第2話
冷たい風が震える肌を撫でる。若葉寒、五月の英国。行き交う人々はマフラーとセーターで寒さを凌いでいる。そんな中、タートルネック一枚の羽葉は、全身に鳥肌を立てていた。
船を出てしばらく、彼らはバスに揺られ、ロンドンに訪れていた。
流石は世界都市の一つ。街並みはとても美しく、大通りは人で溢れかえっている。
やはりこんな場所に来ると、どうしてもいろんなモノに目移りしてしまう。
例えば、ベビーカーに包まれ、寝息を立てている赤ん坊。例えば、艶やかな毛並みを持った散歩中のビーグル犬。
どこを見ても幸せに溢れていて、羽葉の衝動を抑えている、壊れかけのストッパーが外れてしまう。そして、もう我慢ならないと言わんばかりに道を逸れていくのだ。
「やっぱり人多いね。羽葉、はぐれちゃ……どこ行くの」
前を歩いていたシェーヌに声を掛けられ、ハッとする。一瞬、同行者がいることを忘れてしまっていた。折角連れ出してもらったのに、はぐれてしまってはかなわない。
「あ……ごめ、ごめんな、さい……」
「うん。早く蟲を……と思ったんだけど、ちょっと行きたいところがあるんだ。ついてきてもらっていいかな」
「えっと……わ、わかった。いい、よ」
羽葉の返事を確認すると、シェーヌは懐から取り出したロンドンのマップを開く。それをしばらく眺めたあと、納得したように頷き、大通りから逸れた狭い道へと入っていった。
羽葉は何も言わず、彼女の背を追いかける。置いていかれるのではないか? と焦り、いつもの悪い癖が出る。口を閉じるのを忘れ、涎を垂らすなど赤ん坊みたいではないか。この癖は早く直した方が賢明である。
――入り組んだ路地を何度か曲がっているうちに、先程の大通りよりは狭いが、開けた道へと出た。
「ついたよ」
辿り着いたそこは、色とりどりの屋根布が並ぶ露店街だった。カラフルな屋根の下には茣蓙やワゴンが設置されており、値札のついた小物や食器、食べ物なんかが並んでいる。
「シェ、シェーヌちゃん、お買い物……?」
「うん、羽葉もね」
「えっ?」
思わず間抜けな声を漏らす。確かに案内人から68ポンドほど「観光の際にどうぞ」と渡された金があるし、念のため20ポンドをウエストポーチの中にしまっておいた。実際ロンドン行きのバスのチケットを買う時に役に立ったのだ。
だがしかし、羽葉はできる限りこの金を使いたくはなかった。
「……おれは、いい。このお金……あんまり使いたく、ない……貰ったモノ……こっ、怖いから……」
脳裏にあの光景がよぎる。目の前で閉め切られた扉と、母の――
羽葉は小さく首を振る。もう過ぎたことだ。それに、全部なかったことになったのだから。そう、全部。
「……なるほど」
シェーヌは俯く羽葉をじっと見つめ、眼鏡のブリッジを軽く押した。
「ソレは給料の前払いみたいなモノって考えるといいんじゃないかな。ほら、蟲退治って仕事って感じがするし、だから一方的に貰ったモノっていうのとは違うと思うよ」
「……おきゅう、りょう?」
ウエストポーチを一撫でする。
今まで働いたことなんて一度もないし、給料なんて受け取る機会すらなかった。つまるところ、シェーヌの考えで見るならば、これが羽葉の初任給となる。前払いと言えども、蟲を倒す――人を救うことで手に入れたモノだ。
「もし、蟲が見つからずに終わっても見回りの仕事はしたんだし、ソレは羽葉のモノだよ」
「おれ、の……」
羽葉は露店に目をやる。そして惹かれるように歩み寄った。
「やぁ、お兄さん。何か良いモノ見つけたかい?」
店主らしき若い男が爽やかな笑顔を向ける。
ここの露店はイギリスモチーフの雑貨を売っているようで、どれも値段が4ポンド以下の安っぽいモノだ。
「えっ、と……」
乱雑にワゴンに乗せられた商品を見つめる。
(写真立て……)
羽葉の目に入ったのは、質素な木製の写真立てだ。縁には絵の具で、イギリス国旗を思わせる塗装がされている。
わざわざこんな場所で買わなくても、シティ・オブ・ロンドンまで行けばもっと良質なモノが売っているはず。だが、羽葉はウエストポーチから、金の入った可愛らしい動物のイラストがデザインされたポーチを取り出した。そして人差し指で写真立てを指す。
「こ、れ……」
「あぁ、ソレ? 2ポンドだよ」
不慣れな手つきでポーチを開く。2ポンドを取り出し、腕を震わせながらそっと男の手のひらに置く。
金を受け取った男は、写真立てを茶色い紙袋に放り入れ、2ポンドの代わりに差し出した。
「はい、どうぞ。また来てね」
羽葉は紙袋を受け取ると、大事そうに胸に抱えた。衝動買いとはこういうことなのだろうか? こんな買い物は初めてだ。
「良いモノ見つかったんだね」
露店から離れ、道の脇に寄ると羽葉の買い物を待っていてくれたシェーヌが声を掛けてきた。
「う、うん……しゃ、写真立て、買った……」
「そっか。大事にしないと、だね」
「ちゃ、ちゃんと、だ、大事にする……えへ……」
少々気味の悪い笑みだが、本当に嬉しいのだろう。
羽葉の衝動はいつもより和らぎ、代わりに蟲を倒さなければならない。という強い使命感が心の中に満ちた。
「じゃあ、次はこっちね」
シェーヌはどこか楽しげにしながら露店街の先へと進んでいく。
人で溢れた狭い道を、自分より約20センチも背の低い彼女を追いかけるのは羽葉にとっては難しいことだ。必死に足を動かさないと、見失って――
「わっ……!?」
吃驚の声を上げる。突然何者かに、後ろからサスペンダーを掴まれ転びそうになったのだ。
異国の地で喝上げだろうか? 心音を大きく鳴らしながら、恐る恐ると振り返り、背後を確認した。
――が、そこには誰もいない。今も、確かに服を掴まれている感覚がするのだが。
「……ダディじゃない……」
羽葉が首を傾げているとその感覚が消え、代わりに今にも消えてしまいそうな、か細い声が聞こえた。羽葉は声の主を辿るかのように、目線をゆっくりと下に向ける。
そこには、濃藍のジャケットを纏った、紅い髪の小さな少女。そして、その少女に抱えられた、ふわふわの――
「わんっ」
淡いアプリコットのポメラニアンがいた。
Collect Lect すぴか @Supi_ca
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