白髪鬼
翌朝。試合の時刻。
道場の、検分役である人々の前で、名留羅の兄は正座していた。
なかなか現れぬ弟を心中であざ笑う兄の前に、名留羅真夜は幽鬼の様にゆらりと歩を進めて現れ、彼の正面、自分の座する位置に正座した。
……彼の髪の色を見て、その場にいた者達は色めき立った。
何と、名留羅真夜(なるら・しんや)の髪の色は、一晩で真っ白になっていたのである。
父が声をかけた。
「真夜……その髪の色はどうした?」
名留羅は首をつい、と動かして父を見た。怒りと、悲しみを押し殺し、抜け殻の様になりつつも、ひとつの冷徹な意思をはらんだ眼差しで。
「父上もご存知の様に、お秋が昨晩亡くなりました」
父の表情に翳りが走った。
「うむ、存じておる。それが関係しておる訳か」
「でござります」
「なるほど、それに付いては後で聞くとしよう。手合わせに支障はないな?」
「微塵も」
くくく、とその喉の辺りで笑い声がしたが、異様なものを感じた父はそれをあえて無視し、この道場を継ぐものを決めるべく、試合を開始する事をそこで宣言した。
兄と弟は、この流派独特の試合形式の為に手元に幾つか用意されている武器の中から、それぞれ木刀を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。
兄は中段に木刀を構えた。
弟は右手にだらりと刀身を下げたまま。
兄は弟の打ち込みにこれまで中段でしか対応出来なかった。上段よりも早く対応出来るとされている下段の構えですら。
真夜は半歩、すり足で前に踏み出した。彼が次の足が踏み出そうとするのに合わせ、兄は様子見で中段突きを繰り出そうと、一瞬だけ剣先を上げた。
次の瞬間、真夜は左手の指先で木刀の先をつまむと深くしゃがみ込み、その反動を全て前面に押し出す様に兄の正面へ飛び込んで来た。
兄の木刀の先は彼の額を向いている。
(この痴れも……)
の、と兄が思い浮かべるよりも早く、そして速く、名留羅真夜の剣先は兄の突き出していた木刀の先を打ち砕き、突き破り、その喉仏に突き刺さった。
「ごぼっ……」
顔に返り血を浴びた名留羅の瞳が一瞬悦びに輝いた。威力は少しも衰えず、そのまま彼の身体を弾き飛ばし、轟音と共に遥か後ろの道場の壁に刺突で射抜く様にして彼の頚椎を、道場の壁を貫いた木刀が叩き付け、そのまま、息絶えた兄をそこにぶら下げた。
その下で、着地した弟がすっくと立ち上がると、それを見上げていた。
「……終わりでございます」
目を見開き、口から血反吐を垂れ流す兄を見て、腰が抜けて立てない者、唖然として、師範代である真夜を見つめる者。
それらには目もくれず、彼は言った。
「父上、話があります」
夕闇が空の向こうに迫る、道場から遠く離れた街道と呼ぶには荒れ果てた道沿い。
黒の煤けた着物と袴に身を包み、腰帯には大小一本ずつの刀。旅支度を済ませ、道場を後にした名留羅が、お秋の残した紙が示した場所にしゃがみ込み、苦無で何かを掘り起こしている。
やがて何か硬いものに先が当たり、その対象の周りを掘って行くと、やけに長い一本の棒状の布切れに包まれたものが出て来た。それをそっと穴の外に掴み出し、戒めを解いて布を剥いでみる。
手触りで
(まさか)
とは思ったが、それは一本の野太刀であった。
彼は柄を握ると、それを鞘からゆっくりと抜刀した。深い紺色に輝く刀身。斬った相手の血すら、喜んで舐め取り、飲み干しそうな、そんな深い闇の色。
名留羅はしばらくそれに見惚れていたが、ゆっくりと鞘に納めると、声を絞り出した。
「これを……私に……?」
野太刀の場所を示すのとは別に添えられた手紙にはこうあった。
『真夜様へ。
万一、私に何かあった時の為に、こうして書き綴っておきます。この刀は、父が昔、ある方から譲り受け、合戦で幾人もの敵を斬った刀です。
父が言うには、
『まるで敵を求める様に刀身が向き、如何なる斬り合いでも遅れを取らずに済んだ』
との事。父はその後、あまりの禍々しさに嫌気が差したのか、この刀を置いて別の合戦に出向き、帰らぬ身となりました。
