唇にMy Darlingをのせて
三津凛
第1話
街がDing-Dong遠去かっていく。
あとひとは気がつく頃かしら。
私は一人でシガレットも酒も飲める。キッチンや子守にしか居場所を見出せない女とは違う。
列車は愚鈍な雄牛のように、私を運んでいく。車や人波が遠去かる。
それと一緒に、あの紅い伝言も、不実なあのひとも遠去かっていく。
そうやって、黄昏が近づいて来る。
今夜は独りきりで私は寝るわ。
ホテルの真っ白なシーツ。何も言わなくても、魔法のように差し出される朝食。焼きたてのパンとバター。銀色のスプーンにシワのないナプキン。
独りきりの寝床がDing-Dong近づいてくるわ。
あのひとは慌ててるかしら。
私は唇が寂しく鳴くのを想った。早くシガレットを挟んでやらないと、本当に泣いてしまう。
それでもあのひとが心を改めない限り、私はあのひとの中には帰らない。
列車を降りると黄昏にぶつかる。彼らは挨拶もしてくれない。
だから嫌いなの。
そうして私は独りきりの寝床を探す。
私はシガレットを挟みながら思案する。
あのひとのママに叱ってもらうのもいいわ。
明日の朝にでも、叱ってもらおうかしら。
どのホテルも余所者の顔をしている。私はあのひとと、それから自分と、その間の紅い伝言を想った。
心を改めない限り、私はあのひとの中へは帰らない。
私の元にDing-Dong独りきりの寝床が近づいてくるわ。
「あら、ミス・スーザンじゃないの」
シガレットの灰が落ちる。点けられたばかりの瓦斯灯にちょっとそれが輝いて、銀粉みたいに見える。
こんな時にケイシーに会うなんて、思わないじゃないの。
「どうなさったの」
「今日は独りなの」
私はケイシーと向き合って唇を開く。
「今日は?」
ケイシーは知らないふりをして聞く。
意地汚い猫だ。不実な女だ。私は薄闇の中に、行き場のない煙を吐いてみせる。
あのひとと、ケイシーはイイ仲なのよ。私に紅い伝言を書かせた女と会わせるなんて、神様は随分と歪んでるんだわ。
「ふふ、Darlingはそれで良かったの?」
あなたのDarlingじゃないわ。
不実の種から私は身をよじる。
ただでは起きてやるまい、と私は誓う。
キッチンや子守だけが生きがいの女とは違うの。シガレットも酒も一人で飲める。独りきりの寝床だって、怖くはないわ。
「私ね、バスルームにあのひと宛の伝言を残してきたの。だからいいの」
「ノープロブレム?」
「えぇ、そうよ」
私は指の間に挟んだシガレットの頼りない細さを眺める。ケイシーは私を不躾なほどじろじろと見つめる。
私は無視した。私の中に、ケイシー嬢はもういなかった。
「ねぇ、ミス・スーザン……」
ケイシーの声をかわして、私は鉄球を投げつけてやる。
「Have a good night」
またケイシーとあのひとは一緒に会うのかしら。
Ding-Dong独りきりの寝床が近づいてくる。
今夜私は独りきりで寝るのだわ。
シガレットは捨てた。
バスルームの鏡を眺めると、あのひとに当てた伝言が蘇ってくる。
糊のきいたシーツは医師の白衣みたいで味気なく硬い。
ホテルは余所行きの顔をしている。
あのひとは今ごろどうしているかしら。
知らない街で、知らないホテルで、知らない夜を過ごす私も、多分知らない私なのだ。
湖面のようなバスルームの鏡が私を覗いている。どんな人の視線よりも、鏡の向こうから同じ視線で覗き返してくる自分の視線が一番怖いわ。
私は我慢ができなくて、外に飛び出した。
瓦斯灯の橙色が、縞模様を作る。
私はあてもなくそのトンネルを潜っていく。私の中にも縞ができる。
ねぇ、とっても綺麗だって思わない。
独りきりで、私は街の中を歩き続ける。
あのひとはどうしてるかしら。
私の友達に手当たり次第に尋ねてる頃かしら。
心を改めない限り、ケイシーを心から叩き出さない限り、あの人の中へは帰らないわ。
私の鞄の中は口紅だけが欠けている。
あのひとはそれをどう思うのかしら。
こうして、Ding-Dong独りきりの真夜中が近づいてくるわ…。
ホテルのフロントに、真新しい口紅が届いていた。
「……誰が、これを持って来たのかしら」
ボーイは困ったように微笑んだ。
「お名前は仰りませんでした、でも…」
微かに香水の残る紙片を彼は差し出した。そこにはあのひとの伝言があった。
どうして私の居場所が分かったのかしら。
「ねぇ、口紅を持って来たひとは栗色の髪の毛でスーツを着てた?」
「えぇ…」
ボーイは目を剥く。
「知り合いの方ですか?」
あのひとよ。私はリボンの結ばれた真新しい口紅を眺める。
「ふふ、そんなとこ」
ボーイは微笑む。
「馬鹿なMy Darlingね」
彼に聞こえないくらいの声で、私は呟いた。
橙色の瓦斯灯の向こう側にあのひとがいる。見慣れたスーツを着て、私を待っている。
「スーザン、ごめんね。……でも、誤解なの」
彼女のスーツはとても官能的なの。
ネコのケイシーがなびくのも仕方ないって思えるわ。
私はもう半分赦しているもの。
目ざとく、ケイシーは私がこのホテルに入っていくのをどこかで見ていたに違いないわ。
私はシガレットを取り出す。
「明日の朝、あなたのママに叱ってもらうわ」
「それは勘弁してよ、スーザン」
くしゃっと笑って、彼女は栗色の髪の毛を乱暴に掻き毟る。
「お気に入りの口紅、ダメにさせちゃってごめんね。私、あなたが一番好きだよ」
「馬鹿なひとね、あなたって」
彼女は何も言わずに笑った。
惚れた方の負けなのよ。私は今夜独りきりで寝れるのかしら。
私は手の中の真新しい口紅を眺めた。
「ねぇスーザン、許してくれるかしら?」
彼女が猫のように擦り寄る。
微妙にいつもと違う香りを纏っている。ケイシーのとも違う気がした。
そして、憎たらしいことに私が伝言を残すためにダメにした口紅を唇に差していた。
どうやって、あの潰れた口紅で塗ったのかしら。
「そうね」
彼女が顔を上げた。
私は彼女の肩を突き返して、踵を返す。
「この街で一番高い口紅を買ってくれたら、許してあげてもいいわ」
「分かったわ」
彼女はすぐにでも駆け出しそうだった。私はその頰に投げつけてやる。
「馬鹿なMy Darlingよね」
彼女はまた頭を掻いた。
「私はDarlingなの?ふふ、別にいいけど」
そうして、彼女は駆け出して行った。
女に弱い、馬鹿なMy Darling。
Ding-Dong遠去かっていくわ。
でもやっぱり、今夜は独りきりで寝てみるわ。この街で一番高い口紅と一緒に。
あのひとは自分が口紅に負ける未来をまだ知らないわ。
唇にMy Darlingをのせて 三津凛 @mitsurin12
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