走る君よ雨の如く

@kitsunenoyomeiri

走る君よ雨の如く



 「時間は病気だよ」。わたしにそう言い放った奴は屋上から飛び降りた。

 大学一年の秋口のことだった。



◇◇◇◇



 三月の風が頬を切り裂く中、紫煙をくゆらせていると屋上の扉が開いた。


「やっぱりここにいた」


 みんな探してるよ、と少し呆れ顔でその人は言った。


「もう一本吸ったら行きますよ」


 気持ち悪くなるくらい澄みきった空に向かって煙を吐き出すと、ゆっくり大気と混ざり合って消えていった。煙草の煙と同じように消えていなくなれたら――そう思っていた時期もあった。そんなに遠くない昔の話。



◇◇◇◇



「緑ちゃん、今日来てる?」

『あれから一度も。メールは返ってくるんで生きてはいるみたいです』

「そう、家行って様子みてみるよ」

『すいません、小堀先輩』


 四畳半の部屋に光なんていらないとばかりに、日中から遮光した薄暗い部屋。そこで煙草を吹かしていたら玄関先から声がした。


「緑ちゃん、いるよね」


 サークルの先輩の声がする。返事をしようと思ったが口が上手く開かない。喉からヒュッと音がする。人間は何日も会話をしなかったらこうも喋れないのかと感心した。喋れないなら、せめて立ち上がって扉を開けようと思い、足に力をいれたが痺れていてこれも上手くいかない。身体を押し上げる腕も上手く動いてくれない。まさにお手上げ状態…。かといってこのまま放置も如何なものかと思う。居留守を決め込むにしても既に居ることがばれているのだから無駄だ。仕方がないので近くにあるものを投げて音を出そう――ぱっと掴んで投げたそれがグラスだということに気付いたのは、激しい音がしてから。


「緑ちゃん、どうしたの、緑ちゃん!」


 乱暴に扉が叩かれる。あぁ、どうしよう、余計な心配をさせてしまっている。だんだん申し訳なくなってきて半ば這うように玄関へ。最初からこうすれば良かったじゃないか。ゆっくり扉を開けると久方ぶりに見る顔があった。


「さっき凄い音がしたけど大丈夫?怪我とかしてない?」

「まぁ、大丈夫です。先輩の方こそ、わざわざここまで来て、何かありましたか」

「何かあったのは緑ちゃんでしょ」


 否定はしない。


「何日も顔出してないって聞いたから心配になったんだよ」

「わたしが生きているか、どうかですか」

「…あのねぇ」


 先輩の眉間に少し皺が寄る。そうそう、わたしその顔すごく好きなんですよ。


「とりあえず中入りますか。季節の変わり目で気温もおかしいですし」


 籠りっぱなしだったわりにはキレイですよと招き入れると失礼な第一声。


「くさいんだけど」

「先輩、それ女の子の部屋入って最初に言うことじゃないよ」

「事実でしょ。ほら、カーテンも開けて。太陽の光を浴びなきゃ」

「お母さんみたいですね」

「…母さんは娘が心配だよ」

「そりゃ申し訳ない」


 四畳半が太陽光を取り入れたのは何日ぶりだろうか。覚えてもいないし、数える気もさらさらない。差し入れだから、とスーパーで買って来た生鮮食品を冷蔵庫に叩きいれていく先輩を横目に、新たな煙草に手を伸ばす。


「それじぁ換気する意味ないでしょ」


 そう言って指に挟めたものを奪い、箱へと戻した。


「そもそも年齢的にアウトでしょ」

「大学生にそんな話しても無駄でしょうに。そんなこといちいち気にしてたら、飲みサーなんて新歓できないっすよ。うちのサークルだって強要こそしてないけど、酒注文しても何も言わなかったじゃないですか」

「そりゃそうだけど」

「飲みたい奴、吸いたい奴は好きにすればいいと思いますけどね。もしそれで寿命が縮んでも、その人が好きに吸っていたんだから。それでもいいと、そうなってもいいと分かった上で手を出しているんですから。いくら大学のレベルが違っても、みんなそれくらい分かっていますよ」

