果て、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうの目の前の、三の鳥居と、同じく社殿の両の袖を押し出す朱紅色しゅこうしょくが、遥か雨条あますじ御簾みすの裏でおぼろに白暈しらぼかし、かくも風格たるを弥増いやまして佇んでいる。たまさか、青に点ったままの信号の灯の幾つかが、ふたりを、この隘路あいろの反対方向、一段高くはない、ここから右へ折れた、平坦なひたすらまっすぐの南下の道ゆきへいざなう、玉響たまゆらのように揺らめき、私の目を奪った。通り沿いの建物の容姿ごと、古き街の情緒の陰翳をしずかに語り、人々は耽溺たんできし、柔らかな敗北感をうべなうらしい顔に映るのは、やはり、私だけであったろうか。イツコさんも、そんな表情を噛みしめている感じに、見える……。

 横断歩道を渡り、向こう側へ寄りつくと、彼女は、唐突に、

「ヨシムラさんの、ハルヒコっていう字は、どう書くの? ヨシムラは、きちそん?」

「う、うん、その吉村に、太陽のよう。人間は暗いけど……」

「自分で言っちゃだめよ!……。私の字は、古い話だけど、お相撲さんの高見山の高見と、にんべんにころもの依に、ツは、よくある津ね、みなとっていう意味の」

「へえぇ、鎌倉らしいなぁ」

「ありがとう、よく言われる。鎌倉生まれの鎌倉育ちだから、結構、気に入ってる」

 依津子さんの笑顔が、白い顔のまん中につどったふうに、さざめいた。私は、いきなりたしなめられ、正直、一瞬、息が滞ってはいた。が、不意に、筋立ちの確かな、正に保守的なものを想わせるような、一陣の風が横殴り、道づれは尚も濡れて滴った。気丈なひとが導く、不思議なえにし気稟きひんが、知らぬ間に、動き出していたのかも知れなかった。依津子さんの言葉のままに、私は、伴われているだけに過ぎない、無力を隠したかったのだろう。心が、一歩、退しりぞいた。

 表駅前ロータリーのざわめきに、ふたりの目線は散らばってゆく。大型路線バスの出入りが、山と海辺を網羅し、この街の顔たるを保証する、豊かな安心の量産に忙しそうである。路面に雨を刷り込むような走行音が、梅雨空の下で重たげにほとばしり、雨音をも牽制して、私は、眺めるほどに、圧されるような心地に浸っていたそうな、そこに参加していると言いたそうな顔で、ただやり過ごすだけであった。こうして、彼女と連れ立ってそれぞれ傘に忍び、言葉を交わし、材木座の海岸まで、取るに足りない事ながら、今、同じ目当てを持ってはいる。事実、嬉しくもある。されど、依津子さん側から見れば、ほんの、社交上の挨拶程度の事であるかも知れない。それでも、それでさえ私には、実の所、悉くに関して、やはり、如何ともし難い、最早の諦念が、拭えない、その頭を抑えつけられないのだ。一見、しあわせな、楽しげな場面に出逢った時、いつも人知れず、素直になれない、喜べない今の自分の頭を叩き切れず、少年は、虚しく、負けてしまう。上手に笑顔を、作れない。私の言葉の拙さを、今は、この雨が、許してくれているからいいものを……歯痒はがゆい……。

