誘蛾灯

【民家全焼で一家三人死亡一人不明】

■日午前二時二〇分ごろ、E県F市の会社員ホンダマコトさん(■■)宅から出火、鉄骨三階建て住宅を全焼した。現場からは大人一人、子供二人の遺体が見つかっており、ホンダさんと長男、長女と見られる。■■署によると、ホンダさん宅は妻と子供二人の四人暮らし。妻の行方は不明。警察は行方を追うとともに、消防と出火の原因を調べている。


   ※※※ ※※※


 本当の自分が知りたい。


 あなたは言った。ここではそれが叶うと聞いて来たと。入り組んだ路地に門扉を構える洋館、屋敷林に囲まれたその一角に住まう魔女が叶えてくれるのだと。本当の自分を教えてくれるのだと。


 わたしはにっこりと微笑み、あなたを奥の部屋へと連れていく。カーテンを閉める。向かい合わせに座る。テーブルの上のろうそくに火をつける。二人の間で火がゆらゆらと揺れはじめ……


 そしてあなたは思い出す。


   ※※※ ※※※


 何らかの事故というのが何なのか教えてくれる人はいなかった。新聞記事を調べても、それらしい事件、事故はない。それどころか目立った外傷さえ何もないのだ。どうして自分が記憶を失わなければならなかったのかさっぱりわからなかった。


 わたしの記憶は、病院のベッドからはじまる。目覚めると、看護師や医者が慌ただしくやってきて、いくつかの質問をした。うまく答えられずにいると、先生が深刻な顔で言った。


「あなたは事故に遭われたんですよ」


 そう言われても何も思い出せなかった。しばらく経ってから夫がやってきて、またいくつか質問を投げかけてきた。わたしは数えきれないほど首を振り、何も覚えていないことを示した。逆に、事故とは何なのか尋ねる。夫は答えてくれなかった。医者と相談したうえで教えないことに決めたらしい。折を見て話してくれると言うが、退院して一か月が経ったいまも真相は伏せられたままだった。


 ホンダミノリ。それがわたしの名前だという。郊外の三階建て住宅に住まう二児の母で、平日は近所の塾で事務のパートをしている。


 子供たちに記憶喪失のことを説明するのは骨が折れた。いまでも、わたしの記憶を当てにするような発言がたびたび飛び出してくる。約束、友達の名前、食べ物の好き嫌い。思い出せずにいると、彼らは悲しげな顔をした。


「ねえ、ママはいつ戻ってくるの」


 そんなことを訊かれる。そんなに先のことじゃないわよ。そう答えるとき、どうしてか胸がチクリと傷む。一刻も早く記憶を取り戻したいのは事実だ。けれど、そうなったらいまこうしてものを考えているわたしはどうなるのだろう。記憶が戻らないことに少しだけ安堵を覚えている自分がいる。


   ※※※ ※※※


 集合的無意識という言葉を聞いたことは?


 あなたは首を振った。


 わたしは説明する。集合的無意識とは心理学者ユングが提唱した概念だ。彼は人間はみな意識の深奥に個人を越えた普遍的な心の働きがあると考えた。


 ユングは集合的無意識をあくまで心の働きを説明するものとしてとらえていたけれど、実際はそれだけじゃない。わたしたちの意識はあらゆる時間と場所につながっている。アカシックレコード、と言ったらわかるかしら。この星、いえこの世界が蓄積してきたありとあらゆる記憶、それはほかならぬ人間の意識の奥底にこそ存在するの。過去だけじゃない。意識の深奥に到達できれば、未来の記憶だって読み取れる。あなたがしたこと、これからすること、あなたのことがすべてわかる。本当のあなたのことが。


 信じられない、といった顔であなたはわたしを見つめている。


 いまはまだ信じられなくてもいい、とわたしは微笑む。重要なのは言葉じゃない。感覚と経験。あなた自身がどう感じるか。


 そして、ろうそくの火へと視線を促す。


 火をじーっと見て。このはかない揺らめきがあなたを意識の深奥へと導いてくれるわ。


   ※※※ ※※※


「まだ思い出せないの」イトウという女性が言った。「わたしのことも?」


「ごめんなさい」


「いいのよ。しょうがないわ」


 イトウが訪ねてきたのは、平日の昼下がりのことだった。お風呂場の掃除を終えて、リビングで休憩しているとチャイムが鳴った。インターホンを取ると、鋭い顔つきの女性が映った。なんでも子供の同級生の母親、いわゆるママ友らしい。不審に思ったが、子供のことを知っているみたいだったので家に通した。


