潺湲たる街

 今年も、潺湲せんかんたる緑の慈雨に、鎌倉の街は、流されんとむせぶ時季にあった。しずかなる渦流の声に、街は柔らかな沈殿体質をさらし、流動体の移ろえる顔をして、自らを傍観するように潜まるばかりであった。意思のないふうで意思的な、こだわりを見せないこだわりが、性行淑均せいこうしゅくきんたる表情を嵌め込んで、他に流されずとも流れてゆくえにしを求めて、深く繋がらんとする心の弓が、常に満を引き張り詰めている。緑の大地も青き海原も、今こそがこれ以上のない、表面的な縁辺ふちべにある事を想起するのは、私だけであろうか。ごく最近になり、梅雨時の極楽寺を回想しようものなら、いつもこんな、雨音が、緑の囁きにざわめくらしい、絵の中の物語に聞こえてしまう。極楽寺川の内向きな水脈が、音無おとなし細小川ささらがわり集めたそうではぐれ、それぞれに大海へで注がん、その流路の短さをはかなむように、それだけに、いつも、時は今にある。今だから、言えるのだ。そう……言えるのだ、今だから、今こそ、全てを……。

 さて、殊にこの、黴雨つゆの頃であるが、海沿いの暮らしには、多少の難があるにはある。物が、やはり食品、金属製品が傷みやすい。たとえば煎餅などは、開封するなら食べ切る心づもりが要るし、安価な自転車は忽ちびを喚ぶ。その土地にはその土地なりの不都合があるもので、豊かな自然の恩寵篤い私達は、それらをも愛おしむように、むしろ誇らしいように、それぞれが森と海にいだかれつつ、日々息づいているのであった。

 今日も、早く使い切りたい、常温保存の野菜類を、ふんだんに取り入れた朝食を作り、ひとりで食事をした。私は、男としては、これでも結構忠実まめな方で、毎日の料理も苦にはならない。掃除や洗濯、買い物にしろ、一通りの家事は、むしろ気分転換には最も身近な作業であり、積極的でさえあった。身の回りから整える事の大切さは、少年時代、両親を初め、大人達に教えられたが、自分自身でもしっかり学んだつもりでいる。独身のおじさんは、やはり、小洒張こざっぱりとしていなくては、黙ってばかりでは、来るべきものも来ないような気がするのだ。

 そして、午後二時から、初めてのカウンセリングが控えていた。インターネットでの時間予約の第一希望が、そのまま通り、それを同意した私の返信により、正規のスケジュールとなっていた。私から求めたこの機会、多少の緊張がある。たとえば、あのビルの最上階全域を占める、施設内の環境であるとか、カウンセラーの方の目の配りであるとか、その全体の空気感であるとか、いつとはなく、イメージが先行しがちな、私の思考の道筋の端緒が、や開かれていた。


 ……エレベーターの扉がゆっくりひらき、三階であった。

 私より、少し歳上の四十代であろうか、如何にも優しげで健康的な女性がひとり、目の前で、にこやかに迎えてくれている御辞儀の深さに、私は吸い込まれた。サラリーマン時代の、スーツ姿の自分が、浮かび来た。挨拶という最初のかなめに臨む、かつての少年は、その女性の日常を畏怖する用意に、余念がなかった。鼻息が、収まりつつある。

「いらっしゃいませ。初めまして、ようこそお越し下さいました。私、当施設の産業カウンセラー、本日から担当させていただきます、桜井直さくらい なおと申します、今後とも、どうぞよろしくお願い致します」

 背中を立て終えつつあるいとまに挿んだ、その澄明な響きに、鎌倉らしさを覚えた私であった。

「初めまして、ハンドルネーム吉村陽彦と申します。本日はよろしくお願い致します……」

 私も、しっかりと腰を折った。

「ありがとうございます、承っております、こちらへ……」

 受付カウンターに独座する、若い女性も、水紋すいもんのような、一点の滑らかな笑顔を展げて、黙礼を重ねている。応える私にすれば、近頃、あまり笑っていない事に気づく。頬が罅割ひびわれそうで、照れてしまう。薄緑色のカーペットに、足蹠そくしょは甘くうずめられている。受付の背後を受け持って、鎌倉こころのパートナーとあらわした、膨よかな丸みの法人名ロゴをあしらった、アイボリーの壁面が、フロア全体に及ぶ、シンプルなオフィスの落ち着きを見せ、所々に加味された、室内樹木の目に満たされ、訪れるクライント達を、暖かな吐息で抱擁するかのように、出過ぎず、控えめな態度で、ひと息入れている。私は招かれるままに、彼女のやや後ろに従って、奥へ歩いた。その、半分ふり返りながらの、彼女の広い額の、水晶がちりを受けないような輝きは、尚も自然な安心へと導いてゆく、無理をしていない初対面の場へ、忽ちほどいてしまう人となりに、私を触れさせずには置かなかった。