他の者が持てばこれは魔性の剣でしかないでしょう。ですが、真夜様なら、この刀を御する事が出来るのでは、と、道場で木刀を振るお姿を見て思った次第です。
剣の道を共に学びながら堕落しつつあるあなたの兄上に渡すのは、更なる凶事を招くだけと思い、あなたにお譲りしたく思います。
私が共に行けぬ事となったとしても、きっとあなたのお命を御守りする事と思います。その際は私が共にいるものと思って、どうかお持ち下さいませ。お秋」
「……お秋さん……」
名留羅の瞳から涙が溢れた。
「無茶をやって貴方を死なせ、私一人だけ生き残って……こ、こんな素晴らしい刀を、私の様な者が……っ!」
一旦手に握ったそれを地面に叩きつけようとしたが、お秋の笑顔が脳裏をよぎり、それはやめた。
代わりに彼は、地面を一度、思い切り拳で殴り付けた。
歯を食い縛り、声を押し殺して泣きながら、座り込んで抱えたそれの鞘に布紐を幾十にもくくり付け、片方を握る為の輪にし、肩から下げ易くした。
「うっ……ひっく……」
……本当ならそのまましばらく泣いていたかったが、その者達の気配に、彼は気付いてしまった。
涙に濡れた瞳で、真夜はそちらを見やった。編み笠を被った一団で、彼らは既に抜刀している。
……兄の側に付いていた連中が、腹の虫が納まりきれずに追って来たのだろう。悪い仲間も混ざっているかもしれない。
先ほど一撃で兄を屠り去るのを見せ付けた訳だが、彼らの腐れた根性を叩き潰すのには少しばかり効き目が足らなかった様だ、と名留羅は思った。
拳で涙を拭うと、彼はゆっくりと野太刀を抜刀しながら立ち上がった。自分は遠くへ行くのだ。何処までも遠くへ。見た事の無い世界へ。お秋と共に行けたかもしれない、遠い、遠い世界へ。
お秋の残したこの刀と……いや、お秋と。そしてお秋と話す際に使用した言葉遣いは永遠に二人だけのものだ。
やがて辿り着かなければならない場所までの、地獄の道行きにふさわしい言葉遣いに、身なりに、切り替えねばならない、と名留羅は思った。
名留羅は鞘から手を離すと、それは静かに転がった。反対の手で、逆手に腰の太刀を引き抜く。何時しか紫色の空に変わったその下でも、それはぎらぎらと輝いていた。
「……一応聞こうか。奴の差し金か?」
「いや、あなたのお父上でござる」
それはあくまで一子相伝の技を伝える流派として己の血筋を鑑みれば当然の可能性のひとつではあったが、名留羅の胸に苦いものを残した。
それを振り切る様に不敵な表情を浮かべた彼の放った言葉遣いは、それまで彼を知る者が聞いた事も無い様な荒んだものであった。
「そうかい。いいだろう。
てめえら、どいつもこいつも腐った匂いを口から撒き散らしやがって、臭えったらねえぜ。おかげでこんなにいい色の夕暮れだってのに鴉も鳴きゃしねえじゃねえか。こっちは一寸いい思い出に浸ってたってのによ」
「……!?」
どよめく彼らの態度からも、名留羅のそれまでのたたずまいが知れた。
「話は分かるさ。一子相伝の門外不出の剣法だもんな。
おいそれと奥義を知る者を野に下らせる訳にゃ行かねえだろう。そいつは分かる。
だがよ……実に不愉快だ。気まぐれだが、てめえら一人だって生かしちゃ帰さねえ。
このヤッパの試し斬りにゃ丁度良さそうだしな……!」
それを聞いて一団は、愛する女を失った彼に一斉に殺到した。
「しゃあああああああああああああああああああああああああああああ……!」
爛々と瞳を輝かせ、低い姿勢から襲い掛かって来た名留羅の怒声。自分の斜め下から突き上げて来た剣閃が喉に吸い込まれたのに、その男は気付いたかどうか。更にそれより前に、名留羅の横殴りに振るった神速の野太刀の一閃が、自分の首の反対側の頚動脈を切り裂いていた事に男は気付いていたかどうか。
……冷たい。首からこれでもかと血を噴き出しながら、男の意識はそこで途切れた。
その相手の腹部に強引に蹴りを叩き込んで脇道に転げ落とすよりも速く、両側からの突きをかわすべく名留羅は伏せの姿勢をとった。その先に立つ、対応しきれずに自分を見上げている男が防御すべく斜めに下げた刀を握る両の拳を二太刀で両肩まで斬り上げる。
「げびゃうっ……!」
「はは……ははははは!」
