第8話 ありふれた二者択一
「私と仕事、どっちが大事なのよ!」
雷雨でも降らせんばかりの剣幕でそう言い放つ彼女に、さすがの僕も食事の手を止めて顔を上げる。
今年で3年目になる、部屋の雰囲気にもそこそこ馴染んできたダイニングテーブルの向こう側には、見慣れた僕の彼女――カオリの怒り顔が、仁王像よろしくこちらを見下ろしていた。
何故カオリがこんなに感情を露わに僕に詰め寄ってきているのか、原因はわかっている。
僕が彼女との約束を反故にしてしまったからだ。
結果から見れば、僕の方が悪者という形になるのだが、悪者なりの言い訳をさせてもらうなら、元より仕事の都合次第で守れる保証はないと伝えていたはずなのだ。
無論、それでカオリが素直に納得し、引き下がっていたのなら、こういう事態に陥ってなどいない。
今はとにかく、彼女の機嫌を取るのが最優先だ。
このまま無視をして食事を続けたところで、カオリのことだ、自分の納得のいく回答がもらえるまで、ずっと付きまとってくるに決まっている。
仕事で疲れて帰ってきているこの状況で、それだけはどうしても避けなければならない。
そうと決まれば、僕なりの正答をプレゼントするだけだ。
「ごめん。俺が約束守れたなら、カオリにそんな思いをさせずに済んだのに……」
いつもであれば、ここでカオリも幾分冷静さを取り戻し、和解へ向かうはずだ。
ところが、今日に限っては違った。
「だったら、本当に悪いって思ってるなら、明日デート連れてってよ!」
「明日って……さすがにそれは無理だって。有給の申請が受理されないと――」
「じゃあ明日申請して! 明後日デートだから、絶対だからね!」
「わかった。わかったから。明日申請出すから。だから、飯を食べさせてくれ」
「うん、約束だよ」
そう言いうと、カオリはようやく僕の前から離れ、踊るような軽い足取りで浴室へ通じる廊下へと消えていった。
カタンという戸の閉まる音を最後に、ようやく訪れた静穏な時間。
僕は手に持っていた茶碗をテーブルに戻し、深くため息を吐く。
どうして仕事で疲れて帰ってきて、彼女にこんな責められるようなことを言われないとならないのだろう。
こっちだって、一緒に遊んでやれるものなら遊んでやりたい。
でも、この社会で生きていくには、仕事の比重が大きくなってしまうのは致し方のないことなのだ。
それを理解してくれないというのなら、その時は僕たちの関係を見直すことも、選択としてありかもしれない。
「……まぁ、一応約束はしたし、明日、申請だけはしておくか」
何はともあれ、一度した約束を故意に破るのは僕の主義に反する行為だ。
仕事の進捗から考えても、申請が通るわけもないだろうし、結局無理だったということにして、カオリには諦めてもらおう。
それでもしつこく言ってくるようだったら、その時は――。
だが、大抵の場合において、運命とは大変に皮肉なものである。
「えっ、いいんですか?」
上司から帰ってきた予想外の回答に、僕は思わず聞き返してしまっていた。
すると、上司はにこやかな表情を浮かべ、親切心が故か、丁寧な性格故か、一度口にしたものと同じ文句を繰り返した。
「あぁ。君ってここ数か月ずっと頑張ってたからね。休める時にしっかり休んでおくといい」
「は、はぁ……」
「それに、上の方からも有給消化させるようにって通達が下りてきててね、こういうのって休むようにって強要するわけにもいかないからさ、いやぁ助かったよ」
安堵した様子で、長々と自らの事情を話し続ける上司。
僕は結果的に有給が取得できたことで、これからカオリに連絡をしなければとか、自らが担当する案件の引継ぎをどうしようかとか、考えているようで考えられていない、上の空ともいえる精神状態で、相変わらず語り続ける上司の言葉を聞き流していた。
「ん……んんっ?」
誰かに急かされることもなく、ゆったりと訪れた自然な目覚め。
アラームなしで起きられたのは何年振りだろうかなどと、そんなことを思いながら僕は身体を起こす。
心なしか、普段よりもぐっすりと寝られた気もするし、二度寝の気配もない。
確か、今日はカオリとデートの約束があったはずだから、朝のまどろみもそこそこに、外出の支度を始めなくてはならないのだが、幸い予定の起床時間よりも早く起きられたわけだから、余裕は十分にある。
久々の休みでもあるわけだし、少しくらいだらだらと過ごすのも悪くはない。
とりあえず、どう過ごすか考えるのは、どれだけ猶予があるのか、確認をしてからだろう。
その結論に達するなり、僕は目覚まし代わりに置いていたスマートフォンを手に取り――そして目を疑った。
「うわ……」
ホーム画面に出てきたのは、デジタルでクッキリと表示された10と30の数字。
起床の時間どころか、待ち合わせの時間すら30分もオーバーしている。
アラームが鳴った形跡もない。
セットしたつもりが、できていなかったのだろうか。
いや、それはもう過ぎたことだ。
今考えるべきは、今も待ち合わせ場所で僕を待っているであろうカオリへどんな言葉を掛けるべきかだ。
だが、どれだけ考えても、カオリが怒りを鎮めてくれるような言葉は思いつかなかった。
そうして恋人へとるべき正解の対応について、僕が頭を悩ませていると、不意に予想だにしない人物の声が、リビングの方から聞こえてきた。
「あっ、今起きたんだ。相当疲れが溜まってたんじゃないの? 私が来たのも気付かないでぐっすり眠ってたよ?」
「カオリ⁉ どうして……」
状況が理解できていない僕の前に、カオリはひょっこり顔を出すと、怒るでも責めるでもなく、至って穏やかに微笑んだ。
「どうしてって、私合い鍵持ってるし。それに、こうでも言わないと貴方って休もうとしないじゃない」
「それは……」
カオリの言葉を否定しようとするが、実際休日も顧客相手に挨拶して回ったりろくに休んでいなかったのも事実だったので、それ以降の言葉が出てこない。
そんな僕のリアクションは想定内だったのか、カオリはさして気にした素振りをすることもなく、続ける。
「だから、こうしてアラームも解除して、ゆっくり寝られるようにしておいてあげたってわけ」
「でも、それじゃあデートの約束は……」
「気にしてないわ。確かに一緒に出掛けられないのは残念だけど……こうして一緒に過ごせるだけで、私は十分だから。ほら、目も覚ましたんだし、ご飯食べよ。先にキッチン行って温め直しておくから」
それだけ言うと、カオリは嬉しそうな顔のまま踵を返し、キッチンへと向かう。
一人残された僕は、その背中をぼんやりと見つめながら、カオリについて思いを巡らす。
なんだかんだ言って、結局カオリは僕のことを大事に思ってくれていたのだ。
それなのに、僕は彼女のことを、疎ましく思ったり、自分のことしか考えていなかった。
だから、罪滅ぼしというわけではないけれど、これからは、偶には有休を取ってカオリをデートにでも誘ってみようかと思う。
照れくさくて、中々言い出しづらいだろうけど、それでも彼女が喜んでくれるなら、それもありだろう。
「早く食べないと、ご飯冷めちゃうよ~」
キッチンから届く、ほんの少しすねたようなカオリの声。
もう少し彼女を怒らせてみたいという気持ちをぐっと堪え、僕は一度気持ちを整えて返事をする。
「――あぁ、今行く」
短い言葉の中に、感謝と尊敬と愛慕を込めて。
きまぐれ短編集 一飛 由 @ippi
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