弐(4)

 其の事に気付いたとき、わたしが抱いたのは恐怖と称して相違無いだろう感情でありました。丁度、現実を造り物の如く感じるようになって、幾ばくか経った頃でした。他人と云うものがいよいよ解らなくなりましたが、客観的に見るならば、可怪しいのはわたしの方でありましょう。ごく自然と成長していく事に疑問を持ち、常に目が見えているようで見えていない、可怪しな子供。認識したのです。わたしは異質なものであるのだと。其れ以前にも薄らと違和感を覚えては居りましたが、生きていくに障りは無かろうと構えていたのです。


 いいえ、いいえ。わたしは気付いたのでした。自分は他者と異なるなにものかであるのです。他者は肉体を厭わぬものなのです。物語に固執せぬものなのです。成長に疑念を抱かぬものなのです。己が「男」と成る事に、「女」である事に不審を覚えぬものなのです。そう在れないわたしは、異質、異端。今は未ださしたる問題ではなくとも、いずれは爪弾かれ後ろ指を背に受けるのだろうと、容易に理解出来ました。特異だと判断された人間が周囲から遠巻きにされ、時として弾劾され身を小さくせざるを得ない、そんな光景は、学校と云う狭い世間に身を置いているだけでも、何度も目にしていましたから。学校の先に在る社会であるならば、劇的に何かが違うなども有りますまい。人間とは、集団とは、社会とはそう云うものなのであろうと――わたしが此の儘生きられるものではあるまいと、わたしは気付いたのでした。


 他人に告げれば、何を大袈裟なと笑い飛ばされも、戯言よと鼻を鳴らされも、或いは子供の無垢な杞憂だと微笑ましく思われる事も有ろうと、当時の自分なりにも俯瞰する気付きで御座いました。ええ、そうです。わたしは既に解っていたのです。わたしの恐怖は、周囲の他人、世間の大半にとって、取るに足りぬ幼い杞憂であるのだと。其のように、片付けられてしまうのだと、最初から解っていたのです。わたしと同じ疑念を、違和感を覚えぬ儘に成長していく級友らは、わたしの疑念を理解し得ないでしょう。しんば同じ疑念を抱いていたのだとしても、一過いっかのものとして「男」や「女」に成った大人たちには、わたしの恐怖も所詮子供の一時的な戸惑いだと一笑に付されてしまうでしょう。わたしが周囲の子供が何の違和感も覚えず変質していくのを理解出来ぬように、人間は他人の思考を、感情を、自らのもののように実感し理解する事は出来ないのです。知識として得る事こそ可能であれど、実感は出来ないものなのです。少なくとも、わたしたちの生きる、此の時代に於いては。


 其れでも当時のわたしは、未だ健気けなげでありました。自分の在り様の儘では生きられないと気付いて、わたしは、周囲の他の女の肉体を持つ子らと同じく、「女子」として成長せねばなるまいと思い、自らの許容出来る限りから「女子」らしく振る舞う事を増やしました。名前も知らないキャラクターが描かれた星の散る文房具を買いました。読みづらく書きづらい飾り文字で交換日記も遣りました。の悪戯の一件から目に見えて避けていたスカートも、気が保ちそうな日には時折身に着けました。


 初経を迎えたのは十二に成る夏でした。内臓をいて絞め上げるような腹痛に耐えて駆け込んだ本屋のトイレで、下着に染みた粘る赤い血を見て、唇を噛んで震える手で紙を巻き取り、学校で教えられた通りの応急処置をしました。鎮痛剤と鉄剤を飲んで激痛に耐えるわたしに、母は此れで少し大人に成ったと言いました。笑って見せたわたしの絶望を知りますまい。喜ばしい事なのだと自分に言い聞かせて、喉の奥に何もかも押し込んだのです。わたしはわたしをもあざむこうと抗う事にしました。いずれ周囲と同じく、何の疑念も違和感も覚えない「女」に成る、その可能性に賭けようと腹を括っての事でした。

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遺書 片桐万紀 @MakiKatagiri0504

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