祖母との約束

 今日は、二回目のカウンセリングの日である。再び桜井さんに逢うべく、今、車を運転中の私であった。

 予約時間十五分前に、施設に到着した。

「こんにちは、吉村です」

「いらっしゃいませ! お疲れ様です」

 受付の女性も、前回と変わらず、如才がない清らかな笑顔の花で、私を迎えてくれた。まだ、少々の時間の余裕がある。変わったのは、私の声色だけであった。そんな、辺りを流覧しているビギナーに、

「吉村さん、あの……談話室も、よかったらご利用下さいね」

 彼女は、右掌をかざして部屋を指し示し、尚も白い歯を見せた。

「ええ……じゃあ、帰りに寄ってみてもいいですか?」

「はい、どうぞ!」

 彼女との、小さな取引を完成させたい私であった。先日、飲みものを届けてくれた人は、別の若い女性スタッフさんであったが、少しずつ、心のパートナーの足音が、身近に聞こえて来る。家族の帰宅を待ち侘びる少年に、その足音は弾むように心地いい。繋がりゆく想いが、嬉しい……。そして、この社会参加が、玉響たまゆらの夢で終わらない事を、人知れず祈るのだった。私だって、これでも動いている。そう言いたそうな、顔をしていただろうか。

「吉村さん、こんにちは! 先日はどうもお疲れ様でした」

「あ、どうも、こんにちは、こちらこそありがとうございました」

 奥の事務所から、桜井さんがにこやかに現れた。釣られるように私としても、自然な笑顔を醸し出せる自信が仄めき、ひと纏めの交歓の場に、貢献していると想いたかった。今日も流れのままに、清爽な空間にほだされるままに、五十分間の心との対話の入口が見えて来た。忌憚きたんのない心象の風景を、持ち込んでいる私であった。それを知ってか知らずか、桜井さんの瞳の輝きが、二回目という既にたけなわの域に、招き入れる光を浮かべて、私の、着地点を予想されまいとする、一灯の抵抗の明かりをも包まんばかりの、鎌倉女性の濃彩色の初一念に揺れていた。

 カウンセリングルームに通された。前回の隣りの部屋である。内装もソファーの配置も、南の窓も、同じような空間識で、私に余計な不安を与えなかった。雨の雫にそぼ濡れる、素通しの硝子が、午後の街並みを歪ませて、私に何かを伝えたいように、それでも時に突っねるように、一陣の風まくりと共に、雫色に全面を掃いていた。私は、自分の鞄の中から、さっきこの近所の自動販売機で買った、冷たい緑茶のペットボトルを出して、口を湿したかった。

「さあ、どうぞ」

 やはり、南に正対する席へ促された。

「失礼致します」

「では、私も……」

 桜井さんが、マナーを踏まえて遅れて着席した。前例にたがわぬ、ふたりの位置関係が成立した。私は早速、鞄を開けながら、

「今日は、飲みものは大丈夫です」

 取り出すと、

「あら、すみません。気を使っていただいてしまって……」

「いえいえ、ドリンクぐらいは」

「ありがとうございます。だいぶ、落ち着いてらっしゃいます? 」

「ううん、そうですね。この前は、結構衝撃的だったので、何か、慌ててしまったけど、今日は、何事をおっしゃられても、その覚悟を予習して来ましたので」

「ううん、そうですかぁ……」

 彼女は、頻りに頷きつつ、ふたつの目の、下弦の月のような欠けぎわを、ますます細めて微笑み、さりげないしなばらける黒髪の、吸い寄せられて元に戻る、その刹那の営みの中に、私は、自分という欠片かけらのひとつでも、紛れ込ませたい欲求のうずきが……通り過ぎてゆくのを待った。仄かな化粧の匂いが、彼女の日常を乗せて、私の鼻をつついていた。顔の向きに併せて、移動する首筋が、私をけしかけて置きながら制するような、甘い拒絶を露わに、それを盗み見る男の視線に反応する、意地悪な曲線を描いていた。

「さて、始めましょうか! 」

「はい、よろしくお願いします」

「ええと……今日はまず、前回の、吉村さんの中の少年について、今一度、詳しくお話しいただきたいんですね。たとえば、おばあ樣に関する、想い出ですとか……少年のそのままの声を、お辛いでしょうけど、ぜひ、聞かせて下さい」

