125
全てから隔絶された場所だ。時間の経過もなんら感じることは出来ない、夢のような現実の中。死に一番近く、生に一番近い僕の内側。
厳密に言えば、肉体そのものではない精神体だからなのだろうか。立ち上がりも歩行状態も良好で、退院直前の現在と遜色無い。明日から元の生活に戻り、正式に復帰する兆し。動作のひとつひとつに緊張が少し走るリハビリの際とはまた違う、体重を感じられない程軽やかな両足は、僕の前を行く陛下を追って雛鳥のように必死に動き始めた。夢と現の境界線、一生のうちに一度も無いであろう場所を再び歩んでいる。重圧と緊張と、悲観することばかりが先んじていた以前と違い、生きている確信があるからこそ足取りに自分の重さが乗っていた。
……美しい。
何のしがらみも思惑も、負の感情さえも削除された光景と言うものはなんて素晴らしいものなのだろう。視界に映る範囲に一切の不安事が無い、胸のうちを棘に抱かれる思いも痛みも綺麗さっぱりと消失している。ともすれば油断にも近い程の安堵を覚えることは、かの尊きお方がこの空間に伴って歩んで下さるお陰もあるのだろう。初めてこの場所で、間近で出会ったあの時。救われた、と。神にも縋る思いを打ち捨てて、眼前に現れたこのお方を。陛下の差し伸べて下さった手を取ることが出来た日を、忘れない。
「良き表情に戻ったな。そなたも、そなたの内も」
はい。そう、良く通る声が僕の中から出てきた。明るい、何をも憂うことが無い、自分でも驚く程活力を感じる音だった。生気が宿るとはこのことだ、自らも知らなかった己を理解し今はただ新鮮な感覚を噛み締める。
陛下が、その芙蓉のかんばせを振り向かせられた。ほの暗い明るさに照らされる御身は、地には存在せぬ花のよう。天上よりお越し召された、陛下以外には存在が無き唯一の美しさ。さぞ、全てに賛美を尽くされ続けたに違いない。この世で完成された概念とほど遠い、冒涜的で暴力的とも捉えられる……人間の範疇で努力をしたとしても生涯辿り着けぬ境地へ在らせられるお方だ。そんな彼に、踏み入って頂けていることが今でも信じられない瞬間はいつでもある。
「殻を破ることを、怖いとお思いかい。回復をしたと言え、自分でさえ知らなかった力を手に入れることはとかく動揺が大きいものさ。それこそ、手にした能力の大きさに無自覚であればある程、人と言うものは愚鈍と成り力に溺れてしまう。……そなたは、そうはならぬと信じておる故。いずれか、現の場でまた相見える折も、この水底に波乱が無きことを祈ろうぞ」
「有り難き御言葉でございます、しっかりとこの胸に刻んでまいります」
緊張の最中、喉の真ん中からするりと声を放った。一国の主殿を近くに、身体も心も緊張感が拭えるまでに成るには、この平民の身を余程屈強にせねばなるまい。けれども、今は一つとして分からぬ子供では無いのだ。…ほんの少し、少しだけ。王としての側面では無く、同い年の青年を感じられる優しい声色と口調が見えたことに、胸が嬉しさで騒いだ。歩み寄って頂いたことに涙が込み上げて来そうで。
陛下が、慈しむように。その視線で全てを撫でるような優しさを伴って、この水底の空を見上げている。……嗚呼、何と、なんと壮麗な光景であろう。澄んだ色が、快調を共に喜んでいてくれるようだ。僕自身の内側がこんなにも素直に魅せてくれているお陰で、心がこれからも平穏を保ってくれるのだろうと言う晴れやかな未来を語ってくれているかのよう。
その気高き黒が、仄暗さにそのまま溶け込んでゆく罰当たりの幻覚が。この両眼の紺色に突き刺さる。水に波紋を立てるよりも静寂だった、全ての音がいつの間に盗まれてしまったようで、とぷりと何処へとも沈み込んで、闇に紛れて散り散りに同化されていく。何よりも暗い黒を纏うこのお方が、ひっそりと、視線を逸らした一秒の中で消えてしまうのでは無いかと思う程。儚い存在として目に映る理由は、恐らく他人を意図も容易く酔わせる美貌だけでは無さそうだ。
