ステラと終章

藤枝志野

1

 閉まる間際の図書室は、控えめな暖房のおかげで少し寒かった。背の低い本棚の上で、古い加湿器がしりしりと音を立てて蒸気を吐く。その脇を抜けると、私は書架の間を進み、呼吸も鼓動も耳に障るほど静かな一角に着いた。全集などの分厚いハードカバーが並ぶ、入り口から最も遠いところだ。天井の明かりが届かない背表紙の群れは、目と口を閉じて眠っているように見えた。


 その静けさの中心で先輩が、書架の陰の椅子にぽつんと座っていた。そして、私に気づいて立ち上がり、


「やあ」


と言った。落ち着いた声は静寂に馴染み、私の耳へふわりと滑り込む。心もち伏せられた目は、海の底のように穏やかだった。


 図書室を出て下駄箱に向かう。先輩は初めて通る道を満喫するかのように、一歩ずつを丁寧に重ねていく。その背中を追い越さないようにと、私は歩調を合わせた。期末試験最終日の放課後、冷えきった廊下には生徒の姿も蛍光灯の光もない。ほとんどの生徒たちは、早々と帰るなり、駅前の店に繰り出すなりしているのだろう。噂によると先輩は熱心でもないのに好成績をとっているらしいけれど、そういうことについては滅多に話さないし、私も聞き出そうとはしない。知りたい一方で、このままでいいと思ってもいるから。


 かすかに砂のにおう空気を吸い込み、立ち止まった。伝えるべき言葉を頭の中でなぞる。


「先輩」


 先輩はゆるゆると数歩進んでから、体ごと振り返った。先ほど読んでいた本はまだ手の中だ。


「誕生日、おめでとうございます」

「ありがとう」


 先輩は唇の端をぎこちなく上げた。眉はどこか申し訳なさそうに少し歪んでいる。笑顔。それも最高の笑顔だ。周囲には全くと言っていいほど見せないし、私自身も数えるほどしか目にしたことがない。話す時はなるべく笑うようにしていると本人は言うけれど、いつだってどう見ても無表情だ。


 歩きだそうとした時、先輩が口を開いた。


「プレゼントをねだってもいいかな」


 思わず先輩の顔を見つめた。全く予想していない言葉だった。去年、文房具を贈ろうとしてやめたと話した時には、何もいらないとはっきり口にしていた。それ以外の時も、自分から何かを求めてくることは一度もなかった。けれど、先輩はあと数ヶ月で卒業してしまう。こうして顔を合わせるのはもちろん、会うことすら難しくなるに違いない。私はうなずいた。


「物じゃなくてね」


 先輩は右手の親指で、本の裏表紙を優しくなでている。


「散歩みたいなものさ」

「散歩ですか?」

「いつでもいいんだ。でも、日が暮れてから」

「はい、もちろんです。明日にでも」


 先輩が再び不器用に笑った。この笑顔を見られるだけで、私は充分だ。



     ×



 先輩との関係は、高校に入った年に図書室で始まった。私が先輩の落とした生徒手帳を拾った、ただそれだけのことだ。けれど、紺色の手帳を拾い上げて渡したその瞬間、実際はかすめてすらいないのに、指と指が触れ合ったような感覚に襲われた。一瞬世界が黙り込んで、その中心に先輩がいて、あとは私だけがそこにいるのを許されたような気持ちにさせられた。


 それから少しして、先輩が放課後を図書室の一番奥で過ごしていることを知った。さりげなく様子をうかがっていたある日、怪しい行動がばれて、私は先輩から話しかけられた。


「本は好きかい」


 読書をしていたのだろう、先輩はこちらに目を向けないままだった。


 私は即答できなかった。本をちゃんと読んだことなんて、数えるほどしかなかったから。初めて先輩と会った日も、朝の読書時間なるもののため、少しでも面白そうな本を見つくろっていただけだ。けれど私は「はい」と答えた。そうしなければ、先輩とのつながりが完全に切れてしまうと感じたからだ。とは言っても、私が本と無縁の人間であることは、早い時点で見抜かれていたことだろう。先輩が持ちかける作家だの新刊だのの話に、いつもぼんやりとした答えしか返せないから。それでも先輩が私を遠ざけないでくれるのは、優しさなのか、一度自分の世界に迎え入れてしまったからなのか、よく分からない。


 塾で自習してくると親に伝え、自転車に乗った。待ち合わせはとある古着屋の前だ。風を切って走ると言うより、こちらが冷たい風に切り刻まれるようだったけれど、ペダルを目一杯こいで急いだ。こんなに急いだら途中で事故にでも遭って死ぬかもしれないと思って、それでもいいような気がして、マフラーの内側で小さく笑った。


 そしてふと、先輩の住所を知らないことを思い出した。知り合ってから年が二回変わったものの、年賀状を交換したことはない。学力の合う地元の高校を選んだと話していたのは覚えている。けれど、先輩がこの町のどこかに住んでいて、朝起きてご飯を食べて歯を磨いて、徒歩なり自転車なりで登校して、帰ってまたご飯を食べて勉強して、お風呂のあとパジャマを着て布団に入っているなんて、どうがんばっても想像がつかない。私は先輩をなんだと思っているのだろう。先輩本人に聞いたところで「どうだろうね」とでも返されてしまう気がした。