「…ねぇ、緑ちゃん、明日は学校来るよね」

「それは分からないです」

「あのさぁ…」

「先輩、何か食べていきますか」


 何か作るんで、それ食べたら帰ってくださいね。そう言うとまた眉間に皺が寄った。だからそんな顔されても嫌な気がしないんですってば。


「何が食べたいですか、小堀先輩」


 ほらまたその顔。

 いつ買ったか分からない調味料で食材になんとなく味を付けていく。火が通りやわらかくなったそれらは容易に吸いこんでいく。生ものは吸い込みがいい。


「どうぞ」

「……」

「ちゃんと味見しましたから」

「……」

「そんな不味くないと思いますよ」

「……」

「あの、冷めるんすけど」

「これ食べたら帰らなきゃダメなんだろ」

「そうです。帰ってください」

「みどりちゃ、」

「せんぱい」


 誰かと食事をしたのはいつぶりだろうか。こんなにも考え事をしながら食事をしたのは奴の葬式以来だ。口にものを運ぶという軽作業さえ、覚束なかった気がする。


「今日はありがとうございました。久しぶりに人間みたいな時間を過ごしました」


 わたしの大好きな表情のまま先輩は靴ひもを結んでいる。


「また今度、飲みに行きましょうよ」

「……」

「おごってくださいよ」


 黙らないでくださいよ。先輩にまで黙られたら、わたしどうしたらいいんですか。


「緑ちゃん、あのね」


 あ、嫌な予感がする―――


「時間は薬だから、ね」


 そう言い残して先輩は四畳半から出て行った。

扉が止まった瞬間、四畳半の呼吸が止まった気がした。

 通り雨のように一気に零れる涙が床を濡らす。


「…………しらいし…っ」


 四畳半が窒息してしまいそうだ。際限なく、苦しい。



◇◇◇◇



「緑ちゃん、あれから学校来た?」

『全然です。返事も来なくなったから家に行ってみたんですけど、反応なくて』

「そっか」

『小堀先輩は返事きましたか』

「…あ、いや、全然だよ」

『やっぱりそうですか。変な気起こしていなかったらいいんですけどね』

「……」

『どうしましたか』

「ん、いや、ちょっと急用」



◇◇◇◇



「うそつき」

「他の子にも返事しなよ。みんな心配しているんだから」

「さすがに夕方は寒いですね。自販機で何か買ってきましょうか」

「ちょっと」

「微糖以外も飲めるようになった方がいいと思いますよ」

「買ってこなくていいから」

「買ってきてくれるんですか」

「もう違うってば」


 ベンチに深く腰掛ける先輩の隣に浅く座る。


「白石くんと何があったの」


 先輩はわたしの目をまっすぐ見ながら問うてきた。声色のわりに、その目は少し躊躇いの色を孕んでいた。

 ぐるぐる駆け巡る異物に吐き気を覚える。自分の頭がついにイカレタのか、はたまた周りがトチ狂ったのか、それさえも考えてしまうあたり、わたしはどうかしている。でも、わたし以上にどうかしている人は、すぐ近くに居た。そして居なくなった。


 「白石くん」と先輩に呼ばれている奴は、わたしの所属するサークルの同期だ。元々何を考えているか分からない奴だった。哲学的といえば格好よく聞こえるが、ただのおかしな奴だとわたしは思っていた。そんな奴と恋人のような関係にあったから、わたしも同じようなものである。

 大学生になって初めての夏休みに、白石から告白っぽいことをされた。ああ、これはおそらく告白なんだろうと思ったから、それっぽい返事をした。爛れた生活を送る大学生も少なくない中、わたしと白石の付き合いはとても慎ましかった。白石の免許証で車を借りて遠出をし、何でもない風景を写生して、互いの講評をし、お腹が空いたら適当に店に入って食事をする。どこかの少女漫画でありそうな現実味のない休日を何度も過ごした。それで満足していたから、このまま緩く続いていくのだろうと思っていた。しかし、そんなことはなかった。


「藤嶋、ちょっと話がある」


 突然の電話で呼び出された。サークル棟の屋上に来てくれ、と。そこには小さな喫煙所が設けられている。どうせ喋り相手が欲しいとかそういうことなのだろうと気軽に扉を開けると、真っ白いシャツを着た白石が煙草を吹かしていた。よく見る光景のはずなのに、何かが違うと直ぐ気付いた。


