たまさかの……

 ある日、私は江ノ電に揺られていた。

 鎌倉行きの車内には、今日は傘を持つ人の姿はない。物柔らかな陽が、六月に入った由比ゆいガ浜の街並みを暖め、光の粒を車窓から散蒔ばらまくに応えた、旅人達の眼差しが、潤みの灯に尚も揺曳している。いびつな小石が転がるように、モーターはうなり、小幅に左右に振れる肩同士が、車中の人波の遠慮深い絆よろしく、他を想いやりつつ、緩やかな左カーブの区間に差しかかった。じきに、終点、鎌倉である。

 ホームへいざるように到着した。みな、そのままの流れに逆らわない足取りで、自動改札を通り、構内へ散らばってゆく。いつに変わらぬ観光地の駅ナカの賑わいが、雨の時季をも待ち切れない、好奇の満を持している。笑いさざめく人の群れに、今の私は、あった。こんな光景にも、想い出はすり寄って、私の中へ戻るのだ。その反芻はんすう作業が、神経をさして疲れさせない。ただ、黙って横目で受け流していれば、私は鎌倉人になれた。

 裏駅前の、小ぢんまりとした街頭空間にも、やはり、微温ぬるんだ光と風が立ち止まりつつあった。雨を想わせる湿って重たげな空気が、何かに屈するも、何かが圧を惜しまないような煌めきに揺れ、低層階のビルの横列を取りなしていた。客を乗せては発つ、黒塗りのタクシーの停車エリアををかすめ、私は、手にしたスマホの地図が示す通り、目当ての、その一棟のビルに辿り着いた。

 エレベーター横の案内表示板には、最上階の三階に、《NPO特定非営利活動法人 鎌倉こころのパートナー》とある。私は、ウェブサイト上の掲載事項、それを具現化している場所を、事実確認するに至った。

 私は、メンタル面のカウンセリングを受けてみたかった……。出来れば、人知れず、実際に心理カウンセラーの方との対面によって、私に巣食うコンプレックスを吐露し、ゆき先をひらく道標を見つけたい、きっかけを授けて欲しいと考えるようになったのだ。確かに、遅きに失する感は否めない。にもせよ、この閉塞的な心象世界に、一点の光、一局の風、一掬いっきくの微笑みが欲しい……。

 法人というからには、所轄庁への活動報告、情報開示義務も、高度にオープンなものを求められるはずで、そのプログラムも多く、社会的公益性にのっとり、信頼安心を得るに足る、法人格という団体での、責任管理組織である。私は、そこに委ねてみよう、その価値があると考え、満たされる何ものかを求めたのであった。わらにもすがるように、このサイトに釘付けになり、今、この場に立つ私は、かすな震えを溜め、見上げながら、深くひとつ、息を吐いた。そして、帰宅してからゆっくりと、その申し込みフォームに、必要事項を打ち込み、送信しようと想った。

 今日は、江ノ電を使って裏駅へ来たので、いつものスーパーには立ち寄らず、再び駅へ戻った。改札を入り、駅ナカの、かつての江ノ電名店街をリニューアルした、鎌倉名物勢揃いのショップを覗いてみた。本日もなかなかの熱気だ。懐かしの、シンプルな食べもののお土産店も幾つかあり、グッズも豊富に並び、小規模ながら、コンビニも併設されている。鎌倉のお土産は、ここで一通り買う事が出来る。

