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 沈む、沈む、意識の底に。其処に痛苦は無く楽土も無し、ただ静寂だけが満ちる安寧の海へと落ちて行く。

 意識は消え、睡魔に逆らうような理由も用意する必要性も無い時間だった。ただずるずると積み重なった疲労感を蕩けさせた後に、目蓋を両方閉じた覚えはある。


「……夢かな…?」


 深い紺の瞳を開けば、自分を表すこの色と同じ海が広がっていた。つい先程まではこの背中に当たっていた感触は、ベッドの柔らかい材質であったのだが。寝入ったままの姿勢で、確認をするように何度も瞼を開閉するとようやく冷静になって周囲の一つ一つを摘んで理解を深めていく。

 海底だ。他に何の言い様も無い、暗くて寒い海の底。けれども、あちこちに点在する明るさが不穏の全てを掻き消している。大きな蛍でもそこに止まっているのだろうか?綺麗な球体の光は、まるで祭事の頃の空模様を思わせる。自分の瞳の中まで輝かせてくれるような、眩しさを目で追いながらノアはゆっくりと上体を起こすことにした。


「……夢、だなあ、」


 頬をかきながら指で抓ってみるが、これが良く分からない。痛いのか痛く無いのか、捻られている違和感だけは皮膚に刻み付けられたのだが。水の中だと言うのに呼吸も出来る、目を開いても潮が傷めつけてくることも無くて。つまりこれは明晰夢だ、現実には有り得ない状況が確立している景色を拝みつつ。同時に、いつかどこかで……近くで、見た覚えのある光景に。既視感のある情報に、今は恐怖よりも心を落ち着かせる効果を感じていた。

 袖を通している衣は、間違いなく入院着。やはり自分は寝る時までは病院に居た証拠だ。しかし病院から本物の海に沈められてしまうなど、現実世界で起こってしまえばただの殺人事件だ。明日はようやくの退院予定の日、病院を後にしてからの予定もラム先生と話して明確になって。安心して睡眠を取れる、とベッドから離れられなかった自分の姿が忽然と消えていたのなら大騒ぎになる筈だ。ヒュプノス癒術院は患者一人が行方不明だなんてことを許すセキュリティでは無い、これが現実では無いと否定する材料を増やせば増やす程、夢からの目覚めに近付いていくような気がする。

 けれど。この海が、前は、もっと暗くて。息苦しくて。孤独の象徴に思えて仕方が無かった筈なのだけれども。はて、と首を傾げてゆっくりと立ち上がると。


「上出来だ。状況を冷静に解いて判断していく用心深さは及第点と言ったところか」


 ……自分の。僕、の、行動を肯定する声が響いた。耳に入ってきたその途端に、張り付いている皮膚の全てが泡立つ感覚を訴える。水に邪魔を受けることも無く真っ直ぐに僕の元へ届いた声色は。眠りを司るヒュプノス神と言われても信じてしまいそうな程に優しく慈しみに溢れたものだった。

 すぐにそちらの方向へ向くと。この星々のような光と似た、明るい色のカンテラが声の主の手元に揺れている。その所作でさえとても雅だ、けれど海の底であっても存在を濃くする色は、カンテラと身体の境界線を強調するかたちになっていて。瞳の中心に、蜃気楼のように、重力を無視した軽い動きで歩みをこちらへ進めて下さる姿に僕は一瞬息を飲み。そして、目を見開いて、輝かせた。まるでこの双眸にまで周りの光が宿ったかのように気持ちは高揚する。

 世界の何より暗い黒、ご自身でさえその色に溶けてしまっていきそうな儚さと不気味さを両立させる出で立ちは。王国民の運命全てを背負う、齢十七とは思えない程揺らがなさを兼ね備えていて。

 その黒き双眸が、僕を捉えていることに。今は緊張と共に、喜びが芽生えていた。息が出来なくなる程の不安や恐怖は失われ、この身に受けた潤沢な恩恵が、今目に映すことを許された尊き方に対して眩しい感情しか持つことを許さない。されどそれがひどく喜ばしく思えるのだ。


「久しいな、ノアよ。快方に向かっているようで何よりだ」

「──ベニアーロ国王陛下、」


 嗚呼、なんと言うことか。こんなことが、一つの生の間に数度もあって良いものだろうか。平民には余りに勿体無い御言葉である。

 もやに包まれていた思考が急速に纏りを見せる。……此処が何も無い場所では無いと、此処が、僕自身の内側であると、過去に。すぐ前に、教えて頂いた。僕がまたエリーゼ様を抱き締めることが出来た、この世とあの世の境で大きな橋となって頂いた。その御尊顔が、海の底で。僕の、心の中で、真白い肌で微笑んでいる。舌を噛んでしまいかけた口を一度戻し、震える声でようようとその名前を呼ばせて頂いた。この声には、今、嬉しさしか無いのだから、傲慢に見えていないだろうか。

 恥じぬ命を見せてみよ、と。その唇が動いたのを覚えている、焼きついている。僕は生きたいと言う願望を、欲望を、何としてでも生にしがみ付いて執着してこちらへ戻って来れたことを、エリーゼ様をこの腕にお迎えさせて頂いたことを、何より誇りに思えるようになっていた。どれ程醜く見えようと、生を掴み取る為には必死で足掻く……それが僕にとっての醜い美しさであると自覚をしたから。

 命の恩人であるそのお方は、悪戯に煽ることも無く。砂漠に落とした石ころ一つを、空から掬い上げる如き眼差しでころりと微笑んで下さった。……外交の際もこの容貌であられると、さぞかし相対した者は気持ちが傾いてしまうのだろうと確信出来るものだ。悪辣だとさえ解釈してしまいそうな程の強烈な魅了に、ほぼほぼ夢の中であるとは言え起き抜けに必死で抵抗するのは心臓に悪いと、呼吸をしながら思った。


「少しは明るくなったであろう、前が分からぬ程の暗闇はもうここには無い。見える世界も変わったか?そなたの努めもあってこその場所だ」

「はい……はい、ありがとうございます、陛下、何より身に染みるお言葉にございます、」

「良い、今宵は私の都合もあってそなたの中へ介入させて貰った次第である。そなたも十分静養し、動揺せずに受け止められる機会と見たからな」


 そなたの海は、今どう映っている?

 心の、魂の奥底の、誰にも明かすことも出来ない場所。かつてここに凍りつく程の恐ろしさを住まわせていた怪物は、もういない。刺さる刺は泡と消え、幼い僕の悲しみも喜びも、今の僕の憂いも悦楽も溶かした心の海の底。

 僕は、何の躊躇も無く、「綺麗です」と応えた。怖いと評した自分は、それを乗り越えた故に塗り潰されていたのであった。

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