忍法 燐光華(にんぽう りんこうか)

 月夜に見え隠れする幻影の船。

 かつて様々な妨害を退けて突き進んで来たこの船は、今や邪魔するものもなく、悠々と波の上を進んで行く。

 その一室で、兄と妹は、一糸纏わぬ姿で激しく求め合い、絡み合っていた。妹の名はまりも、兄の名は玖珂綸八郎(くが・りんぱちろう)といった。瞳を閉じたまりもの長い黒髪が畳の上に乱れて流れ、兄の身体を包み込もうとするかの様にゆるく絡み付いている。

 彼女は盲目であった。その双眸が開くのは、忍法を敵に仕掛ける、ただその時のみ。

 それに刺激を受けるが如く、兄の腕は妹を強く抱きしめ、その体奥へ自分のそれを送り込む事をやめずにいるのであった。


 まりものほっそりとした手が、兄の背を這い、切なげにその指が蠢く。それも更に刺激となり、綸八郎の唇は妹のそれを吸い、綸八郎の舌は妹のそれを舐め上げる。

 綸八郎の獣の様な荒い吐息とまりもの喘ぎ声が、聞くものの脳をとろかす地獄の旋律となり、それは微かに開いた、月明かりの差し込む窓から、夜空にこぼれ、消えて行くのであった。


 兄の身体の下で押し潰される様にして行き場を求めている豊かな乳房の表面に浮いた汗が、玉になり、零れ落ちて行く。妹の唇から自分のそれを離すと、兄は再び身体を丸め、片方の乳首に吸い付いて、舌を転がしてちゅぷちゅぷと音を立て始めた。

「あ、兄上……っ」

 まりもが大きく身体を反らし、反射的に逃れようとするが、綸八郎の逞しい腕はそれを許さない。切なげに彼女の薄く開いた瞳は潤み、黒いまつげが揺れる。

 まりもの手は力なくがくがくと震えながら、彼の頭をかき抱いた。

「まりも……俺のまりもよ」

 兄は唇を離してそれだけ言うと、再び腰を動かし始めた。

「あ、あはっ、ああっ」

 兄の腰に巻き付いた両足に力がこもる。

「先ほど、伝達が入った。この船を追って来る者達がいると」

「この、船を……?」

「うむ。そ奴ら、生かして帰すつもりはないが、こちらもどうなるかは分からぬ。

 俺とお前のどちらかが死ぬ事もあろう」

「い、嫌です。そんなのは嫌……」

 まりもは彼にすがり付いた。

「俺もだ。だが覚悟はしておけ、まりも。

 そして……俺を……忘れるな……」

「兄、上……っ!」

 綸八郎は腰の動きを更に激しくしつつ、まりもの首筋に音を立てて強く吸い付いた。

 そんな彼を、まりもも強く抱きしめた。




 その幻影の船に、二艘の小船が両脇から近付いて行く。

 片方の船には名留羅と雨代が、もう一艘には沙衛門と千手丸が。

 互いの小船を寄せ合うと、先ほどまでのやりきれなさを振り払った冷徹な表情で、四人は眼前に迫る巨大な船を見上げた。

「クソでけえ船だな」

 名留羅が言った。沙衛門がそれを受けて答えた。

「ああ。それで、この船、どうも妙だな」

「妙って何が?」

と千手丸。

「月に照らされておる際には船影が見えるが、そうでない時には闇に溶けてしまっておる。

 俺達だから良いものの、常人にはとてもこれを捉える事は出来ぬはずだ」

「まあ、確かに……もしや、幻術でしょうか?」

と雨代が訊ねた。沙衛門は顎に手をやり、海風に髪をなびかせながら、半眼で船を見上げつつ、言った。

「案外、船に乗っている奴の中で、これを操っておる者がいるかも知れぬな」


 沙衛門と名留羅が船の縁に掛けた霧雨を引く反動で、四人はそれぞれ船上へと乗り込んだ。月明かりを受けているにも関わらず、船の上は墨をぬりたくったかの様に闇に覆われていた。

 帆はぼろぼろで、風を受けて進んでいる様にはとても見えない。互いが背を向け、辺りの様子を伺っている所に風を切る音がした。

 苦無、手裏剣、小柄が三方向から雨あられの如く彼らへ向けて投擲されたが、四人は既にそれぞれが目星を付けた方へ、雨代と名留羅、千手丸、沙衛門の三手に分かれて跳躍していた。

「全て終わったら何時(いつ)もの様に合図しろ。それでこの件は終わりだ」

 沙衛門は独特の発声法で他のみんなへ呼びかけると、口の端を歪めて酷薄そうな笑みを浮かべ、ゆらりと両手を広げて銀線・霧雨に風をはらませながら、眼前の敵へ踊りかかった。




