冷えて行く手
宿に強襲をかけた賊と沙衛門達がやり合っているのと同じ頃。
鈴蘭は、逐一連絡はしていたものの、故郷に残して来た許婚の姿を探して、指定の場所へ向かって走っていた。
(……あの人に会える)
鈴蘭の瞳は、許婚の男を見る時の、娘の瞳に戻っていた。
幾つめかの角を曲がり、道へ飛び出した途端、鈴蘭は袖を掴まれた。それを反射的に振り払おうとしたのは忍者としての動作であったが、
「俺だ、鈴蘭」
と声をかけられた彼女はその影を見据えた。
闇をも昼間の如く見通す忍者の目が捉えたのは、紛れもなく彼女の愛する男、
「鉤兵衛殿!」
彼女は彼にすがり付き、彼はそれをしっかりと抱きしめた。
……そして鈴蘭は自分の身体を何かが深々と貫くのを感じ取った。
「か……鉤兵衛……殿……」
抱きしめられたまま、信じられないものを見るかの様に、わなわなと唇を、身体を震わせながら、彼の顔を見返す鈴蘭。その口の端から血が流れた。
そして、二人を見下ろす様に屋根の上に立つ、影、影、影。
「……鈴蘭。流れが変わった。
あの船は沈めずとも良くなったのよ。むしろ沈められるとまずい」
「……どう……いう……」
「徳川は豊臣と正式に手を組んだ。あの船を襲うつもりであった事が明るみになると、都合が悪い。
よって……お前はもう要らぬ」
……この男は何を言っているのだろう。鈴蘭は混乱した頭で鉤兵衛を見た。
自分から手を離し、突き飛ばす許婚の顔を見た。よろめきながら、彼女は自分の腹に刺さっていたのは彼の愛刀であるのを見た。
そして、屋根の上の影達が、一斉に自分の身体へ刀身を突き立てようと跳び降りて来たのを見た。
「え……やあああああああああっ!」
血を吐く様な叫び声を上げながら、片手剣を刺突の構えで御しつつで飛び込んで来た名留羅は、彼女に躍りかかる一人目の脇腹を正確に貫き、そのまま勢いを殺さずに壁に叩き付けた。
一点集中の鬼神の突きが壁まで貫き、ずしん、と振動が走ると次の瞬間、男の身体を中心に、揺らいだ壁一面に蜘蛛の巣の様な亀裂が入り、陥没した。
「ごぼっ……!」
鈴蘭が血に伏していた。彼女の下から血溜まりが広がっていた。
視認した理不尽な光景への怒り。それが名留羅の口の端を歪ませ、笑い声を漏らさせた。
「ふはははははははは……! そうさ、そんな感じだよ。いいじゃねえかてめぇ!!
もっと派手に
そう叫びながら刀を突き刺したまま、男を壁代わりに蹴飛ばして首をへし折り、空中の影へと殺到して行く彼の手には抜き身の野太刀があった。砲撃を受けたかの様に轟音と共に崩れていく壁。地面を背にして飛びながら足元を軸に回転して刀身の長さをものともせずに数人まとめて叩き斬り、伏せる様に着地するかどうかの刹那に鉤兵衛目掛けて低い姿勢のまま、睨み据えながら再度刺突の構えで疾走する。
「しゃあああああああああああああああっ!」
「名留……羅……さ……」
倒れ伏した鈴蘭の嬉しそうな呼びかけが彼の耳にかすかに届いた。
鉤兵衛をかばって影が立つ。名留羅は刃の先が到達する数歩前で伸び上がり、振り返りざまに大上段で二人を斬り下げた。
……かに見えたが、倒れ伏す影の背後に鉤兵衛は無く、屋根の上から彼に声がかかった。
「何じゃ、うぬは」
名留羅は飛びすさって鈴蘭をかばう様に立つと、刀を振るって血を払いながらそれを見上げた。怒りを押し殺す様に震えながら、その唇から声を漏らした。
「てめえこそ何だ。どうなってる?……何で鈴蘭さんがぶっ倒れてんだよ。
俺は少しも納得行かねえ。説明しやがれ……!」
鉤兵衛は、なるほど、とでも言う様に鼻を鳴らすと、こう答えた。
「そうか、お前が臨時の雇われ侍か。
此度の貴様の務めはなかった事になった。その女から聞いているかも知れぬが、沈めるはずの船、沈める訳にはいかなくなったのよ」
「そうかい。
で、てめえはあれか? 鈴蘭さんの色男って奴か?」
苦々しげに名留羅は吠えた。せせら笑いながら男は頷いた。
「まあな。そして俺にとって、その女は過去の女だ」
「どういうこった」
「事情が変わって要らなくなった」
「ほう……何様か知らねえが、自分の女に随分な物言いじゃねえか、クソ野郎」
「今の俺の立場からすると、その女に生きていてもらっては困るのよ」
「何だ?