「はい……」

「大丈夫ですよ……」

「はい……では……おばあちゃんが亡くなる、間際の話なんですけど……これは……誰にも、話した事がありません……」

「はい……」

「あの……おばあちゃんは、急性心不全で、逝ってしまったんですけど……最期に……意識のある、おばあちゃんを見たのは……私だと想うんです。あの時……おばあちゃんは、部屋のベッドの上で、上体を起こして、私と、他愛のないやり取りをしていました。私は、体をさすってあげたり、髪を整えてあげたり、パジャマを直してあげたり、ほとんど会話の出来ないおばあちゃんに、ただ一方的に話しかけて、でも、おばあちゃんは、優しい笑みを浮かべて、全て、わかっているようだった……わかっていたと想います。すると、おばあちゃんは……ふと、天井を見上げて……その隅から隅を、遥かな表情で、見渡すように……束の間……。そして、静かに目を閉じて……震える瞼から……涙が流れた……。私は、黙って見ていましたが、急に悲しくなって、一緒に泣いてしまったんです。それから、おばあちゃんは自分から、ゆっくり体を横たえました。寝るの? と聞くと、弱々しい声で、うん……と、ひとつ。深い息をしていました。とても落ち着いているように見えました。私は、毛布をかけてあげて、照明の明るさを少し落として、部屋を出ました。そのあと、約三時間経ち、母が、意識のないおばあちゃんに気づき、家中大騒ぎになりました。大至急、救急車を手配し、すぐさま駆けつけた隊員の方々は、救命処置に力を尽くし、私達家族は、固唾かたずを呑んで見守るしかなかった。みんな、気が動転していました。私と妹は、ただ泣くばかりで……。やがて、おばあちゃんはストレッチャーに乗せられ、救急車へ運ばれていった。お父さんが、付き添いました。でも……その三日後に、おばあちゃんは、意識を回復する事もなく、息を引き取りました」

 私も、桜井さんも、ただ、泣いていた。女性の涙を、実にしばらくぶりに、真近で感じている私であった。立場上、他人ひとの涙は、彼女にとって、縁遠いものではないだろう。それでも、私という落涙を知ったのは、ほんの数日前に始まり、違った世界からの落としもののように、そのぬしひとりひとりへの心配りが、いつも純度の高い明彩を想わせる、雫を、いつも精緻に心を見る、その目から、惜しみなく、溢れずにはいられないのだろうと、私は想った。それが、確かに、嬉しかった。私の涙は、彼女の涙に、流されるままだった。

「カウンセラーが、泣いてはいけないんです。心の転移を、認めた事になる。でもね……率直に言って、吉村さんの心の声が、確かに、私を叩いた……。あなたという少年の、本当の想いが、伝わって来ました。勇気を出していただいて、どうもありがとう。もう、最後までおっしゃらなくても、いいんですよ。やっぱり、罪の意識が、見えました。辛かったでしょう……今も……」

 私の涙の量は、最初から、全部であった。出し切っても、忽ち生み出せた。私なる存在は、悲しみとしての条件にかなう、結晶体に過ぎなかったのだろう。ひとつが、全部を満たしていた。ひとつだけで、よかった、今の私は成立していた。その今を、桜井さんが、許してくれていた……。私は、泣くだけ、泣いた。

 そして、私の中のせきは、最早その用を失い、雪崩れるしかなかった。祖母の救いの手が、差しのべられているかの、幻のような想念が、当時の少年と手を繋いで、私に語らせたがっていた。夢幻影泡むげんようほうたる、合格点のナルシシズムが、残躯ざんくの告白の期をとらえた。言い訳であろうと、構わなかった。ただ、そこにこそ何かが、委ねられるべき、何かを、少年は、うに見つけていたかのように。

「あの時……おばあちゃんは……これから、旅立つよ……さようなら……という決心をしたんだと、想うようになりました。そして後年、社会人としての私は、尚々……親とは、愛する我が子の為に、家族の為に……たとえ、自分が死んでしまっても、そのしあわせを、守らなくてはいけない……これ以上、悲しませてはいけない……と、自ら、身を引いた、別れを告げた……。私に……お前も、こうするんだよ……守るべきものを持つ、人たれ……と、最期に、自分の一番大切な想いを、私に教えた……身を以て示し、遺してくれたと想いました。親って……すごいですね……。自分はもういないのに、子供や家族に、尊い何かを遺す。私は、あの時から……そんなおばあちゃんと、絶対の約束をしていたのでしょうか……しあわせになるよ……おばあちゃんの想いに、応えるよ……って……。私は、しあわせにならなければ、いけなかったんです……」