「あの……裏駅ナカの、お土産が揃ってる、ショップはご存知かしら?」

「うん、何回か、買いものした事ある」

 私は、胸の鼓動が跳ねるかの、自分の眼差しへの移ろいを、注目した。

「私ね、そこの店長として働いているの。吉村さん! お買上げ、ありがとうございます……よかったら、また来て下さいね!」

 いうまでもなく……私は……百も承知している。そんな君の存在を、小学生の頃から知っている。君の、極楽寺の自宅の坂道の、ひとつ先、つづら折れたそのひとつ上から、真上から、昔から、いつも君の事を眺めていたのだ。君の事が、好きだった……。鎌倉へ来る度に、君の姿を見るのが、楽しみだった……君に逢いたくて……。市川と湘南では、子供の私にとり、それがどんなにか、遠くに感じていたか。どんなにか、待ち遠しかったか。しばらく顔を見ないでいると、確かに、忘れてしまいそうにもなる。夏休みの次は、年末。来たら来たで、やっぱり嬉しくて仕方がない。崖の上から、久しぶりに、その笑顔に触れた時、君は、忽ちのうちに麗しく復活する……私の世界で……。そんな夢を見る事も、あった。逢えずにいる、失いかけている、少年の、君への現実なる記憶は、夢という、幻という、非現実へと逃げ込み、想い出す事さえ、まるで嘘のように消そうとして、かすかな暖かさでしか、想いを繋いではくれない。好きという気持ちは、私に、憧れという心を教えた。それはいつまでも、眺めているだけの、そのままの、変わらない、であるから、終わってはいない心であった。

「……じゃあ、また、寄らせていただきます……」

「きっとですよ!」

「はい、必ず」

 目の一致が、目尻を皺立たせる私の顔を、こちらに届けてくれていただろうか。

「じゃあ今日は、仕事は休みなんですか?」

 初めて、私から水を向けた。これでも、程よくほぐれている自分に、悪い気はしない。畳みかけるように、浮ついてもいないが。

「うん、今日はそうしたの。多少、融通が利くんです……」

流石さすが、店長さんですね。でも、ご苦労が多いでしょう?」

「いえいえ、私なんぞは、まだまだ。甘えさせて……いただいてるかな?」

 彼女は、ふと、俯いて、じらった。慎しみ深い、詩的なそれに、一風いっぷう、矜持の残影が仄見えていた。

「私……創業家の遠縁に当たるんです。だから……」

 いつに驚くばかりの、出逢って間もない私を見つめる、依津子さんであった。透き通る傘が触れ合う程の、それでも、目に見えないへだたりをなかだちするえにしを、私は、悟った。彼女も、それを察していよう。にもせよ、何か、言いよどむ風情が去り難く、明らかに、燃え遺る訴えにあえぐ女の一生を知らしめる、くれない園生そのうに植えても隠れなし、であるような、落ち着きに華やぐ居住いずまいの、一挙手一投足は、まさしく、鎌倉人たる天稟てんぴんの為せる所であったのだ。されど、恵まれた環境故の懊悩と、それに係る表出行動の、ひと雫……ほんの小さな露のひとつが、私という傘に、こぼれ落ちつつあったのだろう。そして私は、彼女の傘に、成り代ってあげる事すら、出来ない男であった。ここでも、当たり前のようにブレーキを踏み、誘ってくれた人に対し、ひとつ、借りを作ったかの感が否めない。それが、たまらなく、悔しい。彼女は知る由もない、同じとげを心に持つ者としての、剴切がいせつたる理解を、企まざる優しさを、届ける事を憚る方向へ、私は、流れていった。

「そうなんですか……。色々と、煩労がおありなんでしょう?」

「いいえ……仕方ありませんよね……」

「ごめんなさい、老舗の方々が守っておられる、大切なもの?……私には、計り兼ねるというか……」

「こちらこそ、ごめんなさいね……でもね、おっしゃる通り、失くせないものも、多い。だけど……いっそ、棄ててしまいたいものだって……あるの……これでも……」

「はあ……私は、忘れたい事ばかりですが」

「う、うん、わかります。人それぞれ、顔かたちが違うようにね」

「そうですね。やっぱり、私も、甘過ぎたからなぁ……自分に……」

「大変失礼だけど、あの、心のパートナーを訪れる人は、みな、んなじだと想う。私も、自分の事を棚に上げて、他人の事は言えない。ただ、それでも言いたい事って、どうしてもあるから……それが失くせないのね。大きな矛盾よね。それを……失礼は少し横に置いといて、この際ね、言い合えるような、そして、聞いてあげられるような、そんなサークル? って、私は家族に話してるけど、私達、利用者の数名で、心のパートナーはまた別として、たまに逢ったりしてるの。吉村さんも、いかが? 是非!」

