Mångata-モーンガータ

三津凛

第1話

※Mångata(モーンガータ):スウェーデン語で、「水面に写った月の光が道のように反射している様子」という意味。


自然は去勢させられている。

掃き固められた雪は、行き場のない自然の孤独を見るようだった。

階段の隅やアスファルトの日陰にじゅくじゅくといつまでも残る様は、まるで勢いを失っている。

それは去勢させられた自然がたむろしているように見えた。

足元の残雪を避けながら、そんなことを哀しく思ってみる。

都会の雪は短い。文明は強いようで、弱い。

手袋を忘れたことを後悔しながら、私は駅の改札へ急ぐ。別に急ぐ必要もないのに電光掲示板の行き先と発着時間の点滅が、不思議と背中を押させる。

すれ違う人の顔はみんな乾燥している。分厚く毛羽立ったコートだけが暖かく膨らむようだった。

ふと切符売り機の列に目をやると、同じように紺色の背中を見つけた。頭には同じ紺色のベレー帽まできちんと被っている。

私たちはこの野暮ったい、手塚治虫を思わせるベレー帽が嫌いだった。だからみんな校門を出た途端に、ベレー帽は鞄の中に押し込んでしまう。私の頭も、風の中に曝されている。

顔を見なくても分かる。背中だけでも海の向こうが透けて見える。


「…アンネリエ、グッドイブニング」

アンネリエは心底驚いたように振り返る。

「あ、…は、はやしさん…こんばんわ」

たどたどしい日本語でアンネリエが応える。私は微妙に笑って、聞いてみる。

「何してるの?切符買えないの?」

「あ……はい」

アンネリエはちょっと安堵したように私を見る。

高い鼻先がまるで刃のように向けられているようで、少しだけ緊張する。野暮ったいベレー帽がアンネリエの頭の上に収まっている。なんとなく、それがシックな佇まいを醸しているようで私は不思議な気持ちになる。

「…どこに行きたいの?……でも、あんまり遅くなっちゃうとホストファミリーに怒られない?」

私は極力ゆっくりと言った。普段適当に流している母語を、ことさら丁寧に発音することは微妙な違和感がある。

「そんなに…遠くには、行きません」

「…そう」

「……ひとつの前の、スティションで帰りたい、です」

私はバラバラに並べられた単語を必死になって組み合わせようとする。

「……ひと駅前で降りて、帰りたいの?」

「そうです」

「……どうして?」

アンネリエは意味が通じて、顔を綻ばせた。

「モーンガータ」

「え?」

私は意味が分からず、誤魔化すように笑った。アンネリエは私の手を握って、トゥギャザーしませんか、と呟いた。

モーンガータ、モーンガータ、とアンネリエは楽しそうに繰り返す。馴染みのない音が、寒さで切れそうになる耳たぶを撫でる。それは帰った時に全く見知らぬ人が居間にいた時のような気恥ずかしさを、私の中に落とす。

