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 看護師から案内された新しい病室は三階にあった。一面クリーム色の清潔な個室。窓からは心地よい、やわらかな日の光が差し込んでいる。病院自体が街の高い場所に建てられているため、外の景色はなかなか壮観だ。

 花瓶には彩り豊かで美しく、しかし香りのささやかな花々が活けられていた。長く寝たきりの人間の中には、たとえ花の匂いにでも敏感な反応を示す者は少なくないので、そういった理由から選ばれたものなのだろう。

 全体的に部屋の空気がやさしい。家族や病院側からの、あたたかな配慮が伝わってくる。

「……やあ。来てくれたんだね、サトシくん」

 電動ベッドの上で出迎えてくれた少年に気づかれぬよう、サトシは静かに息を呑んだ。前に面会したときよりも、彼の身体が更にひとまわりほど小さくなっているように感じられたからだ。ブランケットの上から一見しただけの印象。しかし、おそらく正しい。

 やせ衰えているのだ。以前より、明らかに。鼻に差した酸素供給用のチューブや、腕に刺さった点滴のくだが、いっそう痛々しく見えた。

「ご無沙汰していました。近くまで寄ったものですから」

 かつて廃病院で催した集いのあと、この少年のもとを訪れるのは、これでもう何度目になるだろうか。あの集いから、そう何年も経ってはいないはずなのに、彼との出会いがずいぶん遠い過去のことのように思えた。

 サトシはベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰かけ、室内をさっと見回した。

 棚に仕舞われた、着替えや身の回りの持ち物。

 キャスター付きのキャビネットの上にある、プラスチック製のコップとストロー、いくつかの果物。

 そしてテレビの横。花瓶のとなりに、見覚えのある帽子が置いてあった。あの集いの中、おそらくは毛髪の抜け落ちた頭を目立たせぬよう、少年がずっと着用していたものだ。

 埃こそ被ってはいないものの、彼がキャビネット上の物以外に触れた形跡は見て取れない。言うなれば、当たり前に生活をしている匂いがしなかった。

 日がな一日、ただ眠って過ごすだけ。何をすることなく、何をする気力もわかず。また、できることもない。一瞥して、そういった暗澹とした日々が推察できた。

「個室に移られたんですね」

 そう言うと、ベッドの上でとろんとした表情を浮かべていた少年が、ゆっくりと頷いた。

「……うん。その方がいいだろうって。親が。……親の勧めで」

 テンポの遅れた、おぼつかない受け答え。サトシは父のかつての仕事柄、このような状態の相手と接することに慣れてはいたが、それでも病魔の力におののかずにはいられなかった。

 逃れられない重い病いの進行と、病状を抑えるための強い薬は、あれほど聡明だった少年から、ついには最後の砦の思考力さえをも奪おうとしている。部外者であるサトシにとってもその事実はつらく、憎く。そして悲しかった。

 しかし、感情を表に出すことはしない。

「実際、助かってる……かな。ほ、ほかの人に気兼ねする必要、ないから。楽、かも」

 たどたどしくも、心底安堵しているような声音だった。

「ご自身が落ち着けているのなら、それが一番だと思いますよ。こちら、よろしければ召し上がってください」

 持参した紙袋からゼリーの詰め合わせを取り出し、キャビネットの上へ。そこでサトシは初めて、彼の鼻につながっているチューブの先、酸素供給用の機器の上に酸素マスクが置かれていることに気づき、愕然とした。

「ありがとう。あとで、食べられるときにいただくね」

 にこりと微笑む少年に、反射的に頷く。しかし意識はマスクへと向いていた。

 緊急時の備え、というわけでもないようだった。マスクにつながった管の束ねられ方から、未使用品ではないことがわかる。すでに何度も使われているのだろう。体調によっては、鼻に差したチューブの補助だけでは体内に酸素を取り込みきれなくなっているのだ。

