目覚めよ、と呼ぶ声あり

三津凛

第1話

生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


グノーメーは万能だ。人類の誰よりも公平で公正で平等だ。

私たちはそれを信じて、今日まで生き続けている。啓示が来るのを待っていたら、私の身体は荒野になってしまう。

だから確率を信じなさい。

お父さんもお母さんも、そして同じように生き続けることを望むマヤも同じことを言った。私もそれを信じている。


「早く外に行きたい」

無菌室の中で、私たちは透明な膜に包まれている。

「大きな風船の中にいるみたいで、私はここも好きだよ」

くつくつ笑いながら言うと、マヤは微妙な顔をする。

「一番したいことって、なに?」

私はそっと、これまでの堆積を思い浮かべる。積み上がるものは心許ない。

「マスクをつけていないお父さんやお母さんの顔を見たい」

「それ、いいね」

マヤはやっと明るく笑う。

「マヤは?」

私はね、とマヤが一呼吸置く。こうやって、彼女にはもったいぶる癖がある。それは何か大切なことを言う前の癖だった。

「息切れしてみたい」

私はよく分からず口を挟んだ。

「…苦しい思いなら、今まで沢山してるじゃない?私たちは普通の子たちよりも…」

「違うの」

マヤはきっぱりと言い放つ。硬い言葉は争うキリスト教徒の間に置かれる聖書のように、私を黙らせる。

「思いっきり走った後とかって、苦しいって言うじゃない?だから、その息切れを私は一番してみたいの」

「へぇ」

わざわざ苦痛を受けたいと思う気持ちが私には理解できなかった。不幸が冷たい雨であるとするなら、幸福は穏やかな陽だまりのようだと思う。私はできるだけ、不幸にはなりたくない。あの緩い陽だまりの中で、ぶくぶく太って一生を終えたかった。

「マヤは変わってる」

「そうかな」

「変わってるよ」

不幸にはなりたくない。痛い思いはもうしたくない。私は自分が巨大なシャーレに乗せられた、不安定な細胞の一片になったような錯覚を覚える。生まれた時から、私には狂った心臓がある。生きるための綱が、私は人の何倍も虚弱だった。

「……早く、適合する人が見つからないかなぁ」

マヤも同じだった。グノーメーは適切に管理をしてくれる。菌の一欠片もここにはない。

「もし、ドナーが見つかったら手術は私たちが感じる最後の痛みになるのかな」

ふと、思って自分の胸に手を置く。

「あぁ、そうかもね」

マヤも真似して胸に手を置く。

私たちの心臓は狂ってる。狂っている分だけ、命の綱は脆くなる。

「グノーメーはちゃんと判定してくれるかな」

「してくれるよ。昔は人間が人間を治してたって、お父さんが言ってたけど。グノーメーに感情や知識の限界はないもの。大丈夫だよ」

私は付け焼き刃の記憶を頼りに、マヤに言ってみる。彼女は納得したような、していないような目をして横になった。

規則的な鼓動を私たちはまだ聞いたことがない。それは哀しくて、怖いことだった。リズムが狂うたびに、私は死に向かっている。死への序曲が自分の身体で刻まれること。

私とマヤはその恐ろしさを生まれた時から知っている。だから、啓示ではなく確率を信じるしかない。

グノーメーは人類の誰よりも公平で公正で平等だった。新しい心臓と適合できるか、生き延びれるか、幸せになれるかを教えてくれる。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


私もマヤも、両親の顔をちゃんと見たことがない。頭の先から足の先までいつも水色一色で二つの目玉しかまともに見たことがない。それが不幸なことであることを、私もマヤも知っていた。

二週間に一度の面会で、私はお父さんがから遂に待ち望んでいたことを聞くことができた。

「お前に適合する心臓が見つかったよ…グノーメーが判断して、最終的な確率を出さないと結論は出ないけど」

お父さんは笑っていた。目尻に優しい皺がよる。私は無菌室のガラス越しに頷いてみせる。マヤといる病室よりも、ここはもっと狭い。自分が追いやられた細胞の一欠片になってしまったような気がする。それが怖くてたまらない。往々にして最後の挨拶が「さようなら」ではない時がある。

「また来てね」「また来るから」、そうやって二度と会えなくなってしまった子どもたちを、両親たちを、私は知っている。

だから、グノーメーの出す確率に縋りたくなる。私は規則的な心臓と鼓動の訪れを待ち望んだ。

それが遂に見つかったのだ。


「グノーメーはどんな確率を出してくれるかな」

面会が終わった後で、私とマヤはそのことばかり話していた。グノーメーはどんなものでも独り占めしない。可哀想な、誰かからの移植を待つ人間たち全員にその確率を教えてくれる。

数字の大きな順から、この施設から跳んでいける。

「淡々と、受け入れるだけだよ」

マヤは笑って呟く。私は半分信じられないような気持ちで、その日を待った。

審判の日に、天国へ振り分けられるか地獄へと堕とされるか恐々とする死者の心地が少しだけ分かった。


私はパスポートを手に入れた。グノーメーは私に望んだ通りの確率を出してくれた。適合する確率は99%、これから50年後の生存率も95%だった。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


