出逢い

 今日は、朝から雨が降っている。この窓枠一眸いちぼうの奥ゆきを成す、稲村の海も、空遠たる雨雲色と同化して、青い囁きを消去している。緑の雨靄あまもやに包まれ、極楽寺の一日は、雨の音だけがしずかに響いていた。ほんの少し、雨空を眺めれば、いつも背景は濡れそぼる濃緑。雨のすじがよく見える。雨粒が大きく感じる。そんな降りざまに、街はひたすら大人しがるようであった。

 この辺りは海洋性気候で、同市北部、大船おおふな周辺の内陸性の気候とは、若干の違いが見られる。たとえば、大船のみぞれは、極楽寺では雨に変わったりする。ジェイアール横須賀線に乗っていると、大船から次の北鎌倉かんで、景色は一変する。山合いの清爽な暖気を感じられ、更にトンネルを抜けて、次の鎌倉に至れば、海辺の暖気の重たさを覚える。段々と、湿度が上昇してゆくのがわかる。それもまた、湘南鎌倉を訪れる観光客達の、ひとつの旅の楽しみ方とも言えた。鎌倉は、とにかく、暑い、眩しい、そして雨。私の想い出は、この三つにかかわる内容で、そのほとんどを占めていた。

 傘を差して庭へ出てみた。暖かな雨の糸に操られるように、ゆっくり芝生を踏んだ。私の吐息も、巡らす視線も、忽ち一面の雨簾あめすだれに吸い込まれてゆく。海は見えない。向かいの山畔やまくろを縫い合わせて北へ走る、江ノ電の緑色の車体が、濡れるを愉しむ小声の警笛を発して、山なかへ紛れた。梅雨も近い。雨本番の季節を前に、鎌倉は一途に密やかに燃え、構えに余念がなさそうであった。

 私は目線を下げると、我が家のほぼ真下に建つ、つづら折りの坂沿いのひとつ手前の家の前庭で、私と同じように、傘の中から見渡しているとおぼしき、ひとりの隣人に目が留まった。そういえば確か……この家は、高見たかみという一家が住んでいるはずである。私の記憶は、おもむろに後ろ歩きし出した。定住ひと月の間に、様々な回想が現実と繋がっている。稲村の海は、その中の大きさなひとつには違いない。

 私の市川の実家の両親と、同年代の夫婦と、やはり私と年齢のそう変わらない姉妹の、四人家族が、南向きのその庭で、仲よく楽しそうに食事を摂っていたり、ペットの柴犬しばいぬと遊んでいたり、別荘を訪れるたび、当時の少年の私は、我が家とだぶるしあわせを、微笑ましく眺めていた。岬にある稲村ヶ崎公園でも、四人揃ってだったり、姉妹であったり、何回か、犬を連れて散歩する姿を覚えている。私達は、たまにやって来る住人であり、付き合いはない。坂沿いに数軒建っている、高見家までの家の、ゴミ集積スペースは、上がり口すぐの箇所にあり、それぞれの家の人達は、個人的な用向き以外に、自宅より上へ坂道を登る事は、あまりないと私は想っていた。私のゴミ出しは、更に少し上がった所にあり、同じ坂道でも、それより上へは一度も行った経験がない。急坂生活者同士の交流は、ささやかに行われているようであった。

 その紺色の傘の花が、私の目のほとりに宿って、動かなかった。揺れようともせず、一点の雨の山里の風景画の中へ、私の興趣は赴かざるを得ない何かが、この雨を鬱陶しがっていた。昔から、私は雨が好きだ。殊に鎌倉の雨の静寂は、私の悉くをなだらかにしっとりと納める。梅雨時の極楽寺を想像するだけで、想念は一旦立ち止まり、せっかく来た道を戻る事も辞さない、むしろ何度も往き来して味わいたい旅情を、約二十年振りに想い出していた。少年期にかれた牴牾もどかしい種が、今こうして、芽生えの時を知るように、この時だけ、雨をうとんじていた。

「誰だろう?……」

 私は、傘のその人を知りたくなっていた。もう、傘を持つ手も多少だるさが来ている。ひと月前から何回かは、この庭で高見家の人の姿は見かけてはいたが、それでも既に短くはない時間、雨の中で立ち尽くしていては、五月とはいえ体が冷える。見た所、レインコートを着ているふうでもない。もし、あの夫婦の何れかなら、時に年齢は、殊更のように肉体の影を語り出す。失礼ながら見下ろす私は、お節介にも心配になって来た。