 サトシはそのことに踏み込むべきかどうか、わずかに逡巡した。しかし結局、当たり障りのない会話だけをぽつりぽつりと交わしていく。

 人には人の役割がある。守るべき領分がある。

 個々の関係の差異によって、相手に求める反応や答えは変わっていく。ならば自分のような人間からの同情など、きっと歓迎はされないだろうと、サトシは半ば確信していた。彼はそうやって常日頃から、中立的なポジションを維持してきた。あの廃病院での集いで、管理者としての立場を貫き通したときのように。

 人間味がない。サトシと接して、そう感じる相手もいることだろう。自分でも、抱いた感情をその場で吐き出せたらと考えるときもある。

 あの場に集った者の中で例えるなら、セイゴやミツエあたりか。彼らのように振る舞えたら、どんなに胸がすくことか。あるいはケンイチやマイのように、場の空気を読もうともせずに行動できたら。周囲はさぞ困惑するだろうが、きっと面白いことになるはずだ。やはり彼らの言動から学ぶべきところは多い。

 だが、それでも本気で模倣するわけにはいかなかった。あくまで参考に留めておく程度だ。なぜならば、中庸でありつづけることがどれだけ難しく、そして重要なことであるかをサトシは身を持って知っている。そういう人間であったからこそ集いの企画者であり得たし、管理者という役目を果たすことができた。いまの自分でありつづけることと、管理者であること。隔てられないこのふたつは、サトシにとって小さくも確かな誇りであった。

 しかしまた、いまこの場でそんな想いに迷いが生じていることも確かだった。迷い――あるいは、後悔への予感と呼ぶべきか。

 目の前にいる少年は、おそらくこれ以上、よくなることはない。かつて本人が、集いに参加した際に打ち明けたとおりのことが起こっている。もはや、自力で立ち上がることすら難しいのではないだろうか。そしてこれからも病状は進み、更に身体も心も衰えていく。揺蕩たゆたうような意識の中、できることはどんどん限られていき、そうして、ゆるやかに終わりへと向かっていくのだ。

 あのときならば。

 安楽死を望み自らの足で廃病院に訪れた、あのときの彼ならば。自身の強い意志を持って、その命を終わらせることができたのに。

 そもそも自分が話し合いの場など設けず、彼らと共に本来の計画を即実行していたならば。少なくともいま、こうして衰弱していく少年を見ることはなかった。

 集った十二人。サトシを含めた、死にたい子どもたち。ほんの少しの前向きな気持ちと引き換えに、彼に、彼らに不要な苦痛を与えてしまったのだとしたら。

 どうにも、とんでもない大罪を犯している気分になる。管理者であるサトシさえその気であったならば、参加者の疑問や迷いを振り切り、強行できたはずなのだ。

 表に出さぬまでもサトシは葛藤していた。初めて、大きく揺れていた。自分でも驚くくらい簡単に。かつての集いの参加者に、終わりが近づいていることで。それを間近で目にすることで。

 僕のせいなのか?

 いまある彼の苦しみは、僕のせいではないのか?


 いけない、と思った。この考えは危険だと感じた。今更どうしようもないことであったし、このままではに支障が出るにちがいなかった。そう理解してはいても、一旦浮かんだ考えを断ち切ることは難しい。

 少年と対面している間、サトシは動揺を悟られぬよう心がけるだけで精一杯だった。

 テレビの横に置かれた、集いで彼と共にあったの存在が、妙に落ち着かなかった。


 少年の負担にならないよう、半刻ほどの時間で簡単な近況報告や世間話を済ませ、サトシは病室を後にした。そしてエレベーターへ向かう途中、後ろから声をかけてくる人物があった。

「驚いたな。ひょっとして、サトシくんかい?」

 振り向くと、そこには見覚えのある少年が立っていた。ほんの数週間前、廃病院の地下室で別れたときと変わらない、柔和な表情。サトシのどこか機械的なそれと異なり、見る者を心底安心させるような笑顔だ。あのときとちがってパジャマ姿だが、トレードマークのは、いまもしっかりと被っている。

