その想い

 その想いを携えたまま、五十分が過ぎた。私は、出来るだけ明るくふる舞って、桜井さんと別れたのち、彼女も提案する所の、この談話室を初めて訪れ、たまたま他の利用者のいない、がらんとしたカジュアルな休憩室で、ひとり座ってお茶を飲んでいた。

 今日のカウンセリングの内容には、はなはだ、合点がいく事ばかりで、桜井さんの力量の前に、瞠目どうもくするしかない私は、素直に、されど気持ちよく打ちひしがれていた。彼女のキャリアが羨ましくもあり、比する私に言葉もないのだが、それは、おばあちゃんが最期に示してくれた、あの遺産と一致する事に、何ら躊躇はなかった。もし、他人が私の心を知るようになった時、きっと誰もが、同じトーンで、同じ事を言うに違いなかろうと、疑うべくもない。やはり、踏み出すタイミングにある自分を、怖れてはいけないのだった。この、今はひっそりとしている談話室にも、そのきっかけを探しに来ているのだろうか。わかってはいる事が、そうするしかない事を、誰かに後押しして欲しい、今日の、いてはカウンセリングに託した、目的意識に、少し、動悸がしていた。

 どこか、こう、ある種の虚脱感があった。あごを上げ、口を小さくぽかんと開けて、池のこいえさを待つかのように、呼吸を読んでいた私だった。ひとり故に、漫然という空気を辿るしかなかった。時間の経過も、今はそばから手離して、もう久しいだろうか、気にもならずにいた。だいぶ、胸もなだらかに治まりゆく、クールダウンのひと時であった。

 不意に、ドアがひらく音に寄りかかる、

「ハァ……」

 女性の……やっとけたような、その小さな溜め息を、同じ小さな私の口が拾わんばかりに、気配がする方へ向けられた。瞬時に追従する目線が……そこで途絶えた。消えるみたいに、揺らめいた。そのままの私ではいられない、いてはいけない焦燥が、目の移ろいを正し始める、安堵を探す感覚に、なぜか、懐かしい歌を聞く時の、一抹の照れが蘇った。私しか知らない、照れであった。ただ、今はそれを、隠すべきだった。

 なぜなら、忘れそうで消えがての、今もほの明かりを灯す想いが、鎌倉に来て

 以来はっきりと、言葉で括れるまでに、私へ主張していたのであった。照れの回答を、目の前に見ていた。章々しょうしょうたる存在と、ふたりきりであった。少年時代からの、切ない想いは……

「こんにちは……」

 晴れやかに挨拶する、このひと、再びの巡り合わせを知る由もない、偶然という、時間のインスピレーションが息づく、崖下がけしたの君、高見さん……その人への〝初恋〟であったのだ。

「こんにちは、初めまして……」

 私は、抑えつつ、初対面ではない、二回目のやり取りを、期待するだけであった。再びの流れは、胸の響きにしても同様で、羽搏はばたいている。彼女も、ここの利用者だったなんて……私は、ひとすじほつれ毛のような、僅かな不安を、彼女にいだかざるを得なかった。初めての、マイナス感情であった。迷える大人の想いを、このひとにしたって……人知れず、携えているのだろう、きっと……。

 ただ、初恋のひとに対する、私が長年忍ばせ、今後のゆくえを左右するであろう、ブレーキともいうべき心が、この、初恋のひとへの憧憬しょうけいを、内懐からのいざないに任せる、更なる前傾という兆しに、早々に、敗れそうになっている自分が、彼女の言動を注視していた。先刻の、桜井さんの言葉が浮かんでいた。私の中の様々な声が、是非を争うその隙間に、挿し挟むように、高見さんが、

「今日は、もう終わったんですか? 私も、今、出て来た所です。あっ、初めまして、高見イツコと申します。どうぞよろしく! 」

「わ、私、吉村陽彦はるひこです、よろしくどうぞ……」

 歯切れが、全然違った。それにしても、イツコなる字はどう書くのか、聞いてみたいのだが……牴牾もどかしさの中に、置きっぱなした。高見という、本名である。イツコなる文字も、きっとそれに違いない。彼女の自己紹介は、裏表がなさ過ぎる、ある意味、想い切り、ある意味、居直り……どちらとも判じ難い、纏め上げた、答えを出した女の、和順な気品の濃密体を想わせた。先日、街なかでよぎった後ろ影が、逃れようのない、この現実とその実像を、限りなく接近させている、強さを、私は、認めざるを得なかった。