私は黙って駅名の連なる路線図を眺めた。アンネリエのホームステイ先は同じクラスの安田の家だ。安田はどうして一緒に帰ってやらなかったのだろう、と私は思う。

安田の家の最寄り駅は知っている。私はすぐにアンネリエに降りるべき駅を教えてやる。

「アリガト」

まるで外国語のように、私の国の言葉が響く。それが妙にくすぐったい。

「……はやし、さん、トゥギャザーしませんか?」

「うん」

アンネリエは鼻唄を歌いながら硬貨を取り出す。私が値段を英語で教えると、アンネリエはすかさず頭の中の外国語を辿る。

ご、ひゃく、よんじゅう、いぇん、と呟く。

その熱心な日本語の羅列が私を嬉しくさせた。

「モーンガータ、ってなに?」

アンネリエは手の中の百円玉を私の目の前に突き出す。

「……道、みたいな月の、光のことです」

私は未成熟な日本語から、月明りを想像しようとしてみる。アンネリエの指の中の百円玉は傷だらけの銀色を晒していた。


流暢な言葉を持たない時こそ、本当の顔をお互いに突き合わせているように感じる。それはどこか、裸を見せ合うような気恥ずかしさと似ている。

「にほんご、難しい?」

私はなるべく、電車の唸り声に負けないように言う。

「難しい、でも好き、ですよ」

一つ一つを区切る音が、そのままアンネリエの生真面目さに繋がるようだった。私はアンネリエの国を思い浮かべてみる。

「スウェーデンの雪は、綺麗?」

アンネリエは瞳を巡らせる。私はまだ行ったこともない海の向こう側に思いを馳せる。

「はい、とっても…はやしさんは、他の国行ったこと、ある、ありますか?」

「ないの。パスポートも持ってない。アンネリエは?」

アンネリエは今ひとつ、分からない顔をした。私は滞留する意思の流れに、緊張する。

「ハウ、アバウチュウ?」

アンネリエは風船が割れたような顔をする。ふきだしをつけるなら、「あぁ!」となりそうだった。

「…ジャーマンに、行ったことあります」

ジャーマン。ドイツにアンネリエは行ったことがあるのだ。

同い年で広い世界を知っているアンネリエを、私は羨ましく思った。私の小ささは身長だけではないだろう。

それと同じように、アンネリエの背の高さは民族に由来するものではないのだ。

「…大きな川を、ここから、見た、です」

アンネリエは電車の窓から流れていく景色を見つめる。蒼い瞳は異国の姿をどうやって切り取っているのだろう。

「日本の、モーンガータ、見れると嬉しいです」

私も頷いた。


自然は去勢されている。

アンネリエが目をつけた川はタールのように滞って、月の光を導いてはくれなかった。

アンネリエは泣きだす前のような瞳をした。私はふと、駅前で掃き固められていた雪を思い出す。モーンガータはここにはない。

「……アンネリエ、残念だったね」

はい、とアンネリエは聞こえるか聞こえないかの音で返した。

「でも、今日の月は綺麗に見える」

私は混じり気なしの本気で言った。

「スウェーデンではモーンガータ、綺麗に見える?」

「はい」

アンネリエはやっと笑った。

同じ月でも、海の向こう側と東洋の端では全く違う顔を見せる。どちらが本物なのだろうと私は不思議に思った。

「帰ろう、アンネリエ」

名残惜しそうに、アンネリエはいつまでもフェンス越しに川の流れを見つめている。その背中が妙に子どもっぽくて、そこでようやくこの子も私と同い年であることが迫ってきた。

たった一人で異国に留学しに来た巨大な勇気の収まる背中は、モーンガータよりも美しいだろうと思った。

「…帰り、ます」

「大丈夫?」

「はい、やすださんのお家、分かりますよ」

私は頷いて笑って見せた。

「あなたとお話し、できて嬉しいです」

まっすぐ見下ろされて私は戸惑う。粗削りな言葉の方が胸に刺さる。子どもの拙い言葉に真を突かれるのと同じだ。

様々な日本語が浮かんで消えた。

「私も、嬉しいよ」

「学校でも、お話し、しましょうね」

うん、と私は川を眺めながら言った。

「モーンガータ、絶対に、日本で見たいです」

アンネリエは見えない神に誓いを立てるように言う。私はその横顔に初めてヨーロッパを垣間見た。


モーンガータは私の国ではどこで見ることができるのだろう。

本当は私が知らないだけで、モーンガータはあるのかもしれない。

ふと白いものが落ちてくる。また雪が降り始めたようだった。

アンネリエは掌を皿のようにして、そのひと粒ひと粒を受け止める。

「雪、ですね」

視線がぶつかると、にっこり笑う。

とめどなく流れる涙のように、雪が降りてくる。

しばらく眺めていると、アンネリエの紺色のベレー帽に雪がそのまま残っているのを見つけた。雪深い国から来た人であることを、空は知っていたのだろうか。

私は掃き固められた雪を思った。そこに佇む去勢された自然を思った。

「日本は、美しい、ですね」

アンネリエが不意に呟く。

なんでもない道と川の傍らで、取り繕うことなく発せられた音は滑らかではなかった。

でも、そうだから美しいと思った。

「モーンガータ」

どこまでいっても、それはカタカナの音を纏っている。

アンネリエはくすぐったそうに笑う。

その笑い声は揺らめいて、掌に乗せた途端に消える雪に似ている。

川は月明かりを道のようには映してくれない。ただ雪だけが静かに揺らめいて、川面に落ちていった。


見つけなければ、と思った。

どこの国にもない、私の国のモーンガータを。

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Mångata-モーンガータ 三津凛 @mitsurin12

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