「白石」


 恐る恐る、でもそれを察されないように名前を呼んだ。


「悪いな、急に」


 風が髪を激しく揺らす。

そのせいで白石の顔はよく見えなかった。

でも、たぶん、あいつは泣いている。


「なに、どうしたの。なんで泣いてるの」


 白石は返事の代わりにまだ長い煙草を消した。


「ちょっと、白石」


 違和感、が、消えない。

 ばたばた髪を揺らす風がやけに不気味だ。


「俺さ、大学でも絵描こうって決めて良かったと本当に思ってるんだ」


 白石は中学から美術系の部活に所属していて、ひたすら絵を描いていたらしい。


「わたしだって」

「藤嶋にも会えた。あのとき、本当に絵を描くのを辞めようと思ったんだ。もう何も描きたくないって本気で思ったんだ。」


さっきまで耳障りな音を立てていたはずなのに、風の音が耳に入ってこない。白石の絞り出すような声だけが透き通って聞こえる。


「でもこの時間は返ってこない。一度置いた絵の具は完全に剥がれない。置く前の状態にはどうしたって戻せない。俺が汚したものはずっと汚れたまま。キレイにはならない」


 しん、と風が止む。不気味。不気味。


「それに気付いちゃったから、もう俺は無理だよ、藤嶋」

「何言ってるか全然分かんない。全然、ぜんぜん、分からないよ」


 嘘。ちょっとだけ分かった。

白石は、もう何も描けないんだってこと。


「藤嶋」


 変に透き通った声がわたしを呼ぶ。


「時間は病気だよ」


 時間は何もかも奪っていくくせに、取り返させてくれない―と、笑ったのが最後。視界から白石が消えた。わたしは止めることも叫ぶこともできずにただ白石が立っていたところを見つめていた。



◇◇◇◇



 小堀先輩の顔はとても悲しそうで、でも少し怒っているようにも見えた。


「これでぜんぶです」


 警察にしか話さなかったことを先輩に話した。白石を知っている人に話すと、本当に白石が死んでしまうような気がした。目の前で飛び降りた瞬間にわたしの中で一度白石は死んだ。もう殺したくない。これ以上、失いたくない。


「みどりちゃん」


 何て声をかけたらいいのだろうか、という顔をしている。その顔は初めて見たけど好きじゃない。


「白石の言葉が離れないんです」


 時間は病気だよ


「でも、せんぱいは、」


 時間は薬だから


「あれ、どういういみですか…。どういうきもちでいったんですか。それが、それが、しりたくてよんだんです」


 脳裏を過ぎる言葉たちに惑わされる。


「おしえてください、せんぱい」


 白石を止められなかった手で顔を覆う。先輩は泣きそうな顔をして、緑ちゃんは何を言っているんだろうって顔をしているはず。わたしの知ってる先輩なら、多分そうしているはず。


「特別な意味がないといけないの?」


 あまりにも冷めた声に驚き、手を離す。

 そこには今まで見たことのない悲しい顔をした人が居た。


「せんぱい?」

「そのままの意味だよ。ほとんどのことは時間が解決してくれる。誰かが死んでしまって心のバランスが崩れても時間が経てば崩れたところが、新たな喜びで埋まり始める」


 もっと言おうか、と一言付け加えてその人はまた悲しい顔をした。


「緑ちゃんはさ、描きたいの。それとも死にたいの」

「そ、んな、話、してましたっけ」

「してたよ。僕はずっと」


 胸の奥がざわざわする。

ざわざわするのに頭はやけに冷静だ。


「先輩はわたしが死ぬと、思ってるんですか。だから家にきてくれたんですか。わたしが白石と付き合ってたから、白石みたいに、自殺すると思ってるんですか!」

「半分くらい思ってる。緑ちゃんがどうしたいのか分からなくて家に行ったんだ」


 どうしたいのかなんて、そんなものわたしが知りたい。寧ろ導いてほしい。


「ほら、そんな顔する」


 そんな顔ってどんな顔ですかと聞こうとしたら、「どうしたいのか分からないって顔だよ」と先を越されてしまった。腹が立つ。


「今もし死んだら、君たちはただの頭のおかしなカップルになる」

「頭おかしいなんて分かってますよ! 時間が戻らないから死ぬしかないとか、描けないから死ぬとか言って本当に飛び降りて…。あいつはおかしな奴なんです。でも、その言い分を頭の端っこで少し理解してるわたしも、おかしいんですよ…」