「さて、話も惜しいが本題へ入ろう。そなたも療養を完全に終えたようで何より、私の目から見ても此処は既に何一つの心配もあるまい。然らば渡そう、約束の品だ。少しでも役に立てるが良い」
陛下の唇が「おいで」と紡ぐ。すると、僕の視界よりもすぐ下から、スッといきなり湧いて現れた白色が目についた。急なことに両足の踵が浮きそうになったのだけれど、それがあまりに静かに、美しく、僕が驚いていることなど気にも留めずに陛下との視線が重なる所へとふわりふわり浮き上がる。
白い、海月、だ。
この入院沙汰が起こる大きな原因にもなった、僕の中にいたあのどす黒く不気味な寄生物とは比べようにならない程の小ささで、純白な体色を纏いながら傘を収縮させてぷかぷかとその場に留まっている…まるで陛下の眼前で気を付けの姿勢を取っているかのように。海月に骨は無い筈なのだが、その小さなサイズの身体の中心に、確かに一本真っ直ぐな何かがあるかのような立ち…浮き振る舞い、だった。このまま待っていたら、もしや鳴き声まで聞けてしまうのではないかと変なことを考えられるくらいには生気に溢れる気配がする。
ただ、あともう一つだけ気になるところがあるのだが。
「……陛下。見間違いで無ければ、今、僕の身体の中から出てきたように見えたのですが、」
「ああ。出てきたなあ。…どうやら間違えて外にまで勝手に出たようだ。落ち着かず、そなたの奥深くにまで隠れて大人しくしていた様子だな」
「えええ」
そう、本当に見間違えでは無かったとのこと。そしてまず間違うことも無く不穏な言葉が耳に入ってきた。この真っ白な海月は、今やはり、僕の方から出てきたこと。それに…外に出たとも。
不思議なもので。理解を超える現象を目に入れると、直近での同じく理解に繋がらない出来事と直列に設置すれば答えが出ることが多い。現実でも、小説の世界でも。
入院中の身であるからか、その軽やかに揺れる傘と触手の色味にガーゼを彷彿としてしまった。そう。この説明が未だに難解な存在が、僕の身体から外に出ていた……なら、病室から見た、あの、幽霊かとも思ったものの枯れ尾花は…。点と点が自ら近付いて線になっている。表情がとてもかたくなるのを感じたが、露骨に変な顔になると言う無礼な真似だけは避けられた筈だ。恐らくどころか、断定出来る。色こそ違えど海月と言う形が同じと言うことは、僕の中身に関係がある存在なのだろう。それが今僕の中から出てきて、あまつさえその前は外を彷徨いていた……とんでもないことに、ほぼほぼ内臓露出とイコールのことが、僕の知覚の外で行われていたのではないのでしょうか。おかしい、今は精神体であると言うのに、少し体調に変化が出たような気がする。気がするだけ。
「…あの時はそなたに余裕が無かったからな。なれども、覚えているだろう。前世と言う人格は破壊に至ったが、その記憶は道具として利用することに問題は無い」
「と、すると、こちらは、」
「本当はすぐに教えたかったのだがなあ。快復を待ってからの方が良いと判断した。少し遅れてにはなるが、早めの快気祝いと言う名目にしておこう。……これは、そなたの内の新たな番人であると同時に、記憶庫としての役割を担うものだ。掻い摘んで言うと記録媒体である」
無重力でステップを踏んでいるみたいだ。ふわっ、とその傘を膨らませながらゆっくり僕の目線の高さまで海月が浮いて来る。現実に生きる生物であれば、自力で泳ぐことは困難である筈だけれど。僕の魔力が混じる中で存在をしているのだ、生態の確認は殆ど意味が無い。