 空室表示の出ている、カウンセリングルームに通されると、南向きの窓から、御成おなりトンネル方向の、山の濡れそぼる緑が、私の目を潤した。桜井さんがドアを閉める音は、壁がコンクリートである事をあらわしていたが、重たいその響きをすり抜けるように、アコースティックギターの優しいトーンが、耳に心地よく届いて来る。傘立てに傘を収め、六畳ほどの広さの部屋の、打って変わって、明るい木目調の内装に、私の目線は、や腰かけるのを待つかのようであった。

「どうぞ、おかけ下さい」

 南に正対する、茶色いキャンバス地の、ひとりがけのソファーを勧められた。

「失礼致します」

 ふたりの声が重なり、私は腰を下ろすと、桜井さんは、私の左側、西へ向いたソファーに座った。私が桜井さんを見る時、そして桜井さんが私を見る時、互いの視線は、テーブルの上を斜めに横切る事になった。

「音楽は、こんな感じでいいですか?」

「はい、ギター好きなんです」

「よかった! 空調はこれで……」

「はい」

「改めまして、本日はご利用いただきまして、誠にありがとうございます。私、桜井が、吉村さんを担当させていただく事になりましたので、少しでもお手伝い出来るよう、努めてまいりたいと想います。どうぞよろしくお願い致します」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」

 座礼が合わさった。桜井さんのナチュラルさが、嫌みのなさが、確かに押しつけではない事は、持って生まれたと想える、その風合いが語っていた。決して大きくはない、いつも笑っているかの、目頭まで下げた感のある目、小々波さざなみのような目が、静かに息をしていた。私はかつて、営業職にあったが、このような目をしている女性に、一度も出逢った経験がない。何がしかの意を含んでいたとしても、むしろ、あっけらかんとした潔さに、私は好感を持った。信頼に足る人に、なりそうな気がしていた。

「お飲みものは、何が……」

「では、冷たい緑茶を……」

 内線電話で、それを告げると……ドアをノックする音と共に、若い女性スタッフの、

「失礼致します」

「どうぞ」

 グラスを添えて、ペットボトル入りのお茶が運ばれて来た。桜井さんの、

「どうもありがとう」

 に、私は、笑顔の黙礼を添えた。

「吉村さん、暑かったでしょう、どうぞ。足りなかったら、遠慮しないで言って下さいね」

「すみません、いただきます……」

 女性ふたりにお礼を述べると、スタッフさんは、尚も笑顔を咲かせて、

「では、失礼致します」

 爽やかに退室した。

 私は、グラスにお茶を注ぎ、渇きを癒した。胃袋へ降りてゆく冷たい流れが、全身に回り出すような、清冽な安堵に、思考が俄かに転がり始めた。ふと、腕時計を見ると、二時十五分少し前、じょじょにある事を確認したのだが、これをとするのか、そうしようとしている自分に、無理がないのか、結局、些少の焦りを認めて、過剰になってゆく自分だけは、今日の所はけたい想いが巡るのであった。可及的冷静に、用意して来た現実の私の概要を、まずざっくりと伝えるべきと考えていた。桜井さんは、プロフェッショナル。全体像を掴みたいはずだ。それが見える事により、たとえば、逆方向からの視点、逆接的な、時に穿うがった道筋が、期待出来るかも知れない。順接ばかりに頼るのは、私にしてみれば、はなはだ面白くない事で、食傷気味である。画期的な何かを求めて、こうして来ているのだ。リスクは覚悟の上、私には、もう、失うものなどないのだから……。

 それにしても、街に出れば、いつも自然な笑顔がそばに溢れていた。偶然すれ違った人や、信号待ちで隣りにいた人、見かけた人はみな、派手に笑っている人もあれば、大抵の人は、笑う準備をしているような、綻びつつある顔をこらえている感じに見えるのだ。今日は車で来たのだが、対向車のドライバーも、不機嫌そうには見えなかった。私だけが、逃げ出したいような顔をしているのだろうと、以前から、不意に浮かんで来る事が、よくあった。きっと、そんな私に我れ関せずとばかりに、人々はただ、ゆくだけなのだろうと、立ち止まっている場合ではないのだろうと……。