 私はその中の、鎌倉といえば昔からこれ、鳥のかたちをした焼き菓子で有名な、老舗和菓子店の出店でみせで、それを十五枚ほど選んで手に取り、レジの女性店員に渡した。

「ありがとうございます!」

 元気で丁寧な声が、私へ向けられるや、その感謝の表情の和らぎが、さっきから目線を落としていた、私のあごを支えるように、下からおもむろに、角度を持ち上げさせた。

 ああぁぁっ……

 私の、届かない心の声が、自分自身の中を駆け巡ってゆく……。そうするしかない、縛られ閉じ込められた、それにしても緩やかな驚きが、私を席巻するまで一瞬だった。真っ白なカッターシャツを、店舗名の意匠商標が胸に入った、濃紺のエプロンで包み、声すら失わせた、意外なその人の優しい囁きが、何かを救うかのように響いたのは、私の妄想に過ぎなかったのだろうか。お菓子を袋に入れる手元を、ただ祈るばかりの時間を、供された心地に微酔ほろよう自分がいた。私を操るかの、白く繊細な指先の旋律は、あの、岬の海を目前にしたたかぶりに似て、されど今は、それを知る由もない彼女の真摯な目と、知る故ある私の朧ろげな目の、共に知らぬ顔をして知っている素ぶりの、対向角度からの視線が交わる空間識に、このひとは、ますます余勢盛んなるも、私の茫洋とした風情に眠る、海の傀儡神かいらいしんへの畏怖を察するように、それこそ我がうちに秘めたるを気づいたように、相互に見つめる先のありようを、想いの至らざるはない瞳に、訴えかけていた。たまさかの、時のいざないという、境界に踏み入った途端、もう、何をする事も、私から消えていた。揃って笑顔のまま、ひとりの店員とひとりの客は、この場から切り取られ、浮かび漂っていった。秘して私は、渺茫びょうぼうたる海原が、想念の主役に就きたがっている幻を、疑うべくもなく許し、そして、信じた。

 高見さんの、あのお嬢さんが、目の前にいた……。

 彼女は、私の様子をいぶかる事もなく、淡々と仕事をこなし、会計業務を終えると、商品入りの、白い半透明の手げビニール袋を、私に手渡し、

「ありがとうございました!」

 初めて、目が合った。私も、別段、硬くなる訳でもなく、凝視する訳でもなく、自然に生まれた笑顔で応え、

「すみません、ありがとうございます……」

 たどたどしからず、滑らかに言葉が纏まった自分にも、ねぎらいを向けていた。彼女の目に宿る、融けかかっているような光が、次の客を待つ期待を語り、煌めきを店内中に飛ばしている。その想い、最早、私にはない事は、こちらもよくわかっている。一見いちげんの客に過ぎない、ここにとどまるべくもない、刹那の接点が、私を悲しませようとしていた。たった今、新たに出逢ったばかりなのに……。私の中で、彼女という存在は、始まったのだ。仄かな恋心を、私は、認めた。この年齢の気ずかしさは、確かに否めようもない。が、少年期からのあの想い、あれは……やはり、憧れという恋であった。仲のよい姉妹の愛が、時と共に今、眼前に顕現したと感じた。きっとあの頃のまま、息吹きを繫いで来たのだろうか。素直に、私も、想い出の詰まったあの家に、帰る事が出来る。事実、その家路の途上にあり、彼女の帰りが待ち遠しくもあった。今日の裏駅行きは、私に限りない充足をもたらし、よい夢が見られそうな気がしていた。

 梅雨入り間近の街への揺籃歌ようらんかを口ずさむ、江ノ電に乗り込んだ。名札に店長の文字がある、高見さんには、あの店で、逢える。

 

 ……その日の夜になってから、私は、例の、ウェブの申し込みフォームを開いた。壁かけ間接照明の常夜灯Veilleuseの、肌にもたれるような光暈こううんに触れながら、氏名住所の必須事項を漏れなく入力し、今一度、活動内容、つまり提供出来るサービスの詳細を確認した。五十分ごじゅっぷん三千五百円の、対面カウンセリングの外、SNSを使っての相談対応や、カウンセリング来訪者のうち、希望する人に限り、気軽に出入りが可能な、利用者の為の談話室が設置されている、とある。そして、自分の名前等、個人情報を話したがらない傾向を考慮して、予め登録した、ハンドルネームを名乗る事も許されていた。私は、その空枠にカーソルを合わせ、縁遠い知人の名前、吉村陽彦よしむらはるひこと打ち込んだ。私は、当該施設では、吉村になるのだろう。

 それでも、私という人間は、私というひとりだけである。高見さんにも、それを知ってもらうには……。

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