 千手丸は一人、眼前の敵を追って、ぼろぼろの帆を張る支柱の、そのてっぺんへと跳躍していた。どうやら相手は女の様だ。先ほど見た麗しい横顔、そして今彼女の背で揺れる黒髪が眩しいので、内心

(少し勿体無いな)

と舌打ちしつつ、己も黒髪を、そして紫色の瞳を揺らめかせ、追う。

 その袖から覗く手がすう、と開くと、ぎらぎらと光る二鉤十手が現れた。


 追跡は不意に終わり、二人は支柱のてっぺんの十字にくくり付けられた柱の、その両端にそれぞれ風を受けて立っている。開かれた金色の双眸で捉えた千手丸の美貌に思わず息を漏らした女が口を開いた。

「……美しい奴。

 私はまりも。お前は?」

 こちらも相手から視線を反らさずに金色に瞳を輝かせながら、千手丸は呟いた。

「名乗る忍びがいるかよ」

 互いの忍法が視線からぶつかり合って紫電を散らす中で、女がゆるく微笑した。

「私とお前、ここでいずれかが生き延びたとしても、何時かはそれぞれ血の海に沈む身。そしてここには今、お前と私、二人きり。

 夜風が今、いずれかの死出の旅路を祝って、優しく迎えてくれています。ここはひとつ、名乗りを挙げ、己の全てを賭けて、互いの身を削り合いましょう」

 まりもの言葉に千手丸は興味を示した様だ。彼もゆるく微笑を浮かべた。

「……なるほど、そういう事なら。

 俺は十手千手丸。俺が死んだら血だるまなり腹裂きなり好きにするがいいや」

 闇夜に輝かんばかりの白い肌を持つそのくノ一は、袖で口元を覆うと、ほほ、と笑った。

「いいえ、私はお前のその顔が気に入りました。殺したら首を落とし、剥製(はくせい)にして何時も肩から後ろへぶら下げて歩きましょう。

 夜は抱きしめて眠ります。男に抱かれる時には、横に置いて二人の交わる様をとっくりと眺めさせるのも良いやもしれませぬ」

 女はその光景を脳裏に描いたのか、自分の両肩を抱きしめると、ああ、と恍惚の喘ぎ声を漏らした。


 得物で仕掛けて来ない事を悟った千手丸の両手から、十手が闇に溶け、消えた。

「ぞっとしねえな。まあその時は良くしてやってくれ」

「ええ。ではまず心から殺して行きましょうか」

 月夜に背を向けるまりもの瞳が改めて輝いた。二人の散らす紫電が激しく闇を切り裂く。

「『忍法 燐光華』(にんぽう りんこうか)」

 修練を積んだ忍びでも叶わぬほどの強烈な催眠効果で、相手を文字通り、己が術中に取り込み、操り、滅ぼさんとする『忍法 燐光華』。

 それに対し、千手丸は風に髪をなびかせながら、己が身に封印した忍法の名を口にした。

「『忍法 変身転生』(にんぽう かわりみてんしょう)……」




 ず、という音をまりもは頭の中に聞いた。

 そして、自分が驚いた事に己の姿を正面に見ている事に気付いた。

 そしてその自分の手が、懐から取り出した短刀を自分の左胸に深々とと突き刺すのを、千手丸の身体に一時的に押し込まれたまりもの魂は見た。

 直接魂を入れ替え、相手の身体を乗っ取る千手丸の忍法が、まりものそれを凌駕したのだ。




……それが、まりもがこの世で見たものの最後になった。




 己の身体に戻った千手丸が、目前で揺らめき、今にも柱から落ちそうになっているまりもを受け止めるべく跳躍し、抱き止め、再び帆の支柱を三角飛びで、音もなく降りて行った。


 船上へと降り立った千手丸は、息絶えたまりもの体を抱きかかえたまま、船の舳先へ歩いて行く。まりもの胸に突き立った短刀を、念の為に一度捻り込み、そして引き抜くと、彼は船の外へそれを投げ捨てた。

 千手丸は小声で呟いた。

「……ごめんよ。

 お前が綺麗だからさ……十手とかでへし折る様な、そういう真似をしたくなかったんだ」


 彼女を海へ返そうと、腕を差し出し、そっと落とす。どぶん、と水飛沫を上げると、まりもの体は波に飲まれ……そして、見えなくなった。

 千手丸はその水面へ、かつて姉を目前で殺された時の事を思い出したのか、寂しげな視線を向け、消えそうな声で言った。

「こんな世界でなくて……他のどっかさ。どっか、殺し合わなくて済む様な所があったらだけど。

 そういう所で縁があったら……その時はまた会おう、まりも」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鈴蘭忍法帖(すずらんにんぽうちょう) 躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ) @routa6969

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