『立身出世』
って奴か」
「そうだ。お前もその条件と引き換えに鈴蘭と手を組んだのであろう?」
名留羅はそれを聞いてはっとした表情を見せたが、再び彼を睨み付けると吐き捨てた。
「笑わせるんじゃあねえよ……!確かにその話、聞いていねえ訳じゃねえ。
正直一寸気を引かれたさ。
『悪くねえかもしれねえ』
と思った。
けどなあ、てめえの女踏み台にして成り上がろうとしてる奴のツラぁ見たらそんなのどっかへ吹き飛んじまった」
「はっ……単純な奴だ」
「ああ、結構だよ。てめえに気に入られるくらいなら、ここで鈴蘭さんとくたばって極楽浄土踏んでやらあ」
「名……留羅……」
背後の鈴蘭の呼びかけに名留羅の瞳が涙で滲んだ。
「こんな……クソ野郎の為に……! すげえ胸くそ悪いぜ……降りて来いよこの野郎……!!」
「登って来い、猿……!?」
楽しげであった鉤兵衛の顔が歪んだ。その腹から出ているのは二本の鉄の棒。
そして鉤兵衛の背後には十手千手丸の姿があった。
「……ここは任せた。例の場所でな、千手丸!」
頷く千手丸の姿をその目で確かめた名留羅は鈴蘭をおぶさり、先ほど指定していた合流地点へ走り出した。
「貴様……は……!?」
がくがくと震えながら振り返ろうとする鉤兵衛の視線を千手丸の冷徹な眼光が見返した。
「てめえのくそったれな話は聞いたよ……これから俺達の前に湧いて出る奴はお前を含めて全部敵だって事だよな。分かり易くて涙が出て来るぜ」
ぐい、と千手丸は、逆手で握って彼の身体を貫通させた二本の十手を捻り込んだ。
「があっ!」
「こんな風に鈴蘭さんを騙して刺したみたいだな。てめえも味わいやがれ……!」
その細腕からは伺えぬいかなる底力か、千手丸はそのまま刀の要領でそれを上に持ち上げ、彼の身体を引き裂いて行く。あばら骨が下からの圧力に耐えかねて折れ、肺が、心臓が潰れる音がした。
「おご……あがあ……ぎゃああ……っ!」
「……!」
背後からの殺気を感じ取った千手丸は瞬時に十手で彼の両肩まで『斬り上げ』ると、彼の身体を足場代わりに蹴飛ばしてとんぼを切り、宙に舞った。屋根から転げ落ちて行く鉤兵衛のいた辺りに、一瞬遅く忍者刀を腰溜めに構えて殺到した数人の男達が、美しく飛んで行く千手丸を仰ぎ見た。
その彼らの瞳を見返しながら、己の瞳を金色に輝かせつつ、亡き姉の忍法の名を、十手千手丸は口にした。
「『忍法 幻燈蝶』!」
瞬間、男達の視界をそれぞれ七色の羽をきらめかせた蝶が覆った。その羽の奥では、国に残して来た家族が得体の知れない者達に蹂躙され、殺されて行くのがありありと浮かんでいた。皆こちらに助けを求めて手を伸ばしながら、返り血を浴びた者達に凶笑を向けられ、殺されていった。
「ああ」
男のうめきが引き金となり、彼らの頭は次々と破裂し、血の海に伏していく。着地した千手丸は、沙衛門と雨代の気配が近付いて来るのを感じ取ると、それを待ちながら、金色の瞳を死体に向け、黙って見下ろしていた……。
「鈴蘭さん! しっかりするんだ、鈴蘭さん!!」
鈴蘭の隠れ家。名留羅は彼女を抱きしめながら、その名を呼んだ。