「ううん、何か、必聴の価値あり、って感じがする……」

「いえいえ、そんなに、四角四面の対応じゃないのよ。もちろん、プライベートには、過剰に立ち入らないし、まあ、お茶飲み友達みたいな雰囲気よ。どうかしら?……」

「じゃあ、入会しようかなぁ」

「入会? アハハハ! そうかぁ、そうとも言うよね。気が置けない集まりだから、メンバーはみんな、心得てます。わがままな人もいるけど、アハハハハ!」

「ええぇ、本当ですか?」

「私かなぁ? あのね、みんなが、わがままだ、って。振り回しちゃってるのかなぁ?」

「そうなんだぁ、高見さんって……見かけによらず……」

「そうみたい! ねっ? 他人ひとの事言えないでしょ」

「ハハハハハ!……」

「ああぁっ? 笑ったぁ!……もっと笑って!……」

 ……私は、自分の中に不足な、あえて遠ざけて来たのかも知れない、最も……嫉妬の炎を向けてしまいがちの、笑顔なるものを、今、依津子さんに、求められている。多少、意地悪とも、強引とも、受け取ってしまう。彼女が私に望む、期待する所の真意を、つらつらおもんみるに、それはたぶん、感謝の心の証しのようなものだと、少年の私にしても、わかってはいただろう。人たる所以ゆえんであり、その心をかたちにする事が、大人という存在に、想えていただろう。周りの大人達は、みな、かたちがあった。感謝の心を持つ人を、大人と呼び、その心を持つ大人は、間違いなく、人になるのであった。私も、当たり前の笑顔によそよそしくない、彼女のような強さを、自信を育むというプロセスを、もっと真面目に、経験せねばいけなかったのだろう、と、依津子さんを、羨んだ。私にないものを持つ、私よりも強い、その人を……。そしてそれは、あの日の、祖母と少年の問いかけの、私の中で凝り固まる自問自答の、究極の回答……最後にゆき着いた先に待つ、心の風景に、ひたすら憧れをいだくしかないのであった。あの時の言葉と、今に至るその想い、最早……を慰める、そんな、ひと言を、探すように……まだ、あるかのように……。依津子さんが、今、私に望んでいる。向き合おうとしている私も、依津子さんの勧めに、何かを期待し、密かに待つばかりの、満を溜めようとする向きに傾き、もう、らす事を諦めたくなっていった。

 ただ、直線的に逍遥しょうようするだけの、ふたりであった。横須賀線のガードをくぐり、下馬げばの四ツ角を少しくだった所まで来ている。足下のすそ跳ねの冷たさも、私達はさして気にもしていない。彼女も、そう感じているはずであろう。むしろ、愉しむかのように、旅の恥は掻き棄てるべく、そんな表情を、依津子さんに認めていた、同じ旅行者の私であった。

 前方の中央に、この道の安泰を見下ろす、御影石みかげいしの一の鳥居が、四方八方に威風を放ち、遥か過ぎ去りし日の、擱座かくざとどめたように、物悲しくわだかまっている。やや雨粒がすぼまり、泣き濡れていた顔に兆した、街の仄かな喜びが、私達にも届けられ、微温ぬるい疲れを知らせていた。既に、目の前には、海が見えている……。私にとって、あの、先日の岬への海ゆき以来の、青き翼が羽搏はばたき出し、ふと、懐かしい旋律が……依津子さんの、

「フゥッ……」

 と、ひとつ、こま切れた溜め息にすり替わった。

「私ね……今日も、あるを、海へ棄てに来たの……。いつもは、うちの近くの、稲村ヶ崎の海なんだけど、今日は、材木座。何か、強引に付き合わせちゃったみたいで……ごめんなさい……どうもありがとう……。私ってさぁ、やっぱり、自分の事だけなのかなぁ……家族や会社の為に、よかれと……想ってるんだけどなぁ……。ねえ吉村さん、どう想う? こんな私」

