祖母との約束
今日は、二回目のカウンセリングの日である。再び桜井さんに逢うべく、今、車を運転中の私であった。
予約時間十五分前に、施設に到着した。
「こんにちは、吉村です」
「いらっしゃいませ! お疲れ様です」
受付の女性も、前回と変わらず、如才がない清らかな笑顔の花で、私を迎えてくれた。まだ、少々の時間の余裕がある。変わったのは、私の声色だけであった。そんな、辺りを流覧しているビギナーに、
「吉村さん、あの……談話室も、よかったらご利用下さいね」
彼女は、右掌を
「ええ……じゃあ、帰りに寄ってみてもいいですか?」
「はい、どうぞ!」
彼女との、小さな取引を完成させたい私であった。先日、飲みものを届けてくれた人は、別の若い女性スタッフさんであったが、少しずつ、心のパートナーの足音が、身近に聞こえて来る。家族の帰宅を待ち侘びる少年に、その足音は弾むように心地いい。繋がりゆく想いが、嬉しい……。そして、この社会参加が、
「吉村さん、こんにちは! 先日はどうもお疲れ様でした」
「あ、どうも、こんにちは、こちらこそありがとうございました」
奥の事務所から、桜井さんがにこやかに現れた。釣られるように私としても、自然な笑顔を醸し出せる自信が仄めき、ひと纏めの交歓の場に、貢献していると想いたかった。今日も流れのままに、清爽な空間に
カウンセリングルームに通された。前回の隣りの部屋である。内装もソファーの配置も、南の窓も、同じような空間識で、私に余計な不安を与えなかった。雨の雫にそぼ濡れる、素通しの硝子が、午後の街並みを歪ませて、私に何かを伝えたいように、それでも時に突っ
「さあ、どうぞ」
やはり、南に正対する席へ促された。
「失礼致します」
「では、私も……」
桜井さんが、マナーを踏まえて遅れて着席した。前例に
「今日は、飲みものは大丈夫です」
取り出すと、
「あら、すみません。気を使っていただいてしまって……」
「いえいえ、ドリンクぐらいは」
「ありがとうございます。だいぶ、落ち着いてらっしゃいます? 」
「ううん、そうですね。この前は、結構衝撃的だったので、何か、慌ててしまったけど、今日は、何事をおっしゃられても、その覚悟を予習して来ましたので」
「ううん、そうですかぁ……」
彼女は、頻りに頷きつつ、ふたつの目の、下弦の月のような欠け
「さて、始めましょうか! 」
「はい、よろしくお願いします」
「ええと……今日はまず、前回の、吉村さんの中の少年について、今一度、詳しくお話しいただきたいんですね。たとえば、おばあ樣に関する、想い出ですとか……少年のそのままの声を、お辛いでしょうけど、ぜひ、聞かせて下さい」
「はい……」
「大丈夫ですよ……」
「はい……では……おばあちゃんが亡くなる、間際の話なんですけど……これは……誰にも、話した事がありません……」
「はい……」
「あの……おばあちゃんは、急性心不全で、逝ってしまったんですけど……最期に……意識のある、おばあちゃんを見たのは……私だと想うんです。あの時……おばあちゃんは、部屋のベッドの上で、上体を起こして、私と、他愛のないやり取りをしていました。私は、体をさすってあげたり、髪を整えてあげたり、パジャマを直してあげたり、ほとんど会話の出来ないおばあちゃんに、ただ一方的に話しかけて、でも、おばあちゃんは、優しい笑みを浮かべて、全て、わかっているようだった……わかっていたと想います。すると、おばあちゃんは……ふと、天井を見上げて……その隅から隅を、遥かな表情で、見渡すように……束の間……。そして、静かに目を閉じて……震える瞼から……涙が流れた……。私は、黙って見ていましたが、急に悲しくなって、一緒に泣いてしまったんです。それから、おばあちゃんは自分から、ゆっくり体を横たえました。寝るの? と聞くと、弱々しい声で、うん……と、ひとつ。深い息をしていました。とても落ち着いているように見えました。私は、毛布をかけてあげて、照明の明るさを少し落として、部屋を出ました。そのあと、約三時間経ち、母が、意識のないおばあちゃんに気づき、家中大騒ぎになりました。大至急、救急車を手配し、すぐ
私も、桜井さんも、ただ、泣いていた。女性の涙を、実にしばらくぶりに、真近で感じている私であった。立場上、
「カウンセラーが、泣いてはいけないんです。心の転移を、認めた事になる。でもね……率直に言って、吉村さんの心の声が、確かに、私を叩いた……。あなたという少年の、本当の想いが、伝わって来ました。勇気を出していただいて、どうもありがとう。もう、最後までおっしゃらなくても、いいんですよ。やっぱり、罪の意識が、見えました。辛かったでしょう……今も……」
私の涙の量は、最初から、全部であった。出し切っても、忽ち生み出せた。私なる存在は、悲しみとしての条件に
そして、私の中の
「あの時……おばあちゃんは……これから、旅立つよ……さようなら……という決心をしたんだと、想うようになりました。そして後年、社会人としての私は、尚々……親とは、愛する我が子の為に、家族の為に……たとえ、自分が死んでしまっても、そのしあわせを、守らなくてはいけない……これ以上、悲しませてはいけない……と、自ら、身を引いた、別れを告げた……。私に……お前も、こうするんだよ……守るべきものを持つ、人たれ……と、最期に、自分の一番大切な想いを、私に教えた……身を以て示し、遺してくれたと想いました。親って……すごいですね……。自分はもういないのに、子供や家族に、尊い何かを遺す。私は、あの時から……そんなおばあちゃんと、絶対の約束をしていたのでしょうか……しあわせになるよ……おばあちゃんの想いに、応えるよ……って……。私は、しあわせにならなければ、いけなかったんです……」
桜井さんは、テーブルのある一点を見つめ、自分を納得させるように、
「話は少し逸れますが、私の妹は、子供の頃から、霊感の強い人で、時々、『何か、霊がいる……気配がする……』などと、神経質になる事がありました。私は、全くその
私は、長い年月にわたり、悉くが、幻のように滅びゆく想念に、
「吉村さんは……壁を作る癖が、今も、ある。かつてのそれの過ちを、知っている。だからこそ今度は、沈黙という壁、あなたの言葉を借りれば、
「はぁ、やっぱり、そう、すべきなのかなぁ……」
「ううん、わかってらっしゃるでしょ? ただ、きっかけが欲しいですよね。その為にも、私共があるんですから、何なりとおっしゃっていただいても大丈夫、いつでもお待ちしてますから、どうぞご安心なさって下さい。あなたなら、出来ます。私は、信じてます……。しかしながら、私がこう言ってしまえば、吉村さんの傾向として、ある想念に縛られがちになってしまう気も……しています。そして、そこにこそ、これからのあなたの、人生のテーマがあるようにも……考えられますね……。粘り強く、負けないで……」
その通り、既に私には、永きにわたり、追えば
その想い、最後にそれしかない、その想いを……。
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