岬への坂道の家
小乃木慶紀
再会
鎌倉
この別荘に住んで、まだ、ひと月も経っていない。
千葉県の
三十代半ば、独身の私。邸内の疎らな空気が、少年時代の想い出と連れ立ち、悉くを宥めていた。常に淡々としているそれは、たとえ窓を開け放っても、壁を引っ掻くように雪崩れ込む、強かな風は稀で、あまり動こうとしない。仄かに揺られる感触が、尚も私を落ち着かせている。安心という言葉が、主張せずとも、懐へ入って来た。ならば、速やかに許す事に、異論はなかった。外を眺めれば、自然に頷いてしまう、懐かしい私がいた。そんな日常に、馴染んでいった。
静かに読書をしている時でも、深緑のうねりは、私の
山腹の中ほどに建つこの家は、さして立派な造りではない。急峻な坂道をくねり登る、一時の辛抱から、解放されたように展がる遠望は、予断を与えなかった。訪れるすべての人は、何もかも奪われてしまう。しばし歩を止め、遥かな眼差しを憚らず、その濃潤な相形を湛えたまま、降参の意思表示のインターホンをようやく押す。この家への坂道は、岬の海へのアプローチ。私の家には、岬という仮想世界があった。話題を惜しまない、自然に
滴り落ちるばかりの濃緑の圧搾が、家の背中に回り込み、延々と横たわっていたが、すぐ向かいの山容もまた、等しく彩られぬはずもなく、本来、山とは呼び難い、それでも山ほどの丘陵が
やっと届いた岬の海は、ここからは、あまりにも小さい。岬の佇まいは見えない。限られた、山と空の額縁に納まりを付けてはいた。が、少年期からの私の知り得るその海は、制約からはみ出し、岬へ向かう一本道をゆけば、私の中で自然に、玲瓏な歌唱を伴う旋律が流れる。春は
今もこうして、その海を眺めている。
窮屈な鉛のヘルメットをかぶったような、後頭部が筋張るような
私は、疲れていたのだ。この心と体で、時計の針を規則正しく進行させる作業に、疲れてしまった。もっと早く、策を講じるべきだった。それが無念を膨らませている、そんな自分に気づかせてくれた、上司のその言葉が、私の抵抗を収めた。しかし、現在も専門医の診療には至っていない。そして考えあぐね、寄る
私のその海は、私の命じるままに、それでも私を欺くように、その源流を想像する私を拒んでいた。人間の束縛を呑み込み、孤立を怖れぬ自由の思想潮流は、果たして、どこからやって来て、そして、どこへゆくのだろうか……。
風の噂に、海岸は、近年
海辺の街には、湿った重たい風が流れ込み、緑は燃え、プラチナの屏風を建てたような陽光に尚、地上は光と熱を蓄えていた。今はまだ、黙って大人しくしているだけに過ぎない、反射光の渦流の目が、私を眺めている。潤みゆくばかりの世界が、私を抱擁する。ふと、耳の奥で
翌日の午前、私は、
その……今さっき、左へ折れてこの道へ出た時の逆、右へ曲がった先、江ノ電極楽寺駅前を経た果てに佇む、極楽寺坂
その、鎌倉らしさを
ひたすら南へゆくだけであった。すぐ右側で南北に走る、江ノ電極楽寺車庫のレールの縦列帯にも、ライントレーサーのような、私の目線は導かれ、その思考回路は、早々に海岸志向にシフトし始めたようだ。駅とは反対方向に、目的を置いた事はあまりなく、極楽寺以西の江ノ電利用もそれに等しい。私は、海を
何事も、眺めているだけで、よかった。たとえ、あの海岸が変わってしまっても、変わり果ててしまっても、私は、何が出来よう。私には、この手をさしのべる、この手で変えられる、この手で出来る、何があるのだろう、何が、あるのだろうか……何が、あの日の海と、今の海に……。何かが、きっと何かが、ある。私の中で、眠っている。しかし、もし、それに希望が見えなかったとしたら、私は、どうするだろう。でも、こうして鎌倉に来た以上、今まで、私は、何を、何を……。
私の右頬を、後方から江ノ電500形の二両編成が
不意に……あの、懐かしい旋律が、私という扉を叩いた。
それは、あの時と同じ……
Y字分岐を左へ折れ、と共にふたつ目の踏切を通り越した。鳴り止まぬだろう誰とも付かぬ、語るような歌唱に、触れた。
私は……逃れるまでもなく、逃れるべくもなく、何かを追い駆けるべくもなく、いうまでもなく、今、ここへ来たのだ。私の中の過去と現在が、それぞれに沸騰し、手を延ばし、岩塊を掴もうとしている。私は、どうすればいいのだろう。このまま、あるがまま、誘われるまま、
歩を踏み出すほどに、潮はざわめき辺りを閉ざし、その粒子匂い蒸れ立つ、一団の微熱風となって圧するも、私という存在は、その空気の壁にのめり込むように、丸ごと吸い込まれた。両の通り沿いの家並みが、押し
国道百三十四号海岸通り、稲村ヶ崎駅入口信号、一本道の南端、終着であった。
尚も、
私の目は、
あの日の海と、そして、今の海が、出逢った。
涙のプリズムに、世界のすべてが、映っている。
海上
箱根連山の稜線を透し彫り、富士山が西空を駆ける。
そして、東方、稲村ヶ崎の浜辺は……
私の中で、悉くを巻き込みながら、何かが、壊れてゆく。されど、光は、逆らうようにこぼれて、それでも、消えつつあった。
風は、濡れて、止まりつつある。
潮の香が、途切れない。
私は、ひとり立ち尽くし、潮騒を聞いていた。心ゆくまで、今の私を味わい、これからの私を、読もうとしていた。正に今、
今は、誰もいない。
私は、護岸を降り、砂浜へ出た。忘れかけていた、稲村の浜の黒い砂の、
そして今……私の足下は波打ち際にある。黒い鏡面への浸潤を連鎖する、波の一線の最高到達点が、護岸をも洗わん、更に隠さんばかりの余勢に尚、滑らかに黒く潤んでいる。その、意志的な黒い瞳が涙ぐむような、営みの前に、私の足下も、体も、体の芯も、悉くの想いまでも、今は差し出すように、過ぎゆくまま、呑まれつつあった。
稲村ヶ崎の、
ただ、悔しかった……悔しかった。どうして私は頑張れないんだ! 頑張りたいんだ!……心の中で叫んでいた。無邪気に笑っている少年の私が、もうひとりの私に問いかける。
『どうして泣いているの?……』
もう、涙を止められない、どうする事も出来ない、彼の笑顔が……笑顔が……ただ……。私は、自分のこだわりという、一点からしか、自分を見る事が出来なかった。試験の答案用紙は、名前を書き落としたり、提出リミットを超過すれば、たとえ合格点の出来でも、それは無効となる。私は、その幻の合格点という罠に嵌まり、失敗を怖れる無難な道ゆきに偏り過ぎ、
そして私は、ようやく涙を収めた、その時の長さを知る事もなく、家路に就いた。多少の空腹感があった。一本道をゆっくり戻っていると、今日は人影がない。駅の利用客も、一日で最も空疎な時間帯ではある。しかしながら、辺りを流覧しつつ
「誰だっけ……」
私は、小さく回想を
その女性の後ろの果てには、禅の街、鎌倉たる、一期一会の気が満ち、
私は、坂に消えた。
質実剛健の、鎌倉である。
……今日という日は、
そして、この
きっと、私を語ったのだろう。それでも、風は
私の中のもうひとりの私。私という、少年との再会は、ただ、切ない。
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