材木座の浜辺にて
まだ、小雨が降っていた。ふたり並んで、傘を開いた。梅雨冷えを諭された肌が、多少、薄い膜の硬さを纏ったような、とある寂しさを囁いて来る。イツコさんにしても、私よりは柔らかな、その
「ねえ、ヨシムラさん……海岸へ行ってみませんか?」
「ええ……」
「小雨模様の海って……人もいないし、いつものざわめきが嘘のようで、私、好きなんです」
「静かですよね」
「風も穏やかだし、きっと
「そうですね」
「じゃあ……一番、あっ、二番目に近い、
「はい……」
私達は、
会話のない、道ゆきに就いているふたりであった。イツコさんは、つまらない男と想っているのか、それとも、気づかってくれているのか、私は、尚も無口になってゆく自分を、持て余していた。自然な笑みを絶やさない、彼女の顔ばせが、私と同じ透明の傘の中で、雨の雫を含むかのような、憩い楽しむ青に咲き
遮断機の下を通過して、表駅エリアへ至ると、それでも古都の雨にそぼ濡れる、行客の上機嫌が、そこかしこで袖を振り合っていた。緑の明彩色の粒の大小が、遠くの雨脚に煙る山並みを架け渡す、中心街にも届けられた余情のような、露を結び、
私達は、
横断歩道を渡り、向こう側へ寄りつくと、彼女は、唐突に、
「ヨシムラさんの、ハルヒコっていう字は、どう書くの? ヨシムラは、
「う、うん、その吉村に、太陽の
「自分で言っちゃだめよ!……。私の字は、古い話だけど、お相撲さんの高見山の高見と、にんべんに
「へえぇ、鎌倉らしいなぁ」
「ありがとう、よく言われる。鎌倉生まれの鎌倉育ちだから、結構、気に入ってる」
依津子さんの笑顔が、白い顔のまん中に
表駅前ロータリーのざわめきに、ふたりの目線は散らばってゆく。大型路線バスの出入りが、山と海辺を網羅し、この街の顔たるを保証する、豊かな安心の量産に忙しそうである。路面に雨を刷り込むような走行音が、梅雨空の下で重たげに
「あの……裏駅ナカの、お土産が揃ってる、ショップはご存知かしら?」
「うん、何回か、買いものした事ある」
私は、胸の鼓動が跳ねるかの、自分の眼差しへの移ろいを、注目した。
「私ね、そこの店長として働いているの。吉村さん! お買上げ、ありがとうございます……よかったら、また来て下さいね!」
いうまでもなく……私は……百も承知している。そんな君の存在を、小学生の頃から知っている。君の、極楽寺の自宅の坂道の、ひとつ先、つづら折れたそのひとつ上から、真上から、昔から、いつも君の事を眺めていたのだ。君の事が、好きだった……。鎌倉へ来る度に、君の姿を見るのが、楽しみだった……君に逢いたくて……。市川と湘南では、子供の私にとり、それがどんなにか、遠くに感じていたか。どんなにか、待ち遠しかったか。しばらく顔を見ないでいると、確かに、忘れてしまいそうにもなる。夏休みの次は、年末。来たら来たで、やっぱり嬉しくて仕方がない。崖の上から、久しぶりに、その笑顔に触れた時、君は、忽ちのうちに麗しく復活する……私の世界で……。そんな夢を見る事も、あった。逢えずにいる、失いかけている、少年の、君への現実なる記憶は、夢という、幻という、非現実へと逃げ込み、想い出す事さえ、まるで嘘のように消そうとして、
「……じゃあ、また、寄らせていただきます……」
「きっとですよ!」
「はい、必ず」
目の一致が、目尻を皺立たせる私の顔を、こちらに届けてくれていただろうか。
「じゃあ今日は、仕事は休みなんですか?」
初めて、私から水を向けた。これでも、程よく
「うん、今日はそうしたの。多少、融通が利くんです……」
「
「いえいえ、私なんぞは、まだまだ。甘えさせて……いただいてるかな?」
彼女は、ふと、俯いて、
「私……創業家の遠縁に当たるんです。だから……」
「そうなんですか……。色々と、煩労がおありなんでしょう?」
「いいえ……仕方ありませんよね……」
「ごめんなさい、老舗の方々が守っておられる、大切なもの?……私には、計り兼ねるというか……」
「こちらこそ、ごめんなさいね……でもね、おっしゃる通り、失くせないものも、多い。だけど……いっそ、棄ててしまいたいものだって……あるの……これでも……」
「はあ……私は、忘れたい事ばかりですが」
「う、うん、わかります。人それぞれ、顔かたちが違うようにね」
「そうですね。やっぱり、私も、甘過ぎたからなぁ……自分に……」
「大変失礼だけど、あの、心のパートナーを訪れる人は、みな、
「ううん、何か、必聴の価値あり、って感じがする……」
「いえいえ、そんなに、四角四面の対応じゃないのよ。もちろん、プライベートには、過剰に立ち入らないし、まあ、お茶飲み友達みたいな雰囲気よ。どうかしら?……」
「じゃあ、入会しようかなぁ」
「入会? アハハハ! そうかぁ、そうとも言うよね。気が置けない集まりだから、メンバーはみんな、心得てます。わがままな人もいるけど、アハハハハ!」
「ええぇ、本当ですか?」
「私かなぁ? あのね、みんなが、わがままだ、って。振り回しちゃってるのかなぁ?」
「そうなんだぁ、高見さんって……見かけによらず……」
「そうみたい! ねっ?