とうに散り果てた化け物と形が似ている、とは言え。敵意や害意、脅威たり得る物を全く感じないのは、色から与えられる印象からなのだろうか。いいや、この存在を呼んだお方。陛下の御言葉が在ることもこれ以上無い程の後押しである。疑いようは万に一つも無い。薄暗い中でも、光を着実に辿るような動きで、海月はじっと僕を見つめている。次の行動を、待っている。
「ウィドーやロジーとてそうだ、彼等は元より前世の記憶は最大限利用して役立てておる。加えて、誰の干渉も受けずに前世の残骸を処理して己を確立した。…その身体が受け入れられる人格は一つ以外に不要であるが、記憶は情報として持ち得ていれば何かの役に立つこともあろう。これは、そなたの無意識の下に隠されていた、意識的にも思い出し難い記憶まで担っている…とは言え、あくまで前世が見聞きした程度の情報のみに留まるが」
今のそなたに不必要な機能は全て削ぎ落とした、いつでも持ち歩ける本のような物だと思って良い、と。転生と言う奇跡を超えてきたあの彼等の名を連ね、比較すればまだまだ若く未熟な僕に、余りある善意。大きな混乱を、それよりも巨大な慈しみが抱きとめている。尖った輪郭をしている戸惑いを丸く包んでしまい、すぅと心を平静へと入水させていく。
何故。どうしてこのお方は、取るに足らぬ木っ端である僕にも気を遣って下さるのか。ウィドーやロジーは転生と言う通過点こそ同じではあるが、僕には直接的な接点は全く無い。二人とも陛下に近しい存在で、職も身分も高い位置。陛下の伴侶であられるカナリア女王とエリーゼは友人関係と言う線で結ばれていても、僕と陛下は決して並び立って良いものでは無い筈なのに。
妻の友人のよしみだ、と。命を救って頂けた際に紡がれた言葉は、有難い幸福と思うと同時に。あまりに、僕には不釣り合いだと、今も尚思うのだ。繋がりそうで繋がらないこの違和感は、何と言う表現の枠を見つければいいのだろうか。そんな心境を見透かしたように、陛下はその微笑みの先に僕だけを映して安心へと導くのだ。
「……名付けはそなたが行え、ノア。何かを知りたい時、思い出したい時。これの名を呼び、この世界を生きる為の手段として使うと良い」
目にあたる器官が、僕の方へと向いている。幼な子が、迷いながらも光に手を伸ばす如く。僕の額にぴとり、と小さく冷たな触手があたって。どうぞよろしく、とでも言われている気分になった。
陛下の指がほどかれ、その手のカンテラが水中に浮けば、糸を崩すように溶けて消えていく。明かりが失われ、仄暗い闇へと戻る周囲の光景が夢の終わりを告げに来た。
優しく、暖かな水底。僕の根幹が、何者にも乱されない穏やかさをどこからともなく聞こえる潮騒を子守唄にして、この場所を鎮めていく。
「いずれ。そう遠くないうち。こちらの世界に来た者同士、顔を合わせる機会が来る。……そなたが持つ疑問にも、きっと答えられるだろう」
今はそなた自身を守れるよう尽力するのだ、
カーテンコールの後。閉じる幕と共に出番を終えたと言わんばかり、陛下は僕に背を向けたまま、その手を高く挙げ振られていた。
夢の幕が閉じられた時。柔らかな静寂と共に、僕の意識も、溶けていく。
努めねば。勉めねば。勤めねば。務めねば。
己を守れぬ男が、愛する者をどうして守れると言うのだろう。その覚悟を、もっと。もっともっと、鋭く、研ぎ澄ませなければならない。
白き色に見守られ、此処で眠りへと落ちる。現実への覚醒に向かって、ゆるり、ゆるりと。落ちていく。
太陽よりも苛烈な、愛する真紅を求めて。
悪役令嬢が最推しなので、捨てられた彼女をお嫁に貰います マキナ @ozozrrr
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