 先日の集いに五番として参加し、だれよりも優れた理知を発揮した人物。

「お久しぶりです、シンジロウさん」


 談話室には、ほとんど人気ひとけがなかった。せいぜい、大型テレビの前で談笑する高齢の入院患者たちくらいだ。二人はテレビから少し離れている席に、テーブルを挟んで腰かけた。

「こちらに入院していらしたんですね。その後、お加減はいかがですか?」

 サトシの問いに、シンジロウがにこやかに答える。

「おかげさまで、だいぶいいよ。いつまでつづくかわからないけれど、なんというか、これまで見えなかったものが見えてくるようになった気がする」

 たしかに先日よりも顔色はいいようだった。

 あのとき、あの場に訪れた理由をほかの参加者たちの前で告白した際、シンジロウはこれ以上、自分の体調がよくなることはないと述べていた。まるで、先程の彼と同じように。それでも現在、以前より幾ばくか元気そうに見えるのは、心の問題が解消されたからだろうか。それが集いのもたらしたものかは、いまの迷いを抱えたサトシには定かではない。しかし、つい、そうであればいいのにと願ってしまう。

「サトシくんは、誰かのお見舞いに来てたの?」

 いくらかの取り留めのない会話のあと、そんな言葉を投げかけられた。気さくな、何気ない質問ではある。けれど内容が内容だけに、わずかながらに躊躇ためらいが生じた。

「ええ。ちょっとした知人がいるものですから……」

 結局、言葉を濁してしまったが、サトシはそれでいいような気がしていた。迷ったものの、やはり見舞い相手がどのような人物かなど、あまり口外すべきことではない。加えて漠然とした、言い知れぬ抵抗感もあった。

 しかし、見通しが甘かった。

「ちがってたらごめん。ひょっとして、、集いのメンバーだったりする?」

 サトシは思わず目をみはった。シンジロウの卓越した洞察力を忘れたわけでも侮っていたわけでもなかったが、それでも驚嘆せざるを得ない。あの日たびたび舌を巻かされたその知性は、やはり素晴らしい。こうなると好奇心がくすぐられ、そこに行き着いた理由を知りたくなってくる。

「……なぜ、そう思われたのでしょうか」

 否定でも非難でもなく逆に質問を返したことで、シンジロウは自身の問いへの答えを確信したようだった。軽く頷いて、淡々と根拠を述べていく。

「可能性として、十分あり得たからだよ。サトシくんのお父さんの病院に入院していた人かも知れないし、もっと別のプライベートな相手かも知れない。このどちらかならお手上げだね。そもそも、あまり詮索していい話でもないけど」

 シンジロウは、ばつが悪そうに苦笑した。

「限られた材料からほかの要因を推察するとしたら、僕とサトシくんの唯一最大の接点である、例の集いということになる。僕らはあの日、それぞれの理由から同一の目的を持ってあの場所を訪れたけれど、結果として実行には至らなかった。だったら後日、その中の、身体のどこかに悩みを抱えただれかが、生きていくために病院を利用していてもおかしくない」