「あの……事故のことって何か聞いてますか?」


「記憶を失うきっかけになった事故のこと?」イトウは言った。「聞いたというか……噂にはなってる。言っておくけど、わたしの口からは話せないわよ。それが正しいかどうかなんてわからないし、お医者さんにはまだ知らない方が言われてるんでしょ。それより、敬語はやめない? 記憶を失う前はタメ口だったでしょ」


「それを覚えてないんですよ」


「あら、そうだったわね」イトウは簡単に認めた。「それより生活の方はどう? 何か困ってない?」


 わたしは苦笑した。むしろ困っていないことを探す方が難しい。どこになにをしまったかを思い出せないだけでも一苦労だし、町中で声をかけられても誰かわからず気まずい雰囲気になったりする。子供たちはわたしの記憶がないことをいいことにありもしない約束や決め事をでっちあげるようになったし、夫はわたしを気遣いながらも明らかに不満げな様子だ。このような状態で仕事がまともに勤まるはずもなく、パートも休みをもらっていた。


「そう。早く記憶が戻るといいわね」


「ええ」


 そこでイトウは何か思い出したように、


「そういえばあなた日記をつけてなかった?」


「はあ」


「ごめんなさい。それを覚えてないんだったわね」イトウは早口に言った。そして、思い出すように「一度聞いたことがあるの。日記をつけているって。誰かに勧められたらしいけど……三日坊主になってなければ、記憶を思い出すヒントになるんじゃない」


 日記とは言ったものの、その形態までは聞かなかったらしい。ノートや日記帳の類に書いていたのか、それともスマートフォンのアプリにでも記録していたのか。どういうわけか事故に際してスマートフォンを紛失してしまったらしいので後者なら望みがないが、前者なら家のどこかにしまってある可能性がある。


 イトウが帰った後、わたしは日記を探しはじめた。記憶が戻るのは少し怖い。しかし、このまま何もせずに待つのはそれはそれで居心地が悪かった。日記のことは家族に秘密だったらしい。それとなく訊いても誰も知らなかった。なかなか見つからなかったが、数日後にはクローゼットに敷いたすのこの下から赤い表紙の日記帳が出てきた。


   ※※※ ※※※


 拝火ゾロアスター教に限らず火は太古から神聖なものとして拝められてきた。火は文明の象徴。それは神話をひも解いてもわかるわ。ギリシャ神話のプロメテウス。彼は人間に火をもたらしたことで神の裁きを受けることになった。火がそれだけ大きな力を持っているからよ。


 さあ、火に意識を集中して。


 あなたはこれから旅に出るの。過去から未来にかけて、自分を知る旅に。ここに帰ってくるとき、あなたは本当の自分を知ることになるはず。だから、さあ、いってらっしゃい。井戸の底へと降りるように、あなたの意識の深奥へとゆっくり降りていくの。大丈夫、この火が暗闇を照らしてくれるわ。だから、さあ。


   ※※※ ※※※

 

 日記を見つけてから数週間後、わたしはボヤ騒ぎを起こした。


 キッチンでパスタを茹でるお湯を沸かしていた時のことだ。ガスの火を見ていると、意識がボーっとして来て、気が付いたら、鍋から泡がごぼごぼと噴きこぼれてきた。泡を飲み込んで勢いを増した火は、オレンジ色に燃え上がり、鍋を包み込んだ。リビングで遊んでいた子供が騒ぎはじめて、はっとわれに返る。わたしは慌てて火を止め、なんとか事なきを得た。


「少し休んだらどうだ。食事は何か注文すればいい。外食って選択肢もある」


 夫はそうわたしをいたわってくれた。しかし、なぜだろう。どこか心がこもっていないように聞こえる。まるで、心配しているのはわたしではなく、家財の方だとでもいうように聞こえるのだ。