「ええっ?!……どうって言われても……あの……」

 衝撃の、旋律であった。メロディーのゆくえが、悩ましく、滞った。

「ごめん! こういう所が、配慮が足りないのね、きっと。わかってるんだけど、何というか、一生懸命やっているとね、いつの間にか、自分の中の真ん中の方へ、真ん中の方へ……寄っていってしまう自覚が、あるにはあるの。でも、今の所、現在に至るまで、それをセーブ出来ていない気がする。長年のこだわりは、やっぱり、如何ともし難い」

んなじですよ、私だって、わかっちゃいるけど、められない」

「う、うん。一方で自分を守り、もう一方では、そんな自分を棄てたくもある。いまだ、どっち付かずの風見鶏みたいに……あっ!……ごめんね……また……」

「いえいえ、わかりますよ、わかる。どうにもならないものを、どうにかしたい……」

「それでね、私……独身でいる。上手く言えないけど、変わってゆく自分を想像すると、時々、怖いの。連れ去られるような、何かに操られるような、そんな感じを覚える」

 私は、依津子さんの、高純度の個人情報に触れ、その悩める片鱗に、引き込まれそうな欲望を、この時、初めて、予感した。

「私も、独り身ですよ。表面的には、穏やかに生活しているけど、内部では、寝苦しいというか、フィットしていない自分を、抑えていると想う。桜井さんにも、指摘された。やっぱり、好ましからざる状況である事には、違いない。今日、はっきりわかった」

「それでも、どうしても想像してしまうんだけど……私……っていう言葉が、大嫌いになったの……」

「えっ?」

 大いなるとまどいが、私という自分に、自分かも知れない、私かも知れない存在に、深く、爪を立てた。

「これから……それを棄てに行きます!」

 ……今更……今更……。私の中で、その言葉が彷徨い始めた。駆け巡りつつあった。それは……今に至る私が、長年、図らずも培養して来たような、最強のよろい、最早の想いに繋がる……It's too late……。依津子さんに導かれ、私という硝子のキャンバスに、事改めて、執拗で自分勝手な自問自答の、くすぶるその想いが、消し難いその言葉が……彷彿とした。折しも、滑川なめりがわの丁字交差点、国道百三十四号の信号に差しかかっていた。この小さな川をはさみ入れ、西に由比ヶ浜、東に材木座海岸の、鎌倉の海を雄弁に物語る砂浜は、今、小雨景色の風詠閑吟ふうえいかんぎんに、一心を捧げていた。寄せ返す波の穏やかな調べに、くずおれ、彼女と私の世界は、細雨さいうの架け展げる大天蓋おおてんがいもと薄墨うすずみの色が空に海に越境し合うかの、広角にぼかし染めたるような、寂想一念のこだわりを言いたてて、人影を消すばかりではない、なぎに、あった。主張する権利をも封印した、私に、似ていた。剥き出しのその想いと言葉の、ずかしさをも。

「ハアァ……やっと、着いたね! あぁぁ気持ちいい!……」

 背伸びをして、胸を張るかの……淑女、惜しむらくは、私という法を知らず、いや、知ってか知らずか……まるで知らないように、私達ふたりは、今、材木座の浜辺の薄墨うすずみの別天地に、ただ一瞬で鷲掴わしづかまれ、そして酔いれ、手を引かれた。もっと、この柔らかな、この暖かな、このささやかな雨に招かれ、濡れるように護岸を降り、砂を踏んだ。遥かに見渡す依津子さんも、この雨が、いつまでも降り続いて欲しそうに見えたのは、世間知らずで臆病な、私の目の過ちで、あったろうか。私も、出来るだけ、可能な限り、遠くを眺めていた。ふたりのなだらかな息づかいの中、雨は、止みつつあった。