 サトシは深く頷き、無言でつづきを待った。

「だけど先日のメンバーの中で、現在この病院のお世話になっているのは、僕の知るかぎり僕だけなんだ」

 サトシの脳裏に、前回の参加者たちの顔がよぎった。

 シンジロウに匹敵し得る知性の持ち主だったアンリ。

 冷静な判断力と大胆な行動力を見せたノブオ。

 排他的思想と被害者意識において右に出る者のいなかった、小賢しいメイコ。

 唐突、突飛な言動で、ある意味もっとも驚異的な存在だったマイ。

 終盤まで、ほとんど口を閉ざし、目を伏せつづけていたユキ。

 彼ら彼女らを相手取り、ゼロ番の謎を見事に解き明かした少年の頭脳は、いまも健在だった。

「そして十中八九」

 短く言葉を切ったシンジロウは、笑みを崩さぬまでも、真剣なまなざしを向けていた。

「あの集いは管理者の綿密な計画に基づいて、行われている」

 これについてはサトシも予測がついていた。あの日、最後の決を採ったとき、アンリにさえ見破られたのだ。あの場でだれより優秀であった人物が、そこに思い至らぬはずがない。決の直後の言動からも察するに、看破した上で、みんなの前での言及は避けたと考えるのが自然だった。仮に気づいていなかったとしても、シンジロウならばのちに地下室での会話を反芻して推察し、辿り着くだろうとは思っていた。

 しばしの沈黙のあと、申し訳なさそうにシンジロウが言う。

「ごめん。過度に立ち入るつもりはないんだけど、やっぱり気になってね」

 その謝罪に、かぶりを振って応える。思い煩ってほしくはなかった。推理に感嘆こそしても、悪意など持ちようもない。それはもちろん、シンジロウの誠実な心根を理解していればこそのことだったが。

「前回の、シンジロウさん達との集まりが三度目でした。あれだけ想定外のことが起こったのは初めてでしたが」

 すべてが終わった後、ひとり居残って真実を問い質してきた少女に観念したときと同じく、サトシは正直に答えた。あのときより、いくらかの敬意を込めて。

「さっきお会いしてきたのは、初回の参加者だった方です」

 シンジロウが納得したように頷いた。

「以前に面会したときより、更に体調が思わしくないようでした」

 サトシにしては珍しく、つい思ったことをそのまま口にしてしまった。一瞬沈痛な面持ちを見せたシンジロウが、再び頷く。

「ありがとう。教えてくれて」

 ふいに、さっきまで一緒にいた彼とシンジロウの姿が、サトシの目に重なって写った。次いで、ああ、そういうことかと合点がいった。何もモラルや良心、集いの秘密だけの話ではない。シンジロウだったからこそ、見舞い相手との関係を語ることに抵抗力が働いたのだ。

 シンジロウほどではないにせよ、あの彼も本来、言葉の端々に知性溢れる優秀な少年だった。しかし病気の進行が進んだいま、その知性はかつての面影程度にしか残っていない。

 優秀で、しかし大病に侵された、集いの経験者。これらは、ふたりの少年の大きな共通点だった。

 まるであの彼は、シンジロウの未来そのもののようであった。辿る道、行き着く先の暗示であった。ふたりの類似点に気づきながら、いままで思い至らなかったのが不思議で仕方ない。それだけ無意識化で怯え、目を背けてきていたのか。

 遠からず訪れる知性の欠如。いま以上の自由の喪失。解放される術はあったはずなのに。なぜそうなったのか。なぜそうなっていくのか。

 僕のせいなのか?

 再び悪しき考えに囚われだす。遂には、すべてがあやまちだったのではないかとさえ思えて――

「サトシくん」

 はっとして顔を上げると、シンジロウと目が合った。彼はこれまで以上に、真剣な表情をしていた。

「改めて、お礼を言っておきたかったんだ。ありがとう」

「は」

 再び繰り返される感謝の言葉。しかし先程とは、向けられている事柄が異なる。

「いや、滅多にない機会だしね」

 呆然とするサトシに対し、シンジロウは照れくさそうに目を伏せ、しかしすぐに向き直った。

「あの集まりに関して、よくも悪くも、いろいろ思うところはあるんだ。それは、いまだからこそなのかも知れないけれど。でも発案者だった君に対しては、やっぱり感謝の気持ちが先に来るよ。きっと、他のみんなも……たとえ全員じゃなくとも、多くの人はそうなんじゃないかな」

 誠意のこもった言葉。これまでも集いを終えるたび、何人もの参加者から伝えられてきた、偽らざる気持ち。つい先刻会ってきた彼からも、廃病院での別れ際や幾度かの見舞いの中で、同様の言葉を送られてきた。