「ハハハハハ!……」
「ああぁっ? 笑ったぁ!……もっと笑って!……」
……私は、自分の中に不足な、あえて遠ざけて来たのかも知れない、最も……嫉妬の炎を向けてしまいがちの、笑顔なるものを、今、依津子さんに、求められている。多少、意地悪とも、強引とも、受け取ってしまう。彼女が私に望む、期待する所の真意を、つらつら
ただ、直線的に
前方の中央に、この道の安泰を見下ろす、
「フゥッ……」
と、ひとつ、
「私ね……今日も、あるものを、海へ棄てに来たの……。いつもは、
「ええっ?!……どうって言われても……あの……」
衝撃の、旋律であった。メロディーのゆくえが、悩ましく、滞った。
「ごめん! こういう所が、配慮が足りないのね、きっと。わかってるんだけど、何というか、一生懸命やっているとね、いつの間にか、自分の中の真ん中の方へ、真ん中の方へ……寄っていってしまう自覚が、あるにはあるの。でも、今の所、現在に至るまで、それをセーブ出来ていない気がする。長年のこだわりは、やっぱり、如何ともし難い」
「
「う、うん。一方で自分を守り、もう一方では、そんな自分を棄てたくもある。
「いえいえ、わかりますよ、わかる。どうにもならないものを、どうにかしたい……」
「それでね、私……独身でいる。上手く言えないけど、変わってゆく自分を想像すると、時々、怖いの。連れ去られるような、何かに操られるような、そんな感じを覚える」
私は、依津子さんの、高純度の個人情報に触れ、その悩める片鱗に、引き込まれそうな欲望を、この時、初めて、予感した。
「私も、独り身ですよ。表面的には、穏やかに生活しているけど、内部では、寝苦しいというか、フィットしていない自分を、抑えていると想う。桜井さんにも、指摘された。やっぱり、好ましからざる状況である事には、違いない。今日、はっきりわかった」
「それでも、どうしても想像してしまうんだけど……私……今更っていう言葉が、大嫌いになったの……」
「えっ?」
大いなるとまどいが、私という自分に、自分かも知れない、私かも知れない存在に、深く、爪を立てた。
「これから……それを棄てに行きます!」
……今更……今更……。私の中で、その言葉が彷徨い始めた。駆け巡りつつあった。それは……今に至る私が、長年、図らずも培養して来たような、最強の
「ハアァ……やっと、着いたね! あぁぁ気持ちいい!……」
背伸びをして、胸を張るかの……淑女、惜しむらくは、私という法を知らず、いや、知ってか知らずか……まるで知らないように、私達ふたりは、今、材木座の浜辺の
……
彼女の、先程来の言葉、「笑って……」と「今更」が……私という少年と今の私を、撹拌して待ちあぐね、すれ違うだけの回答は、望まれてはいないのであった。インテグレートという憧れにも、期待にも、ただ、不安が寄り添う切なさを、私に語りかける、
依津子さんの笑顔が、この雨のように、
彼女の笑顔を、横顔で感じている私は、雨が水たまりを作るように、私が持ち
そして……今更を棄てるという事は、取りも直さず、最早と、It's too late……をも、きっと、海へ葬り……それだから、私の涙はフライングして、先走る心が、海と、ともすれば、それだけにあらず、依津子さんに、さっきから探していた、救いの、慰めの……
「吉村さん!」
「えっ?」
「私を、よく見ていて……」
彼女は、私の想いを遮るように、顔を合わせるべくもなく、そう言って、
「……私は、泣かなあぁぁぁぁい!! 絶対に、諦めなあぁぁぁぁい!! イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……イ・マ・サ・ラァァァァッ!!……そんなの、要らなあぁぁぁぁい!!……要らなあぁぁぁぁい!!……要らなあぁぁぁぁい!!……」