 正直、私は、まごついている。彼女の顔を見たい気持ちは山々、しかし今の所、前のめってゆきそうだった想いが、この目前という現実に、あの、その、積年の縛りがはたと……現れて、敗走へと出端でばなくじこうとしている風景を、じっと眺めるだけであった。いつも通りの私の流れが、や、この社会参加にも馴れつつある、私のいつもへ、埋没してゆくような安心を、覚えていた。イツコさんも、私も、うちなる漂流を抱えているのだ……同じように……。

 私の想いは、時に、日向に、時に、沈黙という習癖の陰に、寄る移ろう水面の一葉いちようのように、このなりゆきに預ける事に、あらがえなかった。問題は、私の手から、離れつつあった。それもまた、因習であろうか、さればこそ、沈黙のうちに、人知れず逃げて来たのだろう。既に、私の、私だけの問題ではなく、他に依存するばかりの甘さが、弱さが、答えを出せない長い時間に沈んでいたのだ……最早……私は……。

 やはり、この人も、同年代の女性の、若かりしから元気を封印した、ゆき着いたかの、落ち着きが見えるようであった。それはともすれば、ひと握りの、寂しさの影を引いて、私という、それでものきっかけへ向かって、じり合い生きぐされた、角が融けてしまった色香を、何ら嫌みなく主張して来る。逆に淡白そうな眼差しが、私の視線が突き当たる先を、読むように、けるように、空間を泳いでいた。何かを探し、掴まえ、待ち設ける佇まいを、悟られまいとする、一種気高く筋通るその鼻梁びりょうが、甘く、翻っていた。感じている最中さなかに、イツコさんはある事を、私は、知った。そんな男は、自分の一瞥の促迫をこらえながら、折節、一寸見ちょっとみほどきつ、また装いつして、時を過ごしていた。どうやら、寂しからぬ方向へは、流れそうもない予感がしている。相憐れみたくない心にしても、迷える大人達は、携えているのだ……それも、わかる……。

「あの……想うんですけど」

 ショップの店長さんかも知れなかった。

「ええ……」

 一見いちげんの客に過ぎないのかも知れなかった。

「私ね、この談話室にも、ドリンクの自動販売機があればいいなあって……」

「フフ、そうですね」

 私はすぐさま、自分のバッグを開けて、飲まずに置いたもう一本の、未開栓の緑茶を取り出し、

「これ、微温ぬるくなってしまってますけど、よかったら、どうぞ」

「ええっ?! 何か、催促したみたい……」

「喉、渇いてらっしゃるでしよ? こんなので申し訳ないですけど」

「ええぇ……ごめんなさい、そういうつもりではなかったんですけど……」

「どうぞ! 」

「初めてお目にかかったのに……すみません、本当に……」

「いえいえ」

「では、いただきます、ありがとうございます」

 店長さんの笑顔では、なかった。その声でも、なかった。ただ、私は、さかのぼるに、任せていた。

「……」

 私は、欠片かけらでしかない、少女時代の彼女を、知っている。その面影を重ねた、現実というフレームの中で、潤むような存在感を纏うに至った、生きて来たであろう、確かに、生きて来たイツコさんの内懐が、私の無言を……私自身が自然に作り出せた笑顔で、彩った。そのまま彼女も呼応する黙礼のうちに、優しくひねったキャップの開栓音が、ふたりの始まりを、合図しているかのように聞こえたのは、私だけであったろうか。ついさっきまでの予感が、想わぬ方向へ動いてゆき、彼女の入室当初の前のめる心へ、再び揺れ戻る自分を、私という少年が、笑い飛ばしているに違いない、やれやれといった、お節介な笑顔を浮かべる自分が、たまらなく嬉しかった。

「ハァ……おいしぃ……ごちそう様でした!」

 ひと口、飲んで、目を合わせて、私に礼を言った。私達は、そのままの顔で、今日のカウンセリングのそのままを、あらわしているかのように、ほっとひと息入れる時間を、愛おしんでいた。互いの内容を知る由もない、知るべくもない他人同士の空気が、ふたりを隔てるぎこちなさに、触れようとしない、きっと私達だけではない、この施設の約束が、爽やかに見守っていた。我慢やわがままを溜め込んでいる、相談者達を癒す、ならではの社会性が横溢している空間に、イツコさんからも、満足のほどが窺えた。その、少し濡れた唇が、彼女の瞳を手招くように、柔らかく、光っていた。