 私の周囲で、すべてが動いている。かたちあるものは悉く、意思を宿すそのままに、生き生きと息吹いていた。確かに、なかんずく、盛んなる自然の燃焼には、生命体も存在する。森は雨に潤み、海は風に宥められ、そして街は、人は……そのありのままの、穏当な主張に調和して、街という、その人という、ひとつの個性を語っていると想えた。すべてはすべてへ委ね、すべてはすべてを受け容れる、語るまでもない互恵の意識が、優しい佇まいの、それこそをアイデンティティとする、鎌倉の人達の顔を作っていると、私は心得ていた。

 そして、私の前には、その、日常的な飾らない笑顔をけっぱなす、桜井さんの清艶な顔があった。女性とふたり、密室で談じている事実が、均されていた私のうらつつき始めた。久しぶりのこのシチュエーションに、浮ついて来た私を、先んじて制するように、流石さすがに、

「早速ですが、同意事項の方は、読んでいただきました?」

「えっ、ええ、サイトで……」

「そのように決めさせておりますので、それにのっとっていただきたく想います」

「わかりました」

「それでは……始めましょうか……大丈夫! 私だって、初日はやっぱり、引き締まりますもん」

「そうなんですか? そういうふうには……」

「いや、本当なんですよ。クライエント様にね、もっと、自分を好きになって欲しいから……」

 何げないようでこの人は、カウンセラーとしての最終目的、また存在理由を、無理なくちりばめているな、と、なだらかにされてゆく自分を、私は疑わなかった。彼女の導きが、その言葉を擁護するかのような相貌から、直線的に届いて来る。私を覆う硬いよろいひもは、自らひもとくべき段へと、いざなわれるのであった。男にはない、女性ならではの、肌理きめこまやかな手が、差しのべられているしあわせは、私という少年の隣りに、早々に寄り添いつつあった。こんな時を、きっと、探し続け、待っていたのだろうかと、素直になれた、信じられた、埋められてゆく気が、した……。

「ええと、まず……吉村さんが考えてらっしゃる、自分はこうしたいんだ! こうなりたいんだ! という、希望する所の自分の姿って、どんな感じですか?」

 幕は切って落とされた。これが、インテークというものであろうかと、私は自分の立場を確認した。

「はい。何事においても、頑張れる自分、積極的な心が欲しいです」

「ううん、わかりました! やっぱり……そこですよね。人って、確かに、それがすごく大切だから、みんなそうしたい、そうしている方も多いかと想う。でも、人は様々です。心は移ろいやすいもの。時に、たとえば何かのきっかけがあって、そうする事が難しくなってしまった人達だって、たくさんいらっしゃると想うの。静かに周りを眺めている自分を、半分我慢して、半分許している。我慢という頑張りと、許すという諦めにも似た想いが、その人のプラスへのきっかけというかな? 可能性を見逃してしまっているんじゃないかしら……。もう既に、その人は充分頑張っているの……耐えているの……だから、疲れもする、諦めたくもなる……。私は、その人のその気持ちが、わかるのね。相半ばする心に、揺れ続けて来た時間が、決め切れない想いが……弱い自分に対する怒りが、悲しみが……積もっている、抱え切れないぐらい……。それが、わかるんです……」

 まだ、始まったばかりなのに、私の頬は、涙が埋め尽くしていた。口の端から漏れそうな、震える小声を、私はただ押し殺すのが精一杯であった。用意していたハンカチを、握り締めていた。不規則な鼻息が、顔中をい回るような気に乗じて、寂しさが、部屋の隅々に散らばりゆくのを、私も、そして彼女も、今は静観するしかなく、悲しみという自由が、羽搏はばたくに任せる、私にとっては馴れ親しんだ想いが、おそらく初めて、他人ひとに認められた瞬間であった。私の感情は、社会性を帯びた経験の乏しい、秘するべき性質のものであると、長年にわたり縛りつけて来たよろいが、解かれたような、身軽な心地に目覚めつつあった。信頼が、根を張ろうとしていた。それはきっと、桜井さんにしろ、同じであろうと想いたかった。

