潺湲たる街
今年も、
さて、殊にこの、
今日も、早く使い切りたい、常温保存の野菜類を、ふんだんに取り入れた朝食を作り、ひとりで食事をした。私は、男としては、これでも結構
そして、午後二時から、初めてのカウンセリングが控えていた。インターネットでの時間予約の第一希望が、そのまま通り、それを同意した私の返信により、正規のスケジュールとなっていた。私から求めたこの機会、多少の緊張がある。たとえば、あのビルの最上階全域を占める、施設内の環境であるとか、カウンセラーの方の目の配りであるとか、その全体の空気感であるとか、いつとはなく、イメージが先行しがちな、私の思考の道筋の端緒が、
……エレベーターの扉がゆっくり
私より、少し歳上の四十代であろうか、如何にも優しげで健康的な女性がひとり、目の前で、にこやかに迎えてくれている御辞儀の深さに、私は吸い込まれた。サラリーマン時代の、スーツ姿の自分が、浮かび来た。挨拶という最初の
「いらっしゃいませ。初めまして、ようこそお越し下さいました。私、当施設の産業カウンセラー、本日から担当させていただきます、
背中を立て終えつつある
「初めまして、ハンドルネーム吉村陽彦と申します。本日はよろしくお願い致します……」
私も、しっかりと腰を折った。
「ありがとうございます、承っております、こちらへ……」
受付カウンターに独座する、若い女性も、
空室表示の出ている、カウンセリングルームに通されると、南向きの窓から、
「どうぞ、おかけ下さい」
南に正対する、茶色いキャンバス地の、ひとりがけのソファーを勧められた。
「失礼致します」
ふたりの声が重なり、私は腰を下ろすと、桜井さんは、私の左側、西へ向いたソファーに座った。私が桜井さんを見る時、そして桜井さんが私を見る時、互いの視線は、テーブルの上を斜めに横切る事になった。
「音楽は、こんな感じでいいですか?」
「はい、ギター好きなんです」
「よかった! 空調はこれで……」
「はい」
「改めまして、本日はご利用いただきまして、誠にありがとうございます。私、桜井が、吉村さんを担当させていただく事になりましたので、少しでもお手伝い出来るよう、努めてまいりたいと想います。どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
座礼が合わさった。桜井さんのナチュラルさが、嫌みのなさが、確かに押しつけではない事は、持って生まれたと想える、その風合いが語っていた。決して大きくはない、いつも笑っているかの、目頭まで下げた感のある目、
「お飲みものは、何が……」
「では、冷たい緑茶を……」
内線電話で、それを告げると……ドアをノックする音と共に、若い女性スタッフの、
「失礼致します」
「どうぞ」
グラスを添えて、ペットボトル入りのお茶が運ばれて来た。桜井さんの、
「どうもありがとう」
に、私は、笑顔の黙礼を添えた。
「吉村さん、暑かったでしょう、どうぞ。足りなかったら、遠慮しないで言って下さいね」
「すみません、いただきます……」
女性ふたりにお礼を述べると、スタッフさんは、尚も笑顔を咲かせて、
「では、失礼致します」
爽やかに退室した。
私は、グラスにお茶を注ぎ、渇きを癒した。胃袋へ降りてゆく冷たい流れが、全身に回り出すような、清冽な安堵に、思考が俄かに転がり始めた。ふと、腕時計を見ると、二時十五分少し前、
それにしても、街に出れば、いつも自然な笑顔がそばに溢れていた。偶然すれ違った人や、信号待ちで隣りにいた人、見かけた人はみな、派手に笑っている人もあれば、大抵の人は、笑う準備をしているような、綻びつつある顔を
私の周囲で、すべてが動いている。かたちあるものは悉く、意思を宿すそのままに、生き生きと息吹いていた。確かに、なかんずく、盛んなる自然の燃焼には、生命体も存在する。森は雨に潤み、海は風に宥められ、そして街は、人は……そのありのままの、穏当な主張に調和して、街という、その人という、ひとつの個性を語っていると想えた。すべてはすべてへ委ね、すべてはすべてを受け容れる、語るまでもない互恵の意識が、優しい佇まいの、それこそをアイデンティティとする、鎌倉の人達の顔を作っていると、私は心得ていた。
そして、私の前には、その、日常的な飾らない笑顔を
「早速ですが、同意事項の方は、読んでいただきました?」
「えっ、ええ、サイトで……」
「そのように決めさせておりますので、それに
「わかりました」
「それでは……始めましょうか……大丈夫! 私だって、初日はやっぱり、引き締まりますもん」
「そうなんですか? そういうふうには……」
「いや、本当なんですよ。クライエント様にね、もっと、自分を好きになって欲しいから……」
何げないようでこの人は、カウンセラーとしての最終目的、また存在理由を、無理なく
「ええと、まず……吉村さんが考えてらっしゃる、自分はこうしたいんだ! こうなりたいんだ! という、希望する所の自分の姿って、どんな感じですか?」
幕は切って落とされた。これが、インテークというものであろうかと、私は自分の立場を確認した。
「はい。何事においても、頑張れる自分、積極的な心が欲しいです」