傷口を縛ったものの、出血の多さが、彼女の命の灯火が後少しで燃え尽きるのを示していた。
しかし、うっすらと鈴蘭は目を開けた。
「名留羅……さん……」
戒めを解いて、名留羅は彼女の顔を覗き込んだ。
「鈴蘭さん!? 俺だよ、分かるか?」
「ごめん……なさ……し……仕官……の……は、話……」
「……いいんだ、そんなの。気にしなくていいんだよ!」
「で……も……」
「だ、大丈夫だから……ちくしょう、何だよ、あの野郎。いきなり湧いて出て……鈴蘭さん……」
心配げに自分を見下ろし、うめく名留羅を見上げて、鈴蘭の目尻からも涙が零れ落ちた。
「お粗末な、話ですが……あの男は……私の、許婚……でした……」
「それを……こんなにあっさり捨てやがったのか……あの野郎……っ!」
やり切れなさに目をぎゅっとつぶって歯軋りする名留羅。彼女がそろそろと上げて来る手に気付くと、彼はそれをそっと握った。
「……痛かったな。刺されて痛かったな。
ひっく……遅れてホントに……ホントに済まねえ……!」
弱々しく鈴蘭は首を振った。
「かく、覚悟は……していた、事です。
……い、幾度めかの……連絡、で……妙な……様子、は、あり……ありま、した……」
「じゃあ何で……あの……男の為か?」
鈴蘭は頷いた。
「わ、私が……あの人の……助けに……なれる……なら、と……進んで……志願……したこ……と……」
「……っ!」
……それをあの男は踏みにじったのだ。
上からの命令という事で脊髄反射的に、実に無造作に彼女をあっさりと切り捨てた。
名留羅の瞳が再び涙で滲んだ。
名留羅は彼女の瞳を優しく見返すと、言った。
「こんな事になったけど……鈴蘭さん、その船は俺達が沈めてやるよ」
「何故……もう、仕事、は……」
「沙衛門さん達がいるんだ……どうって事ねえよ。
徳川がどう困ろうと知った事じゃねえ。あんたがそんな適当な務めに駆り出されて、こんなみじめに潰されて行くのが俺はどうにも我慢ならねえんだ……!」
「名留羅……さ……ん……」
背後に沙衛門達の気配を感じながらも、名留羅は無理に微笑を浮かべ、続けた。
「他のみんなと一緒にやって見せるからさ。後は任せておきな」
「名留羅……さ……」
鈴蘭が震え出した。名留羅は抱きしめ、その背をさすってやりながら訊ねた。
「ん?」
凍えそうな自分の身体を、昨日今日知り合ったばかりの男が、抱きしめて温めようとしてくれている。一時は騙して利用しようとした自分を。任務の為に人里に出て来たばかりの、世間知らずな田舎娘の自分を。
そして、離れていた許婚のそれより、目の前の名留羅の温もりの方が、ずっと、ずっと、心地いい。
……こんなのは何年ぶりだろう。どんどん力が抜けて行くのも、この温もりの中なら、鈴蘭は少しも怖くなかった。
鈴蘭は、静かに瞳を閉じつつ……微笑を浮かべて呟いた。
「……あった……か……い……」
「……鈴蘭さん……」
目まぐるしく変化する状況の中で、不意に出会い、あっという間に消えてしまった女を抱きしめたまま、名留羅は嗚咽した……。
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