私は喜んで泣き叫ぶお父さんとお母さんの姿を、どこか遠い気持ちで眺めていた。私が生き続けることは、誰かがその分だけ死んでいくことだった。

幸福になりたい。もう痛い思いはしたくない。それと引き換えに、誰かが死んで誰かが痛みを引き受ける。

グノーメーは正しいことしか示さない。確率は絶対だった。私は間違いなく手術を受けて、50年生きて、死んでいく。その未来は絶対だった。


「おめでとう。これで、お父さんやお母さんの顔をちゃんと見れるね」

マヤは透徹した笑顔を見せて言った。怒りも哀しみもない、神様のような瞳だった。

私は素直に喜ぶことが遂にできなかった。

「気にしないで、私の確率は凄く低かったの。適合する確率は4%、手術を受けても生存できる確率はたったの0.2%だったの。あなたに移植されるのが絶対正しいのよ」


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


お父さんはそう教えてくれた。それでも何かが私の中で呟く。

何かが違う。

私たちは徹底的に管理されている。グノーメー、完璧な公平で公正で平等な知性によって。

マヤは諦めきった顔を見せる。

「あのね、このままでいても私に適合する心臓が見つかる確率も12%くらいなんだって。3年以内に死ぬ確率は89%」

数字の羅列に、私はパンドラの匣が口を開けるのを感じた。グノーメーは公平で公正で平等だった。知りたいと願えばなんだって示してくれる。

「ねぇ、もしかして……」

マヤは頷いた。

「親がね、グノーメーに依頼したの。私の人生の確率を出すように。グノーメーは全部、教えてくれた」

生きたまま、身体を切り開かれるよりもそれは多分残酷なことだった。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


マヤは穏やかに続ける。

「私がこの結果を聞いて、安楽死を受け入れる確率が一番高かったの。そんなことまで教えてくれたの。確率はね、99%だった」

私が移植される心臓の適合率と同じだった。

啓示ではなく、確率を信じよ。

片方は生き続けるための、片方は死に向かうための絶対的に正しい確率だった。前時代の人々であったなら、それでもその低い確率の方に賭けてみようとしただろうか。それとも、数字の伝える未来なんて最初から信じなかったのだろうか。

私は素直にマヤに言ってみる。

「私ね、素直に喜べないでいるの…」

マヤは手招きして、私を自分のベッドに座らせた。

「優しいのね。でも、グノーメーが判断したのよ。生きるべきだって。その切符を使うべきだよ」

「うん」

数字に還元された現実は重い。マヤは多分私が手術を受ける前に、死んでいく。99%の確率で、安楽死を選択する。

「哀しくはないの。だってね…」

マヤはとっておきの秘密を打ち明けるように、もったいぶる。

「お父さんとお母さんの間に、二人目の子供ができる確率をグノーメーに出してもらったの。96%だって…私がいなくなっても大丈夫よ。ちゃんと家族ができるもの」

これは予言じゃない。絶対的な未来だった。そうであるから、ここまで私は哀しくなってしまうのだろうか。

あやふやな啓示に縋り付いて生きていた人たちは、幸福だったのだろうか。それとも不幸だったのだろうか。

私にはこの哀しさの母親が、分からなかった。

マヤは優しく私の頭を撫でた。

「本当にこれでいいのかな…。マヤの方がずっと前から、待ってたのに」

「ふふ、変わってるわ。どうして喜ばないの?」

「それが分からないから困ってるの。ただ、とっても哀しいだけ…」

マヤはじっと私を見た後に、喉を鳴らして笑った。

そして、軽く胸を押さえた。規則的な鼓動を聞く未来はもうマヤにはやって来ない。

「…まだ哀しいことを言い尽くすには早過ぎるわ。同じ唇を使うなら、楽しいことを言うといいわ。それができなかったら、歌えばいいのよ」


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


99%の未来を、グノーメーは公平で公正で平等に出した。

マヤは一つ息を吐いてから、その未来をまるで慈しむように言う。

「過去を大切に、未来を楽しみに」

私はその時、初めて泣くことを知った。


それから、マヤは安楽死を選択して痛みのない所へ行ってしまった。グノーメーの出した確率通りの未来だった。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


私は今でもグノーメーの確率を信じている。人類の誰よりも公平で公正で平等な知性と、それが導く確率と未来を信じている。生き続けることは、結局それを辿ることでしかないことを規則的な鼓動が教えてくれる。

私と死んだマヤの99%は同じ数字でも、絶対に徹底的に重ならない。


息切れをしてみたい。

私はマヤの代わりに、走ってみる。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


息が切れる、苦しい。

幸せになりたい。不幸せにはなりたくない。

光の下に産まれたい。闇が怖い。

啓示ではなく、確率を信じよ。

哀しみを言い尽くすにはまだ早い。何も言えなければ同じ唇で歌えばいい。

胸が苦しい。それでも、走り続けた。グノーメーはこんな私の未来も見通していたのだろうか。あの99%の内に、こうやって生きる苦しさと哀しさと、どうしようもない歓びは含まれていたのだろうか。


生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。


過去を大切に、未来を楽しみに。


初めて袖を通すことができた制服と、初めて蹴る通学路は、果てしなく大きくて遠くまで続いていく。

こうして生きていられることは、不思議なことだった。それと同じように死んでいくことも不思議なことだった。

小石に躓いて、転びそうになる。私は束の間、脚を緩めた。心臓はちゃんと規則的に動いている。

誰かの人生と引き換えに動く、パスポートが私の中にある。それがグノーメーの出した確率の帰結だった。

マヤにも確率の帰結があった。

それを、忘れることはない。忘れることができない。


だから、お前の両手は光を抱ける。


心臓の鼓動と一緒に何かが囁く。

あぁ、生きることはこういうことだ。

これは確率ではなく、啓示だ。

私は苦しさの中で反芻した。


過去を大切に、未来を楽しみに。

生きたいなら、確率ではなく啓示を信じよ。

お前の両手は光を抱ける。

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目覚めよ、と呼ぶ声あり 三津凛 @mitsurin12

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