「いえ、そんな。こちらこそ」

 だが、人の心は変わる。たとえば苦痛に喘ぎながら死を目前にしたとき、ずっと同じ気持ちでいられるだろうか。実行しなかったことを、後悔せずにいつづけられるものだろうか。そして、だれかのせいにしないと言い切れるのか。

 病室にいる彼の、いまの心情を知ることがこわい。それは他者の領域へ踏み込まずに生きてきたがゆえの、サトシの決定的な弱さであった。とうとうサトシは自ら企画した集いが、何のためのものだったのかをさえ見失いだしていた。

「それにね」

 暗い感情に押し潰されそうなサトシとは対照的に、シンジロウが朗らかに付け加える。

「僕は、君のおかげでケンイチくん達と出会えたよ」

 サトシは首を傾げた。

「はあ」

 意図が掴めず、つい適当な相槌を打ってしまう。

 ふふっと笑みをこぼしたシンジロウが、遠い目をして語る。

「ほとんどが間接的で、両親の力ありきとはいえ。それでもいま、僕はケンイチくんやセイゴくん、タカヒロくんやノブオくん達の力になれているんだ」

 過去三回のうち、もっとも混乱をきたした前回の集い。その退場間際にシンジロウは、でき得る範囲で参加者の面々の相談を受け付けることを約束していた。死にたかった子どもたちの抱える、それぞれの理由を解消しようと。

「まだあれから一月ひとつき足らずで、解決できていないことがほとんどだけど。でも、あの集いを経て、生きることの大きな意義を見出せたと思う」

「意義、ですか」

「うん。自己満足と言い換えてもいい」

「自己、満足……」

 自己満足。シンジロウらしからぬ、なんとも都合のいい言葉だ。だがそれを聞いたとき、サトシは強く共感を覚え、そして見失っていたものを見つけた気がした。それこそが、これまで二度、三度と集いをくり返してきた最上の理由だったのだから。

 死にとりつかれ、しかし死を否定することに惹かれる自分。矛盾を抱えた抗いがたい欲求と、不敵な計画。それらを経て獲得してきた、心が満たされていく感覚。あの、えも言われぬ心地よさを体験するため、サトシは集いを幾度も取り仕切ってきた。

「こういう捉え方って、僕には、すごく大事なことなのだけれど。君にとっては、どうなんだろうね」

 奉仕行為ではない。他者のための行いではないのだ。いっそ、そんな考えはおこがましいとさえ言えた。他人に尽くそうとしているシンジロウですら、自分のためだと明言している。もちろんサトシもそうだった。根幹にあるのは、自己の欲求を満たしたいという熱意。参加者たちの命が廃病院で消えなかったことは、あくまでひとつの結果にすぎず、彼らからの謝意は副次的なものでしかない。

 だというのに、それでもサトシは彼らのそんな想いにこそ、いつも頭を下げたくなっていた。これまでもずっと、何度も、身体の中にあたたかな火が灯るのを感じてきた。

 だからなのだろう。迷いが生じたのは。

 揺れるのはいい。止まることも、休むことも。省みることも。しかし、すべてを悔いることはすべきではなかった。なぜならあの集いは、死ぬまで生きることを選んだ自分にできる、もっとも意義ある行いなのだから。

「シンジロウさん」

 彼はサトシの様子を見て、この揺らぎを感じ取ったのだろう。だからこそ胸中を吐露してくれたにちがいない。ポーカーフェイスには自信のあったサトシだが、つくづく敵わないと思わされた。そしてその返礼として、意思表明をせねばならなかった。

「僕は……自分のやっていることが正しいとも、最善手だとも思ってはいません。これからも矛盾や葛藤を抱えていくのだと思います。……でも、おかげで、いまある迷いは払拭できました」