「吉村さんは、カウンセリングも初めてでらっしゃいますが、メンタル関係の医療機関の、受診の経験はありますか?」

「一度もありません。薬も服用した事がありません」

「そうですか。私共のカウンセリングご利用中に、もしそのようになりました場合、必ずそちらを優先して下さい。お願い致します」

「承知しました」

「では、生育歴に関する質問です。子供の頃、吉村さんにとって、忘れられないショッキングな、気持ちを暗くしたような出来事って、あると想うんですね。今、想い返すと、また辛くなってしまって、それを引きずっている自分が、少年のままの心が、吉村さんの中で、もうひとりの自分として、今でも頑張っている、一生懸命耐えて踏ん張っている、かけ替えのない親友のような、存在があると想います。その頑張り屋さんの想いを、今、吉村さんが私に、ありのままの代弁をして欲しい。その子の健闘ぶりを聞かせて下さい」

「少し長くなりますけど……」

「はい、大丈夫ですよ……」

「あの……私は……自分で言うのもあれですが、恵まれた環境で育ちました。両親と妹、当時はおばあちゃんも元気で、五人仲よく、楽しく暮らしていました。共働きの忙しい両親に代わり、おばあちゃんが、兄妹きょうだいの面倒をよく見てくれていました。私は、おばあちゃん子だったんです。そんな、時に厳しく、優しいおばあちゃんが、三年生に進級する少し前かな、けがをして入院しました。家族はみんなとても心配して、毎日お見舞いに行った。気丈な人だから、すぐに元気になって退院したけど、それから……おばあちゃんの、病気との闘いが始まった。四年生の時に聞かされたけど、アルツハイマー病だったんです。賑やかな人だったから……だんだんと、身も心も閉ざしゆくかのような進行は、むしろ早いものだった。みんな悲しかった。でも、努めて明るくふる舞って、おばあちゃんを笑わせました。その笑顔が……今でも……忘れられない……。ある時、少年の私は、両手の甲が薬品で荒れて、あかぎれだらけのような、見るからに痛々しい手になってしまった事があった。おばあちゃんは、私のその両手を取って、どうしたの? って……既にその時は、あまり言葉を発せなくなっていて、私の目を見つめて、涙をぽろぽろこぼすんです……。私は、そんな、小さくなってしまったおばあちゃんが、かわいそうで、かわいそうで……我慢出来ずに泣いてしまった。すると、私を、家族をいつも見守っていた、その優しい目が、あの、忘れられない寂しい笑顔に浮かんで……『どうして泣いているの?……』って……。私は、大丈夫だよ、って答えるのが、やっとでした」

 桜井さんも、目が潤んでいるように見えたのは、私の気の所為せいだろうか、うつむき気味になり、テーブルの上に置いた、自分の手の甲をじっと見つめている。その左手の薬指の、結婚指環の輝きが、私には、熟れた自信のように、重たいまたたきに感じた。私の祖母への想いが、今も変わらず、命脈を繋いでいると確信し、コアの鳴動に接した、儀礼的な沈黙が、この空間に流れていた。そして更に、私の吐露すべき要件は、これだけにとどまらないのだった。こうなった以上、すべてを打ち明けたい想念が、私を押しまくっている。最早、私の中から、過剰という縛りが、消えつつあった。今はただ、それを隠しているだけである。

「そして……おばあちゃんは、六年生の三学期に、静かに亡くなりました。とてもきれいな、白い顔をして、柩に眠っていた。死出の供華が、ひときわ美しかった……。それから、話は変わりますが……以来、なぜか、私という人間全体的に、意欲が向上しない想いに、とらわれ出しました。折しも中学入学、勉強もスポーツも、恋愛にしたって、何をやっても面白くない。およそ思春期の少年らしくない、一見冷めているような態度に、甘んじている自分がいました。坦々とした道のりだけを好み、年齢相応の煩労を想い知る事も、集中という真剣、ひとつという本気を愛する事もなかった。でも、成績は上位にあり、大人達を心配させるような事もせず、いつとはなく、そんな自分に、合格点を与えていました。しかし、少年の私は、少年に過ぎない。これからが、答えを出さなければいけない。自己評価の合格点は、あくまで通過点という、幻だったのです。私は、それにこだわっていました。気がつけば、空虚な自分と出逢いました。先々の不安というよろいを纏い、その上それをも隠す、沈黙というよろいが必要になった。私の中の幻は、過去という、往ってしまった幻でした。私には、その慚愧ざんき、怖れ、主張する権利さえ失った、こだわりが遺りました。ただ、息を詰めるように、眺めているしかないのです。私の中の真実は、消えてしまったのです……」