 ……烟波縹渺えんぱひょうびょうたる一眸いちぼうを預け、無言を守る依津子さんだった。おもむろに傘の下から逃れ、閉じる動作にならう私の顔も、彼女と共に、雨に打ち濡れるをいとわぬ、大らかさにおいて、平等であっただろう。私は、その……彼女の微笑みが、秘して、痛かった。なぜか、痛い、どうあっても、痛かった。応じた自分の作り笑いに、人知れず、口先だけであったかの、痛みが、私を叩くような雨であった。

 彼女の、先程来の言葉、「笑って……」と「今更」が……私という少年と今の私を、撹拌して待ちあぐね、すれ違うだけの回答は、望まれてはいないのであった。インテグレートという憧れにも、期待にも、ただ、不安が寄り添う切なさを、私に語りかける、往時渺茫おうじびょうぼうの時を噛みしめていた。遥かなる時間が、きっと依津子さんにも、流れているのだろう。期せずして……私という抽斗ひきだしの、奥深くにしまっていた、祖母のあの想いも、蘇り引き出され、私は……『どうして泣いているの?……』が……先日の、岬の海の一景を、脆弱なうちなるスクリーンに、どうしても映してしまって……。

 依津子さんの笑顔が、この雨のように、ささやかでさやかな優しさで、今更を乗り越えたかの……It's too late……をも封じたかの、彼女が歩んで来た人生を綴り、さればこそ知る所となった、人の痛み、人の辛さが……わかるからこそ……そればかりではないと、気づいたからこそ、そうしてばかりでは、本当の自分と別離わかれたままでは……悲し過ぎる、冷た過ぎる、何もなさ過ぎると……ひとりは、ひとりなんて……もう、たくさんと……仄めかしているようで……。

 彼女の笑顔を、横顔で感じている私は、雨が水たまりを作るように、私が持ちこたえている寂しさを、瞳に熱く押し上げてゆく。私の過ちは、みなに、知らん顔をされていても、もう許せない、絶対にがさない、冷たいゆき止まりまで追い詰められた。その後悔を想い知った私は、ずかしさのあまり、熱ばみ潤んだ目頭のみぎわを、引き波は駆けくだり、海へ、流れた。涙という……海であった……。急に襲った悲しみは、海を、涙の色で埋め尽くし、悲しい海が、悲しい雨を降らせたように、押し寄せ……何もかもが、おぼろに立ち止まり、ただ、浮んでいた。耳の奥でさやぐ、雨をも集めた潮騒は、尚も涙のしょっぱさに泣き、私は、ただ、依津子さんの、その笑顔と、その言葉の意味に……何も出来ない、何も持ち合わせていない。だけど、だけど……本当は、何かをしたい、何かを重ねたい。でも……今はまだ、この海を、しずかに眺める事しか、出来ない……何も、応えられそうにない。重ねたい真心を隠す、深い悲しみが、こうしてふたりでいるのに、ひとりの寂しさが、どうにもならなくて……泣いて、泣くしかなかった。自分を、涙に追いやってしまった。

 そして……今更を棄てるという事は、取りも直さず、最早と、It's too late……をも、きっと、海へ葬り……それだから、私の涙はフライングして、先走る心が、海と、ともすれば、それだけにあらず、依津子さんに、さっきから探していた、救いの、慰めの……

「吉村さん!」

「えっ?」

「私を、よく見ていて……」

 彼女は、私の想いを遮るように、顔を合わせるべくもなく、そう言って、すがめていた目に、ひときわ力を注ぎ、みひらかれた訳ではない、遠くへ届ける、切れながの強い眼差しを拵え、数歩前へ。


「……私は、泣かなあぁぁぁぁい!! 絶対に、諦めなあぁぁぁぁい!! イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……そんなの、要らなあぁぁぁぁい!!……要らなあぁぁぁぁい!!……要らなあぁぁぁぁい!!……」


