田ノ浦行き七〇番
安良巻祐介
僕は海岸行きのバスに乗っていた。
夜の車内に乗客は疎らだった。一番後ろの席を選んで座り、誰もいない背中にもたれかかって窓の外を見ていた。
雨が降っていた。真っ黒い風景に、うるんだ信号の灯が、ぼんやりと溶けて流れていた。
僕は硝子に頬を寄せたまま、まとまらないことを幾つか考えていた。先の見えない生活の事。今の自分の事。病院の薄暗い明かりと険しい顔をした祖父、疲れたような母の横顔、床の上に横たわる、表情のよくわからない祖母。山を見つめながら煙草を吸う弟の希薄な輪郭。…
眠たさと曖昧さが混じりあった、繭のような心地だった。
バスに乗っている時はいつもそうだ。その感覚が好きで、僕は定期券を買う。バスは僕を途上の人にする。一時のあいだ、責任を預かってくれるような錯覚をさせる。どこかへ向かう中途、点と点とを結ぶ線の上というのは、猶予期間だ。だから心地がいい。片隅で、まどろむ。まどろみながら流れていく景色を眺める。
秋の初めの頃だからか、すでに少し寒い。僕は膝に乗せた鞄を体に近づける。やたらと色々なものが入っているが隙間だらけで、そのくせ重たい鞄だ。
バスの終着は寂しい海のほとりのはずであった。
僕はいつもそこまで乗ることはないのだけれど、ぼんやりとまどろんでいると、脳裏には暗く静かな波打ち際や、くたびれて固まった船の群れや、岸の手前の石の段々や、黄色い灯りをとぼした停留所の低い屋根などが、何となく浮かび上がってくる。
そして、微かな軋みを漏らして停留所に止まったバスの車内には、乗客は一人も居らず、それどころか、運転手の姿さえもない。…
胡乱な妄想を払い、ふと窓の外を見れば、バスはだらだらとした峠を越え、港町に入りつつあった。
車内の明かりは白けていて、その下を、何か蝿のようなものが一匹忙しく飛んでいる。
僕の目はそれを追うともなく追いながら、機械的な停留所通過の宣告を聴いた。
もう随分前から降車のランプが灯らない。
疎らな客の背中は、座席の背にそれぞれ凭れて、皆眠ってしまっているかのようだ。
ただ一人、右手奥の、酔漢らしき老いた男が、前屈みになったまま、赤黒い顔を振りながら低く口歌を呟いている。そこに陽気さはなく、ただ寂しさだけがあった。
バスは細かな雨を浴びながら町の中を走った。
黒く濡れた鉄道記念館のそばを……沈黙したシャッターだらけの商店街の端を……灯を消した遊覧船の浮かぶ懐郷地区の前を……祖母が眠っている病院は、それらの向こうにあるはずであった。
消防署を過ぎ、海底トンネル入口の見える通りを横に折れて、海岸の方へとバスは走っていく。
左右に行き過ぎていく並木を見つめながら、最後列でまどろむ僕は、柔らかな夢と現の境をさ迷うた。
席の左右には誰もいないのに、誰か座っているような気がする。
それは幽霊とかそういったようなものではなく、もっと概念的な何かだった。或いはそれは、先週まで起き上がってお喋りをして笑っていた祖母なのかもしれなかった。
まだ遠いはずの海岸へ打ち寄せる波の音が、バスの中まで聴こえてくるような気がする。そうして、少しずつ車内の空気に隙間ができていく気もする。
僕は少しはっとして、顔を上げた。降車ランプが点灯した覚えはないのに、乗客の数はさらに少なくなっていた。あの寂しげな歌を歌う酔漢も、いつの間にかいなくなっている。
僕はひどく空虚な気持ちになり、眠気を頭に残したまま、椅子の背から身を起こす。
母や祖父や弟の待つ家は、近くなってきているはずであった。
降車のボタンへと指を伸ばし、それを押す。
ポーン、と音がしてランプが灯り、バスは行く手の赤標識、終点のひとつ手前の停留所へ向け、ゆっくりとブレーキをかけ始める。
僕は重たい鞄を抱えて立ち上がると、車内にぽつぽつと残った乗客たち、これから終点の海岸へとバスに乗っていくのであろう人たちの顔をなるべく見ないようにしながら、出口へと、雨の降りしきる秋の夜へと、歩いていった。
田ノ浦行き七〇番 安良巻祐介 @aramaki88
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