「吉村さん……おっしゃって下さって、どうもありがとう。冷静に、自分を分析してらっしゃる。とてもいい事だと想う。光が、見えますよ。必ず、光は差し込む。あなたの中には、もうひとりの自分、少年の私がいて、彼は必死に生き抜いて来た。たとえ気力が萎えても、その時々で、一瞬一瞬で、本当の輝きに繋げ得る、小さな断片フラグメントちりばめていた、私はそう感じました。あなたの中に眠る、もうひとりの少年の声は、きっと、優しいおばあ樣の声と、重なっていた……。今後は、その少年とのつき合い方を、変える必要がある事も、併せてわかりました。大丈夫! もう少し、カウンセリングを継続する事により、吉村さんを、あなたが本意とする場所へ、私がお連れ致します」

 私は今、つい先日の、稲村の浜辺を想い出していた。今も、海は泣いていた。少年も、祖母も、泣いていた。みな、どうして、泣いているのだろう……私は今まで、何が出来ただろう……みんなに、何をしてあげただろう……もういない、少年と、祖母に、あの、想い出まみれの、稲村の岬の海に……。まだ、幻の中に、あった……夢の中に、あった……これから、何かをしなくては、いけなかった。

「桜井さん……」

「はい」

「私にも……光が見えますか?……」

「はい、はっきり!」

 彼女は、自信に満ちた笑顔を、光の束の暖かな投網のように、私に包みかけた。私の中に眠る少年の、切なる願い……こうして向かい合っている、現実の私こそ、それを知りつつも、野に放つ事さえ出来なかった、歯痒はがゆさの燃焼……。彼女の言葉は、無救済ではない祈りを込めるように、その清澄な可能性を響かせていた。私は、胸が熱くなってゆくばかりの想いを、こちらからも応えるように、彼女に投じた。

「それは、どういう?……」


「……創造という……」


 ……第一回目のカウンセリングも、かくして終了した。

 次回から、具体的な、心との対話をテーマに、引き続き、桜井さんのアドバイスを受ける事になった。その予約は、帰宅してから考えたい旨を伝え、会計も済ませ、私は結構爽やかに、和やかに礼を執り、別れたつもりでいる。そして近隣のカフェで、暫時、休憩を入れ、喉の渇きを潤し、いつもの、スーパー専用の駐車場ではない、有料の駐車場へ向かっていた。概して、疲れている。いい塩梅あんばいの、有酸素運動後のそれに似ていた。吐き出したかの、明瞭感が巡る希薄体のような自分に、気分がいい。梅雨の最中さなかの湿った風に、いつも低迷していたさっきまでの私が、雨の止み間を闊歩しつつあった。それ以上の風に、撫でられるままの街は、いつもの街であった。

 と……ふと、私が気づかぬうちに、左側を、一双の、つつがなくすくよかな目が、すれ違って去っていった。その後ろ姿の、はだける遺り香の、純熟匂わん人立つ静寂閑雅に、私は、仕向けられ傾きゆく、あの、今では隠逸放恣な幻……少年期から勝手に拵える癖の、甘過ぎる合格点の夢が、仄めくのを予感するのだった。されどそれは、確実に、現実感を伴った、社交的な互譲の心が垣間かいま見える、空隙くうげきを想わせ、私に、愚図つくいとまを与えなかった。鎌倉の、くゆつ肌合いに、触れたのかも知れないと、私というひとりの男は、己の微動する真っ芯を、肉体なる辺縁でしかない表情に、忍ばせていただろうか。名残惜しさを、切なさを、私は、知った。

 その女性は、やはり、見覚え床しいかすれゆく記憶を引き連れ、私から遠ざかっていった。やはり……偶然に過ぎなかったのだろう。私は、あまり深く、考えないようにした。車へ乗り込み、エンジンを始動させると、ゆっくりアクセルを踏み、帰路へ就いた。今日は、あの駅ナカショップへは立ち寄らない。立ち寄るべくもなかった。それでも、やはり考えてしまう自分を、遮れなかった。さして混雑もなく、数分足らずで、緑の山容が濃厚に滴って来た。今、極楽寺坂切通に差しかかっている。ルームミラーに、由比ヶ浜の青き炯眼けいがんたるが語り始めた。梅雨時の自然の息づかいが、車内から煮こぼれそうになりながら、登坂していった。

 やはりの、さっきのあのひと、高見さんが私の中におぼめいていた。彼女は、あれからどこへゆくのだろうか。そんな事を考えている、今日という道ゆきの私であった。


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