着地して左手の敵に飛びかかる名留羅の喉から、愉快そうな笑い声がこぼれ出た。ぎん、と撃剣の音がして、名留羅の野太刀による中段突きを跳ね上げて凌いだ男が一瞬気を抜いたのを、太刀で袈裟懸けに斬り倒す。
重ねて容赦の無い前蹴りが彼の臓腑を蹴破った。よろめいて向けた背に更に野太刀が突き立つ。
「あがあっ……」
「ふふふふふ」
うつむいて顔にかぶさるその白髪の奥から、かすれた名留羅の笑い声が死にかけの男の耳に届き、それは彼の心を凍り付かせた。
あっという間に三人が斬り倒されてしまった。残りの三人はそれに臆する事もなく、男の背から野太刀を引き抜いて、二刀をだらりと下げた名留羅を取り囲んだ。
知らずに膝が震えている。食い縛った歯がカタカタと音を鳴らす。
一人が声を漏らした。
「化け物め……」
嬉しそうに目を細め、名留羅はかすれた声で言った。
「……普通に暮らしていても化け物呼ばわりか。ああいう兄貴にいい様にされたこっちが化け物か。
ふふ、ふふふふふ……面白え、上等だ。そんならそれらしく、てめえらみてえなのを片っ端から地獄に引きずり落としてやろうじゃねえか」
名留羅はゆっくりと、しかししっかりと第一歩を踏み出した……。
「……それで、夜盗の頭やったり、今の仲間と知り合って、あちこちほっつき歩いている内にこのザマさ」
名留羅はすこし寂しげに笑った。
鈴蘭は上手い言葉が思い浮かばずに彼を見下ろしていたが、その横に腰を下ろした。そして……口を開いた。
「そのご格好もそれなりの理由がおありだった、という訳ですね」
「まあそれなりに」
鈴蘭は彼の横顔をちらりと見て呟いた。
「もし……もしですよ?」
「はい」
「この仕事が済んだ後、私の口利きで仕官出来るかもしれない……としたら、あなたはお受けになりますか?」
「えええっ!?」
……仕官。考えてもみない言葉が彼女の口から漏れたのを聞いて、名留羅は目を剥いた。
「いやあ、そんなの考えた事もなかったなあ……いやはや」
「もしかしたらそういう風にも出来なくもないかもしれません。頭の隅にでも入れておいて下さい」
「わ、分かった」
腰を上げて宿の中へ入って行く鈴蘭に、名留羅は声をかけた。
「あのさ、少ししてから戻るからって、みんなに言っといてくれねえかな」
「はい」
名留羅は鈴蘭の背を見送ると、大きく伸びをして、腰を上げ、ふらふらと歩き出した。
別にぶらつく先のあてはない。少し考える時間が欲しかっただけだ。
自分が仕官するとして、仲間達はどうなるか。
「うう……」
皆と別れて自分の道を行くとする。沙衛門は快く送り出してくれるだろう。千手丸も多分泣くだろうけれど、送り出してくれそうな気がする。
「雨代は……何て言うかなあ……」
名留羅は再びうめいた。
上手く考えがまとまらないまま、再び宿に帰って来た名留羅は、自分達の部屋の中に鈴蘭の姿が見えない事に気付き、片膝を抱え、うつむいて座る沙衛門に訊ねた。
「鈴蘭殿は先ほど使いの者と一緒に出て行った。雇い主からの伝令らしい……で、みんな、気付いているか?」
千手丸が、雨代が、そして名留羅が、自分達の部屋を取り囲む気配を察知し、ゆらりと腰を上げる。
沙衛門が同じ様に腰を上げながら、だらりと右腕を垂らした。何時(いつ)の間にか巻き付いている霧雨(きりさめ)がきらきらと光った。
沙衛門は障子へ視線を向けながら口を開いた。
「名留羅、雲行きが変わった様だな……」
「……裏切ったとか言わねえよな?」
鈴蘭の事を名留羅は言っているのだ。沙衛門はふふ、と笑った。
「確かでない事を口にするほど浅はかではないわ。この一端を鈴蘭殿の腕にくくりつけておいた。
こちらはどうとでもなる、お前は鈴蘭殿を追え。
でかい仕事だ。その使いの者とやら、危ないかもしれん」
風閂の一端を掴んだ名留羅は野太刀を引っ掴んだ。
「そうするわ。後で鈴蘭さんのアジトで会おう。雨代は覚えてるな」
「あったりまえよ。名留羅さん、気をつけて」
「ああ、じゃあな」
名留羅が襖を勢いよく開けて廊下へ飛び出した瞬間、窓の障子が破られ、黒い影が殺到して来た。
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