全知全能の神かもしれない

寝る犬

全知全能の神かもしれない

 ある晴れた日に、花見客で賑わう上野公園で、みすぼらしい服を着たひげ面の男が突然大声を出した。


「聞け! 私こそは全知全能の神である!」


 男は自分に寄進するようにと叫び、周囲の人々を睥睨へいげいする。

 大多数の人たちは興味無さそうに立ち去って行ったが、いい具合に酒も入っている数人の通行人たちは、暇つぶしがてらその男に近づいた。


「全知全能ってことは、俺が今から質問する内容も知ってるんだろうな?」


「むろんだ!」


「じゃあ言ってみろよ」


「断る!」


 男が言うことには、知っていることとそれを他人に教えるかどうかは全くの別問題であり、彼は寄進もしないものに何かを教えてやる義理は無いと言い切る。

 質問した男は興味を失って去って行った。

 しかし、別の通行人が面白がって男に100円を手渡して、こう言った。


「全知全能であれば、当然誰にも持ち上げることの出来ない岩を作り出すことだって出来るんだろう?」


「むろん、容易いことだ」


「じゃあ、あんたは全能じゃない。だってその岩を持ち上げることが出来ないんだからな」


「いや、持ち上げることもできる。私は全知全能の神であるのだから、不可能ではない」


「それこそあんたは全能じゃない。『誰にも持ち上げることの出来ない岩』を作れなかったんだからな」


「私は全知全能である。お前がそう言うであろうことももちろん知っていた。私が岩を作り出した瞬間、その岩は誰にも持ち上げることは出来ない岩だ。だが、私は全能であるから、持ち上げようと思った瞬間にそれは持ち上げることが出来る。私の能力に限界は無い」


「じゃあとりあえずやってみろよ」


「断る!」


 男が言うことには、出来るか出来ないかとそれをやって見せるかどうかは全くの別問題であり、彼はたった100円の寄進しかしないものに何かをやってやる義理は無いと言い切る。

 質問した男は興味を失って去って行った。

 しかし、別の通行人が面白がって男に1,000円を手渡して、こう言った。


「確認するぞ、お前は本当に全知全能なんだな?」


「くどい! 私は全知全能の神であ――ぐはぁ!」


 1,000円を手渡した通行人が、いきなり男をぶんなぐる。

 鼻血を吹きだして地面に倒れた男を見下ろして、通行人は笑った。


「どうした? 全知全能なら避けるなり反撃するなりしてみろよ、偽の神様よぉ」


 倒れた男は、鼻血を手で拭いながら涙目で立ち上がる。

 ヒザに来ているようでガクガクと震えながらも、男は殴った通行人を睨み返した。


「私は……お前がこうすることも知っていた。だがあえて避けなかったのだ。そして反撃などする気はない! なぜなら私は全知全能の神であり、お前ら人間をこの手で作り上げた高次の存在だからだ!」


 事ここに至ってもなお、男は自らを全知全能の神であると言い切り、殴った相手をゴミか虫けらでも見るような目で見下す。

 そしてこう続けた。


「私はお前たちを作り出した時、私のことを信用せず、言うことを聞かないように作ったのだ。人間よ」


 だからお前たちは今日このことを気に病む必要はないと、男は狂気に満ちた目を殴った通行人へ向ける。

 通行人はイラついた様子で、懐からナイフを取り出した。


「これを見てもか! これでもお前は神様だと言い続けるのか?!」


「むろんだ!」


 通行人は男に飛びかかり、胸を、腹を、何度もナイフで突く。

 やっと騒ぎを聞きつけた警官が通行人を引き離し、もう一人の警官が倒れた男の容体を確認しながら救急車を要請した。


「……私はこうなることを知っていた。私は死ぬ。もちろん復活することなど容易いことだが、人間が神を必要としなくなったことも私は知っているのだ。この世界を人間がまた神を必要とする世界に変えてしまう事はやりたくない。その後の世界がどう変わって行くかも私には全てわかるからだ。全知全能であるがゆえに私はここで死ぬ。能力を行使するか否かもまた、全知全能であるこの私が自由に決めることが出来るのだから」


 男は地面に倒れたまま、消え入りそうな声で一息にそう言った。

 そして、空を見つめたまま袖を引っ張り、耳を寄せた若い警官に最後の言葉をつぶやく。


「……最後に一つだけ教えてやろう、10秒後に雪が降る」


 口の端から血が流れ、袖を引っ張っていた手からふっと力が抜けると、男は死んだ。


 もしも神と言うものが居るのなら、神はこうやって死ぬのかもしれない。

 ここは全知全能の存在を必要とするものが居ない世界なのだから。

 この世界を神の存在が必要な世界に作り替えることを神自身が望まなければ、神は全知全能の存在であるがゆえに、自らがそうあろうと思った瞬間には、自らを無に帰す事も出来るのだ。


 救急車のサイレンが近づく4月の上野に、季節外れの雪が降ったのは丁度その10秒後のことだった。

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