のこしたもの、のこされた者

 名留羅なるら真夜しんやはお秋と旅立つ準備を着々と進めていたが、その前に兄と道場主を決める試合をせねばならなかった。これだけはどうしても外せない。道場を放って出て行こうとすれば、名留羅とお秋は、兄にしてみれば反逆の企てを立てる一派に変わるだろう。

 きっと追っ手を放つに違いない。


 道場の事は気にかかるが、名留羅の中での比重はかなり軽くなっていた。しかし、最後に足に絡み付く草切れの様にまとわり付いているこれを、自分は振りほどいて行かねばなるまい。

……それも、兄を打ち倒して。まかりなりにも彼の道場は一子相伝で奥義を伝えて来た流派だ。そういう大義名分が、名留羅を負かした場合、兄には授けられてしまう。

(面倒な話だ)

 名留羅は以前より近しくなって来たお秋と二人でいる時も、その事が頭をよぎる様になって来ていた。そして、それを振り切るが如く、修行と旅立ちの準備に明け暮れる様になった。




 そしてその試合の前日。名留羅真夜は元の髪の色を永遠に失った。




 夕暮れ時。

「……お秋さん?」

 名留羅は少し前から彼女の姿を探していた。しばらく自宅の敷地内を探していた彼であったが、道場の裏から聞き覚えのある声がした。

 それはお秋の声。

 それは兄の声。

 小声ではあったが、お秋の相手があの兄である事を確信させられる様な険のある唸り声が自分の耳に届いた時、名留羅は我を忘れて駆け出していた。


「……だからその刀を俺に渡せと言うのだ」

「嫌です……! 確かに私はこの道場のお世話になっています。ですが、その刀は私が父から継いだもの。

 本当に信頼出来る方にお渡ししとうございます故、このお話はお受け出来ませぬ」

「何をしておられる!」

 兄と向き合ったお秋の後ろに出る形で、名留羅は二人に声をかけた。

「何だ、真夜か」

「真夜様……」

 不安げであったお秋は、胸に手を当てるとホッとした表情を浮かべた。彼はお秋の肩に手を置くと、

「探しましたよ、お秋さん。

 で、これは何のお話ですか? こんな暗がりで、しかも荒々しく声を上げて。

 穏やかではありませんね、兄上」

と、兄を厳しい目で見据えた。

「お前には関係ない。俺はその女と話があるのだ。すっこんでおれ」

「どうせなら皆の前でお話しましょう。お秋さんが怖がっておられる。

 私もこういう雰囲気は好きません」

 兄は弟の言葉を聞いて、目を見開いた。時々見かける柄の悪い牢人の目だ。

 実力面での優劣がはっきりし、柄の悪い連中と付き合う様になってから、彼はその様な情けないザマを時折見せていた。

「……ガキが。明日の試合のケリを今つけるか」

 ぴく、と名留羅の眉が動いた。

「……地べたに這いつくばったら、私は容赦なくあなたの頭に木刀を振り下ろしますよ?

『常在戦場』が我が道場の習い。あなたは這った状態から私に勝てた事が今までありましたっけ?」

 冷徹な視線をぶつけて来る弟に、兄はうっ、と一声うめき、懐からあるものを取り出した。

……ポルトガルのものと思われる短銃である。

「……何処でその様なものを」

「俺の付き合う相手には色々な奴がいるという事よ。真夜、今の非礼を詫びたらお秋の刀をもらうだけで今は我慢してやるぞ?」

 兄は弟に銃口を向けた。お秋を後ろにかばって半身で立つ名留羅の手持ちの武器は、腰の後ろに差している小太刀程度の長さの木刀と、懐の小柄こづかくらいしかない。

 お秋から手を離してすぐに懐に手を入れ、小柄を投擲していては到底間に合わぬ。更に温度を下げた視線を兄に浴びせながら、ぎり、と名留羅は歯軋りした。その程度にはこの頃の彼はまだすれていなかったのだ。

「堕ちられた。無様だ、兄上……」

 ははは、と兄はせせら笑った。

「『常在戦場』ではなかったか、真夜よ。

 己の浅はかさが身に沁みたらお秋を置いて失せるが良い」


(……まだだ。

 奴ならきっと隙を作る。それを待つんだ……)