「ううん、わかりました! やっぱり……そこですよね。人って、確かに、それがすごく大切だから、みんなそうしたい、そうしている方も多いかと想う。でも、人は様々です。心は移ろいやすいもの。時に、たとえば何かのきっかけがあって、そうする事が難しくなってしまった人達だって、たくさんいらっしゃると想うの。静かに周りを眺めている自分を、半分我慢して、半分許している。我慢という頑張りと、許すという諦めにも似た想いが、その人のプラスへのきっかけというかな? 可能性を見逃してしまっているんじゃないかしら……。もう既に、その人は充分頑張っているの……耐えているの……だから、疲れもする、諦めたくもなる……。私は、その人のその気持ちが、わかるのね。相半ばする心に、揺れ続けて来た時間が、決め切れない想いが……弱い自分に対する怒りが、悲しみが……積もっている、抱え切れないぐらい……。それが、わかるんです……」
まだ、始まったばかりなのに、私の頬は、涙が埋め尽くしていた。口の端から漏れそうな、震える小声を、私はただ押し殺すのが精一杯であった。用意していたハンカチを、握り締めていた。不規則な鼻息が、顔中を
「吉村さんは、カウンセリングも初めてでらっしゃいますが、メンタル関係の医療機関の、受診の経験はありますか?」
「一度もありません。薬も服用した事がありません」
「そうですか。私共のカウンセリングご利用中に、もしそのようになりました場合、必ずそちらを優先して下さい。お願い致します」
「承知しました」
「では、生育歴に関する質問です。子供の頃、吉村さんにとって、忘れられないショッキングな、気持ちを暗くしたような出来事って、あると想うんですね。今、想い返すと、また辛くなってしまって、それを引きずっている自分が、少年のままの心が、吉村さんの中で、もうひとりの自分として、今でも頑張っている、一生懸命耐えて踏ん張っている、かけ替えのない親友のような、存在があると想います。その頑張り屋さんの想いを、今、吉村さんが私に、ありのままの代弁をして欲しい。その子の健闘ぶりを聞かせて下さい」
「少し長くなりますけど……」
「はい、大丈夫ですよ……」
「あの……私は……自分で言うのもあれですが、恵まれた環境で育ちました。両親と妹、当時はおばあちゃんも元気で、五人仲よく、楽しく暮らしていました。共働きの忙しい両親に代わり、おばあちゃんが、
桜井さんも、目が潤んでいるように見えたのは、私の気の
「そして……おばあちゃんは、六年生の三学期に、静かに亡くなりました。とてもきれいな、白い顔をして、柩に眠っていた。死出の供華が、ひときわ美しかった……。それから、話は変わりますが……以来、なぜか、私という人間全体的に、意欲が向上しない想いに、とらわれ出しました。折しも中学入学、勉強もスポーツも、恋愛にしたって、何をやっても面白くない。およそ思春期の少年らしくない、一見冷めているような態度に、甘んじている自分がいました。坦々とした道のりだけを好み、年齢相応の煩労を想い知る事も、集中という真剣、ひとつという本気を愛する事もなかった。でも、成績は上位にあり、大人達を心配させるような事もせず、いつとはなく、そんな自分に、合格点を与えていました。しかし、少年の私は、少年に過ぎない。これからが、答えを出さなければいけない。自己評価の合格点は、あくまで通過点という、幻だったのです。私は、それにこだわっていました。気がつけば、空虚な自分と出逢いました。先々の不安という
「吉村さん……おっしゃって下さって、どうもありがとう。冷静に、自分を分析してらっしゃる。とてもいい事だと想う。光が、見えますよ。必ず、光は差し込む。あなたの中には、もうひとりの自分、少年の私がいて、彼は必死に生き抜いて来た。たとえ気力が萎えても、その時々で、一瞬一瞬で、本当の輝きに繋げ得る、小さな
私は今、つい先日の、稲村の浜辺を想い出していた。今も、海は泣いていた。少年も、祖母も、泣いていた。みな、どうして、泣いているのだろう……私は今まで、何が出来ただろう……みんなに、何をしてあげただろう……もういない、少年と、祖母に、あの、想い出まみれの、稲村の岬の海に……。まだ、幻の中に、あった……夢の中に、あった……これから、何かをしなくては、いけなかった。
「桜井さん……」
「はい」
「私にも……光が見えますか?……」
「はい、はっきり!」
彼女は、自信に満ちた笑顔を、光の束の暖かな投網のように、私に包みかけた。私の中に眠る少年の、切なる願い……こうして向かい合っている、現実の私こそ、それを知りつつも、野に放つ事さえ出来なかった、
「それは、どういう?……」
「……創造という……」
……第一回目のカウンセリングも、かくして終了した。
次回から、具体的な、心との対話をテーマに、引き続き、桜井さんのアドバイスを受ける事になった。その予約は、帰宅してから考えたい旨を伝え、会計も済ませ、私は結構爽やかに、和やかに礼を執り、別れたつもりでいる。そして近隣のカフェで、暫時、休憩を入れ、喉の渇きを潤し、いつもの、スーパー専用の駐車場ではない、有料の駐車場へ向かっていた。概して、疲れている。いい
と……ふと、私が気づかぬうちに、左側を、一双の、
その女性は、やはり、見覚え床しい
やはりの、さっきのあの
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