 ふたりきりの浜辺に、ふたりしかわからない声が響き、波のさざめきに、消えた。依津子さんは、私が泣いているのを、知っていたのだろう。見て見ぬふりをしていたのだろう。彼女は、疑いもなく、あまりにもストレートに、彼女らしく、体いっぱいの……It's not too late……を、私へ、贈ったのだ。私は、私は……ただ、自分のずかしさが、誰にも似ていなかろう、こだわりが、悔しくて、どうにも悔しくて、自分を許し難くて、いたたまれない。潮声の百家争鳴ひゃっかそうめいさらわれそうな、鈍い怒りが、静かに沈んでゆく、私の前には……

 しかし、この人も、冷たい氷を秘めている。でも、それをなりふり構わず、必死に砕こうとしている逞しい姿が、私の底をち、誇らしく輝いていると、嫉妬交じりに、そう想った。雨降りなのに眩しいばかりの、依津子さんの熱が、悔しいけれど、曲がってしまった私自身を責めるけれど、でも……その、深い心の古い傷を、この人は、持っている、知っている。わかってくれている……依津子さんだって、私だって、悲しくて、悲しくて……どうにもならないのだ。それがどんなにか、不安か、どんなにか、心細くて怖いか。同じ想いが、あった。同じ想いが、揺れていた。慰めを、救いを、理解者の存在と言葉を、きっと、私達は求め合っていたのだ。彼女が投げたボールを、私は、喜んで受けた。こんなにも、嬉しくて、ありがたくて、温かくて、心強くて、こんな私でも……優しく見つめてくれた……きっと、許してくれた……。


『私を、よく見ていて……』


 私の中にこだまする、依津子さんが、消えなかった。私にこのまま、涙を忘れさせなかった。ならば私は、この雨のように、泣き止む事を忘れもしようか。涙に濡れるを、慈しみもしようか、懐かしみもしようか。祖母の教えと……目の前の彼女の、その言葉が、その姿が、重なっていった。私の涙は、依津子さんに、許されてゆく想いが、した。私を取り巻く全ての人が、私に、エールを贈っている。彼女のように正直に、格好悪くても、ののしられても、あるがままの今を、そのままの涙で……ただ、ただ、泣いた。泣いて、泣いた。もう、これ以上、何を言われても、何を聞かれても、そして、何を考えても、何を、何をされても、もう、これ以上、涙をしぼれない。嗚咽おえつを抑えようと、うつむいてこらえようと、それでも見ようとする先は、泣いている、ただ、泣くだけであった。何も見えなかった。絶望と歓喜の渦潮が、私の手を引き込み、もっと、もっと懐深きを覚えた私は、生まれたばかりの小動物のように、震えていた。表裏一体たらしめる、そんな怖れに違いなかった。見えていなくても、先がわからなくても、ひとりではない、きっと、ひとりではないと、信じられる気がした。我慢を放棄し、告白という自由に心開き、私を縛って来た私の全てのよろいが、音もなく波打ってゆがみ始め、新たなる細胞分裂を営み、生まれでた涙の雫を、遺らず集めた切ない川が流れ込んだ、涙の海原に、今だけは、浸る事を許されていようかと、すがりついた。


 私は今まで、何をして来たのだろう。何が出来たのだろう。これから依津子さんに、何をしてあげられるだろう。何をすればいいのだろう。私には、何が出来るのだろう……ただ、恋心が、波間に揺蕩たゆたうばかりであった。雨に、包まれて。