ふたりきりの浜辺に、ふたりしかわからない声が響き、波のさざめきに、消えた。依津子さんは、私が泣いているのを、知っていたのだろう。見て見ぬふりをしていたのだろう。彼女は、疑いもなく、あまりにもストレートに、彼女らしく、体いっぱいの……It's not too late……を、私へ、贈ったのだ。私は、私は……ただ、自分の
しかし、この人も、冷たい氷を秘めている。でも、それをなりふり構わず、必死に砕こうとしている逞しい姿が、私の底を
『私を、よく見ていて……』
私の中に
私は今まで、何をして来たのだろう。何が出来たのだろう。これから依津子さんに、何をしてあげられるだろう。何をすればいいのだろう。私には、何が出来るのだろう……ただ、恋心が、波間に
「……吉村さん……」
彼女の目が、ようやく、私にふり向いた。溜めていたかのように、瞳の光が、悲しく
「……泣かないで……もう、泣かないで……そんなに、頑張らないで……そんなに……泣かないでょ……泣かないでよ!……」
彼女の秘めたる氷が……外に、表に、私に、弾けた。私の、涙に曲がり迷う目の中で、その
「私だって……私だって……お願い、もう、泣かないで……」
彼女の頑張りが、ふたりに展がってゆく、互いを、悲しみが包んでゆく。それは、悲しみを乗り越えようと、押し上げ来る冷たいうねりに、必死に
私は、そうして私は……依津子さんを抱き寄せた。強く、抱きしめた。彼女が求めた訳ではない私を、招かれざる訳ではない私を、この時、自然に求めるように、私に応えるように、流れを合わせた彼女だった。雨に濡れるを愛おしんだ、体と体が、深く、互いを吸い込んでいった。背中に回した四つの腕が、ぎこちなく
ふと、海の果てに霞む、薄墨の空が割れ、淡い日射しが滲んでいった。曖昧だった水平線を、微妙な青のグラデーションが、ゆっくりと染め分け始めた。遠望は徐々に冴え、この、材木座と由比ヶ浜だけ、止みつつある雨に、取り遺されたようであった。私達は、既に夕方にある事を、知った。時間は、動いていた。
その、西空の雲流れから、やっと抜け
私の腕の中の、依津子さんの髪にも、その光が仄かに届いて来た。彼女は、気づいたように、招かれたように、私の胸元に
「私を、よく見ていて……」
私は、彼女を、見てあげられなかった……また、見て見ぬふりを、してしまったのかも知れない。眩しかったのかも、知れない。忘れられない言葉になると、想った。突として、なぜか、過去の迷宮に足を踏み入れた……。私は、時間を追い駆けているうちに、時間を失くしたのだ。時に、ふと、舟を浮かべた……その終わりが来るであろう、限られた時間の
作りものの過去は、流れていった。そうするしかなく、流し切れずにいる。どんなに洗われようと、
西を望めば、陸続きの果ても、明るく際立って来た。晴れていても、ここからは、その
そして私は、依津子さんを、真剣というイメージから、外せなくなりつつある自分を、確実に、感じている。崖下の君は、日々、そば近くで息づいている。その、動かし難い事実に、私は、私を、止めらそうにない。止められないだろう。眺めているだけの恋が、胸苦しくなって来た。手をのばせば、君は、君は……。でも、今の私には、成就するだけの、バックボーンが、ない。過去を悔やめば、切りがない。私はこれから、酸欠状態に陥るかも知れない。見つめれば応えるだろう君を、この恋を、繋ぎたい……。
家の坂道の登り降りが、気がかりだった。よく外出する方ではないが、たまに被る帽子が、手離せなくなるだろう。本当の事を打ち明ければいい、話なのだが。それさえ言えない、話なのであった。
依津子さんに、申し訳ない……本当の私を知れば、彼女はきっと、軽蔑するだろう。今日の涙は、傷つけられた彼女の、涙に想えた。この上なく、冷たい……それで、私は、彼女を、見てあげられなかった。
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