 やがて迎える各々の最期は、あの少年のものだ。シンジロウのものだ。サトシのものだ。本人の下した決断に口出しする権利など、だれにもない。

 シンジロウが笑みを深める。

「お役に立てたのなら、よかったよ。でも、そうか。やっぱり君は、これからもつづけていくんだね」

 最後の方だけ、少し寂しげな口ぶりだった。

「……ええ、そのつもりです」

 すんなりと認める。この聡明な少年に対しては、もはや隠しごとをすること自体が難しい。どころか、彼に何かを言い当てられることが、いっそ小気味よくすら思えてきていた。

「前回ほどかはわかりませんが、次回も混戦になるでしょうね」

 口元に手を当て、考える素振りを見せたシンジロウが、一番の懸念材料をズバリと的中させる。

「アンリさん……かな。彼女が最後、地下に残ったのは、集いに再び参加するための交渉をしたかったからだね」

 サトシは自身の頰の緩みを感じた。同時に、ここまでだなとも思った。これ以上は、己で引いた中立者の線を逸脱してしまいかねない。それほど目の前の彼との語らいには趣きがあり、魅力があった。

「初のリピーターがどういった手段を用いてくるのか不安はありますが、フェアな場を設けられるよう努めます。さて、名残惜しいのですが、そろそろ行かなくては」

 椅子を引き、立ち上がる。話に夢中で気にしていなかったが、まばらだった談話室にも、だんだんと人が入ってきていた。

「もう行くの? 実は、このあとリョウコさんがお忍びでお見舞いに来てくれるんだけど、せっかくだから会っていかない?」

「そうしたいところですが、生憎あいにくこのあとの予定が詰まっていまして」

 嘘ではない。実際、やることが山積みだ。しかし何より、シンジロウと再会したことで再認識できるようになったものを、ひとりになって噛みしめておきたいという気持ちが強かった。己の意思と欲求を改めて見直し、に挑みたかった。

「そうか。残念だね」

「どうかリョウコさんには、よろしくお伝えください」

 エレベーターの前まで送るというシンジロウの好意をありがたく頂戴し、並んで廊下を歩き出す。サトシは前回、あの廃病院を参加者全員で歩いてまわったときのことを思い出した。

「そうでした。できればほかの方には、これまでにも集いが行われてきたという話は秘密にしておいていただけませんでしょうか」

 シンジロウのこと自体は信用していたが、今後を考えると最低限の口止めはしておくべきだった。

「うん、もちろんかまわないけど……やっぱり問題かな?」

「ええ。もしシンジロウさんのように、ご自身で気がつかれた場合はやむを得ませんが、あまり広まると、それだけリスクも発生してしまいます。少数とはいえ、中には騒ぎ出す方もいるでしょうから」

 頭によぎる、これまでの参加者の面々。自力で真実に行き着く可能性の高い者や、知れば騒ぎ立ててトラブルを起こしかねない者。幸いと言うべきか、前者と後者、両方ともに該当する人間は、サトシの見立てでは存在しなかった。

「わかった。約束するよ」

「ありがとうございます」

 エレベーターの前まで着き、呼び出しボタンを押した。この階で利用されたばかりだったらしく、すぐに扉が開く。中に入り、振り返った。シンジロウが軽く手を上げたので、同じようにして応える。

「それでは」

「うん、気をつけてね。久しぶりに会えて、楽しかったよ」

 一階行きのボタンを押し、扉が閉まる前に告げる。

「また来ます。今度はシンジロウさんのお見舞いにも。近いうちに」

 果たしてシンジロウが、笑顔で答えた。

「ありがとう。待ってるよ」

 扉が閉まり、鉄の箱が階下へと降りていく。その中でサトシは病室の彼の姿と、シンジロウの知性とやさしさとを玩味し、そして次の集いへと想いを巡らせていった。


 幾度も生と死の境界を渡ってきた少年は、かつての同志に救われ、再び管理者として歩みだした。

 死にたい子どもたちを集め、いつか終わりを迎えるそのときまで。死ぬまで生きていくために、少年は歩きつづけるのだった。

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子羊の歩み 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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