後編

いつの間にか絆創膏が貼られている指先を眺める。

今日も朝から記憶がない。気がつくとぼんやりと居間でテレビを見ていた。

制服も着替ていた。ノートもちゃんと几帳面にとられている。でも字が自分のものとは少し違って、右下がりになっていた。

私は目を閉じる。

頭の中に、ぼんやり銀色のスポットライトが見えるような気がした。

スポットライトの当たらない暗がりに、別の誰かが佇んでいるような気がした。

「あなたが絆創膏を貼ってくれたの?」

目を閉じたまま、聞いてみる。

そして、その滑稽さに私は笑った。内側から私を押すものを感じる。

夜になると、同じように私の内側を押す悪魔がやって来る。

あの哀しい苦痛とこれは違う。

「あなたは誰なの」

滑稽でおかしい。まさかね、と半分自分に暗示をかけながら聞く。

音はない。


また父がやって来る。

夜が来る分だけ、穢される。私は私を憎むしかなくなっていく。

涙の道ができる。

私はどうして、女になんか産まれてしまったのだろう。受け入れるしかないこの身体が憎い。


だったら、わたしが代わってあげるわ。


はっきりと聞こえる。父は気づかない。軋む音の隙間から、はっきりと聞こえる。


あなたはゆっくり眠っていればいいわ。刺し殺したいのなら、わたしが殺してあげる。


「誰」

私は痛みの中で呟いた。誰も答えない。音はない。それなのに、はっきりと聞こえる。


大丈夫よ、これからは私が代わってあげる。


不意に意識が遠のく。私は真っ暗な意識のタールの中から、背中を抱きしめる人を感じた。

あなたは誰なの?

私とよく似た誰かで、他の誰にも当てはまらない人が笑う姿が見えた気がした。



膣の中を洗う。

こんなに孤独で哀しく動く指もない。わたしは睦美の哀しみと憎しみを思った。これからあの男が睦美の所へやって来たら、すぐにでも変わってやろうと誓った。

愛するあなたに、もう二度とこんな思いはさせないわ。

目眩は感じなかった。シャワーの温度をわざと下げる。肌の表面に、薄い氷の膜を張らせるようにしてじっと浴びる。

殺してやる。刺し殺してやる。

「…いつまで入ってるんだ」

扉の向こうから、獣の声が聞こえる。

あいつはじっと娘の裸を暗がりから眺めている。

可哀想な睦美。可哀想なわたし。

わたしはわざと、扉を開けた。女を見る目つきの男が脱衣所に佇んでいる。「見るんじゃない!くそじじい!」

男は黙って出て行った。

早く、早く殺してやらなければとわたしは誓った。



薄味の味噌汁が幸せそうに湯気をたてる。その向こう側に、父がいる。

「お前、たまに人が変わったようになるな」

父が濁った白眼を向ける。

「あら、反抗期?」

どこまでも呑気な母が聞いてくる。

私は俯いて、そっと制服のリボンの辺りを指でいじる。

私の中に、誰かいる。あれから、父がやって来る夜の記憶が全くない。それなのに、私の身体は綺麗になっている。父が向けて来るのとは違う愛が私の内側か何かを破って、そっと置かれていく。


ねぇ、あなたは誰なの?

わたしはあなたよ、睦美。


私は顔を上げた。意識の谷間で、誰かと繋がっている。

呑気な味噌汁の湯気が、それを束の間邪魔しようとする。


刺し殺してやろうか。


固有名詞を聞き出すまでもない。私は真っ直ぐに父を見据えた。

女を見る目だ。性欲がとぐろを巻いている。男が立ち昇る。

私は俯いて、薄味の味噌汁をすする。何も知らない、呑気で間抜けな味がした。母は私を見ない。

刺し殺してやりたい。

箸を握る指に力がこもる。


大丈夫よ、睦美。


私の名前を呼ぶ私がいる。

おかしくて笑みがこぼれる。

「なに笑ってるの、気持ち悪い」

母が見咎めて、露骨に嫌な顔をした。父は見ない振りをする。



あなたはなにも知らなくていい。全てが終わってから、スポットライトを当ててあげる。

「私は炎の中にいる。私を知る者は誰もいない」

あなたが熱心に読んでいた詩の一文は、意識を通り抜けてわたしにも刺さった。

あなたは何も知らなくていいの。

今日はあのどうしようもなく娘に無関心で間抜けな女の帰りが遅い日だ。

悪魔のような男が、遠慮なく本性を露わにする日だ。カーテンをめくる。

あぁ、今日は月がない……。

男は酒を飲んでわたしの、睦美の肩に手を置いた。そのままソファに押し倒されて、首筋を吸われる。なめくじのように、粘つく舌が這い回る。

そっと目を転じると、食卓が見える。毎朝毎朝、薄味の味噌汁が置かれるテーブルが見える。

わたしは高笑いした。

あぁ、茶番だ茶番だ。こんな家庭は、両親は茶番だ。

男が驚いて身体を起こす。わたしはこの機を逃さなかった。隙だらけのだぶついた脇腹を、思い切り蹴り上げた。

「うう……」

男が呻いて倒れ込む。立て続けに蹴りつけて、わたしは男が起き上がる前に台所に飛び込んで包丁を握った。

あなたは何も知らない。

知らなくていいの。

少し調子を戻した男が立ち上がろうとするのを見つけて、わたしは舌打ちをする。思い切り股間に踵を落とす。

獣は途端に力を失う。わたしはもう一度蹴り倒して、男に跨った。

「……やめなさい」

かろうじて男は呟いた。

何も動かない。何も聞こえない。

ここには何もない。家庭も両親も何もない。

だから、わたしがどこまでもあなたを癒して、傷つけるものから守ってあげる。

「刺し殺してやる」

わたしは呟いて、包丁を持ち直す。正確に何度も思い描いていたイメージをなぞる。

臆病な種のように震えている喉仏に向かって力の限り包丁を何度も何度も、押し込んだ。血の霧を浴びる。骨が砕ける。包丁が欠けて、脂肪で刃が滑る。家中の刃物が全て使えなくなるまで、わたしは男の肉を残らず割いた。



「……何か覚えていることはありますか?」

見たこともない男が、私の目を覗き込む。意識が急に冴え渡る。

あぁ、白衣だ、医者だ、病院だ。

指に細かい痛みが走る。ふと両手を眺めると、包帯だらけになっている。


刺し殺してやろうか。


私は俯いた。

「何も覚えていません…」

「…そう、ですか」

医者も同じように俯いて、何かを書き始めた。


はっきりと聞こえてくる。

大丈夫、わたしは……あなたは罪に問われないわ。この馬鹿な精神科医が解離性同一性障害だって、診断するわ。少年法もあるから大丈夫よ、ふふ。

これからも、わたしはあなたの中にいてあなたが傷つきそうになったら出てきて助けてあげる。あなたを傷つける全てから、守ってあげるわ。


だって、わたしはあなたを愛してるもの。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたり 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