誰も用はない

三津凛

第1話

カフカを読んだ。ことさら、世界は不条理だった。そんなことはない、私は嗤う。父に話した。

「何にでも風流を見出さないと死にそうな平安文学みたい」

不条理じゃなければ死にそうだ。

「へぇ、そんなもんか?」

父は知ったふりをする。

カフカは不条理でないと、死にそうだった。その後ろで母はよく分からない顔をする。

妹は嫌な顔をする。無理やり読ませてみた。

「毒虫なんかになったら、迷わず死んでやるわ」

「そんなこと、あるわけないよ」

あるわけない。手に取れる不条理しか、現実にはない。虚構という包み紙と、比喩というリボンを結びつけてあらゆる不条理が氾濫している。

「ただのフィクションだよ」

嗤う。本を閉じる。つまらない。

生きているという実感がないのと同じように、いつか必ず死ぬという実感もない。それだから、不条理という実感もあるわけがない。

「ねぇ、ちょっと買物行って来てくれる?」

母は私の話を忘れている。自分の生活にしか興味がない。

「いやだ」

妹はすかさず忙しいふりをする。

父は初めから自分に言われているという実感がない。母は自然と私を見た。

「いいよ、私行ってくる」

「じゃあ、これメモね」

うん、と目を落とす。

不条理はお金を出して得られるものなのかもしれない、と思った。日常はお金を出すまでもなく流れ込んでくる。

だから安心するのかしら、と靴を履きながらふと思った。


ぼんやりと歩いて、そのまま言われた通りのものを買って来る。いつの間にか自動レジが増えていて、おばちゃん達がいなくなっていた。

あの人たちは機械に追われて、どこへ行ったのだろう。そういうのを、不条理というのだろうか。多分違う。こういうのは、多分必然だ。

エコバッグに野菜や果物を入れながら、それが沢山の国からやって来たものであることに気がつく。そこで初めて世界が広いことを知った。お金を使った。これが不条理だろうか、多分必然。これも恐らく、必然だ。

不条理は遠い。

私は嗤う。そのまま家路についた。


帰り着くと私の家には、他人が住み着いていた。

見知らぬ人が、幽霊を見るような目つきで私を見る。

「…あの、ここ私の家なんですけど」

「すみません、何言ってるんですか?」

中年の女性は薄気味悪そうに私を窺う。

「…ここには何年くらい住んでるんですか?」

「…もう、15年以上はここに住んでますけど」

じゃあ、父や母や妹は一体どこへ行ってしまったのだろう。さっき家を出る時まではみんなここにいて、間違いなく私の家だったのに。

今はみんな、どこにもいない。私の家がみんな他人のものになっている。

「ここは確かに私の家だったんですよ」

「意味が分からないんだけど、ちょっと…ごめんなさい」

逃げるようにドアを閉められる。ちらりと見えた玄関の内装も確かに私の家のものだった。

それなのに、みんなみんな他人のものになっている。父や母や妹はどこにもいない。

使われることのない食材を抱えたまま、私は暮れていく中を彷徨った。

誰も、誰も、私に用はない。

誰も、誰も、私を知らない。

父や母や妹はどこにもいない。

全てが他人に置き換わって、私は独りになっている。


誰も、誰も、私に用はない。

不条理だった。

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誰も用はない 三津凛 @mitsurin12

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