 何はともあれ、夫の言葉に甘えることにした。掃除はしばらく休むことにし、洗濯は近所のコインランドリーですませ、買い物も可能な限り近所のコンビニを利用した。それでも、育児だけは休む暇がない。毎朝、子供たちを学校へと送り出し、宿題や明日の準備をするよう促す。それだけで、どうしてこんなに疲れるのだろう。そう思いながら昼寝するのが日課になった。


 思い出されるのは、魔女の館のことだ。数週間前、日記に書いてあった住所を頼りに訪れたのだ。魔女は「本当の自分」を教えてくれるという。その意味はよくわからないが、過去の自分を取り戻す助けになるかもしれないと思ったのだ。


 魔女の館は、暗渠と思しき細い路地の先にあった。ツタが絡まった白い門扉。チャイムのボタンはなく、わたしはゆっくりと扉を押し開けて敷地の中に入った。むせかえるような緑がわたしを出迎える。地面は草で覆われ、館を囲むようにして屋敷林が植わっていた。館は二階建ての瀟洒な洋館で、赤いレンガ積みの壁にやはりツタが絡まっている。子供の絵本に出てくる魔女の家とそう相違ない。


 扉にはやはりチャイムがなく、ノッカーを叩いて呼び出した。ほどなくして、年齢が読み取りづらいソプラノが応答し、扉が開かれた。魔女だ。彼女はわたしを出迎えると、用件を聞いた後、奥の部屋に導いた。部屋の中心には小さなテーブルがあって、その上にろうそくが乗っていた。魔女が遮光カーテンを閉めると、部屋が暗くなって……その後のことは覚えていない。かわりに思い出したのが、未来の自分――本当の自分だった。


 火――


 わたしは火に魅入られている。


  ※※※


 最初の訪問から間もなくして、あなたは魔女の館に舞い戻ってきた。


 記憶を消してください。


 あなたは言った。目線を落とし、握りしめた拳に視線を向けながら。まるで抑えがたい何かを必死で抑え込んでいるかのように。


 わたしは火を見ました。大きな大きな、火。炎。それが家を包んで……わたしはそれを家の外から、少し離れたところから見ていました。ああ、中には夫と子供たちがいる。助けに行かないと。そう思いながらも足が動かず、その場に立ち尽くしていました。そして、気づくんです。自分の手にライターが握られていることに。


 あなたは大きく息を吐き出した。肩を震わし、言葉を紡ぐ。


 わたしは火を見るのが怖い。なぜなら、もっと大きく燃え上がる様が見たくなるから。もっと大きなものを焼き尽くす様が見たくなるから。もう何日も料理をしていません。夕食はずっとできあいの総菜と冷凍食品で済ませています。朝食のハムエッグだって作れません。火が怖い。わたしはわたしが怖い。


 だから、記憶を消してほしいの?


 あなたはうなずいた。


 そう。なら、しょうがないわね。


 わたしはにっこりと微笑み、あなたを奥の部屋へと導いた。


   ※※※ ※※※


 日記をつけはじめたのは、あるママ友の勧めだった。家事と育児に追われる日々の中で疲弊していたわたしに、何か自分だけの時間を作るよう助言してくれたのだ。思えば、魔女の館を紹介してくれたのもあのママ友だった。本当の自分。それを教えてくれるからと。


 わたしはどうすればよかったのだろう。


 魔女の館に出向かなければ、本当の自分なんて知らなければこんなことにはならなかったのだろうか。それとも、ただ気づくのが早まっただけだろうか。これこそがわたしの本質で、いずれ目覚めることが約束されていたのだろうか。


 わからない。しかし、ひとつだけこの苦しみから逃れる方法がある。


 わたしはもう一度、あの館を訪れるつもりだ。この忌々しい記憶を消してもらうために。


 この日記はいつかと同じように家のどこかに隠すことになるだろう。いずれ、記憶を失ったわたしがふたたび見つけることになるかもしれない。これはどっちに転んでも不幸な賭けだ。見つからなければ、わたしという人格は永久に忘れ去られる。一方で、見つかればきっと同じことが繰り返される。それでも、わたしは、わたしがわたしとして存在した証がほしい。だから、わたしは日記を残す。ただし、すぐには見つからない場所に隠して。


 さよなら、わたし。

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