「……吉村さん……」

 彼女の目が、ようやく、私にふり向いた。溜めていたかのように、瞳の光が、悲しくまたたいた。久しぶりに見る、依津子さんの真顔であった


「……泣かないで……もう、泣かないで……そんなに、頑張らないで……そんなに……泣かないでょ……泣かないでよ!……」

 彼女の秘めたる氷が……外に、表に、私に、弾けた。私の、涙に曲がり迷う目の中で、そのひとの、自ら砕いて融け出した露の玉れが、頬に流れを作っていった。私と同じ流れを、彼女のうらに見て、強か叩かれるように、知った。依津子さんの想いに……私という悄然は蹴破られ、忽ち騒ぎ出した。そして、その言葉は、さぞや、私達の器にはないものであった。だから、探し続けていた。私にとっては、ささやかな憧れだった、知らなかった、慰めが、救いが、初めて……私の中に入って来た。私は今まで、そんなに頑張って生きて来た訳ではない。ましてや彼女の為に、頑張って生きて来た訳でもない。もっと頑張りたかった、もっと色んな事がしたかった、今だって……。私は、頑張れない自分が、弱い、こんな自分が……いやで……やり切れない、虚しい……本当は、頑張りたいのだ!……。けれど、そのひと言に触れた今、私の、言えなかった想いを隠すだけの、拙い頑張りは、報われてゆくような気がした。辛い想い出が、消えてゆくような気がした。そして、依津子さんにしても、やはり、根っ子は同じであろうかと、察するにあまりない。自分の言葉で、自分の中に入れようとして……


「私だって……私だって……お願い、もう、泣かないで……」

 彼女の頑張りが、ふたりに展がってゆく、互いを、悲しみが包んでゆく。それは、悲しみを乗り越えようと、押し上げ来る冷たいうねりに、必死にもがき、辛いのは自分だけではないと、今、はっきりと、目の前にいる私に向けてほとばしった。自分にばかり甘える涙に気づかない、私だった。依津子さんを見ていない、私だった。彼女に許されてゆく、そんな癒しを、彼女にこそ、私の手作りで、贈らなければ……。まだまだ、悲しみは癒えない。まだまだ、それがずかしい。それでも、その手を翳せば、その手が彷徨えば、その手を繋げば、きっと、きっと……私達は触れ合える……心も、そして、体も……求め合える……。私という小さな自由は、その想いを、大きく表現する事に、もう、躊躇ためらいは要らなかった。雪崩れてゆくだけだった。

 私は、そうして私は……依津子さんを抱き寄せた。強く、抱きしめた。彼女が求めた訳ではない私を、招かれざる訳ではない私を、この時、自然に求めるように、私に応えるように、流れを合わせた彼女だった。雨に濡れるを愛おしんだ、体と体が、深く、互いを吸い込んでいった。背中に回した四つの腕が、ぎこちなくわぬように、ぎこちなくわぬうちに、なだらかに、やがて、ふたりはひとつになった。時に、雨か涙かわからなかった。どうでもよかった。彼女は黙ったまま、揺れる心を我慢するように、ひと回り小さく、私の腕の中で息づいている。女の丸い温もりが、だんだん熱を上げてゆくのを、じらっているのだろうか。私もそれを、無言で読むしかない、経験の少なさを、盛んに満たそうとしていた。寂しさとの訣別が、互いの中で、喜びに変わった事を、疑うべくもない時間が、嬉しくて……束の間の、しあわせだった。永遠を、感じもした。私の口元にある、湿り束ねられた、移ろえぬ髪の香りを、がさないように、私の息吹きに招き入れた。円やかな、たおやかな、体が届ける感覚が、果たして、男の鳴動を抑える訳がなかった。こんな私を、依津子さんは、どう想っているのだろう。その腕の力が、私を、こんな私を、押し返すべくもない、受け容れる意思を、私に感じさせないはずがなかった。この海岸に、私達ふたりだけという不安を、跳ねけるような、女の頑張りを示していた。そして、蘇りつつあったのは、彼女でさえ同様の、傷つき陰に隠れし欲求の、飛翔する人間体という、本当の自分であったろう。こんな私の存在を、肉感を、彼女は慈しむように、ただ、離さなかった。今、私に出来る事は、それはこのひとにしても、素直な自分を預け、身を託す他にないと、わかっていた。どのくらい、こうしていただろうか。私達は、このまま、離れたくなかったのだろう。ずっと、温かいままで、他の何もかもが、通り過ぎてゆくような気がした。私達は、ただ、想い想いに、見つけたものにしがみつき、他をやり過ごしていただけだった。きっと、それで、よかった。そう、信じていた。それぞれの、嘘をけない想いと体の温かさが、あった。それを、確かめ合ったのだ、初めて……。