 桜井さんは、テーブルのある一点を見つめ、自分を納得させるように、ささやかなうなずきの頻回で、理解の隙間をも、埋めて深める風情を守っていた。私は、その真剣味に相応しい、愚直なまでのありのままを、彼女に呈すべき責任に、むしろ体はリラックスして、お茶を少し飲んだ。適度な渇きの連続なる緊張が、それに見合う心づもりを捜し当てて、馴れつつある自分に、一片の頼もしさを覚えたのは、やはり、ナルシストである所以ゆえんだろうか。

「話は少し逸れますが、私の妹は、子供の頃から、霊感の強い人で、時々、『何か、霊がいる……気配がする……』などと、神経質になる事がありました。私は、全くそのがないのですが、妹は、おばあちゃんが亡くなった時も、そう、そして、数ヶ月経た辺りから、私の右肩の上に……『おばあちゃんがいる、優しく微笑んでいる……』と、言うんです。父も母も、そういった感覚はありませんが、そう言われてしまうと、みんな、神妙な心持ちに変わって、当の私も、そう信じたい、信じられるようになっていったのです。それから私は、いつの間にか、自然に右肩を触る癖がついた。すると、不思議と安心するんですよね……。可笑おかしいでしょ? でも、私にすれば、御守りのようなものなんです。そうして更に……こう想うようになりました。幽霊でもいい、おばあちゃんに逢いたい……私には見えないけれど、おばあちゃん、出て来て!……逢いに来て!……。私は、完全に、あの合格点で、立ち止まっていたと想います。尚も、その、ナルシストの翼は、折れやすい事も、やがて、知る所となってゆくのです……」

 私は、長い年月にわたり、悉くが、幻のように滅びゆく想念に、かれていたのだろう。あの、稲村ヶ崎の黒い砂浜にも、それを見ていたのだろう。いずれ、消えてゆくだけなのだろう。たゆみなく専心するうちにも、反対側の時間軸は、内懐の流れのままに動き始め、穏やかな物腰がそれを隠す、二律背反たる基本構造の奥ゆきに、私は、ただ怖れしかなかった。 自分の中のもうひとりの自分が、怖かった。為すがまま、扱い方を持て余し、知らないという事ほど、強みはないとして、知らないものを知る事を、怖れていた。今の私の世界が、全てであるかのように。

「吉村さんは……壁を作る癖が、今も、ある。かつてのそれの過ちを、知っている。だからこそ今度は、沈黙という壁、あなたの言葉を借りれば、よろいかな? そのものが、アイデンティティを形成するに至った。だけどこの場合は、やはり、限界という、壁には変わりないんじゃないかしら。主張する事を止めてしまったら、表現という行動に、やましさの制約を与えてしまったら、そこに、どんな光があるのかしら。確かに、深い内省は大切。ならば、光は、冴え渡る透明感に満ちている必要を、学習出来るはずです。でなければ、壁は、壊れない……暗いだけの光は、パワーに不安がよぎる。たとえ表面上はパッとしなくても、内面にこそ、光を蓄えて欲しいんです。ここ鎌倉の街と自然に降り注ぐ、光と風のように、どこまでも果てしなく、繋いでいただきたい……。それが消えつつあっても、止まりつつあっても、あなたという歩みを、諦めないで欲しい……。そして、あなたには、愛すべきご家族と、恵まれた環境がある。幸運なる許しを得ている。ですから、焦らず、ひとつひとつ、少しずつ、壁を、砕く事も、出来る。吉村さん、あなたには、壁を壊す力が、時間があるんですよ。今まで出来なかった事に、目を向けて、実行してみましょう、やってみましょうよ。ねっ……必ず、道は、ひらけますよ……私は、そう想う」

「はぁ、やっぱり、そう、すべきなのかなぁ……」

「ううん、わかってらっしゃるでしょ? ただ、きっかけが欲しいですよね。その為にも、私共があるんですから、何なりとおっしゃっていただいても大丈夫、いつでもお待ちしてますから、どうぞご安心なさって下さい。あなたなら、出来ます。私は、信じてます……。しかしながら、私がこう言ってしまえば、吉村さんの傾向として、ある想念に縛られがちになってしまう気も……しています。そして、そこにこそ、これからのあなたの、人生のテーマがあるようにも……考えられますね……。粘り強く、負けないで……」

 その通り、既に私には、永きにわたり、追えばおぼろに追わずば執拗な、その想いがあった。今に始まった事ではない、図らずも拵えてしまった、脱ぎ切れない、最強のよろいたるそれを、彼女も、私も、今は静かに、眺めていた。

 その想い、最後にそれしかない、その想いを……。

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