 名留羅はそう考え、お秋の事が気にかかったが、あえて兄を挑発する事にした。弟は鼻を鳴らすと、明らかにコケにした目で兄を見た。

「はっ、死んでもそんな情けない事は出来ませんね」

「何い?」

「お止め下さい、お二人とも! その様な事をするくらいなら私の刀は差し上げますから!!」

 お秋は名留羅の右腕にしがみ付きつつ、二人に呼びかけた。

「ほう、もの分かりが良い女だ。道場を継いだ後には夜伽の相手にしてやらんでもないぞ?」

「……っ!」

 お秋の顔が恥辱に歪んだ。自分の右に立っているお秋を制する様に名留羅の左手がそっと添えられた。が、それは止まらず、ゆっくりとお秋の髪の、それがある部分へ伸びて行く。

……ゆっくりと、しかし確実に。

「……どんどん愚劣ぶりを露呈させて行きますね、兄上。見下げ果てた方だ、あなたは」

「小僧。もう一度言ってみろ!」

 その刹那、彼女の髪からそれを引き抜き、振り抜いた名留羅の手から銀光が飛んだ。それーかんざしであった―は兄の右目を貫いたが、それを待たずに禍々しいまでの獣の様な速度で兄へと迫ろうとした名留羅の前に、銃口の行方を見ていたお秋が立ち塞がり、彼の胸にすがり付いた。

 目を見張る名留羅。

「何を!」

 銃声が黄昏時の空をつんざいた。




……この辺りでは猟師も多く、銃声を聞いてもすぐには誰も出て来なかった。

「お、おのれ……っ!」

 兄は血の流れる右目を押さえて逃走した。

 そして……お秋はしなだれかかる様に彼を見上げたまま、脱力して行く。

「お……お秋さん!」

「真……夜様……」

 彼女の背からはとろとろと血が溢れ出し、染みを広げて行った。彼女を抱きかかえたまま、名留羅は膝をついた。

 わなわなと震える唇から、彼は言葉を搾り出した。

「ど……どうして……? 何故……何故、こんな事をしたのです!」

 お秋はがくがくと震えながら、

「あの様な……者に……渡す訳にはいかない……どう……しても……お渡し、したいものを……守った……までです……」

「それは……何なのですか……?」

「私が……父から、受け……継いだ、野太刀、です。何処で……それを、聞き、つけたのか……あの男は、

『それを寄越せ』

と……」


 自分は良く事情が飲み込めないが、彼女はきっと自分に何か希望を託してその野太刀を渡そうとし、それで自分を探していたのではないのか。ところが先に兄に見つかってしまい、どういう話の展開か、それが露呈したのだ、と名留羅は見た。

 彼は訊ねた。

「それは、私が頂くのが……適任であるという事ですか?」

「……はい。真夜様は……とても……ご立派に、な、なられて……正直、私などが……付いて行って……いいのかと……ふ、不安になる……くらい……」

 お秋は寂しげに微笑し、震える手で胸元から一枚の紙片を取り出すと、彼に見せた。

「これに、その野太刀を……納めて、ある……場所が。私は……もう、一緒には……けれど……代わりに……何処……までも……!」

「……っ!

 だ……えぐっ……誰かいな……」

 人を呼ぼうとした彼の口を、お秋はそっと塞いだ。声を上げるのをやめ、その手をそっと握った名留羅は、彼女を見下ろした。

「今は……他の方には……邪魔されたく……ありません……。

……真夜様……」

……次第にその瞳から光を失いつつある彼女の呼びかけ。

「おあ……ひっく……お秋さん……!」

 ぎゅっと目をつぶって、彼女の頬にぼろぼろと涙を滴らせると、名留羅はお秋の唇にそっと自分のそれを重ね、しっかりと抱きしめる。お秋の瞳が一瞬見開かれたが、すぐにそれは幸せそうな、とても幸せそうなものに変わり、閉じて行く瞳から、一筋の涙をこぼした。


 ややあって唇を離した名留羅に、お秋は微笑を浮かべたまま、告げた。

「私の……様な、女……に

『付いて来てくれ』

と……言って、くれて……あ、ありがとう……!」

「礼を言うのは……私の方です。お秋さん……!」

 しゃくりあげながら、無理に微笑を浮かべようとする彼の頬に手を這わせ、その胸に額を押し付ける様にすると

「……ああ……」

と一声漏らし、お秋は嬉しそうに瞳を閉じ……そのまま動かなくなった。

「お……お秋さ……」

 名留羅は涙を流したまま、呆然と彼女を見下ろしていたが、再びそっと抱きしめ、押し殺した声で、呼びかける様に囁いた。

「……姉さん……!」




 それからやっと……名留羅真夜の慟哭する声を聞きつけ、道場の者達が彼らを発見したのである。

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