「…描けるとか描けないとか、それだけのことで生死を決めるなんて間違ってる」

「仕方ないじゃないですか。あいつにとって、描くことが生きがいで、全てだったんですから。…だから、白石のことだけは悪く言わないでください」


 首をがっくり落とす。髪がぱさぱさ移動して視界を悪くする。

 先輩の顔は見えないけど、きっと、いや、絶対こわい顔をしている。


「それでも、僕は自殺なんて逃げだと思う」


 かっ、と顔に熱が集まっていく。

 髪を振り乱して顔を上げる。


「じゃあ頼んだら殺してくれるんですか!」


 こんな感情的な声が出るんだと自分自身に感心する。

 拳を強く握りすぎて、体が驚いている。


「…何か、飲もうか」


 遠回しに「それ以上喋るな」と言われたような気がした。


「何か買ってくるから、ここにいて」


深く座り空を見上げると、どんよりと曇っていた。

まるで今の自分の中身を映し出したようで笑えてきた。

 そんなくだらないことを考えていたせいか、先輩はあっという間に戻ってきた。


「お待たせ」


 そう言って差し出した手には微糖珈琲の缶が握られていた。


「無糖派なんですが」

「たまには甘さも大事ってことで」


 プルタブに指を引っ掛け蓋を開けるとほんのり甘い香りがしてきた。口に運ぶとやっぱりそれは甘かった。苦さの中に僅かにあるはずの甘さはわりと目立つ。

 先ほどのやりとりが嘘のように時間がゆっくりと流れる。また空を見上げると相変わらずどんよりとしていた。


「…ちょっとずるいこと言っていい?」


 体感として十分くらいが過ぎた頃、先輩が口を開いた。


「……どうぞ」

「僕は君の前から消えたりしないし、君が白石くんの件で心と頭がおかしくなっても傍にいる。どれだけ時間がかかっても、ずっと、いる」

「ちょっと、」

「白石くんにとって時間は病気だったのかもしれない。確かに過ぎた時間をそのまま取り戻すことは出来ない。でも、それを修正していく時間はいくらでも作っていける。だから緑ちゃん、君の時間まで止めちゃだめだ」


 そんな話されると困る。


「彼が描けなくなったからと言って君が描けなくなったことにはならない」

「小堀先輩」


 そんなこと言われたら、また胸がざわつく、から。

 何か言わなければ、何か言いたい、そう思うのに言葉が出てこない。

わたしの言葉を待ってくれている。早く、何か、何か、


「わ、わたしはっ、先輩とはつきあえません、」


 やっと出た言葉が何故これだったのか分からない。急に恥ずかしくなって今度は目のあたりに熱が集まっていく。

 その様子が面白かったのか何なのかよく分からないが、先輩はやわらかく微笑んだ。


「そんな話してたっけ」

「…してました」


 多分、と小さく付け足しといた。


「ごめん。でも下心だけじゃないんだ。緑ちゃんにまた描いてほしくて、つい…」

「先輩、わたしの絵好きだったんですね。初めて聞きました」


 純粋に驚いたのと、そんなことを初めて言われたせいで少し心臓が速くなった。


「完成させた絵も勿論好きだけど、それ以上に描いてる姿が好きなんだ。ペインティングナイフを豪快に走らせる姿も、筆でカンバスを撫でる姿も…。見ていて面白くてさ。なんか、生きているみたいで」


 素敵なものに出会ったとばかりに話す先輩の横顔はとてもかわいらしい。


「僕の勝手だけで言わせてもらうと君にはまだ描いててほしい」

「本当に勝手ですね」

「それくらい好きなんだよ」

「”絵を描くわたし〝が〟、ですか?」


 わざと強調して言うと先輩は眉間に少し皺を寄せた。

 そう、わたしはこんな先輩が好きなんだ。適度な距離を取れる先輩が。


「緑ちゃんのそういうとこ嫌い」


 できれば他のところも嫌ってほしい。先輩にはもっと可愛くて素直な子が似合うはずだから。…こんなことを思っていることもきっとお見通しなんだろうな。

横目でちらりと先輩を見ると、眉間にはまだ皺が寄っている。


 微妙な沈黙を破ったのは夕方五時を知らせる鐘の音だった。

 時計を一瞥し、薄ら白い息を吐き出した。


「…そろそろ帰ろうか。だいぶ冷えてきたし」


 夕方から雨降るらしいよ、と手ぶらのわたしに折り畳み傘を差し出す先輩。

 それに対して何も言うな、とばかりに立ち上がり、歩き出す先輩。

 わたしは折り畳み傘を何となく握り、その背中を見る。


「緑ちゃん、また明日」


 突然向けられる優しい顔に動揺しながらも、思ったままのことを口にする。


「また、明日…」


 その夜、予報よりも少し遅れて雨が降り始めた。

 止んだり降ったりを何度も繰り返した激しい雨だった。



◇◇◇◇



三月半ばとはいえ、まだまだ冷える。すっかり冷え切った手をポケットに入れる。お目当てのものはすぐに手にしたが、そのまま握り潰してしまった。新しいやつ買わないと、と呟くと後ろから深いため息が聞こえた。でも、もう何も言ってこない。


「それより小堀先輩、何か言うことあるんじゃないですか」


 扉の方へ身体を向ける。それに合わせて手の中の煙も踊るように揺れる。


「あぁ…そうだね」


 風に髪を激しく揺らされ、視界が悪いはずなのに今は何故かそれが心地いい。

 揺れるそれらの間から見る先輩はいつか見た優しい顔をしている。

 緑ちゃん、と心地いい声に名前を呼ばれる。


「卒業おめでとう」


 あぁ、今夜はきっと快晴だ。





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