 ふと、海の果てに霞む、薄墨の空が割れ、淡い日射しが滲んでいった。曖昧だった水平線を、微妙な青のグラデーションが、ゆっくりと染め分け始めた。遠望は徐々に冴え、この、材木座と由比ヶ浜だけ、止みつつある雨に、取り遺されたようであった。私達は、既に夕方にある事を、知った。時間は、動いていた。

 その、西空の雲流れから、やっと抜けでたような、琥珀色の光の柱の扇形が、まだ覚めやらぬ空を、支えんとばかりに、海へ差し立てて尚、明彩を深めていった。注がれ濃ゆし光の筋道が、やがて幾つか現れ、世界は眩耀げんようの夕景へと、時を移してゆく。光の柱は、まるで、天使が架けた梯子はしごのように、暖かい営みに一途であった。

 私の腕の中の、依津子さんの髪にも、その光が仄かに届いて来た。彼女は、気づいたように、招かれたように、私の胸元にうずめていた横顔を上げ、そして、目を合わせた。そんなに頑張らなくていいのに……まだ、少し泣きながら、睫毛まつげに宿る濡れた光の粒が、呟いた。はかなく、こぼれ落ちてしまった。


「私を、よく見ていて……」


 私は、彼女を、見てあげられなかった……また、見て見ぬふりを、してしまったのかも知れない。眩しかったのかも、知れない。忘れられない言葉になると、想った。突として、なぜか、過去の迷宮に足を踏み入れた……。私は、時間を追い駆けているうちに、時間を失くしたのだ。時に、ふと、舟を浮かべた……その終わりが来るであろう、限られた時間のふち、いい換えれば反対側から、逆の方向から時間を求めれば、如何にも、それは輝きに満ちるはずだと、幻が、幻ではなくなるだろうと、見つめなければ、応えなければ、恋は、叶うまいと……そう、自分の、ふたりのこれからを、想像した。

 作りものの過去は、流れていった。そうするしかなく、流し切れずにいる。どんなに洗われようと、さらわれようと、動かざるものは変わらない。それが、この雨のようで、あったなら……。

 西を望めば、陸続きの果ても、明るく際立って来た。晴れていても、ここからは、そのきっさきのような押し出しは見えない。私達の家はそこの西側だが、東側の材木座からも、陰に隠れて見えないのであった。さばかり、姿を現してはくれない。もしかしたら、もう、消えてしまったのではないか。もう、見られないのではないか、逢えないのではないか。あの、稲村ヶ崎は……。

 そして私は、依津子さんを、真剣というイメージから、外せなくなりつつある自分を、確実に、感じている。崖下の君は、日々、そば近くで息づいている。その、動かし難い事実に、私は、私を、止めらそうにない。止められないだろう。眺めているだけの恋が、胸苦しくなって来た。手をのばせば、君は、君は……。でも、今の私には、成就するだけの、バックボーンが、ない。過去を悔やめば、切りがない。私はこれから、酸欠状態に陥るかも知れない。見つめれば応えるだろう君を、この恋を、繋ぎたい……。

 家の坂道の登り降りが、気がかりだった。よく外出する方ではないが、たまに被る帽子が、手離せなくなるだろう。本当の事を打ち明ければいい、話なのだが。それさえ言えない、話なのであった。

 依津子さんに、申し訳ない……本当の私を知れば、彼女はきっと、軽蔑するだろう。今日の涙は、傷つけられた彼女の、涙に想えた。この上なく、冷たい……それで、私は、彼女を、見てあげられなかった。

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