 交差点を曲がって公園の前を通り、古着屋に着いた。入り口のシャッターの前に先輩が立っていた。学ラン姿で、隣の店の明かりに照らして本を読んでいる。


「お待たせしました」


 先輩は私の言葉の後、数秒のあいだ無言でページと向き合った。それから栞を挟み、表紙を一回なでると、


「いや」


と言って本を丁寧に鞄にしまった。ここまで歩いてきたらしく、私も自転車を降りて歩くことにした。


 どこを目指しているのかは分からない。目的地そのものがないのかもしれない。けれど、どちらでもいい。私は先輩の後ろについて、狭い歩道を進んだ。すれ違う車のヘッドライトが、先輩の髪を銀色に輝かせ、細い長身を浮かび上がらせては去っていく。


「寒いですね。予報だと、明日は九度までしかいかないって」

「そうなんだ」


 私に背中を向けているのもあって、先輩の穏やかな声は少し聞き取りづらかった。何か続きを話していないか、周りの騒音をかき分けるように耳をすませる。


「九度なんだ」


 呟きがぽつりと耳に届いた。


 あせた緑色の歩道橋を渡って大通りから遠ざかると、夜の暗いなかに、いっそう深い黒のかたまりが浮かび上がってきた。先輩はひたすら道をゆく。私もただ後に続く。その途中で思い出した。あのかたまりは、小学校の頃に社会科見学で訪れた古墳だ。一部が公園のように整備されていて、昼間こそお年寄りや小さな子どもが訪れるけれど、こんな時間には誰もいないだろう。


 古墳の麓にたどり着いたところで、ようやく先輩が止まった。頂上に続く階段と、街灯と、その光に寄り添うように立つ看板があった。看板には古墳の案内図が書かれているけれど、塗料がかすれてよく見えない。


「疲れたかい」

「いえ、少しも」


 私は首を振った。


 先輩は階段に向かった。私は自転車を看板につけて止め、闇に紛れ込んでしまいそうな黒い背中を追った。


 階段はただでさえ弱々しい明かりが時折ちらつき、地面の凹凸や石もあって歩きやすいとは言えなかった。そこを先輩はゆっくりと、迷いのない足取りで進む。ポケットに両手を入れているのにバランスを崩してしまわないのが不思議だ。一方の私は、先輩の足が置かれたところをたどって、大きな時計の振り子のように揺れながらついていった。


 頂上に来ると街の音も霞んで、空気の冷たさがひときわ深く押し寄せてきた。足元には背の低い草が生え、油断すると思いがけない窪みにつまずいてしまう。先輩は、私から数歩離れたところで木に縁取られたこの空間を眺め、やがて言った。


「空を見ようと思って」


 小さな風にもさらわれてしまいそうな、かすかな声だった。先輩は本の入った鞄を地面に置き、静かに草の上に寝ころんだ。


「月が隠れたらもっといいんだけど」


 雲の欠片一つない空の片隅で、半分から少し欠けた月が確かに目をひく。それでも多くの星が広い藍色のなかに散らばって、様々なリズムで瞬いている。あれが何座であの星が何でと分かるほど詳しくないけれど、少し目をこらすとオリオン座の一部らしき連なった三つのきらめきがあった。


 先輩は体を横たえて、私は立ったままで、時間が過ぎていった。どこかから響く救急車のサイレンも気づけば止んでいた。吐き出されては空に溶けていく白い息だけが、時間の流れを伝えている。先輩は、わざと息を潜めているかのように、かすかな音さえ立てなかった。もしかして寝てしまったのだろうかと視線を落とした時、その影がわずかに動いた。


「何に見えるかい、あれ」


 先輩の筋ばった指がゆっくりと掲げられ、空の一点を示してぴたりと止まった。その先には、さえざえとした光が今にもこぼれ落ちそうに揺れている。


「えっ」


 私は言葉に詰まった。けれど、何って言われても、星じゃないんですか、と答えた。


 先輩はいつの間にか腕を下げて、元のように黙り込んだ。そして、私がしゃべってからゆっくり数拍をおいた後、


「そうか」


と言った。深いため息のような声を聞いた瞬間、私は取り返しのつかないことをしてしまったと確信した。みぞおちの辺りを冷たく打ちのめされたようで、ただ立っていることしかできない。


「僕には穴に見える。黒い空に穴が開いて、明るい外がのぞいてるんだ」


 先輩の言葉は私に目もくれず、闇の中にかき消えた。私は視線をなんとか星から引きはがし、先輩へと向けた。先ほど空をさしていた右手は、分厚いハードカバーの入った革の鞄に、肩を抱くようかのように優しく添えられていた。



     ×



 最初に目に入ったのは誰もいない座席と窓越しのプラットホームだった。艶のない床には乗客の残した疲労と倦怠が積もっている。ドアの上の電光掲示板が終着駅の名を告げていた。


 過去に忠実な夢だった。二年前の冬、確かに私は彼と星を見た。いや、星を見ていたのは私ひとりだった。階段を下ったところで彼と別れた。それが本当の別れになった。今に至るまで会うこともないし消息も分からない。彼はもしかしたら本当に、外とかいう所へ行ったのかもしれない。何気ない足取りで、読みかけの本を携えて。


 マフラーを巻いてプラットホームに降りた。街の明かりを吸った雲が空を覆っている。星は見えない。




 終

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ステラと終章 藤枝志野 @shino_fjed

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