 女性にしては……いい飲みっぷりのイツコさんであった。私は、微笑ましく眺めていたが、カウンセリングにも馴れ、望ましい方向に変化しているのだろうと、推し量った。裏駅ナカの看板娘の、気取りのなさが水々しく映っていた。職業上の表向く顔と、差異はないのだが……。

「あの……私は今日で四回目なんですけど、ヨシムラさんは、どのくらい受けているんですか?」

「二回目です」

「へぇ、じゃあ、馴れて来たでしょ? こんな感じかな? って」

「うん、そうですね。カウンセラーの桜井さんはご存じですか?」

「はい、お顔は知ってます」

「そのお話に、いちいち頷けますよね。私が想っていた事と、大体、同じような事をおっしゃるんだけど、やっぱり、誰もが一致する意見を、容れるべきなのかなあというか、改めて、知らされましたね」

「私もそうです! きっかけというか、弾みが欲しいですよね。だから、出来るだけ積極的に、集めてます」

「へえぇ……私も、そうしたいんですがね……」

「それで、ここへ来てるんですから」

「まあ、そうですけど……フフ、一歩には、違いないかなぁ……」

「そうですよ! 自分なりに、動けばいいと想う」

「ありがとうございます。高見さんも、あまり気張らずに、活動して下さいね」

「どうもありがとう……」

 私の、孤独たる饒舌ぶりであったろうか、それを知って、もう、久しい。こんな、人恋しさが噴出したような、一気の開示を繰り展げてしまう少年に、今の自分がブレーキをかけて来た、時の長さを、イツコさんは理解してくれそうな、いや、くれているという確信に近い、そんな人恋しさが、私を満たしてゆくのであった。やはり、心のパートナーなる、理解者の足音が、すぐ隣りに感じられる。それこそが、私が、そして彼女が、この施設にかかわる人達悉くが、求めている所の力であると信じて、疑うべくもない地点に、私は到達しているのだと想った。このNPOの存在そのものが、私にとっての求心力たり得たのだ。そしてそれは、きっと、私の目の前で息づく、イツコさんも、等しくあって欲しいと、願わずにはいられなかった。縁というものを、意識していた。

「ねえ、ヨシムラさん、今日のご予定は?」

「帰るだけですね」

「そう……よかったら、雨模様だけど……この辺りを散歩しません?」

「ええ……いいですよ」

 この、さりげなさが……さりげない言葉のひと繋がりが……私に、熱を灯した。私の中の導火線は、ひとりであるが故に、きわめて短い事を知悉している私である。故に、意識的に、孤立を深めた側面がある。私の中の少年と、今の私の距離感は、実は、ある部分において、非常に密接な関係を結び得る、可能性が高度である事を、知っていたのだ。その、現実的な方途をも、本当は……私がわかっていた、長年、知らんぷりを決め込んでいた事なのであった。ただ、その、さりげなさが……さりげない言葉のひと繋がりを以て、それを表現するという、伝えるという行動が、私にはなかった、私にはないものであった。こんなにもずかしく、大胆で、惜しげもない自分を、さらす事には……巨大な抵抗があった。されば、それを隠すような、少年期からの行動があったのだ。早々に合格点を与え、それを維持形成するが如き、私の過去という道ゆきであった。今まで、私に出来たのは、少年を生かし続けた事だけであったのだろうか。そう、想えて、ならない。それしか、ない。それだけの……男であった。

 そして、想いがけない、初恋のひとからの誘いの言葉を、完結という、成就というものを知らない、つたなき感傷になずむ、たったひとりは、やはりひとりで、不馴れな喜びと、似合わぬ照れの波状を、必死に、押し隠すだけであった。忘れていた……しあわせであった。私の抽斗ひきだしの、一番奥にしまい込んだ、先刻、桜井さんからも指摘された、その、くすぶる想いが、その、消し難い言葉が、果たして、私なる道ゆきのテーマたる事を、告げているのだが、それを、イツコさんのその言葉に、塗り潰して欲しいと、祈る私は、けだし、時期尚早で、あったろうか。夢幻で、あったろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る