 そして、私の家より高度はない分、眺望は限られるであろう、にもせよ高見家最高の開放指定席に佇むその人が、家の中からの声に応えるように、微笑みながら私の方へも屋根越しに、翆黛すいたいの如き涼しい目元で振り向いた。

「あっ、あのひと……」

 私の隣人への心配は、一瞬にして、私のよろいを剥がさんばかりの、少年の私を満たさんばかりの、懐かしく融け流れ出す灯が、点り展がってゆく……。

 先日、初めての岬からの帰り道、駅方向の森の隆盛を引き連れ、緑の噴水のような、されど暖かな対流に乗ったあの女性が、大人に成長した、高見家のあの姉妹と重なるまで、時間を要しなかった。姉か妹か、どちらかはわからない。その熱伝導、拡散は、私の中の二十年という歳月を沸騰させ、図らずも回答を見せらた感覚が、私を黙らせた。私の中の少年は、岬の海のように、最早ここでも、現実路線を歩まざるを得ない時が、緩やかな凪のおもての下で、澎湃ほうはいたる内懐を隠しつつ、渺茫びょうぼうとした全体の営みに投じるべき事を、私に教えているように感じた。

 この雨が、あのひとを連れて来たのだろうか……。私は、雨を愛おしむ自分に立ち返った。あどけない少女が、今、鎌倉の潤うばかりの鮮緑のような、美しい大人の女性となって、手を延ばせば届きそうな、それでも延ばし切れない、歯痒はがゆい微妙な間合いを隔てて、再び、私の目の前に現れていた。私は、戻るばかりの自分と、新たに往き過ぎてゆく自分との、距離がもたらした空白にさいなまれ、更なる韜晦とうかいの道ゆきを辿った先のこの家に、あのひとは、確かに流れに滞潮よどみを作った。私の眼下から、足下から、知りつつも手をこまねくだけの男の空白を、現実という人間の生命力をして、き止めようとしていた。私の懊悩には、どうにもならない自分との距離感がある。それを埋めたくもあり、その術を頭ではわかってもいる。現実的な行動が、私の内的世界をひとつに纏め得る事も、そこには肉感溢れる、人間の体温がほとばしっている事も……。

 きっと、私の記憶などないだろう。実際に会話を交わした事もなければ、顔すらわからないだろう。毎年の夏と年末年始に、坂のひとつ上の家の明かりが、夜になると灯る事ぐらいしか、印象に遺っていないだろうと想えた。私の家族は高見家を屋根ごと見下ろし、先方は見上げる事もないはずだ。双方が庭へ出ていても、こみらを見ているような風情さえなかった。私達はしあわせ振りを眺めるだけの、天鵞絨びろうどの山の背景の点描に過ぎないのであった。

 少年と女性はうに出逢い、その大人の女の匂やかで清適な色香の導くままに、ふたりして、私のこだわりという、あの岩塊のような心を、つつき出したようだ。私に女性を想う資格など、あるのだろうか……。幻の合格点に自惚れ、答えを出せずじまいの私に、何が出来るだろうか。主張する権利も、今や幻のように私から遠ざかって久しい。漠然とした憧れだけで、通り過ぎてゆくだけの気もする。思春期の少年のじらいのように。

 ……彼女は、家の中へ消えた。がらんとしたその庭の芝生には、所々水溜まりが浮かび、人跡を拒むかのように、雨の糸さえ、ギターの弦の強い意思を想わせる降り方に変わった。自然の奏でるその和音に合わせる、街の佇まいが、や梅雨の先触れたる振る舞いを厭わぬ、良順な鎌倉の顔をかたどっていた。それを踏襲するように、私もまた、彼女を、黙って眺める事にした。それにしても、姉妹のもうひとりは、どうしたのだろうか……。今は、雨のいざないのままに、したかった。

 私も屋内に戻り、ソファーのテーブルに置いてある、ノートパソコンを起動させた。最近、気になるサイトを見つけている。初めてアクセスした時、その団体の所在地は、鎌倉裏駅近くとあり、申し込む前に確認の意味で、一度、場所だけでも下見に行きたいと考えていた。私も、行動せねばならない。やはり、世間の目が、怖い。そして、もう若さという拠り所にも、限界を感じていた。どうにかしたい焦りは、梅雨の走りものの雨声うせいに触れ、私の種子は、隠しつつも牴牾もどかしく兆そうとしていた。

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